「Noton」と一致するもの

Richard Chartier - ele-king

 リチャード・シャルティエの新作が〈ライン〉からリリースされた。2012年12月には同レーベルからソロ作品『リカレンス』を発表し、続く2013年2月に、ウィリアム・バシンスキーとのコラボレーション・アルバム『オーロラ・ルミナス』をリリースした後、一年も待たずにソロ新作である。近年のシャルティエはコラボレーション・ワークを通じて、自身の創作に大きなフィードバックを得ているのだろか(さらに2012年には、ローバート・カーゲンヴェンとの『ビルトスルー』もリリースし、新名義ピンク・カーテシィフォンのアルバムも〈ライン〉と〈ルーム40〉から発表している!)

 実際、近年のシャルティエの音楽/音響は、いわゆる「ロウアーケースサウンド」ではない。ロウアーケースサウンドとは、人間の可聴領域ギリギリの周波数や極めて小さな「ほとんど聴こえない」音響を交錯させる音響ムーヴメントのこと。スティーヴ・ロデンによって提唱され、90年代から00年代初頭にかけてバーナード・ギュンダーやキム・カスコーンらによって広まっていった。シェルティエは、デジタルサウンドによって人間の可聴領域を超えた音を生成し、ロウアーケースサウンドの「完成」を決定的なものとしたアーティストである。

 このムーヴメントは音の「聴こえる/聴こえない」という二項対立を無化する試みを、音楽自体によって問い直すというラディカルな試みであった。だが「ほとんど聴こえない小さな音」という手法のみがクローズ・アップされると、それは必然的にクリシェ化してしまう。技法の洗練はラディカルな試みに対して反動ともいえるし、結果として「美学的」な態度のみが要請されるようになってしまう(儚くも小さな音?)。事実、シャルティエ自身もその問題に意識的なのか、しだいに(主にコラボレーション・ワークを通じて)作風が変化してきた。

 では、ロウアーケースサウンド以降、問い直すべき問題はどこにあるのか。そもそもロウアーケースなサウンドとは、単に小さい音や、その小さい音に耳を澄ますことのフェティッシュなリスニングへの誘い(通俗化されたケージ的な美学?)というよりも、20世紀末から21世紀初頭における音響による都市/社会環境論でもあったとしてみよう。

ポスト工業化/情報化社会以降、都市のノイズに情報すらもミックスされ急速に変化していく時代において、微細な音をサイエンティック/マテリアリズムから生成し再び世界の環境へと放つこと。スピーカーやヘッドフォンでの聴取を通じて、それも耳から脳への密室空間に微細な音を注入し、しかしいやおうなく侵入してくる外界の音の交錯によって世界の雑音を浮遊/無化させること。そうすることでノイズに塗れた世界の音響に、汚れていないピュアな音を見出そうとすること。とするいま、「問い直すべき問題」とは「音が小さい」という単なる手法(=思考)の反復から抜け出し、それが本来持っていた社会と音との緊張感に満ちた関係性への考察そのものへと立ち戻ることではないか。

 このシャルティエの新作『インテリア・フィールド』は、そのような「環境と音への問い」が、高精度な音響=音楽作品として結実しているアルバムといえよう。先に書いたように本作品は微音量の作品ではない。そして新たに導入されるのが圧倒的なフィールド・レコーディングと、そのエディットなのである。

 本アルバムには2ヴァージョンの作品が収録されている。"インテリア・フィールド(パート1)"は、2012年にワシントンで発表された「世界中で行ったフィールド・レコーディングから作り出されたマルチ・チャンネルの作品のステレオ・ヴァージョン」だという。続く"インテリア・フィールド(パート2)"は、1905年にワシントンDCに建設された「川の水を砂で濾過する装置がある施設」で録音された雨の音響を用いている(シャルティエは暴風雨時の録音を特別に許可されたのだという)。ここに展開されるのは、まるでフランシスコ・ロペスの作品のような圧倒的な環境録音であり、かつての微音響とは全く異質の音響空間だ。

 "インテリア・フィールド(パート1)"においては、環境音やドローンなどのさまざまな素材が、音空間のなかで再配置されていく。それは次第にリズムのような反復を生み、音響と音楽の境界線を越境するだろう。シャルティエの見事なサウンド・エディットを聴くことができる。"インテリア・フィールド(パート2)"は、はじめは低音ドローンを基調に、いくつかの音響の持続がレイヤーされ、それが次第に、雨の音の粒を録音した環境音響へと変化する。後半はほとんど雨の音が持続するのだ。そして、この雨の音の連鎖には、ほとんど恍惚としてしまう。

