Home > Reviews > Album Reviews > Phew, Danielle De Picciotto- Paper Masks
数日前にポストしたコーヘイ・マツナガのセンセーショナルへの追悼文、現代における真の「オルタナティヴ」な姿が書かれていたんじゃないだろうか。違うかな? 小林君、音楽においては、最高の「優しさ」とは、「これや(言)ってるからいい」でも「これや(言)ったほうがいいよ」でも、ましてや「これや(言)っちゃいけない」でもない。「これやっていいんだ!」って思わせてくれることじゃないのかい?……なーんてことを喋っていたらあっという間に夏休みが終わった。残ったのは足の激痛で、朝から病院とは情けない……今年の初頭に〈ミュート〉からリリースされたPhewとダニエル・ド・ピチオット(Danielle de Picciotto)との共作を聴いて気を休めよう。ふぅ、まいったまいった。
いや、ある意味これはまったく気が休まらない音楽だ。Phewの作品はいつだってアンチ・ロマンで、この音楽を誰かがアンチ・アンビエントと呼んでいたけど、うなずける。すなわち、これもメインストリームに回収されることはない、真の「オルタナティヴ」作品だ。共作者のダニエル・ド・ピチオットは、ベルリンを拠点とするアーティストで、なんと、1989年にベルリンのラヴパレード(言っておくけど、これがレイヴではないですよ)をドクター・モテとともに共同設立したひとりでもある。アレクサンダー・ハッケ(exアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン/exクライム&ザ・シティ・ソリューション)とのユニットでも活動しているが、ハッケは、Phewの『Our Likeness』(1992)にも参加している。まあ、そういう意味では縁があったわけだ。このプロジェクトは5年前にはじまっていて、大ざっぱに言えば、ダニエル・ド・ピチオットの詩の朗読にPhewが音をつくり、紡いだものが本作『Paper Masks』になった。
「言葉にされないもの、聞こえない音を想像する力を喚起することこそがアートの役割だと信じている」と、本作リリースの際にPhewは言っている。ここでは、いかなるお約束ごとも意図的に排除され、不連続で不確実な世界が続いている。ピチオットの声(ドイツ語と英語)は変調され、声の隙間には、微細音と控えめだが突き刺すようなグリッチが走る。1曲目の“The Cat”は、ほんとうに猫(電子仕掛けの猫)がトコトコ歩いているみたいに感じられるが、この不可解な音響作品にはおそらく目的地などないのだろう。当てもなく、声と音は、ゆっくりと静かに、どこかに行ったり、行かなかったりしている。
これは、お約束ごとの陶酔を拒絶する、完璧なアンチ・ロマン/アンチ・アンビエントで、ああ、そういえば、「芸術の要諦とは、個人の嗜好の連続性に迎合することではなく、むしろそれを打破することにある」といったのは誰だっけな。これに似ているアルバムはほかにあったような気がして、昔、〈ラスターノートン〉から出たコージー・ファニ・トッティのソロ作品が声ネタの点では似ているが、中身はまったく違う。ロバート・アシュリーの『Automatic Writing』とも親類関係にある。部分的にはかなり似ている。カンの“Aumgn”にも少し似ているかもしれない。でも、あれよりもずっと静かだ。猫のように。シャーッ。
権力者の「これやっていいんだ!」は、ここまでは踏み込んでも罰せられない、他者への加害や搾取の容認、すなわち恐怖だよね。アーティストのそれは、抑圧された領域の解放、すなわち生き方の自由さ、ということなんでしょう。Phewさんもダニエルさんも、そしてセンセーショナルもコーヘイもそういう人たち。この、なんだかよくわからないけど面白いと思える音楽を聴いて、自分でも創作してみたいと思う人が絶対にいると思う。
アートワークも良いね。最初、遠くから見たときクラゲ、もしくは巨大なカニかなんかに見えてしまった。実際は、体育館かどこかの子供たちだと思うけれど、クラゲやカニのような音楽だとも言えるかも。意味わからないのにずっと見てしまっている。『New Decade』〜『Vertigo KO』とも地続きのエレクトロニック・ミュージック・アルバムでもありながら、それらアルバムにはない魅力がある。人の話し言葉があることが大きい。これをアンチ・アンビエントと呼ぼうが、部屋で流しっぱなしでも問題ない。集中力を強制することはなく、アンビエント的にも聴ける。『Paper Masks』はありそうでない作品で、ぼくにとって安らぎがないことの安らぎなのです。
野田努