Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第29回: ノーザン・ソウルとライオット・クラブ
昨年『ノーザン・ソウル』という映画が公開された。この映画でわたしが一番ウケたのは、リアルなノーザン・ソウル・ファッションである。どうも日本でノーザン・ソウルというと、どちらかと言えばスウィンギング・ロンドンやモッズ系の格好をした人びとのイメージがあったのだが、この国に住むようになって「ノーザン・ソウル同窓会」みたいな催しに行った時、わたしは度胆を抜かれた。
おっさんたちが履いているあのフレアと呼ぶにはあまりにも幅広のズボンは、ありゃ何だっけ、ほら中学校でヤンキーが履いてたやつ。あ、ボンタン? いやボンタンは裾が締まってたし、そうじゃなくてなんだっけほら、ああドカンだ、ドカン。しかもよく見れば青いドカンに白エナメルのベルトを締めた人なんかもいるし、上半身はランニング一丁でその上からサスペンダーでドカンを吊ってたりして髪型さえ違ったらこれはまるで……。と訝っていたら、おばはんたちは裾が床につきそうなフレアースカートでくるくる回っていて、これもまさに昔のヤンキーの姉ちゃんたちの制服のスカート丈である。なんのこたあない。ノーザン・ソウラーズは70年代の日本のヤンキーだった。そしてそのファッションを忠実に再現していたのが『ノーザン・ソウル』である。
またこのUK版ヤンキーたちの集団ダンスシーンの野太さというかマッチョさが圧巻でブリリアントなのだが、どうやら日本ではヤンキー文化は反知性主義などと言われているらしく、その文脈で言えば『ノーザン・ソウルl』なんかはもう反知性主義大爆発である。
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5月7日の投票日を控え、UK総選挙戦がたいそうおもしろい。アナキー・イン・ザ・UKとはこのことかと思うほどのカオスである。二大政党だった保守党と労働党はどちらも不人気でマジョリティーを取れそうになく、右翼政党UKIPが台頭していたかと思えば、その勢いをスコットランドのSNPが奪った。昨年スコットランド独立投票で敗けたこの政党のシュールなまでの大躍進と、現代にあっては「極左」と呼ばれてしまうスタンスが、保守派からは危険視され、左派の心を躍らせている。それはまるでUKIPが出現したときの逆ヴァージョンのようだ。下層の人びとが右から左にまたジャンプしはじめている。
うちの近所でもその現象は見られる。もともとブライトンはアナキストやエコ系の人が多いので以前からみどりの党が強い。が、みどりの党の支持者といえばミドルクラスのインテリと相場は決まっていたのに、今年は貧民街の家の窓にもみどりの党のステッカーが貼ってある。
「スコットランドのSNPの候補者がブライトンにいればSNPに投票するけど、いないからSNPと協力体制を組んでいるみどりの党に入れる」と言っている人がわたしの周囲にも多いのだ。
この右からいきなり左に飛んでしまう軽さは識者に「小政党のつまみ食い」とか「危険な愚衆政治」とか言われる。彼らはこれを政治危機と呼び、「英国だけじゃない。欧州の有権者は長期的な目線でしっかり物を考えて大政党に投票しなくなった」と嘆く。
が、大政党は何年も前から下層を存在しないものとして国を回している。はなから相手にされてない層の人たちが大政党のマニフェストを聞いていったい何を長期的に考えろというのだろう。
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昨年、『ノーザン・ソウル』とほぼ同時期に公開されたのが『ライオット・クラブ』だ。こちらは前者とは正反対の特権階級のポッシュな青年たちを描いた作品だ。オックスフォード大学でも両手で数えるほどのトップエリートしか入れない架空のクラブが、田舎のパブでチャヴも真っ青の反社会的行為を行う話なのだが、これはオックスフォードに実際に存在しているブリンドン・クラブをモデルにしている。実際このクラブにはあの映画の若者たちのように正装してレストランでディナーし、その後で店舗を破壊して店主に金を握らせる伝統があるそうだ。クラブ出身者の若者たちが政界に入り、国を支配する立場になるのも映画と同じである。ブリンドン・クラブの元メンバーには英国首相デヴィッド・キャメロンやロンドン市長ボリス・ジョンソンがいる(彼らは同期)。