 わたしは、このアルバムを聴きながら不思議とアンビエント/ドローンの潮流というよりは、最近のクラブ・ミュージック経由のインダストリアル/ノイズのムーヴメントへの繋がりを感じた。70年代末期のインダストリアル・ミュージックが工業化社会への戯画と批判を内包しているとするなら、ロウアーケースサウンドがそれはポスト工業化社会の無数の雑音=ノイズへの批評としての静寂を希求した。その流れを考慮すればロウアーケース以降の環境=音楽が、インダストリアル/ノイズと円環するのは当然のことかも知れない。そういえばフランシスコ・ロペスは、エスプレンドー・ジオメトリコのアルトゥーロ・ランスとバイオメカニカを結成し、アルバムを発表したし、エスプレンドー・ジオメトリコの2013年最新作『ウルトラフーン』ではマスタリングを担当した。

 もちろん、本作に激しいビートがあるわけではないが、しかしインダストリアル/ノイズ・ミュージックと共通する不可思議な「儀式性」が内包されているようにも思えたのだ。古い施設の中で録音した環境音には、過去と現在の間に発生する音を通じて、社会の廃墟を「弔う」かのような「儀式性」とでもいうべきか(アルバム名につけられた「インテリア」には「内部/内側/内面」の意もある)。

 そしてアルバムの最後に不意に導入される、「音」は儀式の終わりを告げるシグナルのようだ。音響による現在への介入と回帰。現実へと戻ったわたしたちは、この音響空間の持続と生成による儀式を通じて、都市と世界の環境を問い直すようになるだろう。そう、耳の聴取体験による変化は、世界認識の拡張を生み出すのだから。

 ロバート・ウォールデンのアートワークは、世界を細胞的に体験/俯瞰するようなこの作品のアトモスフィアを見事に象徴しており、アートワークと合わせてサウンドアート作品として成立しているといえる。近年、より高密度なサウンドアート作品のリリースを続ける〈ライン〉のラインナップにおいても決定的な作品である。

Chuck Treece & Mcrad - ele-king

 そう、例えばオヤジ・スケーター。僕とタメである某スラッジ・コア・バンドのM氏はティーネイジャー以来のブランクをものともせず三十路スケーターとしてパークで返り咲いている。つまり捻挫で現場の仕事を休んだりもしている。僕らコヤジ(小オヤジ)以降のスケーターの存在はそのシーンの耐性を示す重要な指標だ。

 日頃から世話になっていたオルタナティヴ・ラジオ局、ヴィンセント・レディオも今夏にて一旦お開き。最終回の収録会場となったレスザンTV主催の〈メテオナイト2013〉終盤、汗ダクで到着した僕を迎え入れた圧倒的な熱気はイヴェントの撤収まで一向に冷める気配はなかった。彼等のような頼れる兄貴たちにとっての80'~90'アメリカン・スケート・カルチャー、それはこのチャック・トリース・アンド・マックラッドに客演する豪華な顔ぶれから想起するような鮮やかな時代だ。しかし僕にとってチャック・トリース等は"生ける伝説"ではない。彼等はきっといつだって等身大だ。

 米国におけるカウンター・カルチャーとしてのスケート・ボード、パンク・ロックにハードコア、ヒップホップやグラフィティは彼等にとって完璧なる日常の一部だ。

それはアーティストにとっての自己表現の場というような格式ばったステージではない。齢を重ね、生活は変われど気の合う馴染みと顔を合わせるパークやバンクを滑る彼等の姿はティーネイジャーの頃から変わらないのだ。滑ってはコケ、笑い、語らい、誰かが6パックの缶ビールを買いにゆき、気づけばジャムへと雪崩れ込む。このアルバムに収録されるバラエティ豊かな楽曲からそんな光景が鮮やかに目に浮かぶ。しかしながら個々の完成度の高さはオヤジ・スケーターのいぶし銀のライドのごときベテラン芸だ。

例えばつまはじきにされながらも新たなムーヴメントを模索しながら右往左往する迷走キッズを暖かく迎え入れてくれる場所があるとすれば、それはアメリカン・スケート・カルチャーが育んできたような真にボーダレスなシーンだ。ジャンルはもちろん、世代や人種の垣根を超えて楽しめるオープンマインド、贅沢を言えば僕はこのアルバムからそういった次世代からも触発された現代的な感覚をもっと聴きたかったかも。

