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このところエディションズ・メゴが急進的なイメージを強めている。昨年のシンディトークに続いてエメラルズまでリクルートさせ、フェン・オバーグの新作に続いてOPNまで移籍させた。思えばKTLをリリースした辺りからそれは はじまっていたのかもしれない。いっしょにレーベルをはじめたラモン・バウアーが音楽業界から去ってしまい、〈エディションズ・メゴ〉とレーベル名を改め、ひとりで再出発だとピーター・レーバーグは教えてくれたけれど、過去のバック・カタログがデラックス・エディションで再発される機会が多く、それに気をとられて過去を見ているレーベルのような気までしていたというのに。
OPNは昨09年末、ファースト・アルバムにあたる『ビトレイド・イン・ジ・アクタゴン』(07年)と2作目の『ゾーンズ・ウイズアウト・ピープル』(09年)、3作目の『ラシアン・マインド』(09年)に7曲を加えたコンピレイション2CD『リフツ』をリリースし(マスタリングはジェイムズ・プロトキン)、いっきに認知度を高めたプロデューサーである。全体的にはアンビエント・テイストなのに、シンセ-ポップやノイズなどエレクトロニック・ミュージックのさまざまなフォームが詰め込まれた『リフツ』は全27曲というヴォリウムもあって、なかなか全体像には迫れず、どこがポイントなのかをすぐには絞りきれないアルバムだった。しかし、これはもう、これからは初期音源集という位置づけになっていくに違いない。通算では4作目となる『リターナル』はこれを凝縮させ、OPNのいいところが見事にリプレゼンテイションされた内容になっていたからである。
オープニングがまず◎。10年前のピタを思わせるシャープなノイズ・ワークで幕を開け、エイフェックス・ツインの不在を印象付ける。中原昌也もこれはライバル視していいかも。そのまま何事もなかったようにアンビエント・ドローンになだれ込み、メリハリの付け方がいままでとはまったく違うことに驚かされる。簡単にいえば構成力がアップし、ムダがなくなっている。ドローンもどんどん表情を変え、ポップな曲調=タイトル曲へのスライドも実にスムーズ。後半はまたそれらを全体にひっくり返したような感情表現へと導き、手法だけではないヴァリエイションにも人を誘い込む。素晴らしい。
〈メゴ〉のようなレーベルを実験音楽としてしか捉えられない人には難しいかもしれないけれど(それはむしろ実験音楽を知らないといった方がいいんだけど)、ここで展開されているノイズはとてもポップだし、ドローンを媒介にしてアンビエントとノイズが等価になってしまった事態をOPNは非常に上手く作品に反映させているといえる。これだけ柔軟に音のテクスチャーと向き合える感性はやはり新しいといわざるを得ない。あまり使いたくない紋切りだけど、このような柔軟さこそ若い人に聴いて欲しい。
スリーヴ・デザインはサン O)))の......というか、KTLのスティーヴン・オモリー。
アルバムタイトルになっている"Central"(中環)というのは、香港の経済、金融、行政の中心となっている地区の名前だ。中環には巨大な劇場やショッピングモールが立ち並び、飲食店やクラブも集まっているなど一大繁華街の様相を見せている。それと同時に近年ソーホーと呼ばれる地区には若手のデザイナーやアーティストが多く住むようになっていて、香港におけるいちだい文化発信地としての顔も持ち合わせている。アルバムジャケットのアートワークになっているのは、地下鉄・中環駅の壁面に掲げられている駅名表示の写真だ。中環駅は地下鉄の路線がふたつ乗り入れているだけではなく、バスやフェリーの乗り口にもなっているなど、香港の交通ハブとしての役割を担っている。
言わずもがな1997年までイギリスの統治下にあった香港は、それ自体が古くから東南アジアにおける交通や流通の拠点となっており、中華文化や英国文化のみならずさまざまなエッセンスが交じり合うアジア有数の都市だ。つまるところ、さしずめ中環はそんな"香港らしさ"をもっとも象徴しているエリアともいえるわけだ。
......思えば、いままでのテクネイジアの活動にしても香港の文化、そして中環から受けたインスピレーションは大きかっただろう。それはヨーロッパのハード・テクノが持つスピード感とデトロイト的なシンセワーク、そしてオリエンタルなメロディ・ラインというファクターを極めてシームレスにひとつのトラックに纏め上げたそのサウンド象徴されるし、自身のレーベル〈Sino〉を通じて、世界津々浦々の有望な新人をフックアップしていることからも伺える。現に〈Sino〉からのリリースでシーンに広く認知され、いまや押しも押されぬ存在となったオランダのヨリス・ボーンは現在では自身のレーベル〈Green〉を構え、こちらもこちらで才能の発掘に余念が無い。つまり、テクネイジアという存在もまた文化のターミナルとして機能していると言える。
2008年に長年のパートナーであったアミル・カーンが子育てに専念するために脱退し、テクネイジアはシャール・シーリングのソロ・プロジェクトになった。2006年にリリースされた『ポップソーダ』以来4年ぶりのリリースとなる『セントラル』は、ソロ体制になって初のオリジナルアルバムだ。
今作では自らの発想の根底につねに存在した"00年代のクラブ体験"をいまいちど意識して制作したという。たしかにアーリー90'sなハウスからの影響を思わせるヴォイス・サンプル使いとバウンシーなシンセ・ピアノだったり、レイヴ感溢れる鋭いシンセ・サウンドだったりと90年代の記号的な音色が随所に散りばめられている。もちろん、持ち前のデトロイト感覚溢れるエモーショナルで綿密なコードワークと、パーカッシブで疾走感溢れるビートも健在だ。
BPMはいままでの作品より若干ピッチダウンし、125から128くらいを渡っていく感じでよりハウシーなグルーヴが強調されている。そしてなにより、いままで以上にシャールのメロディ・メイカーとしての側面がフィーチャーされていることも特筆したい。とくに香港のネオンをぼんやりと遠目に眺めているかのような"ミュージック・トゥ・ウォッチ・ザ・シティライツ・レイト・アット・ナイト"でのピアノや、アルバム中もっとも感傷的でエモーショナルな"ヘヴン・イズ・オンリー・100メートル・アウェイ"でのシンセ・フレーズはダンス・ミュージックという粋を超えて筆舌に尽くしがたい美しさだ。
いままでもテクネイジアは流行に流されず、いち音楽として磐石な作品を作るというスタンスで活動してきた。アルバムを制作する際にも、いままでリリースしたシングルを寄せ集めたようなある意味インスタントな作品は作っていない。そのため、10年以上のキャリアでリリースしたアルバムは本作を含めてたったの3枚だ。DJとしての名声を得るためにアルバムをリリースするのであれば、きっともっとやり方があるだろう。......しかし、そうはしない。
このアルバムでも、クラブトラックとしての機能性はもちろんのこと、メロディ、コード、ビート、そしてそれぞれの音色と、音楽を構成するエレメントをひとつひとつ丁寧にブラッシュアップしてきたシャールの音楽そのものに対する真摯な姿勢をひしひしと感じることが出できる。信頼できる音楽、という言い方はちょっと変かもしれないけれども、そういう音楽があるとすればこんな作品を言うのだろう。
2010年5月25日、多くのひとに愛されリスペクトされたKAGAMIこと加々美俊康くんが突然この世を去ってから、はや1ヶ月以上の時間が経とうとしている。あまりにショックで、混乱し、葬儀のあともなかなか自分自身にフォーカスを戻すことができない日々がつづいたが、ようやくこうやって、彼のことをまとめて振り返ろうかと思うことができるようになった。
実際のところ、2005年に3枚目のアルバム『SPARK ARTS』をリリースして、フロッグマンから独立して以降はKAGAMIとじっくり話したりする機会はほとんどなかった。だから、僕の知ってるのは、まだ18歳の学生で右も左もわからないくせにやけに自信だけはあったころから、ある程度コマーシャルな成功を経験して、これから第3のステップに移行するにはどうしたらいいだろうか、と考えているような時期までのことだ。ただ、95年のデビューから05年までという濃密な10年、とくに彼にとっては多感で重要な10年をいっしょに過ごせ、彼を通してでなければ絶対に見られなかったし経験できなかったことを、僕らにいっぱい与えてくれたことには、改めて感謝したいし感慨をおぼえる。
