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シカゴの前衛ジャズ集団AACMの一員として頭角をあらわし、以降ニューヨークとシカゴを往復しつつさまざまなグループで活躍しているトミーカ・リードは、こんにちの前衛ジャズ・シーンにおける見過ごせないチェロ奏者のひとりだ。そんな彼女が率いるカルテット、つい最近新作『3+3』を発表したばかりの精鋭4名が来日ツアーを敢行する。自在にチェロを操るリードのほか、1月に〈Nonesuch〉から新作を出しているメアリー・ハルヴォーソン(ギター)、ジェイソン・レブキ(ベース)、トマ・フジワラ(ドラムス)ら強力な面々による演奏を体験する貴重な機会。ぜひ足を運びましょう。
Tomeka Reid Quartet Japan Tour - 公演情報(venues)
Tomeka Reid (トミーカ・リード) - cello | チェロ
Mary Halvorson (メアリー・ハルヴォーソン) - guitar | ギター
Jason Roebke (ジェイソン・レブキ) - bass | ベース
Tomas Fujiwara (トマ・フジワラ) - drums | ドラムス
■6/5(水)東京
18:30open 19:30start
@BAROOM
東京都港区南青山6-10-12 1F
前売¥5,000 当日¥5,500 *税込/全席指定/1ドリンク別
https://baroom.zaiko.io/item/363666
■6/7(金)名古屋
18:30open 19:30start
@TOKUZO -得三-
愛知県名古屋市千種区今池1-6-8ブルースタービル2F
予約¥5,000 当日¥5,500
https://www.tokuzo.com/2024Jun/20240607
■6/8(土)大阪
16:00open 17:00start
@スピニング・ミル
大阪府堺市堺区並松町45
予約¥5,000 当日¥5,500(全席自由)
https://www.keshiki.today/event-details/trq2024osaka
■6/10(月)岡山
18:30open 19:30start
@蔭凉寺
岡山県岡山市北区中央町10-28
予約¥5,000 当日¥5,500(全席自由)
https://omnicent.org/event/tomeka-reid-quartet-japan-tour-in-okayama
■6/13(木)福岡
18:30open 19:30start
@九州大学大橋キャンパス音響特殊棟
福岡県福岡市南区塩原4-9-1
一般¥5,000 25歳以下および九大教職員・学生¥3,000
https://peatix.com/group/11649039
■6/15(土)八女
18:00open 19:00start
@旧八女郡役所
福岡県八女市本町2-105
前売¥5,000 当日¥5,500
https://yame-ongaku.square.site/
昨年、あのなんとも言えない影と陽を秘めた復帰作『夢中夢 -Dream In Dream-』であらためて存在感を示したコーネリアス。今年はソロ活動30周年にあたるが、ここへ来て新たなリリースがアナウンスされている。題して『Ethereal Essence(イーサリアル・エッセンス)』。近年発表してきたアンビエント寄りの楽曲を中心に構成した作品だという。今作のために再編集や再レコーディングをおこなった曲がメインとなっており、初発表作品が多数を占める、オリジナル・アルバムに近い内容になっている模様。小山田圭吾は一年前のインタヴューでアンビエントへの関心を語っていたけれど、はたして今回どんなアルバムに仕上がっているのか──発売は6月26日。現在 “Sketch For Spring” が先行配信中です。
なおコーネリアスは、5月より中国での初ライヴに挑戦(5/26上海・ワンマン、5/28北京・ワンマン)、7月には日本で活動30周年記念ライヴも控えている(7/7東京ガーデンシアター、7/13ロームシアター京都)。9月にはヨーロッパやアメリカでもツアーをおこなう予定だ。『Ethereal Essence』という新しい試みとともに、アニヴァーサリー・イヤーを見届けよう。

[商品情報]
Cornelius / Ethereal Essence
WPCL-13566
通常盤 CD 1枚組
¥3,300(税込)
https://cornelius.lnk.to/sketchforspring
https://Cornelius.lnk.to/etherealessence
01 Quantum Ghost 〔アナログ7inch「火花」カップリング曲。初CD化〕
02 Sketch For Spring 〔渋谷パルコオープン記念BGM。初CD化。初配信〕
03 Heaven Is Waiting 〔初CD化。初配信〕
04 サウナ好きすぎ、より深く / Too Much Love For Sauna (Falling Deep) 〔テレビ東京 ドラマ「サ道」テーマ曲のリアレンジ曲。初CD化。初配信〕
05 Xanadu 〔初CD化。初配信〕
06 ここ 〔谷川俊太郎展(2018)展示楽曲。初CD化。初配信〕
07 Step Into Exovera 〔初CD化。初配信〕
08 Forbidden Apple 〔21年配信シングル。初CD化〕
09 Melting Moment 〔「BYSAKUU」第5弾のカセットに収録された楽曲リアレンジ。初CD化。初配信〕
10 告白 - Cornelius ver. 〔ASA-CHANG & 巡礼「まほう」収録曲〕
11 Mind Matrix 〔初CD化。初配信〕
12 Windmills Of My Mind 〔雑誌「Nero」10周年記念号エキシビジョンで販売されたアナログ7inch収録。初CD化。初配信〕
13 Thatness And Thereness - Cornelius Remodel 〔「A Tribute to Ryuichi Sakamoto」収録〕
[ライブ情報]
“Cornelius 30th Anniversary Set”
7/7(日) 東京ガーデンシアター
7/13(土) ロームシアター京都 メインホール
“Cornelius "Dream In Dream" World Tour 2024”
