Home > Interviews > interview with Wendell Harrison - 音楽の楽園=デトロイトから、ウェンデル・ハリソンがファラオ・サンダースとサン・ラーの思い出を語る
サン・ラーが、そこからどうやって自由に演奏するかを教えてくれた。彼はそれを「イマジェリー」と呼んでいた。イマジェリーってわかるか? もう音符なんか忘れて、見えたものをそのまま演奏するようなものだよ(笑)。音そのものを奏でる。感情や表現を音にするんだ。
■アヤさんも言っていましたが、あなたと会話していると、「あの頃はジョン(コルトレーン)とアリス(コルトレーン)がね……」みたいな言葉が普通に出てきたり、あるときはアナーバーでのあなたのライヴに行ったらマーシャル・アレン[*サン・ラ・アーケストラのメンバーで、現在101歳]がふつうに見に来ていたりとか、ほとんどジャズ史を体験しているような気持ちになると。でも、あなたから見たら、すべてがあなたの人生のなかの出来事なんですよね?
ウェンデル・ハリソン:それはただ、私の人生のなかで起きたことなんだ。あなたが言ったようにね。私はそれを「歴史」だとは思っていない。たとえばマーシャル・アレン。サン・ラーとやっていた頃、彼にはフレージングを教えてもらった。ジョン・ギルモアもいた。私はジョン・ギルモアの代わりに入ったんだ。
ちょっと話を戻そう。私がニューヨークに着いたとき、サン・ラーはその2年ほど前にニューヨークへ来ていた。シカゴからバンドを丸ごと連れてきていて、マーシャル・アレン、ジョン・ギルモア、パット・パトリック、ロニー・ボイキンスがいた。ドラムが誰だったかは思い出せないけど、クリフォード・ジャーヴィスもやっていた。とにかく、あのバンドは本当にいろんなことができた。サン・ラーのとても自由な音楽を演奏する一方で、ビバップもできたし、ブロードウェイのショーにも出たし、ほかの有名なアーティストとも演奏した。みんなジャズ・ミュージシャンとして生計を立てていたんだ。たとえばロニー・ボイキンスはアート・ブレイキーとやっていた。私がサン・ラーとやったときには、ジョン・ギルモアがアート・ブレイキーとやっていたから、私が彼の代わりに入った。

サン・ラーこそが、ウェンデル・ハリソンにおけるメンターだった
Photo by Leni Sinclair
サン・ラーのところにはいろんなビバップ・ミュージシャンがやって来たんだ。みんな譜面が読めるから、すぐに入って演奏できる。そしてサン・ラーが、そこからどうやって自由に演奏するかを教えてくれた。彼はそれを「イマジェリー」と呼んでいた。イマジェリーってわかるか? もう音符なんか忘れて、見えたものをそのまま演奏するようなものだよ(笑)。音そのものを奏でる。感情や表現を音にするんだ。
私はそれを身につけなきゃならなかった。ホーンから感情を出す練習をするんだよ。ときにはサイレンみたいな音を出す。街を走るパトカーや救急車の音。ジャングルにいる動物、猿やヒヒ、それから鳥の声。そういうあらゆる音を、自分の楽器から出せるようにならなきゃいけなかった。「ゴジラがエンパイア・ステート・ビルから女の子を放り投げたところを想像してみろ。それはどんな音だ?」とかね。「美しい女性がビーチを歩いている。そのイメージを音にするとしたら、どんな音になる?」
それまで知っていたものを全部捨てなきゃならなかった。知っていることは忘れろ、と。「ビバップなんかいらない。そんな練習もいらない」ってね。ちょうど同じ頃、ジョン・コルトレーンも同じようなことをやっていた。
だから私たちは、感情やスピリットを表現するためのいろんな音や効果を生み出さなきゃならなかった。とてもスピリチュアルなものだったよ。瞑想することもあった。それから“Next Stop Mars”をはじめ、金星や土星なんか、宇宙や惑星を題材にした曲をいろいろ覚えた。まるで惑星のひとつひとつに曲があるみたいだったよ。
それから私はデトロイトに戻った。私はニューヨークに住んだあと、カリフォルニアへ行って、そこで活動していた。そして70年代にデトロイトへ戻った。ファラオ・サンダースも70年代にデトロイトへ来た。私が戻った翌年、1972年だった。彼はその頃、ピンピーという女性と結婚していた。モザンビーク……いや、南アフリカのヨハネスブルグ出身の女性だった。そしてふたりは大邸宅を買っていた。ものすごく、ものすごく大きな屋敷でね。「うわあ」って思ったよ(笑)。
