アミ・タフ・ラという新しいシンガーのアルバムが届いた。北アフリカのモロッコ生まれで、幼い頃からアラブ音楽に囲まれて過ごし、オランダからトルコ、中東諸国など世界中を転々とするなかでシンガーとしての道を見出し、現在はロサンゼルスを拠点とする彼女は、カマシ・ワシントンの妻でもある。世界のさまざまな国で活動するなかでカマシとのツアーもおこない、幾多のフェスにも参加してきた。また、ヨルダンの難民キャンプとコミュニケーションを取り、音楽や絵画のワークショップを開くなど、芸術を通じた社会活動もしている。そんなアミ・タフ・ラのファースト・アルバムが『The Prophet and The Madman』である。
『The Prophet and The Madman』というタイトルは、レバノン生まれの詩人・画家であるハリール・ジブラーンの著書『The Prophet(預言者)』と『The Madman(狂人)』から名づけられたもので、歌詞にもそれらからの引用が多く見受けられる。パンデミックの最中、アミはカマシとの娘であるアシャを妊娠しており、そうしたなかでアミとカマシが『The Prophet』と『The Madman』を読み、そこからインスピレーションを受けてアルバムの構想が生まれたそうだ。特に1923年に刊行された『The Prophet』は、アメリカにおいては1950年代のビート・ジェネレーションから1960年代のヒッピー・ムーヴメントにも影響を与えた。ジャズで言えばジョン・コルトレーン、ファラオ・サンダース、アリス・コルトレーンらのスピリチュアル・ジャズの世界観や神秘主義にも通じる書物でもあるから、アミやカマシが大きなインスピレーションを受けたというのも頷ける。
アルバムにはライアン・ポーター、マイルス・モズレー、ブランドン・コールマン、トニー・オースティン、テイラー・グレイヴス、キャメロン・グレイヴス、ロナルド・ブルーナー・ジュニア、アラコイ・ピート、カリル・カミングスなど、カマシのアルバムやツアーでお馴染みのバンド・メンバーが参加し、カマシがプロデュースとアレンジをおこなっている。従って、アミのソロ・アルバムであると同時にアミとカマシの共同作品という色彩も強い。スピリチュアル・ジャズからモロッコのグナワ音楽、ゴスペル、アラブ音楽など、アミが世界を旅するなかで培ってきたいろいろな土地の音楽の融合も見られる。そして、彼女の歌声には世界を旅するジプシーやボヘミアンが持つ独特の個性が感じられる。そんな『The Prophet and The Madman』を生み出したアミ・タフ・ラに迫った。
音楽はモロッコの家庭ではとても重要で。どの家庭でも音楽をかけている。私はモロッコで祖母と一緒に暮らしていたけど、リビングルームでは伝統的なアラビア音楽が一日中かかっていた。だから私は、至って自然に音楽に惹かれていった。
■まず、あなたの経歴から伺います。モロッコ生まれで、その後オランダで育ち、再びモロッコに戻ってきたそうですね。あなたはどんなファミリーの中で育ち、ルーツとなるモロッコはどんな国ですか?
アミ・タフ・ラ(以下ATR):モロッコは文化や伝統が豊かな国。心の温かい人たちがいる。モロッコ社会では手厚いもてなしがとても大切だから、モロッコを訪れると歓迎されていることをすぐに感じるはず。到着してから最初の1時間でわかる。豊かな国で、歴史や伝統があって。各都市に独自の伝統や食べ物がある。モロッコの主要言語はアラビア語だけど、アマジグ語というモロッコの先住民語もある。アマジグ語には5種類の方言があるんじゃないかな。アマジグとは自由の民 (people of the free)という意味なの。アマジグ文化はモロッコ北部から南部まで広がっていて、美しい。とても魅了されるし、心がこめられている。
いまは早くまたモロッコに戻りたいと思っているの。2ヶ月前に行ったばかりだけど(笑)。親戚を訪ねたけど、今度は娘のアシャにモロッコをもっと見せてあげたい。彼女にとってもモロッコはルーツだから。彼女にはモロッコの言語も教えているの。2ヶ月前、アシャと私は1ヶ月間モロッコに滞在したけど、おじさんやおばさんの言っていることを聞いて、結構言葉を覚えていたわ。来月5歳になるけれど、覚えが早いの。ヨーロッパをツアーしたときも、アシャはフランス語の言葉を覚えて、「ボンジュール」「オル ヴォワール」と言っていた。
私も子どもの頃はよく旅していたけど、彼女には同じ体験をもっとさせている。彼女はたくさんの国を見て来たけど、音楽を通じて旅をしている。私たちが旅をしているとき、彼女は素晴らしい音楽をたくさん聴いているし、素晴らしい人たちと会っているのね。両親である私たちが、娘にそういった体験をさせてあげられるのは素敵なこと。
■あなたの母親はアラビア音楽のファンで、幼少期はそうしたものを聴いて育ったそうですね。アラビア音楽は独特のメロディやリズムがありますが、どんなところがあなたを魅了したのでしょう?また、音楽はどのように始めたのでしょうか?
