Home > Interviews > interview with Wendell Harrison - 音楽の楽園=デトロイトから、ウェンデル・ハリソンがファラオ・サンダースとサン・ラーの思い出を語る
ルイ・アームストロングは言った。「音楽家に引退はない。自分のなかに音楽がなくなったときに立ち止まるだけだ」
ウェンデル・ハリソン、84歳。彼のなかから音楽がなくなることは、いまの時点では考えられない。ふだんの会話のなかで、「いや、あの頃はジョンとアリスがさぁ~」とか、「そういえば、サン・ラーがうちに来たときに……」とか、「ファラオがまだ人前で演奏する前はね……」とか、そういう話が自然に出てくる。「テナー・サックスのサウンドが変化したのは」と、ほとんど戦後ジャズ史を話せる人でもある。「50年代後半にマイルス・デイヴィスが新しいバンドで作品を発表したときだ」
「マイルスは1956年にジョン・コルトレーンを加えて、『Round About Midnight』、1958年の『Fast Track』や『Milestones』、1959年の『Kind of Blue』といった録音を残した。ジョン・コルトレーンの新しいテナー・サウンドはマイルスのキャリアに再び活力を与え、若いサックス奏者は全員トレーンを聴きはじめた。新しい波だった。私はテナー・サックスの新しいサウンドへと洗礼を受けたんだよ」
おそらくは、フリー・ジャズ/スピリチュアル・ジャズが産声をあげたときの話であろう。その影響は、60年代のニューヨークを経由しながら、ビバップ[*40年代に発展したモダン・ジャズの基本]、ブルース、モータウン、あるいはファンクが融合した地上の廃墟にして音楽の楽園=デトロイトへと転移した。そしてそれは、市内の住人のほとんどが黒人で占めるその特異な都市において、きわめてユニークなジャズとして発展することになる。
デトロイトのミュージシャンのほぼすべては、ジャズの伝統、とりわけビバップにしっかりと根を下ろしている。それは、スウィングとブルースの基本原理への忠誠心、即興における頭脳と心のバランス、そして流麗な楽器演奏の技術とソウルフルな表現の結合に聴き取ることができる。デトロイトのプレイヤーたちは、ハーモニーとメロディ・ラインの構築に雄弁な知性を持ち込む。
Mark Stryker『Jazz from Detroit』2019
ここで、デトロイト・ジャズのレジェンドたちの名を列挙してみよう。ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、ドナルド・バード、ユセフ・ラティーフ、ジョー・ヘンダーソン、ペッパー・アダムス、ポール・チェンバース、ロン・カーター、カーティス・フラー、フランク・ロソリーノ、英国のジャズ・ロックに決定的な影響を与えたエルヴィン・ジョーンズ……そしてアリス・コルトレーン……
あるいはハンク・ジョーンズ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ハロルド・マッキニー、ローランド・ハナ、ヒュー・ローソン、テリー・ポラード、カーク・ライトシー等々……以上、歴史に刻まれたデトロイト出身の古きジャズ・ミュージシャンたちの何人かで(ほとんどが1920年代~30年代生まれ)、ここに1940年代以降の人たちを加えると、おそろしく長蛇のリストになる。ちなみに1966年には、デトロイトのドローム・ラウンジで、ファラオ・サンダースがジョン・コルトレーンと共演している。
とはいえ、フリー・ジャズのような前衛志向が、他の都市で見られたほどにはデトロイトで根付かなかった理由は、ぼくが思うに、デトロイト・テクノにおけるゲットーベースの文化と似ている背景ゆえではないだろうか。なによりもそこには、ブルースとソウルがあり、ビバップがあり、音楽を求めている多くの黒い聴衆がいるのである。

1964年、Hank Crawfordのバンドで演奏
デトロイト生まれで、同市で育ったウェンデル・ハリソンは、高名なジャズ・ピアノ奏者バリー・ハリスのもとビバップを学び、ニューヨークにおいて60年代のジャズ革命を吸収する。
そして1970年代初頭、多くのビバップ系たちが、マイルス・デイヴィスの「ジャズ、ロック、ファンクの融合」のインパクトに自分たちの進むべき方向性を揺さぶられていたとき、ウェンデル・ハリソンはそのトレンドに背を向けた道を選んだ。それが彼にとっての芸術的な選択であり、同時に黒人コミュニティへの貢献を強く意識した政治的な選択でもあった。
ウェンデル・ハリソンが幸運だったのは、1967年の歴史的な暴動によって瓦礫の街と化した故郷に戻ったとき、まずはトロンボーン奏者のフィル・ラネリン[*インディアナポリス出身で1968年にデトロイトに移住。スティーヴィー・ワンダーやグラディス・ナイトの仕事をしていた]と繋がったことだった。
フィル・ラネリンはデトロイトの音楽的な豊かさと黒人コミュニティの誇りに強い印象を受けていた。「インディアナポリスには黒人としての意識がそれほど強くなかった。しかし、デトロイトにはそれがあった。1967年に多くが破壊されたとはいえ、黒人経営のビジネスが何ブロックも何ブロックも残っていた。そこには一体感があると感じた」