でも、ファラオは相変わらず謙虚だった。ものすごく成功していたし、マネージメントもついていて、周囲は彼をもっと大きな存在にしようとしていた。彼には、人にそう思わせる何かがあったんだ。誰もがファラオのために何かしてやりたくなる。みんな彼を助けたかった。それこそがファラオの持っていた魔法だった。私はその屋敷へ行って、よく練習した。マーカス・ベルグレイヴや〈Tribe〉のメンバーたち、フィル・ラネリンも一緒だった。みんなで行って、ひたすら練習した。グルーヴを何度も何度も練習してね。でも基本的には、みんなで集まって過ごす場でもあった。もちろん、演奏する機会も作ろうとしていた。
当時、私は東京の人たちとも話をしていて、日本へ行くことを考えていた。私とファラオで一緒に行けないかと思ってね。それでファラオに、「一緒に日本へ行ってコンサートをやるとしたら、何が必要だ?」って聞いたんだ。そうしたら、「米を一杯くれればいいよ」って(笑)。相変わらず謙虚だろ。でも実際には4万ドル欲しいって(笑)。「おいおい、勘弁してくれよ」って言ったよ。まあ、それは70年代の話だけどね。
その後も彼はときどきデトロイトへ戻ってきた。何かやりたいと思っていたんだ。私は黒人大学で働いていたから、そういう大学で自分の公演を組んでほしいとも言っていた。
でも彼は最後のアルバムをロンドンで作って、ロンドンのフィルハーモニー・オーケストラをバックに演奏したんだ。信じられるかい? 皿洗いをしていた男だよ。つまり、そうやって成長していったんだ。皿洗いをしていた男が、スピリチュアルな意味でも成長していった。彼の夢はいつも現実になっていったんだ。
通訳:本当に素敵な話ですね。
ウェンデル・ハリソン:彼の夢はいつも現実になっていった。そして、あるとき一気に大きな存在になった。「なんてこった、まるで神様みたいじゃないか」って思ったよ。
通訳:では、最初にファラオと会ったのは、彼がニューヨークで皿洗いをしていた頃なんですね?
ウェンデル・ハリソン:そう、〈Cafe Wha?〉だ。
通訳:そこで初めて会ったんですね。
ウェンデル・ハリソン:そう。ゲイリー・バーツやチャールズ・トリヴァーとも一緒に演奏した。私たちはまだ子供だったんだ。まあ、本当の子供じゃないけど、19歳、20歳、21歳くらいだからね。私に言わせれば、まだ子供だよ。まだいろんなことを学んでいる最中だ。本当の意味で大人になるのは30歳になってからだと思う。それまでは、いろんなことを模索している。どうすれば物事がうまくいくのか、自分は何者なのか、そういうことを探しているんだ。30歳くらいになると、どうやって生きていけばいいのか、少しは方向が見えてくる。でも大変だよ。人生は大変なんだ。
こういう話っていうのは面白いものだね。先週もそうだったけど、私は自分がどうやってここまで来たのかとか、歴史について話す講義をよくやっている。最近は演奏するより、そういうことをやっているほうが多いくらいだよ。
通訳:でも、みんなそういう話も聞きたいんですよ。とても貴重な話ですから。
ウェンデル・ハリソン:そうなんだ。私は教えるときにも、こういう話をする。「そのフレーズを吹くなら、まず歌ってみろ。さあ、それを今度は楽器で吹いてみろ」ってね。それから、「これは偉大なソニー・ロリンズのフレーズから来ている。ソニー・ロリンズはこういうふうに吹いていたんだ」と教える。そして、ソニー・ロリンズがツアーに出る前に私のところへ来て、一緒に練習していた話をするんだ。彼はやってきて、ロングトーンなんかを吹いていた。
それから「ソニーはベジタリアンだったんだよ」って話もする。肉はまったく食べなかった。ヨガもやっていた。それに、ソニーはよく断食していたんだ。5日間何も食べないこともあった。それから今度は「言葉の断食」をする。まったく喋らないんだ。修行僧みたいに、何も言わない。喋りたくないんだ。
そういう話がいろいろあるんだよ。私がソニー・ロリンズと出会ったときには、すでに彼の演奏の仕方を知っていた。15、16歳の頃、デトロイトでバリー・ハリスに師事していたときに勉強していたからね。私のジャズの基本的なアプローチは、ほとんどデトロイトで身につけた。ニューヨークへ行ってからは、とにかくいろんな人と演奏するようになった。生きていくためにもね。それから、人との話し方も覚えなきゃならなかった。何を言っていいのか、何を言わないほうがいいのか(笑)。私はときどき喋りすぎるからね。わかるだろ?
通訳:ありがとうございます。では、まだ質問があるので、次に進んでもいいですか?
ウェンデル・ハリソン:ああ、もちろん。まだ質問があるんだね。だから言っただろ、私を止めないと(笑)。
通訳:わかってるんですけど、どれも本当に面白い話だから、止めるのが難しいんですよ。
取材:野田努(2026年9月08日)