ある日本のサイトを読んでいたら、「愛」、「夢」、「友情」、「仲間」などはヤンキー用語であり、よって反知性主義の言葉でもあると書かれていた。なるほど『ノーザン・ソウル』にもたしかにこのヤンキー概念はすべてあった。が、『ライオット・クラブ』ではこれらの概念は片っ端から否定されている。代わりにポッシュな青年たちが叫んでいる言葉は「レジェンド(伝説)」と「パワー(権力)」である。「愛」や「夢」を下層のコンセプトと否定し、「伝統」と「権力」を奉ずる青年たちは、自分たちが借り切ったパブの(店主と従業員が一生懸命に装飾した)一室をゲラゲラ笑いながら破壊し、庶民階級の女学生を呼び出して「3年分の学費を払ってやるから俺たち10人に口淫しろ」と言い、「もう金はいらないから出て行ってくれ」というパブの店主に暴行を加える。で、その店主が瀕死の状態になるので警察沙汰になるのだが、「出て行け」と言った店主にクラブのメンバーが札束をちらつかせながら言う台詞が印象的だ。「君たちは僕たちを嫌いだと言う。でも、君たちは本当は僕たちが大好きなんだよ」
だがパブの店主はふふんと笑い「あんたたちはそこら辺でストリートを破壊しているガキどもと何の変わりもないじゃないか」と言うものだから死ぬ寸前までボコられるという、はっきり言って胸糞の悪い映画だ。この映画は選挙前の年に公開されたアンチ保守党プロパガンダ映画として物議を醸した。
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いま「英国の政界で最も危険な女」と呼ばれているスコットランドのSNPの女性党首は、「希望の政治」と「オルタナティヴな政治」という言葉をよく使う。
ホープ。なんてのもまたいかにもヤンキーな響きだし、オルタナティヴという言葉だってけっこうヤバい。引用文献や歴史的&数字的裏付け等々の証拠を見せてから代替案を説明することもなく、大雑把に「オルタナティヴ」なんて言葉を投げるのはいかにも反知性的ではないか。「知識」より「感じ」を重んじるのはヤンキーの専売特許だ。
こう書いてくるとロックなんてのもまた相当ヤンキーであり、「転がる石のように生きる」なんつうのも何の石がどの角度の傾斜で転がり、どの水準におけるライフを生きるのかグラフ化して解説しない点でフィーリング本位だし、「僕はドリーマーかもしれない。でも国なんてないとイマジンすれば僕たちは一つになれる」に至ってはもう「夢」とか「一つになろう」とかヤンキー概念の連発だ。
かくしてロックは単なるバカと見なされ衰退し、伝統という名の世襲のものや、権力、財力といった計測可能な目に見えるものだけが世間で幅を利かすようになり、社会を牛耳ることになる。ロックというヤンキーが没落すると共に、息苦しいほど社会に流動性がなくなったのは偶然のことなのだろうか。
『ライオット・クラブ』では特権階級の青年たちが「あいつらは上向きの流動性のことばかりバカの一つ覚えのように語っている」と言ってゲラゲラ笑っていた。
一方、『ノーザン・ソウル』ではランカシャーの工場に勤める労働者階級の青年たちが下から上に向かって拳を突き上げながら力強く踊っている。
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下側にいる人間が拳を上に突き上げられない時、その拳はどこに向かうのだろう。
行き場のない拳はさらに下方に振り下ろされたり、横にいる人びとの中でちょっと毛色が違う者に向かうことになる。
が、そんな鬱屈しきった救いのない社会で「希望」や「オルタナティヴ」といった言葉を恥ずかしげもなく口にし、本当に拳を向けるべき方向を指す者がいれば時代の空気は豹変する。ということを示しているのがいまのUKのムードではないだろうか。
とはいえ、社会は下層だけで構成されているわけではないから、今度の選挙でも再び『ノーザン・ソウル』は『ライオット・クラブ』に負ける可能性もある。
「反緊縮だの核兵器撤廃だの一昔前のロック・ミュージシャンのようなことを言っている。そんなことをすれば財政は崩壊するし、自国の防衛もできなくなる」
大政党のSNPに対する批判もワンパターンの様相を呈してきた。
が、では現代の知性というやつは要するに喧嘩に強くなることと金勘定に長けることを意味するのかと思えばそれはそれでまたずいぶんと反知性主義的である。少なくとも貧困に落ちる家庭の数を増やし、飢えて汚れた子供たちをストリートに放置している為政者たちのエモーショナル・インテリジェンスの低さは、ヤンキーやチャヴに劣りこそすれ勝るものではない。