ATR:小さい頃の私はほとんどモロッコで過ごしていたけど、音楽はモロッコの家庭ではとても重要で。どの家庭でも音楽をかけている。私はモロッコで祖母と一緒に暮らしていたけど、リビングルームでは伝統的なアラビア音楽が一日中かかっていた。だから私は、至って自然に音楽に惹かれていった。私が覚えた最初のアラビア語の曲は、シリア人の詩人ニザール・カバニが作ったものだったの。何ていう人が歌っていたのかしら? 彼女の名前を忘れてしまった(笑)。美しいレバノン人のシンガーだった。カセット・レコーダーと一緒に眠って、自分があの曲を歌っているところを想像していた。ヘアブラシを持って鏡の前に立って、その曲を歌っていた。というわけで、私は自然とアラビア音楽に惹かれた。ジャンルは様々で、アラビアのポップスやアラビアのクラシック音楽だった。とても自然だった。
■その後オランダに移住して、アムステルダムの音楽学校で本格的に学び、メトロポール・オーケストラなどと共演してプロの道に進むようになったそうですが、どういった経緯でそのようになったのですか?
ATR:11歳のときにオランダに戻って、アムステルダムの音楽学校に通った。私はゴスペル・クワイアーの一員で、そこでハーモニーを歌うことを覚えて。あと私はカヴァー・バンドのメンバーでもあって、このバンドは毎週学校で有名な曲をプレイしていた。こうして、アムステルダムで子どもだった私の音楽生活が始まって。私の継父が学校の送り迎えをしてくれた。
私はマイケル・ジャクソンの大ファンだった。マイケルはヒストリー・ワールド・ツアーの一環でオランダにやって来て、しかも私の誕生日にライヴを行なった。それで、母親がお誕生日のプレゼントに彼のコンサート・チケットを買ってくれて。詳しい話をさせてもらうと、彼はアムステルダムのグランド・ホテルに2週間宿泊していた。それで私は学校をサボってホテルに通って。彼の部屋は2階だったんで、そんなに高いところじゃなかった。だから彼は、私たちファンを見ることができた。初日は何千というファンがいて。ところが、2日目、3日目になると数がどんどん減っていったんで、ホテルの前にはもう20人くらいしかいなかった。私はそこでいろんな曲を歌った。私の声はすごく大きかったんで、周りのファンに「あなたが歌って! あなたが歌えば、彼が出て来るから!」と言われたの。それで私は超大きな声で歌ったのよ。“We are the world, we are the children”って。そうすると、彼が出て来たの! カーテンの向こう側に来て、親指を立てていいねという態度を示してくれたの。「よくやった、よかったよ!」って。それで私は家に帰ると、「ママ! 私、有名になる! シンガーになるの! 私の声は美しいってマイケル・ジャクソンが言ってくれたんですもの!」と母親に言ったの。私はいつかシンガーになるという想像を彼が掻き立ててくれたのよ。
実は、YouTubeでビデオを見つけたの! 私はマイケルのファンクラブの会員だったんで、彼がアムステルダムに到着したとき、私たちファンクラブはバスを貸し切って空港に行って彼を迎えに行った。彼の後ろを走ったのね。もちろん、彼にはセキュリティがいて、自家用車があったけど、私たちファンはその後ろにいたのよ。そのビデオでは、空港にいる私が飛び跳ねているのが観られる。学校のリュックを背負っている、13歳の少女がね。すごくおかしかったけど、YouTubeのおかげで自分の姿を見ることができた。
photo by Sol Washington
私はトルコ音楽も聴いて育った。継父はトルコ人だったし、弟と妹はトルコとのハーフだったから。だから、家ではトルコ音楽もよく聴いていた。そしてトルコでライヴをやることになって、そのまま7年間そこで暮らしていた(笑)。
■あなたがマイケル・ジャクソンの大ファンだということはわかりましたが、お母さんの影響でエジプトのウンム・クルスーム、アスマハーン、アブドゥル・ハリム・ハーフェズ、アルジェリアのワルダ、レバノンのファイルーズといったアラブのシンガーもよく聴いていたそうですね。彼らからの影響は大きいのですか?
