Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第9回:愛と宿業のクラス・ウォー@ペンギン組
「なんかさー、あのチアリーダーみたいなルックスの子、20代にして認知症なのかなって」
スタッフ休憩室で新人の娘がVのことをそう評すと、ペンギン組責任者Dは紅茶を吹きそうになって笑った。
30歳のDは、ペンギン組に配置されているわたしの上司でもあるわけだが、彼女は部下である23歳のVが大嫌いである。
ブルネットの髪に顎の尖った理知的な顔立ちをしたD(実際に、キレキレで仕事もできる)と、ブロンドに水色の瞳をしたプリティ&おっとりしているV(実際に、よくいろんなことを忘れる)は、見た目からして正反対なのだが、生まれ育った環境も正反対だという。
Dは3人の子供を育てあげた公営住宅のシングルマザーの娘だ。父親は無職のアル中だったそうで、1年の半分は家におらず、ちょっと帰って来ては、すぐ何処かに消えていたらしい(路上生活やシェルター生活を好んでする癖があったようだ)。こういう父親のいる家庭はアンダー・クラスに多いものだが、Dの家庭はあくまでも労働者階級だったらしい。
忘年会で泥酔した帰り、彼女はタクシーの中で言った。
「私の母親は、いつも働いていた。昼は工場で働き、夜は他人の子供を預かっていた。週末は映画館でポップコーンを売っていた。それでも家にはお金がなかったから、学校の制服なんか、お下がりのまたお下がりで、破れて穴が開いていた。アンダー・クラスの子のほうが、よっぽど裕福な家の子に見えた」
そんなDは、何かにつけてVに辛くあたる。というか、いじめる。というのも、Vはミドルクラスのお嬢さんだからだ。
通常、良家の子女は、限りなく最低保証賃金に近い報酬で働く保育士などの職には就かないものだが、英国版ハンナ・モンタナみたいな外見のVはディスレクシアであり、職場で読み書きするのに、わたしのような外国人の助けすら必要とする。彼女の兄たちはケンブリッジ大卒のエリートだそうで、裕福な両親や兄たちに守られて育ってきたのだろうVは、気持ちの優しい娘だ。ディズニーのプリンセスみたいなので子供たちに人気もある。ぼんやりしているので失敗は多いが、それにしたってご愛嬌と思える性格の良さがある。が、Dは許せないらしい。
「ファッキン・ポッシュな糞バカ」と陰でVを呼び、彼女が失敗する度に、何もそこまで言わなくとも。と思うほど叱るので、Vはよく泣く。
と書くと、Dはまったく嫌な女のようだが、実際には情に厚く、知的な姐御肌だ。しかし、Vのこととなると、人が変わる。
英国は階級社会だといわれるが、その階級は法的なものでもなければ、制度的なものでもない。それは人びとの意識のなかにあり(ソウルのなかにあると言った人もいた)、人びとはその意識と共に育ち、育つ過程でその意識も大きく、逞しく、成長して行く。
「人間の最大の不幸は、自分で生まれて来る地域や家庭を選べないことだ」
が口癖の英国人を知っているが、保育園などというキュートな(筈の)職場での、若いお嬢さんたちの階級闘争一つを見ても、この国の人々にとり、階級というのがどれほど根深い概念なのかというがわかる。
もはや、業といっても良い。Dにしたって、自分がやっていることがいじめであることがわからないようなアホな人間ではない。わかっている。わかっているのにやめられないのだ。ヘイトレッド(憎悪)というのは、業のことだ。一時的なセンチメントではない。
だからこそ、音楽であれ、映画であれ、書物であれ、この国の文化芸術には、階級という業から解き離れているものは一つもないように思う。階級は、ヘイトレッドを生み、コミュニティを生み、闘争と愛を生む。人種、性的指向、宗教、障害などはヘイトレッドを生む人間同士の差異として万国共通のものだが、この国には、それらに加え、階級意識。という宿業のエレメントがある。
このエレメントは、実は最もパワフルで根深いものかもしれない。しかも、「金持ちの足を引っ掛けて転ばせる貧乏人はクール」みたいな、ワーキング・クラス・ヒーロー賛美の伝統もあるので、貧者から富者への攻撃は許される。特に、保守党が政権を握り、貧乏人がいよいよ貧乏になってから、この風潮は強くなっている。ネオ・ワーキング・クラス意識の盛り上がり。とでも呼ぶべきだろうか。低賃金で働く若い労働者の層が、被害者意識をやたらと肥大させ、妙に頑なになっている。