中国
5/26(日) Bandai Namco Shanghai Base Dream Hall – 上海
5/28(火) Fullof Livehouse – 北京
ヨーロッパ
8/30(金) - 9/1(日) End of the Road Festival - Salisbury, UK (TBA)
9/3(火) Paradiso - Amsterdam (NL)
9/6(金) Barbican - London (UK)
アメリカ
9/21(土) Music Box - San Diego, CA
9/22(日) Pappy + Harriet's - Pioneertown, CA
9/24(火) The Fonda Theatre - Los Angeles, CA
9/25(水) UC Theatre - Berkeley, CA
9/27(金) Crystal Ballroom - Portland, OR
9/29(日) The Neptune Theatre - Seattle, WA
海外チケットリンク:https://www.corneliusjapan.com/tour1
[グッズ情報]
Cornelius Official Merchandising
ワーナーミュージック・ストアにて販売中。
https://store.wmg.jp/collections/cornelius
[PROFILE]
Cornelius(コーネリアス)
小山田圭吾のソロプロジェクト。
'93年、Corneliusとして活動をスタート。現在まで7枚のオリジナルアルバムをリリース。自身の活動以外にも、国内外多数のアーティストとのコラボレーションやREMIX、インスタレーションやプロデュースなど幅広く活動中。
近所の本屋で立ち読みをしていたらBGMがなんとも素敵なドローンに変わった。スーパーの上にある店にしては粋な選曲じゃないかとうっとり耳を傾けていたら、店員さんが押している台車が視界の端に入ってきた。ドローンどころか音楽でもなくて、台車がガラガラと立てていた音だった。ガラガラガラ……。いや、でも、坂本龍一が言っていたのは、こういうことだよなと気を取り直す。あらゆる音に音楽を聴き取るということはこういうことだろうと。ほんの数秒だったけれど、それはとても素敵なドローンだった。自分が好きな種類の音だったことに変わりはない。台車の重さだとか、店員さんが押すスピードだとか、様々な条件が重なって出た音がそれだったのである。それから数日後、同じ本屋の前を通りかかると、再び、ガラガラガラ……と同じ音が聞こえてきた。ああ、また、台車の音かと僕の脳は初めからその音を音楽としては受けつけてくれない。覚めきった脳である。もう一度ぐらい騙されてくれてもいいではないか。そして、そのまま歩き続けると、その音は台車ではなく福引きのガラガラポンを回す音だった……

坂本龍一の最後のピアノ演奏を収めた記録映画。坂本龍一が音響設計に携わった109シネマズプレミアム新宿で観ることができた。『Playing The Piano 2022』と同じく坂本龍一がひたすらピアノを弾き続けるだけで、「opus」は「作品」の意(『BTTB』の冒頭を飾る〝Opus〟はかなりゆっくりとしたアレンジに改められている)。
最初の曲は〝Lack of Love〟。坂本龍一の訃報が伝えられた直後にSpotifyで1位になった曲である。死後に何が起きるか予言していたみたいで、ちょっと驚く。真上とか横からカメラが寄っていくのではなく、穏やかでどことなくミステリアスなピアノを演奏する坂本龍一の背後からカメラが近づいていく。もしも撮影しているのが他人であれば、坂本は手を止めて振り返るような気がするけれど、息子が監督だからだろうか、無防備な背中は振り返ることなく、後ろを向いたまま。背中というより「気配」の視覚化と言いたい。こんなところから見ていいのだろうか。そんな気分に襲われる。大袈裟にいえば家族の一員になれたようなオープニングである。
宣伝資料には「コンサート映画」と謳われている。だとしたら、以下、具体的な曲名は伏せて「作品」を眺望してみよう。意外な選曲。意外な曲の構成をひた隠しにして宣伝の片棒を担ぐことにしたい。ユーチューブを検索すると坂本龍一は自分がかかわった映画についてあれこれと話す動画をたくさんアップしていることがわかる。そして、そのどれもがあまり視聴されていない。『あなたの顔』や『さよなら、ティラノ』など、いろんな映画を見てもらいたくて彼は勝手に宣伝していたのだろう。僕もいまは似たような気持ちである。

ピアノの演奏を収めた映像となると背中ばかりを映し出すわけにはいかない。坂本親子といえどもそこまでは前衛ではない。何曲か観ていると、定石通りに手元のクローズ・アップが映し出される。角度の妙なのだろうか、手元のクローズ・アップを何度か観ているうちに坂本の両手が2匹の魚に見えてきた。飛び魚が水面を跳ねて泳ぐように坂本の両手が抜いたり抜き返したりを繰り返す。曲が終わると両手がふわっと宙に持ち上げられる。坂本龍一追悼号で坂本とコラボレーションを続けたテイラー・デュプリーにどうして『Disappearance(減衰)』というタイトルにしたのか尋ね、「2人とも人生や自然の儚さに惹かれていたから」(p43)という答えを得たのだけれど、坂本がふわっと手を宙に持ち上げると、手の先にはまだ音が残っていて、それがゆっくりと空中に消えていくプロセスが目に見えるよう。曲の終わりだけではない。ひとつの音が現れては消え、次の音が現れては消える。その繰り返しに2匹の魚が自然と重なっていく。
『Opus』が捉えたのは、結果的に最後の演奏ということになったわけだけれど、どういうわけか、枯れた演奏という感じはしなかった。どの曲も次の演奏はなく、「これで終わり感」のようなものはあるのに、そのことと「枯れる」という感覚が結びつくことはなかった。似たような和音を続けざまに抑えたり、少しずつ音階がずれていく展開など、なんというか、正解を探り続けているというのか、坂本の中で完結したものを聴かされているという気がしないのである。うまく言えないけれど、この世界には感情のツボがあって、そこを一緒になって探っているような能動的な気分になっている。僕は長いあいだ『B-2 Unit』や『Esperanto』がとても好きだった。だけど『Out Of Noise』が自分の気持ちに入り込んだ瞬間から初期の作品には幼さを感じるようになり、以前と同じ気持ちで聴くことができなくなって名盤として同列に扱うことも無理になり、それだけ『Out Of Noise』が醸し出す慈しみやスケールの大きさに圧倒されて〝Merry Christmas Mr. Lawrence〟が無限大に膨れ上がったヴィジョンに包まれたような気がしていた。『Opus』を観ていて感じたこともそれに似たものがあり、枯淡の境地というような距離感のあるものには思えなかった。