ATR:別に二重生活を送っていたわけではないけど、家では母緒が一日中アラビア音楽をかけていた。でも学校に行くと、これはアムステルダムでの話だけど、みんなMTVを観ていたのよ。当時はMTVがすごく流行っていた。90年代だったから。R&Bやヒップホップやロックもよく聴いていた。でも18歳の頃、西洋の曲をよく歌っていたけど、何かが欠けている気がして。私は毎週歌っていた。音楽学校に行って、英語の曲を歌っていた。そして家に帰るとアラビア音楽を聴いていたけど、アムステルダムでアラビア音楽をやっている人なんて知らなかった。でも、なんとかわたりをつけて、荷物をまとめて、「エジプトに行くから」と母親に言って。当時のエジプトはアラビア音楽ビジネスの中心で、ハリウッドのようなところだったから、アラビア音楽でキャリアを築こうと思ったら、みんなカイロに行ったの。テレビ局や大手ラジオ局がすべてカイロにあったから。
というわけで、18歳の私はそこで大勢のエジプトのミュージシャンやソングライターと出会って、曲のレコーディングを始めた。アブドゥル・ハリム・ハーフェズがレコーディングしたスタジオでレコーディングして! 〈サウト・エル・ホブ〉というレーベルもやっているスタジオ。いまは別の名前になっているかもしれないけど、私がそこにいると、ウンム・クルスームやアブドゥル・ハリム・ハーフェズもそこでレコーディングしたって言われた。
当時の私は、アラビア語で歌うと訛りがすごく強かったんで、すごく練習した。中東の大物シンガーたちの真似をして、彼らと同じように言葉を発音しようとした。耳で聴いて練習すると、まるでそっちで暮らしていたように歌えるようになった。私がアラビア語をしゃべると、オランダ訛りだということがわかる。「君はアラビア語をしゃべるけど、こっちの出身じゃないよね」って言われる。だから私はそれを隠して歌わないといけなかった。何年もかかったけど、やらないといけなかった。
■プロのシンガーとなってからはトルコを拠点にレバノン、ヨルダンなど中東諸国でもライヴを行い、世界中を旅してきたそうですね。定住を好まず、ジプシーのような生活を送ってきたそうですが、そうした旅の生活が性に合っていたのですか?
ATR:そう。生まれてからというもの、私はずっとそういう生活を送ってきた。モロッコに2年、オランダに2年いて、それから継父がポルトガルで仕事をしていたんで、私も1年間ポルトガルにいた。それからまたモロッコに2年。しょっちゅう旅することは私のDNAに既に組み込まれていたんで、もちろん18歳になると荷物をまとめて、「ママ、エジプトに行く」と母親に言って。母親は許してくれた。私は既にヤングアダルトだったから。
私は母親を助けて、まだ小さかった3人の妹と弟を育てていた。特に継父が亡くなってからはね。私はトルコ音楽も聴いて育った。継父はトルコ人だったし、弟と妹はトルコとのハーフだったから。だから、家ではトルコ音楽もよく聴いていた。そしてトルコでライヴをやることになって、そのまま7年間そこで暮らしていた(笑)。トルコの文化や言語にも馴染みがあったし、音楽にも馴染みがあったんで、トルコにいた頃はトルコのミュージシャンと一緒によくライヴをやっていた。特にジプシー・ミュージシャンとね。彼らは本当に素晴らしかった。
そしてスーツケースを持って、トルコからそこここを旅した。私は各国をふるさとにできる。特にいまでは夫と娘がいるから、どの国に住んでいるかなんて関係ない。彼らが一緒にいさえすれば、そこが私にとってのふるさとになる。
■その後、ニューヨークを経由して、2021年にロサンゼルスに移住したんですよね?