 親子スケーターをパークで見かけることがもはや珍しい光景ではなくなったいま、スケート・シーンは真にボーダレスなカルチャーとなり得たと言えよう。デッキの上では誰もが等身大でリアルだ。そう考えれば僕らの時代はあながち悪い方向だけに向かっているわけではないのかもしれない。

 あ、ちなみに僕はもう10年以上滑ってないですけどね。誰かデッキ下さい。

Candy Claws - ele-king

 友人の友人にタイムトリップができるという人がいる。なんでも、気づけば戦国時代にいたりすることがあるそうだ。小学校のころのクラスメイトは、昨日じいちゃんが雷をつかまえて、それがいま冷蔵庫に入っていると言っていた。こちらはかわいらしい。キャンディ・クロウズのソング・ライター、ライアン・ホヴァーは自らが「2013年にバンドをやっている夢を見ている白亜紀の恐竜」であると述べている。ふたりに負けず劣らず、なかなか気がきいていると思う。
 彼はつめたいドリーマーだ。この恐竜発言と彼らの作品の裏には、ただ突飛で不思議な発想だと評するには周到すぎる設定がある。2枚めとなるアルバム『セレス・アンド・カリプソ・イン・ザ・ディープ・タイム』は、骨と雪でできた小さなアザラシのセレスと、少女カリプソとの中世代の旅を描く作品。そこは恐竜たちが闊歩する世界であり、シダの下には人も眠るというファンタジックな場所である。古生物学者Hans-Dieter Suesの著書『ブラッド・アーク』から着想を得たといい、同書からそのイメージのもととなった箇所をいくつも挙げている。バンド・メンバーもこの世界においてそれぞれ役柄を担っており、ホヴァーは恐竜であると同時に「深い時間(ディープ・タイム)」でもある。
 こうしたことが明かされると、彼らの音がどんどん解けていく。アニマル・コレクティヴを瓶のなかで熟成させたようなドリーミー・サイケ。それが今作でノイジーなシューゲイズ色を強めているのは、この「ディープ・タイム」というアイディアの引力によるものではないかと思う。音が理屈で分節できないということはない......というか、ホヴァーの想像力のなかには、ぶっ飛んでいるようでいてじつは緻密で繊細な構築性がある。「つめたいドリーマー」だというのはそういう意味だ。深い時間というのは、現実の世界をうつろうさまざまな事象に対する深い距離でもあるだろう。ホヴァーの音楽はそれを切なくなるほど美しく描き出している。

 マイ・ブラッディ・ヴァレンタインと比較するレヴューもあるが、今回シューゲイズ色を強めたというのはバンド・サウンドが意識されているということでもある。ギター・ノイズやバタバタと鳴るドラムの音を意外な思いで聴いた。サーフ・ロックへのオマージュたっぷりな"フォールン・トゥリー・ブリッジ"など、リフだけ聴けばほとんど別のバンドかとすら思う。ポップスとしてのフォームをきちんと備えたそれらの楽曲にはリニアな時間が流れ、白亜紀と現代とをつなぐ超時間的なテーマとは一見相反するようにも感じられる。しかし、とてもドラマチックになった。映画音楽やラウンジ・ミュージックからの影響もよく指摘される彼らだが、いま思えば前作にはドラマがなかった。デビュー作『ヒドゥン・ランド』......桃源郷、隠された生活、あの作品では終わりもはじまりもないようなドリーム・ポップが、アワ・ブラザー・ザ・ネイティヴのような得体のしれなさをまとって鳴っていた。今作においてリズムとギターは彼らの無時間的な世界にドラマをもたらし、時を動かしはじめたのかもしれない。曲名のあとに舞台となる場所や場面設定が簡潔に付されているが、ゲームなどで場所や場面ごとにBGMが設定してあるように、曲を飛ばす行為が、ある場所からある場所への移動に重なるようにも感じられ、これはすなわち時に対して場所、縦に対して横、垂直に対して平行の動きも同時に得たのだと言えるだろう。「動く」キャンディ・クロウズも大好きだ。
 今作が『ブラッド・アーク』をヒントにしているように、前作『ヒドゥン・ランド』にはリチャード・M・ケッチャムへの献辞があり、ホヴァーの夢の根本に科学や歴史への嗜好性があることがうかがわれる。物語から物語を空想することを女性的だと言うのは短絡かもしれないが、それに対して科学と歴史を空想の端緒とするホヴァーの作品には男の子っぽさがあり、筆者はそこも隠れた魅力だと思っている。ただ、何もないところに何かを生み出す想像力ではなく、あったかもしれない何かをあとから補うような、切ない想像力だ。「ぼくらの音楽はドリーム・ポップだよ」と自覚的な物言いをする彼は、夢を見るということに対してわれわれよりつねに一枚上手である。

ele-king vol.11  - ele-king

〈インタビュー〉はJポップ・シーン未来の革命児tofubeats
第一特集 ディストピア世界で笑おう
対談、コラム、徹底ディスクガイド、ブックガイド !!
☆宇川直宏×tomad