そして、それらとまったく違ったのが〝Tong Poo〟。この曲だけは「次はない」という気がしなかった。やはりこの曲にはこれからYMOを始めるぞという坂本の野心が目一杯つまっていたからだろう。それまでずっと続いていた穏やかな海とは違い、〝Tong Poo〟からは人生の荒波に乗り出す期待がいまだに躍り出してくる。だからか、逆説的に「枯れた演奏」という表現がこの曲だけには当てはまると思う。少なくとも『BTTB』に収められた獰猛なヴァージョンと比較したらそれこそ老いを感じさせる演奏ではある。そして、他の曲とはあまりにトーンが違うからか、〝Tong Poo〟だけはすぐに演奏が始まらない。ほかの曲でもやり直しや単純な失敗はあったのだろうけれど、調子を整える場面を残したのはこの曲だけだったというのは映画の構成的にも正解だったと思う。
ピアノ1台だけなのにベースが聴こえてくるような気がする曲もある。演奏しながら鼻の下を伸ばす仕草も監督は逃していない。比較的好きではなかった曲もまったく違った曲に聴こえた。〝Merry Christmas Mr. Lawrence〟は様々な時期の演奏を聴いてきたつもりだけれど、極端に高音を強調した初期の演奏や最も落ち着いた2010年代の演奏、あるいはイントロの前に別なイントロがついたヴァージョンなど、そのどれとも異なる演奏で、音階が違うわけではないと思うけれど、そこはかとなく音数が多い気がして、あまりに簡素だった『Playing the Piano 2022』やモチーフによってテンポが急変する〝Merry Christmas Mr. Lawrence - Version 2020〟の演奏がまだ頭に残っているせいか、一度だけでは消化できない情報量が耳に残ったままになっている。この情報量をしばらく頭の中で転がし続けられることが、おそらくは幸せなことなのだろう。

PS
昨年始めに『12』のレビューで坂本龍一が盛んに大学生の僕たちを笑わせようとしたことを書き、これを読んでくれた小山登美夫が、イヴェントが終わってから坂本さんに「暗いよ」と言われ、だからしつこく笑わせようとしたのだということが判明いたしました。40年前も前のナゾがいまさら解き明かされるなんて。

ロックの本質をラディカルなものだと捉えているバンドマンは絶滅種に近い、とまでは思わない。日本からUKを見た場合、リアス・サウディやスリーフォード・モッズのような人たちはすぐに思い浮かぶけれど、まだ紹介されていないだけで、じつはほかにもいる。だから、UKロックがいよいよファッショナブルな装飾品になった、というのは早計だ。が、こんにちのロック界がラディカルなものを求めているのかどうか……ぼくにはわからない。
ジョン・ライドンやジョー・ストラマー、あるいはポスト・パンク世代たちのインタヴューが面白かったのは、彼ら彼女らが、自分が言いたくても言えなかったことを言っていたから、という気持ちだけの話ではない。彼ら彼女らの発言には、たとえ平易な言葉であっても社会学や哲学、政治の話を聴いているかのような、知性に訴えるものもあった。リアス・サウディのインタヴューは、あの時代のUKインディ・ロックの濃密な実験が完全に消失されていなかったことを証明している。意識高い系へのウィットに富んだ反論という点では宮藤官九郎の「不適切にもほどがある」と微妙にリンクしているかも……いやいや、ファット・ホワイト・ファミリーのリスナーの大部分は昭和など知らない、ずっと若い世代です。
とまれ、ファット・ホワイト・ファミリーが5年ぶりの4枚目のアルバムをリリースするまでのあいだ、バンドの評判が母国において上がっているとしたら、ベストセラーとなった共著『1万の謝罪』の効果もあろう。が、音楽シーンにおける難民となっている彼らだから見えている光景を、人はもうこれ以上、目を逸らすことができなくなってきているという状況があるとぼくはにらんでいる。この、いかんともしがたいダークな事態が続くなか、風穴をあけんとジタバタし、破れかぶれにもなり、じつを言えばなんとしてでもロックンロールを終わらせたくない男=リアス・サウディへの共感は、スマートではないからこそさらに熱を帯びることだろう。彼にはいま、作家としての道も開けているそうだが、ぼくとしては、ひとりでも多くの日本人がファット・ホワイト・ファミリーの音楽を聴いてくれることを願うばかりだ。

中央にいるのが、取材に応えてくれたリアス・サウンディ
テイラー・スウィフトを聴く方が、あの手のバンドを聴くよりも「侮辱された」って気にならないだろうな。例の「ポスト・ポスト・ポスト・ポスト・パンク」バンドの手合いね。生真面目で、時機に即した正義感あふれる歌詞、たとえば「自分たちはどれだけ移民を愛してるか」だの、ジェンダー問題云々、まあなんであれ、そのときそのときでホットな話題を取りあげる連中。
■素晴らしい新作だと思いました。
Lias Saoudi(LS):オーケイ。
■この時代のムード、とくにやるせなさや空しさをひしひしと感じました。
LS:うん。
■最初にアルバムを通して聴いたとき、いちばん心にひっかかったのは、“Religion For One”でした。ぼくは英語の聞き取りのできない日本人なので、頼りはサウンドだけです。その次が“Today You Become Man”で、これが気になったのはサウンドと曲名です。ほかの曲も好きですが、この2曲から感じた、恐怖、混乱、倒錯的な快楽、目眩、空しさ、これらはこのアルバムのなかで重要な意味をなしているように思いました。この感想についての感想をお願いします。
LS:ああ、だから一種の、想像力およびアクションの麻痺、みたいなことなんだろうな。ある種……それが注意力を引きつけるのは当然のことだ、というか。だって、それ以外に何も起きてないわけだから。
通訳:それは、現在の世界では何も起きていない、ということでしょうか?
