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「インターネットというメディアが日常に入り込んできてから、未来は消え、世界の終わりがはじまったような錯覚すら覚える」――ファッション誌『HUGE』のミュージック・イシュー、「10年代の音楽」(第103号)に寄せて、本誌・野田編集長は(ハイプ・ウィリアムスの発言に共感する形で)こんなことを書いている。さらに、話はこう続く。「クラウトロックやイギー・ポップはマニアだけが知っている秘密だったが、今では70年代のリアルタイムでは知りようがなかったドイツのフォークまで検索できてしまうのだ。」
これをそっくりそのまま、可能性としての姿に反転させようというのは、あまりに幼稚な反論だろうか。だが、季刊『vol.9』号でのceroのメンバーや、次号『vol.11』号の巻頭に登場予定のトーフビーツの口から、インターネット普及以降の音楽体験にまつわる雑感を聞くことができたのは興味深かった。インターネットが持つ偶然の誘発性や速度、それが彼らのクリエイティビティを刺激しているのは間違いないだろう(クリックの誤操作さえ可能性である)。
もちろん、僕たちはそのプロセスのなかで、音楽に対する畏れを失わない。そう容易く果てが見えるほど世界は狭くないことを、他でもなくインターネットが教えてくれたのだから。巨大なサイバースペースのなかで、僕たちはひとりひとりが異なる経路や角度、速度で音楽の歴史と戯れているのだろう。世界が終わったのなら、そこを旅すればいい。世界の終わりの果てを目指して。
ブルックリンの〈トライ・アングル〉が発見したこのロンドンのデュオの音楽は、一見、その華々しいR&Bの完成形に目を奪われる。それはあまりに......スムースだ。だが、ティンバランドやジョアンナ・ニューサムやフライング・ロータスといった、まるで文脈を欠いたいくつかのアクトが、彼ら・彼女らの重要な音楽的ソースであることを思い出せば、そのシームレスな継ぎ目から、ダブステップを通過しなければ出ないような、ビートの微かなズレ、小さな蠢きが聴こえる。あるいは、ウィッチハウスのアンビエンスも。そして、それをコーティングするアルーナの歌は、ジョアンナ・ニューサムの可憐さに媒介されたデスティニーズ・チャイルド(ないしはTLC)のそれだ。
配合、という、ちょっと軽薄めかした言葉がちょうどいい。そう、ポスト・インターネット世代は、あまりにも軽々と複数の(それも互いに離れた)領域をショートさせてしまう。高尚めいた実験精神ではなく、ある意味では軽薄な洒落っ気で。まるで、テレビ・ゲームの操作ボタンでも押すかのように。『ピッチフォーク』はこんな風に書いている。「例えばグライムスが、息つく間もなくマライア・キャリーとエイフェックス・ツインのことについて夢中になって語るように、ピュリティ・リングはそのプリズムめいた童話の背景にあるものに、ジャスティン・ティンバーレイクとクラムス・カジノ、それにホーリー・アザーを挙げる。」
アルーナジョージの話に戻ろう。とてもインディ作品とは思えない、アルーナ・フランシスのスーパースター然としたミュージック・ヴィデオでの完璧な立ち振る舞いも鮮烈だった"ユー・ノウ・ユー・ライク・イット"や、リアーナの"アンブレラ"のポスト・ダブステップ・ヴァージョンにして、要は超ポップで激スウィートなR&B・ヒット"ユア・ドラムス・ユア・ラヴ"といったキラー・ナンバーを主軸に、テンポや音色を同系色でコーディネートしたアルバム新録曲で、その脇が手堅く固めれている。なかでも、甘ったるいシンセ・ポップ"カレイドスコープ・ラヴ"におけるゴージャスかつ繊細に重ねられた薄いコーラスは、レイト90S R&Bへの素直なオマージュだろう。
いまさらながら断っておくと、僕はこのデュオのファンだ(今月末のライヴの予約もしてある)。心を鬼にして判断すれば、デビュー作となったこの『ボディ・ミュージック』は、こちらが期待した水準を超えては来なかった。それでも、デビュー作としては申し分ない。まるで合わせ鏡の、この潔癖的にシームレスな音楽に身を委ねているあいだは気づきにくいが、ふわふわと軽い、ある種の言い方をすればチャラいアルーナのヴォーカルに染められた後では、多くの先達の歌がベタにソウル臭く感じられてしまうほど。未来はそうやって、また少しずつ音楽を包み始めるのではないだろうか。これはつまり、ほんの挨拶代わりの、余裕のファースト・フルレンスだ。
PS。もちろん、ラスティとのアクロバティック・レイブ"アフター・ライト"や、ディスクロージャーとのハウス・ナンバー"ホワイト・ノイズ"もお聴き逃しなく。そして9月24日は、〈LIQUIDROOM〉に集合!!
竹内正太郎