ウェンデル・ハリソンとフィル・ラネリンは、トランペット奏者マーカス・ベルグレイブ、ピアニストのハロルド・マッキニー、ドラマーのダグ・ハモンド、キーボーディストのデイヴィッド・デュラらを巻き込んで、1972年、いまとなってはその時代の勇敢なレーベルのひとつとして知られる〈Tribe〉を始動させた。
技巧を駆使するよりも深い感情をストレートに表現することに重きを置いたこのレーベルは、ただレコードを作って売るだけの組織ではなかった。彼らが築いたのは文化のプラットフォームで、その象徴が雑誌『Tribe』の創刊だ。同誌は、レーベルのコンセプトやメッセージ、コミュニティとの繋がりに即した記事や黒人文化史を伝達した。1972年から1977年まで続いたその雑誌の編集長もウェンデル・ハリソンである。また、〈Tribe〉においては、ライヴ制作やプロモーションも自分たちでやった。「事務所を兼ねた私の家には電話が6台あった」と彼は回想する。「スタッフは、午前9時から午後5時まで雑誌の広告を売るために企業に電話をかけ、午後5時から午後9時まではコンサート・チケットの営業だった」

雑誌『Tribe』の表紙と誌面
ウェンデル・ハリソンの作品は、フィル・ラネリンとの決定的な『A Message from the Tribe』(1972)、一家に一枚級の『An Evening with the Devil』(1973)など〈Tribe〉におけるレガシー以外にも、ファンキーな『Dreams of a Love Supreme』(1980)や『Organic Dream』(1981)、『Fly by Night』(1990)のような人気作が多数ある。ウェンデル・ハリソンはいまも絶賛活動中で、つい先日は、ファラオ・サンダースのトリビュート作『Love is Every Where』[*表題曲はサンダースの1974年のアルバム『Love in Us All』から。むちゃくちゃゴスペルしている曲]を出したばかりである。
また、ジョン・シンクレア(そう、あのMC5のマネジャーにしてホワイト・パンサー党だった彼)の進言もあって、デトロイトでジャズの非営利組織〈Rebirth Jazz〉を設立し、若い世代にジャズを教えてもいる。一時期は大学でも教えていたウェンデル・ハリソンだが、いまも現役のジャズの先生(技術、理論、歴史、まさにジャズ・イズ・ア・ティーチャー)なのだ。

デトロイトのハーモニー・パークでのライヴ演奏
Photo by Patricia Harris
さて、以下のインタヴューは、ぼくのデトロイトの新しい友人、ジャズ・ピアニストの関根アヤさんの話からはじまる。30年来の友人である絵描きのアブドゥール・ハックの再婚相手ということで、ぼくは彼女と知り合った。
この場を借りて、少しばかりアヤさんのことを紹介したい。彼女は、かれこれ3年ほどデトロイトに住んでいる。バークレー音楽大学でジャズを学んだアヤさんは、その後ニューヨークで長いこと生活していたが、いっとき日本に帰国し、現在はデトロイトの住人だ。彼女は、初めて経験するその特異な文化環境に驚いて、あるとき「野田さんが言っていることって、こういうことでしょ?」とメールをくれた。「この街の音楽がすごいというよりも、まず、“音楽のあり方”がすごい」
地上の廃墟は音楽の楽園だ。ことブラック・ミュージックにおいては、メディアでほとんど報じられることもないが、音楽は生活に欠かせない精神(スピリット)のための食物で、いかなる趣味よりも優先される、よりよき世界への切符なのだ。ぼくはそれを、デトロイトの教会におけるとんでもないゴスペル音楽を通じて、身体で覚えた。
アヤさんは、デトロイトに越してから暇な時間がない。演奏の仕事/機会が多く、音楽の現場が複数の異なる位相のなかにある。デトロイト・ジャズとは何ひとつコネのなかったアヤさんだったが(彼女の相方ハックもジャズとはまったく無縁の人物である)、彼女がウェンデル・ハリソンと知り合うまでに時間かからなかった。人種やジェンダー、年齢など関係ない。「おまえ、ジャズが弾けるじゃねぇか」。それだけで十分なのだ。
まあそんなわけで、ぼくは取材前にアヤさんからの入れ知恵してもらっている。このZOOM取材は、デトロイトのジャズ・フェスティヴァルからウェンデルさん帰宅後の、現地時間で言えば夜の10時ぐらいからはじまった。
そして、84歳になる巨匠はおそろしく元気だった。
当時のファラオはホームレスだった。食べるために皿を洗っていて、本当に貧しかった。サン・ラーは彼を自宅に迎え入れて、食べさせ、服を与え、生活に必要なものを用意してやった。そしてファラオは演奏した。
■ぼくはデトロイト・テクノが大好きで、90年代後半から2000年代にかけて何回もデトロイトに行きました。取材のなかで何人かの友人ができて、そのなかのひとりにアブドゥール・ハックという絵描きがいます。彼のいまのパートナーが日本人ジャズ・ピアニストのアヤ・セキネで、1年ほど前に、彼女があなたと交流があると知って驚きました。いっしょに練習しているそうですね?