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Colleen - ele-king

 松村正人はひどい男である。次出る紙エレキングで「ワールド・ミュージックの小特集」をやることになったので、僕は早いうちから紹介したいアルバムが2~3枚あるから書かせてくれと直訴していた。一度だけではない、念を押して何度か訴えていたのだが、スペースは与えられなかった。このまま黙っているわけにはいかないので、ここに取り上げさせていただくことにしよう。今年の初夏にリリースされた、疑いようのない傑作だ。

 コリーンの名で知られるスペイン在住のフランス人、セシル・スコットの、イギリスのレーベルから出たこの作品は、欧米のメディアではアーサー・ラッセルを引き合いに出されて説明されている。彼女自身がその影響を認めてもいるが、それは彼女にクラシックの素養があり、ポップスと前衛の境界を軽々と越えながら、何かその先にある響きに向かっているからだろう。音数は少なく、基本アコースティックだが多彩な音響、リズミックな残響のなかにも、歌がある、という点もラッセルと共通する。
 しかし、実際のところ、「心の計量(The Weighing of the Heart)」と題された4年ぶりの彼女の新作をアーサー・ラッセルに重ねるのは音的に無理がある。ムーンドッグの無邪気な遊び心、ブリジット・フォンテーヌの原始的響き......そして「そして中央アジア、インドネシア、南アメリカ、アフリカの伝統音楽」からの影響を取り入れているとレーベル資料には書かれているが、さらに僕なりの説明を加えるなら、ジュリアナ・バーウィックがパソコンを使わずに(アコギで)作った作品のようでもあり(つまり生で、上品なのだ)、全編にわたるアコースティックな音響(ギター、クラリネット、ピアノ、ガムラン、打楽器)とラテンの旋律は、マウロ・パガーニの『地中海の伝説』をも彷彿させる。
 こんな風に、偉人たちの固有名詞を挙げていくと、いかにも偉そうな作品に思えるのだが、『The Weighing of the Heart』の魅力は、少なくとも僕にとってだが、夏の記憶というコスモロジー、ある種の郷愁的感覚にある。2013年の夏のあいだ、僕はこのアルバムばかりを聴いていた。
 彼女は、空、貝、岸、風、熊、鳥......について歌っている。いつもの空がいつものように広がっている。毎年夏になると僕は坊主を連れて川に行く。泳いだり、釣りを教えながら、魚を釣ってみせ、時には焼いて食べる。今年、いつもの川辺に行ったら、肌の色の濃い男が4人、いつもなら僕と坊主が荷物を置いている木陰を陣取っていた。
 彼らは発泡酒を飲みながら、たまに川に入っては、何気ない時間を過ごしていた。平和的な雰囲気だった。どこから来たんだと尋ねるとフィリピンだと答えた。ひとりが持ってきたガットギターを弾いて、何時間も歌っていた。故郷を思って歌っていたに違いない。静岡の工場で働いているフィリピン人が人気のない真夏の川辺で歌っていた音楽と『The Weighing of the Heart』は繋がっている。牧歌的というよりも、この黄金の音楽には無心な時間のあとに広がる、普遍的な、ノビノビとした響きがある。とっておきの1枚になりうる。
 紙エレキングのvol.11は、トーフビーツが表紙で、内容もデザインも写真も良い感じだ。唯一、嘆かわしいのは、(ジュリア・ホルターやジュリアナ・バーウィックの文脈にも重ねることのできる)このマスターピースが、載っていないことである。