LS:そう。いまやこう、ぞっとするくらいの停滞状態、というポイントにまで到達したと思うし。だから一種の、この……アポカリプスか何かの一歩手前、って状態が恒久的に続いている、みたいな? つまり、そうなる寸前の段階で時間が凍りついて止まってる感じ。だから逆に、いっそ物事が崩れ落ちてくれる方がむしろ救いになるんじゃないか、と。それってだから、永遠に変わらない型/枠組みが存在する、波頭が砕けることはない、ということだし。とにかく、そういう……まじりっけなしの不安感がある、と。で、思うにそれがおそらく、「これ」と明確にわかるやり方で、ではないにせよ、おれが伝えようとしてることなんじゃないのかな。とは言っても〝Today You Become Man〟、あの曲は、おれの兄の体験した割礼のお話で。
通訳:えぇっ? そ、そうなんですか!
LS:(苦笑)うん、彼は子供の頃に割礼を受けて……おれたちは半分アルジェリア人の血が混じってるんだ。だから兄は父方の故郷で、北アフリカの山々で割礼を受けた、と。
通訳:なるほど。かなり残忍な儀式、という印象ですが。
LS:ああ、かなりむごい。兄は麻酔も受けずにカットされたし……
通訳:ぐわぁ〜っ、聞いてるだけで痛そうで、きついなあ。
LS:フハハハハッ! でも、だからなんだよ、あの曲がかなりナーヴァスなものに響くのは。
■音だけだと、あの曲はフィリップ・K・ディックの小説で描かれる悪夢みたいで、強烈に惹きつけられました。
LS:なるほど。一種、そうかもね。ハッハッハッハッ!(※ディックは「陰茎」を意味する言葉でもある)
通訳:たしかに……(苦笑)。
LS:でも、あのとき兄は5歳くらいだったはずで。だからあの曲では、兄があの思い出を語るときにやるおれたちの父親の物真似、それをおれが真似てるっていう。あの曲で起きてるのは、そういうことだよ。
このグループのなかに、アルバート・アイラー的な面はあるよね。思うに……おれ自身は、フリー・ジャズに造詣が深いとは言えないだろうな。ただ、誰もが色々でっちあげたというか、アルバム作りのあの時点で、みんな、思いつくままクソをあれこれと壁に投げつけて、何がこびりつくか見てみよう、と。
■フリー・ジャズは聴くんですか? “Today You Become Man”にその影響がありますが、もしそうなら、とくに好きな作品/アーティストは?
LS:まあ、このグループのなかに、アルバート・アイラー的な面はあるよね。思うに……おれ自身は、フリー・ジャズに造詣が深いとは言えないだろうな。ただ、誰もが色々でっちあげたというか、アルバム作りのあの時点で、みんな、思いつくままクソをあれこれと壁に投げつけて、何がこびりつくか見てみよう、と。
通訳:(笑)
LS:あの曲は実は、9人で演奏した、20分近いジャムみたいなものだったんだ。だからアルバムに収録したのは、そこからカットした短い部分。
通訳:ジャムから編集してアルバム向けの尺にした、と?
LS:っていうか、あの曲のヴォーカルにとって「これだ」と完璧に納得できる、その箇所だけ使った。
■FWFの10年の歩みを綴った、アデル・ストライプとあなたの共著『Ten Thousand Apologies: Fat White Family and the Miracle of Failure(1万の謝罪:ファット・ホワイト・ファミリーと失敗の奇跡)』(2022)はいつか読みたい本です。レヴューを読む限りでは、FWFの歴史においての、おもにドラッグ常用者の手記みたいなものらしいですが、合ってます?
LS:ああ……。
通訳:もちろんドラッグ体験ばかりではなく、バンド・ヒストリーも追っているのでしょうが。
LS:まあ、本の多くは、おれとおれの弟(Nathan Saoudi)の生い立ちについて、だね。アルジェリア半分/英国半分の子供で、北アイルランド、そしてスコットランドで育ち……ということで、まあ、とにかくちょっとばかし奇妙なお膳立てだったわけ。で、続いて20年くらい前のロンドン音楽シーンの話になり、みすぼらしい生活、一時的なスクウォット暮らし等々……不潔さ、カオス、ドラッグが山ほど出てくるよ、うん。でも、どうなんだろ? たぶん、これくらい早い時点でああいう本を書くのは、ちょっと妙なんだろうな。ただ、パンデミック期だったし、おかげでほかに何もやることがなかったし、だったらまあ、ここでひとつ過去を吟味してもいいだろう、と。当時は音楽活動をまったくやってなかったし。
■この本を書こうと思った動機について聞きたいのですが、たしかに「バンドの伝記」はちょっと早いですよね。いまおっしゃったように、コロナがきっかけだった? それともいつか書きたいと思っていた?
LS:いいや、たぶんアデル・ストライプは、どっちにせよこのバンドのバイオグラフィを書くつもりだったんだと思う。彼女はパンデミックの前から、おれに協力を要請していたからね。パンデミックが世界的に爆発したまさにその頃に、おれたちは日本・中国・台湾・香港etcを回ってるはずだったんだよ(※2020年3月に予定されていたがキャンセルになったツアー)。だから本来は、おれがロード生活の合間に彼女にいくつかのパラグラフをメールする予定だったわけ。ところが何もかも一時停止し、バンド全員が家にこもっていたし、ほんと、こりゃ執筆には完璧なタイミングだな、と。うん、あれはまあ、一種のセラピー的なプロセスだったというか。どうかな? とにかく、もっと過去に起きた、とんでもなくカオスな出来事の数々を自分なりに理解するのに役立った。ほんの少しだけど、それらからなにがしかの理解を引き出せた。
■書名を『Apologies(謝罪)』としたのはなぜ? 単純な話、まわりに迷惑をかけたからでしょうか?