ウェンデル・ハリソン:アヤね、うん。彼女はうちの猫とも話すんだよ。猫の鳴き声を真似してね(笑)。彼女のピアノは大好きだよ。本当に弾ける人なんだ。ピアニストとして長い経験があるし、いろんなものを身につけてきている。彼女の好きなところは、ファンキーな演奏もできるし、グルーヴも出せる。それに正統派のジャズも弾けるし、ラテンも弾ける。最近のレコーディングでも彼女を起用したんだ。だから去年から今年にかけて、彼女とは一緒に演奏している。
最初に会ったのはジャム・セッションだったんだけど、そこで彼女がいろんなものを弾いていてね。それが素晴らしかった。ものすごく腕がある。テクニックもしっかりしていて。本物のテクニックだよ。ピアノを本当に自在に弾きこなす。それですっかり惚れ込んだんだ。
■アヤさんから聞きましたが、あなたの口癖は、いまでも「練習しろ」だそうですね。
ウェンデル・ハリソン:ハハハハ!
■「練習、練習、そしてまた練習だ」と、まるでレーニンみたいですね(笑)。実際、あなたはすごい練習熱心だそうですね。しかも、いまでも週一回、若い世代のジャズ・ミュージシャンを家に呼んで、勉強会みたいなことを開いていると?
ウェンデル・ハリソン:ああ、「Upper Room」って呼んでいるんだ。個人レッスンの生徒もいるけど、火曜日にはみんなで演奏する。ただ、しばらくやっていないから、またはじめないとね。
生徒はたくさんいるよ。高校生くらいの子もいれば、60代、70代、71歳から75歳くらいの人たちもいる。昔からずっと楽器をやりたかった年配の人たちだよ。もう仕事は引退していて、楽器を演奏しながら即興にも挑戦している。他にも、もともと演奏していた人で、もう一度腕を磨いて、もっと細かいところまで演奏を深めたいと思っている人たちもいる。そういう高齢の人たちはお喋りするのも好きでね。だから、セラピーのようでもあり、同時に人と交流する場でもある。歴史についても話したがる。
私は長くやってきたからね。来月で84歳になるし、演奏をはじめて67年になる。でも、いまでも毎日必ず練習している。サックス、ソプラノ・サックス、バス・クラリネット、クラリネットを吹くし、ピアノで曲も書く。
ピアノをはじめたのは5歳のときだった。母が5歳の私にピアノを習わせて、8歳のときには祖父がクラリネットを買ってくれた。でも、クラリネットは好きじゃなかった(笑)。あれは私がとにかく落ち着きのない子供だったからなんだ。じっとしていられなくて、規律というものがなかった。だから、少し落ち着かせて、ひとつのことに集中することを覚えさせるためだったんだ。
それから高校までずっと、コンサート・バンドで演奏したり、初見演奏をしたりしていた。高校でジャズをやっている連中と出会って、クラリネットを置いてサックスを手にした。アルト・サックスだ。当時はみんなチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを聴いていたからね。ビバップ・ジャズの巨匠たちだ。そこから一気にのめり込んでいった。すると今度は「お前は演奏しすぎだ」って言われるようになった(笑)。
いつだって練習していたからね。この音楽を身につけて、頭のなかにあるアイデアを完成させようとしていた。とくに13~14歳の頃はそうだった。
その頃、仲間の学生たちがバリー・ハリスを紹介してくれて、彼から基礎を教わった。即興をどう組み立てるのか、どうインプロヴァイズするのか。チャーリー・パーカー、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピーのやり方を通して教えてくれたんだ。それが私のひとつの土台になった。
でも、その一方で別の音楽も聴くようになった。アーチー・シェップやサン・ラーからも影響を受けた。19歳のとき、デトロイトからニューヨークへ移った。そこでグレッグ・グリーンと仕事をするようになって、ソニー・ロリンズがロフトにやってきて、私と一緒に練習することもあった。
