Home > Reviews > Album Reviews > Félicia Atkinson- The Flower And The Vessel
ASMR(Autonomous Sensory Meridian Response)とは、さまざまな心地よい音をヘッドフォンやイヤフォンで聴くことで「脳が溶けるような」感覚を得ることを指す。たとえばタッピング音、囁くようなヴォイス、雨の音、川の音、水の音、紙を丸める音、炭酸水の音、エアコンの発する音、工場の音などなどASMRで摂取される音の種類はさまざまだ(なかには咀嚼音や髪を洗う音まである)。ユーチューブにはそれらの音・動画が無数にアップされていて、自分の好みの音(動画)をみつけることで、たとえば就寝時などに摂取・聴取することで快楽を経て安眠を得たりするらしい。さらにはスマートフォンのアプリにもASMRを摂取/聴取できるアプリがある。ASMRが人気のいま、「どんな音楽を聴いているのですか?」という質問に、「ビリー・アイリッシュです」ではなく、「チョコレートを食べるときの咀嚼音です」とかいう返答も帰ってきても不思議ではない。つまり一音へのフェティシズムを喚起することで快楽を得る聴取行為なのだ。エクスペリメンタル・ミュージック・ファン/リスナーであれば、例えばフィールド・レコーディングやアンビエント、ノイズなどの聴取を思い浮かべるかもしれない。音それ自体への快楽である。
しかしエクスペリメンタル・ミュージックが「意志と方法論と技法の結晶」=「音楽作品」として流通していることに対して、ASMRはそのような「音楽」ではない。ASMRの聴き手はただ脳が溶けるような音の快楽を求めている。おそらくスマートフォンの普及により(ということはネットのイヤフォン聴取の普及)、ノイズやエクスペリメンタル・ミュージック・リスナーではない層が、「音の快楽的摂取」に接する機会が増えた結果と思うのだが、同時に現代のリスナーのサウンド嗜好や音響の聴取に対する重要なヒントがあるような気がする。(私見だが)ビリー・アイリッシュ(ばかり例に挙げてしまって恐縮だが)の囁くようなヴォーカルとミニマル・トラックにもイヤフォンで聴くことから生まれる音の気持ちよさは、つまりASMRからの影響もあるのではないか、とか。
トーマス・アンカーシュミット、イーライ・ケスラー、KTL、JAB、ブラック・ゾーン・ミス・チャントなどのエクスペリメンタル・ミュージック・アルバムをコンスタントにリリースし、まさに現在絶好調ともいえるフランスの電子音楽/エクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈Shelter Press〉だが、同レーベルの中心的アーティストであり、かつレーベル・オーナーでもある電子音楽家フェリシア・アトキンソンの音楽作品は電子音響の現在形だが、ときに「ASMR的」とも評される(じじつレーベルもそう紹介している)。その音は囁き声や細やかなノイズ音が交錯するものだが、ASMRと関連付けられていることは興味深い。
そんなフェリシア・アトキンソンの『Hand In Hand』以来、2年ぶりのソロ・アルバム『The Flower And The Vessel』がリリースされた(2018年〈Shelter Press〉はジェフリー・キャントゥ=レデスマとのコラボレーション・アルバム『Limpid As The Solitudes』をリリース)。本作はレーベルにとって重要作であるだけではなく、音響音楽の現在形を考える上で極めて重要なアルバムだ。理由はノイズとミュージックの交錯と融解と聴取の快楽性の問題である。
実はフェリシア・アトキンソンの経歴は長い。2008年にシルヴァン・ショヴォーとの共作『Roman Anglais』、2009年に〈Spekk〉からソロ・アルバム『La La La』をリリースして以来、ジェフリー・キャントゥ=レデスマとのコラボレーション作品を含めてコンスタントに9枚のアルバムをリリースしてきた。本作『The Flower And The Vessel』は記念すべき(?)10作目のアルバムである。じっさい本盤『The Flower And The Vessel』には、フェリシア・アトキンソンの音楽技法の粋を集めた傑作に仕上がっていた。声、電子音、ピアノなどが端正に、かつ逸脱的に重なりあい、それぞれが別の時空間から呼応しているようなサウンドを生成・構成しているのだ。
前作『Hand In Hand』よりも、2015年の『A Readymade Ceremony』的な音に思えるが、その音響はさらに繊細になりつつ、ミュジーク・コンクレートを継承するような大胆なコンポジションも同時に展開する。エレガントなムードのなか不穏さすらも感じさせるサウンドは見事の一言。しかも今回はピアノが大きく取り入れられており、電子音とノイズとピアノの静謐なレイヤーはとにかく美しい。またゲストに『Life Metal』をリリースしたばかりである Sunn O))) のスティーヴン・オマリーが19分におよぶ“Des Pierres ”に参加。まるで KTL にフェリシア・アトキンソンが参加したような硬質かつ静謐な音響作品になっていた。本作の重要曲だ。
ほかにもピアノの断片的な旋律と高音の電子音が絡み合う“Moderato Cantabile”、アンビエンスなギターとヴォイスが白昼夢のようにレイヤーされる“Shirley To Shirley”、砂時計のごとき電子音の粒子と声が流れ落ちる“Un Ovale Vert”、繊細なエレクトロニクスと不協和音を奏でるピアノに、童謡のような不安定な声が重なる現代音楽的な“Linguistics Of Atoms”、ライヒ的なミニマルなマリンバ音と細やかに蠢く“Lush”、複数の声と言葉がエディット/レイヤーされるサウンド・アート的な“L'Enfant Et Le Poulpe”など、アトキンソンは独自の音響美学と方法論によって、美麗かつ逸脱的なサウンドを繊細に組み上げらる。中でも“Un Ovale Vert”は、声と電子音とミニマルなフレーズが揺らめく光のカーテンのようにレイヤーされ、本作を代表する曲に思えた。
本作『The Flower And The Vessel』で展開されるサウンドの緻密さ、繊細さ、運動性、多層性、そして気持ち良さは、2000年代以降のコンピューター内でノイズやサウンドを生成する電子音響作品の系譜を継ぐものだ。電子音響などのコンピューター生成音響音楽は00年代以降のもっとも革新的な音楽のひとつだが、それらがいわゆるエレクトロニカとして大衆化した現在、ゼロ年代初頭の革新性を継承するアーティストは稀になった。
アトキンソンの音楽はピエール・シェフェール~リュック・フェラーリの音を継承するフランスのミュジーク・コンクレートの現在形だが、00年代以降のコンピューター生成の電子音響、10年代的な音の快楽的(ASMR的)聴取という二つのモードもレイヤーされているのだ。彼女の音響音楽の重要性はそこにある。音楽が音響のなかに融解する感覚が横溢している。
この00年代から10年代は、インターネットによって情報量が増大化きた結果、音楽とノイズとの境界線が少しずつ溶けていっていった時代であった。ASMRの人気もそれに付随するものだろう。フェリシア・アトキンソンの新作『The Flower And The Vessel』は、そんな現代のリスニング・モードに呼応するアルバムに思えてならない。
デンシノオト