ATR:ニューヨークで暮らしたことはなくて。ニューヨークでカマシ(・ワシントン)と出会った。私は休暇でニューヨークに2週間滞在していて。そしてそのときカマシと出会ったの。ニューヨークに住んでいたことはない。アメリカで最初に住んだのはロサンゼルスよ。
[[SplitPage]]アニメ『LAZARUS(ラザロ)』の音楽を依頼されたとき、彼(=カマシ・ワシントン)はすごくハッピーだった。子どもの頃から彼はアニメの大ファンだったから。彼が作った最高の音楽のうちのひとつが『LAZARUS』だった。
■カマシとはどのように出会い、またパートナーとなったのですか?
ATR:カマシとはジャズ・クラブで出会った。ありきたりな話よ。オープン・ナイトでジャム・セッションがおこなわれていて、そこで彼と出会って音楽の話をした。そして私たちは友だちになった。最初は友だちで、それが私たちの関係の始まりだった(笑)。それから恋に落ちて、結婚して、いまでは娘がいる!
■あなたと彼との関係を見ると、1970年代に〈ブラック・ジャズ〉から諸作を発表したジーン・カーンとダグ・カーンの関係性を思い起こさせるのですが、意識するところなどありますか?
ATR:そうね。彼らも結婚して、一緒に音楽を作っていたわね。その後離婚はしたけど。彼らの曲は大好き。“Infant Eyes” だったかしら? ジーンが夫と一緒に歌った美しい曲だった。とても興味深い。でも実は脅威。私の夫は天才ミュージシャンだから。カマシは本当にすごいの! みんなは彼がリリースするものしか耳にしないけど、彼と一緒に暮らしていると、彼はほかの音楽にも取り組んでいて。常にピアノの前に座って、オーケストラの楽曲に取り組んでいる。「すごい!」って思う。彼がやっていることを、みんなに知ってもらえたらと思う。脅威的よ! 彼は歩く音楽の天才なんだから。彼はつねに音楽のことを考えている。映画を観ている最中でも頭の中では音楽を作曲し、アレンジしている。
日本のアニメ『LAZARUS(ラザロ)』の音楽を依頼されたとき、彼はすごくハッピーだった。子どもの頃から彼はアニメの大ファンだったから。彼が作った最高の音楽のうちのひとつが『LAZARUS』だった。すごい! 彼の映画やアニメとのつながりはとても深い。脅威的よ! 「なんてこと! あなた、本当に素晴らしい!」って(笑)。たまに、こっちはちょっと不安になってしまうけど。しかも、相手は自分の夫。だから、私たちが話すときは遠慮がない。他人と仕事をするときは、ちょっとは気を遣ってコミュニケーションを図るでしょう? でも、夫と妻が一緒に仕事をすると、考えていることを率直に言ってしまう。だからたまにピリピリするけど、結果は常に素晴らしいものになる。あまりにも素晴らしいんで、私も夫と一緒にやっていける。そしてそれを娘に引き継いでもらう。アシャは両親の音楽を受け継ぐことになる。彼女が早く成長して、自分が赤ちゃんだった頃に私たちが生み出したものを振り返ってくれるのが待ち遠しい。
■カマシのツアーで共演する中で、ファースト・アルバムの『The Prophet and The Madman』の制作が始まったそうですね。実際のところ、パンデミックの中でアシャを妊娠しているときに構想が始まり、レバノンの詩人で画家のハリール・ジブラーンの著書『The Prophet』と『The Madman』を読んだことがきっかけと聞きます。どんなところにインスピレーションを受けたのでしょうか?
ATR:私が初めてハリール・ジブラーンの名前を聞いたのは……。私は小説家としてではなく、音楽を通じて彼の作品を知って。ファイルーズが歌ったものすごく美しい曲に “Aateny El Nay We Ghanny” があるけど、その歌詞はハリール・ジブラーンが書いたもの。あと、私が仕事をしたミュージシャンが私に歌詞をつけて欲しいと言ったんで、私は『The Prophet』の “Children” からの言葉を引用してアラビア語で歌った。パンデミックの最中、私たちは人生や詩や映画についての話をしていて、たまたまハリール・ジブラーンの『The Prophet』の話になって、私が妊娠中にふたりでこの本を読み上げた。これを読み終えると、次は『The Madman』を読んで。これを読み終えると、「なんてこと! The MadmanはThe Prophetだったのね!」ということに気がついた。ハリール・ジブラーンが書いたこの2冊に登場する架空の人物には似通ったところがあることがわかったんで、「この2冊の本を元に音楽プロジェクトをやりましょう」ということになった。そうして『The Prophet and The Madman』のアルバム作りが始まった。
■アルバムのプロデューサーはカマシが務め、作曲はカマシ、作詞はあなたが行っています。
ATR:プロデューサーは間違いなくカマシだったけど、音楽はふたりで作った。曲のアレンジとプロデュースは全て彼が手掛けたけど、例えば “Speak To Us” のメロディは私が考えた。そして、そのメロディと私が書いた歌詞を中心に彼が全体をアレンジしていった。というわけで、基本的にはコラボレーションだったけど、プロデュースとアレンジは全てカマシが手掛けている。
■制作にあたってカマシはどんなアドバイスをしてくれましたか?
