Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第24回:異邦の人
先月、8歳の息子がローマ国際映画祭に出席した。が、そんなもの親にとってはグラマラスもへったくれもない。
「あんたシャツがズボンから出とろうが。しっかり入れんね、だらしなか」と外野から博多弁で叫ぶばばあはになっていたのはわたしだが、菊地凛子主演のイタリア映画『Last Summer』のレッドカーペットは思いのほか静かだった。というか、日本の映画人が映画祭に出席するとき特有の大名行列が存在しなかった。はっきり言って、出演者以外に日本人は一人もいなかったと思う。
わたしが菊地凛子という女優を知るにあたり、まず驚いたのは、この人は一人でふらふらどこでも行くんだなあ。ということだった。日本の俳優にはマネージャーとかいろいろついて来るのがノームなんだろうが、彼女は本当に一人でやって来る。
そのせいだろうか。主演女優として艶やかに君臨し、いつも人々の輪の中心にいるわりには、彼女にはどこか、いつもぽつねんと一人でいる印象があった。
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国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)。と邦訳されている条約実施法は、英語ではHague Convention on the Civil Aspects of International Child Abductionだ。
International Child Abduction=国際的な子の誘拐。とはいかめしい言葉だが、これは文字通り、親が子を誘拐して海外に逃げないようにするための国際法だ。例えば、離婚係争中に片親が子を連れて海外逃亡するとか、親権を奪われた親が国外に子を連れ出した場合などに適用され、当該親が逃げて来た国の政府は、子供をもとの居住国に送還する義務がある。
昔からわたしのブログを読んでくださっている方はご存知だろうが、わたしは『愛着理論』という話を書いたことがある。それはUK福祉当局に子供を取り上げられた日本人女性の話で、その中で主人公が弁護士から「子供を連れて日本に帰国すればよかったんですよ。そうすれば英国政府は手が出せないから」と言われるエピソードを書いたことがある。が、今年4月に日本もハーグ条約に加盟したため、それももう過去の話になった。
『Last Summer』で菊地凛子が演じたのは、英国の富豪家庭に嫁ぎ、離婚して子供の親権を失った日本人女性の役だ。基本的に母親が有利と言われる親権争いで敗けたのだから、それなりの理由があったのだろう。映画ではその部分は全く語られていない。で、この日本人女性は、子供と会うことが法的に許された最後の4日間を夫の一族が所有するヨットで過ごすことになる。
全員が白人である乗務員たちは、夫の一族に雇われた人々なので、最初から彼女に敵対している。彼女が親権を失った理由を全員が知っているようなので(おそらく彼女は過去に子供を連れて日本に逃げようとしたことがあったのかもしれない。または、虐待と取られかねない行動があったのかもしれない)、完全な監視体制が敷かれていて、子供に近づくことさえままならない。久しぶりに会う子供も、夫の一族にあることないこと言われているらしく、母親を完全無視するようになっている。
要するにこの日本人女性には味方がひとりもいない。
映画の中の菊地凛子は、いよいよぽつねんとしていた。
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40年ロンドンに住んでいるという高齢の日本人が、「昔から、UK在住の日本人はふたつに分けられる」と言っていたのを聞いたことがある。
まずひとつ目は、日系企業に勤めたり、日本に関係のある仕事をしたりしてジャパニーズ・コミュニティに籍を置きながら生きているタイプ。そしてふたつ目は「一匹狼」だという。こちらは日本とは関係のないところで、UK社会における移民のひとりとして生きているタイプだ。
『Last Summer』ほどハイソではないにしろ、あの映画のような話が現実に起きていることをわたしは知っている。が、こうした話は「一匹狼」に起こりがちなので、日本では報道されない。在英の日本メディア人というのも、所謂ジャパニーズ・コミュニティのサークルで生きている人々だからだ。
報道だけではない。映画もそうだ。
