Home > Regulars > アナキズム・イン・ザ・UK > 第11回:RISE(出世・アンガー・蜂起)
一気に夏になったブライトンで、わたしの週末を支配しているのが、息子の友だちのバースデイ・パーティ・ラッシュである。
夏のあいだに誕生日を迎える子供たちの親が、学期中にパーティを終わらせようとするので、土曜の朝はこっちのパーティ、午後はあそこのパーティで日曜もまたパーティ。といった按配だ。英国人のパーティ文化は、幼少の頃のバースデイ・パーティではじまる。わたしの周囲でいまいちばんパーティ・アニマルなのは、ゲイの同僚とうちの6歳の息子だ。
しかし、このパーティにしろ、すべての子供たちが開くわけではない。息子の学校は、富裕区と貧民区とのふたつの教区合併の形で作られたカトリック校であり、公立校にしては子供たちの家庭の階級に幅がある。とはいえ、日曜毎に教会に通っているようなカトリック信者は、裕福な教区の方が絶対的に多いので、ポッシュ派がマジョリティだ。で、趣向を凝らしたパーティを開くのはこの層の方々になるわけだが、ついに不況の波が彼らにも及んでいるのか、クラス全員を招待した大きなパーティというのは今年は稀だ。
つまり、子供たちが、「君は招かれているのに、僕は招かれていない」という残酷なリアリティを直視しなければならなくなった。で、小学生のパーティ・シーンを見ていて気づくのは、招待者のセレクションには決まったパターンがあるということである。
ペアレンツたちの階級や肌色、趣味趣向(聴いていそうな音楽とか)により、招かれている子供たちのメンツが違う。社会的にリスペクタブルなミドルクラスの子供たちのパーティには白人の金持ちの子供が中心に招かれているし、ミドルクラスでもちょっとボヘミアンというか、芸術家とか作家とかそういう仕事をしておられる人びとや、鼻にピアスした弁護士なんかの子供のパーティでは、外国人や貧民の子供の割合が増える。ワーキング・クラスの親は大人数のパーティは開かないので、近所に住む同じ階級の子供たちしか招かれておらず、ここもさらにふたつのグループに分かれるのだが、聖ジョージの旗を1年中掲げているようなお宅ではやはり英国人の子供の集まりになるし、なんか若い頃に妙な音楽でも聴いて道を踏み外したのかな、というようなリベラルな貧民の家庭は外国人の子供も招く。この年齢では、まだ親が幅をきかせているので、子供というより親のセレクションになるのである。
子供たちが自分の人種や親の収入、交際すべき人びとといったソシオエコノミックな自分の家庭のポジショニングをリアルに理解しはじめるのは、こういったソーシャル・イヴェントを通してかもしれない。学校ではみな平等が理念だったとしても、いったん家庭に戻れば、巷は階級だの人種だのといった醜いイシューにまみれている。
例えば、うちの息子のクラスにTというヴェトナム人の少年がいる。大変に勤勉な彼の両親は、15年前にはロンドンの中華料理屋で働いていたそうだが、今ではお父さんはICTコンサルタント会社の経営者、お母さんは金融街シティの大手会計事務所勤務という、絵に描いたようなソーシャル・クライマーの家庭である。
うちのような保育士とダンプの運ちゃんの家庭は労働者階級スルー&スルーだし、ソーシャル・クライミングどころか、どちらかと言えば年々下降気味なのだが、わたしが東洋人のせいか、このヴェトナム人のご夫婦は富裕層のわりにはよく話しかけてくる。
とくに、学芸会か何かでお会いしたときに、うちの連合いが、「うちの子は半分イエローだから、いじめられるときが必ず来る。そのときに自分の身を防御できるよう、日本のマーシャル・アートを習わせている」と言ったときは、ご夫婦で真剣に聞き入っておられ、いまではTもうちの息子と同じ道場に通っている。
そんな風だから、やはりレイシズム問題には敏感でいらっしゃるのだろうが、このご夫婦が先週末、Tのバースデイ・パーティを開いた。久しぶりに、クラス全員が招待されたビッグな催しだ。普通は欠席する子が何人かいるのが当たり前なのだが、この日は全員勢ぞろいのようだった。息子を迎えに行くと、ちょうど記念撮影をしているところだったのだが、ふと、ひとりだけ不在の少年がいることに気づいた。
「なんでRは来てなかったの? 具合でも悪かったの?」
帰り道で聞くと、息子は黙っている。
「ロンドンの叔母さんとこにでも行ったのかな?」
