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Kassel Jaeger

Experimental

Kassel Jaeger

Sub Re

Shelter Press

デンシノオト Aug 04,2026 UP

 カッセル・イェーガーことフランソワ・J・ボネは、その著書『言葉と音』において、音を単なる情報伝達や知覚の対象ではなく、独自の秩序を持つ現象として捉え直している。今回、カッセル・イェーガー名義で発表された新作『Sub Re』は、そうした音響思想を理論として説明するのではなく、ひとつの聴取体験として提示した作品であった。

 フランスのGRM(Groupe de Recherches Musicales)のディレクターとして、ピエール・シェフェールやリュック・フェラーリなどのミュジーク・コンクレートの歴史的遺産を受け継いできたボネだが、しかし彼の関心は、過去の方法論を反復することだけはない。「音とは何か」という根源的な問いを、現在の音響環境のなかで更新し続けることにあるのだ。本作『Sub Re』でも音は、旋律やリズムを組み立てるための素材ではない。それは物質であり、空間を形成する力であり、聴くという行為そのものを変容させる存在として扱われている。

 アルバム・タイトルの「Sub Re」は、ヴィクトル・ユゴー『海に働く人々』の一節に由来し、「水面下」を意味するという。この言葉は、本作の姿勢を象徴しているように思える。私たちが普段「音楽」として聴いているのは、すでに形を与えられた音の表層だ。ボネはそこからさらに深く潜り、意味や形式が成立する以前の「音の空間」へと接近する。そこには、まだ名前を持たない音がある。耳はその正体を探すのではなく、ただ音そのものと向き合うことになる。

 約42分の作品は、ふたつの長大なパートによって構成されている。とはいえ、その時間感覚は一般的なアンビエントやドローンとは異なる。音は静止しているように聴こえながら、その内部では絶えず変化している。遠くで鳴る金属音、微細な擦過音、空気の振動、電子的な共鳴、自然音とも人工音とも判別できない断片。それらは互いに輪郭を溶かしながら、ひとつの音響環境を形成していく。
 ここで展開されているのは、いわゆる「楽曲」のドラマではない。音響空間そのものが生まれ、変化し、消えていく。その生成過程を、私たちは聴いているのである。現代の実験音楽では、革新的な音響デザインや明快なコンセプトが作品の評価軸になることも多い。しかし『Sub Re』は、そのどちらにも単純には還元できない。ここで音は表現の手段ではなく、自ら空間を生成し、時間を編み直し、聴き手の認識を変化させる主体として存在しているからだ。

 本作では、過去に異なる場所や文脈で発表された音響素材も再構成されている。2022年のヴェネツィア・ビエンナーレや2023年のサウンド・ビエンナーレなどで用いられた素材は、元の文脈から切り離され、新たな関係性のなかで組み直されていく。時間と場所を横断するこの編集行為は、『Sub Re』を形づくる重要な構造原理のひとつだ。
 さらに特徴的なのは、ボネが音素材の出自をあえて曖昧にしていることだ。フィールド・レコーディング、電子音、人工的に生成された音、偶然採取された響き。それらは明確に分類されることなく、作品の内部で混ざり合っている。聴き手は「これは何の音なのか」という問いを抱えながら、次第にその正体を追うことをやめる。そして、音がどこから来たのかではなく、いま、どこに存在しているのかへと意識を向ける。

 この出自不明の曖昧さこそ、『Sub Re』の核心だろう。近年の実験音楽には、微細な音響処理や没入的な空間設計を追求する作品が少なくない。だが本作は、単純に美しい音響空間を提示することを目的としていない。音の密度は絶えず変化し、充満していた響きが突然後退したかと思えば、わずかな残響だけが空間全体を占拠する。そこにはアンビエント的な安らぎも、ノイズの攻撃性もない。むしろ、物質そのものが姿を変え続けるような運動がある。音は流れているのではない。そこに堆積し、崩れ、また別の形へと移り変わっていく。

 その意味で『Sub Re』は、近年のカッセル・イェーガー作品のなかでも、とりわけ完成度の高い一枚だと思う。複数の音響層やノイズが複雑に交錯しながら、作品全体を包む印象はあくまで静謐に保たれている。その高度なトーン・コントロールは、長年にわたってアコースマティック音楽と電子音響の領域で培ってきた技術と美学の結晶だろう。「複雑さ」と「繊細さ」を同時に成立させる音響設計は、ボネが積み重ねてきた探究の成果を明確に示している。

 そして本作でもうひとつ際立つのが、空間処理の精密さである。左右の定位や奥行きを単純に演出するのではなく、音そのものが距離感を獲得していく。近くにあった響きがいつの間にか遠景へ退き、逆に、ほとんど聴き取れなかった微細な音が突然、身体のすぐそばに現れる。その変化は、単なるステレオ効果ではない。音の位置が変わることで、聴き手自身の空間認識まで揺さぶられていくのだ。耳を澄ませているうちに、部屋の壁が少しずつ消えていく。音楽を聴いているはずなのに、いつしか自分が音の内部にいることに気づかされる。
 『Sub Re』には、聴き手を瞬時に驚かせる派手な展開も、劇的なエフェクトもない。しかし長く耳を傾けていると、「音楽を聴く」という行為そのものが少しずつ変化していく。音を理解するのではなく、音によって知覚の仕組みそのものが組み替えられていくこと。それこそが、本作の提示する音響空間なのではないか。

 カッセル・イェーガーが現代の電子音楽/アコースマティック音楽において重要な作家であり続ける理由は、この「音そのもの」への徹底した探究にある。『Sub Re』は音楽作品であると同時に、知覚を再調整するための音響装置でもある。
 ボネの音響哲学が、ここではひとつの巨大な空間として立ち上がっている。その空間に足を踏み入れると、音はもはや耳で聴くものではなくなる。身体の周囲で発生し、距離を変え、形を変え、やがて聴き手自身の輪郭さえ曖昧にしていく。これは相当な傑作ではないか。そう思わせるだけの強度が、本作にはある。
 リリース元である〈Shelter Press〉が展開してきた作品群との関係も興味深い。同レーベルの作家たちが追求してきた「記憶と音響」という問題系を共有しながらも、ボネの関心は個人的な記憶や具体的な情景の再現には向かわない。彼が見つめているのは、音が意味を持ち、風景として認識されるよりも前の状態だ。つまり、彼が探究しているのは「風景を描写すること」ではなく、「風景そのものが生成される瞬間」の音響なのである。

 『Sub Re』は、その思考と嗜好が最も鮮明なかたちで結晶した作品だろう。水面下へ潜るように聴き進めていくと、そこには何かを説明する音楽ではなく、世界がまだ名前を持たなかった頃のような、静かで巨大な音の場が広がっている。

デンシノオト