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今年、初めての休みに三軒茶屋まで散歩して...とはいえ、やはり仕事がらみで浜田淳に会った。入稿し終えたばかりの『裏アンビエント・ミュージック 1960-2010』(INFAS)にどうしても差し替えたい盤があり、彼にミッキー・ハートのCDを売ってもらったのである。本来ならば振込みを確認してから送ってもらうというシステムに従うべきなんだろうけれど、校了までのわずかな時間に入手しなければ間に合わないので、直接会って売ってもらうことにしたのである。そのついでにどっちがどれだけワールドカップについて知らないかを確認し合い(多分、僕の勝ち)、くだらない話題のオン・パレードで時間は過ぎていった。あまり時間を気にせず、人と話をしたのが久しぶりだったので「休んだー」という実感が残った1日だった。
![]() 浜田淳 (著) ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々 カンゼン |
その時、浜ちゃんが『ジョニー・B・グッジョブ』(カンゼン)という本をくれた。「いつの間に書いたの?」「1年かかりましたよー」とかなんとか。借金を返すために夜も昼も働いていたことは知っていたので、その合間を縫って完成させたことは本当に感心してしまう。「音楽を仕事にする人々」という副題からもわかる通り、音楽業界で働く無名の人ばかりを対象にしたインタヴュー集である(要はスタッズ・ターケル×猪瀬直樹)。その時は装丁が湯村輝彦だということに嫉妬を覚え、デザインについての話も弾んだ。僕なら湯村輝彦には「乾き」を求めるけれど、浜ちゃんのそれは違っていた。彼が求めたのは「説明がいらない」だった。なるほどなー。
それからしばらく校了作業が続き、ようやく『ジョニー・B・グッジョブ』を開くことができた。そして、あっという間に閉じてしまった。読み終わってから500P以上あったことに気がついた。どうやら夢中で読んでしまったらしい。音楽業界というところには、とにかく多種多様な仕事があって、その人たちがどういう仕事をどうやってやっているのか、そういうことがまずは面白かったんだと思う。商業音楽だけでなく、音楽教師やブラック・ビジネスにも範囲は延びている。まえがきに実用書だと書いてあったのもなんとなくわかったような気がした。あくまでも個人の体験談として語られているので、自分がそこに身を置けるかどうかというシミュレイションができるような気がするからである。いままでより近くしか感じられた仕事もあるし、逆に遠のいて感じられた例もある。サックスのリペアマンがいまだにサックスを理解できないというくだりや、ステージの袖にいるととにかく落ち着かないと話す舞台監督など「たたき上げ」と題された章がとりわけ個人的には共感するところが多かった。PAの人も含めて自分の性格がこの辺りの仕事に向いているのだろうか? この章に入れてもおかしくないプロデューサーという人がいたら読んでみたかったなと思う。
![]() 公式版 すばらしいフィッシュマンズの本 INFASパブリケーションズ |
「音楽を仕事にする人々」とするなら、しかし、僕はもっと有名な人や、ここで基調をなしている「儲かっていない人」ばかりにする必要はなかったと思う。儲かることもあるから「仕事」なんだし、成功している人の話から浜田淳が何も引き出せなかったとは思わないからである。そういう人たちの話はたしかにつまらないことが多いし、この本ではそうではないから吐き出される言葉にリアリティがあるということもわかる。だけど、それによって描き出されるのは彼が何度も強調しているように「声なき声」ではあっても、けして「仕事」ということではない。たとえば『すばらしいフィッシュマンズの本』(INFAS)でZAKのインタヴューを読むと、こんな人にはとうてい太刀打ちできないということがよくわかる。自分がそこに身を置くべきではないというシミュレイションも可能になる。ZAKのインタヴューを「仕事」の話として読むのは無茶かもしれないけれど、そこから「態度」を読み取ることは容易なことである。たとえば『ジョニー・B・グッジョブ』には「自分が誰かの役に立っているのなら......」という考え方が何度か出てくる。それは、僕にはその仕事をしながらどこかで崩壊していく自分もあり、それを食い止めるために自分自身を支える言葉として使われているというニュアンスも少なからずは含まれているように感じられる。ZAKの言葉にはそのような含みはいっさいない。「仕事」にはそのような無限の広がりもある。そこを切り捨ててしまったのは、やはり惜しいことだと僕は思う。「音楽業界における声なき声」。正しい副題をつけるとするならば、こうではなかっただろうか。せっかく曽我部恵一にミュージシャンとしてではなく無名のレーベル経営者として語らせ、それこそ自分を保つのに必死になっているとしか読めない元レコードショップ店員まで載せたのだから。
クラムボンのマネジメントをやることになる豊岡歩とデ・デ・マウスのマネジメントはできないと判断する永田一直の対比、ムダなことばっかりやってると楽しそうに話すレーベル経営の松谷健とムダなことは極力やらないと話すプロデューサー、又場聡の対比など、どちらの気持ちも理解できると思える時、この本はとても輝きを増して感じられる。どんな仕事をどういう風にやりたいのかということがあまりにもリアルに、あるいは自分自身への選択肢として迫ってくるようで、「なに、この本、ゲームにできるんじゃないの?」と思うぐらいである。仕事とアイデンティティを切り離そうとした小泉・竹中政権の余韻はまだ残っているかもしれないけれど、近代的自我と仕事を一致させようとしている人はまた増えているとも聞く。本書はどう考えても後者の感覚を補強するものであり、そうではない方向へと誘う人の言葉は1行も出て来ない。ブラック・ビジネスの人は微妙だけど、いずれにしろ著者がそれ以外の可能性に思い至っていないことは確かだろう。音楽だけではなく、どの分野に行っても誰かの奴隷にならなければ成功はできない国にいて、その通りにするか、それを飛び越すか、あるいは......。
CD関係
■DJヨーグルト&コヤス『Chill Out』 (サード・イヤー)*企画
■ロマンポルシェ『盗んだバイクで天城越え』 (ミュージック・マイン)*コント出演(初回DVD)
■イルリメ『360°サウンド』 (カクバリズム)*ライナー
■パトリック・パルシンガー『インパッシヴ・スカイズ』 (ミュージック・マイン)*ライナー
■V.A.『クリックス&カッツ 5』 (ミル・プラトー/ディスクユニオン)*ライナー
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2010年5月25日、多くのひとに愛されリスペクトされたKAGAMIこと加々美俊康くんが突然この世を去ってから、はや1ヶ月以上の時間が経とうとしている。あまりにショックで、混乱し、葬儀のあともなかなか自分自身にフォーカスを戻すことができない日々がつづいたが、ようやくこうやって、彼のことをまとめて振り返ろうかと思うことができるようになった。
実際のところ、2005年に3枚目のアルバム『SPARK ARTS』をリリースして、フロッグマンから独立して以降はKAGAMIとじっくり話したりする機会はほとんどなかった。だから、僕の知ってるのは、まだ18歳の学生で右も左もわからないくせにやけに自信だけはあったころから、ある程度コマーシャルな成功を経験して、これから第3のステップに移行するにはどうしたらいいだろうか、と考えているような時期までのことだ。ただ、95年のデビューから05年までという濃密な10年、とくに彼にとっては多感で重要な10年をいっしょに過ごせ、彼を通してでなければ絶対に見られなかったし経験できなかったことを、僕らにいっぱい与えてくれたことには、改めて感謝したいし感慨をおぼえる。
2010年5月25日、多くのひとに愛されリスペクトされたKAGAMIこと加々美俊康くんが突然この世を去ってから、はや1ヶ月以上の時間が経とうとしている。あまりにショックで、混乱し、葬儀のあともなかなか自分自身にフォーカスを戻すことができない日々がつづいたが、ようやくこうやって、彼のことをまとめて振り返ろうかと思うことができるようになった。
KAGAMIとの出会いの話は何度も書いたし話したけれど、もしかしたら後年彼のファンになったような人の目には触れてないかもしれないので、再度そこから話をはじめよう。
1995年、アシッド・ハウス復興やジャーマン・トランスの栄華、デトロイト・テクノ再評価~インテリジェント・テクノ流行みたいないっさいの流れを嘲笑うかのように、突如グリーン・ヴェルヴェットに代表されるシカゴ発のチープで狂ったダンス・トラックがフロアを席巻した。トランスを作ろうとして、ヤマハのQY20(入門者向け格安シーケンサー)とモノラル音源のサンプラーしか持っていないから似ても似つかない音しか出せなくて悩んでいた加々美くんは、シカゴのチープでプアだがファニーで踊れる音が耳に入って、「これなら僕にも作れる!」と俄然やる気を出した。そうしてできたのが、デビュー曲となった"Y"だ。
当時、まだ日本では踊れるトラック、DJ向けのツールを積極的に作ろうというアーティストはほとんどいなかった。水商売的な部分のつきまとうDJとオタク的な内向性をもった打ち込みをやる人のあいだには、相当深い溝があった。だからこそ、僕らは加々美くんのデモを聴いて狂喜した。ヒデキや「フロッグマンだからカエルだろ」という安直でしかし誰の真似でもないネタをそのままフックに持ってくるストレートさ。ただの4つ打ちではない複雑でファンキーなリズム、荒削りだけどパワフルで、きっとアナログにしたらレコード屋で売ってる「いまいちばんホットな曲」とミックスしても負けてない音。どれもが新鮮で、興奮させられた。しかも、連絡してみると、まだ18歳だという。そうして、加々美くんはKAGAMIとなって、異例のスピードでデビューすることが決まった。
2枚目のシングルは、「Beat Bang EP」と名付けられた。アナログの盤面には、KAGAMIが全部手書きしたテキストとカエルが泳いでいるイラストが添えられている。Beat Bangというのは「ビート板」のもじりで、なぜビート板にこだわったのか忘れてしまったけど、そのネーミングにも独自の論を切々と話してくれた(この曲のシリーズに色がついてるのは、戦隊モノへのオマージュ)。そもそもこのシングルのリード・トラックは、TM Revolutionのリミックスという大仕事が入ったときに、好き勝手やりすぎてNGを喰らい、そこから声や原曲の要素をすべて排して作り直したものだった。プロのエンジニアとスタジオでの作業というのを初めて経験して、KAGAMIも気合いが入っていた。
当時ジョシュ・ウィンクとかやたらに流行っていた長~~~いブレークがあってその後大盛り上がりのピークに持っていくという手法をここでもやっているんだけど、"Beat Bang Blue"の狂気のブレークは、どんなパーティでもフロアを爆発させる力をもっていた。よく覚えてるのが、96年の夏にベルリンでTOBYがオーガナイズしたパーティでDJさせてもらったときのことで、90分の持ち時間のピークで僕はプラスティックマンの"Spastik"とこの曲を使った。終わったら、興奮した現地の若者が駆け寄ってきて「すごい良かった! 次はいつプレイする?」って訊いてくれて嬉しかった。そんなことがあって、KAGAMIというアーティストは海外でも通用する曲を作れる。もっと売り込まなくちゃという思いを強くしたんだ。
