アメリカ中西部はいったいどんなところなのだろう。ということが気になりすぎて、夏にウィスコンシン州に行くことになってしまった。というのは半分嘘で、たんにボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンが地元で主宰する音楽フェスティヴァルに行くことにしたのだけど、洗練されていないアメリカだといまだに揶揄されるそこを自分の目で見たいのは本音だ。実際フェスティヴァルもボン・イヴェール、ザ・ナショナル、そしてスフィアン・スティーヴンスと中西部が生んだインディ・ロック・スターをラインアップの中核に据えているようなところがあり、その風土が生み出した音楽的な多様さを見せんとする意思が感じられる。ウィスコンシン州に留学してそのまま住みついてしまった友人は「ほんとに何にもない、典型的なアメリカの田舎だよ」と言っていたけれど、スフィアンの新作を聴くほどに、だからこそアメリカのありのままの姿がそこにはあるのではないかと想像している。
そのフェスティヴァルにも出演する予定のエアロ・フリンことジョシュ・スコットは、ヴァーノンがボン・イヴェール以前にウィスコンシン州オークレアの音楽シーンで売れない時代を共にした仲間のひとりである。ヴァーノンがかつて率いたバンド、デヤーモンド・エディソンがスコット率いたアマチュア・ラヴに猛烈に嫉妬したということはヴァーノンが折に触れて語ってきたことだ。「彼のバンドは僕らのバンドよりも遥かに良いものだった」……それが、やがてボン・イヴェールの世界的な成功とは対照的に沈黙していったのは、何よりもスコットの気難しさと鬱によるものだったとはいえ、皮肉なものである。本作には元デヤーモンド・エディソンのクリストファー・M・ポーターフィールードによる回顧エッセイが添えられているのだが、いきなりヴァーノンが「僕の腕のなかで泣く」場面から始まって僕などはドキドキしてしまった。何と言うか、本当に青春の1コマとして――アメリカの田舎に住むごく普通の青年たちの――そこに音楽があったのだ。
それが2002年だと記してある。このアルバムは、ヴァーノンがプロデュースや、恐らくは様々な人脈に口利きをしたことによって何とか世に出されたもので、聴くと「その時代」をどうしても想い起させるものがある。つまりはポスト・ロック、エレクトロニカ、それに……エモ。「音響派」なんて言葉でふわっと何でもカテゴライズされた時期を思い出して、その頃をリアルタイムで経験した自分などはむず痒い気持ちもあるのだけれど、たしかにゼロ年代初頭の回顧がいまインになっている感覚はある。トータスをバリバリに意識していた頃のレディオヘッドを彷彿とさせる、複雑に凝っていて、繊細で、それでいてどこまでもエモーショナルなロック音楽がここにはある。エレクトロニクスを前面に置いたクラウトロック調の“Dk/Pi”、生音のバンド・サウンドではあるもののテクノ的反復がグルーヴィな“Crisp”、それに管弦楽を配したチェンバー・フォーク調のナンバーなど案外サウンドは多様だ。ただ、スコットのキャラクターを知ったせいもあるのだろうけど、彼の物憂げな歌が乗ることでそこにフラジャイルな美が貫かれることがエアロ・フリンの凄みだろう。どこか聴き手を緊張させるテンションがつねにあり、アンビエント調の“Brand New”の透徹とした響きには嘆息するしかない。
『エアロ・フリン』はしかし、繊細で気難しい天才がひとりで生み出したものではない。彼の周りの、彼の音楽的才能を信じる人間たちが世間の耳に入ることを願ったことによって完成したものだ。そこには何か、この10年の中西部のインディ・ロック・シーンのプライドが宿っているように思われる。
先述したポーターフィールドのエッセイは、かつて彼らが「ブラウン管の前に集まって、ウィルコの映画を観た」ことを思い出して終わっている。「ジェフ・トゥウィーディが、ロックンロールによっていかに打ちのめされ、そして救われたかを歌うとき、僕らはそれを信じていた。」それも2000年初頭だから、いよいよウィルコが音響的な実験とアメリカーナ的叙情の融合を高めていった頃だろう。彼らは……アメリカの田舎に住む音楽好きの青年たちは、そのことにどれだけ勇気づけられたことだろうか。その子どもたちがいま、それぞれのやり方で音楽を続けている。『エアロ・フリン』はその物語の最新話だ。
「Notonã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
昨年『ノーザン・ソウル』という映画が公開された。この映画でわたしが一番ウケたのは、リアルなノーザン・ソウル・ファッションである。どうも日本でノーザン・ソウルというと、どちらかと言えばスウィンギング・ロンドンやモッズ系の格好をした人びとのイメージがあったのだが、この国に住むようになって「ノーザン・ソウル同窓会」みたいな催しに行った時、わたしは度胆を抜かれた。
おっさんたちが履いているあのフレアと呼ぶにはあまりにも幅広のズボンは、ありゃ何だっけ、ほら中学校でヤンキーが履いてたやつ。あ、ボンタン? いやボンタンは裾が締まってたし、そうじゃなくてなんだっけほら、ああドカンだ、ドカン。しかもよく見れば青いドカンに白エナメルのベルトを締めた人なんかもいるし、上半身はランニング一丁でその上からサスペンダーでドカンを吊ってたりして髪型さえ違ったらこれはまるで……。と訝っていたら、おばはんたちは裾が床につきそうなフレアースカートでくるくる回っていて、これもまさに昔のヤンキーの姉ちゃんたちの制服のスカート丈である。なんのこたあない。ノーザン・ソウラーズは70年代の日本のヤンキーだった。そしてそのファッションを忠実に再現していたのが『ノーザン・ソウル』である。