ATR:アドバイスというよりは、洞察ね。例えば私が “Speak To Us” をやったとき、私はこの曲を歌って自分のスマホに録音して、彼に聴いてもらった。彼はそれをより高いレベルに引き上げてくれた。“Children” をレコーディングしたとき、彼はそこに壮大なオーケストラ・アレンジを施して。私たちはその編成をすべてレコーディングした。でも聴き返してみると、「カマシ、この曲にはこんなにいろんなものは必要ないと思う。必要なのはギターだけじゃないかしら」と思ったんで、あの曲から全ての楽器を取り除いてギターだけを残した。少ないほうが効果的ってこともあるから。曲をビッグにするために、ビッグなサウンドにする必要はなくて。というわけで、彼は私の言うことを聞いてくれるし、私も彼のアドバイスを受け入れる。お互い様よ。“Children” に関しては彼が同意してくれた。
■“Children”の話が出たところで、これはジブラーンからの引用ですが、あなたとカマシの娘であるアシャへの想いも込められているのでしょうか?
ATR:そういうことではないわ。もっと概念的なものね。母親になってからこの歌詞を読んだら、ちょっと恐れを感じた。自分の子どもは自分の子どもじゃないって言っているんだから。最初の文章がそうなのよ。「自分の子どもが自分の子どもじゃないなんて、どういうこと?」って思った。子どもは自分を通して生まれて来るけど、自分からではないんだって。あれは教訓よ。「子どもたちには自分の考えを持たせること」。「新しい世代から学ぶこと」。私はジブラーンからそれを学んだ。自分の考えや経験を子どもに押しつけてしまうことってあるでしょう? でも、子どもたちには自分の考えや意見がないといけない。だから、子どもたちから学べる。子どもたちについて行かないといけないこともある。
■あなたから見てカマシはどんなプロデューサーでしたか?
ATR:彼との仕事はいつだって楽しい。プロデューサーとしての彼は、アーティストの言うことに耳を傾ける。彼は私のバックグラウンドを知っている。私は彼と一緒にアラビア音楽をよく聴いていた。彼は私のスタイルを知っている。彼はベストを尽くして彼の世界と私の世界というふたつの世界をうまく引き出して、このアルバムに取り込もうとした。特にモロッコのグナワ音楽とか。彼は間違いなく、音楽を通してアーティスト本来の姿を大事にしてくれる人。素晴らしいプロデューサーね。
photo by Sol Washington
私の音楽は間違いなく、流浪の民のものだと思う。人間は環境によって形成されるもので、私も間違いなく私が訪れた国々や私が暮らした国々で出会った人びとによって形成された。
■グナワの話が出ましたが、“Gnawa”はモロッコのグナワ音楽をベースにしています。グナワ音楽特有のリズムとジャズを融合した作品ですが、あなたの作品にはジャズとアフリカ音楽、中東音楽など異文化が融合したものがいろいろ見られます。あなたのルーツもそうですが、世界をいろいろ旅してきたことがそこに影響していると言えますか?
ATR:もちろん! 私の音楽は間違いなく、流浪の民のものだと思う。人間は環境によって形成されるもので、私も間違いなく私が訪れた国々や私が暮らした国々で出会った人びとによって形成された。私が歌えば、それが聞こえて来る。本物だし自然。私の音楽は、私という人間を如実に表わしていて。だからもちろん、モロッコやヨーロッパからの影響が多々ある。オランダやトルコで育ったから、私の中にはトルコの文化も根付いている。レバノンもそう。あともちろん、アメリカもそう。アメリカの音楽は、ヨーロッパでもとても強力な存在感がある。こういった様々なものがミックスされているのが、私の音楽を聞けばわかるはず。あと私は、文化や音楽を通じて橋渡しができるというのが大好きで。境界なんてない。私は境界が好きじゃない。音楽は万国共通語。だから私の音楽を聴けば、私が境界を信じていないことがわかるはず。
■“Children”の歌詞ではハリール・ジブラーンの詩を引用したとのことですが、ジブラーンの世界観とあなたのメッセージをどのように同化させていったのですか?
