Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第33回:パンと薔薇。と党首選
それはある晴れた夏の日のことだった。
鬱気質であまり明るい人間ではない筈のうちの連合いが、爽やかな笑顔を浮かべてロンドンから帰って来た。癌の検査で病院に行って来た男が、また何が嬉しくてこんな陽気な顔で帰ってきたのだろうと訝っていると、彼は言った。
「ロンドンがいい感じだったよ」
「いい感じって?何処が?」
「いや全体的に」
と言って口元を緩ませている。
「なんか、昔のロンドンみたいだ。俺が育った頃の、昔のワーキングクラスのコミュニティーっつうか、そういう息吹があった」
相変わらずわかりづらい抽象的なことしか言わないので、具体的にどんな事象が発生したのでその「息吹」とやらを知覚したのかと問いただしてみると、こういうことだった。
自分が行くべき病院の場所を知らなかった連合いは、ヴィクトリア駅前のバスターミナルに立っていた。おぼろげにこっち方面のバスだろうなあ、と思いながらバス停のひとつに立っていたおばちゃんに「○○病院に行きたいのですが」と話しかけると、「ああ、それならこのバス停だよ。○番のバスに乗って、11番目、いや待てよ、12番目かな、のバス停、左側に大きなガソリンスタンドと貸倉庫が見えて来るから、それをちょっと過ぎたところでバスを降りて、道路を渡ったら煙草屋があるから、そこの角を右に曲がって100メートルぐらい歩いたら云々」とやたら詳しく説明をはじめ、「ああ、でも、アタシそのバスでも家に帰れるから、一緒に乗って、あなたがバスを降りる時にまた教えてあげる」と言ったそうだ。それを聞いた連合いは感心し、「いやあ、今どき、こういうローカルな知識のある人にロンドンで会えるなんて新鮮です。今の世の中はソーシャル・ディヴァイドが進んで、気安く人に話しかけれらない」と言うとおばちゃんは言ったそうだ。
「いや、ロンドンは変わるんだ。昔のようなコミュニティ・スピリットが戻って来るんだよ」
おばちゃんはそう胸を張り、
「あなた、ジェレミー・コービンって知ってる?」
と唐突に言ったらしい。
「ああ。すごい人気ですよね」
「彼はもう30年もイズリントンの議員だった人だよ。ロンドンっていうとすぐウエストミンスター政治って言われるけど、ロンドンのストリートを代表する政治家だっているんだ」
バスに乗り込んでもおばちゃんは連合いの隣に座ってコービン話を続けたそうだ。
「俺はジェレミー・コービンの言うことは全て正しいと思うけど、それと政党政治とはまた別物だから……」
と連合いが言うと、後ろの席に座っていた学生らしい若い黒人女性が
「私、実はジェレミーを支持するために労働党に入りました」
と言い、脇の折り畳み式シートに座っていた白髪の爺さんも
「ゴー、ジェレミー」
とこっそり親指を立てていたそうだ。
「ひょっとしてこれはコービン・ファンクラブのバスか何かですか?」
と連合いが言うと、乗客たちがどっと大笑い。みたいなたいへん和やかな光景が展開され、病院近くのバス停で降りるときにはおばちゃんがまた懇切丁寧に病院までの道筋を教えてくれ、病院に着いてからも心なしか受付のお姉ちゃんも看護師もみんな気さくで親切で、ロンドンがきらきらしていたというのだ。
「それ、天気がよかったからじゃないの?」(実際、天気がいいと英国の人々は明るい)
とわたしは流しておいたが、ロンドンであんなポジティヴなヴァイブを感じたのは数十年ぶりのことだと連合いは力説していた。
それが日本に発つ前日のことで、2週間帰省して英国に帰って来てみれば、SKYニュースの世論調査で党首選でのコービン支持が80.7%などという凄い数字になっていた。
今年の総選挙で英国の世論調査がどれほどあてにならないかということが露呈されたとはいえ、さすがにこれでコービンが労働党の党首に選ばれなかったら裏でトニー・ブレアたちが何かやってるだろう。
しかし、たったひとりの政治家がストリートのムードまで変えてしまうというのはどういうことなのだろう。
わたしも日本語のネットの世界ではけっこう早くからコービン推しをしてきたひとりだと思っているが、正直なところ、「どうせ彼が勝つわけがない」という前提はあった。
ここら辺の気もちは、立候補当初から彼を全力で支援してきた左派ライター、オーウェン・ジョーンズも明かしているところで、彼も「3位で終わるだろうと思っていた」と書いている。しかも、コービンの立候補を知った時の最初のリアクションは「心配だった」と表現している。彼のいかにも政治家らしくないキャラクターが、「反エスタブリッシュメント」のシンボルとしていろいろな人々に利用されはしないかと思ったという。