2010年5月25日、多くのひとに愛されリスペクトされたKAGAMIこと加々美俊康くんが突然この世を去ってから、はや1ヶ月以上の時間が経とうとしている。あまりにショックで、混乱し、葬儀のあともなかなか自分自身にフォーカスを戻すことができない日々がつづいたが、ようやくこうやって、彼のことをまとめて振り返ろうかと思うことができるようになった。
KAGAMIとの出会いの話は何度も書いたし話したけれど、もしかしたら後年彼のファンになったような人の目には触れてないかもしれないので、再度そこから話をはじめよう。
1995年、アシッド・ハウス復興やジャーマン・トランスの栄華、デトロイト・テクノ再評価~インテリジェント・テクノ流行みたいないっさいの流れを嘲笑うかのように、突如グリーン・ヴェルヴェットに代表されるシカゴ発のチープで狂ったダンス・トラックがフロアを席巻した。トランスを作ろうとして、ヤマハのQY20(入門者向け格安シーケンサー)とモノラル音源のサンプラーしか持っていないから似ても似つかない音しか出せなくて悩んでいた加々美くんは、シカゴのチープでプアだがファニーで踊れる音が耳に入って、「これなら僕にも作れる!」と俄然やる気を出した。そうしてできたのが、デビュー曲となった"Y"だ。
当時、まだ日本では踊れるトラック、DJ向けのツールを積極的に作ろうというアーティストはほとんどいなかった。水商売的な部分のつきまとうDJとオタク的な内向性をもった打ち込みをやる人のあいだには、相当深い溝があった。だからこそ、僕らは加々美くんのデモを聴いて狂喜した。ヒデキや「フロッグマンだからカエルだろ」という安直でしかし誰の真似でもないネタをそのままフックに持ってくるストレートさ。ただの4つ打ちではない複雑でファンキーなリズム、荒削りだけどパワフルで、きっとアナログにしたらレコード屋で売ってる「いまいちばんホットな曲」とミックスしても負けてない音。どれもが新鮮で、興奮させられた。しかも、連絡してみると、まだ18歳だという。そうして、加々美くんはKAGAMIとなって、異例のスピードでデビューすることが決まった。
2枚目のシングルは、「Beat Bang EP」と名付けられた。アナログの盤面には、KAGAMIが全部手書きしたテキストとカエルが泳いでいるイラストが添えられている。Beat Bangというのは「ビート板」のもじりで、なぜビート板にこだわったのか忘れてしまったけど、そのネーミングにも独自の論を切々と話してくれた(この曲のシリーズに色がついてるのは、戦隊モノへのオマージュ)。そもそもこのシングルのリード・トラックは、TM Revolutionのリミックスという大仕事が入ったときに、好き勝手やりすぎてNGを喰らい、そこから声や原曲の要素をすべて排して作り直したものだった。プロのエンジニアとスタジオでの作業というのを初めて経験して、KAGAMIも気合いが入っていた。
当時ジョシュ・ウィンクとかやたらに流行っていた長~~~いブレークがあってその後大盛り上がりのピークに持っていくという手法をここでもやっているんだけど、"Beat Bang Blue"の狂気のブレークは、どんなパーティでもフロアを爆発させる力をもっていた。よく覚えてるのが、96年の夏にベルリンでTOBYがオーガナイズしたパーティでDJさせてもらったときのことで、90分の持ち時間のピークで僕はプラスティックマンの"Spastik"とこの曲を使った。終わったら、興奮した現地の若者が駆け寄ってきて「すごい良かった! 次はいつプレイする?」って訊いてくれて嬉しかった。そんなことがあって、KAGAMIというアーティストは海外でも通用する曲を作れる。もっと売り込まなくちゃという思いを強くしたんだ。
ただ、実際には多くのDJがKAGAMIに目を向けてくれたのは、1998年のファースト・アルバム『The Broken Sequencer』だった。例えば、カール・コックス。あれはたしか、カールが〈Yellow〉でプレイした日だった。少し早めに〈Yellow〉に行って、プレイ前にバーでくつろいでいたカールを見つけて話しかけると、彼は当時かなり珍しかった日本のアーティストのレコードに興味を持ってくれた。白盤だから手書きの曲名しかなかったわけだけど、KAGAMIの独特のセンスが輝く曲名はカールに大受けで、「Elefant's Discoとか、なにこれ? 最高だな」と腹を抱えていたのを思い出す。その晩、事前に聞いていたわけでもないそのアナログの曲がいきなり2曲もかかるとは思ってもみなかった。その後も彼はこのアルバムをお気に入りにして世界中でプレイしてくれたようで、自らのDJチャートの1位に選んでくれたりBBCの名物番組「Essential
Mix」でもプレイリストに挙がって、それをきっかけにUKや欧州のひとからも問い合わせが来るようになった。
トーマス・シューマッハは"Beat Bang Black"をえらく気に入って、自分のレーベル〈Speil-Zeug Schallplatten〉でライセンス・リリースしてKAGAMIが本格的にドイツで認められるきっかけを作ってくれたし、ヘルはそのアルバムを丸ごとライセンスしたいとまで言ってくれた。たしかあのとき、ヘルは日本に来る飛行機でレコードを紛失して、急遽テクニークでレコードを買い漁っていて『The Broken Sequencer』を見つけたんだと言っていた。ヘルもそのとき一晩で何曲もKAGAMIの曲をプレイしていて、まぁそういう緊急事態だったとはいえ、すごく驚いた。
実はあの2枚組アナログ、ヘルもドイツでは買えないと思い込んだほどだし、大半が日本で売れて、欧州ではかなりコアなひとたちが買ってくれただけだった。でかいところだしと安心して任せたドイツのディストリビューター〈EFA〉(04年に倒産)は、実際のところなんの宣伝も売りこみもしてくれなかった......アーティストが現地で活躍してるわけでもなく、レーベル側でもプッシュする人間が誰もいないという状況でしっかり売ってもらおうというのが無理な話だったのだ。ただ、そんな盤をちょこちょこ使ってくれて、日本で知名度をあげてくれたのは石野卓球だった。
当時卓球は、J-Waveのラジオ番組でDJミックスを流していたんだけど、そこで自分の曲がかかった! ってすごく喜んでいたKAGAMIの顔はいまでも忘れられない。それ以前はあまり意識してなかったけど、KAGAMIも思いっきり電気グルーヴ直撃世代であったのだ。たぶん、僕や佐藤大が電気のふたりとかなり近い間柄ということもわかっていたから、あえてそういう話を自分から積極的にする機会は多くなかったのだろう。まさかそのころは、KAGAMIが電気グルーヴのステージに立ったり、リミックスを依頼されたりするようになるなんて、誰も思ってなかった。世界のトップDJたちに絶賛されることより、石野卓球や電気グルーヴと接点ができる方がよほど「夢」みたいな話だったんだ。
当時、まだ日本では踊れるトラック、DJ向けのツールを積極的に作ろうというアーティストはほとんどいなかった。水商売的な部分のつきまとうDJとオタク的な内向性をもった打ち込みをやる人のあいだには、相当深い溝があった。だからこそ、僕らは加々美くんのデモを聴いて狂喜した。
![]() 電気グルーヴの香港ライヴにて(2000年)。 |
いま考えるとかなり不思議な感じもするが、かなり長いあいだKAGAMIはライヴをやることを頑なに拒んでいた。友だちのパーティとか、限定された機会に実験的にやることはあったかもしれないが、公式にライヴをやると告知してしっかりセットを組み立てたのはずっと後になってのことだ。最初はお世辞にもうまいとは言えないプレイだったし、呼んでくれるパーティもほとんどなかったが、KAGAMIはずっとレコードを愛していてむしろDJをやることにすごく真剣に取り組んでいた。タバコも吸わないし酒も飲めない、どんちゃん騒ぎしたりフロアで激しく盛り上がるタイプでもないKAGAMIが、クラブというもしかしたら彼の肌にしっくりくるわけでもない職場であんなに長くすごせた理由。ただ音楽の知識とかDJテクニック的なことじゃなく、レコードを掘る楽しみとかお客さんと対峙する姿勢とか夜遊びのコツとか、たぶんそんなもろもろを肌で吸収したのは、DJ