ATR:アルバムに収録された4〜5曲は本から引用したもの。そのほかの4〜5曲はカマシと私が作ったものね。ジブラーンへのトリビュートとして私が作ったもので。“Gnawa” と “Khalil(ハリール)” は私が作った。私が妊娠8ヶ月のときに曲作りを始めたけど、それが “Khalil” だった。ハリール・ジブラーンも境界を信じていなかった。“Khalil” で私がアラビア語で歌っているところは、ユダヤ教だろうがイスラム教だろうがキリスト教だろうが、みんなが祈れば同じときに同じ場所で出会うということ。つまり、境界なんかないと言っているのね。私たちはひとつ。結束している。ハリール・ジブラーンは自らの作品を通じてそのメッセージを打ち出した。
■参加ミュージシャンはカマシのバンド・メンバーが中心となっていますが、アラコイ・ピートやカリル・カミングスなどはあなた同様にアフリカがルーツのミュージシャンでしょうか?
ATR:ええ、バンド・メンバーの大半はアフロ・アメリカンだと思う。カマシがライヴをやっているとき、楽屋にいるほかのメンバーはありとあらゆる音楽を聴いていて。影響された音楽や聴く音楽に制約なんてない。彼らはアフロ・アメリカンだけど、世界中の音楽の知識が豊富で。だから、彼らとはとてもやりやすかった。
■そうしてみると、『The Prophet and The Madman』はアフロ・ディアスポラによるアルバムと言えるのですが、いかがですか?
ATR:そうね。アフロ・アメリカンは、アフリカのどの国の出身なのか知らない。私はアフリカ生まれだけど、冗談まじりに「あなたの祖先って、もしかしたらモロッコ人かもしれないよ!」ってカマシに言っている。彼は自分がアフリカのどの国の出身か知らないんだから。悲しい話だけど、これが全アフロ・アメリカンの現実で。だから、音楽で私がカマシとコラボするのは、再び互いに交わるようなこと。彼の祖先は、私の音楽を通じて彼に会いに来ている。だから、これってとても詩的だと思う(笑)。私たちは、またつながったわけ。私が西アフリカ出身であることは間違いないし、もちろん私の父親は黒人のモロッコ人よ。だから私のルーツには、マリとかナイジェリアも入っているはず。一巡しているようなもの。私たちの祖先も旅人だった。私たちは、祖先を引き合わせている!
■あなたはヨルダンの難民キャンプとコミュニケーションを取り、音楽や絵画のワークショップを開くなどの社会活動もしているそうですが、『The Prophet and The Madman』にはそうした活動と繋がる部分も見えます。特にあなたと縁の深い中東はずっと紛争や戦争が絶えないのですが、そうした国際情勢に対して何かメッセージを込めたところはありますか?
ATR:アーティストや作家、ヴィジュアル・アーティストでもいいけど、何かを生み出すときは、特定の国や宗教の集団のためにそうするわけではなくて。アートを生み出すとき、そのアートはみんなが体験するためのもの。さっきも言ったように、私の音楽には境界がない。ヨルダンやシリアの難民キャンプに行ったとき、そこでワークショップをやったし、私は彼らにカンバスをあげて絵を描くように言った。子どもたちには、世界と共有したいメッセージを描くようにと言った。私は境界を信じていない。音楽は万国共通語だから。音楽はみんなをひとつにできる唯一の表現手段だと思う。どんな宗教かなんて関係ない。国籍や性別も関係ない。音楽は差別のない唯一の表現手段。私はそれを信じている。
■最後に『The Prophet and The Madman』について、リスナーへのメッセージをお願いします。
ATR:私のアルバムによって、リスナーがじっくり考える時間を設けられたら嬉しい。彼らが人生に答を見いだしたいと思っているのだとしたら、私の音楽がそれを促したり、その道標になればと思っている。私の曲をストリーミングで聴いたり、アルバムを買ったりしてね(笑)! アーティストをサポートしてちょうだい(笑)! とにかく、私の音楽がみんなの探索の助けになればと思っている。立ち止まって、人生を振り返って欲しい。
















