Home > Regulars > 完成度の低い人生あるいは映画を観るヒマ > 第二回 ボブ・ディランは苦悩しない
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』
監督:ジェームズ・マンゴールド『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』『フォード vs フェラーリ』
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、ダン・フォグラー、ノーバート・レオ・バッツ、スクート・マクネイリー
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
北米公開:2024年12月25日
原題:A COMPLETE UNKNOWN
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小学生の頃、親に連れられて、ガロの解散コンサートを観に行った。 “一枚の楽譜” という曲が好きでそれを楽しみにしていたのだけれど、当日はそれよりも “学生街の喫茶店” という曲が一番受けていた。客席の雰囲気というものを初めて経験し、大人たちにとってはガロといえば “学生街の喫茶店” なんだと理解できたものの、シャープでスピーディーな “一枚の楽譜” と違って “学生街の喫茶店” は童謡みたいで小学生の僕にはあまりぴんとこなかった。ところが「片隅で聴いていた ボブ・ディラン」という歌詞が頭に残り、「ボブ・ディランというのは誰なんだろう」という疑問がその後もついて回るようになった。ボブだから人の名前だよなと思い、文脈からして音楽家だろうとは思ったけれど、クラシックなのかポップスなのか、それ以上は見当もつかなかった。ボブ・ディランの曲を初めて耳にしたのは高校に入ってからで、ラジオから不意に流れてきた “Hurricane” のダミ声が心に残り、少し考えてから( “Hurricane” を収録した)『Desire』を買ってみた。モザンビークの独立だとか神話上の人物と結婚するとか、自分にとっては目新しい題材の歌詞が多く興味深くはあったけれど、音楽的にはあまり惹かれず、それ以上の興味は持てなかった。スペシャルズが “Maggie's Farm” を、XTCが “All Along the Watchtower” をカヴァーしていたり、デヴィッド・アレンが “Death of Rock” でロックの歴史を振り返りながらボブ・ディランだけ3回も名前を連呼するほど特別扱いしていなければ本当にそれ以上の興味は持たなかったかもしれない(RCサクセションの “いい事ばかりはありゃしない” が “Oh, Sister” を参考にしているとは、その頃はまるで気がつかなかった)。パンクやニューウェイヴがデザインのセンスを一新してしまったことも大きく、『Desire』に続いてリリースされた『Street Legal』のデザインがダサ過ぎて、それもまた興味が膨らまなかった一因だった。
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』はボブ・ディランのデビューからニューポート・フォーク・フェスティバルで大ブーイングを浴びるまでを扱った作品。監督は『フォードvsフェラーリ』や『LOGAN/ローガン』のジェームズ・マンゴールド。『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でがジョニー・キャッシュとジューン・カーターの激しいラヴ・ストーリーを主軸に置いたのと同様、ここでもマンゴールドはボブ・ディランとスージー・ロトロによるラヴ・ストーリーに大きな比重を置いている(中絶というエピソードを避けたかったのか、スージー・ロトロはシルヴィ・ルッソという名前に変えられている)。ボブ・ディランを演じたティモシー・シャラメはまるでボブ・ディランそのもの……と絶賛したいところだけれど、どのシーンをとってもボブ・ディランの気持ちが伝わって来ないため、中盤をすぎても挫折のないサクセス・ストーリーにはなかなか引き込まれず、シャラメの顔がマーク・アーモンドに似ていることもあって、個人的には「ポール・アトレイデに続いてボブ・ディランを演じているティモシー・シャラメ」という認知バイアスから最後まで脱却できなかった。ボブ・ディランの熱心なファンであればおそらく……ボブ・ディランそっくりに見えたのだろう。シャラメの歌は完成度が高くて説得力もあり、トム・ヒドルトンのハンク・ウィリアムズは超えたかも。
ウィノナ・ライダーの人気が凋落するきっかけとなった『17歳のカルテ』や、前述した諸作でもマンゴールド作品のオープニングはたいてい主人公が自動車に乗っているシーンから始まる。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』もディランがバスに乗ってニューヨークに向かうところから始まる(『3時10分、決断のとき』や『ナイト&デイ』などもちろんそうではない作品もある)。『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」はバスがすでに刑務所の前に止められていてジョニー・キャッシュの演奏は始まっているものの、誰かが自動車でどこかへ向かうと物語が動き出すという構造は共通していて、バスを降りたボブ・ディランが「目的地を通り過ぎているよ」と言われるのはその後の彼の人生をうまく言い表した言葉にもなっている。ニュージャージーまで引き返したところでディランは病室のウッディ・ガスリーと見舞いに来ていたピート・シーガーと出会い、デビューへの足がかりが開けていく。ピート・シーガーを演じたエドワード・ノートンは柔和な老け顔が実に板についていて、キャリア初期に多重人格や密売人や奇術師などエキセントリックな悪役ばかりやっていたことがウソのよう。