TASAKAを通してだったんじゃないかと思う。
たぶん、TASAKAもまだ大学生だったと思うんだけど、浅草にあった(後に青山に移転)レコード屋〈ダブ・ハウス〉で彼がバイトしていたら、いつの間にか入り浸ってずっとレコードを聴いてる迷惑な客だったKAGAMIがレジ・カウンターの内側にいた。当時、まだKAGAMIも専門学校を卒業したばかりか、在学中だったはずだから、暇はあるけど金はないってとき。最新のレコードを聴き放題で、気が向いたら店のターンテーブルでDJすらできて、なおかつお金がもらえるというのはおいしすぎるバイトだったろう。最近になっても、友だちの洋服のショップで「レジ打ちなら得意だから、人手が足りなければ手伝う」などとうそぶいていたようだが、たぶん、このときが彼にとって数少ない「ふつうの」仕事をした経験であったのと同時に、TASAKAという得難いパートナーとの出会いとなったのだった。
たしか、TASAKA自身、この店に客として来ていた卓球にデモテープを渡して、だんだんとキャリアが開花していったはずだから、短命だったこの店は、実は日本のシーンにとってとても重要な役目を担っていた。――というか、海外だったらDJが店員という店はたくさんあるが、ほとんど床で寝ているかレコード聴いてるだけだったという噂もあるKAGAMIを雇うというのはすごい経営判断だったと思う。ちなみに、この店を仕切っていた女性は、のちにDJ TASAKAの夫人となる。
その後、意気投合したKAGAMIとTASAKAのふたりは、〈DISCO TWINS〉という名前のパーティをスタートさせる。たぶん、〈DISCO TWINS〉はふたりのユニットだと思ってるひとも多いだろうが、あくまで最初はふたりの共通の音楽要素であるディスコに的を絞ったパーティだったのだ。そのうち、それぞれが交代でブースに上がるだけでなく4ターンテーブル2ミキサーでいっしょにDJをしはじめ、まずはミックスCDを出すことでユニットとしての形を提示、そこから曲の制作にもどんどん乗り出して、最終的にはアルバムを出したり吉川晃司をフィーチャーしたプロジェクトなどもおこなった。
最近でこそ複数人が同時にステージに上がりひとつの流れを作るというスタイルでプレイするDJも結構いるけど、リアルタイムに目配せしつつお互いのネタ出しを瞬時にやって、個性を殺し合わずものすごいプラスを生みだしているというコンビは、ほとんど見たことがない。それぞれは意外に照れ屋だったり飽くなき挑戦心をもってるふたりが、いろんな殻やしがらみやらかっこつけやらを脱ぎ捨てとにかくパーティ・モードで盛り上がれる音を全力で若いクラバーにぶつけたDISCO TWINSは、とても貴重な存在だったし熱いエネルギーを持っていた。
訃報を伝える電話をTASAKAからもらったとき、僕はもうほかから話を聞いていてわかわからなくて悲しくて半泣きだったけど、彼は無理矢理笑って直前の週末にいっしょにDJしたことや、なんで突然逝ってしまったのか全然わからないってことを話してくれた。それで「たぶん、まちがって電源落としちゃったんじゃないかなぁ、あいつバカだよなぁ......」って言っていて、こんなときでも機材の連想が浮かんでしまうんだろって容易に想像できるテクノ馬鹿一代ふたりの、スタジオや楽屋での会話やなんやかんやが想起されて、本当にやり切れない気持ちになってしまった。
KAGAMIと言えば、やっぱり2000年にリリースされた"Tokyo Disco Music All Night Long"だと皆が言うだろう。いまだにiTunes Storeなどで売れ続けているし、アナログ盤が世界で5000枚以上売れ、ドイツではメジャーがライセンスし、くるりの岸田くんやサニーデイの曽我部くんが絶賛し、2 Many Dj'sが無断でネタにしたというこの曲は、ジャパニーズ・テクノの歴史のなかでいちばん成功を収めた楽曲のひとつだと言っていいと思う。しかし、この曲がああいう形で世に出ることになったのも、本当にただの偶然だった。ヘルがデビュー・アルバムをかなり気に入ってくれて、彼のレーベル〈Gigolo〉がニューウェイヴ・リヴァイヴァル的な流れを作って、ミス・キティンとかゾンビ・ネーションみたいな新しいスターを生みだしはじめたころ、KAGAMIは〈Gigolo〉からのシングルとして、「Tokyo
EP」用の2曲を作った。それ以前のファンクを感じる黒っぽいディスコ・リコンストラクトからジョルジオ・モロダー的なエレクトロ・ディスコへと完全にシフトし「これが東京のディスコ、東京のテクノだ」と思いっきり打ちだした。最初から〈フロッグマン〉で出そうとして作ったらここまで恥ずかしげもなく東京! と連呼するアッパーそのものの曲はできなかった気がする。敬愛するヘルの懐へ飛び込もうとしたからこその、この思い切りだったのだ。
しかし、僕が丁寧な手紙をつけてDATを送っても、しばらくレスポンスはなかった。曲を聴いたこちら側の人間は誰ひとりとして熱狂しない者などいなかったのに......。しびれを切らして何度か電話したりして催促すると、どうもヘルは思っていたのと違うタイプの曲だったからとリリースに乗り気でないという返事がきてしまった。「じゃあいいよ、これだけサポートしてくれて、気に入ってくれてる〈フロッグマン〉で出そうよ」とKAGAMIは言った。それで、新しく決まったドイツのディストリビューターに音を送って、心機一転再度欧州での成功を目指す〈フロッグマン〉の久しぶりのアナログとしてリリースされたのだ。その後、卓球はじめあらゆるDJがサポートしてくれ、本人は出てないのに〈WIRE〉で何度もかかりまくり、数ヶ月後にアナログが発売されるとどこの店でも売り切れになって空前のヒットになっていったのはみなさんご存じの通りだ。いつだったか、ベルリンのクラブでヘルがこの曲を嬉々としてプレイしているのを見たときはビックリした。あれ、気に入らなかったんじゃないの? と。でも、神のいたずらか、ああいう形でこの曲が世に出たことは、KAGAMIのそれからの音楽人生を大きく変えることになったのだった。
KAGAMIは、動物的な勘とカッコイイことに異常なこだわりをもったアンファン・テリブルという姿からずっと変わらなかった。子供がやるように機材を手に入れるとすぐにシールだの落書きだので自分仕様にして、おもちゃで遊ぶようにただただ本能に従って音を出しては「あはは」と笑っていた。
![]() KAGAMI サウンドの心臓、2台のMPC2000、ステージ楽屋で(2002年)。 |
"Tokyo Disco..."のヒットでKAGAMIにはふたつの大きな変化が訪れた。電気グルーヴのサポート・メンバーとして声がかかって雲の上の存在だと思っていた卓球、瀧と一緒に長い時間をすごし、ライヴごとにアレンジやアプローチが変わる電気グルーヴのトラック制作の重要な部分を任されることになった。これは、たぶん彼にとってとてつもないプレッシャーになったはずだが、僕らには愚痴も文句も泣き言もなく、あの飄々とした様子でサポートをつとめた。それどころか、卓球の要求に応えたり横でいっしょに作業したりすることでメキメキと実力をつけ、無尽蔵と思えるほど曲のアイデアが湧いて次々驚かされるような曲を作ってくるようになったのだ。普通あれだけのヒットを出したら次どうするかと悩むだろうし、DJやリミックスの仕事が急に忙しくなったらそっちに時間を取られてなかなか次の曲が作れないというアーティストも多いのに、KAGAMIはまったく逆。そうして、CMJKも砂原良徳もずっとは続かなかった毒の強すぎる石野+瀧のコンビと昔からずっとそこにいるように馴染んでるのも衝撃だった。ステージで瀧にいじられたり、インタヴューでなにかとKAGAMIの話題が出てきたり、篠原までもがKAGAMIと仲良くなっていたりと、なんだかマスコット的なポジションに収まりつつあるのは、親心的にいつも嬉しく思っていた。
いっぽうで、それまでも頑固で秘密主義だった彼の制作スタイルは、ますます神秘のベールに包まれるようになった。意見は求めても指示やディレクションはまったく要らないという傾向が、いっそう強くなっていった。もしかしたら、友だちにはもっとアドヴァイスを求めていたのかもしれないし、僕も全然関係ないこと(iPodとかパソコンとかゲームの相談とか......)では何時間も電話で話すこともよくあったけど。
