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Columns

#16:ワールドカップ2026

#16:ワールドカップ2026

──時代は変わった(日本代表のことではない)

野田 努 Jun 25,2026 UP

 ワールドカップがはじまると、ふだん聴いていない音楽を聴きたくなるのは、やはり、フットボールというスポーツがつねに内包するラディカルな熱狂とそのロマンティシズム、芸の持つ魔力、そしてその祝祭の余韻におけるおそるべき強度ゆえだろう。リベラル層のなかには、フットボールをはじめとするスポーツ界は、反動的で、反革命的で、人種差別主義者や国家主義者が跋扈し、ことに近年は資本の腐敗にまみれ、スタジアム文化は商品化されまくり、往々にして権力者に利用されていると軽視している人たちがいる。それはまあ、ある部分ではまったくの事実だ。でも、ちょっと待ってくれ。これはほかのエンターテインメント産業(音楽やアートの世界)にだってじゅうぶんに遍在している傾向じゃないのか。

 開き直るわけではないけれど、フットボールがいまでも、試合結果、スタッツ、メディアの報道以上のものにもなりうることは、ワールドカップ期間中になると、ヨーロッパの人気クラブのユニフォームを着た子供たちが無心になってボールを追いかけている光景を見ているだけでも感じることができる。そうじゃなくても、つい、ユニフォームを着たくなる。そこには何かある。久しぶりに自分もボールを蹴りたくなる。ポジティヴな要素もたくさんあるのだ。
 フランツ・ファノンは、精神を病んだ患者のためにフットボール場を建設した。アントニオ・ネグリは自らウルトラス[*試合中にもっとも熱狂的に応援する集団]の一員となって、この集団的感情の高まりのなかに夢を見た。ケン・ローチ監督の傑作のひとつ『エリックを探して』では、マンチェスター・ユナイテッドの労働者階級のサポーターが、夢のなかでチームの英雄エリック・カントナと出会い、会話する。フランス人でありながらマンUの王様となったカントナという選手は、90年代なかばのある試合中、スタンドで差別用語を叫んでいた観客(のちにネオナチ党員と判明)に突撃したことがある。華麗なプレイで(ある意味もっとも地元愛が強い)ファンを熱狂させた彼だが、いまもパレスチナ支援を公言する、反ファシスズム/反人種差別者としても知られているのだ。
 まあ、長いフットボール史においては、この手のエピソード事欠かさない。でもこれって、たとえば、音楽史のなかにジョン・レノンやボブ・マーリーがいたことと同じ……かもしれないが、同じではない。なにせカントナの場合は、その極右に対して、試合中、あの見事な跳躍力を活かし、ほんとうにカンフーキックをくらわしてしまったのだから(そしてもちろん、警官に連れ出されていくのだった……)。
 スタジアムとは、すさまじい矛盾があちこちで大爆発する場だ。連帯と分断、熱狂と負傷、排外と抱擁が絶えず繰り返される。愛と憎しみと権威主義が激突する。支配的な文化があり、支配されない文化がある。スペイン代表はまだぜんぜん本調子ではない。それでも、彼らのフットボールは、イングランドやドイツのサッカーとは一線を画した、むしろこの時世においてはオルタナティヴとしての輝きを保持している。