貧者が貧者であることを高らかに叫ぶことのできる社会は素晴らしい(わたしが育った時代の日本では、貧者は「いない」ことにされていたから)が、時折、どうしてそこまで階級に拘泥して生きるのか。と思う若い子に出会うのだ。
思えば、わたしがペンギン組に配置された当初、Dが最初に確認してきたのは
「あなたの氏育ちはわからないけど、私は本当に貧乏な家庭で育ったの」
だった。
「わたしの親も、相当な貧乏人ですよ」
と答えたが、もしわたしがミドルクラス出身で、しかも外国人という場合、いったいわたしはDにどんだけのいびりを受けていたのだろう。
「なんでそんなにVのこといじめるの」
忘年会の帰り、タクシーをシェアしたDに、わたしは尋ねた。その日のDは、わたしが尻を押さなければタクシーにも乗れないぐらい泥酔していた。
「いじめてないでしょ」
「ありゃいじめだよ。虐待と言ってもいい」
わたしが言うと、Dはのけぞって大笑いした。
「ははははは。下層の人間には、上層の人間を虐待する資格がある」
「ないよ、んなもん」
「あるの。この国では」
愉快そうに笑うDを見ていると、まあ、わたしも人のことは言えないか。と思う。わたしも、むかし、「わたしは金持ちは嫌いである。なぜなら、彼らは金持ちだからだ」と書き放ったことがあったからだ。
まあ、要するにその程度の、バカなことなのだ。
そしてそれだからこそ、呪いのように変わらないのだ。
************
そんなDが、先日、保育園をやめた。
海辺の豪邸に住む金持ちに、現在の2倍の報酬でお抱えナニーとして雇われたという。
「こんなこと言うのはナイスじゃないとわかってるけど、でも、嬉しい」
Dがやめると知った時、Vはそう言ってロッカー室でそっと涙ぐんだ。
ようやく、ペンギン組の階級闘争に幕がおりるのである。
Dが園を去る日、ピザ屋で送別会が行われた。来ないかな。と思ったが、Vはやって来た。敢えて「行きません」という勇気はなかったのだろう。
送別会の席上でさえ、Dは、労働者階級の人間特有のあけすけなブラック・ユーモアで、本人が目の前にいるのにVの失敗談をジョークにしてげらげら笑い続けた。
酒が飲めないVは二次会には来ないと言い、先に帰ったが、帰る間際にバッグから花柄のプリティな箱を出してDに渡した。
「また、最後までこんなポッシュなもん買って来て!」
Dは笑う。地元では有名なフランス人ショコラティエのいる高級チョコレート店の箱である。
「Good Luck.」「Take care of yourself」「You too」などと社交辞令を言い合い、ふたりはハグを交わし、Vは店を出て行った。終わり良ければ全て良し。か。なんやかんや言っても。と思いながら見ていると、Dが、箱と一緒に渡された小さな封筒を開けた。
可愛らしい水玉のGood Luckカードが入っている。Dがカードを開くと、中にはこう書かれていた。
「Thanks for nothing」
Dの顔は、見る見る真っ赤になった。その晩、またもやわたしが尻を押さねばタクシーに乗れぬほど彼女が泥酔したのは言うまでもない。
「あの女、やっぱりムカつくっ!」
帰りのタクシーの中でもDは荒れていた。
「親が金持ってるってことはね。行きたきゃ上の学校にも行けるし、将来できる仕事だって無限にあるってことなんだ。それを彼女はあたら無駄にして、ぼんやり生きて」
Dが、大学のファンデーション・コースの通信講座を受けたがっていたことを思い出した。
「だけど、それは個人のチョイスだからね」
「あんなに恵まれてるくせに」
「それぞれが、自分で選ぶことだからね」
「これだからミドルクラスの奴らは」
彼女が脇を向いて静かになったので、寝たのかな。と思って顔を覗き込む。BBCラジオ2からオアシスの曲が流れていた。
Dは虚空を睨みながら、小声でリアム・ギャラガーと一緒に歌っている。
Because maybe
You're gonna be the one that saVes me
And after all
You're my wonderwall
彼女にとってのワンダーウォールとは、階級意識なのだろうか。とふと思った。
それは、生きるバネとなり、慰安となり、回帰する場所にもなるものだから。
それは、冷たく厳然としているのにどこか暖かい、不思議な壁である。
人間が先へ進むことを阻む壁であり、人と人とをディヴァイドする腐った壁であることには、変わりないとしても。