もうひとつ、メジャーのワーナーから話をもらって、セカンド・アルバムの『STAR ARTS』はそれまでに比べたら潤沢な予算を使って制作することができた。そこで爆発したのが、とくにアートワークや作品としてのアルバムの見せ方など、KAGAMIらしいこだわりだった。ずっと仲のよかった新潟のファッション・デザイナー関くん(Submerge / TAR)に大きな油絵を描いてもらい、それを全面にプリントしたデジパックのパッケージは、帯とディスク下にトレーシング・ペーパーを使いジャケ自体にはほとんど文字情報がなく、盤自体は2枚組にするという贅沢な仕様だった。しかも、2枚組の2枚目はどうしても「なんだこれ?」とリスナーが混乱するようなものにしたいと言って、譲らない。最初は、まったく同じデザインなんだけど1枚は空のCD-Rにしようと言っていたがそれは却下され、「カガミだから、鏡像にしよう。デザインもひっくりかえしたものにして、音は1枚目の音を全部逆回転して入れよう! カーステレオで聴こうと思ってCD入れたら、びっくり! みたいなものにしたい。それでも最後まで聴いてくれたら、なにかいいことがあるような、そんな2枚目がいいよ」と、とても【新人でよくわからないインストのダンス音楽やってるアーティスト】とは思えない無謀なアイデアを連発して、どうにかこうにか、それを了承してもらった。それをメジャーの人たちが納得するわけないだろう......という侃々諤々の話し合いを何十回もした記憶がある。あのアルバムは本当に大変だったなぁ。
ただ、この頃からもう、自分の役目はいっしょに「あーでもないこーでもない」って彼の突飛な発想に乗っかって遊ぶと言うより、どうにかしてそれを実現させようと大人と交渉したり予算を持ってきたりときにはKAGAMIに諦めてもらったりという、どうにも嫌な役回りばかりになった。もちろん、子どもみたいに突っ走ってしまうことも多かった彼を誰かがコントロールしないと、というシーンも増えていた。アート志向の強い前出の関くんの影響も大きかったのかもしれないが、後から振り返るとKAGAMIの「やりたい!」と言ったことは無謀であっても面白いことがたくさんあった。まだパソコンの性能も低かったし個人でProToolsを操るひともいなかったから、けっこうな予算を使ってエンジニアにスタジオで曲をHD上で編集してもらってミックスを作っていくというのは間違いなくその後のKAGAMIのライヴでの構成や音作りに役立ったし、〈WIRE〉のライヴ音源をCDにしたいという卓球からの依頼で作った『WIRE
GIGS』(タイトルは、加々美くんが大好きだったBO?WYからのインスパイア)では、「音を作らなくていい分ジャケにこだわりたい」と言ってコンセプトを「プリクラ」に定め、〈WIRE〉の映像をプリクラ状に大量にプリントした上で自分でコラージュしてアートワークを作り込んだ。このときの経験は、息子とともに手書きでクレジットから何から仕上げたミックスCD『PAH』につながっているだろう。
僕はよくあいつに言ってた。「どこのメジャーなレコード会社にもマネジメントにも所属しないで、最初からDJユースのテクノだけを作って、自分のやりたいようにやって成功してたKAGAMIは、ほんとかっこいいと思うよ」って。少なくともこの国だけで見たら、そんな人はほとんどいないんだし。
![]() ついにWIREのメインステージに登場。緊張の面持ちでリハーサル(2003年)。 |
そうやって、なんでもかんでも自分で抱え込んで、自分の理想にできるだけ近づけようと突っ走るKAGAMIは、人知れず大きな疲労をためてしまっていたのかもしれない。よりプロフェッショナルなプロダクションで、ナカコー、シーナさん、MEGちゃん、カオリちゃんと夢のようなヴォーカル・ゲストを迎えて作った彼のオリジナル・アルバムとしては最後の作品になった『SPARK ARTS』では、制作過程でこれが〈フロッグマン〉と作る最後の作品という決断を切り出された。その数年後、運営がうまくいかなくなって、〈フロッグマン〉を続けられなくなってしまったという話を深夜に電話で切り出したときは、口にこそ出さなかったけどこれ以上ないくらいショックを受けているようだった。"僕が愛して僕がデビューして僕とともに歩んだレーベルは、永遠にかっこよくあって欲しい"という想いがたぶんいつもKAGAMIのなかにはあって、その期待を裏切ってしまったのだから。
だから、一旦ピリオドを打つための盤となる〈フロッグマン〉のベストを作る決心をした際も、「いやぁケンゴの気持ちはわかるけど、僕にとっても〈フロッグマン〉は大切だし、納得いかない【ベスト】作るくらいなら出さないで欲しい」と言われた。じゃあKAGAMIが全面的に協力してやってくれるのかと聞くと、自分から独立したわけだし、ほいほいと愛憎まみえるレーベルの墓標になるかもしれない作品に手を貸すと言うわけもなかった。少しわだかまりのあるまま、既存の曲の使用と最後のパーティへの出演だけは認めてもらって、バタバタと〈フロッグマン〉は休眠。その後は、たまにクラブの現場で挨拶するくらいになっていた。
どちらかと言うとプライヴェートで近いところにいたMOAくんのレーベル〈Carizma〉でシングルを出したり、前出の『PAH』やベスト盤『BETTER ARTS』を出したりと、ゆっくりと再始動のアクセルをふかしはじめていたように見えていたKAGAMI。実は、やはり別のレーベルから出す予定でお蔵入りになってしまったかっこいいミニマルのトラックが手元にあって、僕はそれが大好きだったからベストで使いたいと話したら、「自分で手を加えてリリースするつもり」と言っていたのに、結局それらはリリースされなかった。そういうどこかに眠ってる曲や、途中までできてる曲がたくさんあるはずなのだ。そろそろ、完全な新作、まったく新しいKAGAMIの姿を拝めると期待していた。もちろん、これから彼の友だちやまわりの人の手で発見された未発表の曲が作品として出てくることはあるかもしれないが、本来あいつは自分で納得してないものは、絶対出さないし聴かせるのすら嫌がる男だったから、それらがどんな形でお目見えするはずだったかは、永遠にわからない。
いつだったか原稿で、「テクノとインヴェーダー・ゲームやるのは同じだよ」みたいなKAGAMIらしい発言をして、インタヴュアーの野田さんが頭上に「?」を浮かべて困ってるというのを読んで爆笑したことがあった。彼の言葉はときに通訳が必要なこともあったし、器用に生きてるとも言えなかったが、誰に聞いても彼の言動は彼なりの筋が通っていたし、天才を感じさせる瞬間がたくさんあった。僕と佐藤大は、自嘲的に「凡才インディーズ」なのだと自分たちのやってることを説明している時期があったけど、凡才の僕らだからこそなんだか得体の知れない生き物みたいなKAGAMIのポテンシャルに最初からやられてしまったし、自分の限界が簡単に見えてしまう凡才だからこそ、KAGAMIの聴かせてくれた音、見せてくれたすごい景色に、「こんなすごいものがあるなら、まだ次がもっと次が......」とどんどん欲が出て、それが彼のような独特のアーティストを育てていく下地になったんじゃないかと思う。
正直言って、僕にとってのKAGAMIは、動物的な勘とカッコイイことに異常なこだわりをもったアンファン・テリブルという姿からずっと変わらなかった。子供がやるように機材を手に入れるとすぐにシールだの落書きだので自分仕様にして、おもちゃで遊ぶようにただただ本能に従って音を出しては「あはは」と笑っていた。口べたで、真剣に音楽の話をしようとしても「うんうん」とちゃんとわかってるんだろうかと不安になるような相槌ばかりだった。だからこそ、彼のトーンやリズムは饒舌だったし、それがたくさんのひととコミュニケーションするためのツールだったんだと思う。一方で、岡村ちゃんとかオザケンとかクラムボンとか、独特の歌詞や世界観をもったポップスのアーティストを愛していたKAGAMIにも、もっと情緒とか人間性とか、なんというかいつものシンプルな形容詞では言えないようなことを表現したいという欲求はあったと思う。そういう話をもっとできなかったのは残念だった。もしかしたら自分の息子が大きくなってきて対話したりするなかで、そういう閃きを得ていたかもしれないなとも思うだけに。