ただ、実際には多くのDJがKAGAMIに目を向けてくれたのは、1998年のファースト・アルバム『The Broken Sequencer』だった。例えば、カール・コックス。あれはたしか、カールが〈Yellow〉でプレイした日だった。少し早めに〈Yellow〉に行って、プレイ前にバーでくつろいでいたカールを見つけて話しかけると、彼は当時かなり珍しかった日本のアーティストのレコードに興味を持ってくれた。白盤だから手書きの曲名しかなかったわけだけど、KAGAMIの独特のセンスが輝く曲名はカールに大受けで、「Elefant's Discoとか、なにこれ? 最高だな」と腹を抱えていたのを思い出す。その晩、事前に聞いていたわけでもないそのアナログの曲がいきなり2曲もかかるとは思ってもみなかった。その後も彼はこのアルバムをお気に入りにして世界中でプレイしてくれたようで、自らのDJチャートの1位に選んでくれたりBBCの名物番組「Essential
Mix」でもプレイリストに挙がって、それをきっかけにUKや欧州のひとからも問い合わせが来るようになった。
トーマス・シューマッハは"Beat Bang Black"をえらく気に入って、自分のレーベル〈Speil-Zeug Schallplatten〉でライセンス・リリースしてKAGAMIが本格的にドイツで認められるきっかけを作ってくれたし、ヘルはそのアルバムを丸ごとライセンスしたいとまで言ってくれた。たしかあのとき、ヘルは日本に来る飛行機でレコードを紛失して、急遽テクニークでレコードを買い漁っていて『The Broken Sequencer』を見つけたんだと言っていた。ヘルもそのとき一晩で何曲もKAGAMIの曲をプレイしていて、まぁそういう緊急事態だったとはいえ、すごく驚いた。
実はあの2枚組アナログ、ヘルもドイツでは買えないと思い込んだほどだし、大半が日本で売れて、欧州ではかなりコアなひとたちが買ってくれただけだった。でかいところだしと安心して任せたドイツのディストリビューター〈EFA〉(04年に倒産)は、実際のところなんの宣伝も売りこみもしてくれなかった......アーティストが現地で活躍してるわけでもなく、レーベル側でもプッシュする人間が誰もいないという状況でしっかり売ってもらおうというのが無理な話だったのだ。ただ、そんな盤をちょこちょこ使ってくれて、日本で知名度をあげてくれたのは石野卓球だった。
当時卓球は、J-Waveのラジオ番組でDJミックスを流していたんだけど、そこで自分の曲がかかった! ってすごく喜んでいたKAGAMIの顔はいまでも忘れられない。それ以前はあまり意識してなかったけど、KAGAMIも思いっきり電気グルーヴ直撃世代であったのだ。たぶん、僕や佐藤大が電気のふたりとかなり近い間柄ということもわかっていたから、あえてそういう話を自分から積極的にする機会は多くなかったのだろう。まさかそのころは、KAGAMIが電気グルーヴのステージに立ったり、リミックスを依頼されたりするようになるなんて、誰も思ってなかった。世界のトップDJたちに絶賛されることより、石野卓球や電気グルーヴと接点ができる方がよほど「夢」みたいな話だったんだ。
当時、まだ日本では踊れるトラック、DJ向けのツールを積極的に作ろうというアーティストはほとんどいなかった。水商売的な部分のつきまとうDJとオタク的な内向性をもった打ち込みをやる人のあいだには、相当深い溝があった。だからこそ、僕らは加々美くんのデモを聴いて狂喜した。
![]() 電気グルーヴの香港ライヴにて(2000年)。 |
いま考えるとかなり不思議な感じもするが、かなり長いあいだKAGAMIはライヴをやることを頑なに拒んでいた。友だちのパーティとか、限定された機会に実験的にやることはあったかもしれないが、公式にライヴをやると告知してしっかりセットを組み立てたのはずっと後になってのことだ。最初はお世辞にもうまいとは言えないプレイだったし、呼んでくれるパーティもほとんどなかったが、KAGAMIはずっとレコードを愛していてむしろDJをやることにすごく真剣に取り組んでいた。タバコも吸わないし酒も飲めない、どんちゃん騒ぎしたりフロアで激しく盛り上がるタイプでもないKAGAMIが、クラブというもしかしたら彼の肌にしっくりくるわけでもない職場であんなに長くすごせた理由。ただ音楽の知識とかDJテクニック的なことじゃなく、レコードを掘る楽しみとかお客さんと対峙する姿勢とか夜遊びのコツとか、たぶんそんなもろもろを肌で吸収したのは、DJ
TASAKAを通してだったんじゃないかと思う。
たぶん、TASAKAもまだ大学生だったと思うんだけど、浅草にあった(後に青山に移転)レコード屋〈ダブ・ハウス〉で彼がバイトしていたら、いつの間にか入り浸ってずっとレコードを聴いてる迷惑な客だったKAGAMIがレジ・カウンターの内側にいた。当時、まだKAGAMIも専門学校を卒業したばかりか、在学中だったはずだから、暇はあるけど金はないってとき。最新のレコードを聴き放題で、気が向いたら店のターンテーブルでDJすらできて、なおかつお金がもらえるというのはおいしすぎるバイトだったろう。最近になっても、友だちの洋服のショップで「レジ打ちなら得意だから、人手が足りなければ手伝う」などとうそぶいていたようだが、たぶん、このときが彼にとって数少ない「ふつうの」仕事をした経験であったのと同時に、TASAKAという得難いパートナーとの出会いとなったのだった。
たしか、TASAKA自身、この店に客として来ていた卓球にデモテープを渡して、だんだんとキャリアが開花していったはずだから、短命だったこの店は、実は日本のシーンにとってとても重要な役目を担っていた。――というか、海外だったらDJが店員という店はたくさんあるが、ほとんど床で寝ているかレコード聴いてるだけだったという噂もあるKAGAMIを雇うというのはすごい経営判断だったと思う。ちなみに、この店を仕切っていた女性は、のちにDJ TASAKAの夫人となる。
その後、意気投合したKAGAMIとTASAKAのふたりは、〈DISCO TWINS〉という名前のパーティをスタートさせる。たぶん、〈DISCO TWINS〉はふたりのユニットだと思ってるひとも多いだろうが、あくまで最初はふたりの共通の音楽要素であるディスコに的を絞ったパーティだったのだ。そのうち、それぞれが交代でブースに上がるだけでなく4ターンテーブル2ミキサーでいっしょにDJをしはじめ、まずはミックスCDを出すことでユニットとしての形を提示、そこから曲の制作にもどんどん乗り出して、最終的にはアルバムを出したり吉川晃司をフィーチャーしたプロジェクトなどもおこなった。
最近でこそ複数人が同時にステージに上がりひとつの流れを作るというスタイルでプレイするDJも結構いるけど、リアルタイムに目配せしつつお互いのネタ出しを瞬時にやって、個性を殺し合わずものすごいプラスを生みだしているというコンビは、ほとんど見たことがない。それぞれは意外に照れ屋だったり飽くなき挑戦心をもってるふたりが、いろんな殻やしがらみやらかっこつけやらを脱ぎ捨てとにかくパーティ・モードで盛り上がれる音を全力で若いクラバーにぶつけたDISCO TWINSは、とても貴重な存在だったし熱いエネルギーを持っていた。
訃報を伝える電話をTASAKAからもらったとき、僕はもうほかから話を聞いていてわかわからなくて悲しくて半泣きだったけど、彼は無理矢理笑って直前の週末にいっしょにDJしたことや、なんで突然逝ってしまったのか全然わからないってことを話してくれた。それで「たぶん、まちがって電源落としちゃったんじゃないかなぁ、あいつバカだよなぁ......」って言っていて、こんなときでも機材の連想が浮かんでしまうんだろって容易に想像できるテクノ馬鹿一代ふたりの、スタジオや楽屋での会話やなんやかんやが想起されて、本当にやり切れない気持ちになってしまった。
KAGAMIと言えば、やっぱり2000年にリリースされた"Tokyo Disco Music All Night Long"だと皆が言うだろう。いまだにiTunes Storeなどで売れ続けているし、アナログ盤が世界で5000枚以上売れ、ドイツではメジャーがライセンスし、くるりの岸田くんやサニーデイの曽我部くんが絶賛し、2 Many Dj'sが無断でネタにしたというこの曲は、ジャパニーズ・テクノの歴史のなかでいちばん成功を収めた楽曲のひとつだと言っていいと思う。しかし、この曲がああいう形で世に出ることになったのも、本当にただの偶然だった。ヘルがデビュー・アルバムをかなり気に入ってくれて、彼のレーベル〈Gigolo〉がニューウェイヴ・リヴァイヴァル的な流れを作って、ミス・キティンとかゾンビ・ネーションみたいな新しいスターを生みだしはじめたころ、KAGAMIは〈Gigolo〉からのシングルとして、「Tokyo
EP」用の2曲を作った。それ以前のファンクを感じる黒っぽいディスコ・リコンストラクトからジョルジオ・モロダー的なエレクトロ・ディスコへと完全にシフトし「これが東京のディスコ、東京のテクノだ」と思いっきり打ちだした。最初から〈フロッグマン〉で出そうとして作ったらここまで恥ずかしげもなく東京! と連呼するアッパーそのものの曲はできなかった気がする。敬愛するヘルの懐へ飛び込もうとしたからこその、この思い切りだったのだ。
しかし、僕が丁寧な手紙をつけてDATを送っても、しばらくレスポンスはなかった。曲を聴いたこちら側の人間は誰ひとりとして熱狂しない者などいなかったのに......。しびれを切らして何度か電話したりして催促すると、どうもヘルは思っていたのと違うタイプの曲だったからとリリースに乗り気でないという返事がきてしまった。「じゃあいいよ、これだけサポートしてくれて、気に入ってくれてる〈フロッグマン〉で出そうよ」とKAGAMIは言った。それで、新しく決まったドイツのディストリビューターに音を送って、心機一転再度欧州での成功を目指す〈フロッグマン〉の久しぶりのアナログとしてリリースされたのだ。その後、卓球はじめあらゆるDJがサポートしてくれ、本人は出てないのに〈WIRE〉で何度もかかりまくり、数ヶ月後にアナログが発売されるとどこの店でも売り切れになって空前のヒットになっていったのはみなさんご存じの通りだ。いつだったか、ベルリンのクラブでヘルがこの曲を嬉々としてプレイしているのを見たときはビックリした。あれ、気に入らなかったんじゃないの? と。でも、神のいたずらか、ああいう形でこの曲が世に出たことは、KAGAMIのそれからの音楽人生を大きく変えることになったのだった。
KAGAMIは、動物的な勘とカッコイイことに異常なこだわりをもったアンファン・テリブルという姿からずっと変わらなかった。子供がやるように機材を手に入れるとすぐにシールだの落書きだので自分仕様にして、おもちゃで遊ぶようにただただ本能に従って音を出しては「あはは」と笑っていた。
![]() KAGAMI サウンドの心臓、2台のMPC2000、ステージ楽屋で(2002年)。 |
"Tokyo Disco..."のヒットでKAGAMIにはふたつの大きな変化が訪れた。電気グルーヴのサポート・メンバーとして声がかかって雲の上の存在だと思っていた卓球、瀧と一緒に長い時間をすごし、ライヴごとにアレンジやアプローチが変わる電気グルーヴのトラック制作の重要な部分を任されることになった。これは、たぶん彼にとってとてつもないプレッシャーになったはずだが、僕らには愚痴も文句も泣き言もなく、あの飄々とした様子でサポートをつとめた。それどころか、卓球の要求に応えたり横でいっしょに作業したりすることでメキメキと実力をつけ、無尽蔵と思えるほど曲のアイデアが湧いて次々驚かされるような曲を作ってくるようになったのだ。普通あれだけのヒットを出したら次どうするかと悩むだろうし、DJやリミックスの仕事が急に忙しくなったらそっちに時間を取られてなかなか次の曲が作れないというアーティストも多いのに、KAGAMIはまったく逆。そうして、CMJKも砂原良徳もずっとは続かなかった毒の強すぎる石野+瀧のコンビと昔からずっとそこにいるように馴染んでるのも衝撃だった。ステージで瀧にいじられたり、インタヴューでなにかとKAGAMIの話題が出てきたり、篠原までもがKAGAMIと仲良くなっていたりと、なんだかマスコット的なポジションに収まりつつあるのは、親心的にいつも嬉しく思っていた。
