Home > Regulars > 完成度の低い人生あるいは映画を観るヒマ > 第三回 アロンソ・ルイスパラシオス監督『ラ・コシーナ/厨房』
『ラ・コシーナ/厨房』
6月13日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開
© COPYRIGHT ZONA CERO CINE 2023
監督・脚本:アロンソ・ルイスパラシオス
原作:アーノルド・ウェスカー「調理場」
出演:ラウル・ブリオネス、ルーニー・マーラ
2024年|139分|モノクロ|スタンダード(一部ビスタ)|アメリカ・メキシコ|英語、スペイン語|5.1ch|G|原題:La Cocina |字幕翻訳:橋本裕充
配給:SUNDAE
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戦争は長引く。初めてそう思ったのは中学1年の時で、物心つく前から始まっていたベトナム戦争は小学校を卒業しても終わらず、泥沼化を嘲笑した筒井康隆の小説『ベトナム観光公社』を読んだせいで永久に終わらない気がしてきた。戦争について子どもたちが日常的に会話をするなどということはなく、現実感はゼロだったものが日本とアメリカの二重国籍を持っていた僕はふとしたことからアメリカは徴兵制だと知り、急に恐怖感を覚えることになった。その頃の日本は現在のように二重国籍を認める国ではなく、成人までにどちらかの国籍を選択しなければならず、だとしたら徴兵制は避けたいので、父親に相談してアメリカ国籍を離脱することにした。アメリカ大使館に行くと、だだっ広い部屋で誓いの儀式が始まり、大使夫人の言うことを繰り返せばいいといわれて「I Swear」とかなんとか言っているうちに儀式は終了。ベトナム戦争は一気に海の向こうの話となった。その時の気持ちを正確に回顧すると、戦争に行くことが嫌だったのではなく、僕が恐怖に感じたのは軍隊生活で、キューブリックが14年後に『フルメタル・ジャケット』で描いたことが頭のなかでは炸裂していた。『フルメタル・ジャケット』はけして大袈裟な作品ではなく、幼稚園からの友だちが自衛隊に入った時、驚いた僕は横須賀基地に面会に行き、朝から晩まで基地で過ごしている間に『フルメタル・ジャケット』と似たようなシーンをたくさん目撃している。数年後、座間基地に配属された友だちが休暇で外に出てくると「訓練中に間違えたフリをして後ろから上官の頭を撃ち抜いてやろうと思ったぜ」とかなんとか笑いながら話し、誰かしらの銃弾が上官の耳をかすめたことは何度もあると言っていた。ベトナム戦争は僕が15歳の時に終わったので、国籍離脱はちょっと早すぎたかなとも思ったものの、学校生活でさえうまく送れなかった僕に軍隊生活はやはり恐怖以外の何物でもなかった。
国籍というのは自分の本質を決めるものではない。どう考えても国籍などというものはたまたまどこで生まれたとか、親が誰だったかというだけで、自分自身がどんな人間かは自分でつくりあげていくものである。しかし、国籍というのはそうした人々の努力をスポイルし、時に人をどこまでも振り回す。難民とか亡命ならまだしも国籍をひとつにしただけの僕でさえ「土地に対して国籍を与えるアメリカ」と「血筋に対して国籍を与える日本」がうまく折り合ってくれない場面ではどこから手続きを始めればいいのかわからないことも多く、すべてを投げ出したくなることもある(日本以外の国には納税していないことを証明しろと言われて専門家にアドバイスを求めたところ、日本と国交があるすべての国に「納税をしていないという証明書」を発行してもらわなければ証明不可能と教えられ、一国あたり6万円の手数料として1500万円もかかるとか)。たかが僕でさえこんなに面倒なのだから、アメリカで生きることを選択した人たちはもっと大変な思いをしていることだろう(ましてや現在はトランプ政権だし)。たとえばオモチャ目線で世界を切り取った『トイ・ストーリー2』というアニメ映画を観ると2つのルーツを持つ人たちが「土地」と「血統」のどちらに忠誠を誓うかというテーマを常に突きつけられているということがよくわかる。自分が育った環境と祖先が暮らした土地のどちらかを選ぶなどということは サラダ・ボウル社会となったアメリカ社会では通常は起きないことだけれど、『トイ・ストーリー2』はオモチャの製造元と売られた先でアイデンティティを二重化させ、ウッディの帰属意識がどちらに傾くかを主題として定めている。日本だと共同体への「依存」はあっても「忠誠」という契約概念はなかなか発動しないので、ウッディの心情がどこまで切実なものとして受け取られたかは疑問だけれど、「役に立たない移民=オモチャは廃棄される」という導入部はアメリカの労働者を支配する意識や感情が誰を主人として選ぶかという選択の上に決定されているかがよく表れていた。
