Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第35回:花と血の時代
テロルである。
またもや欧州でテロル勃発。今回は規模が大きいぞってんで、すわ戦争か。とゴリラのように拳で胸を連打しているマッチョな人たちがあんまり多いもんだから、なんだか息苦しいわ。と思って、ちょっとまじめな記事を書いたらとんでもないことになり、いやネットのニュースサイトってのは半端ない。間違ってトップページにでも出ようもんなら、違う考え方を持つネット政治運動家の方々から、文体は硬質なのに内容な粘質。みたいな抗議、嫌がらせのメールがわらわらと殺到し、布団を被ってぶるぶる震えていたのですが、実はあの日は同じサイトのエンタメ欄のほうでも、「チャーリー・シーン、ゴムを使わずにセックスしたのは2人だけ」という当方の記事がアクセス1位を達成していたのですが、その辺りを突いてきたメールは1通もなかったので、ちっ。と思いました。
まあ、そんな話はどうでもいいか。
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翌日、いつものように子を学校に送り、バス停に立っているとイラン人の友人が歩いて来るのが見えた。
「ハーーイ!」と言ってひしっと固くハグ。って別にそんなことをしなくとも、彼女とは緊縮託児所(eg昔の底辺託児所)で一緒に働いている仲なのだが、ネットの暗がりの後には生身の人間の感触がうれしい。そのまま峠の茶屋に直行することになった(いやそれが本当に坂の頂上にあるのだ。グリーンティーも出してるし)。
彼女に思わずバス停で抱き着いてしまった理由を話すと、友人はぎゃははっと笑った。
「テロはテロを呼ぶからね」と彼女は言う。
「……ああ」
「やる方もやられる方も傍観する方も、みんなアグレッシヴになる」
「なんかそういう世の中になったよね。やけに暴力的だもん。ここんとこ目にするものが」
「そう? ニュースの見すぎじゃない?」
「ああ……。やっぱ見ないほうがいいの?」
「いや、そういうのが好きなら見ればいいと思うけど、こっちのが可愛くない?」
と言って、彼女は自分の携帯の待ち受け画像を見せた。イランにいる親戚の赤ん坊の写真だという。何か昭和の頃の日本の写真館で撮られた写真のようなアナクロさがあり、座っている赤子の周囲に花々が美しく咲いていて、ボリウッド映画のスティルまたはピエール&ジルの作品さえ髣髴とさせるクオリティーだ。
「ああ、花だ」と思わずわたしは言った。
「ははは。私の国ではプロが写真撮るとこうなるの。家族写真でも何でも」
「キュート」
と言いながらわたしは別のことを考えていた。
なんか最近、やけに花なのである。
硬質ぶっても粘質な数々のメールが来る原因となった記事もバンクシーの「Flower Thrower」という作品についてのものだし、「パンと薔薇」だの「米と薔薇」だの、われながら最近は花についてばかり書いている。なんかそうなってしまうのだ。
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モリッシーがジーンズの尻ポケットからグラジオラスの花を垂らして登場した「トップ・オブ・ザ・ポップス」のザ・スミスの演奏シーンは、UKポップ・カルチャー史のアイコン的シーンと言われる。ザ・スミスには、「花の時代」と呼ばれる時期があった。それは1983年から1984年春までで( Mozipediaより)、ギグでもステージを花で覆ったりしていた。最初にザ・スミスのステージに花が登場したのは、1983年2月4日のハシエンダでのステージだったそうだが、花を使った意図は、マンチェスターの音楽シーンとハシエンダを取り巻く「殺菌されたようで非人間的な」環境に対する抗議だったという。「誰もが非人間的で冷たかった。花はとても人間的なものを象徴する。それは自然との調和でもある」「花は僕たちのツアーではPAシステムより重要」とモリッシーは当時語っていた。
当時のUKのおもな出来事を振り返ってみると、非常に暴力的な時代だったことに驚く。炭鉱ストライキにおける労働者と警察の衝突。IRAの爆破テロ。航空機ハイジャック。フーリガン、レイシズム、相次ぐ暴動。人間と人間のグループが常にぶつかって負傷したり死んだりしていた時代だったのだ。そして、その世の騒乱を押さえ付け、締め付けることによってさらなる衝突と暴力を生んだ指導者がマーガレット・サッチャーだった。