またこのUK版ヤンキーたちの集団ダンスシーンの野太さというかマッチョさが圧巻でブリリアントなのだが、どうやら日本ではヤンキー文化は反知性主義などと言われているらしく、その文脈で言えば『ノーザン・ソウルl』なんかはもう反知性主義大爆発である。
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5月7日の投票日を控え、UK総選挙戦がたいそうおもしろい。アナキー・イン・ザ・UKとはこのことかと思うほどのカオスである。二大政党だった保守党と労働党はどちらも不人気でマジョリティーを取れそうになく、右翼政党UKIPが台頭していたかと思えば、その勢いをスコットランドのSNPが奪った。昨年スコットランド独立投票で敗けたこの政党のシュールなまでの大躍進と、現代にあっては「極左」と呼ばれてしまうスタンスが、保守派からは危険視され、左派の心を躍らせている。それはまるでUKIPが出現したときの逆ヴァージョンのようだ。下層の人びとが右から左にまたジャンプしはじめている。
うちの近所でもその現象は見られる。もともとブライトンはアナキストやエコ系の人が多いので以前からみどりの党が強い。が、みどりの党の支持者といえばミドルクラスのインテリと相場は決まっていたのに、今年は貧民街の家の窓にもみどりの党のステッカーが貼ってある。
「スコットランドのSNPの候補者がブライトンにいればSNPに投票するけど、いないからSNPと協力体制を組んでいるみどりの党に入れる」と言っている人がわたしの周囲にも多いのだ。
この右からいきなり左に飛んでしまう軽さは識者に「小政党のつまみ食い」とか「危険な愚衆政治」とか言われる。彼らはこれを政治危機と呼び、「英国だけじゃない。欧州の有権者は長期的な目線でしっかり物を考えて大政党に投票しなくなった」と嘆く。
が、大政党は何年も前から下層を存在しないものとして国を回している。はなから相手にされてない層の人たちが大政党のマニフェストを聞いていったい何を長期的に考えろというのだろう。
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昨年、『ノーザン・ソウル』とほぼ同時期に公開されたのが『ライオット・クラブ』だ。こちらは前者とは正反対の特権階級のポッシュな青年たちを描いた作品だ。オックスフォード大学でも両手で数えるほどのトップエリートしか入れない架空のクラブが、田舎のパブでチャヴも真っ青の反社会的行為を行う話なのだが、これはオックスフォードに実際に存在しているブリンドン・クラブをモデルにしている。実際このクラブにはあの映画の若者たちのように正装してレストランでディナーし、その後で店舗を破壊して店主に金を握らせる伝統があるそうだ。クラブ出身者の若者たちが政界に入り、国を支配する立場になるのも映画と同じである。ブリンドン・クラブの元メンバーには英国首相デヴィッド・キャメロンやロンドン市長ボリス・ジョンソンがいる(彼らは同期)。
ある日本のサイトを読んでいたら、「愛」、「夢」、「友情」、「仲間」などはヤンキー用語であり、よって反知性主義の言葉でもあると書かれていた。なるほど『ノーザン・ソウル』にもたしかにこのヤンキー概念はすべてあった。が、『ライオット・クラブ』ではこれらの概念は片っ端から否定されている。代わりにポッシュな青年たちが叫んでいる言葉は「レジェンド(伝説)」と「パワー(権力)」である。「愛」や「夢」を下層のコンセプトと否定し、「伝統」と「権力」を奉ずる青年たちは、自分たちが借り切ったパブの(店主と従業員が一生懸命に装飾した)一室をゲラゲラ笑いながら破壊し、庶民階級の女学生を呼び出して「3年分の学費を払ってやるから俺たち10人に口淫しろ」と言い、「もう金はいらないから出て行ってくれ」というパブの店主に暴行を加える。で、その店主が瀕死の状態になるので警察沙汰になるのだが、「出て行け」と言った店主にクラブのメンバーが札束をちらつかせながら言う台詞が印象的だ。「君たちは僕たちを嫌いだと言う。でも、君たちは本当は僕たちが大好きなんだよ」
だがパブの店主はふふんと笑い「あんたたちはそこら辺でストリートを破壊しているガキどもと何の変わりもないじゃないか」と言うものだから死ぬ寸前までボコられるという、はっきり言って胸糞の悪い映画だ。この映画は選挙前の年に公開されたアンチ保守党プロパガンダ映画として物議を醸した。
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いま「英国の政界で最も危険な女」と呼ばれているスコットランドのSNPの女性党首は、「希望の政治」と「オルタナティヴな政治」という言葉をよく使う。
ホープ。なんてのもまたいかにもヤンキーな響きだし、オルタナティヴという言葉だってけっこうヤバい。引用文献や歴史的&数字的裏付け等々の証拠を見せてから代替案を説明することもなく、大雑把に「オルタナティヴ」なんて言葉を投げるのはいかにも反知性的ではないか。「知識」より「感じ」を重んじるのはヤンキーの専売特許だ。
こう書いてくるとロックなんてのもまた相当ヤンキーであり、「転がる石のように生きる」なんつうのも何の石がどの角度の傾斜で転がり、どの水準におけるライフを生きるのかグラフ化して解説しない点でフィーリング本位だし、「僕はドリーマーかもしれない。でも国なんてないとイマジンすれば僕たちは一つになれる」に至ってはもう「夢」とか「一つになろう」とかヤンキー概念の連発だ。
かくしてロックは単なるバカと見なされ衰退し、伝統という名の世襲のものや、権力、財力といった計測可能な目に見えるものだけが世間で幅を利かすようになり、社会を牛耳ることになる。ロックというヤンキーが没落すると共に、息苦しいほど社会に流動性がなくなったのは偶然のことなのだろうか。