イニャリトゥ、デル・トロ、キュアロンと非凡な映画監督を立て続けに輩出したメキシコの映画運動、ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノが新たに生んだアロンソ・ルイスパラシオスの『ラ・コシーナ/厨房』はそうした移民たちがタイムズ・スクエアのレストラン、ザ・グリルで働く1日を切り取った作品。物語はメキシコからニューヨークにやってきたエステラ(アンナ・ディアス)がタイムズ・スクエアをさまようシーンから始まる。彼女はザ・グリルがどこにあるか探している。「ペドロの紹介だ」といえば未成年でもザ・グリルで働けると信じて彼女はメキシコから出てきたのである。冒頭から不安の描写はとても生々しい。見知らぬ土地で言葉がわからないということは目の前の景色も歪ませてしまう。エステラが面接をパスし、働く場所へ案内されると物語の主軸は彼女が頼るつもりだったペドロ(ラウル・ブリオネス)へと移っていく。ペドロは実に不安定で、頼れるどころか、むしろ不安を増幅させる存在にしか思えない。ペドロは調理の準備もせず、厨房を出てホールの掃除をしているジュリア(ルーニー・マーラ)に絡み始める。ジュリアはホワイト・トラッシュで、彼女以外はおそらく全員が不法移民かそれに近い存在なのだろう。ジュリアはペドロを遠ざけようとするも、ペドロはなかなか厨房に戻らない。一方、エステラが面接を受けていた頃、ザ・グリルのオーナー、ラシッドは売上金がなくなっていると報告を受け、従業員全員を1人ずつ呼び出せとマネージャーのルイスに告げる。ルイスはペドロを疑いつつ、従業員全員にオーナー室へ行くよう説得する。ただでさえ忙しい1日が開店前からいっぱいいっぱいになっていく。
原作はジャマイカから移民を受け入れ始めた50年代のイギリスを舞台とした戯曲で、これを現代のアメリカに移し替え、メキシコ映画の巨匠ルイス・ブニュエルを模倣したリアリズムとモノクロ画面で演出していく。同じようにブニュエルをオマージュしたイ・チャンドン『オアシス』(02年)もそうだったけれど、ほんの一瞬だけリアリズムから足を踏み外す場面があり、その一瞬の〝飛び〟がやはりとんでもない。2年前に公開された『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』はドラッグ・カルチャーがわからない人には1秒も楽しめないのではないかと思うほどメキシカン・トリップの洪水だったけれど、『エブ・エブ』のように量で押し切るのではなく、『ラ・コシーナ/厨房』はほんの一瞬で別次元への扉を開く。冒頭でソール・ベローの言葉が長々と掲げられ、「世界は働くだけの場所になってしまった」という趣旨のことが述べられている。そのような世界認識に対して、その〝一瞬〟は世界が取るべき態度というものを見せてくれる。(以下、ネタバレ)主人は言う。「お前たちには仕事と金と食事も与えている」と。それで何が不満なんだというのが資本主義の言い分で、これに対して移民や途上国といった「仕事と金と食事を与えられる」側は「ほかに主人は選べないのか」と悩むことぐらいしかできない。ザ・グリルの厨房が象徴しているのはアメリカの資本でアメリカ以外に国籍を持つ人たちが働いているという構図であり、それ以外に世界はなくなってしまったという世界の見取り図でもある。彼らの先にあるのは大したゴールではない。そんなことは労働者たちにもわかっている。ペドロがやっているむちゃくちゃはそのような資本主義を止めようとする無謀なあがきでしかなく、資本主義の外側に出るにはどうしたらいいのかと言う無意識の戦いである。休憩時間に従業員たちが夢を語り合ってもペドロだけは言葉が出ない。このことをもう一度、シュールに再現したのが、あの〝一瞬〟だったのだろう。『エブ・エブ』はイメージが膨大すぎて何も思い出せないけれど(だからまた観ようとも思うけれど)、あの〝一瞬〟は一点突破の強烈なイメージを脳裏に植えつけ、そこから先がないことを何度でも思い出させる。
*この映画には副作用があります。しばらく外食を躊躇するかもしれません。外食が多い人は観ない方がいいでしょう。いや、むしろ観た方がいいのかな。