いっぽうで、それまでも頑固で秘密主義だった彼の制作スタイルは、ますます神秘のベールに包まれるようになった。意見は求めても指示やディレクションはまったく要らないという傾向が、いっそう強くなっていった。もしかしたら、友だちにはもっとアドヴァイスを求めていたのかもしれないし、僕も全然関係ないこと(iPodとかパソコンとかゲームの相談とか......)では何時間も電話で話すこともよくあったけど。
もうひとつ、メジャーのワーナーから話をもらって、セカンド・アルバムの『STAR ARTS』はそれまでに比べたら潤沢な予算を使って制作することができた。そこで爆発したのが、とくにアートワークや作品としてのアルバムの見せ方など、KAGAMIらしいこだわりだった。ずっと仲のよかった新潟のファッション・デザイナー関くん(Submerge / TAR)に大きな油絵を描いてもらい、それを全面にプリントしたデジパックのパッケージは、帯とディスク下にトレーシング・ペーパーを使いジャケ自体にはほとんど文字情報がなく、盤自体は2枚組にするという贅沢な仕様だった。しかも、2枚組の2枚目はどうしても「なんだこれ?」とリスナーが混乱するようなものにしたいと言って、譲らない。最初は、まったく同じデザインなんだけど1枚は空のCD-Rにしようと言っていたがそれは却下され、「カガミだから、鏡像にしよう。デザインもひっくりかえしたものにして、音は1枚目の音を全部逆回転して入れよう! カーステレオで聴こうと思ってCD入れたら、びっくり! みたいなものにしたい。それでも最後まで聴いてくれたら、なにかいいことがあるような、そんな2枚目がいいよ」と、とても【新人でよくわからないインストのダンス音楽やってるアーティスト】とは思えない無謀なアイデアを連発して、どうにかこうにか、それを了承してもらった。それをメジャーの人たちが納得するわけないだろう......という侃々諤々の話し合いを何十回もした記憶がある。あのアルバムは本当に大変だったなぁ。
ただ、この頃からもう、自分の役目はいっしょに「あーでもないこーでもない」って彼の突飛な発想に乗っかって遊ぶと言うより、どうにかしてそれを実現させようと大人と交渉したり予算を持ってきたりときにはKAGAMIに諦めてもらったりという、どうにも嫌な役回りばかりになった。もちろん、子どもみたいに突っ走ってしまうことも多かった彼を誰かがコントロールしないと、というシーンも増えていた。アート志向の強い前出の関くんの影響も大きかったのかもしれないが、後から振り返るとKAGAMIの「やりたい!」と言ったことは無謀であっても面白いことがたくさんあった。まだパソコンの性能も低かったし個人でProToolsを操るひともいなかったから、けっこうな予算を使ってエンジニアにスタジオで曲をHD上で編集してもらってミックスを作っていくというのは間違いなくその後のKAGAMIのライヴでの構成や音作りに役立ったし、〈WIRE〉のライヴ音源をCDにしたいという卓球からの依頼で作った『WIRE
GIGS』(タイトルは、加々美くんが大好きだったBO?WYからのインスパイア)では、「音を作らなくていい分ジャケにこだわりたい」と言ってコンセプトを「プリクラ」に定め、〈WIRE〉の映像をプリクラ状に大量にプリントした上で自分でコラージュしてアートワークを作り込んだ。このときの経験は、息子とともに手書きでクレジットから何から仕上げたミックスCD『PAH』につながっているだろう。
僕はよくあいつに言ってた。「どこのメジャーなレコード会社にもマネジメントにも所属しないで、最初からDJユースのテクノだけを作って、自分のやりたいようにやって成功してたKAGAMIは、ほんとかっこいいと思うよ」って。少なくともこの国だけで見たら、そんな人はほとんどいないんだし。
![]() ついにWIREのメインステージに登場。緊張の面持ちでリハーサル(2003年)。 |
そうやって、なんでもかんでも自分で抱え込んで、自分の理想にできるだけ近づけようと突っ走るKAGAMIは、人知れず大きな疲労をためてしまっていたのかもしれない。よりプロフェッショナルなプロダクションで、ナカコー、シーナさん、MEGちゃん、カオリちゃんと夢のようなヴォーカル・ゲストを迎えて作った彼のオリジナル・アルバムとしては最後の作品になった『SPARK ARTS』では、制作過程でこれが〈フロッグマン〉と作る最後の作品という決断を切り出された。その数年後、運営がうまくいかなくなって、〈フロッグマン〉を続けられなくなってしまったという話を深夜に電話で切り出したときは、口にこそ出さなかったけどこれ以上ないくらいショックを受けているようだった。"僕が愛して僕がデビューして僕とともに歩んだレーベルは、永遠にかっこよくあって欲しい"という想いがたぶんいつもKAGAMIのなかにはあって、その期待を裏切ってしまったのだから。
だから、一旦ピリオドを打つための盤となる〈フロッグマン〉のベストを作る決心をした際も、「いやぁケンゴの気持ちはわかるけど、僕にとっても〈フロッグマン〉は大切だし、納得いかない【ベスト】作るくらいなら出さないで欲しい」と言われた。じゃあKAGAMIが全面的に協力してやってくれるのかと聞くと、自分から独立したわけだし、ほいほいと愛憎まみえるレーベルの墓標になるかもしれない作品に手を貸すと言うわけもなかった。少しわだかまりのあるまま、既存の曲の使用と最後のパーティへの出演だけは認めてもらって、バタバタと〈フロッグマン〉は休眠。その後は、たまにクラブの現場で挨拶するくらいになっていた。
どちらかと言うとプライヴェートで近いところにいたMOAくんのレーベル〈Carizma〉でシングルを出したり、前出の『PAH』やベスト盤『BETTER ARTS』を出したりと、ゆっくりと再始動のアクセルをふかしはじめていたように見えていたKAGAMI。実は、やはり別のレーベルから出す予定でお蔵入りになってしまったかっこいいミニマルのトラックが手元にあって、僕はそれが大好きだったからベストで使いたいと話したら、「自分で手を加えてリリースするつもり」と言っていたのに、結局それらはリリースされなかった。そういうどこかに眠ってる曲や、途中までできてる曲がたくさんあるはずなのだ。そろそろ、完全な新作、まったく新しいKAGAMIの姿を拝めると期待していた。もちろん、これから彼の友だちやまわりの人の手で発見された未発表の曲が作品として出てくることはあるかもしれないが、本来あいつは自分で納得してないものは、絶対出さないし聴かせるのすら嫌がる男だったから、それらがどんな形でお目見えするはずだったかは、永遠にわからない。
いつだったか原稿で、「テクノとインヴェーダー・ゲームやるのは同じだよ」みたいなKAGAMIらしい発言をして、インタヴュアーの野田さんが頭上に「?」を浮かべて困ってるというのを読んで爆笑したことがあった。彼の言葉はときに通訳が必要なこともあったし、器用に生きてるとも言えなかったが、誰に聞いても彼の言動は彼なりの筋が通っていたし、天才を感じさせる瞬間がたくさんあった。僕と佐藤大は、自嘲的に「凡才インディーズ」なのだと自分たちのやってることを説明している時期があったけど、凡才の僕らだからこそなんだか得体の知れない生き物みたいなKAGAMIのポテンシャルに最初からやられてしまったし、自分の限界が簡単に見えてしまう凡才だからこそ、KAGAMIの聴かせてくれた音、見せてくれたすごい景色に、「こんなすごいものがあるなら、まだ次がもっと次が......」とどんどん欲が出て、それが彼のような独特のアーティストを育てていく下地になったんじゃないかと思う。
正直言って、僕にとってのKAGAMIは、動物的な勘とカッコイイことに異常なこだわりをもったアンファン・テリブルという姿からずっと変わらなかった。子供がやるように機材を手に入れるとすぐにシールだの落書きだので自分仕様にして、おもちゃで遊ぶようにただただ本能に従って音を出しては「あはは」と笑っていた。口べたで、真剣に音楽の話をしようとしても「うんうん」とちゃんとわかってるんだろうかと不安になるような相槌ばかりだった。だからこそ、彼のトーンやリズムは饒舌だったし、それがたくさんのひととコミュニケーションするためのツールだったんだと思う。一方で、岡村ちゃんとかオザケンとかクラムボンとか、独特の歌詞や世界観をもったポップスのアーティストを愛していたKAGAMIにも、もっと情緒とか人間性とか、なんというかいつものシンプルな形容詞では言えないようなことを表現したいという欲求はあったと思う。そういう話をもっとできなかったのは残念だった。もしかしたら自分の息子が大きくなってきて対話したりするなかで、そういう閃きを得ていたかもしれないなとも思うだけに。
実は、KAGAMIの訃報を載せるためにものすごく久々にフロッグマンのサイトに手を入れたとき、僕はもうこのままフロッグマンは永遠に眠りつづけるのだろうと勝手に思っていた。例えば、何年か後にまだ第一線で活躍していて、一緒にやろうよとかなにかそんなプランが芽生えて実現する可能性のあるアーティストは、たぶんKAGAMIしかいないだろうから。リョウ・アライもヒロシ・ワタナベも、最初〈フロッグマン〉で作品を出してその後立派なアーティストとして羽ばたいていったひとたちは、きっと僕らがレーベルやっていなくても別の形で世に出たり活躍していたと思うけど、KAGAMIというアーティストはたぶん、かなりの部分僕らが育てたと言える存在だった。そのKAGAMIがいなくなってしまったいま、もう復活することは二度とないんだろうなと。
BPM133と135の曲ばかり作っていたKAGAMIが、まるで彼の愛したレコードみたいに33で逝っちゃうなんて、なんでこんなことが現実に起きるんだろうとしばらくはぐるぐる考えた。たしかに、僕はよくあいつに言ってた。「どこのメジャーなレコード会社にもマネジメントにも所属しないで、最初からDJユースのテクノだけを作って、自分のやりたいようにやって成功して、誰かの決めたルールや道筋なぞって生きてるわけじゃないKAGAMIは、ほんとかっこいいと思うよ」って。少なくともこの国だけで見たら、そんな人はほとんどいないんだし。だからって、こんなに早く死んじゃって、そんな伝説まで作らなくてもよかったんだよ。ぜんぜん笑えないし、最悪のサプライズ・パーティ in 町田だったよ、まったく。
何を聴いても、たくさんの情景が浮かんでしまってキツイからしばらく聴けないなと思っていたKAGAMIの曲。しんみりする作品なんてひとつもなくて、ずっと元気にリズムを打ち鳴らしつづけるあれらの曲なのに、それを本人のお葬式でずっと聴くことになるなんてな。でも、そうやって耳にしたあのタフでアッパーなトラックに鼓舞されたのか、式の最後に、佐藤大や、たくさんの世話になった人たちからも、「せっかくだから何かやろうよ、フロッグマン、眠ってるだけなんでしょう?」と意外な声をかけられて、ああそういう風にも考えられるのかと驚いてしまった。まったく柄にもなく、縁取りもつみたいなことしてくれちゃうんだ、KAGAMI......と。たしかに、残された者は、アゲてくしかないんだよね。わかったよ。Party Must Go On. Disco Music All Night Long!