オーウェンとコービンは10年来の友人だ。いわゆる「レフトがいかにも行きそうなデモや集会」でしょっちゅう会っていたからだ。拙著『ザ・レフト』にも書いたところだが、「草の根の左派の運動をひとつにまとめてピープルの政治を」というのは、ここ数年、英国でずっと言われて来たことだ。が、オーウェンは「まだ自分たちにはその準備ができていない」と思っていたという。それがコービンの党首選出馬によって数週間のうちに現実になって行くのを見ると、左派にとっては「嬉しい誤算」というより、「へっ?」みたいな戸惑いと怖れがあったのだ。
ビリー・ブラッグもその複雑なところをFacebookに吐露している。
「労働党の党首選には首を突っ込まないつもりだった。党員ではなく、支持者として見守るつもりだった。党内の人びとに決定させ、自分はその結果を見て労働党を支持するかどうか決めようと思っていた。コービンが立候補した後でさえ、気持ちは変わらなかった……(中略)……だが、僕の気が変わったのは、トニー・ブレアが『自分のハートはコービンと共にある、などと言う人はハート(心臓)の移植手術を受けろ』と言った時だった。僕は労働党にハートのない政党にはなって欲しくない」
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月曜日にBBC1の「パノラマ」というゴールデンアワー放送のドキュメンタリー番組で、ジェレミー・コービンの台頭について特集していた。今週の土曜日に党首が発表されるというのに、そこまでやるかというぐらいにアンチ・コービンな内容の番組だった。
BBCは労働党のブレア派と繋がりが深いとは言え、またこれは露骨な。と驚いたが、メディアがこうした報道をやればやるほどコービン人気はうなぎ上りに盛り上がる。
英国民を舐めちゃいかん。
ここは昔パンク・ムーヴメントが起きた国だ。
「それはダメ」「それだけは絶対にいけない」と言われると、無性にそれがやりたくなるのである。
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コービンに関する不安は、わたしもずっと継続して持っている。
過去20年間UKに住んで、これだけ大騒ぎされ、まるで新興宗教の教祖のようにもてはやされている政治家を見たのは、トニー・ブレア以来だ。ブレアはあの通りギラギラとエゴが強力で、もともとロックスターを目指していた人だから、ほんとに教祖になったつもりでパワーをエンジョイできた。が、コービンのような「我」のない普通の人がいきなり国中のピープルから教祖にされたら悲劇的に崩壊しそうな気がするからだ。
けれどもコービンについて熱く語る若い人たちや地べたの労働者たちを見ていると、ここに至る流れは確かにあったと、それを止めることはできなかったと思わずにはいられない。
例えば昨年は『パレードへようこそ』という映画の思わぬ大ヒットがあり、英国では北から南まで国中の映画館で観客がエンドロールで立ち上がって拍手していたそうだが、あの映画でもっとも印象的なのはストライキ中の炭鉱の女性たちが有名なプロテストソング「パンと薔薇」を歌うシーンだ。
私たちは行進する 行進する
美しい昼間の街を
100万の煤けた台所が
数千の屋根裏の灰色の製粉部屋が
きらきらと輝き始める
突然の日の光に照らされて
人々が聞くのは私たちの歌
「パンと薔薇を パンと薔薇を」
私たちは行進する 行進する
私たちは男たちのためにも戦う
彼らは女たちの子供だから
私たちは今日も彼らの世話をする
暮らしは楽じゃない 生まれた時から幕が下りる時まで
体と同じように 心だって飢える
私たちにパンだけじゃなく 薔薇もください
“Bread and Roses”
ネットに投稿されている誰かが描いたコービンのイラストに、彼が胸に一輪の薔薇をつけている画像がある。(今ではそんなこたあ誰も覚えてないように見えるが)英国労働党のシンボルも実は一輪の赤い薔薇だ。昨日と今日にかけて、わたしは11人の英国人に「薔薇って何のこと?」と尋ねた。ひとりは「愛」だと言った。もうひとりは「モラル」だと言った。そして残りの9人は「尊厳」だと言った。
日本で左派が「お花畑」と呼ばれることがあるのはじつに言葉の妙というか面白いが、パンが手に入りにくくなる苦しい時代ほど、人間は薔薇のことを思い出す。
今週末、英国でついにその薔薇が再び咲くかもしれない。
長いこと人気のない温室でしか咲かなかったその薔薇が、風雪にさらされる場所に咲いても大丈夫なのか、どうすればわたしたちはそれを枯らさずにいられるのか、これからが本物の正念場だ。