実は、KAGAMIの訃報を載せるためにものすごく久々にフロッグマンのサイトに手を入れたとき、僕はもうこのままフロッグマンは永遠に眠りつづけるのだろうと勝手に思っていた。例えば、何年か後にまだ第一線で活躍していて、一緒にやろうよとかなにかそんなプランが芽生えて実現する可能性のあるアーティストは、たぶんKAGAMIしかいないだろうから。リョウ・アライもヒロシ・ワタナベも、最初〈フロッグマン〉で作品を出してその後立派なアーティストとして羽ばたいていったひとたちは、きっと僕らがレーベルやっていなくても別の形で世に出たり活躍していたと思うけど、KAGAMIというアーティストはたぶん、かなりの部分僕らが育てたと言える存在だった。そのKAGAMIがいなくなってしまったいま、もう復活することは二度とないんだろうなと。
BPM133と135の曲ばかり作っていたKAGAMIが、まるで彼の愛したレコードみたいに33で逝っちゃうなんて、なんでこんなことが現実に起きるんだろうとしばらくはぐるぐる考えた。たしかに、僕はよくあいつに言ってた。「どこのメジャーなレコード会社にもマネジメントにも所属しないで、最初からDJユースのテクノだけを作って、自分のやりたいようにやって成功して、誰かの決めたルールや道筋なぞって生きてるわけじゃないKAGAMIは、ほんとかっこいいと思うよ」って。少なくともこの国だけで見たら、そんな人はほとんどいないんだし。だからって、こんなに早く死んじゃって、そんな伝説まで作らなくてもよかったんだよ。ぜんぜん笑えないし、最悪のサプライズ・パーティ in 町田だったよ、まったく。
何を聴いても、たくさんの情景が浮かんでしまってキツイからしばらく聴けないなと思っていたKAGAMIの曲。しんみりする作品なんてひとつもなくて、ずっと元気にリズムを打ち鳴らしつづけるあれらの曲なのに、それを本人のお葬式でずっと聴くことになるなんてな。でも、そうやって耳にしたあのタフでアッパーなトラックに鼓舞されたのか、式の最後に、佐藤大や、たくさんの世話になった人たちからも、「せっかくだから何かやろうよ、フロッグマン、眠ってるだけなんでしょう?」と意外な声をかけられて、ああそういう風にも考えられるのかと驚いてしまった。まったく柄にもなく、縁取りもつみたいなことしてくれちゃうんだ、KAGAMI......と。たしかに、残された者は、アゲてくしかないんだよね。わかったよ。Party Must Go On. Disco Music All Night Long!
1. Tokyo Disco Music All Night Long (「TOKYO EP」 / 2000 / Frogman)
めまぐるしく表情を変えながらすべてをなぎ倒してスクラップ&ビルドしていくような迫力あるトラックと、ヴォコーダー声でKAGAMI自身が唄う東京賛歌。リミックスも多数あるが、やはりオリジナルが素晴らしい。クラシック。
2. Perfect Storm (「The Romantic Storm EP」 / 2000 / Frogman)
『WIRE01 Compilation』にも収録され、KAGAMIのWIREデビューとともに記憶される曲。印象的なワンフレーズとヴォイス・サンプルの執拗な繰り返し、フィルターの極端な開閉で表情が変わりビルドアップしていく。まさに嵐を呼ぶかのよう。
3. Tiger Track (「Tiger Track」 / 2005 / Frogman)
そういえば何枚かブラジルもののレコード貸したままになってるな...と思い出されるバトゥカーダ的リズムの錯綜する激しい曲。監督の希望でアニメ『交響詩篇エウレカセブン』の音楽として起用され、重要な戦闘シーンで何度もかかる。
4. PC Na Punk De PC Ga Punk (『Spark Arts』/ 2005 / Platik, Frogman)
KAGAMIのソングライターとしてのユニークさが聴ける。リミックス担当した大昔のシーナ&ロケッツの曲のイメージでシーナさんに唄ってもらったら迫力がありすぎたので、急遽MEGちゃんとの掛けあい曲として完成させた。
5. Machicago (「Splinter EP」 / 2002 / Frogman)
シカゴのゲットーからアシッド・ハウスやゲットー・ハウスが生まれたなら、地元町田だってゲットー感なら負けてないから、町田ならではのサウンドがあるはずだと言って作った曲。DJ Funkあたりを彷彿とさせる恐ろしくファンキーなリズムと「Pump It Up!」の掛け声が強烈。
6. Hyper Wheels (『The Broken Sequencer』 / 1998 / Frogman)
ヘルがこの頃のKAGAMIのことを、「Jeff Mills meets Daft Punkだ!」と言っていて、たしかに芯の太いビートと荒々しいディスコ・サンプルで構成されたスタイルはそういう雰囲気。ファースト・エディに捧げられたようなこのトラックは、踊れるグルーヴ作りに天才的な閃きをもつ彼の実力を早くも感じさせる。
7. Y (「Y EP」 / 1995 / Frogman)
本文中にも出てきたデビュー曲。Bサイドはカエルが歌うアシッド・トラック"Pyon Pyon"。最初のデモは曲が長すぎて途中でブチッと切れてしまってる安物の10分カセットに収録されていた。DJを初めてやってもらったとき、これと元ネタの"YMCA"の7インチを延々ミックスして遊んでいたなぁ。
8. ∞あわせKAGAMIの現実∞ (Disco Twins)
(『Twins Disco』 / 2006 / Kioon)
デモ段階では少し石野卓球の影響もうかがえる「歌」を披露することもあったKAGAMIが、初めて公式に歌った曲。Disco Twinsならではの冒険か。実はJ-POPも大好きだった彼の意外な一面が知れるし、なんと言っても歌声が聞けるのはいまとなっては貴重。
9. Guardians Hammer 「Guardians Hammer」 / 2008 / Carizma)
KAGAMI名義では、一番新しいオリジナル曲。多少パーティ感は抑え気味だがサーヴィス精神豊かなKAGAMI以外には作れないアッパーなテクノで相変わらず楽しい。Bサイドがブリープ~エレクトロ的な、DJでKAGAMIの選曲を知ってるひとなら「待ってました」というタイプのトラックで、こちらも良い。
10. Beat Bang Black (『The Broken Sequencer』 / 1998 / Frogman)
激しい太鼓系ミニマルの「黒」は、数多くのDJに愛された初期の代表トラックのひとつ。時を経ても、この辺の若さと天性のフットワークで駈けぬけるような気持ちよさは色褪せてない。トーマス・シューマッハがあまりに気に入ってライセンス、自らリミックスも手掛けてドイツでもヒットした。
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ヴェルナー・ヘルツォーク、ミケランジェロ・アントニオーニ、そしてアレハンドロ・ホドロフスキーといったヨーロッパ映画の巨匠を愛するサンフランシスコの3人組による4作目で、前作に引き続き、ゼラ(Xela)の名義で知られるジョン・トウェルズ主宰の〈タイプ〉からのリリース。大雑把に言えばアンビエント系を好み、今年に入ってからも活発にリリースを続けているUKのこのレーベルに関して言えば、毎度スリーヴ・デザインが地味ながらセンスが良く、水彩絵の具が滲んだようなアルプス山脈を描いた今回のアートもまあ悪くはない。シックである。
ところでヘルツォーク作品の音楽といえば、その代表作のほとんどはクラウトロックにおける綺羅星のひとり、ポポル・ヴー(故フローリアン・フリッケ)が手掛けているわけだが、ジ・アルプスのサイケデリック・サウンドにマヤ文明への憧れやアニミズムへの探求があるわけではない。また、その音楽の基礎にフリッケのような確固たるクラシック音楽があるわけでもない。ジ・アルプスの根幹にあるのはフォーク&カントリー(もしくはブルース・ロック)であり、バンドを特徴づけるのはあくまでギター・サウンドだ。手短に言えばフォーク・ロックがモダンなアンビエント&エレクトロニクスのセンスとブレンドされている。一歩間違えば古くさくなりかねないが、すんでのところでそれを回避しているのがこのバンドである。
