Home > Reviews > Album Reviews > This Is Lorelei- The Singer in My Band
ここ数年のフォーク/カントリーの隆盛は、ひょっとしたら自身の足元の感触を確かめたいというような欲求があるからなのかもしれない。インターネットによって我々の精神は世界中のどこにでも存在できるようになり、感覚や感性は際限なく広がり、他者と繋がり、思いも寄らない場所までたどり着くようになった。そうした一方でいままでは考えなくて良かった出来事や問題にならなかった問題が自分ごととして次々に現れるようにもなった(これは認識が拡大した結果だ)。日常的に多くの意見を目にし自他の境界線も曖昧になっていき、果たしてこれは本当に自分の考えなのか? と疑問を持つことも増えた。そんな世界だからこそ自らが立っている場所を確かめたくなるのだろう。拡張していくことを知った2026年の我々はオフラインの小さな感覚を求めているのだ。一昨年リリースされた『Box for Buddy, Box for Star』よりもフォークに寄ったディス・イズ・ローレライの今作『The Singer in My Band』はそんな考えを頭に浮かばせる。
ディス・イズ・ローレライはウォーター・フロム・ユア・アイズのネイト・エイモスのソロ・プロジェクトだ。だかウォーター・フロム・ユア・アイズで成功を収めた彼が別のことをはじめてみようと作ったものではない。編集されていない日記のようなものとエイモス自身が言うこのプロジェクトの起こりはいまから13年前の2013年にも遡る。当時シカゴに住んでいた彼が冬の間にヴァーモント州にある実家に滞在する際にひとりで制作をするというスタイルの小さな個人の活動としてこのプロジェクトははじまった。できた先から曲をBandcampにアップロードして、そうしてまたひとり自分の部屋で曲を作る家庭内手工業的な音楽。ディス・イズ・ローレライ名義で意図的に作られた初めてのアルバムだった前作にしても彼自身の小さな世界の音楽というのがテーマになっていたのだろう。それはテクスチャーを駆使し、サイバー空間と繋がりイメージを拡張するかのようだったウォーター・フロム・ユア・アイズの近作とはまったく異なったやり方で、装飾がとられた「生」の音楽としての側面を持つものだった。それはアメリカの伝統的なブルーグラス・ミュージシャンである父ボブ・エイモスの影響が強く出たものだ。子どもの頃から慣れ親しんだ音楽、それはサウンドそのものよりも原則として作用しているのだと息子ネイトは言う。「ブルーグラスの魅力はそのシンプルさにある。そこには非常に明確な非常に明確なルールと枠組みがあって、曲はメロディ、歌詞、コード進行という点で、それだけで成立していなければならないんだ」
彼の言葉の通りこのアルバムはサウンド・エフェクトやオートチューンなど派手な飛び道具を控え、素材そのものの味を噛みしめるような音楽になっている。アレックス・Gやビッグ・シーフ、10年代以降のインディ・フォークのマナーにエリオット・スミスのエッセンスを混ぜたような静かに胸を震わせるグッド・ミュージック。カントリー・ウェスタン調の “Watching Heaven Fall” や “The Singer in My Band” では軽やかに弾むメロディを重ね心地の良い風を吹き込み、アコースティック・ギターのインスト曲の “Nitro” から “Hey Sarah Is It Gonna Rain Forever”(この曲は特にエリオット・スミスを思わせる)に流れる様は熟練の腕を感じさせる。どこも力むことなくあるがまま、それは車窓に映る景色が流れ、変わって行く様を眺めているようで、音が想起させるその風景はジンワリとした感慨を連れてくる。それは際限なく次々と切り替わるザッピングの刺激とは違う快感なのだ。アルバムの先行トラックだった “Oh No Now My” はこのなかでいちばんウォーター・フロム・ユア・アイズを感じさせるバンガーと言ってもいい曲だが、それにしたって刺激よりも丁寧にコーラスを重ね編み上げるスタイルで印象がまったく違う。ウォーター・フロム・ユア・アイズのエイモスは様々な要素を組み合わせひとつの絵を描くエディットの名手だとそんなイメージだったが、ここでの彼はノートとボールペンを手に街の風景を描く旅の画家のようだ。カウボーイブーツを履いたビリー、海図を広げ船旅に出たいと願う人物、シカゴ育ちはテキサスに馴染めないと言う女、少し芝居がかった言い回しの歌詞とアレンジがよりロードムーヴィー感を強調する。シンプルなだけではないモダンなテイスト、それらが絡まったこのアルバムの音楽は小気味良く古き良きアメリカの空気を頭の中に描いていくのだ。
伝統的な音楽を現代的に解釈するというのは、ソーリーのキャンベル・バウムが立ち上げ、シャベル・ダンス・コレクティヴらが参加するロンドンのブロードサイド・ハックスの活動とも通じるものがあるかもしれない。それと同時に自らを作り上げた関係性を再確認するというのも共通している。彼らが仲間と共にブロードサイド・ハックスという小さなコミュニティを作り上げたように、エイモスは家族とパートナーという自らの出発点となるような輪を音楽の中に落とし込んでいる。父がバンジョーを弾き、妹とパートナーが声を重ねる。ヴァーモントの両親の家でアルバムの最終的な仕上げがおこなわれ、ネイト・エイモス自らがそれを手がける。このことからも彼がこのアルバムのなかで小さな感覚というものを大切にしているというこがわかるだろう。
そして同時に彼がウォーター・フロム・ユア・アイズのように拡張する音楽をやっているというのがまたとても大事なことのように自分には思える。広大なネットの海と目の前の小さな繋がり、そのどちらもあるというのが重要なのだ。どちらが優れているのかと比べることに意味はない、そのどちらもあるのが素晴らしいのだと、ディス・イズ・ローレライのこのアルバムは教えてくれる。この伝統の中にある黄金を解釈する音楽に私は少し未来を感じる。新しさはけして過去を消し去りはしないのだ。
Casanova.S