AlunaGeorge - ele-king

 「インターネットというメディアが日常に入り込んできてから、未来は消え、世界の終わりがはじまったような錯覚すら覚える」――ファッション誌『HUGE』のミュージック・イシュー、「10年代の音楽」(第103号)に寄せて、本誌・野田編集長は(ハイプ・ウィリアムスの発言に共感する形で)こんなことを書いている。さらに、話はこう続く。「クラウトロックやイギー・ポップはマニアだけが知っている秘密だったが、今では70年代のリアルタイムでは知りようがなかったドイツのフォークまで検索できてしまうのだ。」
 これをそっくりそのまま、可能性としての姿に反転させようというのは、あまりに幼稚な反論だろうか。だが、季刊『vol.9』号でのceroのメンバーや、次号『vol.11』号の巻頭に登場予定のトーフビーツの口から、インターネット普及以降の音楽体験にまつわる雑感を聞くことができたのは興味深かった。インターネットが持つ偶然の誘発性や速度、それが彼らのクリエイティビティを刺激しているのは間違いないだろう(クリックの誤操作さえ可能性である)。
 もちろん、僕たちはそのプロセスのなかで、音楽に対する畏れを失わない。そう容易く果てが見えるほど世界は狭くないことを、他でもなくインターネットが教えてくれたのだから。巨大なサイバースペースのなかで、僕たちはひとりひとりが異なる経路や角度、速度で音楽の歴史と戯れているのだろう。世界が終わったのなら、そこを旅すればいい。世界の終わりの果てを目指して。

 ブルックリンの〈トライ・アングル〉が発見したこのロンドンのデュオの音楽は、一見、その華々しいR&Bの完成形に目を奪われる。それはあまりに......スムースだ。だが、ティンバランドやジョアンナ・ニューサムやフライング・ロータスといった、まるで文脈を欠いたいくつかのアクトが、彼ら・彼女らの重要な音楽的ソースであることを思い出せば、そのシームレスな継ぎ目から、ダブステップを通過しなければ出ないような、ビートの微かなズレ、小さな蠢きが聴こえる。あるいは、ウィッチハウスのアンビエンスも。そして、それをコーティングするアルーナの歌は、ジョアンナ・ニューサムの可憐さに媒介されたデスティニーズ・チャイルド(ないしはTLC)のそれだ。
 配合、という、ちょっと軽薄めかした言葉がちょうどいい。そう、ポスト・インターネット世代は、あまりにも軽々と複数の(それも互いに離れた)領域をショートさせてしまう。高尚めいた実験精神ではなく、ある意味では軽薄な洒落っ気で。まるで、テレビ・ゲームの操作ボタンでも押すかのように。『ピッチフォーク』はこんな風に書いている。「例えばグライムスが、息つく間もなくマライア・キャリーとエイフェックス・ツインのことについて夢中になって語るように、ピュリティ・リングはそのプリズムめいた童話の背景にあるものに、ジャスティン・ティンバーレイクとクラムス・カジノ、それにホーリー・アザーを挙げる。」

 アルーナジョージの話に戻ろう。とてもインディ作品とは思えない、アルーナ・フランシスのスーパースター然としたミュージック・ヴィデオでの完璧な立ち振る舞いも鮮烈だった"ユー・ノウ・ユー・ライク・イット"や、リアーナの"アンブレラ"のポスト・ダブステップ・ヴァージョンにして、要は超ポップで激スウィートなR&B・ヒット"ユア・ドラムス・ユア・ラヴ"といったキラー・ナンバーを主軸に、テンポや音色を同系色でコーディネートしたアルバム新録曲で、その脇が手堅く固めれている。なかでも、甘ったるいシンセ・ポップ"カレイドスコープ・ラヴ"におけるゴージャスかつ繊細に重ねられた薄いコーラスは、レイト90S R&Bへの素直なオマージュだろう。
 いまさらながら断っておくと、僕はこのデュオのファンだ(今月末のライヴの予約もしてある)。心を鬼にして判断すれば、デビュー作となったこの『ボディ・ミュージック』は、こちらが期待した水準を超えては来なかった。それでも、デビュー作としては申し分ない。まるで合わせ鏡の、この潔癖的にシームレスな音楽に身を委ねているあいだは気づきにくいが、ふわふわと軽い、ある種の言い方をすればチャラいアルーナのヴォーカルに染められた後では、多くの先達の歌がベタにソウル臭く感じられてしまうほど。未来はそうやって、また少しずつ音楽を包み始めるのではないだろうか。これはつまり、ほんの挨拶代わりの、余裕のファースト・フルレンスだ。

 PS。もちろん、ラスティとのアクロバティック・レイブ"アフター・ライト"や、ディスクロージャーとのハウス・ナンバー"ホワイト・ノイズ"もお聴き逃しなく。そして9月24日は、〈LIQUIDROOM〉に集合!!

