Home > Columns > #14:マーク・スチュワートの遺作、フランクフルト学派、ウィリアム・ブレイクの「虎」
マーク・スチュワートが永眠したのは2023年4月のことだった。そしてここに、彼の最後の言葉が綴られた遺作がリリースされた。
昨年、思うところあってフランクフルト学派について、ほんの少し……ほんのひとかけらでありますが、でも勉強したことがあった。こと文化批評に関心がある人なら、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン、マックス・ホルクハイマー、ユルゲン・ハーバーマスといった、いかにも気難しそうなドイツ人の名前にどこかで出会っているだろう。20世紀初頭、正確には1923年にフランクフルト大学との提携関係で生まれたマルクス主義(およびフロイトの精神分析学)の研究機関を通して論じられた資本主義批判および先駆的な文化批評は、こんにちでも、とりわけ悲観的な社会論評でしばしば引用されている。より身近なところで言えば、いまから8年前に我らがジェイソン・ウィリアムソン(スリーフォード・モッズ)がこの学派の本を読んで、歌詞のなかに活かしたことはコアファンの間では知られている(*)。また、マーク・フィッシャーの「アシッド・キャピタリズム」ではマルクーゼが再訪されているが、それは心が病むような労働からの解放を期して書かれた、フィッシャー最後の論考のほとんど下地になっている。
フランクフルト学派はドイツ革命後に始動した、言うなれば(具体的な党派性には依拠しない)「文化系マルクス主義」、その先駆けだ。のちに実践派マルクス主義(肝心ななことは変革というマルクスの言に従った実力行使派)からの批判を大々的に浴びながら、彼らの研究は止むことなく数年後にはドイツを支配するファシズムへと向けられる。当然のことながらユダヤ系ドイツ人たちにとって、自分たちの生存のため、アメリカへの亡命は避けられなかった[*ベンヤミンのみ欧州で自害]。
マルクス主義のドイツ人たちが1940年代のアメリカで歓迎されたのは、批判の矛先が両者ともにナチスにあったからだが、興味深いことにフランクフルト学派は、ファシズムを否定した精神をもって、自分たちを歓迎したアメリカへも批判の眼差しを向けるのだった。のちにマルコムXが「私たちはだまされていたんだ」と憤慨したり、ザ・レジデンツが「サード・ライヒン・ロール」と皮肉ったり、パブリック・エナミーが「ハリウッドなんて燃えちまえ」とラップしたように、もちろんムーディーマンがアメリカを「地上最大の盗人」と呼ぶよりもずっと前に、この理論家たちはアメリカに対して、ドイツから逃げてきたけどなんだかここにもファシズムの匂いがするぞと、おおよそ同じようなことを(マルクスという言葉を隠しながらも)遠慮なく言っているのだ。
これら怒れるドイツ人たちは、戦争が終わってドイツに帰国しても資本主義への批判を緩めず、そしてまた、自らも大いに批判されもした。とくに学派の中心人物で、もっとも辛辣な皮肉屋として知られるアドルノは、実践こそを重視する新左翼にとっては批判の的だった。この頑固じいさんがジャズにケチを付けている話は有名だが、プロテスト・ミュージックも格好の批判対象で(*2)、当然ビートルズに対してもいい顔などしなかった。書を捨て町に出ようだと? そんなものは考えることを諦めた人間の自己憐憫だ、アドルノならそう言っただろう。嫌われて当然というか、それでもぼくは、アドルノが「理論を爆弾に変えること」を「安易」だと批判し、急進派のあまりの一途さを警戒した点については理解できる。ハーバーマスにいたっては、60年代後半に「左翼ファシズム」(*3)という言葉を発しているが、気難しいドイツのオヤジ連中は革命的衝動が全体主義へと、わりと容易に変貌してしまうことを知っていたのである。
ただし、それがすべてではない。ここ10年で、スリーフォード・モッズやフィッシャーが蘇らせたマルクーゼは60年代末、若い実践派たちを擁護したどころか、新左翼の思想的支柱となり、自らも運動に参加した。おそらくベンヤミンも生きていたら同じことをしただろう、というのが識者たちの大方の見解だ。