LS:んー、おれが思ったのはそれよりももっとこう、このバンド内には常に、非常に悪意に満ちた、有害な対人関係の力学が存在してきたわけ。おかげでその歴史は丸ごと、絶え間ない川の流れのような無意味な謝罪の連続、みたいな。つまり、あれは一種の内輪ジョークというか。ほとんどもう、いちいち相手に謝るのすら面倒くさいというのに近い。どうせまた険悪になるんだし、だったら中身のない謝罪ってことだから(苦笑)。
通訳:なるほど。バンド内のテンションや個人間の葛藤もありつつ、それでも仲直りし再出発するものの、でもまた誰かがおじゃんにする、の繰り返しで続いてきた、と。
LS:まあ、悲惨なのは、この……「仕事」というのか何というのか、そのいちばん魅力的な面というか、本当はたぶんそうするべきじゃないのに、でも続けたくなってしまう、その理由って、パフォーマンスをやることと、そしてそれにまつわる経験すべてのもたらすハイなんだよね。だから、おれたちの間で起きた口論の数々は、みんなの生きてる自然界での当たり前の人間関係だったら、たぶん完全な仲違い・絶交に繫がっていただろう、そういう類いのものだったわけ。普通なら、自然死していたはずだ。でも、おれはこの、いわば痛みを感じにくい生命維持装置めいたものをまとい続けていたし、それって風呂に浸かったまま生きるようなもんで、だから毎晩のようにマジにエクストリームなことをやっていた、と。ところがいったんライヴが終わるや、一気に罪悪感が出てきて、全員がハイな状態のままで「ごめんな」「悪かった」とか、謝り合うわけ。すると急に、「何もかも滅茶苦茶だけど、それでもオーライ!」って信じることができるっていう。それってある意味……勝手な思い込み・妄想なんだろうな。一種、毛布をひっかぶってイヤなものは遮断する、そういう幻想っていうかさ。そうやってひたすら目をつぶって邁進し続け、でも状況はどんどん悪化し、恨みや憤りもどんどん積み重なっていく、と。うん、そんなとこ。
[[SplitPage]]そもそもこのバンドは常に、なかばダダイスト的な、社会実験みたいなものだったからね。だから、ヒットを出して大きく当てる、みたいなことはハナから意図してなかった。
■“Religion For One”には不思議なパワーを感じます。負の感情が横溢していますが、この曲には陶酔感もありますよね。曲ができた経緯を教えてください。
LS:えーと、あの曲を書いたのはいつだったっけ? フーム……ああ、パンデミックが起こる直前に、おれは曲を書き始めて、それとフィンガー・ピッキングのギター奏法も勉強し始めたんだ。フィンガー・ピッキングでギターを弾きたいとずっと思ってきたし、ここでもまたパンデミックが、アコギで指弾きをやるのを習得する格好のタイミングになった、と。で、おれはちょっとした曲を作り始めたし、それらは、そうねえ……「えせレナード・コーエン」調とでもいうか? 単に自分で浸って書いていたし、あとまあ、〝Suzannne〟をギターで弾こうとえんえん練習してたから、というのもある。で、そのプロセスのなかからこの曲が浮上してきた、みたいな。たしかあの頃は、ルーマニア人の悲観主義作家/思想家のE・M・シオラン(Emil Mihai Cioran)をよく読んでたな。
通訳:ほう。
LS:彼の文章はまあ、「宇宙的にブラックな笑い」、みたいな? で、あのときのおれが向かおうとしていたのも、そのノリだったわけ。というわけで、そうだな……(小声でつぶやく)さて、あの曲を書いたのはいつだったかな、はっきり思い出せない……まあともかく、いまからずいぶん前の話だよ。おれが、いわゆる「タートルネックを着た、真面目なフォーク吟遊詩人」になろうとしていた間に書いた曲だ。
通訳:(笑)ボブ・ディランみたいな?
LS:そう、ボブ・ディランか何かみたいな(笑)
■FWFのなかは、ロックにおける成功とはいったいなんなのか?という、カート・コベイン的なヒニリスティックな疑問があるのでしょうか? たとえば、大衆受けする曲を書いて、こうして取材を受けて、売れて、儲かるという、それらすべてのポイントってなんなんだ? みたいな。
LS:いや、おれは複数のバンドを掛け持ちしようとしてるし、執筆活動もやる。だから、9時5時の普通の仕事をせずに食いつなぐためには、色んなことをやらなくちゃいけないわけ。だからおれからすれば、自分が標準的な職に就くのを回避できたら、それは漠然とした「成功」と捉えていいだろう、と。もっとも、公正を期すために言うと、今のこの仕事(=バンド〜アーティスト活動)だって、ある意味、普通の仕事と同じくらい嫌いなんだけどね。普通の仕事をやってる方が、たぶんもっと経済的に楽だろうし。ってことは、自分はそこすら勘違いしてたんだろうな、つまり自分なりの「成功」の定義のレベルですら、あまりうまくいかなかった、と。いやだから、以前のおれは、ステージに登場しただけで、バンドがまだ何も始めてないのに観客が拍手喝采する、そうなったら成功だろうと思ってたんだよ。ほら、人気を確立したバンドのライブだと、彼らがステージに上がった途端に、もうお客は拍手するわけじゃない? そうなったら、たぶん自分はそれだけで満足だな、昔はそう思っていたわけ。でも、満足するってことはなかった。それ以外にも、求めることはいろいろあるっていう。ただ、近頃じゃ……スポティファイ等々の権力を持つ側が基本的に、「お前にはなんの価値もない」と決めてしまったわけでね。だからおれたちも、「ロックンロールのサクセスとは何か」の定義/尺度を格下げしなくちゃならなかった、と。その公式見解に足並みをそろえるのは可能だし、そうすればもうちょっとバンドも長続きするかもしれないけど、そもそもこのバンドは常に、なかばダダイスト的な、社会実験みたいなものだったからね。だから、ヒットを出して大きく当てる、みたいなことはハナから意図してなかった、という。まあ、いわゆる「インディ・ロック」と呼ばれる類いの音楽で実際に成功してるもの、それらの実に多くはマジに、もっとも憂鬱にさせられるような戯言だしね。あれを聴くくらいなら、おれはむしろ……いや、実際にテイラー・スウィフトを聴いたことはないけど、たとえば彼女の類いの音楽を聴く方が、あの手のバンドを聴くよりも「侮辱された」って気にならないだろうな、と。つまり、例の「ポスト・ポスト・ポスト・ポスト・パンク」バンドの手合いね。生真面目で、時機に即した正義感あふれる歌詞、たとえば「自分たちはどれだけ移民を愛してるか」だの、ジェンダー問題云々、まあなんであれ、そのときそのときでホットな話題を取りあげる連中。それこそもう、「いま熱い」トピックを次々に繰り出す糸車みたいだし、しかもそのすべてに歯を食いしばるようなひたむきさが備わってて。だから、ユーモアにもセックスにも欠けるし、ただひたすらこう、「乾いてる」という。そういうのには、おれはとにかく、一切興味が持てない。
通訳:カート・コベインについてはどう思いますか? ニルヴァーナは90年代でもっとも成功したロック・バンドのひとつになり、彼はその重圧に苦しみました。で、大ヒット作のパート2ではない『In Utero』を作ったのは一種の「自己サボタージュ」だったと思います。『In Utero』はいまではクラシック・アルバムとされていますが、当時はニルヴァーナのキャリアを棒に振ると言われた問題作でしたし――実際、彼は自らの命を絶ってしまいました。彼のそういう厭世的なところは、理解/共感できたりしますか?
