Home > Interviews > interview with Phew - ニューワールド、Phewのもうひとつの世界
説明不要だろう。本媒体にも何度か登場したPhewはいうまでもなく、伝説的なパンクロック・バンド、アーント・サリーでデビューし、80年には坂本龍一のプロデュースによるPASSからの「終曲/うらはら」でソロに転じて以降もながらく、この国の音楽の先鋭的な部分を支えるつづけるヴォーカリストである、と書くことで私はPhewがこのインタヴュー後半でいう禁忌を何重にもおかしていることになるかもしれないとおそれもするが、そのPhewがやぶからぼうにアナログ・シンセサイザーの弾き語りをはじめるにいたったのはいくらか説明を要することかもしれない。2010年の『ファイヴ・フィンガー・ディスカウント〜万引き』で他者の楽曲を歌いきったPhewは小林エリカとのProject UNDARKで震災以後の原発――というより「核」と記したほうがよりニュアンスはちかい――問題を、電子音響と声(語り)で俎上に乗せ、それをひとつの境に機材を担ぎ、単独で声と音響のライヴを本格化することになる。およそ2年前から、彼女のライヴではこの形態が中心となり、私は何度かライヴを拝見しましたが、それは毎回、可変的な表情をみせる、すぐれて即興的でありながら、Phewという個体に固有の磁力がすべてを覆う音の場を体験する得がたい機会だった。この状態のこれが音盤に定着するのを私は願い、やがてそれは3枚のCDRに素描として輪郭がのこった。
Phew ニューワールド felicity |
『ニューワールド(A New World)』のあるところはその延長線上にあるが、それだけではない広さがこの新しい世界にはある。科学技術が約束する“ニューワールド”を冒頭に、唱歌としてよく知られる“浜辺の歌”を終曲に位置づけたことで、あいだの7曲は、“終曲2015”にせよジョニー・サンダースのハートブレイカーズのカヴァーである“チャイニーズ・ロックス”にせよ、超新星爆発の光が何万年ものときを経て網膜に届くような気の遠くなる時差がなぜか未来的な色彩を帯びてしまう奇妙な倒錯さえ感じさせる。未聴あるいは既聴の錯誤。「あした浜辺」でしのばれるもの。もちろんこれは何度目かに聴いた私の感想であり、明日変わってしまうものかもしれないし、朝な夕なに変わるものかもしれない。該博な読者なら楽しみは倍加するにちがいない。けれども、はじめて聴くひとも遠ざけないポップな煌めきもスパークしている。
ようこそニューワールドへ、と〆るべきかもしれないが、私たちの住む世界がもうニューワールドである。
私にとって音楽は逃げる場所だったんです。でも今年に入って音楽をつくっていたら、音楽が避難場所ではなくなっていると気づきました。「これからどうなっていくんだろう」という気分が、80年代のはじめに感じていた個人的な閉塞感とすごく似ている。だけど当時とは決定的に変わってしまった――そういうことを表現したかったんです。
■ソロでのシンセ弾き語りは2年くらい前からですよね。
Phew(以下、P):最初は2013年の6月。UTAWAS(ウタワズ)というイベントがSuperDeluxであって、そこで山本精一さんとやりました。山本さんと私といったら、昔のあのアルバムのイメージがあるんじゃないかと思って、わざと「歌わない」というタイトルにしたんです。
■『幸福のすみか』ですね。あのアルバムは名盤ですが、「歌わない」とはいえ、急にシンセサイザーで演奏できるわけではないですよね。もともと電子音楽に興味はあったんですか。
P:電子音楽はずっと好きでしたけど、自分でやるとは考えたことはありませんでした。最初にリズムボックスをすごく安く買ったのがはじまりです。Whippany社の「Rhythm Master」というヴィンテージのリズムボックスを1万円ちょっとで手に入れたんですね。
私は80年代に入ってからテクノポップとか、そう呼ばれていた音がダメだったんですね。なにがダメってリズムボックスの音色がダメ。80年代はRolandの「コンピュ・リズム」が主流だったと思うんですが、その音質がイヤでした。60年代、70年代のリズムボックスの音は大好きなのに。もう音が全然ちがう。それを実際に手に入れたことが大きかった。それまでは、ヴィンテージあつかいで10万円近くしていてとても手が出なかった。それが震災後に円高になったこともあって、そういう機材がeBayで安く海外から買えたんです。それが2011年の春。「がんばろうニッポン」的なかけ声のウラで、私はeBayに張りついていた。
■電子音を演奏するにあたって、ドラムの音を決めるのが先決だった?
P:リズムの音色が私にはすごく大きいんです。バンドでもドラムの音色が重要なんですね。ドラマーの場合は基本的なノリもそこにはいってきますが。
■そこからご自分の電子音楽の世界を広げていったということですね。
P:そのあとにね、アナログ・ヘヴンっていうアナログ機材を扱っているサイトがあって、そのページを毎日見ていたんですよ。あと、オタクが集まるシンセサイザーのフォーラムなんかをずーっと眺めているうちに「Drone Commander」という機材を見つけたんですね。それはその名前の通り、ドローンを鳴らせる機材で「これに合わせて歌を歌うことができる」と思い、「Drone Commander」とリズムボックスとテープ・エコーでベーシックな音をつくりました。
■あくまでライヴが前提だったということですね。
P:当時はライヴしか発表する場所がなかったですからね。
■このセッティングにしてから、けっこうライヴをやりましたよね。私もかなり見た気がします。
P: 2013年から月2、3回くらいのペースでやっていましたから多いですよね。
■どんどん機材が増えていった気がします。
P:最初は機材が並んでいるだけでうれしかった(笑)。全部鳴っていなくてもよかったんです。
■それがいまはちょっとスリムになってきていませんか?
P:ライヴを何度かやるうちに、必要な機材を選択できるようになってきました。子どもが転びながら歩くことをおぼえるように、経験を重ねていかないと私は物事をおぼえていけない。
■ライヴでも失敗することもある?
P:たくさんあります。でも私には歌があるからそれでごまかせる(笑)。基本は歌にあるっていうかね。電子音の鳴らし方も、歌を中心に考えます。アナログだと毎回どこかしら音がちがうのがおもしろかったりもします。デジタルだとピッチも安定しているんですけどね。歌はそのときの体調で声が変わるじゃないですか? アナログシンセもそういうところがあって、場所や天候で音が変わります。それに、アナログの機材には自分の指先からつながっている感じもあるんですね。ハウってピーピーいったりするんですけど、最初の1年は原因がまったくわかりませんでした(笑)。
■聴くほうは、そういうものかと思って訊いていましたけどね(笑)。動じる素振りも見せないし。
P:けっこう大変なことになっているんですけど。動じないっていうのは経験じゃないかな(笑)。
■それでもソロの場合、ひとりで問題を解決しなければならないわけですからたいへんですよね。
P:それは全然ちがいますね。ひとりでやっていたほうが自由度は高いんです。不安といえば、私はバンドでやっているほうが不安なことが多いですよ(笑)。
取材・文:松村正人(2015年12月22日)