『ライオット・クラブ』では特権階級の青年たちが「あいつらは上向きの流動性のことばかりバカの一つ覚えのように語っている」と言ってゲラゲラ笑っていた。
一方、『ノーザン・ソウル』ではランカシャーの工場に勤める労働者階級の青年たちが下から上に向かって拳を突き上げながら力強く踊っている。
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下側にいる人間が拳を上に突き上げられない時、その拳はどこに向かうのだろう。
行き場のない拳はさらに下方に振り下ろされたり、横にいる人びとの中でちょっと毛色が違う者に向かうことになる。
が、そんな鬱屈しきった救いのない社会で「希望」や「オルタナティヴ」といった言葉を恥ずかしげもなく口にし、本当に拳を向けるべき方向を指す者がいれば時代の空気は豹変する。ということを示しているのがいまのUKのムードではないだろうか。
とはいえ、社会は下層だけで構成されているわけではないから、今度の選挙でも再び『ノーザン・ソウル』は『ライオット・クラブ』に負ける可能性もある。
「反緊縮だの核兵器撤廃だの一昔前のロック・ミュージシャンのようなことを言っている。そんなことをすれば財政は崩壊するし、自国の防衛もできなくなる」
大政党のSNPに対する批判もワンパターンの様相を呈してきた。
が、では現代の知性というやつは要するに喧嘩に強くなることと金勘定に長けることを意味するのかと思えばそれはそれでまたずいぶんと反知性主義的である。少なくとも貧困に落ちる家庭の数を増やし、飢えて汚れた子供たちをストリートに放置している為政者たちのエモーショナル・インテリジェンスの低さは、ヤンキーやチャヴに劣りこそすれ勝るものではない。
「あなたの薬は本当に治療薬ですか? 」
──免疫学を学ぶ医者にしてアンビエント・ミュージシャンの
伊達伯欣(ともよし)が送る、21世紀の「漢方生活入門」。
大学院で免疫学を研究してきた医者であり、坂本龍一とのコラボレーション・アルバムもリリースする、インターナショナルなアンビエント・ミュージシャンであり、さらには人気のクリニックを営む漢方医である著者。
東洋医学の見地から「健康」を捉え直し、間違った認識の食事法の誤解を解き、現代病の数々……うつ病、不眠などなどからの回復を指南する。
2011年にスタートして、翌年アルバムがリリースされたVCMGのプロジェクトはとっても衝撃的だった。ヴィンス・クラークとマーティン・ゴアが共演するなんて、皆が夢想したとしても絶対に起きえないようなハプニングだったわけで。デビルマン対マジンガーZみたいなもんですよ。ピーター・ガブリエルとフィル・コリンズがいっしょにやるとか、ジョン・フォックスとミッジ・ユーロがユニット結成とか、荒井注と志村けんがコンビ組むみたいな話で(う、どれもたとえが超絶古すぎて余計にわからない……)。まぁ因縁浅からぬ2人が組みましたってだけじゃなくて、ばりばりにシンセ使いまくった今風のテクノ・トラックに挑戦したことも、エレポップの歴史に残る名曲の数々を書いてきたソングライターが手を組んだのに、メロディーの際立った曲なんてぜんぜんやらなかったことも驚きだった。
その後デペッシュ・モードに戻ったマーティンはヴィンスとの作業で思い出したと言わんばかりに、『デルタ・マシーン』を往年のサウンド回帰とも取れるシンセ・サウンドで彩った。で、さらにこれだ。こう来たか。べつにVCMGの続編ということでもないみたいだが、またも全編シンセ・サウンド全開のインスト、しかもSF映画(のサントラ)的な雰囲気や空間性を重視したサウンドだ。ほとんどユーロラック規格の最新型モジュラー・シンセで作ったというだけあって、そこで鳴ってるのは、アナログでありながらヴィンテージ感のいっさいない音なんだ。ローランドのAIRAとかに顕著だけど、デジタルの技術を使って往年の銘機のアナログな音をより攻撃的に再現しよう、現代に蘇らせようっていう最近の電子楽器業界の流れがある。そんな風潮にはあえて乗っからないで、よりマニアックでオタクちっくなモジュラー・シンセの世界にどっぷりハマって、この古いようで新しい、そしてアブストラクトなようでいて最低限の音楽的要素を残した絶妙なバランスのアルバムを作ってきたのは、さすがだ。DMがビッグになるに従ってどんどんギターとか生ドラムを使うようになって、ロックだブルースだと泥臭くてアメリカンな味を押しだすようになったとき、心底がっかりしたのは俺だけじゃないと思う。最近じゃマーティンのプロフィールに「ギタリスト」って書いてあって「え~?」といつも違和感を覚えていたけど、やっぱり核はここにあるんだな。うん、兄さん、いま、猛烈に嬉しいぜ。
だいたい3~4分のゆるりとした小品を16トラックも集めたこのアルバムだが、歌とか心揺さぶるアレンジとか、DMファンが求めるような要素がぜんっぜんないかわりに、かつてはアラン・ワイルダーが担っていたような尖ったノイズや音響処理が光ってて、マーティンの“Somebody”的な少女趣味というかメロドラマチックなところは表面的には封印されているんである。誤解してほしくないんだけど、ステージで天使の羽根つけてみたり、キラキラのメイクしたり、隙あらば半ズボンはいちゃうマーティンはわりとかわいいと思ってて、むしろ好きなのよ。でもそういう黄色い歓声要素が必要なのはハレの場であって、DM本体の制作時に作りすぎて捨てることになりそうだった曲を拾い上げ、こうやってぜんぜんちがうカタチに仕上げるなんて際にはむしろ邪魔でしょう。