LS:そうだな、今日の……おれたちが生きてる時代の音楽の歴史って、実際面での再編成に影響されてるんじゃないかな。つまり、音楽をやってもちっとも金にならない、と。その点は本当に、とにかく何もかもの力学を丸ごと変えたと思う。不可能だ、と。だからもう、そうしたことをやる権限はないわけ。おれが見渡す限り、そういうタイプのスター、あるいはならず者的な存在は見当たらないし、うん、少なくともロックンロールの世界では、そうした人物は過去の遺物だね。まあ、もしかしたらカニエが、ラップ界でその旗を振ってるのかもしれないけど(苦笑)?
通訳:(笑)たしかに。
LS:(笑)「マジにファッキン狂った男」をやってて、危ない奴だ、と手かせ足かせで拘束されるっていう。一方でロックンロールはいまや、ブルジョワ階級の道楽めいたものになってる。こけおどしの儀式/祭典みたいなもんだし、これといった文化的な生命力は、そこにはもはやない。とにかく都会暮らしの中流階級のガキが繰り広げる仮装大会だし、要するに、そこには鋭い切れ味がすっかり欠けている、と。だから、いま言われたような「成功を拒絶する」型の声明を打ち出すのは、もう、どんどんどんどん、むずかしくなる一方なわけ。ってのも、メンバー全員が完全に頭がおかしくなり、あっという間に爆発してしまうことなしにバンド活動を続け、作品を出しツアーに出続けるのは、もう不可能だから。いまバンドをやってる連中は、そこにこもってODできるような私邸すら持ってない。三回離婚しても慰謝料を払えるほど稼いでもいないし、個人的なメルトダウンを起こしたら逃げ込める私有牧場も持ってない。コカインは高過ぎて買えないから、それより安いスピードに切り替えるしかないし、ヘロインの代わりにフェンタニル(※合成オピオイドの鎮痛剤)を使う……みたいな感じで、とにかくあらゆる基準において、何もかもが格下げされてきた。もちろんほかのすべて、生活基準etcもグレードが落ちてるけど、音楽におけるそれは、とりわけひどい。音楽がいかにシェアされるか、という意味でね。それこそもう、基準なんて存在しない、というのに近い。少し前に――これまた一種の「ロックンロールの自殺者」と呼んでいいだろうけど――デイヴィッド・バーマンに関する記事を読んで。
通訳:ああ、シルヴァー・ジュウズの(※1989年結成のUSバンド。2005年にラスト・アルバムを発表し09年に解散、フロントパーソンのバーマンは2019年に新プロジェクトをデビューさせたものの程なくして自殺)。
LS:うん。デイヴ・バーマンについて読んでたんだ、彼が自ら命を絶つ少し前にリリースした、最期のアルバムがとても好きだから。
通訳:『Purple Mountains』ですね。
LS:そう。あれはほんと……今世紀のもっとも美しいレコードのひとつ、というか。それくらい、本当にあのアルバムが好きで。でまあ、それで彼に関する記事を読んでたんだけど、そこに「彼はナッシュヴィルに家を買った」みたいな記述があって。90年代のレコード売上げ等々で彼には家を買えた、と。それを読みながら、おれは……いやだから、シルヴァー・ジュウズを聴くと、そのいくつかはとんでもない内容で(苦笑)。
通訳:(笑)
LS:それこそ、もっとも商業性のないオールドスクールなフォーク・ロックみたいなノリだし、歌詞にしてもへんてこで脱線気味。どう考えても「ヒット曲満載」ってもんじゃないし、支離滅裂で。だから「えぇっ、デイヴ・バーマンはあれでも家を買えたんだ!」と驚いた。「一体どうやって?」と思った。でも、ああそうか、90年代だったからか、と納得したっていう。
通訳:時代もありますし、あの頃のナッシュヴィルでも、郊外ならまだなんとかなったんじゃないですか?
LS:ん〜〜、たしかに。それはそうだな。ナッシュヴィルの不動産価格をきちんと調べた上でじゃないと、これに関して早合点はできないかもしれない。
通訳:(笑)。いまは、たとえばナッシュヴィルで腕を磨いたテイラー・スウィフトの成功で再び新世代のカントリー・シーンが盛り上がり、状況も違うんでしょうが。
LS:だけど、カントリーは常にかなり人気があるジャンルだと思うけど? それって、アメリカ国外のおれたちみたいな連中には認識できない、そういうもののひとつだと思う。ただ実際には、カントリーはアメリカでいちばん人気のある音楽と言っていいくらいポピュラーで。ヘタしたらヒップホップよりビッグかもしれないし、産業としてもめちゃめちゃ巨大だろうし。で、その再重要地点がナッシュヴィル、みたいな。だから、いまはもちろん90年代ですら、家の価格はかなり高かったんじゃないかと思うな……。ちょっと話が逸れたけども。
メンバー全員が完全に頭がおかしくなり、あっという間に爆発してしまうことなしにバンド活動を続け、作品を出しツアーに出続けるのは、もう不可能だから。いまバンドをやってる連中は三回離婚しても慰謝料を払えるほど稼いでもいないし……みたいな感じで。
■たしかに。質問に戻りますが、先ほど「音楽にヴァイタリティがなくなってしまった」とおっしゃっていましたが、文化全般についてはいかがですか? 60年代末のカウンターカルチャー、パンク〜レイヴ・カルチャーの時代に比べて、文化の力が弱まったという意見がありますよね。あなたもそう思いますか? もしそういう自覚があるようだったら、その苛立ちというのはFWFに通底していると言えるのでしょうか?