いずれにせよ、みんな同じなわけではなかった。活動家たちからは「所詮あんたらは、アカデミアという安全圏から不毛な批判理論を見せびらかせているだけ」と糾弾されても、ひたすら理論の研磨を続けたアドルノと、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの拠点たるカリフォルニア大学に在籍し、その熱狂のさなかにいたマルクーゼは激しい論争をしている[*ちなみにその頃のマルクーゼのもっとも高名な教え子のひとりに、アンジェラ・デイヴィスがいる]。とにかく賛否両論、つねに矛盾をはらんでいたと言えるフランクフルト学派が、ではなぜいま関心を集めているのかと言えば、文化系マルクス主義者としての彼らが、誰よりも先んじて、文化産業や消費社会への容赦ない批判を繰り広げていたからにほかならない。アドルノたちが提示した資本主義がもたらす精神的荒廃は、現代ではスリーフォード・モッズがストリート言葉に翻訳しているのだ。
少々乱暴に言う。労働者階級が自分の好きなブランドの服や車を買えるようになった時代においては、革命の主体となるはずだったプロレタリアートはすでに満足しているのだから、もはや世界を変える必要はない。そうなのか、いや、違う、マルクーゼが提起したのはこういうことだった──資本主義社会のなかで、車や洗濯機、しわになりにくいスラックスに囲まれて暮らしている者こそ、もっとも貧しい存在であり、そればかりか、もはや正気を失いかけてすらいると、そういう話だ。「貧困」とは生々しい経済のそれを指していると同時に、抑え込まれた可能性への意識も意味し、疎外され、非人間化された意識も含意している、と。なぜなら我々は、広告の正体をわかっていながらも買うことを止められない。我々は服を買っているのではなく、服が我々に買わせているのだ。消費社会が仕向ける支配構造。ぼくが「消費者ファシズム」という言葉を初めて聴いたのは高校生のときだった。ザ・ポップ・グループの7インチ・シングル「We are all Prostitutes」の歌詞で繰り返されていたのだ。

ザ・ポップ・グループがUKポスト・パンクを代表するバンドであることは周知の通りである。彼らのサウンドが形式化されたパンクから著しく離れていたことは──要するにパンクにはできなかったことをやったという本来の意味でのポスト・パンクであったことは、きわめて重要だったとここで強調しておきたい。ザ・ポップ・グループには、形式化されたパンクが絶対にやらなかったリズムがあった──ファンクだ。
また、ザ・ポップ・グループはマーク・フィッシャーが「ポピュラー・モダニズム」と呼んで賞揚したもの──20世紀初頭の芸術運動としてのモダニズムの要素(文学からシュルレアリスムまでの、その実験性、革新性、形式の刷新など)を大衆文化のなかに持ち込むこと──これはもう、パンク/ポスト・パンクに限らず、ザ・フーしかりデイヴィッド・ボウイしかりロキシーしかりイーノしかり、ほか多数しかり──、その象徴的なひとつでもあった。
マーク・スチュワートは大きな人だった。じっさい背も高かったが、寛容力もあったと思う。いくつかの取材のなかで、ぼくはあまり面白くない質問、そのときの流行の音楽についての感想を訊いた。たとえば──フレンチ・エレクトロのような、ファッショナブルな流行はどう思うか? スチュワートは全面的に肯定してみせる。素晴らしい、俺は大好きだ。新しい世代の台頭にも肯定的だった。LCDサウンドシステムのような連中はどう思うか? 素晴らしい、俺は彼らのファンだ。一途な左翼思想を曲に込めたブリストル人の心は広かった。それは、経験のなかで拡張されたのかもしれない。ザ・ポップ・グループ時代には、共産主義者連盟や反アバルトヘイト運動、CNDなど、ガチな政治団体——すなわち実践派マルクス主義——との接触が多々あったわけだから、それはもういろいろ経験しているだろう。
この夏にドロップされるマーク・スチュワートの遺作『The Fateful Symmetry』を聴いていると、彼のそんな大きさを思い出す。ここにも「ポピュラー・モダニズム」が生きている。カフェOTO[*実験/即興などハイブローな音楽のライヴで知られるロンドンのヴェニュー]系とトム・モウルトン[*70年代ディスコのDJ。リミックスの発明者]を分け隔てるべきではない主張するスチュワートにしたら、アルバムで援用されているクンビアやダブは、言うなれば敷居の低い大衆的な実験音楽だ。
だが、そんなことよりもひっかかるのは、アルバムの題名である。これは、おそらくはウィリアム・ブレイクの有名な詩(The Tyger)の最後の一文からの引用だろう。だとしたら、スチュワートは本作が遺作になることをわかって作ったと言える。10代の彼は、ロートレアモンやフランス象徴主義の詩作品を好む文学青年だった。ブレイクも若き日に心酔した詩人のひとりで、彼のマフィア時代の12インチ・シングル「エルサレム(Jerusalem)」も極貧を生きた19世紀英国の詩人の言葉から取ったのではないだろうか。