2年前の『III』によって多くの賞賛を浴び、当時はしばし「ポポル・ヴーとエンニオ・モリコーネとの出会い」と形容されたジ・アルプスだが、『航海』と名付けられた本作はポポル・ヴーというよりは70年代初頭のピンク・フロイドであり、『小人の饗宴』というよりは『砂丘』だ。アンビエントというよりはプログレッシヴ・ロックであり、ありていに言えばサイケデリック・ロックだ。飛行機を強奪して、空を彷徨い、砂丘に着陸して、裸の美女といっしょに宇宙の誕生を見る......わけではないが、それなりの小旅行が楽しめる。
ジ・アルプスの中心メンバー(元タッスルでもある)は3年前アープという名義のソロ作品をノルウェイの〈スモールタウン〉から発表している。エレクトロニックスによるポップ・アンビエントを展開するそのアルバム・スリーヴには水平線に輝く日没の写真が使われていたものだが、『III』にしても『ル・ボヤージュ』にしてもその感覚はまったく共通している。早い話、夕焼けが好きなのだろう。アルバムの冒頭"ドロップ・イン"におけるフォーク・ギターが奏でるアルペジオとピアノの調べは絶品だが、その美しい音楽は昼から夜へと移行する中間の黄昏時にこそ相応しい。
アルバムには脈絡のないテープ・コラージュ(クラシック音楽や人のざわめきや水の音......)とエレクトロニクスがインタールードのように挿入されている。もっともそれは前菜やつまみのようなもので、今作を特徴づけているのは5曲目の"セイント・ローレント"のようないわば「フリークアウトしたトミー・ゲレロ」調の曲、7曲目"サトゥモ・コントロ"のような「ピンク・フロイドとエンニオ・モリコーネとの出会い」のような曲だ。フォーク・ギターの音色と8ビートのダウンテンポを基盤にしながらバンドは空に浮かぶ星々を目指している。表題曲の"ル・ボヤージュ"はコズミック・ミニマル・ロックの叙情詩で、間違いなくアルバムのハイライトである。アルペジオの反復とスペイシーなエレクトロニクスを軸にしたその曲は、ゆっくりと至福の時間へと向かっていく。
心地よい夢に水を差すのはアルバム最後の曲"テレパシー"だ。これは少々くどいように思える。ドラムはうるさすぎるし、自分たちの音楽に酔ってしまったのだろう。それがバンド演奏によるこの手のサイケデリック系の落とし穴である。それを踏まえた上でもサンフランシスコのちょっとフォーキーな幻覚剤に興味があるなら躊躇することはない、さあ手に取りたまえ。
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アリエル・ピンクの音楽は、いつもハリボー社のグミ・キャンディを思いださせる。とくにクマのやつだ。ピンク、グリーン、イエロー、橙、さまざまな色のクマ型をしたグミがぎっちりと袋詰めされている。みな同じ形だ。表情に乏しいクマが、一様に透き通って光を反射しながらひしめくのを眺めていると、いまにもそれらがわらわらと動き出すのではないかという錯覚にとらわれる。じつにスキゾフレニックな眺めだ。このくらいでないと子どもの心をつかむことができないのかもしれない。
奇怪で愛らしいアリエル・ピンクの初期作品は、8トラックのテープ・レコーダーで録音された過度にローファイなサウンドと、そのようにスキゾな構成(「構成」と呼ぶのは矛盾だが......)を特徴としていて、セールスはさておき、彼の名とその方法論を広く後続世代に刷り込んだ。多動的でせわしない展開、心に浮かび、消えるままに連ねられたメロディの切れっ端はまさにあのクマ一体一体に重なる。彼を見つけてきたのがアニマル・コレクティヴだというのも意義深い。それぞれ2004年と2005年にアニマル・コレクティヴ主宰のレーベル〈ポー・トラックス〉から再発された『ドルドラムス』と『ウォーン・コピー』を聴けば、人びとが何をアリエル・ピンクだと認識しているのかがわかるだろう。個人的には、両作品のあいだに録音されながらも埋もれていたトラックの寄せ集め『スケアード・フェイマス』が聴きやすいと思う。
さて、だが名門〈4AD〉に移籍となって初の本作は、そうしたアリエル・ピンク像を"卒業"し、更新するものになったようだ。われわれはもうおっかなびっくり彼とR.スティーヴィー・ムーアとを比較しなくていい。生まれた時代も違うのだ。もともと両者を比べようという了見が、偏狭な音楽観に基づいたものではある。しかし、それを措いても今作は、彼自身の文体にしっかりと肉がついたという印象である。
バンド編成になって初のフル・アルバムであるということも大きいだろう。彼ひとりの頭と心のなかに渦を巻いていた音のヴィジョンは、他のメンバーに共有される過程で様々な妥協や研磨を経験したに違いない。とくに中盤のシングル曲"ラウンド・アンド・ラウンド"以降の流れには、これまでの彼にはない持続的なアンサンブル、そして音質の向上がみられる。
洒脱なイントロからはじまるシティ・ソウル"ビバリー・キルズ"では、これまでなら「もっと聴かせてほしい」というところで雲散霧消してしまっていたメロディの断片のフル・ヴァージョンが聴ける。もちろん曲という単位の成立を危うくするほどウィアードなチョップが彼の持ち味なのだが、1曲がすっきりと形を備えていても、ちゃんと彼のオリジナリティは生きるのだなと感心した。むしろ引き立つかもしれない。iPodの再生回数を見ると他のアルバムよりも圧倒的に多く、それはそのアルバムの底力を測るひとつの指針ともなるだろう。ダイアー・ストレイツのようなMTVのヒット・ポップスからイーグルスを思わせるようなやや疲れたウエスト・コースト・ロックまで、アダルトでメロウなマテリアルがひとりの男の頭のなかでかき回され、バンドによってフィジカルにほどかれていく。多重人格的に変幻する愛敬あるファルセット・ヴォーカルも少し角が取れていてとてもよい。
続く"バットハウス・ブロンディーズ"などは、デレク・アンド・ザ・ドミノスかという長尺のギター・ソロがフィーチャーされており、その音の厚みやハードさに加え、ブルージーなフレーズを情緒細やかになぞっていくピンクの声にぐっときてしまう。ソフト&メロウな"キャント・ヒア・マイ・アイズ"も、本作のハイライトのひとつとなるだろう。濡れたようなシンセと甘やかなギターにサックスが切なく絡むAORフィールなミディアム・ナンバー。ここでも彼はしっとりした情感を1曲ちゃんと歌い上げている。これがまた素晴らしい。
レトロ志向な若いアーティストが多い昨今、否定するつもりはまったくないのだが、その多くはファッション的なものである。しかし、ピンクにおいては古い音へ向かう動機がもう少し根深いところにありそうだ。ローファイ的な方法論にしても、いちどだってシーンのムードにひっぱられたことはないだろう。彼は彼自身の理由でレイドバックしている。それはおそらく、彼の居場所がそこにしかないという切実な理由だ。ガールズのクリストファー・オーウェンスにも同じようなことを感じるが、彼が強度のある名曲をいくつも書いているのとは対照的に、ピンクのほうは全体にまとまりを欠いた散漫な作品が多く、それが彼らしさを形作ってもいた。しつこいようだが、だからこそ1曲が曲としてのまとまった形を成しているということが本当に感慨深いのだ。
いつまでも大人になるのを拒んでいても仕方がない。これまで彼が見せてくれた作品は、言わば彼の宝箱である錆びた菓子の缶から取り出してきた、キンケシやら鳥の羽やら古い切手やらという幾多のがらくたであった。それはいずれも得難く、純粋で、おもしろく、輝いていた。が、そのまま少数の理解者に囲まれてピュアに生きていこうとすれば大きな苦痛を伴うだろう。どこかで外に出なければならない。本作はバンドという助力を非常に良い方向で得て、ベッドルームから踏み出した記念碑的な作品である。
決してメジャー感はない。やっていることも、そもそも動機のレベルで流行とは無関係だ。しかし彼の極めて個性的な才能が「夭折の天才」のような終わり方をしてほしくない、まだまだどうなるのか見続けたいという人にとって、『ビフォア・トゥデイ』のできは我がことのようにうれしいはずである。本当に、広く聴かれてほしい1枚だ。