1. Tokyo Disco Music All Night Long (「TOKYO EP」 / 2000 / Frogman)
めまぐるしく表情を変えながらすべてをなぎ倒してスクラップ&ビルドしていくような迫力あるトラックと、ヴォコーダー声でKAGAMI自身が唄う東京賛歌。リミックスも多数あるが、やはりオリジナルが素晴らしい。クラシック。
2. Perfect Storm (「The Romantic Storm EP」 / 2000 / Frogman)
『WIRE01 Compilation』にも収録され、KAGAMIのWIREデビューとともに記憶される曲。印象的なワンフレーズとヴォイス・サンプルの執拗な繰り返し、フィルターの極端な開閉で表情が変わりビルドアップしていく。まさに嵐を呼ぶかのよう。
3. Tiger Track (「Tiger Track」 / 2005 / Frogman)
そういえば何枚かブラジルもののレコード貸したままになってるな...と思い出されるバトゥカーダ的リズムの錯綜する激しい曲。監督の希望でアニメ『交響詩篇エウレカセブン』の音楽として起用され、重要な戦闘シーンで何度もかかる。
4. PC Na Punk De PC Ga Punk (『Spark Arts』/ 2005 / Platik, Frogman)
KAGAMIのソングライターとしてのユニークさが聴ける。リミックス担当した大昔のシーナ&ロケッツの曲のイメージでシーナさんに唄ってもらったら迫力がありすぎたので、急遽MEGちゃんとの掛けあい曲として完成させた。
5. Machicago (「Splinter EP」 / 2002 / Frogman)
シカゴのゲットーからアシッド・ハウスやゲットー・ハウスが生まれたなら、地元町田だってゲットー感なら負けてないから、町田ならではのサウンドがあるはずだと言って作った曲。DJ Funkあたりを彷彿とさせる恐ろしくファンキーなリズムと「Pump It Up!」の掛け声が強烈。
6. Hyper Wheels (『The Broken Sequencer』 / 1998 / Frogman)
ヘルがこの頃のKAGAMIのことを、「Jeff Mills meets Daft Punkだ!」と言っていて、たしかに芯の太いビートと荒々しいディスコ・サンプルで構成されたスタイルはそういう雰囲気。ファースト・エディに捧げられたようなこのトラックは、踊れるグルーヴ作りに天才的な閃きをもつ彼の実力を早くも感じさせる。
7. Y (「Y EP」 / 1995 / Frogman)
本文中にも出てきたデビュー曲。Bサイドはカエルが歌うアシッド・トラック"Pyon Pyon"。最初のデモは曲が長すぎて途中でブチッと切れてしまってる安物の10分カセットに収録されていた。DJを初めてやってもらったとき、これと元ネタの"YMCA"の7インチを延々ミックスして遊んでいたなぁ。
8. ∞あわせKAGAMIの現実∞ (Disco Twins)
(『Twins Disco』 / 2006 / Kioon)
デモ段階では少し石野卓球の影響もうかがえる「歌」を披露することもあったKAGAMIが、初めて公式に歌った曲。Disco Twinsならではの冒険か。実はJ-POPも大好きだった彼の意外な一面が知れるし、なんと言っても歌声が聞けるのはいまとなっては貴重。
9. Guardians Hammer 「Guardians Hammer」 / 2008 / Carizma)
KAGAMI名義では、一番新しいオリジナル曲。多少パーティ感は抑え気味だがサーヴィス精神豊かなKAGAMI以外には作れないアッパーなテクノで相変わらず楽しい。Bサイドがブリープ~エレクトロ的な、DJでKAGAMIの選曲を知ってるひとなら「待ってました」というタイプのトラックで、こちらも良い。
10. Beat Bang Black (『The Broken Sequencer』 / 1998 / Frogman)
激しい太鼓系ミニマルの「黒」は、数多くのDJに愛された初期の代表トラックのひとつ。時を経ても、この辺の若さと天性のフットワークで駈けぬけるような気持ちよさは色褪せてない。トーマス・シューマッハがあまりに気に入ってライセンス、自らリミックスも手掛けてドイツでもヒットした。
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HOLGER CZUKAY
LET'S GET HOT
CLAREMONT 56 / UK / 2010/6/16
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JUZU a.k.a. MOOCHY
JUZU PRESENTS "MOVEMENT" EP2
CROSSPOINT / JPN / 2010/6/26
»COMMENT GET MUSIC
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![]() ポストパンク・ ジェネレーション 1978-1984 サイモン・レイノルズ (著) 野中モモ (監修, 翻訳) 新井崇嗣 (翻訳) シンコーミュージック・エンタテイメント |
質問は、答えよりも重要である――答えるよりも圧倒的な速度で質問ばかりが溢れ出てしまう。涙のように、とめどなく。感傷的な書き出しだが仕方がない、30年前の話だし、少しばかりは許して欲しい。
もうひとつある。音楽とはメッセージを伝達するメディアであるという考えに対する反論だ。音楽とは言葉の乗り物であり、サウンドは乗り物の役目さえ果たすならそれで良いという考え、たとえばある種の青春パンクのように、言葉がそれなりに機能しているなら、サウンドはまあまあカタチになっていればそれでよいという考え方の否定だ。サイモン・レイノルズの言を借りれば「音楽を単なるアジテーションの道具とみなすのではなく、このラディカリズムが言葉とサウンドにおいて等しく現れ」ること。つまり、語り口そのものも更新されなければならない、主題とともに文体そのものもフレッシュでなければならない、ということ。そうした意志がポスト・パンクと呼ばれたムーヴメントのもうひとつの大きな特徴だった。
ゆえにポスト・パンクは、チャック・ベリーを墓に埋めて、おおよそロックンロール以外すべての音楽にアプローチするのだった。
イギリスの評論家、サイモン・レイノルズの著書『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』の翻訳が出た。原題は『Rip It Up and Start Again』(引きちぎって、もういちどはじめよう)、グラスゴーのバンド、オレンジ・ジュースのデビュー・アルバムのタイトルからの引用だ。原書は2005年に上梓され、欧米ではずいぶんと評判になり、そしてまた議論を呼んだ。
評判となったのは、率直に言ってこの本が素晴らしいからだ。ザ・レインコーツのジーナ・バーチは冗談めかしながら女性バンドへの注意の欠如を指摘していたけれど、ジョン・サヴェージの『イングランズ・ドリーミング』に続く本があるとしたら、間違いなく本書だ。決定版だと言って差し支えない。レイノルズはポスト・パンクの多様なバンドたちを手際よく分別し、許される限り細かくしっかりと論評している。読み応えがあり、あたらめて知るところも多い。
そもそもこの本は求められていたのだ。ゼロ年代がポスト・パンク・リヴァイヴァルのディケイドだったからである。われわれはもういちどレコード棚からザ・スリッツやザ・ポップ・グループを、ザ・フォールやスロッビング・グリッスルを引っ張り出した。アシッド・ハウスから20年、もう用はないだろうと奥のほうに仕舞い込んでいた幼児ポルノのジャケットを(TGの『D.o.A.』だ)、ホコリまみれになりながら探し出すとは思ってもいなかった。そして......ギャング・オブ・フォーやヒューマン・リーグが新世代のバンドに影響を与え、ザ・スリッツやザ・レインコーツが来日する日がまさか来るとは......。
世代的なことをいえば、僕はレイノルズとまったく同じ年齢で、ポスト・パンクを思春期の好奇心のかたまりのなかで聴いている。ザ・レインコーツのインタヴュー記事でも書いているように、いま思えばそれはパンクという火山が爆発したあとに空から無数の素晴らしい音楽が降ってきたようだった。それらのうちの数枚が静岡市という小さな地方都市の輸入盤店の壁に並び、そして僕の人生を変えた。いはやはなんとも......。
[[SplitPage]]![]() ポストパンク・ ジェネレーション 1978-1984 サイモン・レイノルズ (著) 野中モモ (監修, 翻訳) 新井崇嗣 (翻訳) シンコーミュージック・エンタテイメント |
「反抗をカネにする」うしろめたさを誠実に歌うジョー・ストラマーを嘲笑するように、ジョン・ライドンは「反抗でカネ儲け」するために自分の新しいバンド名をPublic Image Limitedという会社名義にした。マガジンは――これもザ・レインコーツの記事で書いたことだが――パンクのルールとなった左翼思想への違和感を、左翼にも右翼にもどちらもにも付かないんだという政治的決意とともに"ショット・バイ・ボス・サイド"で表明した。
ポスト・パンク台頭の背景にはサッチャー&レーガン(&中曽根)が推進する新自由主義政策があった。とくにイギリスにおいては、そのため音楽から政治性が消えることはなかったが、興味深いのは、多くのバンドがクラスのような従来的な政治集会を前提とする活動とは距離を保とうとしたことだった。パンクの団結心という抑圧から解放された反抗のあれこれといった観点においてもレイノルズが言うようにポスト・パンクは「先回りした」と言えるかもしれない。マガジンのハワード・デヴォードのように、マーク・E・スミスもまた政治性は集団ではなく個人として表明......いや、わめきちらした。「すべてを疑え」が合い言葉だった。パンク・ロックどころかRAR(ロック・アゲイント・レイシズム)といった団体でさえもその対象となった。
そして生活におけるミクロな政治学が歌われた。あるいはまた、積極的な読書によって得た知識は頻繁に歌詞に引用された。それは気まぐれなボヘミアン的好奇心に導かれたものか、さもなければ深刻な問題意識の結実だった。ドストエフスキーからカミュ、ユイスマンスからJ.G.バラード、ブレヒトからアルチュセール、ベンヤミン、ニーチェ、そしてイギリスのバンドの多くはたいてい「仕上げにシチュオシオニズムをちょいと」ふりかければできあがり――というわけでもなかったが、そういうバンドの代表格がギャング・オブ・フォーだった。