一方、エル・ファニング演じるシルヴィ・ルッソは活動家ではなく画家という設定に変えられ、存在感がやや薄められている。セカンド・アルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』のジャケットでディランと身を寄せ合っているスージー・ロトロはディランにランボーやブレヒトのことを教えるなどディランの作詞に大きな影響を与えたとされているにもかかわらず、その辺りはほとんど触れられていない。ルッソはなんとも飾り気がなく、60年代から70年代にかけて珍しくなかった女性のライフ・スタイルを上手く再現していて(いま同じ格好をするとノーメイク、ノーブラの「干物女」と呼ばれてしまう)、ディランとの同棲生活も甘ったるいムードが欠如しているところはなんともそれらしい。ルッソはフォーク復興運動の拠点となっていた教会で初めてボブ・ディランと出会う。運命的な出会いに意味を持たせるシーンにもかかわらず、このシークエンスだけが黒人たちを音楽文化の主体として描いたシーンでもあり、ギリギリのところでホワイト・ウォッシュになることが回避されている。リトル・リチャードについてボブ・ディランが言及したり、ラジオでブルース・マンと即興でセッションするなどディランの音楽には黒人文化の影響があったという描写もなかったわけではないけれど、それ以上にニューポート・フォーク・フェスティバルの会場は白人たちで埋め尽くされ、グルーピーもマネージャーもプロデューサーもすべて白人で、音楽業界は白人だらけ、悪くいえば教会でテープに録った黒人たちの伝統音楽を白人が奪って白人の文化につくり直しているプロセスが「フォーク復興運動」に見えてしまう作品なのである。それこそポール・グリフィンがいなければディランのバック・バンドも白人だらけで目も当てられなかったかもしれない(これも途中から入ってきたアル・クーパーにいいところは持って行かれてしまう)。そういえばピート・シーガーの妻が日本人だったことは僕は知らなかった。そういう意味ではアジア系のプレゼンスは示されていた。
どのシーンをとってもボブ・ディランの気持ちがまったくわからないのとは対照的にルッソの戸惑いや悲しみはダイレクトに伝わってくる。ルッソと名前を変えている時点で彼女の存在はフィクションであり、ボブ・ディランが苦悩したり、喜怒哀楽を一度も示すことがないのは故意に演出されたことで、他人から影響を受ける場面は意図的に消し去られているのだろう。ルッソにディランが依存している場面がぜんぜんない上に、どの場面でもディランが天才的に振る舞い、なにひとつ失敗がないので、ルッソの問いに答えてディランが自分を神様だと思っていると話す場面では思わず「カニエ・ウエストか!」とつっこんでしまった(監督のカットがかかってからエル・ファニングとティモシー・シャラメが爆笑したと思いたい)。スージ・ロトロとボブ・ディランの関係はちなみにフィリップ・K・ディックとクレオ・アポストロリデエス(『アルべマス」のレイチェルなど)が「共産主義の影響下で行動する女性とそれを受けて思索する男性」という組み合わせだったことを思い出させる(公民権運動にコミットしたディランに対してディックは執筆活動を中止してベトナム反戦にのめり込む)。
ボブ・ディランの描き方はどこかで見た覚えがあると思ったら日本のTVドラマによく出てくる男性たちの振る舞いだと思った。多くを語らず、独りよがりで、自分を周囲に合わせる気がまるでない。ディランだからそれが許されるというレイアウトに従って、ルッソ同様、中盤以降はジョーン・バエズ(モニカ・バルバロ)もピート・シーガーも気持ちいいほどディランに振り回され、周囲が傷心を余儀なくされる場面の連続となっていく。ディランにとって恩人であるはずのピート・シーガーがここまで雑巾のように扱われるとは思わなかったけれど、エドワード・ノートンの表情があまりに情けなく、それはブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンにノートン演じる「僕」が翻弄される『ファイト・クラブ』の役柄と重なってしまうほどであった。そう、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を観て『ファイト・クラブ』を思い出すとは思わなかったけれど、『ファイト・クラブ』というのは70年代に爆破活動を繰り返したテロ組織、ウェザーマンが90年代の「僕」に強迫観念として取りつく作品で、「ウェザーマン(天気予報士)」という組織名はボブ・ディランの “Subterranean Homesick Blues” から「どっちに風が吹くか、それを知るのに天気予報士は必要ない(You don't need a weather man to know which way the wind blows)に由来すると思えば、それもまた妙な符号に思えてくる。