あの時代もニュースはさぞ物騒で血なまぐさい絵のオンパレードだったろう。花が見たくなる気持ちはわかる。ザ・スミスはステージ全体を花で覆うことで、その渇望をカウンター的ステートメントに変えたのだ。
だが、すぐにファンも花を持ち寄ってステージに投げるようになり、そのうちモリッシーが花々に足を取られて転ぶようになって、ザ・スミスの「花の時代」は終わる。
花もけっこう危険なのである。
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緑茶をすすりながらイラン人の友人は言った。
「花って言えば、最近、センターであったポピー事件って知ってる?」
「何それ」
「いや、それが大変だったのよ」
と彼女は解説を始めた。センターというのは、わたしと彼女が働いている託児所の本体にあたる場所であり、無職者と低額所得者、移民・難民やホームレスの方々を支援している慈善施設である。
彼女の話を聞くと、こういうことであった。英国では11月11日の第一次世界大戦休戦記念日は戦没者記念日でもある。日本は戦没者というと第二次世界大戦を思い浮かべることが多いが、英国は断然、第一次世界大戦だ。第一次世界大戦の激戦地だったフランダース地方に咲く赤いポピーの描写で始まるカナダの詩人ジョン・マクレーの詩が英誌に発表されて大反響を呼び、以降赤いポピーは戦没者たちのシンボルとなった。11月になると多くの英国人が胸にポピーのバッジをつけて歩いている所以である。
で、あるムスリムの家族が11月の初めに全員胸にポピーのバッジを付けてわたしたちが働く慈善センターにやって来たのだという。
彼らはパキスタンからの移民で、一家を支えていたお父さんは市役所に勤めていたそうだが、勤務していた部署がこの緊縮のご時世でリストラされ、4人の子供を抱える彼の家庭は我々の施設に相談に来たらしい。
地方の街では、ムスリムが11月にポピーのバッジを付けているというのは見たことがなかった。が、ここ数年で変わって来ている。ISが世間を騒がせたり、社会の右傾化が進むにつれ、ムスリム・コミュニティーの一部の若者の間で「ポピーを胸につけよう」運動が広まっているのだ。特に若い女性は、赤いポピー柄のヒジャブを頭に巻いたりしているし、アナキスト団体経営のカフェなどに行くと、その運動をサポートする英国人女性もポピー柄のヒジャブを頭に巻いてカウンターで働いている。
くだんのパキスタン人家庭の長女もポピー柄のヒジャブを巻いていたそうで、両親も弟たちもポピーを胸につけてセンターの食堂に現れたという。
すると、食堂の隅に座っていた英国人のおっさんが唐突に激怒して暴れ出し、そのポピーを外せと彼らに怒鳴りつけ、止めに入ったヴォランティアの大学生がおっさんに殴られて軽傷を負うという騒ぎがあったらしい。
「そのおっさんって誰? わたしも知ってる人?」と聞くと友人は言った。
「M」
「ああMかあ…」
とわたしは放心してため息をついた。
Mというのは元パンク&アナキストの60代の爺さんなんだが、鬱を認知症でこじらせているという噂があり、言動がここのところ不安定だ。
「で、その一家はどうなったの?」と尋ねると友人は言った。
「いやさすがに、それっきり来てない」
ポピー問題は、今年は特に悩ましかった。女優のシエナ・ミラーが英霊追悼週間にポピーのバッジをつけずにテレビに出たというのでバッシングされ、英霊記念日式典に労働党首として出席したジェレミー・コービンのお辞儀の角度が足りなかったとかで、彼の頭部と胴体の角度を測って10度だ15度だと分析していたメディアもあった。こうしたムードを受け、キャメロン首相も自分の写真にフォトショップ加工でポピーバッジを貼らせていたという疑惑が浮上していたし、一番びっくりしたのは、ブライトン市内のある公立小学校のフェンスに直径2メートルはあろうかという真っ赤なプラスティックのポピーが複数出現し、校庭上空に英国旗が、ってそれも1本や2本じゃないのである。『幸福の黄色いハンカチ』状態でユニオンジャックがびっしりはためている様(先週からこれはフランス国旗に変わっている)をバスの窓から見たときには「まじかよー」と思った。あんなにキッチュ(ミラン・クンデラが言う意味での)な追悼の場をわたしは見たことがない。
「ポピー問題は気が重いね。あれも一応、花なんだけど」
とわたしが言うと、十代の頃に国が戦時中だった友人は表情ひとつ変えずに言った。
「あれは花じゃなくて、血でしょう」
一面に咲いた赤いポピーの中を歩きながら戦没者を追悼する女王の写真が頭に浮かんだ。
欧州は花と血の時代に突入したのかもしれない。