ポスト・パンクの功績として、女性バンドを数多く輩出したことも見逃すわけにはいかない。しかも彼女たちは、旧来の女性アーティスト像を否定する女性アーティストだった。男の視線をあざけるように泥んこのヌードで登場したザ・スリッツ、あるいはその逆で、ポップ・ビジネス界の常識のあさましさを暴くように普段着のまま登場したザ・レインコーツ、「パーソナル・イズ・ポリティカル(個人的なことは政治的なこと)」を信条としたデルタ5といったバンドは、音楽業界の男たちが求める女性専用のイスをぶちこわして、自分たちが本当に座りたい自分たちの席を確保した。
また、ポスト・パンクはインディペンデント・レーベルによって支えられていたが、それはたんなる自主制作でもなければ、たんなる個人レーベルでもなかった。特筆すべきは〈ラフ・トレード〉で、ジェフ・トラヴィスによるこのレコード店/レーベルは、それまで男の世界だったレコード店に女性を送り込み、社長を含めた従業員全員が同額の報酬という平等主義を貫いて、会社組織そのものにポスト・パンク的な思想を当てはめた。アーティストとの契約の場から弁護士を追い出した「50:50」契約に関しては、ザ・レインコーツの記事に書いた通りである。
音楽的なことで言えば、先述したように、ポスト・パンクは白いロックンロールを否定して、むしろそれ以外のジャンルとの接続をはかった。レゲエ、アフロ、ジャズ、ファンク、クラウトロックやエレクトロニック・ミュージック、現代音楽やノイズ、あるいはパンクが否定したプログレッシヴ・ロックのようなヒッピー・ミュージック――ロバート・ワイアット、キャプテン・ビーフハート、イーノのアンビエント・ミュージック、そしてパンクが毛嫌いしたディスコにも近づいた。ジ・アソシエイツのようにフランク・シナトラや映画音楽に着目したバンドがいるいっぽうで、スロッビング・グリッスルのように60年代末のアングラ文化に端を発しているバンドも珍しくなかった。あらゆる位相において、ポスト・パンクは多様だった。
中学生のときに初めて"サティスファクション"という曲をディーヴォの演奏で聴いた。なんて格好いい曲だろう、と思った。あとになってザ・ローリング・ストーンズによるオリジナルを聴いて、その古くささに愕然としたものだった(その良さは20代になって理解できたが)。ディーヴォの奇妙なユニフォームがロックンロールのケバケバしい服装に対する皮肉だったように、PiLはシックなスーツ姿でメタリックな響きをかき鳴らし、ワイヤーは"ジョニー・B・グッド"をワンコードで演奏した。スロッビング・グリッスルは「音楽をやらない」ことをコンセプトに、ステージ上でヌードになったり、客に血のりを浴びせたりした。オレンジ・ジュースはロックの性表現のすべてを拒み、潔癖性的なアコースティック・サウンドを展開した。ポスト・パンクのロックの文法に対するこうしたシニカルでニヒルな態度をポップの史学ではしばし"アンチ・ロック"と呼ぶが、実際のところ1979年の話をすれば、ロックンロールは加齢臭漂うただ髪の長い老体として最低の扱いを受けていたのである。
ポスト・パンクはロック・ジャーナリズムも変革した、とレイノルズは書いている。ポスト・パンク系の新しいジャーナリズムは、不良性をインテリ的に反逆だとあがめる論法やストリートへの狂信、天才だの狂人だのといったお得意のクリシェ、あるいはニュー・ジャーナリズムの影響下で氾濫したなれなれしい口語的文体「~だよね」「~じゃないのかな」「~しようか」「~だぜ」といった近過去のロック批評へ意義申し立てをした。ジョン・サヴェージとポール・モーリー(のちの〈ZTT〉の創設者、アート・オブ・ノイズとなる)がその代表だったとレイノルズは書いている。
メディアに掲載されるインタヴュー記事においても変革は起きた。アーティストの側でもただ自分の趣味や影響について語る形式的な安易さを拒み、深い議論を好んだ。話は政治や読書、哲学や映画など多岐におよび、インタヴュー記事は、いつかしか深刻な問題について議論する場にもなった。
ポスト・パンクの時代は、音楽ライターがそのままバンドのメンバーになることも珍しくなかった。ポール・モーリー以外でも、オルタナティヴ・TVを結成するマーク・ペリーがいたし、PiLやザ・スリッツらと交流のあった女性レゲエ・ライターのヴィヴィアン・ゴールドマン、のちにザ・プリテンダーズを組むクリッシー・ハイドといった人たちも有名だった。スクリッティ・ポリッティにいたっては、「理屈だけの参加でもそれが重大な貢献とみなされ」メンバーとしたほどだった。
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ポスト・パンクにおいて重要人物をひとり挙げよと言われたら、迷わずジョン・ライドンだと答える。ピストルズ解散後の彼が次は「どんなものであろうと反音楽」であることを掲げ、そしてPiLをはじめたことが、どれほど当時の10代の耳と精神と、それから脳みそまで押し広げたことか......。ロックの古典的な神話学(反抗、ドラッグ、女、セックス等々)に冷笑を浴びせながら、ライドンは子供たちがラモーンズやザ・ダムドのレヴェルに留まっていることを許さなかった。ダブのベースラインとカンのミニマリズムのブレンドをたくらみながら、ライドンはポスト・パンクにおける独学主義に導かれた知性を言葉にした。
アンドリュー・ウェザオールの読書好きは、彼も僕とまったく同じ歳であるがゆえのポスト・パンク世代特有のオブセッションから来ているのだと思う。あの時代、本を読まないミュージシャンは二流だった。レコードの知識だけで認められることはなかったのだ。
それは主に歌詞に表れた。ゲイリー・ニューマンの"カーズ"やザ・ノーマルの"ワームレザーレット"はJ.G.バラードの『クラッシュ』、ジョイ・ディヴィジョンの"アトロシティ・イグゼビジョン"はJ.G.バラードの『残虐行為展覧会』を参照し(バラードはウィリアム・バロウズと並んでインスピレーションの源だったのだ)、スロッビング・グリッスルがマルキ・ド・サドのアンチ・ヒューマニズムを展開すれば、マガジンはドストエフスキーの描いたアンチ・ヒーローを歌い、ギャング・オブ・フォーはブレヒトを引用した。スクリッティ・ポリッティにいたっては、彼らが入れ込んでいた現代思想家の名前=ジャック・デリダを曲名にしたほどだった。
スクリッティ・ポリッティの洒落た知識主義やマーク・スチュワートの政治的決意が騒がれるいっぽうで、それらとは反する快楽主義への意識を高めたのもポスト・パンクだった。ヘヴン17、あるいはソフト・セルやジ・アソシエイツといったバンドは、ほんのひとときの"快楽"を臆することなく賞揚した。そしてこうした連中がのちのハウス・ミュージックへと流れていく......と思えば話は早いのだが、ポスト・パンクにおけるダンスへの情熱の裏側にはドイツへのオブセッションが複雑に入りくんでいることも忘れないで欲しい。そう、ジョイ・ディヴィジョン、ウルトラヴォックス、ゲイリー・ニューマン、ジャパン......等々。スロッビング・グリッスルにいたっては、ある時期本気でファシズムに取り憑かれたほどで(このバンドは、レイノルズが指摘するように、アナーキズムの自由意志性が労働論ではなく唯我論に向かうときファシズムとの親和性が待っていることいち例)、それはまあともかく、とくに東欧や旧ソ連や中国への憧れにはマーガレット・サッチャーの新自由主義に晒された若者たちの正直な迷い――この残酷な競争社会を生きるくらいなら統率の取れた社会主義の国でロボットのように生きたほうが楽だという、なんとも辛い、微妙な揺らぎがある。とくにウルトラヴォックスの"アイ・ウォント・トゥ・ビー・ア・マシン"や"マイ・セックス"といった曲には、そうした倒錯性がよく出ている。
まあ、そんなわけで僕は、ザ・レインコーツの取材でポスト・パンクを「パンクにおける"議論"」という言葉に喩えてみた。もちろんどんなジャンルにも"議論"はあるものだが、ポスト・パンクにおけるそれは表現の、先ほどから指摘しているような、とんでもない多様性に結びついている。
レイノルズはこう書いている。
パンクは雑多なる不満分子の大群を、「反対」勢力としてわずかのあいだだけ団結させた。しかし、その問いが「何に対して?」に移行したとき、ムーヴメントは散り散りになり、それぞれが自分自身にとってパンクが意味するものの創造神話と、次にどこへ行くべきかのヴィジョンを育てていった。白熱する議論のなか、それぞれが共有している意見の不一致は、それでもなおそれぞれが共有しているものを明らかにした。パンクによって復活した音楽の力への信頼、そしてこの確信とともに生じる責任。これこそが「これからどこへ?」という問いを取り組むに値するものとした。この分裂と不一致の副産物がポストパンクの多様性であり、60年代の音楽の黄金時代に匹敵するサウンドとアイデアの魅惑的な豊かさなのだ。
大筋に関してはまったくその通りだと思う。
『ポストパンク・ジェネレーション』にはイギリスとアメリカ、ドイツやオーストラリアのバンドが取り上げられているが、この国からも多くの偉大なる「興味深い失敗」=ポスト・パンクが生まれている。フリクション、スターリン、タコ、ほぶらきん、非常階段、水玉消防団、チャンス・オペレーション、NON BAND、プラスティックス、P-モデル、じゃがたら、ミュート・ビート、EP4、突然段ボール、ゼルダ、INU、アント・サリー......エトセトラエトセトラ......われわれはこうした音楽に夢中になり、レイノルズが書いているように「どこまで音楽に真剣に取り組めるか、来る週も来る週も試み探求した興奮に次ぐ興奮の日々」を送った(90年代初頭にテクノに夢中になった人にはこの感覚がそれなりにわかる。そう、最低でも週に2回はレコード店をチェックしなければ気が済まない日々のことを......)。
だが......この素晴らしい労作である『ポストパンク・ジェネレーション』に関してもっとも重要なことを最後に言わせてもらえば、僕も、そしてレイノルズもまた、実はポスト・パンクの弊害についてもよく知っている、ポスト・パンクの"ポスト"についてもよく知っている、ということだ。レイノルズはレイヴ・カルチャーに触発された『エナジー・フラッシュ』を著し、僕も『ブラック・マシン・ミュージック』を書いている。どちらも1963年生まれの音楽狂いが、ダンス・カルチャーに触発されて書いた本だ。われわれ世代は、アシッド・ハウスの到来とともに「さらばポスト・パンクの知識偏重主義よ、さあバカになろう」と言って踊っているのである。ジョイ・ディヴィジョンのレコードを売り払い、中古でバーズのレコードを探し、そして太陽を求めたのだ。
