Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第28回:ザット・チャーミング・マン
20年近くも前の話になる。
Tを知ってまず驚いたのは、「Tの部屋。ノックしてね」のドアプレートだった。子供部屋ならいざ知らず、老いた母親と2人暮らしのおっさんがメルヘンチックなイラストのあしらわれた木製プレートを自室の前にかけていたので、それを見た瞬間、わたしは何か人生のダークサイドを覗いたような気分になった。
Tはまともな仕事に就いたことがなかった。若い頃から失業保険や生活保護で暮らし、半引きこもりのようになっている間に太って心臓を患ったり、糖尿病にかかったり、腰を悪くしたりして障碍者手当を受けるようになった。そもそも、Tはパニック障害で飛行機に乗れないので旅行をするわけでもなかったし、女性と交際・結婚するなんてこともないし、酒も煙草も賭け事もしなかったので、生活する上でそんなに金はいらなかったのだ。彼の楽しみと言えば近所のパブで日替わりのセットランチを食べること(必ず行く前に電話して本日のデザートのチョイスを尋ね、パブに着くまで「ブラウニーにしようか、アップルパイにしようか」と悩んでいた。彼にとっては、それが人生の一大事だったのである)。身なりなどは一切構わず、いつもよれきったラクダ色のセーターに裾の切れたジャージのズボンを履き、不健康に老け込んでいるので母親と歩いていると誰もが夫婦だと思った。
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今、わたしの机にはTの若き日の写真が飾ってある。
この写真を発見した時、
「誰? このバディ・ホリー」
とわたしは言った。そのモノクロ写真には、黒縁眼鏡にソフト・リーゼントの髪、細いネクタイでシャープな三つボタンスーツを着こなしたバディ・ホリーばりの洒落男が写っていたからだ。
「T。18歳の時ぐらいかな」
と連合いが言うのでわたしは絶句した。ちょっとスミス時代のモリッシーも入ってる感じのそのスリムな青年は、わたしの知っているハンプティ・ダンプティみたいなTとはどうしても結びつかなかった。
「その頃、Tはロンドンのテイラーに弟子入りして働いていた」
と連合いは言う。ああでも、Tはサッカーの試合の予定や結果、リーグテーブル、選手の移籍金などをまるで人間データベースのように正確に覚えていたし、近所のパブのセットランチの組み合わせを詳細に記録してメニューが反復する周期パターンを割り出したりするギークだったから、いったんファッションに関心を持つととことん入り込んだのだろう。
「働いてたこともあったんだね」
「でも続かなかった。イングランド人の同僚に虐められて、母親が『かわいそうに』と辞めさせた」
当時の英国には露骨なアイルランド人差別があったという。「犬と黒人とアイルランド人はお断り」の名残りである。差別されると「くそったれ」と反撃に出たり、反撃に出なくともそれをバネにして別方向に前進するタイプもいる。が、怒りを自分の内側に吸収して分解してしまったり、怒ることさえできない人々もいる。Tはまさに後者だった。また彼の母親が「Tさえいれば他の子はいらない」と言うほどTを溺愛した人だったので、彼がきつそうにしているとすぐ仕事を辞めさせた。父親はそんな母親に激怒し、Tの尻を玄関から蹴りだすようにして次から次へと彼に仕事を見つけて来たという。が、そんな父親が50代で早逝すると、母親はTを連れて故郷のアイルランドに帰る。その時、母親はTに宣言した。これからは好きなだけ家にいて、好きな物を食べ、テレビを見て暮らしていいと。家の外に出て他人に顎で使われたり、差別されたり、虐められたりせずに、ただ家にいて私のそばで暮らしなさいと。
気弱な若者にとってそれは天恵のようだったろう。が、Tがその時点で考えていなかったのは、その状況に甘んじて何十年も過ごしてしまうと社会復帰できなくなるということで、彼は知らない間に母親の専任介護者になる運命を選んでいたのである。