『My Space』は、言わば日本における『オリジナル・パイレート・マテリアル』である。何か気の利いたことを言うわけでもなく、ただひたすら彼らの日常のみが描かれているのだ。
車ではなく電車に乗って東京を移動する、仕事はないが時間はある、梅酒や発泡酒を飲み、そして夜の街を徘徊する、友だちの連れきた女の子に動揺する、夜に自転車をこいで彼女の家まで行く、吸いながら思い切り空想する......そんな「たわいのない話」がいっぱい詰まったアルバムだ。情にすがりつくような感傷主義もなければ、まどろっこしい陰気さもない。何か実のあることを言わなければならないというオブセッションもなければ、経済的な貧しさを売りにすることもない。ラップの自己中心主義とは1億光年離れながら(このアルバムにおける"主語"の少なさといったら......)、S.L.A.C.K.は特徴的な舌足らずの声で彼の日常を淡々と描写する。友だちや恋人、クラブ、朝帰りのまぶしい太陽、やる気のないバイト、怠惰と嫌悪、希望と絶望、愛情と冷酷さが入り交じりながら、しかし感情の起伏は抑えられ、池袋、新宿、渋谷、あるいは足立区から板橋区あたりを、彼はたいした目的もなくぶらぶら歩いているようだ。そんなアンチ・ドラマに満ちた『My Space』は、見通しが決して明るいとは言えない彼らの(そしてわれわれの)日常における、なんとも心地よい夜風のようなアルバムだった。
去る6月14日、DOMMUNEに登場したS.L.A.C.K.とそしてPunpeeは、彼らの音楽さながら、実に飄々としたものだった。いつの間にか彼らはそこにいて、S.L.A.C.K.はバッグを背負ったままマイクを握ると、いつの間にか消えていた。作為的ではないだろうけれど、自分を懸命にアピールするというよりは、控えめにすることで微妙に際だつというその逆説的な態度は、なるほど『My Space』の柔らかなチルアウトとも繋がっているのかもしれない。
『Buda Space』は『My Space』のリミックス盤である。リミキサーはブダモンキーというL.A.在住の日本人のトラックメイカーで、『WHATABOUT』にも参加している。その筋ではずいぶんと評判の人らしい。実際、『Buda Space』は力のある作品で、『My Space』をある種のサイケデリックな領域にまで引き延ばしている。メロウだったあの音楽に毒を注ぎ、涼しかったあの音楽に熱と寒さを与えている。『Buda Space』は『My Space』のリミックス盤であることに違いないが、S.L.A.C.K.のラップも録り直しされ、音楽から見える世界は別物となった。
オウテカにスクラッチを入れたような1曲目の"Enter the BudaSpace"からしてぶっ飛んだプロダクションだが、"Good More"のリミックス・ヴァージョン"Good for"を聴けば、この作品がヘッズたちの実験室で生まれたポスト・ジェイディラの領域で鳴りなっていることがわかるだろう。オリジナル・ヴァージョンでは気取りなく語られた「たわいのない話」が、このアルバムでは暗く冷たいコンクリートの上に投射されているように感じられる。
痙攣するコンピュータ・ファンクの"Super Kichen Brothers"や"the Third"にも『My Space』にはなかった刺々しさがあるが、もっとも挑発的なのは銃声の音からはじまる"Deep Shit"だろう。ファンのあいだでは人気曲のひとつだと思われる、日常の甘いひとコマを描いたこの原曲を、ブダモンキーはあたかも張り付けにして、ドレクシア流の暗い光沢に塗り替えているようなのだ。これが『My Space』において最高にロマンティックなラヴァーズ・ラップ"Deep Kiss"のヴァージョンであることに一瞬たじろぐかもしれないが、こうした"さかしま"こそがこの作品の魅力というわけだ。
"I Know Club Bitches"は"I Know About Shit"のヴァージョンである。梅酒と渋谷の空が耳に残るこの曲の叙情主義もまた、ねじ曲げられた映像のように歪んだ世界となってあらわれる。ルーツ・レゲエのドープなダブを響かせる"B.U.D.S."は、『My Space』では最後に収録されていた"S.H.O.C.K"のヴァージョンだ。そこには『My Space』ではひた隠されていたと思われる、なにか強い感情が見え隠れする。
アルバムは、ブダモンキーによる"Bangin Underground Dimensional Stereo"の不穏なトリップで締めくくられる。「電車で行こう」の"Train On The Tokyo"や爆笑ものの"Dream In Marijuana"はリミックスの対象からはぶかれている。
『Buda Space』は、好みが分かれるかもしれないが、ずいぶん野心的な試みである。〈ストーンズ・スロウ〉を追っていたというS.L.A.C.K.とブダモンキーの冒険心の賜物と言えよう。限定1000枚なので、すでに売り切れの店も多いと聞くが、まだ探せばあるところにはある。善は急げ。
![]() ポストパンク・ ジェネレーション 1978-1984 サイモン・レイノルズ (著) 野中モモ (監修, 翻訳) 新井崇嗣 (翻訳) シンコーミュージック・エンタテイメント |
質問は、答えよりも重要である――答えるよりも圧倒的な速度で質問ばかりが溢れ出てしまう。涙のように、とめどなく。感傷的な書き出しだが仕方がない、30年前の話だし、少しばかりは許して欲しい。
もうひとつある。音楽とはメッセージを伝達するメディアであるという考えに対する反論だ。音楽とは言葉の乗り物であり、サウンドは乗り物の役目さえ果たすならそれで良いという考え、たとえばある種の青春パンクのように、言葉がそれなりに機能しているなら、サウンドはまあまあカタチになっていればそれでよいという考え方の否定だ。サイモン・レイノルズの言を借りれば「音楽を単なるアジテーションの道具とみなすのではなく、このラディカリズムが言葉とサウンドにおいて等しく現れ」ること。つまり、語り口そのものも更新されなければならない、主題とともに文体そのものもフレッシュでなければならない、ということ。そうした意志がポスト・パンクと呼ばれたムーヴメントのもうひとつの大きな特徴だった。
ゆえにポスト・パンクは、チャック・ベリーを墓に埋めて、おおよそロックンロール以外すべての音楽にアプローチするのだった。
イギリスの評論家、サイモン・レイノルズの著書『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』の翻訳が出た。原題は『Rip It Up and Start Again』(引きちぎって、もういちどはじめよう)、グラスゴーのバンド、オレンジ・ジュースのデビュー・アルバムのタイトルからの引用だ。原書は2005年に上梓され、欧米ではずいぶんと評判になり、そしてまた議論を呼んだ。
評判となったのは、率直に言ってこの本が素晴らしいからだ。ザ・レインコーツのジーナ・バーチは冗談めかしながら女性バンドへの注意の欠如を指摘していたけれど、ジョン・サヴェージの『イングランズ・ドリーミング』に続く本があるとしたら、間違いなく本書だ。決定版だと言って差し支えない。レイノルズはポスト・パンクの多様なバンドたちを手際よく分別し、許される限り細かくしっかりと論評している。読み応えがあり、あたらめて知るところも多い。
そもそもこの本は求められていたのだ。ゼロ年代がポスト・パンク・リヴァイヴァルのディケイドだったからである。われわれはもういちどレコード棚からザ・スリッツやザ・ポップ・グループを、ザ・フォールやスロッビング・グリッスルを引っ張り出した。アシッド・ハウスから20年、もう用はないだろうと奥のほうに仕舞い込んでいた幼児ポルノのジャケットを(TGの『D.o.A.』だ)、ホコリまみれになりながら探し出すとは思ってもいなかった。そして......ギャング・オブ・フォーやヒューマン・リーグが新世代のバンドに影響を与え、ザ・スリッツやザ・レインコーツが来日する日がまさか来るとは......。