だから、とうの昔にハウスとストーン・ローゼズを通過したわれわれ世代にとっては、『ポストパンク・ジェネレーション』は、あらかじめ結末を知っている物語を読んでいるようでもある......が、しかしイギリスの高名な評論家は、その結末にあらためて"揺らぎ"を与えているようだ。そうした"揺らぎ"は、ポスト・パンクの時代に思春期を送った人間にとってのある種の因果なのかもしれない。冒頭に書いたように、質問は答えよりも重要なのだ。それは決断主義に徹することのできない弱さと自由、もしくはいい加減さと優しさとの表裏一体を意味する。威張れた話ではないが、40にして迷っている人間だっているのだ。
レイノルズはこう結んでいる。
僕が音楽にこんなにも多くの期待を寄せることができるのはあの時代のおかげであり、感謝の思いはこれからも変わらない。
まったく同意するが、「音楽にこんなにも多くの期待を」寄せているのは、われわれの世代だけではない。磯部涼や七尾旅人や二木信だって、それぞれの背景があり、それなりに期待を寄せている。自分よりも10歳も若いのに裸のラリーズを50枚持っているという松村正人のような人に関してはただただ驚愕するが、彼の場合は、奄美大島出身ということが大きく影響しているのかもしれない。とにかく、当たり前の話、ポスト・パンク世代だけが特別であるはずがない......が、あらためていま思えば、あの時代の音楽にはいまでも有効な、成し遂げるべき夢があるとは思う。
パンクが否定したヒッピーよりも前向きな意味でヒッピー的で(ラフ・トレードを見よ)、60年代の反体制のスターの背後には敏腕マネージャーやメジャー・レーベル、業界の切れ者たちが付いていたものだが、ポスト・パンクの"カウンター"を後押ししたのは素人たちの理想主義への情熱だった。DIY主義であり、アンチ・スターシステムであり、独学主義だった。ポスト・パンクのそうした態度がやがてわれわれ世代をハウス・ミュージックに向かわせ、レイヴ・カルチャーに突進させたことは言うまでもない。
だからって30年後のいま、「引きちぎって、もういちどはじめる」べきだろうか? ポスト・パンクには"やり過ぎた"側面もあるし、"曖昧すぎた"ところもあった。"集まる"ことを警戒し過ぎたことも否めない。短期間のあいだにあまりにも多くの実験を詰め込めすぎたのかもしれない。が、迷ったときに立ち返ることは無駄ではない。なにせアイデアの宝庫だし、なにせポップ音楽における新自由主義への最初の反応だった。で、"答え"だって? そんなものは下僕どもにまかせておけばいい――と、ポスト・パンク風な引用でこの原稿を終わりとしよう。
この国のラップ・ミュージックにおけるイリーガルなトピックやニュースを単純に善悪の問題へと矮小化することは、つまり、その背後にある人間の苦悩や葛藤、文化や社会の複雑さや本質から目を背ける愚かな行為と言わざるを得ない。
すでに1ヶ月以上も前のことだが、5月14日、池袋のヒップホップ・クラブ〈bed〉にビッグ・ジョーのライヴを観に出かけた。終電後、家のある中野から1時間かけて歩いた。〈KAIKOO POPWAVE FESTIVAL '10〉でのライヴを友だちと酒盛りに興じる間に見逃してしまったことを後悔していた。だから、その日は、酒は控え目にして、ライヴの時間を待っていた。ビッグ・ジョーは、「WORLD IS OURS」と冠された全国ツアーの一環で東京を訪れ、MSCの漢らが主催する〈MONSTER BOX〉に出演していたのだ。ハードでタフなスタイルを愛するBボーイが集まる、ハードコア・ヒップホップのパーティだ。DJ BAKU、CIA ZOOのTONOとHI-DEF、THINK TANKのJUBE、INNERSCIENCE、JUSWANNA、PUNPEE、S.L.A.C.K.、CHIYORI、PAYBACK BOYSのMERCYと、100人も入ればいっぱいのクラブには多くのラッパー、DJ、ミュージシャンも駆け付けていた。
深夜3時過ぎ、ビッグ・ジョーは、圧倒的な存在感を持ってステージに登場した。オーディエンスを一瞬にして釘付けにする訴求力にはやはり特別なものがある。ステージで躍動するビッグ・ジョーは、ハードにパンチを繰り出す野性味溢れるボクサーのようであり、愛を説く説教師のようであり、また、街頭で群集に決起を呼びかける扇動者のようでさえあった。ストリートの知性とは何たるかを、スピリチュアルに、セクシーに、ポジティヴに表現し、光と影の世界を行き来していた。ライヴ前半、いま注目のトラックメイカーのBUNによるスペイシーなグリッチ・ホップ風のトラックの上で、ビッグ・ジョーが過去の追憶と未来への決意を歌う"DREAM ON"がはじまる。『RIZE AGAIN』に収録された曲だ。ビッグ・ジョーが「夢を持っているヤツら手を上げろ!」と叫ぶと、フロアが一瞬身構えたように見えたが、4、5人の女性ファンが豪快に体を揺らしながら、いかついBボーイたちを尻目に大きな歓声を上げるのが目に飛び込んできた。
![]() B.I.G JOE Rize Again Triumph Records / Ultra-Vibe amazon iTunes Store |
1975年、ビッグ・ジョーこと中田譲司は北海道・札幌に生まれる。ビッグ・ジョーは、『RIZE AGAIN』のなかでひと際メランコリックな"TILL THE DAY I DIE"という曲でも自身の幼少期について赤裸々に告白しているが、リーダーを務めるヒップホップ・グループ、MIC JACK PRODUCTION(以下、MJP)のHP内のブログで、生い立ちについて次のように綴っている。
「物心がついた頃、親父がヤクザだったのが判明して、悪いことするのがそんなに悪い事だとは思ってなかったんだ。悪いことと言っても万引き、ちょっとした盗み、ギャング団みたいなのを小6までに結成して中学入ってからは、喧嘩、カツアゲ、タバコ、バイク、夜遊び、マ-ジャン、e.t.c...あげればもう片手ぐらいは出てきそうだが、YOU KNOW?? いたって普通の悪いことだよ」(『Joe`s Colum』VOL.21 「BEEF&DRAMA」 08年2月)
ストリートで生きる16歳の不良少年を音楽に目覚めさせたのは、レゲエのセレクターの兄が勤める美容室にあった2台のターンテーブルとレゲエ・ミュージシャン、PAPA Bのライヴだった。「兄貴がレゲエを買ってたんで、俺は違うのを買おうって。ビズ・マーキーとかEPMDとかを買ったりしてた」
ビッグ・ジョーは、レゲエのディージェーやセレクターではなく、ヒップホップのラッパーとしてキャリアをスタートする。転機は19歳の頃に訪れる。RANKIN TAXIが司会を務める『TAXI A GOGO』というTV番組のMCコンテストに出場し、北海道予選で優勝を果たしたのだ。
その流れでDJ TAMAとSTRIVERZ RAWを結成。その後、90年代中盤にRAPPAZ ROCKを結成し、当時の日本語ラップをドキュメントしたコンピレーション・シリーズ『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP』に、"デクの棒""常夜灯"といった曲が収録される。先日亡くなったアメリカのラッパー、グールーを擁したギャング・スターやアイス・キューブが札幌に来た際には、彼らの前座を務め、ジェルー・ザ・ダマジャらとのフリースタイルも経験している。THA BLUE HERBのILL-BOSSTINOがビッグ・ジョーのステージに感化され、ラップをはじめたエピソードは日本語ラップの熱心なリスナーの間では良く知られているが、ビッグ・ジョーは自他共に認める北海道のラッパーのオリジネイターとして名高い人物でもある。
僕の手元には、RAPPAZ ROCKとILL-BOSSTINO(当時はBOSS THE MC)が〈NORTH WAVE〉という北海道のFM局に出演したときのCDRがある。MJPの取材で札幌を訪れた際、MJPのDJ KENからもらったものだ。そこでは、ビッグ・ジョー、ILL-BOSSTINO、SHUREN the FIREらが、荒削りなフリースタイルを30分近くに渡って披露している。ハードコアなラップ・スタイルは、たしかに90年代の日本語ラップの先駆的存在であるMICROPHONE PAGERやKING GIDDRAからの影響を感じさせるが、しかし同時に、胎動しつつあるシーンの渦中で、オリジナリティを獲得するために才能を磨き合う姿が刻み込まれている。前年に日比谷野外音楽堂で〈さんぴんCAMP〉が開かれた97年、まだ全国的に無名だった彼らの、地方都市のアンダーグラウンド・カルチャーを全国に認めさせたいという意地とプライドが札幌の分厚い積雪を溶かすような熱気となって放出されている。
その2年後、99年にMJPは結成される。札幌、帯広、千歳、釧路など異なる出身地を持つ、ラッパーのビッグ・ジョー、JFK、INI、LARGE IRON、SHUREN the FIRE(現在は脱退)、DJ/トラックメイカー/プロデューサーのDOGG、KEN、HALT、AZZ FUNK(現在は脱退)から成るグループは、クラブでの出会いやマイク・バトルを通じて、徐々に形成されていった。そして、02年にファースト・アルバム『SPIRITUAL BULLET』を発表する。すでにMJPのサウンドのオリジナリティはここで完成している。ファンク、ジャズ、レゲエ、ダンス・ミュージックの要素を詰め込んだ雑食性豊かなこのアルバムは、全国のヒップホップ・リスナーの耳に届き、音楽メディアからも高く評価される。14分を超えるコズミック・ファンク"Cos-Moz"でラッパーたちは壮大なSF叙事詩を紡いでいるが、この曲は、SHING02の"星の王子様"がそうであるように、架空の宇宙旅行を通じて人類のあり方を問おうとする。同郷のTHA
BLUE HERBと同じく、「生きる」というテーマに対するシリアスな態度は彼らのひとつの魅力である。
また、MJPが所属する〈ill dance music〉というインディペンデント・レーベルの名が示すように、ヒップホップとダンス・ミュージックの融合はつねにMJPのサウンドの通奏低音として鳴り続けている。ライヴに行けば、MJPにとってダンスがどれだけ重要なファクターであるかがよくわかるだろう。そこでは、ハウスやテクノといったダンス・ミュージックの文化が独自の発展を遂げた札幌という土地の空気を吸い込んだ音を聴くことができる。『SPIRITUAL BULLET』はインディペンデントのアルバムとしてそれなりのセールスを記録するが、それでも彼らが期待したほどの劇的な展開をMJPにもたらしてはくれなかった。金銭的に潤ったわけではなかった。音楽だけで生活をすることはそんなに生易しいものではなかった。