 もちろん、前回王者アルゼンチン、名門復活を狙うブラジルは圧倒的な個の集団であり、チーム力として抜きんでている。とくに、汗をしっかりかく選手が出てきたアルゼンチンは──不安定感の象徴のようだった過去と違って──安定感があるように思える。マラドーナ、カニーヒャ、バティという超越的な個が活躍した黄金時代よりも、メッシを中心としたチームの結束力という点ではあきらかにいまのほうが上まわっている。
 それはそれとて、ぼくが今回着目していることのひとつは、ブラジル代表とイングランド代表から見える、フットボール界のパラダイム・シフトだ。フットボールの母国と、そして同じ競技でありながら、それをディアスポラの文脈に落とし込んでまったく別の美学/哲学を創出した南米のサッカー王国、それぞれの代表チームは、この20年で起きたフットボール界の容赦ない変化を、さらにより鮮明に顕現させているように思う。これは、音楽文化にもちょっとリンクしている話でもある。
 まずはブラジル。ヴィニシウスやラフィーニャといった反則級のタレントを擁する王国は、マンU所属のクーニャやカゼミーロ、アーセナルのガブリエウ、ニューカッスルのギマランイスほか、プレミア・リーグで活躍している選手が目に付く。しかし、こんなこと1990年代には、いや、21世紀初頭においても考えられなかったことだ。かつてセレソン(ブラジル代表)といえば、選手たちの所属チームは、セリアA(イタリア)かリーガ(スペイン)、もしくはサントスFCやフラメンゴをはじめとするブラジル国内チームだった。20年前でさえ、23人の登録選手のなかにプレミア所属の選手はゼロである。
 逆に言えば、英国のフットボールの試合において、複数のブラジル(ないしは南米/ラテン系)の選手たちが活躍するようなことは、21世紀の最初の時点までは想像できなかった。ロマーリオは英国においてはあくまでもエキゾティシズムだったし、かつてのイングランドのフットボールを手短に言えば、日本の体育で教えられるようなサッカーのプロ版で、身体能力と根性と献身性に基づいたチーム競技である。21世紀の10年ほど代表のキャプテンを務めたスティーヴン・ジェラード(元リヴァプール)を思い出せばいい。絶望的な状況からチームを救う勝負強さ、激しいタックルでピンチを未然に防ぎ、強靱なフィジカルと無尽蔵のスタミナで90分間ピッチを駆け回った名選手だ。
 ファーガソン(マンU)とヴェンゲル(アーセナル)が覇権を争っていた時代までまでは、「自分たちのフットボールを正々堂々とぶつけ合う」という、いまとなっては古き伝統がプレミアにはあった。が、それも2004年にチェルシーの監督に就任したポルトガル人、ジョゼ・モウリーニョの冷徹な勝利至上主義が一世を風靡し、その伝統を揺さぶったころから亀裂が見えはじめる(ジェラードらのイングランド魂は、このリアリズムと対峙することを余儀なくされた)。
 しかも、それからおよそ10年余後には、2016年にマンチェスター・シティの監督に就任したスペイン人、ペップ・グアルディオラが頭脳と個人技、もっと言えばポジションの再定義による斬新な戦術が英国に衝撃を与えた。そしてベップは、個人技と戦術眼に長けたラテン系の選手を積極的にチームに入ることで、彼のアジェンダを具現化していった。
 だが、マンCにおける静かな革命は、ベップ就任以前からはじまっている。2011年、イタリア人のロベルト・マンチーニ監督時代にアルゼンチンからセルヒオ・アグエロを獲得し、プレミア優勝を成し遂げているからだ。「イタリア人のボスのもと、アルゼンチン人が英雄になる」ことなど、サッチャー時代には、とてもじゃないけど、ありえなかった話である。こうした政治的敵対関係さえ越えたハイブリッド化、英国フットボール界のいわばマルチ・エスニック化の潮流のなかで、20世紀にはまったく縁のなかったブラジル人たちもプレミアで活躍するようになったのである。
 もっとも、これは決して美談ではない。プレミアは世界の富豪たちの投資の対象であり、その圧倒的な資金力をバックにしたことでスポーツ・ビジネスの怪物となった。その結果として、いまやグローバルな多国籍リーグと化したのだから。だいたい、今回の出場国の代表チームの選手で、いちばん多い所属リーグは圧倒的にプレミアなのだ。スタジアムはジェントリフィケートされチケット代は上昇、地元民はパブに集まるしかない。

 こうしたリーグの構造的な変化にともなって、いまのイングランド代表の半数以上がルーツを他国に持つ選手で構成されている。ナイジェリア系のサカ、コートジボワール系のグエイ、ガーナ系のメイヌー、コンサとか、ジャマイカ系のウォーカー、スターリング、ラッシュフォード、トニー……、実にマルチ・エスニックなチームになっていることにも注目したい。これもまた過去にはあり得なかった事態である(まあ、ベリンガムはケニアとアイルランドで、ケインやライスにしてもアイルランド系なのだが……)。
 つまり、ニュー・オーダーが応援歌を歌っていた時代(何年前の話だ!)の代表チームとは別物である。要するにカルチュアラルな意味では、今回のイングランド代表はこれまでのチームとはあきらかに異なっている。白人主体の伝統的な英国代表はもはやいないのだ。これこそが資本主義が実現させた多様性なのだろうが、それがどんなサッカーを見せてくれるのかは興味がある。いっぽうのブラジル代表は、この10年で、プレミア仕込みのスピーディーで強度の高いサッカーに対応できるチームになったように思う。