間違ってここまで読んでしまった「は? デペッシュ・モード? ジジイのポップスだろ、興味ねぇ」みたな若いテクノ・ファンの人は、騙されたと思ってアルバム唯一の4つ打ち曲“Crowly”を聴いてみてほしいな。マーク・ベルとヴァンゲリスが共演したようなこの曲の、ありそうでなかったイマジナティヴなサウンドだけでも、いまのほとんどのエレクトロニック・ミュージックにはみつからない発見が、きっとあると思うから。
素晴らしい最新作を出したばかりのスコットランド、エジンバラの3人組、ヤング・ファーザーズ。紙ele-king vol.16でも大フィーチャーされています。
『ホワイトメン・アー・ブラックメン・トゥー』は、サウンド的にも、クラウトロックがモータウンをカヴァーしたような面白さがありつつも、やはりなんといっても(ジャム・シティの新作にも言えることだが)時代描写がみごとだ。なので、歌詞対訳のある日本盤がお勧めなのですが、カセットテープが欲しい方がいたら差し上げます。1本だけなので、2人以上いたら抽選です。
■ご応募方法
・件名を「ヤング・ファーザーズ カセットプレゼント応募」として、info@ele-king.net
までご応募ください。(Eメールのみの受付となります)
・本文には「郵便番号/ご住所/お名前/最近よく聴いているアルバム1枚」をお書きください。(※商品を受け取れるご住所をご記載ください)
・商品の発送をもって抽選結果の発表にかえさせていただきます。
・締め切りは、4月27日まで。
※ご応募メールは抽選後破棄させていただき、個人情報につきましても本件以外の目的に使用させていただくことはございません。
抗うことのできない、力づよい王道 木津毅
細かいところは忘れてしまったけれど、スティーヴン・フリアーズの映画『ハイ・フィデリティ』のクライマックスでジャック・ブラックが思いがけず“レッツ・ゲット・イット・オン”を歌い出すところはいまでもよく覚えている。あの歌のスウィートな調べ、あるいは場の空気を一気に溶かすようなマジックにやられていたのは、誰よりも、手に負えない音楽オタクのスノビズムを体現するかのような主人公だった。どれだけ音楽のことを他の人間よりも知っていようとも、いや、だからこそ、抗うことのできない王道の威力。であるとすれば、アラバマ・シェイクスは登場した当時、インディ・ロック・シーンにおける“レッツ・ゲット・イット・オン”であった。
彼女らのデビュー作『ボーイズ&ガールズ』における最良の瞬間はたとえば、“アイ・ファウンド・ユー”でタンバリンがロックンロール・サウンドとともに武骨に鳴らされるなか、ヴォーカルのブリタニー・ハワードが腹の底から発する「ハッ!」という叫びに宿っていた。あるいは“ハング・ルーズ”の、演奏するのが楽しくて仕方ないというようなベースのリフと鍵盤によるイントロ。スカスカで飾り気のないリズム、ロック・クラシックを素直に受け継いだギター、そしてブリタニーの一瞬で聴き手を黙らせるパワフルな声。アメリカにおけるルーツ音楽を発掘し現代的な文脈を与えるという「知的な」トレンドがひと段落したところに現れた、あまりにもあっけらかんとして素朴な、レトロ・ソウルとロックンロールを演奏する歓びがそこにはあり……だから、そのとき「I found you!(見つけた!)」と叫びたくなったのは小賢しいインディ・ロック・スノビズムに飽き飽きしていたリスナーのほうだったのだ。
3年ぶりのアルバム『サウンド&カラー』の「サウンド」のほうはまず、オープニングのヴィブラフォンの響きにおっと思う。ストリングス・アレンジメントにロブ・ムースが参加していることもあるのだろう、前作からのラフでごつごつしたバンド・サウンドだけでなく、オルガンやストリングスなどの多彩な装飾によって抽象的かつ繊細なニュアンスを出すことに腐心している……ごくまっとうなセカンド・アルバムらしい歩の進め方だと言えるだろう。その成果がよく表れているのがアコースティックな“ディス・フィーリング”で、ずいぶん抑制したアンサンブルによって彼女らのいちばんの良さ、すなわち歌のスウィートネスを封じ込めている。“ジェミニ”のようなスロウでサイケデリックな長尺ナンバーは、バンドとしてはもっとも冒険した例だろう。もちろん、“ドント・ウォント・トゥ・ファイト”のようなロック・チューンでは太いベースが醸すグルーヴとブリタニーの迫力のあるヴォーカルが変わらず聴ける。なんというか、この実直に成長を見せようとする姿がじつにこのバンドらしい。「たんなるレトロ・ソウルのリヴァイヴァル・バンドだと思われたくなかった」との発言を証明するように本作では音の多様さを見せながら、しかしソウルの血を忘れることはない。
「音と色に包まれて生きること(“サウンド&カラー”)」……という、「カラー」のほうはやはりブラック・ミュージックのことを指しているのだろうと思う。高校の同級生で結成されたロック・バンドといういまどき珍しいぐらいの普通さ(矛盾しているが)に驚くけれど、そこが黒人音楽の豊穣な歴史が息づくアメリカ南部としてのアラバマ州の田舎町だったことはバンドの成り立ちを考える上で重要だ。かつてブリタニーが白人の男の子たちだったバンド・メンバーを「黒人のスラム街のど真ん中」にある自宅のパーティに招待したというエピソードはそのまま、バンドのプライドとコアと直結しているだろう。ソウル、ロックンロール、ブルーズ、性別と人種が混在するアンサンブルで生き生きと演奏されるエモーショナルなラヴ・ソング。アルバムの僕のフェイヴァリットはどこまでも甘いソウル・チューン“ミス・ユー”だ。「もしかしてあたしってあんたのもの? あんたのものよ!」……ブリタニーのドスの効いた声は一瞬でわたしたちを隔てる壁をトロトロに溶かそうとする。