そもそも考えてみれば、海外在住日本人というものが、ちょっと変な人だったり、サムライだったりする洋画の「くすぐり」として、または日本から大名行列を連れて行って撮影している映画の全く海外に住んでいる必要のないキャラクターとして登場する以外に、少しでもまともな描かれ方をしたことがあっただろうか。
いまどき、ネットで外国語を読むことさえ厭わなければ海外の情報はいくらでも知ることができる。が、日本の人びとが一番知らないのは海外で暮らす同国人の真の姿だろう。
日本のメディアに登場する海外在住の日本人は、ぽつねんとはしていないからだ。
見栄を張ってそんな姿は見せない人もいるし、そんなうすら寂しい姿を知られてしまったら商売にならないので「憧れの海外在住者」路線を貫く人もいる。
が、ある国で移民として暮らしている人間が、どれほど長くその国で暮らそうとも決して消えることのない違和感や、ある種のかなしみのようなものと背中合わせに生きていないというのは、よっぽど鈍感でもない限り、嘘だと思う。
『Last Summer』の主人公からはそのかなしみが透けて見えた。それは菊地凛子という国際女優の体験や、置かれていた立場から毀れてしまったものかもしれない。
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勤務先に日本人と英国人の親を持つ男児が来ている。わたしにとって日本人の子供を相手に働くのは初めての経験だ。
バイリンガルの子供はモノリンガルの子供よりも話しはじめる時期が遅いことで知られているが、もうすぐ4歳になるその子は一言もまともに喋れない。
人形のように表情が乏しく、他人の呼びかけに対して反応もしない。いつもぽつねんとひとりで座っている。大人が顔を突き合わせて話しかけてもただニコニコしているだけなので、「自閉症なんじゃないか」「言語以前の問題がある」と同僚たちが騒ぎはじめ、そうした子供を専門に見ている&日本語が喋れるわたしが担当に回されたのだった。
が、ある日のこと。
わたしが「Hannah!」と同僚のひとりを呼ぶと、彼がいきなり庭に走り出て行ったのである。庭は無人だったので急いで彼の後を追うと、彼は花壇のポピーを指さして私に言った。
「ハナ」
ヘレン・ケラー・モーメント。というのはまさにこういう瞬間のことだろう。
「そう、花。花だよね。それは花。Hannahの名前と同じ発音だねー」
と日本語で言うと、さらに彼は自分の顔の中心を指さして
「ハナ」
と言った。
「うん。それも鼻。Hannahの名前と同じだねー」
彼は大きな茶色い瞳でじっとわたしを見ながら言った。
「同じだねー」
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菊地凛子の子供を演じたうちの息子の映像を見ながら、その幼児の瞳を思い出していた。自分の子供の顔を見ながら人様の子供を思い出すというのもどうかと思うが、日本人と西洋人の血が混ざった子供には共通する表情の特徴がある。
親である移民が移民として生きていくように、子供である混血児も混血として生きていくのだ。ハーフはかわいい。という上っ面だけの認識とは違うリアリティが、彼らにはある。
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『Last Summer』は日本人のこころを探究した映画。
とイタリアの新聞に書かれていた。「日本人のこころ」だの「日本らしさ」だのいうのは、昨今の祖国の状況を鑑みると相当にヤバい(もちろん悪い意味で)。
が、日本人が必要以上に日本人らしさを放棄するのも変だろう。国内では個性豊かな祖国の人々も、海外に出るとどうしても滲んでしまう共通の佇まいというものがあり、それを「日本人らしさ」というのであれば、それはわたしにはよくわかる。
「世界の中の日本」という使い古された言葉は、本当の意味ではまだ探究されていないのではないか。
その命題を理解する鍵は、本国から大名行列を連れていく日本や、海外でもリトル・ジャパンを展開する日本ではなく、ぽつねんとした異邦人としての日本の姿にこそあるだろうからだ。
三池崇史の出品作とは対照的に日本ではどこも報道しなかったが、『Last Summer』はローマ国際映画祭で3つの賞を受賞した。
そして面白いことに、イタリア人たちを魅了した当該作の「日本のこころ」を象徴するアイテムは、すべて沖縄のものだった。という若干ポリティカルなひねりも含め、ちょっと珍しい日本関連映画だと思うが、日本配給は決まっていないそうで、こういう作品は日本でもまた異邦人の映画なのだろう。
異邦の人とは、きっと同国人の中でもぽつねんとする宿命にあるのだ。