そしてトレーン、ジョン・コルトレーンと出会った。その前にファラオ・サンダースと出会って、それからジョン・コルトレーンだ。ファラオは私と同世代で、私より2歳上だった。当時、私はサン・ラーと演奏していて、そこでファラオに会った。彼はその店の厨房で働いていたんだ。皿洗いをしていた。彼はサン・ラーに「演奏させてくれ」と必死に頼み込んだ。するとサン・ラーは彼のことをとても気に入った。彼の演奏を本当に気に入ったんだ。サン・ラーはファラオを「選ばれし者」と呼んでいた。当時のファラオはホームレスだった。食べるために皿を洗っていて、本当に貧しかった。サン・ラーは彼を自宅に迎え入れて、食べさせ、服を与え、生活に必要なものを用意してやった。そしてファラオは演奏した[*極貧だったサンダースを救ったのがサン・ラーというエピソードは有名。ただし、トリビュート盤にある “Sun Song” はサン・ラーの同名曲ではない]。
やがてファラオは自分のグループを組んで、クラブに出演するようになった。そのクラブが〈Cafe Wha?〉だった。グリニッジ・ヴィレッジの近くだ。クラブのオーナーがファラオに自分のグループを出演させてもいいと言って、それで彼は〈Blue Note 〉のオールスター級のミュージシャンたちをバックに呼んだ。みんな彼のために何かしてやりたいと思っていたんだ。
ファラオは本当に謙虚な男だった。とても謙虚だった。いつも人に助けを求めていたし、みんなも彼を助けた。本当に多くの人が力を貸したんだ。その夜もミュージシャンたちが彼のために〈Cafe Wha?〉で一晩中演奏した。それがもう、すごかった。みんな本当に驚いたよ。彼にはそれまでとは違う音があった。演奏の仕方そのものが違っていた。
それからファラオはコルトレーンと出会った。どうやって彼と知り合ったのかは知らない。でもコルトレーンは彼を受け入れて、自分がやっていることについて、ありとあらゆることを教えた。ファラオはレコーディングにも参加し、ジョン・コルトレーンと演奏するようになった。その後はアリス・コルトレーンともやった。彼はトレーンのサウンドを吸収したんだ。トレーンのような音を持っていた。でも、ファラオの音はもっと大きかった。ジョン・コルトレーンの音はファラオと比べればもっと小さかった。ファラオには、あの巨大な音があった。
その一方で、ファラオは私とはビバップについて話していた。ビバップはまったく違う演奏の仕方だからね。でも彼はやがてトレーンの人脈や音楽的な環境に深く入っていって、トレーンと活動するようになった。そしてコルトレーンとの録音を経て、自分のバンドを持つようになった。
私たちはまだ若かった。あの頃は、いろんなところで一緒に演奏したよ。60年代初頭には、オラトゥンジ[*ナイジェリア出身のドラマー]やいろんなグループと一緒に演奏することもあった。でも私はどちらかというと、ビバップやブルースを演奏する人間だった。もちろんサン・ラーとやって、フリーな演奏も身につけた。でも私にはしっかりしたビバップの基礎があった。それがあったから、本当にいろんなグループで演奏することができた。ビッグ・メイベル、ロイド・プライス、チャック・ジャクソン、それからフレディ・ハバード。本当にいろんな人たちとやった。ジャズでもさまざまなスタイルを演奏してきた。オルガン・トリオでブルースをやったりもした。私の音楽を聴けばわかると思うけど、自分を表現する方法がいろいろあるんだ。私はそういう多様さがとても好きなんだよ。オーケストラもビッグ・バンドも好きだし、小編成のグループも好きだ。まあ、これが私の音楽的な土台の一部であり、60年代初頭から続くファラオとの歴史の一部でもある……さて、まだ質問があったよね?
通訳(青木):はい、あります。まだたくさんあります(笑)。
ウェンデル・ハリソン:私は話し出すと止まらないから、君が止めないといけないよ(笑)。本当に止めてくれないと。
通訳:でも、素敵な音楽史の授業でした。
取材:野田努(2026年9月08日)