そして僕は、つい先日他界したアラバマ州出身のソウル・シンガー、パーシー・スレッジのレパートリーにあった(元はジェイムス・カーの)“ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート”のなかで、許されない恋をしていた恋人たちのことを思い出す。「やつらは僕らを見つけてしまう……いつの日か」。それが不倫なのか、あるいは人種を隔てた恋なのか……ただ、パーシー・スレッジは大人になるまで黒人の歌手の存在を知らなかったという。ひと目を忍んで暗がりで会っていた恋人たちは、アラバマ・シェイクスの温かく力強い愛の歌をいまどこかで聴いているだろうか。南部出身の黒人の女の子が元気いっぱいに、白人のインディ・ロック・キッズと奏でる現代のソウル・ミュージックを。
いのち──ソウルの洗練とは
岡村詩野
7曲めの“ゲス・フー”の仕上がりに思わず溜め息が出る。大音量、音圧のガツンとした手応えを与えてくれる曲が揃った本作中では、恐らくこのフィリーな感触すら伴った滑らかなソウル・チューンはやや地味な印象を残すかもしれない。だが、トム・ベルとリンダ・クリードが手がけていた頃のスタイリスティックス(わけても“ゴーリー・ワウ”あたり)を思わせるような流麗で美しいメロディとストリング・アレンジ。こんなに洗練された楽曲を作るようになったのか、と感嘆させられたと同時に、2年前の初来日時、彼らと会話をしたときのことを思い出した。取材に応じてくれたブリタニー・ハワードとザック・コックレルは筆者にこういうような話をしてくれた。「ブルーズがアメリカ南部で“発見”(discoverd、という言葉を用いていた)されたときの驚きはいまもっとも僕らが必要としている感覚だと思う。なぜなら、ブルーズは本来洗練されているものであり、生命の象徴のような音楽だからだ」と。つまり、生きるということは元来、洗練されているべきである、と、彼はこう言ってのけたのだ。アフリカから連行されてきた当時の黒人たちに聞かせてあげたい発言である。
武骨で土臭いサウンドを鳴らすブルーズ・ロック・バンドというアラバマ・シェイクスへの一般的な賛辞はけっして間違いではないが、そういう意味でもそれだけではやはり不十分だろう。そこには生命の希求があり、讃歌があり。そうやって泥臭くたくましく生き抜いていくことがいかにソフィスティケイトされた作業であるかを提示し、さらにはその源がブルーズやソウル・ミュージックであることを提示する、そんな大きな志を抱えたバンド。ブルーズを鳴らしソウルを歌うことに喜びを感じ、そこにこそ人間の洗練がある、と唱えるバンド。それを前作より遥かにしなやかに伝えているのが、このセカンドの、中でも冒頭で書いた7曲め“ゲス・フー”や、ハーモニックなヴィヴラフォンの音色に導かれるタイトル曲、アコースティック・ギターの穏やかながらもリズミックなカッティングがロバート・ジョンソンを少し思い出させる“ディス・フォーリング”、対して中盤にかけてエレクトリック・ギターが唸る“デューンズ”といった曲たちだ。そして、これらの曲に共通しているのが、まさにトム・ベル張りのダイナミックで気品あるストリングス・アレンジ。アントニーやジョアンナ・ニューサム、ボン・イヴェールやザ・ナショナル、最近ではアエロ・フリンなども手がけるロブ・ムースがほとんどのアレンジと演奏を担当していることで、楽曲に膨らみと抑揚を与え、結果、メンバーが求める生命力の洗練された輝きを抽出することになったことは間違いないだろう。前作には挿入されていなかったこのストリングスのアイデアが、本作のプロデュースをつとめるブレイク・ミルズ経由でのことだったとしたら(ロブ・ムースはブレイク・ミルズの作品にも参加している)、これこそが何よりのファイン・プレーだと言っていいのではないか。
全曲ストリングスを入れてもよかった、と思ってしまう以外は申し分のない最高の仕上がりだ。ファーストのタイトルが『ボーイズ&ガールズ』、そして今作が『サウンド&カラー』。何かと何かを“&”で結ぶタイトルを続けてきたのは果たして偶然か。いや、互いに距離のある何かと何かが邂逅することによって生まれるスパークにこそ、アラバマ・シェイクスというバンドは命の源泉を見ているのではないか。それこそ、強制的だったとはいえ、アフリカから黒人が米南部の港町に初めて降り立ち、奴隷として働かせる立場の白人と対峙した時の戸惑いと不安と、そして次第に強まる怒りと反発。だがしかし、そこに伴う哀しみがブルーズという音楽を誕生させた事実をきっと彼らは尊く思っているのだろう。
私はジョン・ケージが「聴くこと」のみを単純に推奨したとは思えない。どう考えても事態は逆だ。ケージはむしろ「聴こえないこと」の問題を人生かけて追及したのではないか。あの有名な無響室での彼の経験は、聴こえないことの驚きであったはずだ。ケージは音を「生きているもの」「捉えられないもの」として、いわば不確定な運動体として認識していたと思うのだが、無響室においては音が止まっている経験をした(のかもしれない。そんなことは本人しかわからない。だがそれで何が問題あるのか?)。音が聴こえず、真空状態にいること。音が止まっている経験。聴こえるのは体内の音のみ。それは死に限りなく近い体験であったともいえよう。つまり音の極限地点であったのだ。
その意味で「静寂な」エレクトロニカ以降のアンビエント/ドローンやフィールド・レコーディング作品がときにケージの美学を援用するのは、「ジョン・ケージという作曲家のイメージ」を借用・援用したに過ぎない。大谷能生が言うように、「4分33秒」は休符の音楽だし、休符はカウントしなければならないのだから、そのとき演奏者は厳密には世界の音のざわめきなどを聴いて恍惚になっている場合で(暇)はないはずだ。演奏者は自分の/他人の音楽を聴かなければならない(黙々とカウントしている)。