LS:まあ、基本的にインターネットがそうした物事のすべて、君がいま挙げたようなサブカルチャーetcのポテンシャルを一掃してしまったんだと思う。それらはみんな、「ポスト・インターネット時代」においては認知不可能なものになってしまった、と。人びとの頭のなかに入り込んでしまう、この、奇妙な均質化と関連してね。つまり、インターネットの本質に不可欠なのは、可能な限り誰もがほかのみんなと似たり寄ったりになる、ということだし、そうすればマシンもより円滑に機能するわけで。思うに、かつて特定のファッションなり、音楽やサウンドなり、とある地域なりの周辺に集まって融合したエネルギーというのはすべて……そのエネルギーはきっと、何かに対する反抗だったり、あるいは単に、抑圧された表現の奔出だったんだろうけども――それらは全部、この「オンライン空間」みたいなものにパワーを集中し直したんじゃないかと。というわけで、意地の悪いケチな争い合いの数々に、色んなヴァイラル/TikTokのバズの堆積物の山だの……要するに君は、エンドレスに連続する、減少していく一方の無数の「無」を前にしてる、みたいな。フィジカルな世界で有機的に成長していくことのできる、真の意味での焦点/中心点ではなくてね。何もかもからそれが剥ぎ取られてしまい、そうした過去のサブカルetcに対するノスタルジアがそれに取って代わった感じ。おかげで、安っぽいイミテーションだのパロディが絶え間なく出て来るし、いまやもう「パロディのパロディの、そのまたパロディ」みたいな地点にまで達してる。でも、たとえばUKを例にとってみても――もちろん、音楽はいまだに英国有数の大産業だし、もっとも稼ぐ輸出産業のひとつなんだよ。ただ、そんな国なのに、全国各地で小規模のライヴ・ハウスやクラブ会場が消えつつあって、その存在は風前の灯。代わりに、新たなアリーナ会場が作られてる。
通訳:ああ、そうですよね。
LS:アリーナ公演のチケット代が天井知らずで上がる一方で、200〜300人規模のヴェニューは店じまいしてるわけ。だからなんというか、ギー・ドゥボール的な「スペクタクルの社会」になってる、というか? そこにはプラスチックでにせの「神」的存在が次々担ぎ出され、古風なロックンローラー、それこそテイラー・スウィフトでもいいし、ポール・マッカートニーでもいいけど、その手の重々しい「巨人たち」が登場する、と。ただ、そんな見世物はどう考えてもこっちも即応できる反応的なものじゃないし、観客が参加することも、何か加えることもできない。そこでは何もかも司令部からのお達しに従っているし、すべては大企業型の、こちらを疎外するような中央集権的なノリ。でも、そこが変化するとは、おれは思わないな。というのも、60年代等々の、文化がまだ重要だった時代から遠ざかれば遠ざかるほど、それに対するノスタルジアは強まる一方だろうから。人びとは20世紀半ば以降の半世紀を振り返って、あの頃は文化的に最高な時期だったと思うんだろうし、とくに、ポップやロックンロールといったタイプの音楽に関してはそうだろうね。ただ、あれらは本当にその時代特有の、かつ、当時の社会経済およびテクノロジー状況に固有の音楽であって。つまり、あの頃にはまだ第二次大戦後復興期の若々しい元気さがあったし、ある種のナイーヴさもあったわけで。新たに生まれた各種テクノロジーに対する、子供のあどけなさに近いものもあったし、そうやってラジオやロックンロールのパワーをコントロールしていった若者たちに、まだ企業/体制側も追いついていなかった、と。うん、いまの時代に、それはまったく不可能な話だと思う。
■新作には、ダンサブルな曲がいくつかあります。“What’s That You Say”や“Bullet Of Dignity”のことですが、こうしたエレクトロ・ディスコな曲をやった経緯について教えてください。つまり、あなたはダンス・ミュージックにどんな可能性を見ているのか。
LS:いや、っていうか、おれはDecius(ディーシアス)って名前のダンス・ミュージックのプロジェクトもやってるんだ、パラノイド・ロンドンの奴らと一緒にね。そこではクラシックなハウス〜テクノ系の音楽をやってるよ。でもまあ、ダンス・ミュージックへの傾倒は以前からあったし、何年もの間に自然に、徐々にそっちに向かっていたんだと思う。だから、とくに深く考えてのことじゃないね。たまたまそういう流れだった、と。おれたち、ドナ・サマーのファンだし。
通訳:(笑)彼女は最高です! とにかく『Forgiveness Is Yours』は時代のムードに合っている作品でとても気に入っています。どうも、ありがとうございました。
LS:ありがとう。バイバイ!