ディランにとっては人よりも作品が優先なのである。表現がすべてに優先される。(以下、ネタバレというか解釈)ディランが何を考えているのかわからない。ディランの気持ちがまったく理解できないからこそ、ニューポート・フォーク・フェスティバルでディランが楽器をエレクトリックに持ち替えたことがどれだけのショックだったかということがこの作品を通じて追体験できる。少なくとも僕はそうだった。ディランの考えや気持ちが手に取るようにわかっていたら、きっとそうはいかなかっただろう。あるいはその後の歴史を知っているということがその場で起きることをストレートには直観させてくれなかったのではないだろうか。そういう意味ではディランについてなにがしかのことがわかっている人の方がこの映画は楽しめなかったはずで、自分がフェスの会場にいたらどう感じたのか、ボブ・ディランがポップ・ミュージックの歴史を書き換えたという認識は存在していなかった空間でディランの側に立つことはそれだけでもう失敗であり、ディランの行動を不可解なものとして感じさせるように冒頭から仕掛けてきた意味がなくなってしまったことだろう。僕はディランが楽器をエレクトリックに持ち替えたシーンが最初はとても暴力的に感じられ、「なんで!」と不快な気分になりかけた。監督が意図したほど「客や主催者を怒らせることで爽快な気分になる」ことはなく、しかし、曲が進むに連れて「わからないけど面白い!」という感情が湧き上がってきた。出演者でディランの暴挙を止めるどころか、背中を押したのがジョニー・キャッシュ(ボイド・ホルブルック)で、彼がディランをどう思っていたのか、そこはもっと描かれていてもよかったと思う。キャッシュを無法者として描く場面はあっても、彼がフォーク・フェスティバルでエレクトリックをよしとする根拠は説明不足だし、後にはデペッシュ・モードまでカヴァーする彼のモダンさがディランに影響したのか、しなかったのか、エレクトリックへの持ち替えをクライマックスとするなら、そこはもう少し描くべきではなかったかと(ちなみにジョニー・キャッシュがカヴァーした “Personal Jesus” はニナ・ハーゲンもカントリー・ソウル風にカヴァー)。
『名もなき者』の原題は「A COMPLETE UNKNOWN」で、これを「まったくの無名」という意味で『名もなき者』という邦題にしたのだろう。しかし、作品を通して観ると「無名時代」と呼べるのは冒頭の数分だけで、ディランはすぐにもスターダムを駆け上がり、物語の大半は無名どころかディラン本人さえ知名度に振り回され、辟易とするシーンの方が長い。なので、「A COMPLETE UNKNOWN」は知名度を表すのではなく、まったく意味がわからないもの、それこそ「UNKNOWN」を教科書通りに「未知」と訳した方がいいのではないだろうか。「まるで意味不明」あるいは「お手上げ」とか、ディランを理解不能なものとして表現しているタイトルだと考えた方がしっくりくるのではないだろうか。境界性人格障害を扱った『17歳のカルテ』でリサ・ロウ(アンジェリーナ・ジョリー)がどうして暴力的に振舞うのか、あるいはアメ車がイタ車に戦いを挑む『フォードvsフェラーリ』でキャロル・シェルビー(マット・デイモン)やケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)がなぜそうまでスピードを出すことにこだわるのかさっぱりわからなかったように、意味不明な行動をする人間にマンゴールドは魅力を感じ、その磁場に観客も引きずり込んでいく。それこそ「THE」ではなく「A」なので、ディラン個人のことでさえないのかもしれないし、こういった人たちはわけがわからないからこそ語る価値があるというような。無茶な人たちがこの世界を前に進めていく。多様性を突き詰めたサーカスを始める『グレイテスト・ショーマン』しかり、考えようによっては『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』は、あからさまに「MAKE AMERICA GREAT」な『フォードvsフェラーリ』の流れを受けてトランプ時代を情緒的に肯定する作品だともいえる(両作は同じ60年代前半が舞台)。*3月5日付記--ショーン・ベイカー監督『レッド・ロケット』はトランプ時代の再来を批評的に予見した作品で、トランプが焦点化しない低所得層に光を当て続けたベイカーの新作『アノーラ』が『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を抑えてアカデミー作品賞をとったのはなかなかに示唆的。
僕がこれまでに観た数少ない音楽映画のなかで最も感心したのはグレン・グールドのドキュメンタリー映画『天才ピアニストの愛と孤独』だった。この作品だけがグールドは何者かという結論を出していない作品で、エピソードを並べれば並べるほどグールドという人が何者なのかわからなくなり、時に赤塚不二夫に見えたり、それもまた一面でしかなく、つくり手がもはや「わかりません!」と降参しているつくり方なのである。でも、そうなんだろうと思う。グレン・グールドとかボブ・ディランが何者であるかなんてそう簡単にわかるわけがなく、いくらでもわかった風な結論を与えて音楽映画というものはつくられがちである。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』という作品はそういうつくり方はしていない。この作品は60年代前半のディランを語り尽くされたドラマとして再現しなかったことが快挙であり、ディランが頭を抱えて苦悩するシーンが1秒もないことを楽しむべきなのである。(2024年2月22日記)