とはいえケージの思想は極端な両義性をもっているからこそ誤読できるし、誤読できるからこそ、普及しやすい。それゆえ誤読の豊かさがあるともいえる。それは事実だ。だが、本当にジョン・ケージは「聴くこと」のみを推奨していたのか。彼の言説にはどこかにトリックがないかともう一度疑ってみるのも悪くはないはずだ。それこそ誤読の可能性として。そもそも「音楽を演奏する」と、「世界の音を聴く」というのは、相反する矛盾を孕んでいないか。
坂本龍一もまた、音楽/ノイズという両義性を生きてきた音楽家だ。坂本は類稀な作曲家でありながらも、同時に、ノイズに対して柔軟かつ鋭敏な感性を持ちつづけているサウンド・アーティストであり、ノイズ・コンポーザーであった。私はこのような両義性こそ、この音楽家の本質ではないかと思っている。たとえば、あのYMOの活動も、坂本にとっては新しい音色の探求と発見という側面も強かったはずである。だからこそ彼は2000年代を通じてカールステン・ニコライ(アルヴァ・ノト)やクリスチャン・フェネスらエレクロトロニカ/電子音響アーティストとのコラボレーションを続けてきたのではないか。そして細野晴巨、高橋幸宏ら「盟友」との再会・再合流もエレクトロニカを介してものではなかったか(90年代には『愛の悪魔』のサントラがある。坂本ノイズを満喫できる傑作だ)。
その音楽/ノイズという両義性は、2009年にリリースされた坂本のソロ・アルバム『アウト・オブ・ノイズ』以降、より随所にあきらかになっている(正確には2004年の『キャズム』をもうひとつの中継点とした00年代全般だが)。彼は作曲家として世界のノイズをリ・コンポジションしようとしている。そこで坂本が取った方法論は何か。私は、即興=インプロヴィゼーションとコンポジションの交錯であったのではないかと思う。さまざまな音への反応によって、世界の音を再構築していく行為だ。彼が2000年代を通じて行ったカールステン・ニコライやクリスチャン・フェネスとの共同作業もインプロヴィゼーションからはじまってコンポジションへと行きつく創作であったはずである。グリッチからアンビエントへ、という変化もこれに呼応している。だが、これは世界的な傾向でもあった。坂本はつねに世界の無意識にアジャストする。
この2015年にNYのレーベル〈12k〉からリリースされた坂本龍一とテイラー・デュプリーとイルハ(コリー・フラーと伊達伯欣)の3組(4人)による『パーペチュアル』がリリースされた。本作もまた、エレクトロニカ以降のインプロヴィゼーションとコンポジションの交錯としてのアンビエントを、より深い次元で実現している傑作であった。
演奏は2013年夏、山口のYCAMで繰り広げられたもの。4人での演奏はこれが初という。もっとも坂本はテイラーと共演経験があり、すでに〈12k〉からデュオ・アルバムを出しているし、イルハも〈12k〉からアンビエント作品をリリースしており、いまや新時代のアンビエント・アーティストと目されている。彼らのファースト・アルバム『shizuku』は、鎮静と静寂を与えてくれる傑作だ。もちろんテイラー・デュプリーとの競演の経験もある。
だが、4人という状態になったことで、それぞれの共演とがちがう奇跡が起きたようにも思える。坂本龍一、テイラー・デュプリー、イルハらによる3組4人の演奏は、偶然とコントロールの狭間で揺らめいている。まるで光のように。まるで空気のように。坂本は彼らしいピアノをほとんど演奏していない。そのかわりに叩く、擦る、落とすなどしていてサウンドを生成させている。まさに「アウト・オブ・ノイズ」。
何より、これがインスタレーション的なサウンド・アートではない点が重要だ。彼らはそれぞれの演奏者の音を意識しつつ、ときに受け流し、ときに反応をしている。つまり「音楽を演奏している」のだ(と同時に彼らの音はパフォーマンスである。かつて坂本が影響を受けたナム・ジュン・パイク的な演奏ともいえる)。
朝霧のような持続音からはじまり、まるで明け方から早朝にかけての大気の変化のような1曲め“ムーヴメント1”、繊細な音と微かにプリペアドされた異物感のある音などが蠢く2曲め“ムーヴメント2”、カサカサと鳴る静かなノイズの狭間から、水滴のように美しいピアノが鳴り響く3曲め“ムーヴメント3”まで、まさに光の陰影のような音響/音楽である。
このアルバム(録音)で注目すべき点は何より3人の個が音の空気の中に融解している点だ。反応と生成によって生まれる音響空間は、それぞれ個性的な音楽家の個性を消し去る。音を聴いているかぎりでは3曲めに僅かにあらわれる坂本のピアノなどを除き、どの音を3人が発生させているのかは即座にはわからない(担当楽器のクレジットと照らし合わせ、よく聴けばわかるが)。インプロヴィゼーションからの無の生成。それはけっしてネガティヴな意味ではない。美しい音響の空間の生成のみ貢献しているのだから。個人的には2曲めに突如響くコインが落ちる音のようなサウンドにとても惹かれる。なんという美しい音だろう……!
そうして生まれた美しい音の群れは、私たちの耳を静かに通り過ぎていく。「聴く」という後期の恣意性は宙吊りにさせられ、音の繊細な変化に、ただ耳を傾けることになる。そう、聴き手は音を捕まえることはできない。音響による無の生成。それはアルバム名とおり「永遠」をも意味しているはずだ。永遠=無。この「永遠」の領域においては「聴こえる/聴こえない」の距離は、そう遠くないものとして存在している。「生きること」と「死」が常に隣り合わせのように。動き。持続。変化。永久。無。つまり「音楽」とは生と死の営みなのであり、即興と作曲は人生そのものを刻みつける行為なのだろう。
(追記)