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King Krule - ele-king

 言葉のはしはし、動きの一つ一つに、彼女の不安はあらわれていた。だというのに私は、まったく感じとろうとしなかった。だらしがなさすぎた。私には生きる値打ちはなかった。野良犬とかわらなかった。しかし、犬を責めてどうなる。私は起きあがってワインを浴びた。キャス、町でいちばんの美女は20歳で死んだ。チャールズ・ブコウスキー『町でいちばんの美女』(青野聰 訳)より

 ああ、そうか......と、キング・クルールを名乗る19歳の青年アーチー・マーシャルがチャールズ・ブコウスキーを敬愛していると知って、僕は思った。繰り返し耳を傾けるほど、キング・クルールの音楽はブコウスキーの文体に似ているのだ。しかしそれは、言葉というよりは、発話や発声においてである。アルバムの2曲目、"ボーダー・ライン"を聴けばわかる。正確に音程を取らずぶっきらぼうに放たれる低音が、ふいにメロディをなぞる瞬間にこぼれて落ちるその感傷は、ブコウスキーの機関銃のように粗暴な言葉がしかし、時折見せる弱さやもろさのようだ。キング・クルールを聴いていると、困ったことに......自分の日常なんかよりもブコウスキーの短編集を読むことに入れ込んでいた頃の感覚を思い出してしまう。マーシャルは酔いどれ美学のクリシェに堕さないブコウスキーを知っているのだろう。ただその日を生きることしかできずに、愛する人間を傷つけて自分も傷ついてまた傷つける、救いようのない人生を......ブコウスキーいわくクソのような人生を、それでも笑い飛ばす男の痛みと孤独を、この青年はきっと肌に感じて過ごしてきたのだろう。鋭い言葉を書くリリシストや、エモーショナルなメロディと声を持ったシンガーは他にもいる。しかし、こんなにも発話がその表現の必然として成立してしまうシンガーは久しく存在しなかったのではないか。

 新世代のビート詩人というキャッチコピーはたぶん間違ってはいない。が、そう呼んだときのどこかノスタルジックなロマンティシズムよりも、アーチーの歌にはどうしようもなく「いま」を歌っているんだという切迫感がある。それは、現代的なサウンドを自身のブルーズに取り込むクレバーさによるものだろう。ヒップホップやダウンテンポの影響が濃いビートは多彩だし、何もない空間に向かって余韻たっぷりに響くギターは明らかにジ・XX以降のポップ・ミュージックの親密さとしてある。さらには、さまざまな時代の音にアクセスするその身軽さでもって、"ア・リザード・ステイト"のようにブラスがふんだんに取り入れられたロックンロールの次のトラック"ウィル・アイ・カム"で、ダビーな音響が施されたアンビエントめいたトラックを披露したりするのだ。その風景が次々に変わっていくサウンドを、独創的なヴォーカリゼーションでひとつの詩集へとまとめて、手際よく紡ぎあげていく。

 アルバム・タイトルは"ザ・クロッカダイル"のリリックから取っているのだろう。「あの音が聞こえるかな?/地下6フィートから聞こえてくる/ここで横たわりたいんだ/ねえ ここで寝かせてくれ」......地下6フィートというのは人間が埋葬される深さのことであり、アルバムではそんな風にところどころで死への甘美な夢想が顔を見せる。何度も繰り返されるsoul、魂という言葉はつねに彷徨うものとして現れる。
 しかしそれ以上に、アーチーが吐き出すように放つ言葉はどこまでも無防備でナイーヴで......彼が傷だらけの姿で立っているのがまざまざと見えてくるようだ。それはつまるところ、死の世界に逃げ込むのではなく、ボロボロになりながらもそれでも生きることを欲望しているからではないか。ブコウスキーが文章においては死を繰り返しモチーフとしながらも、最終的にその表現からは圧倒的に生を感じるように、キング・クルールの音楽からは人生の痛みを味わう覚悟が聞こえてくるようだ。スウィートな響きを持った"ネプチューン・エステート"が、あまりにも素晴らしい。ヒップホップでありポエトリー・リーディングでありソウルでありブルーズであり、そのどれでも言い表せない何かとして命を与えられたそのトラックは、いまここに沸き上がる愛を手放そうとしない。

もう一晩だけ耐えてくれない?
もう一晩だけ
きみと一緒にいたいんだ
"ネプチューン・エステート"

人生は、見かけ通り醜いが、あと三、四日生きるには値する。なんとかやれそうだと思わないか? チャールズ・ブコウスキー『空のような目』(青野聰 訳)より

- ele-king

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