こうして年月の経過と共にTは無職の青年から生活保護受給者のおっさんとなり、母親の介護者へとスライドした。母親は丈夫だったので身体的介護が必要になったのはごく近年のことだったが、年を取るごとにTへの執着が増し、2時間以上外出することは許されず、門限から10分以内に帰宅しないと叱られた。
中高年になっても母親にビクつき、還暦を過ぎてもぬいぐるみと一緒に寝ていたTを、連合いは「世界一のWANKER」と呼んでいた。母親というものは恐ろしい生物ではあるが、男子はやがて恋を知り、別の女(または男)とセックスすることによってその呪縛から解放されるものだろうに、Tにはそれが起こらなかった。
「生まれてから一度もセックスしたことないと思う。そういう相手は一人もいなかった。人畜無害のアセクシャルだった」
と連合いは言った。そんなTは、虐め、カツアゲ、ゆすり、たかりなどのあらゆる暴力・掠奪行為のターゲットだったという。
「そういえば若い頃、家に女の子を連れて来ていた」
「やっぱ付き合ってた子がいたんじゃない」
「いや、そういうのじゃなかったと思う。なぜかそれが障碍を持った女の子ばかりで、Tは彼女たちからも金を巻き上げられていた」
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個人的には、Tはゲイなのではないかとも思ったこともある。彼は毎朝ミサに通う熱心なカトリック信者で、神父の補佐として信者に聖体を授けていた聖体奉仕者でもあった。
「どうしてそんなに熱心に教会に通うの?」
ある日Tに訊いたら、彼はこう答えた。
「それは僕と神しか知らないことだ」
常に温厚というかぼさっとしているというか、決して強い物の言い方をしない人がきっぱりそう言ったので何かただ事ではないものを感じた。それが妙に鮮烈に記憶に残っている。
また、アセクシャルといえば、モリッシーが「スミス時代はずっとひどい鬱状態だったので性欲なんて感じなかった」と言っている映像を見たが、なるほどTも長いあいだ鬱と付き合った人だった。Tは心臓の薬やら糖尿の薬やら何やらで常にヤク漬けだったが、処方されたプロザックだけは飲まなかった。「信仰が厚い人間は絶望することがない」という聖書の言葉を額面通りに信じていた節があった。そういうところだけは頑固で、決して自分の考えを曲げようとしなかった。
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T。というのは2週間前に亡くなったわたしの義兄のことである。
1月に義母が亡くなり、漸く彼も自分の人生を生きられる筈だった。
わたしと同じ月の生まれなので、今年はどこかに旅行して一緒にバースデーを祝おうと話していた。義母がいた頃はとてもそんなことはできなかったから。が、Tは一人暮らしになった家の床の上に、ひっそり倒れて亡くなっていた。
それは偶然だったのか必然だったのか、母の日の朝のことだった。
アイルランドの田舎の教会では、1月に義母が亡くなった後と全く同じことが反復された。まるでデジャヴだ。葬儀後にパブで行われたWakeのメニューまで同じである。が、今回は店内にやけに車椅子や盲導犬が目につき、障碍を持った女性たちがギネスを飲みながら談笑している。昔、義兄から金を巻き上げてた人たちかなと思ったが、年齢的にそんな筈がない。「彼は私たちの良い友人だったのです」と彼女たちは言った。
店内にはU2やヴァン・モリソンといった田舎のアイリッシュ・パブの定番音楽がかかっていたが、突然、どんより沈んだ空気を切り裂くようなキラキラしたギター音が飛び込んで来た。スミスだ。
ディス・チャーミング・マン。
こんな陽気なイントロの曲が、人里離れた丘の上で自転車がパンクなどという絶望的シチュエーションで始まるという笑える矛盾。
チャーミングなどという言葉から最も遠いところにいた人間が、逆説的にとてもチャーミングだったというやるせない矛盾。
“IT’s gruesome ThaT someone so handsome should care″
バディ・ホリーとモリッシーが混ざったような青年の写真を思い出していた。
こんなポップな音楽を聴きながら、人は泣けるものなんだと思った。