本年2015年に入り、坂本龍一関連のリリースが相次いだ。中でも2005年から2014年までの未発表曲集『イヤー・ブック2014-2015』は非常に重要なアルバムである。2005年以降ということは、坂本流のグリッチ・ミュージックの消化ともいえる『キャズム』以降であり、また、アンビエント/ドローン(およびポスト・クラシカル)の時代を先駆けた2009年の『アウト・オブ・ノイズ』直前と以降を挟んでいる重要な時期に当たる。クリスチャン・フェネスやカールステン・ニコライ、クリストファー・ウィリッツなどと共作を行っていた時期でもあり、どの楽曲も(とくに2011年以前)、彼の音楽のドローン性とそのドローンの内部に運動する微細なサウンドが、静謐な音響の中に生成していくさまが手にとるようにわかってくる。また、2009年以降の音には、来るべきソロ・アルバムの萌芽を聴きとることも可能だろう。美術館やCMなどのために作られた音楽だが2000年代中盤から2010年代初頭の坂本龍一が、いかにサウンド・アーティスト/ノイズ・コンポーザーとして充実していたのかをあらためて知ることができる。このような充実した曲がいままでリリースされなかったことは、彼の現在進行形としての音楽家としての全体像を私たちは捕まえていなかったことになる。まさに発表されなかった幻のソロ・アルバムといっても過言ではない。また、ようやくリリースされた『音楽図鑑 2015エディション』は、本編であるディスク1のリマスターも、いたずらに音量・音圧を上げずに音の解像度を明確するというじつに素晴らしいリマスタリングが行われており必聴だったが、マニアなら未発表曲・テイクのみを収録したディスク2も貴重な音源だ。とくにラストに収録されたアンビエント/ドローンな未発表曲“M33 アンタイトルズ”は、この作曲家にとって音の内部にミクロに動く音の運動がいかに重要なエレメントであるのかわかってくる。坂本本人もインタヴューで語っていたが、たしかに彼の現在の作風に近く、非常にいまを感じる曲だ。
エール・フランスがエール・フランスのCM曲をやってるらしいぞとききつけて「まさか」と思ったが、はたして真実は真実らしいかたちをしていた。
スタイリッシュでガーリー、透明感にあふれるこの話題のCMで使用されているのはグラス・キャンディ。まあ、そうですよね。しかし勘違いがもつれてそれがエール・フランスだという誤情報に置き換わったことにはどこか得心がいって、また、それがコンピュータ・マジックではなくてグラス・キャンディだというところには、出資側の感性がアンダーグラウンドに寛容であることを垣間見る思いがする。スウェディッシュ・“バレアリック”・ポップと喧伝され、涼やかなシンセジスに甘くけだるい北欧ポップ節をくるみながら、こっそりと世間に中指をたてていたデュオ、エール・フランス。同郷のザ・タフ・アライアンスやエンバシーなどを挙げるまでもなく、2010年をまたぐ前後数年のインディ・シーンにおいて北欧のエレクトロ・ポップはひとかどの存在感を示していた。折しも、エイティーズ・リヴァイヴァルや、チルウェイヴに象徴されるサイケデリックとチルアウトの大きな機運が交差するタイミングでもあった。
いまその頃の音を聴くとインな感じよりもむしろ懐かしさを覚えてしまうが、ヴィニー・フーのポップ・ソングにもその懐かしさを、そしてまた、おそらくは時代が経っても変わることのない、インディ・ポップというものが常温的に持っている輝きを感じずにはいられない。それは、彼自身が愛している音楽がそうであるように、だ。
デンマークのシンガー・ソングライター、 ヴィニー・フーことニールス・バゲ・ハンセン(Niels Bagge Hansen)。本作は2010年のデビュー・アルバムから数えて3枚め、〈EMI〉からの2作に次ぎ、ザ・レイト・グレイト・フィツカラルドスなどデンマークのシーンをリードする〈フェイク・ダイアモンド・レコーズ〉から初のインディ・リリースとなる。女性かとまごうほどのアンドロジニーなヴォーカル(メモリー・テープスを思い出す)がまず印象的だが、丁寧なソングライティングには筋の通った音楽好きの表情がありありとうかがわれる。深めのリヴァーブには、ヴィンテージなフォーク・ロックの響きやソフト・サイケの系譜、あるいはセブンティーズの都会的なシンガー・ソングライターたちの仕事がにじむ。冒頭の“マッチ・マッチ・モア”や“セヴン”などがその嚆矢で、“イマジネーション”のタイトなスネアや小作りなストリングスのアレンジも瀟洒で奥ゆかしい。“ファンタイム”“オンリー・ドリーミング”他は〈クレプスキュール〉などエイティーズのインディ・ギターポップ・マナーに及び、イェンス・レクマンの諸作にも比較したくなるだろう。
ジャケットのアートワークを並べてみればわかるけれど、声におとらず中性的なその容姿を耽美なアート・センスで過剰に押し出す前2作やシングル(メジャーらしいコレクトネスにのっとっている)にくらべて、本作のそれはよりパーソナルで等身の本人像を写しだすかのように感じられる。楽曲のスタイルやプロダクションについてもそうで、ヒット・ナンバーである“39”や“レメディ”などを筆頭としたエレクトロ・ポップはすっと影をひそめ、『ハーモニー』はその中からソウルやオールドなロック・マナーだけを抽出してきたかのようなたたずまいである。
どちらがいいという話ではなく、彼にはそのいずれにおいてもブレることのない芯──彼が体現する音が彼の愛する音であるという──があるのだから、われわれは今作のよりロウな感触と表出を楽しむだけだ。飛行機の宣伝になるようなキャッチーなシンセ・ポップでこそないが、後期2000年代インディとして理想的な年の積み重ねがあり、北欧ポップ・シーンが湧出のやまない泉であることをあらためて感じさせる良盤ではないだろうか。
出版不況があたりまえのこととなり、ベストセラーとそうではない本の二極化が進むなか、それでも書店には本を特集した、本のための本が多く見受けられるのは、消えつつあるものへのノスタルジーなのでしょうか?