その矢先、事件は起きる。03年2月25日、ビッグ・ジョーが香港からオーストラリアに約3キロのヘロインを密輸しようとした際、シドニー空港の税関の荷物検査で摘発され、麻薬密輸の罪で逮捕、起訴されたのだ。当初は軽くても10~15年、最悪の場合は無期懲役の可能性もあった。「血の気が失せたというか、オレの人生は終わりだなって。自殺も考えました」
黒幕の存在が認められたことなど、いくつかの要因が救いとなり、10ヶ月の裁判の後、6年間の実刑判決が言い渡される。少しずつ未来が見えはじめる。しかし、なぜ、そのような危険な仕事を引き受けたのだろう。「もちろん金もあるけど、それだけじゃないといまはっきりと言えるんです。例えば(運び屋の仕事が)成功したとしても自分にとっていいトピックになるのかなって。そこでアーティストとしてのオレはどういう風に変わっていくのかなって」
ビッグ・ジョーは、09年2月の帰国後、渋谷のカフェで取材した際に穏やかな口調で僕にそう答えてくれた。
犯罪行為へと向かった彼の動機を浅はかだと嘲笑することは容易だし、犯罪行為そのものを批判することも同じくである。果たして、犯罪を道徳的に断罪することにどれだけの意味があるのか。さらに、あえて書くが、断罪せずとも、この国のラップ・ミュージックにおけるイリーガルなトピックやニュースを単純に善悪の問題へと矮小化することは、つまり、その背後にある人間の苦悩や葛藤、文化や社会の複雑さや本質から目を背ける愚かな行為と言わざるを得ない。
[[SplitPage]]ビッグ・ジョーは持ち前の明るさとオープンな人柄で多様な国籍・人種―イタリア人、ギリシャ人、アメリカ人、フランス人、ロシア人、中国人、韓国人、レバノン人、アボリジヌー――の囚人たちと交流を深め、肉体を鍛え、哲学的思索に耽る。
小便やゲロまみれの裏路地で俺は生きてゆくために必要な日銭を稼いだ
小分けしたヤクをいくつも売りさばいた
UNKYのほとんどがヤクの奴隷さ
出口の無い迷宮に俺はいた
長い夜が永久にさえ思えて来た
さらに濃い霧が俺をつつみ込み
もう来た道がどちらかさえもわからないんだ
"IN THE DARKNESS"
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逮捕以前に制作され、ビッグ・ジョーの評価を決定付けたソロ・ファースト・アルバム『LOST DOPE』(06年)に収録された"IN THE DARKNESS"では、出口の見えない漆黒の闇のなかで孤独感に苛まれる心情が吐露されている。儚くも美しいピアノのウワモノから死の匂いは漂えども、希望の香りを嗅ぎ取ることは難しい。ある意味、ビッグ・ジョーのその後を予見しているような曲だ。『イルマティック』の頃のナズと『レディ・トゥ・ダイ』の頃のノートリアス B.I.G.が、一人の人間の中で蠢いているとでも形容できようか。数年後に興隆する、この国の都市生活者の過酷な現実を炙り出した(ドラッグ・ディールを主題とした)ハスリング・ラップのニヒリズムの極致に、すでにこの曲は到達していたのではないだろうか。
徹底的にリアリストになるか、露悪的なニヒリストになるか。00年代、この国のラップ・ミュージックのいち部は、過酷な現実を描写することで圧倒的な説得力を有した。01年に発足した小泉政権が推し進めた、相互扶助や社会福祉を切り捨て、経済的な競争原理を優先する新自由主義が、ヒップホップの拝金主義的なメンタリティやゲットー・リアリズムに拍車をかけたのは皮肉な話ではある。カネ、セックス、ドラッグ、貧困、暴力。メジャーの音楽産業が尻尾を巻いて逃げてしまうようなハードなリリックやトピックが、アンダーグラウンド・ラップ・ミュージックのシーンを席巻した。
たしかに、たんなるセンセーショナリズムとしての表現もあっただろう。しかし、そのシーンにおいて、少なくない才能あるラッパーが登場し、切実な音と言葉が創造され、多くの若者が共鳴し、熱狂したのだ。MSCの漢はその代表格のひとりである。
紋切り型な表現を使うならば、彼らの音楽は、マスメディアやジャーナリスト、社会学者さえ見向きもしない社会の片隅からの叫びであり、声なき声だった。そこからは希望の言葉も絶望の言葉も聞こえてきたが、彼らの反社会性や反抗は「不良」という酷く安直なカテゴライズに回収され、片付けられることが少なくなかった。だが、「不良」はひとつの属性であって、彼らのすべてではない。重要なのは、彼らが社会の片隅から生々しい声を上げ、出自や階層や性別を越え、このどうしようもない社会で生きるという感覚を持つ人びとと響き合ったということだ。彼らの強烈に毒気のある表現は階級闘争の萌芽を孕んでいると僕は考えている。
80年代後半、レーガン政権下のアメリカでギャングスタ・ラップのオリジネイターであるN.W.Aが登場したとき、その暴走する反逆に議会を巻き込むほどの社会的な論議が起こり、物議を醸した。メンバーのアイス・キューブは、元ブラック・パンサー党員のアンジェラ・デイヴィスやフェミニストの論客と対談で激しくやり合った。アメリカのあるヒップホップ評論家は、ポップ・カルチャーへの影響力という観点から言えば、N.W.Aのデビュー・アルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』は、セックス・ピストルズ『ネヴァー・マインド・ザ・ボロックス』がイギリスに与えた衝撃に匹敵すると評価している。つまり、野蛮な反抗と最新の社会問題、そして、ストリート出身者ならば誰でも音楽を作れるというDIY精神に火を付けたという点において。
日本のアンダーグラウンド・ラップ・ミュージックが国家を脅かしているかと言えば、もちろんノーである。あるいは、N.W.A.やセックス・ピストルズほどの社会的・文化的影響力を持っているかと言えば、それももちろんノーだ。このアンダーグラウンド・カルチャーは、積極的に平穏な昼間の世界に背を向け、メジャーの音楽産業から逸脱し、地下に潜ることで、その粗暴でアナーキーな感性を研ぎ澄ましている。現在のこの国の音楽という分野、あるいは社会においてはそのやり方しかなかったとも言える。
話があまりにも拡散するので、その理由や詳細についてここでは書かない。いずれにしろ、この文化が新しく刺激的な才能あるアーティストを輩出し、また、日々刻々と変化するこの国のダークサイドをリアルタイムに描写し、問題を提起し続けているのは事実なのだ。
先日リリースされたばかりのHIRAGEN(彼の存在を僕に教えてくれたのはPAYBACK BOYSのMERCYだ)の強烈なファースト・アルバム『CASTE』を聴いたとき、喉を潰したような声でスピットするラップとインダストリアルなビートに、UKのグライムに似た切迫感とノリを感じた。この乾いた路上のニヒリズムとデカダンスはどこまで行くのだろうか。そう思わせる得体の知れない荒々しいパワーが漲っている。HIRAGEN from TYRANTについては、いずれ改めて紹介するつもりだ。
そろそろ話をビッグ・ジョーに戻そう。"IN THE DARKNESS"をアンプ・フィドラーを彷彿とさせるデトロイティッシュなビートダウン・トラックにリミックスしたDJ KENのヴァージョンは、深いニヒリズムをグルーヴィーなダンス・ミュージックの渦の中に放り込むことで未来への飛翔を試みている。ビッグ・ジョーと仲間たちのニヒリズムとの闘いの合図が鳴らされているとでも言えようか。そして、ここでの音楽的探究心こそ、ビッグ・ジョーとMJPの6年間を単なる空白期間にしなかったのだ。
この電話は他でもなく盗聴されてるが
ソウルまでは奪えはしないさ"LOST DOPE"
ビッグ・ジョーがジェイル(刑務所)にいるあいだ、MJPのEP『ExPerience the ill dance music』(05年)、『LOST DOPE』、MJPのセカンド・アルバム『UNIVERSAL TRUTH』(06年)、獄中で出会ったアメリカの黒人ラッパー、エル・サディークとのEP『2WAY STREET』(07年)、ソロ・セカンド・アルバム『COME CLEAN』(08年)がリリースされる。『LOST DOPE』には、ジェイルの電話越しにラップを録音した表題曲や、ギターの弾き語りを伴奏にしたラップをテープレコーダーに録音し、テープのリールを封筒に忍ばせ札幌のMJPの元に送り再構築された曲が収められている。音楽への情熱と熱意を看守に訴えたビッグ・ジョーは、音楽スタジオのあるジェイルへの移転を許可され、そこでエンジニアとして働くことを実現させる。『UNIVERSAL TRUTH』以降のラップは、06~07年のあいだにそのスタジオで録音されている。
オーストラリアのジェイルが日本の刑務所に比べれば、「自由」だったことは不幸中の幸いだった。僕はこれまでビッグ・ジョーに5回ほど取材しているが、そのうち3回はジェイル内の電話を通じて実現している。その貴重なコミュニケーション手段がなければ、この原稿は書けなかっただろうし、囚われの身となっている6年間にこれだけの作品がリリースされることもなかったに違いない。
ビッグ・ジョーは持ち前の明るさとオープンな人柄で多様な国籍・人種―イタリア人、ギリシャ人、アメリカ人、フランス人、ロシア人、中国人、韓国人、レバノン人、アボリジヌー――の囚人たちと交流を深め、肉体を鍛え、哲学的思索に耽る。2パックは獄中で15世紀イタリアの政治思想家、マキャベリの『君主論』を愛読したというが、ビッグ・ジョーはドイツの詩人・小説家であるゲーテを座右の書として生き抜いた。『UNIVERSAL TRUTH』のインナースリーヴには、アメリカの詩人・批評家のエズラ・パウンドの言葉が引用されている。彼はラップで格言めいたパンチラインを時節展開する。それは、そこそこ哲学や古典文学の知識がある人間が鼻にもかけない類のものかもしれないが、彼が人生のどん底から這い上がるために、知識への飢えを満たすために獲得した言葉をいったい誰が簡単に否定できようか。
[[SplitPage]]ビッグ・ジョーが伝えたいメッセージも至ってシンプルだ。ずばりそれは、「世界は自分たちの手で変えられる」ということである。世界を変える必要はないと考える人びとにとっては、彼の直球な物言いは滑稽に聞こえるだろう。
俺には聞こえるんだ......