 ワールドカップがはじまってまだ1週間ちょい、すべての試合を観ているわけではないけれど、気になるチームはちょこちょこ観ている。モロッコは、前回に続いて今回もまた良いチームだ。それから、間違いなく、優勝候補のひとつは(ヨーロッパでは先駆けてマルチ・エスニック化した)フランス代表である。勝ち方を知っている名将ディディエ・デシャン、そして、まだ体力と身体バランスを高く保っているエムベパがいるし、ほかにもタレントが揃っている。しかも今回は、ロシア大会で活躍したあの偉大なフットボーラー、ンゴロ・カンテが(控えとはいえ)いるのだから、まあ、強いでしょう(ここ、個人的な好みが入っています)。
 ちなみにカンテのルーツはマリ、今大会でぼくがイチオシのスペイン代表の18歳、華麗なるヤマル君はモロッコ。そして、ニコはガーナ(ただし、ニコの兄はガーナ代表)。ペドリは移民系ではないけれど、彼の出身地、スペイン領カナリア諸島は、北アフリカのモロッコの目と鼻の先に位置している。しかもカナリア諸島は、ストリート・サッカーが盛んな土地柄、狭いスペースを美しくすり抜けるパスは路上で磨かれる。スペイン代表のフットボールには、今日の、フィジカルモンスターが勝敗を決する西ヨーロッパ発のそれとは異なる美学がまだある。ダンスを踊るようにボールを運ぶそのスタイルには、古風なラテン・サッカーの片鱗があり、身体能力と持久力と強度を重視する現代欧州型サッカーにはない魅力をはなっている。
 強国のなかで、代表が自国リーグ所属選手がベースになっているチームは、イングランド、ドイツ、そしてスペインくらいなものである(サウジとかカタールとか、バカみたいな経済力を持つチームそうもだが、資本力はないが予選敗退した伝統的なイタリアもそうだ)。逆に、代表チームに国内リーグ組が極めて少数の強豪国といえば、それこそいまではブラジルとアルゼンチン、フランス、そして日本や韓国……。
 スペイン代表には、リーガ中心とはいえ、イングランドやドイツのビッグクラブように、外国人のスター選手を集めるレアル・マドリードの選手はほとんどいない。バルセロナを筆頭に、レアル・ソシエダ、アスレティック・ビルバオ、ビジャレアルといった、育成(カンテラ)に定評のある地方の職人集団のようなクラブの生え抜き選手たちが中核を担っている。これだけグローバル資本主義経済が世界を翻弄し、むしろグローバリゼーションに多くが憧れているなかにあっても、いまもそれには与せずに昔ながらのフットボール文化のあり方を保持しているスペイン代表に思い入れたくなるのも無理はなかろう。ぼくが日本代表でとくに熱を入れて応援しているのは、リーガで活躍している久保建英選手であるのは言うまでもない。一刻も早くケガが治ってほしい。

 音楽に関しては、UK、アメリカ、ドイツ、北欧のものが好きだというのに、ワールドカップを観ていると、マルチ・エスニックなリスニング、とりわけラテンとアフロを強烈に欲してくる。そこで、昨年リリースされたココ・マリアが監修した編集盤『Club Coco:New Dimensions In Latin Music』を聴いてみたりした。彼女はメキシコ出身のDJで、また、ラテン系レコードのディガーとしても有名だ。ヨーロッパを拠点に活動しているのでポスト・ジャイルス・ピーターソン的な存在として評価されている。マリアがプレイするのは、レトロなラテンではない。現代のグローバルなインディ・ミュージックにおけるラテン、アフロ、カリビアン、ブラジリアンといったトロピカル音楽の最前線だ。すなわち『Club Coco』に収録されているのは、現在進行形の2020年代のラテン・サウンドである。FIFAが垂れ流しているコマーシャルなレゲトン、アフロ、トロピカル・ポップに対してのオルタナティヴと言えよう。しかし、それら楽曲すべてが古さを手放してもいないのだ。これはスペイン代表にも言えることである。
 紹介し忘れたけれど、昨年では、ヴァレンティーナとニディアによる『Estradas』のリミックス盤もマルチ・エスニックの面白さが堪能できる。ただしこちらは、品の良い選曲というのではく、いかにも21世紀的な雑食性コスモポリタニズムを象徴している。そして、その向こう側にあるスラム街には、ブラジルのファンク・カリオカや南アフリカのゴムやクワイとのような21世紀のグローバル・ストリート・ダンス・サウンドが広がっているというわけだ。