この本はそうは思いません。本という「メディア」がつねに再考されるのは読者の動機をこえる「体験」を「読む」ことがもたらすことにあります。
本書ではまずもってそのような本を探し求めます。一見してカタログ風ですが、この本は利便性だけを追究するものではありません。
2015年を映しながら、しかしことさら現在にこだわらないことによって過去より現在を腑分けする「読む」こころみを、ぜひ本書を開いて探してください。
〈目次〉
第1章
■小説■
音楽と本の関係 高城昌平(cero)インタビュー 聞き手:磯部涼
タルホ座流星群ふたたび 増村和彦(森は生きている)インタヴュー 聞き手:野田努
世界の外に立たない思考 保坂和志 インタヴュー
小島信夫の6冊あまり 松村正人
メタフィクションの功罪とパラフィクションの現在 佐々木敦インタヴュー
アンケート 私の3冊 湯川潮音
21世紀の国内文学10 矢野利裕
小説のマジカルタッチ ラテンアメリカ文学の世界 寺尾隆吉インタヴュー
21世紀の海外文学 石井千湖
終わりから70年目の戦争の4冊 松村正人
1990年代の6冊 矢野利裕
第2章
■政治、思想、批評と教育■
いまだ表現の自由は可能か!? 対談:五野井郁夫×水越真紀 松村正人
アンケート 私の3冊 寺尾紗穂
古典と歴史 その読み方 石川忠司
強制と自発のアレンジメント 転向論を読み直す 矢野利裕
「学校では教えてくれない」が意味すること 若尾裕
実践により「社会」を読むための5冊
第3章
■詩と詩人たち■
21世紀の短歌研究 世界の底の13歌集13首 永井祐
渇きを癒す書物 満員電車を見送る方法 友川カズキインタヴュー
詩写真 Making Time 辺口芳典
第4章
■サブ/カルチャー■
貫読のススメ 画竜点睛を欠くことの心得 湯浅学インタヴュー
結末は最後まではわからない 染谷将太インタヴュー
オラリティー(声)とリテラシー(文字)の相克 三田格
読書というポップ 山崎晴美を作った本 山崎晴美インタヴュー
意味もなく内側のスリルだけを頂くための20冊 山崎晴美
矛盾体が生み出す言葉 失われた音楽書を求めて 大谷能生
ロックの“夢見る力”は無限大 シーナ『YOU MAY DREAM』を再読する モブ・ノリオ
映画を観る筋肉 いま発見すべき映画本 樋口泰人
写真:菊池良助 小原泰広
思い出して欲しいんだよな。君がどこから来たのかを。“インディ”と呼ばれるものの意味をさ。
最初はUKだった。ラフトレードやファクトリー、チェリー・レッドといったレーベル……ジョイ・ディヴィジョン、エコー&ザ・バニーメン、ザ・スミス、それからマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン……。
インディは、ビートルズよりもヴェルヴェット・アンダーグラウンドを支持したが、マイナー・バンドのTシャツを着ているだけの物好きな連中ではなかった。バンドは自分たちの悲観的な内面を露わにした。自分たちの経済的な貧困さも隠さなかった。ヴィヴィアン・ウェストウッドの洋服をありがたがらずに、フリーマーケットに行けば500円で売っているような服を着たってこと。自分のサイズよりも微妙に違った服。大きめのコート、ごてごてのブーツ、安っぽいチェックのシャツ。ぼさぼさの髪。基本、アンチ・エレガントかつユニセックスだった。彼らは世間並みの夢を裏切り、貧しい者が夢見る夢を見た。
その流れを汲んでいるのが、たとえばグランジやライオット・ガールだ。考えてみよう。カート・コバーンの外見はセックス・ピストルズに近かったのか、ビート/ヒッピーに近かったのか。そのどちらでもあり、そのどちらでもない。だからレイヴ・カルチャーとも正反対の文化ってわけでもなかった。あからさまなドレスダウンだった。ダボダボのセーター、ルーズフィットなズボンの男女は、90年代初頭の野外フェスにもごろごろいたしな。
彼はちゃんと気づいてる 大豆と亜麻のベジマイトのくずを そこらじゅうにまき散らしてること コンピュータを見て吐き気をもよおし スワントンの通勤の人混みを押しのけ ネクタイをはずし メトロバスの停留所の隅で寝ているホームレスの男に渡す 彼は叫ぶ 「今日は仕事に行かないぞ! どの電車が何分遅れるかチェックしながら 草むらに座ってコーラの缶でピラミッドを作るんだ」 コートニー・バーネット“Elevator Operator”
もったいぶったイントロはない。いきなり歌とギターが入る。“スウィート・ジェーン”の頃のヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようだ。そうとう格好いい。曲も歌詞も。
声は、ときおり涙を含みながら乾いている。観察力のある言葉もクールな音もリズミックで、颯爽している。グルーヴもある。キャット・パワーの『ムーン・ピックス』を忘れよう。本当に忘れなくてもいいんだけど、この音楽はブルースも歌っているが、泣いて聴くアルバムではないのだ。ユーモアもある。声は大きくはないが、歌の存在感は大きい。躍動的で、同時に艶めかしいギター・サウンド。素晴らしいドラムとベースもある。このアルバムの隣にテレヴィジョンやオンリー・ワンズを並べてやってもいい。
いまどきこんな音楽をやるのは、いったいどんな女だろう。僕は我慢できなかった。高橋のように、インターネットで画像検索した。セックス・ピストルズのポスターが貼られた彼女のベッドルームの写真を発見した。こうして、1988年生まれのこの女性がいかにわかっているのかを確信した。言っておくが、1980年にインディ・キッズだった人間が長いあいだ冷凍保存されて、現代に解凍されたときに共感できるのは、ノスタルジーってことではない。その音楽に芯があるってことだ。
彼女の歌に描かれる若者は、陰鬱だが、おおよそ間違っていない。人生に戸惑いを覚えないほうがどうにかしている。木津毅がどうしてこの音楽にひっかからなかったのかが僕にはわからないんだよね。
「飛び降りたいのはあなたのほうでしょう 僕は自殺なんてしない ただボーッとしたいだけ ここに来るのは空想を楽しむため シムシティで遊んでるっていう想像するのが好きなんです ここから見ると みんながアリに見えて 風の音しか聞こえない」と彼は言う。 コートニー・バーネット“Elevator Operator”
インディ・キッズっていうのはね、いまでは、ときとしてシニカルな言葉なんだよと、実際にUSインディ・シーンに属していた人が僕に教えてくれた。お決まりの服装のおきまりの髪型の、ちょっとナイーヴな子たちへの皮肉も込められているんだと。けど、それを言ったらなんでもそうだからね。クラバーなんて言葉もそれなりに滑稽だろ。インディ・キッズっていうのは、ミュージシャンとお友だちであることを自慢することでも、異性関係を自慢することでも、ele-kingに数えるほどのレヴューを書くことでもない。コートニー・バーネットが歌っているように、平日ひとりで屋上に上がることだ。
ほんのわずかな期間だったとはいえ、人生でインディ・キッズだったことがある僕は、コートニー・バーネットのデビュー・アルバムをちょっと大きめのヴォリュームで聴いている。ビルの谷間の長く暗い通路を歩きながらこれを聴いたら泣いちゃうかもな。我ながら矛盾している。そもそもイヤフォンもiPodも捨てた頑固ジジイにそれはない。まあ、とにかく、屋上でひとりで過ごしたことがある人は、年齢性別問わずに、必聴。