ロンドンを拠点に活動を展開する中国出身のサウンド・アーティスト/コンポーザーのリー・イーレイの新作アルバム『NONAGE / 垂髫』は、まるで夢と現実の境界線を浮遊するような美しいエレクトロニカ・アルバムだった。リリースは日本のアンビエント・アーティスト冥丁の名作『Komachi』でも知られる〈Métron Records〉から。リー・イーレイは同レーベルから2021年にアルバム『之 / OF』も発表している。
リー・イーレイの最初のアルバムは、2020年にセルフ・レーベル〈LTR Records〉からリリースされたノイズを構築的に配置したような電子音響作品『Unabled Form』だ。翌年2021年には〈Métron Records〉から名作『之 / OF』を発表した。2022年には再び〈LTR Records〉からよりノイジーなサウンドを展開するエクスペリメンタルな『Secondary Self』をリリースする。いわばダーク/ノイジー/エクスペリメンタルな電子音楽作品を〈LTR Records〉から、ドリーミー/ノスタルジックなコラージュ・エレクトロニカ・アンビエントを〈Métron Records〉からリリースすることで自身のアルターエゴを表現してきたとすべきだろうか。
本作『NONAGE / 垂髫』は、〈Métron Records〉からのアルバムなので、その音からは濃厚なノスタルジアを感じる。じじつ本作は幼少期の記憶がテーマとなっているらしい。サウンドは内省的ではあるが、ただ暗いだけではなく、まるで夢のなかに散りばめられている記憶の欠片を積み重ねていったような幻想的なサウンドでもある。記憶の欠如が、さらなるノスタルジアを誘発し生成するような感覚とでもいうべきか。記憶の消失がもたらすエモーショナルな感情が微かに、そして確かに息づいていた。音のタイプは異なるもののクレア・ラウジーの音楽(新作『Sentiment』は素晴らしい出来だった!)と同じく「エモ・アンビエント」と言いたくもなる。記憶、消失、ノスタルジアの生成、感情の静かな、しかし確かにエモーショナルな昂まり。
かといって無駄に「エモ」に陥りすぎないのも、リー・イーレイのサウンドの特徴といえる。イーレイの音楽は冷たくはないが静謐なのである。前作『之 / OF』と同様に、本作『NONAGE / 垂髫』もまた静けさのなかにドリーミーな音が舞い踊るように鳴り響き、まるで時間と空間を浮遊させるような音楽を展開している。
じっさいこの『NONAGE / 垂髫』には、おもちゃのピアノや手まわしオルゴール、鳥の口笛や壊れたアコーディオン、中国の昔のテレビ番組からの断片など、多様なサウンドのサンプルが用いられている。サウンド・コラージュを基調としたミニマルで室内楽的なエレクトロニカとしても洗練された出来ばえなのだ。とはいえいかにも「コラージュしました」というような意図的な不自然さは微塵もなく、とても自然に、もしくは夢のなかを彷徨するような感覚で、さまざまなサウンドが紡がれている。
アルバム『NONAGE / 垂髫』は、ピアノを弾くような、乾いた透明な響きの一音から始まる1曲目 “Go, Little Book” で幕を開ける。やがて中国語のナレーションがコラージュされていくだろう。素朴でありながら、洗練されてもいる「音の流れ」が麗しい。続く2曲目 “O O O O” はミニマルでドリーミーな電子音が舞い踊るように連鎖する2分ほどの短い曲。3曲目 “Pond, Grief and Glee” は前2曲より落ち着いたトーンで展開するトラックだ。次第に浮かび上がってくる旋律が心身に浸透するように展開する。
4曲目 “Tooth, Wallflower and Salt” では、1曲目のムードを反復するように浮遊するような音楽世界を展開する。5曲目 “++++” はグリッチ的な音の跳ねと鳥の鳴き声やノイズのコラージュが見事な曲だ。この2曲などは、かつて竹村延和が主宰したレーベル〈Childisc〉からの諸作品を連想してしまったほど。
私がアルバム中、いちばん惹かれた曲は、夢のなかの光の瞬きのように音が生成し変化する6曲目 “Sand, Fable and Tiger Balm” と、アジア的な音がサウンドのなかに溶け合っていく2分ほどのインタールード的な7曲目 “Yip, Yip, Yip” である。この2曲がアルバムの中心に置かれていることも重要に思える。
続く8曲目 “Conch, Soap and Whistle” では音が舞い踊るようなムードから次第に変化し、音と音が溶けあっていくようなサウンドを展開する。まるで夢の底に落ちていくような感覚とでもいうべきか。9曲目 “Nomad, Shelter and Creed” は再び音のうごめきが活性化する。これまでのトラックにあった音の舞と静謐なアンビエンスが融合する楽曲で、本作を代表する曲であろう。そして以降3曲は記憶の深層へと潜るように音が展開する。
10曲目 “Sandalwood, Ivory and Summit” はアジア的な音楽のフラグメンツを用いた摩訶不思議なサウンドスケープを堪能することができた。11曲目 “Pillow, Mantra and Trance” は、どこか性急なミニマル・ミュージックを展開する。70年代の電子音楽やフィリップ・グラス的なミニマル・ミュージックとでもいうべきか。本作では特異なタイプの楽曲だが(やや緊張感のあるムードだ)、アルバムのラスト直前に置かれることで見事なアクセントになっていた。そしてアルバム最終曲にして12曲目 “Thé Noir, Rêvasser, Retrouvailles” では穏やかなムードに戻る。しかし反復するアルペジオに微かな緊張感があり、夢の世界から現実の世界へ帰還を促すような曲に思えてならない。
本作に収録されている楽曲数は12曲。どの曲もリー・イーレイのサウンド・コンポーザーとしての手腕が発揮されており、その仕上がりは見事の一言である。そう、本作には、連続と断続、フラグメンツの集積、いわば全体の構築よりも断片の連鎖による構成、西洋的な構造/時間とは異なる東アジア的ともいえる感覚が横溢しているのだ。「時間」に拘った坂本龍一がもしも存命ならば、本作『NONAGE / 垂髫』を高く評価したのではないかと勝手に夢想してしまった。
ともあれ未聴の方は「夢の中の夢」(ふとリー・イーレイによるコーネリアスのリミックスなども聴いてみたいと勝手に夢想してしまった!)とでもいうような本作のサウンドスケープを堪能してほしい。特に室内楽的なミニマルな電子音楽がお好きな方、幻想的なアンビエント作品がお好きな方などは、とても気に入るのではないかと思う。見事な工芸品のように、傷ひとつなく優雅に、かつ研ぎ澄まされたエレクトロニカ/電子音楽の逸品がここにある。