 バイレファンキ以降のブラジルのストリートは、アメリカのギャングスタ・ラップの影響を受けて、古きを省みず、どんどん変異する過激な形態に発展している。それはそれで、音楽面においては面白いのだが(道徳面においては、控え目に言って議論の余地があるとしても)、フットボールにおいてぼくが憧れたのは、かつてのブラジル代表だった。ある時期までのセレソンは、すべての選手がそうだったわけではないけれど、間違いなく超厳しい練習をしているはずなのに、その主力たちが、いざ試合になると楽しそうにプレイしていたのだ(日本では小野伸二がそのタイプだった)。あれはスポ根的なストイシズムとはまったく相容れないメンタリティであり、パフォーマンスだった。集団的規律よりも、個の想像力が優先されるのだ。
 今回のブラジル代表にもそれが受け継がれているのかどうかは、まだちゃんと観れてないし、いまのところわからない。勝つために、身体能力と規律、強度と速度、数学から生物学、あらゆる方策を導入するドイツ代表に歴史的惨敗をくらってから、外国人監督を招聘し、個人の独創性よりも、組織重視の欧州型モダン戦術に変更している。グローバル化し、経済力によって階層化されてしまった現在のフットボール界のなかで、ああいう非欧州的な土着性は、マラドーナのように図太く生き残って欲しいと思っているのだけれど……。
 日本代表に関しては、Jリーグ所属の選手がスタメンにいないので、どうも感情移入がうまくない(久保選手と鈴木唯人選手は別だ)。ただ、それでも応援してしまうのは、性というものだろうか。身体能力と強度では、欧州/南米相手に有利とはいえないであろう日本代表は、周知のようにその個人技と俊敏性、献身性と組織力をもって健闘している。
 オランダ代表はフットボール史上、ブラジルやアルゼンチン(あるいはイタリア)のように、もっとも語り継がれているチームのひとつで、1970年代には英国メディアから “時計じかけのオレンジ” と形容されたこともある。これが意味したのは、そのチームがクラシック音楽を爆音で聴いて暴行や略奪を繰り返す不良軍団に似ているということでない。当時としては実験的と言える、狂気的なまでの緻密さと、一糸乱れぬ完璧な組織的連動性とオランダのシンボルカラーであるオレンジとを掛けた言葉で、まさに『時計じかけのオレンジ』のごとく、フットボールの概念を根底から覆した彼らのスタイルに対する驚嘆と畏怖を込めた表現だった。そんな欧州サッカーの前衛だったチームに対して日本が一泡吹かしたことは、まあ、一介の音楽ライターが偉そうに言うことではないが、ほんとうにすごいことだ。あの試合は自分が日本人であることを抜いても、感動的だった。

 今回のワールドカップは、FIFAのトランプへの浅ましいすり寄りからして、いまひとつ乗り気になれなかった。しかし、いざはじまってみれば、そのスタジアムのなかでは、実にエキサイティングなナラティヴが生まれていることに逆らえない自分がいる。はっきり言って、バカ面白い。いろんな国のいろんな人たちの表情がこれだけ親密に感じられるのは、4年にいちどのこの特別なイベントだけだ。メッシやクロアチアのモドリッチのようなレジェンドのプレイを見れるのも、これが最後かもしれないし、いずれにしても4年にいちどの世界大会、目に焼き付けておかねばね!
 決勝戦のハーフタイムに、アメフトでお馴染みのハーフタイムショーがあるらしいが、ほんとうにアメリカはフットボールがわかっていない。そんなところに出演するマドンナは最低だ。どこまで世界をアメリカ化したら気が済むのだろう。2026年のワールドカップはカナダ・アメリカ・メキシコの三カ国共催でありながら、全104試合のうちカナダとメキシコはそれぞれ13試合ずつ。残りの約80試合のすべてがアメリカというのも気にくわない。開幕戦はメキシコの聖地(いや、フットボール界の聖地)アステカ・スタジアムだった点は良かったけれどね。

 ぼくがほんとうに憧れるのは、究極のローカル・ポリシーを持っているリーガのビルバオのようなクラブで、メキシコのグアダラハラとか、UKインディ・ロック・ファンには馴染みのある名前、ペリーのネグロ・イ・ブランコ(つまり、黒と白)とか、ああいう文化だ。ブンデスではシャルケとか、旧東ドイツのコットブスのようなクラブも面白いと思う。資本主義に飲み込まれたイングランドのフットボール界において、どのクラブにも根強いサポーター文化がいまも生きていることと思うが、地元の街のアイデンティティを背負ってがんばっているチームのひとつといえばニューカッスルだろうか。さもなければ、ウォルトン&ハーシャムFCだよ。さあ、シャム69を聴くぞ!

(この原稿は、日本とチェニジア戦の前日、6月20日の夜に書かれている)


【追記】
この場を借りて、篠田ミル氏のご冥福をお祈りいたします。これからの活躍をほんとうに楽しみにしていたひとりとして残念でならない。あまりに悲しい週のはじまりだったので、この原稿の掲載も遅らせてもらった。

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