遺作にロマン主義文学といえばマリアンヌ・フェイスフルもそうだった。彼女の場合はキーツやバイロンの詩の朗読で、そしてスチュワートがブレイクときた。反資本主義から反植民地主義と、“政治的な”作品で知られるマーク・スチュワートの遺作はなんとも詩的で、いかにもロマン主義的なアプローチによって「魂の栄光」に向けられている。ピアノ演奏をバックに歌う“ This is the Rain”のような詩情あふれる曲が、これまでのスチュワートにあっただろうか。“Everybody’s Got to Learn Sometime”(エイドリアン・シャーウッドがミックス)は彼のダブへの愛情がたっぷり注がれたカヴァー曲だが、アルチュール・ランボー風の激しく幻想的な詩がこだまする“Stable Song”や“Twilight’s Child”、そしてより深く沈潜した“Crypto Religion”を聴いていると、スチュワートは自分の最期をわかっていて詩を書いたに違いない、そう思えてくる。
ぼくは『The Fateful Symmetry』を聴きながら、いまあらためて彼の不在を悼んでいる。2011年に渋谷で観た、再結成したザ・ポップ・グループのライヴにぼくはそれほど興奮したわけではなかったけれど、パブで1パイントのビールを呑んでいたオヤジたちがそのままステージに上がってパンク・ファンクを演奏しているみたいで、自分が大好きな世界ではあった。彼らには──アンチエインジグなどクソ食らえとでも言わんばかりの──正直な格好良さがあったのだが、でも待てよ、ライヴを観ながらぼくは思った。考えてみれば、ザ・ポップ・グループの『Y』は連中が18歳のときの作品じゃないか。ああ、なんということだ! あの「We are all Prostitutes」 も、あの『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(我々はいったいいつまで大量殺人を黙認し続けるというのか?)』も、19歳の若者たちが作ったなんて、とても信じられない。サウンド面においても政治性においても、だ。
“She is Beyond Good and Evil” がニーチェの『善悪の彼岸』[*このドイツ語の書物の英訳が “Beyond Good and Evil” ]で、“Thief of Fire” がギリシャ神話のプロメテウスの火を主題にしていることをぼくが知ったのは、それらを聴いてから15年以上もあとのことだ。「We are all Prostitutes」 も『For How Much Longer〜』もリアルタイムでは批判もあった(*4)。歌詞が左翼の説教じみているという話だったが、しかしこれらのメッセージは、悲しむべきことにいまでも十二分に有効なのである。後者のアルバムには、当時の彼の一途さがうかがえる、“There are no Spectators(傍観者などない、中立などありえない)”という重要曲のひとつがある。
2023年4月のクワイエタスに載ったマーク・スチュワートの追悼記事には、彼がインポスター症候群に苦しんでいたと書いてある。最初はなんのことか理解できなかった。あんなに豪快に笑う彼が、自分のやっていることに自信を持てずに悩んでいたと、そういうことなのだろうか。泣き叫ぶようなあの声は、どうしても自分を肯定できない彼の内的な叫びだったのだろうか。思い当たる節もある。初来日時の、アダムスキーとのライヴ・パフォーマンスは、すごかったと言えばとんでもなくすごかったが、観客に指を突き刺すようなナルシスティックな振る舞いとは対極にあった。どこか自分の身の置き場のない、どこか居心地の悪そうな、不安定な大きな塊に見えたこともたしかだ。『The Fateful Symmetry』の“Blank Town”で反復される「虚無」とは、自分自身に向けている言葉なのかもしれない。
しかしスチュワートは、自分の苦しみを最後まで外に見せなかった。周知のように、彼は前向きで闊達な人だったと思われていたし、音楽もまた身体性に根ざしていた。たとえば、アルバム冒頭の“Memory of You”[*ユースとの共同プロデュース、ホリー・クックがバッキング・ヴォーカル]はスチュワートのダンス・ミュージック愛の賜物だろう。高校生の頃からファンクがかかる地元のクラブに通って、80年代にはワイルド・バンチがニューヨークから輸入したヒップホップに刺激を受けた。踊れる音楽であることは、たとえどんなに政治的に過激であっても、実験とポップが一体となる彼の作品に不可欠な要素だった。ダンスは、「コミュニティ」や「仲間」という概念と違って人を内側と外側に選別しない。だから、1990年の“Hysteria”には遠く及ばないとしても、続く“Neon Girl”[*ユースとの共同プロデュース、元レインコーツのジーナ・バーチをフィーチャー]もそうだが、彼はクラブ・ミュージック的なものとの接点を失いたくなかったのだ、とぼくは想像する。