本当は病んで病んで病んでどうしようもないのに、
一人じゃ不安で、
何をどうしたいのかもわからず救いの無い大都会の海で、
溺れている人間達の、澱んだ声が......
俺達は何のためにこの世に生まれたんだ?
何故こうして 息を吸って、今を生きているんだ?
そこには、意味はあるんだろうか?
そんな社会に生まれて、何かがおかしいと思ったおかげで、
けだものあつかいにされ
彼等の期待通り犯罪を犯し、囚われの身となり、
もう誰にも顔は見せられない
PSYCHO......彼等は俺の事をそう呼ぶんだ
......いい響きだ、最高じゃないか/
これで良くも悪くも、彼等と境界線が引ける"PSYCHO"
![]() B.I.G JOE / COME CLEAN ILL DANCE MUSIC amazon iTunes Store |
『COME CLEAN』は、こんな哲学的な問いかけから幕を開ける。メタファーを多用したリリックとライム、ビートに絡みつくジャジーなフロウ、寓話的で文学的なストーリーテリング、社会意識を持ったアティテュード、汚れた魂と美しい魂が交錯するスピリチュアリズム、それらの要素を併せ持ったビッグ・ジョーのラップをバックアップするのは、アメリカナイズされたトレンドのヒップホップとは違う、自分たちの音を鳴らすことに情熱を傾けるトラックメイカーたちのユニークで果敢な挑戦だ。
トラックメイカーたちはすでに録音されたラップに合わせる形で制作を進めた。LAのアンダーグラウンドなパーティ〈ロー・エンド・セオリー〉と共振する、Olive Oil、BUNによる凶暴で繊細なビートの実験、DADDY VEGA a.k.a. REVEL BEATZ によるファンキーなビート、あるいは、DJ QUIETSTORM の妖しいサイケデリック・ヒップホップ"SPEAK 2 THE SILENT"があり、ILLCIT TSUBOIの"CLINK RAP"に至ってはスピリチュアル・ジャズとラップの対決である。
ビッグ・ジョーは、自身の体験を基にドラッグ・ディーラーの不幸な顛末を物語化し("D.D.D-Drug Dealer`s Destiny")、逮捕直後の絶望的な状況と心境を告白し("NOWHERE")、ドラッグ・ディールで身を滅ぼすことの愚かさをメッセージする("YOU WANNA BE ME")。「道ばたでドラッグを売りハッスルしながらマッポに追われる生活なんてクソだ」、"YOU WANNA BE ME"のファースト・ヴァースではこう言い切る。だが、ここで展開されるのはありきたりな更正物語や陳腐な道徳論ではない。また、アンチ・ハスリング・ラップやポスト・ハスリング・ラップという単純な図式化に収まるものでもない。僕も最初は、前述した冒頭の数曲に耳がいった。ある種のスキャンダリズムに関心を奪われていたのはたしかだ。しかし、アルバムを何度も繰り返し聴くうちに、"PUBLIC ENENY NO.1"や"WE`RE SOULJA"といったより深く彼の人生観や哲学や内省を抉っていくような曲の虜になっていった。
"PUBLIC ENEMY NO.1"でビッグ・ジョーは、生い立ちや犯罪者という自身の置かれた立場から、社会からの疎外と異端者の誇りについてラップしていく。
正義とは何か? テロリズムとは何か? 反体制とは何か? 異端者とは誰か? そして自分は何者か? 自分自身と聴く者を答えのない問いの迷宮に引き摺り込みながらも、最後のところで異端者を鼓舞し続ける。そこに答えを差し出すかのように、ストリングスとビートが厳かなムードを演出する"WE`RE SOULJA"で、「誰もがたたかっている今もどこかで/命をかけ、/僕等はこの世に生きている限り/戦場の上の兵隊さまるで」と呼応する。
愛、家族、自由、正義、理想、芸術、民衆、未来、革命......、何かのために誰もが闘っているのだと、闘うことの美しさと気高さを、ときに詩人が朗読するように、沈黙を味方につけながら官能的にフロウする。この2曲をプロデュースしたBUNの、金属片を擦り合わせたような鋭角的なビートの響きと、静謐さと躍動が入り混じるフライング・ロータス以降のセンスを感じさせる構成は、ビッグ・ジョーをひとりのラッパーから雄弁で情感豊かな説教師か扇動者へと変貌させているようである。聡明なギャングスタ・スタイルと野性的なコンシャス・スタイルの融合とでも言えようか。こういう表現が的確かどうかはわからないが、ここには――ハスラーから革命家に転身したマルコムXのように――町の不良がストリートの代弁者へと脱皮する姿が刻み込まれていると思えるのだ。なんというか、本質的なまでに闘うこと、反抗することを肯定する。その愚直さがなんとも潔く、清々しく、かっこいいのだ。
今年発表された通算3枚目のソロ・アルバムとなる『RIZE AGAIN』のCDのインナーには、力強く突き上げた拳のなかにガーベラと思われる真紅の花が握られた絵が描かれ、"HERE I AM"というアルバムの最後を飾る曲のタイトルが上書きされている。このアートワークは、闘いと希望と平和のメタファーなのだろう。アルバムでは、SD JUNKSTAのNORIKIYOを客演に迎えた、シンセが勢いよくうねる表題曲が象徴するように、ビッグ・ジョーがこれまで溜め込んできたエナジーとファンクネスが一気に放出されている。共同プロデューサーに抜擢されたBUNが『COME CLEAN』以上に見せるユニークな表情と、現在インディペンデント・レーベル〈TRIUMPH RECORDS〉の主宰を務め、トラックメイカー/プロデューサーとしても活動するビッグ・ジョーの新たな側面も楽しめる。
ところで、少なからず期待を寄せた民主党政権のだらしなさといったらないが、管直人新首相に至っては就任会見で「政治の役割は最小不幸社会を作ること」とやたら景気の悪いことを言い出し、しまいには消費税を上げるという。「こら! ふざけるな!」と家で酒を飲みながら心のなかで叫んでしまった。
とはいえ、自分の生活を振り返ってみると、そこには多くの快楽があり、遊びがあり、満足がある。酒を飲んで、パーティに行って、気持ちの良い音楽と気の合う連中と酔って大騒ぎするのは最高に楽しいし、こうやって自分の好きなことを書いてお金をもらい、また発言する自由も感じている。だが、この日々の幸せは、諦めと表裏一体じゃなかろうかというアンヴィバレンツな感慨に襲われてしまうときがある。そんな時、フェラ・クティやジェームス・ブラウンやボブ・マーリーといった理想主義と闘いの結晶のような最高にファンキーな音楽を聴くと、いまでも心底感動し勇気づけられるし、そこから湧き上がる躍動と闘争心を僕は深く愛している。
そう、ビッグ・ジョーが伝えたいメッセージも至ってシンプルだ。ずばりそれは、「世界は自分たちの手で変えられる」ということである。変化を望まず、いまの世界でそこそこ上手くやることに疑いのない人びと、あるいは世界を変える必要はないと考える人びとにとっては、彼の直球な物言いは滑稽に聞こえるだろう。何を変えるのか? どんな世界を望むのか? そして、何のための闘いなのか? 体制と反体制、右翼と左翼、資本主義と共産主義という分かり易い二項対立など誰も信じていないし、これだけ価値観が多様化している時代に、何のための闘いなのかという問いはもっともややこしいい命題だ。しかし、ただ一つ言えるのは、生きることは正しく、そもそも生きることは闘いであるということだ。
『RIZE AGAIN』の"SHE JUST..."という曲を聴くと、僕は、ビッグ・ジョーが何を背負いどこからやって来て、誰の味方であり、これからどこへ向かおうとしているのかが見えてくる。「彼女は天使の夢を見ていた/白い翼が空に散って目を開けた」というリリックからメロウに滑り出すソウル・フィーリングに溢れた"SHE JUST..."では、社会の片隅で寄り添って生きる国籍不明の若く無力な男女の儚く切ない物語が、女性ヴォーカリスト、TSUGUMIとの掛け合いのなかで丁寧に紡がれていく。
そこでビッグ・ジョーが強烈に発している感情は、社会からはじかれた人びとへの深い慈愛のようなものである。彼が呼びかける相手は、ドラッグ・ディーラーであり、風俗嬢であり、サラリーマンであり、ヤンキーであり、オタクであり、Bボーイであり、その誰でもあり、誰でもないのかもしれない。ビッグ・ジョーが思い描く理想は、これから彼の音と言葉に力強いレスポンスを返すリスナーやオーディエンスとともにゆっくりと具体的な形を伴って立ち現れていくだろう。
そして、この原稿も終盤を迎えた頃、ビッグなニュースが届けられた。ビッグ・ジョーは来たる7月21日に、ILL-BOSTTINO、Olive Oilと制作した「MISSION POSSIBLE」という、大胆にも、現在のこの国におけるもっともデリケートかつ重要な政治課題の一つである沖縄基地移設問題をテーマにしたシングルをリリースする。僕はその曲をまだ聴いていないが、勇敢な理想主義者である彼らの、音楽の力で世界を少しでもより良くしたいという強い信念に間違いはないと信じている。
僕が1ヶ月以上前に観たビッグ・ジョーのライヴは素晴らしいものだった。全国各地を回る「WORLD IS OURS TOUR 2010」はまだ続いている。自分の目と耳でビッグ・ジョーの勇姿をたしかめ、大きな声を上げて欲しい。