Home > Regulars > DREAMING IN THE NIGHTMARE > 第4回 奇妙な質問の正体
港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』
毎週のように発表される政権支持率をめぐる謎の世論調査は、いまのところ少数派とされる人たちの呆れを固定化するための機能しか果たしていない。客観的に「そんなもんだろう」という意識のある左派からは、世論調査が「盗まれた」というような陰謀論めいた話は聞こえてこないが、呆れてみせるのが「大人な態度」として存在しているように思える。そう皮肉めいたことを言ってみる私も先の選挙での高市自民の大勝に対し、特に嘆いたりはしなかったが、同時に人として大切なもの、例えば日本人の人間性に対する期待などが、いつの間にか失われていたことに少なからず動揺したのだった。
3月29日のProtest Raveが終わった後、国内外の複数のメディアから取材があった。いろいろな条件が重なってか注目度が高かったのだろう。それらの取材のなかで頻繁に(過去の取材でも)聞かれたことが「音楽を抗議活動に持ち込む」ということについてだ。これは私たちにとって「奇妙な」質問だった。なぜなら私たちが立脚している音楽や文化というのは、クラブ・ミュージックでありクラブ・カルチャーだからである。「音楽を抗議活動に持ち込む」と表現されると、あたかも私たちが別々のものを組み合わせたみたいだが、クラブ・カルチャーには元々、抵抗のコードがプログラムされているのである。しかしインタヴュアが「音楽を抗議活動に持ち込む」と表現した理由を私は知っている。

「ランチ難民」や「飯テロ」といった言葉たち。ただの批判や負の感情を「ヘイト」と呼んだり、ただ秘密を打ち明けることを「カミングアウト」と呼んでみたりすること。西野亮廣が「STRAIGHT EDGE」というファッション・ブランドを立ち上げたり、前澤友作が「パンクスピリット」を語ったりすること。これらは全て「脱政治化」と「意味の破壊」である。「レイヴ」の名を冠したテーマパーク的なイベント、ビジネス・テクノの隆盛、UKGやテック・ハウスで踊る姿をSNSにポストするセレブリティやインフルエンサーたちが、あらゆるプラットフォームで大いに宣伝され、一般社会のなかでレイヴやクラブ・カルチャーの「脱政治化」や「意味の破壊」がほぼ完成したいま、メディアが私たちに「音楽を抗議活動に持ち込む」ことについて質問するというのは、当然の成り行きである。
念のために断っておくが「脱政治化」は、それ自身が非常に強い政治的な効果を持っており、脱政治化されたものは脱政治化されたものとしての政治性を帯びるのである。ナオミ・クラインは『ドッペルゲンガー』のなかで企業の広告戦略を例に出し「社会確変を目指す運動や思想がその文脈から切り離され、その過程で弱体化し、現実性も希薄になっていく。」と書いている。レイヴやクラブ・カルチャーが持っていた思想や文脈が、その戦略のなかで弱体化して現実性が希薄になった結果として「音楽」の内容は均一化され「音楽を抗議活動に持ち込む」という奇妙な質問を私たちが受けることになったのだろう。
私たちに「音楽を抗議活動に持ち込む」ことについて尋ねることは奇妙であるのだが「音楽を抗議活動に持ち込む」が正しい表現となる場合も存在する。例えば韓国でのK-POPが鳴り響き、ペンライトが踊った抗議活動などである。そして日本でも、その韓国の抗議活動に影響を受けたペンライトデモなどが国会議事堂前などで行われはじめ、目覚ましい成長をとげている。そもそも産業としてのポップスは、戦略として幅広い大衆に受け入れられるようにデザインされており、抗議活動と組み合わされたときに、それはより幅広い人たちを参加させる力として機能する。
大衆のために作られたポップスが「抗議活動に持ち込まれる」のに対し、元々抵抗のコードがプログラムされている音楽は、地下から「白昼に持ち出される」。しかし皮肉にも、悲劇的なほど皮肉にも、一般社会のなかでレイヴやクラブ・カルチャーの「脱政治化」や「意味の破壊」がほぼ完成したことで、もしかしたらクラブ・ミュージックもポップスと似た機能を持ちはじめたのかもしれない……。

少し前に見たジェーン・シェーンブルン監督の映画『テレビの中に入りたい』が、なぜかしばらく頭から離れない。主人公のオーウェンとマディにとっての居場所は深夜番組『ピンク・オペーク』のなかだった。ふたりは郊外での憂鬱な生活から逃れるように、番組の主人公のイザベラとタラに自分たちを重ね合わせていた。しかし、その物語のヴィラン、ミスターメランコリにふたりは敗れてしまう。そしてそれから数年後にオーウェンは配信プラットフォーム上でその番組を見つけるのだが、かつての彼らの「居場所」は非常に安っぽく陳腐なものに変化してしまっていたのだった……。この映画は自分の真の姿をめぐるクィア映画としてトランスジェンダーの監督によって撮られているが、私には同時に「外側」をめぐる映画としても響いた。
私が小さいときに流行った都市伝説にこんなものがあった。「深夜、放送が終わった後の砂嵐を見続けていると “何か” が現れる」というものだ。中田秀夫監督の映画『リング』がヒットした時代であり、メディアを通してつながることができる「外側」に畏れや希望があった時代だった。その数年後に公開された黒沢清監督の『回路』では、テレビはインターネットに代わったが、そこでは畏れと希望が同時に描かれていた。
ピンチョンの『ヴァインランド』のなかでタナトイドたちが生きた屍のような状態でテレビ番組を見続けていた頃、トビー・フーパーの『ポルターガイスト』ではすでに放送終了後の砂嵐が別の世界へのゲートとして存在し、TOSYは砂嵐の映るテレビをスクライング媒体として使う魔術「Television Magick」を実践していた。クローネンバーグの『Videodrome』は「テレビは現実だ。現実以上に。」というセリフが登場する。テレビ番組がこの世界のリアルを形作るとき、砂嵐はその外側の可能性を示すのかもしれない。
しかし、いま砂嵐はYouTubeというプラットフォームの上で「睡眠用ホワイトノイズ」として再生回数を稼ぐようになり、その砂嵐のいた場所、深夜のテレビスクリーンはサプリメントや健康食品、エクササイズマシンの広告にとって代わられた。ギブスンが港=外側へのゲートに重ね合わせた場所にいま映し出されているのは、新自由主義の下で社会から切り離された孤独な身体。
テレビに「放送終了後」がなくなり、インターネットもプラットフォーム資本主義によって舗装されてしまったいま、砂嵐のような外側へのゲートはなくなりつつある。「なら作り出すしかないね。」というのが、私がサイバーパンクやCRASSから学んだDIY精神かもしれない。プラットフォームの外側で、たとえば世界一忙しい駅のすぐ外の広場で、私たちはノイズを作る。