息子は俯いたまま、ぼっそりと言った。
「Rは招待されなかったんだ」
「えっ。でも、クラスの子、全員いたじゃん」
「Rだけ、招待されなかった」
「そんな筈ないよー。招待されたけど、来れなかったんでしょ」
「......Rの引き出しにだけ招待状が入ってなかったんだ。僕、Rと仲いいから、Tに訊いたんだよ。『入れ忘れたんじゃない?』って。そしたら、Tは急にもじもじして、『お母さんが決めたことだから』って」
そういう発想はしたくない。
そういう思考回路を持つわたしこそが、レイシストなのかもしれない。
が、最初に思ったのは、Rはクラスで唯一のブラックだということだった。
で、学芸会だ、サマー・フェアだ、と学校での催し物がある度に、ヴェトナム人のTの両親が、アフロカリビアンであるRの両親をあからさまにシカトしているのではないかと思える場面があったということである。
「Rは、なぜか外国人の子のパーティには招待されないんだよね」
と息子は言った。
「Tもそうだし、ポーランド人のMも。メキシコ人のVもそうだった。外国人って、Rが嫌いなの?」
と言われたときには、返す言葉を失った。
昔、無職者が集まる慈善施設で働いていた頃は、さまざまな肌色をした底辺外国人の「対イングリッシュ」みたいな団結力が強固で、それはそれでホスタイル過ぎて鬱陶しくなることもあったが、ちょっと階級を昇ったりすると、外国人こそが最も積極的に外国人を排他する人びとになるというのは、あまりにリアルでサッドだ。
「そんなことないよ。母ちゃんは外国人だけど、Rと彼のファミリーが大好きだ。Rの父ちゃんはユース・ワーカーだし、母ちゃんはソーシャル・ワーカーだ。アフリカから来て、この国の子供たちをサポートしている彼らは、本当に素晴らしい仕事をしている」
とわたしは言ったが、Rの親友である息子は黙って下を向いていた。
Tのパーティがあった週末明けの月曜日、いつものように息子を学校まで送って行くと、学校の正面玄関にたむろしている親たちは、みな口々にTのパーティを誉めそやし、Tの母親にサンクスを言っていた。
それらの親たちと目を合わさないように、Rの父親は、ひっそりとRを玄関の脇に残して去って行く。クラス全員が招かれているのに、ひとりだけ招かれなかったという子供の気持ちも悲しいが、親の気持ちも辛い。と思った。
Rの父親と目が合ったので手を振ると、何とも居心地の悪そうな、こちらが胸苦しくなるような笑顔で親指を突き上げて見せる。
どうして人間というものは、こんなに残酷でアホくさいことができるのだろう。
階級を昇って行くことが、上層の人びとの悪癖を模倣することであれば、それは高みではなく、低みに向かって昇って行くことだ。
エリート・ホワイトの輪に入るために、自ら進んで有色人を排他する有色人。移民の多い国のレイシズムは、巨大な食物連鎖のようだ。フード・チェインではなく、ヘイト・チェイン。そのチェインに子供たちを組み入れるのは、大人たちだ。
ぴかぴかの黒い革靴を履いた白い子供たちに囲まれて、同じような靴を履いたヴェトナム人の少年が楽しそうに談笑しながら廊下を歩いて行く。
Asdaの安い靴を履いたRは、少年たちの群れからわざと遅れるようにして、とぼとぼとひとりで歩いていた。Rと同じAsda靴を履いたうちの息子が、Rに追いついて、ぽんと肩を叩く。その背後から、鼻ピアスの社会派弁護士の息子がふたりのあいだに割って入る。この子は生粋のイングリッシュでぴかぴかの革靴を履いているが、野蛮にもRに頭突きをかまし、「ワッツ・アップ・メーン」などと言ってげらげら笑っている。
晴れやかに教室の中に消えて行く大グループと、遅れて歩く小グループの少年たち。
イングランドの未来をつくるのは、この子たちだ。
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君たちの道程にサクセスあれ
君たちの道程にサクセスあれ
俺は間違っているかもしれない 俺は正しいかもしれない
俺はブラックかもしれない 俺はホワイトかもしれない
俺は正しいかもしれない 俺は間違っているかもしれない
俺はホワイトかもしれない 俺はブラックかもしれない
そういえば最近、フィンズベリー・パークでそう熱唱していたおっさんがいたな。と思う。
RISE。という言葉には、出世、昇進のほか、怒り、蜂起の意味もある。