とはいえ、『The Fateful Symmetry』には踊れない曲が多い。何度も聴いていると、むしろ最初の2曲のほうが全体では浮いているようにも感じる。ソロ・アルバム『The Politics of Envy』(2012)以降も、それからザ・ポップ・グループの再出発のアルバム『Citizen Zombie』(2015)以降も、70年代末〜1990年までの作品にあったような圧倒的な何かを感じることはぼくにはなかったけれど、彼はノスタルジア産業に吸い取られないよう未来に向けてのメッセージを言い続け、音響工作にも変わらぬ情熱を注いでいたことは、多くの共演を介して生まれた晩年の作品からもわかる。周囲からの注目がなくなっても手を緩めなかったが、マーク・フィッシャーの追悼会で弔辞を読んだ彼は、あるとき力尽きたということなのだろうか。
いや、そうではない。ウィリアム・ブレイクの詩から引用したこのアルバム・タイトル(すさまじき対称性というような意味)を日本人が解すのは、19世紀英国のロマン主義文学を専攻していたとしても難しいと思われるが(*5)、アルバムをなんども聴いていると見えてくることがある。ザ・ポップ・グループのフロントマンとしてデビューして以来、ずっと「虎」であり続けてきたスチュワートとは 、たしかに対称的な側面がここでは晒されているのだ。こんな思いを抱きながら俺は闘ってきたんだよと、アルバムの向こうからは、そんな声が聞こえる。クローザーとなる“A Long Road”という曲は、リスナーへのお別れの挨拶のようだとぼくには思える。「長い道が続いている。君は俺の命を連れてどこにでも行けるだろう。俺は、自分のベストを尽くしてみるよ、大丈夫だ」
これが彼の最後の言葉である。当方、ぜんぜん大丈夫ではないが、ベストを尽くすしかない。2023年4月、ぼくたちは偉大なアーティストを失った。だが、失ってはならない魂はここに、いや、すべての作品に残されている。

(*2)アドルノの辛辣さは、いまも生きている。その例をひとつ言うなら、ビヨンセの『レモネード』を「よくできた資本主義の商品だこと」と両断したベル・フックスだ。
(*3)パンクもまた急進的左派からファシスト呼ばわりされている。コーネリアス・カーデュー[*英国にジョン・ケージを紹介し、イーノに影響を与えたひとり]が1977年に刊行した機関誌『コグズ・アンド・ホイールズ』の創刊号で「パンク・ロックはファシストである」という記事を掲載したことはその筋ではよく知られた話だ。いわく「若者の怒りの資本化で、それはガス抜きにしかならず、ザ・クラッシュは反動的」……。ロック・アゲインスト・レイシズムが立ち上がってから、カーデューたちはその言葉を撤回したが、しかし英国の急進派たちの一途さもパンクに対する疑いを失うことはなかった。ザ・ポップ・グループが「ナショナル・フロント」を歌詞のなかで名指しで批判しているにも関わらず、である。
ちなみに、ファシズムに陥りやすい人間のことをアドルノは次のように表現している。「伝統的価値基準の衰退に異様に取り憑かれ、変化への適応力を欠き、自分たちの『内集団』に属さない他者への憎悪に囚われ、退廃から伝統を『守る』ためと称して暴力的行動に出る」ような人物。
(*4)「We are all Prostitutes」を「左翼の説教」だと真っ先に批判したのは『Y』を絶賛したイアン・ペンマンである。マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズに影響を与えたポスト・パンク時代の『NME』の人気ライター。『For How Much Longer〜』は、当時の第三世界における欧米の植民地主義をかなり具体的に批判した内容なので、これまた賛否両論だった
(*5)鏡像関係を意味していていると思われるが、ブレイクの「虎」の訳に関しては、岩波文庫の『ブレイク詩集』でもそうとうご苦労されている。「汝の恐ろしい均斉」では、難しい漢字を使っているだけで意味がようわからんです。ちなみに「虎」とは、ヴァルター・ベンヤミンが革命家のメタファーとしても使っている。