世代的なことをいえば、僕はレイノルズとまったく同じ年齢で、ポスト・パンクを思春期の好奇心のかたまりのなかで聴いている。ザ・レインコーツのインタヴュー記事でも書いているように、いま思えばそれはパンクという火山が爆発したあとに空から無数の素晴らしい音楽が降ってきたようだった。それらのうちの数枚が静岡市という小さな地方都市の輸入盤店の壁に並び、そして僕の人生を変えた。いはやはなんとも......。
[[SplitPage]]![]() ポストパンク・ ジェネレーション 1978-1984 サイモン・レイノルズ (著) 野中モモ (監修, 翻訳) 新井崇嗣 (翻訳) シンコーミュージック・エンタテイメント |
「反抗をカネにする」うしろめたさを誠実に歌うジョー・ストラマーを嘲笑するように、ジョン・ライドンは「反抗でカネ儲け」するために自分の新しいバンド名をPublic Image Limitedという会社名義にした。マガジンは――これもザ・レインコーツの記事で書いたことだが――パンクのルールとなった左翼思想への違和感を、左翼にも右翼にもどちらもにも付かないんだという政治的決意とともに"ショット・バイ・ボス・サイド"で表明した。
ポスト・パンク台頭の背景にはサッチャー&レーガン(&中曽根)が推進する新自由主義政策があった。とくにイギリスにおいては、そのため音楽から政治性が消えることはなかったが、興味深いのは、多くのバンドがクラスのような従来的な政治集会を前提とする活動とは距離を保とうとしたことだった。パンクの団結心という抑圧から解放された反抗のあれこれといった観点においてもレイノルズが言うようにポスト・パンクは「先回りした」と言えるかもしれない。マガジンのハワード・デヴォードのように、マーク・E・スミスもまた政治性は集団ではなく個人として表明......いや、わめきちらした。「すべてを疑え」が合い言葉だった。パンク・ロックどころかRAR(ロック・アゲイント・レイシズム)といった団体でさえもその対象となった。
そして生活におけるミクロな政治学が歌われた。あるいはまた、積極的な読書によって得た知識は頻繁に歌詞に引用された。それは気まぐれなボヘミアン的好奇心に導かれたものか、さもなければ深刻な問題意識の結実だった。ドストエフスキーからカミュ、ユイスマンスからJ.G.バラード、ブレヒトからアルチュセール、ベンヤミン、ニーチェ、そしてイギリスのバンドの多くはたいてい「仕上げにシチュオシオニズムをちょいと」ふりかければできあがり――というわけでもなかったが、そういうバンドの代表格がギャング・オブ・フォーだった。
ポスト・パンクの功績として、女性バンドを数多く輩出したことも見逃すわけにはいかない。しかも彼女たちは、旧来の女性アーティスト像を否定する女性アーティストだった。男の視線をあざけるように泥んこのヌードで登場したザ・スリッツ、あるいはその逆で、ポップ・ビジネス界の常識のあさましさを暴くように普段着のまま登場したザ・レインコーツ、「パーソナル・イズ・ポリティカル(個人的なことは政治的なこと)」を信条としたデルタ5といったバンドは、音楽業界の男たちが求める女性専用のイスをぶちこわして、自分たちが本当に座りたい自分たちの席を確保した。
また、ポスト・パンクはインディペンデント・レーベルによって支えられていたが、それはたんなる自主制作でもなければ、たんなる個人レーベルでもなかった。特筆すべきは〈ラフ・トレード〉で、ジェフ・トラヴィスによるこのレコード店/レーベルは、それまで男の世界だったレコード店に女性を送り込み、社長を含めた従業員全員が同額の報酬という平等主義を貫いて、会社組織そのものにポスト・パンク的な思想を当てはめた。アーティストとの契約の場から弁護士を追い出した「50:50」契約に関しては、ザ・レインコーツの記事に書いた通りである。
音楽的なことで言えば、先述したように、ポスト・パンクは白いロックンロールを否定して、むしろそれ以外のジャンルとの接続をはかった。レゲエ、アフロ、ジャズ、ファンク、クラウトロックやエレクトロニック・ミュージック、現代音楽やノイズ、あるいはパンクが否定したプログレッシヴ・ロックのようなヒッピー・ミュージック――ロバート・ワイアット、キャプテン・ビーフハート、イーノのアンビエント・ミュージック、そしてパンクが毛嫌いしたディスコにも近づいた。ジ・アソシエイツのようにフランク・シナトラや映画音楽に着目したバンドがいるいっぽうで、スロッビング・グリッスルのように60年代末のアングラ文化に端を発しているバンドも珍しくなかった。あらゆる位相において、ポスト・パンクは多様だった。
中学生のときに初めて"サティスファクション"という曲をディーヴォの演奏で聴いた。なんて格好いい曲だろう、と思った。あとになってザ・ローリング・ストーンズによるオリジナルを聴いて、その古くささに愕然としたものだった(その良さは20代になって理解できたが)。ディーヴォの奇妙なユニフォームがロックンロールのケバケバしい服装に対する皮肉だったように、PiLはシックなスーツ姿でメタリックな響きをかき鳴らし、ワイヤーは"ジョニー・B・グッド"をワンコードで演奏した。スロッビング・グリッスルは「音楽をやらない」ことをコンセプトに、ステージ上でヌードになったり、客に血のりを浴びせたりした。オレンジ・ジュースはロックの性表現のすべてを拒み、潔癖性的なアコースティック・サウンドを展開した。ポスト・パンクのロックの文法に対するこうしたシニカルでニヒルな態度をポップの史学ではしばし"アンチ・ロック"と呼ぶが、実際のところ1979年の話をすれば、ロックンロールは加齢臭漂うただ髪の長い老体として最低の扱いを受けていたのである。
ポスト・パンクはロック・ジャーナリズムも変革した、とレイノルズは書いている。ポスト・パンク系の新しいジャーナリズムは、不良性をインテリ的に反逆だとあがめる論法やストリートへの狂信、天才だの狂人だのといったお得意のクリシェ、あるいはニュー・ジャーナリズムの影響下で氾濫したなれなれしい口語的文体「~だよね」「~じゃないのかな」「~しようか」「~だぜ」といった近過去のロック批評へ意義申し立てをした。ジョン・サヴェージとポール・モーリー(のちの〈ZTT〉の創設者、アート・オブ・ノイズとなる)がその代表だったとレイノルズは書いている。
メディアに掲載されるインタヴュー記事においても変革は起きた。アーティストの側でもただ自分の趣味や影響について語る形式的な安易さを拒み、深い議論を好んだ。話は政治や読書、哲学や映画など多岐におよび、インタヴュー記事は、いつかしか深刻な問題について議論する場にもなった。
ポスト・パンクの時代は、音楽ライターがそのままバンドのメンバーになることも珍しくなかった。ポール・モーリー以外でも、オルタナティヴ・TVを結成するマーク・ペリーがいたし、PiLやザ・スリッツらと交流のあった女性レゲエ・ライターのヴィヴィアン・ゴールドマン、のちにザ・プリテンダーズを組むクリッシー・ハイドといった人たちも有名だった。スクリッティ・ポリッティにいたっては、「理屈だけの参加でもそれが重大な貢献とみなされ」メンバーとしたほどだった。
![]() ポストパンク・ ジェネレーション 1978-1984 サイモン・レイノルズ (著) 野中モモ (監修, 翻訳) 新井崇嗣 (翻訳) シンコーミュージック・エンタテイメント |
ポスト・パンクにおいて重要人物をひとり挙げよと言われたら、迷わずジョン・ライドンだと答える。ピストルズ解散後の彼が次は「どんなものであろうと反音楽」であることを掲げ、そしてPiLをはじめたことが、どれほど当時の10代の耳と精神と、それから脳みそまで押し広げたことか......。ロックの古典的な神話学(反抗、ドラッグ、女、セックス等々)に冷笑を浴びせながら、ライドンは子供たちがラモーンズやザ・ダムドのレヴェルに留まっていることを許さなかった。ダブのベースラインとカンのミニマリズムのブレンドをたくらみながら、ライドンはポスト・パンクにおける独学主義に導かれた知性を言葉にした。
アンドリュー・ウェザオールの読書好きは、彼も僕とまったく同じ歳であるがゆえのポスト・パンク世代特有のオブセッションから来ているのだと思う。あの時代、本を読まないミュージシャンは二流だった。レコードの知識だけで認められることはなかったのだ。
それは主に歌詞に表れた。ゲイリー・ニューマンの"カーズ"やザ・ノーマルの"ワームレザーレット"はJ.G.バラードの『クラッシュ』、ジョイ・ディヴィジョンの"アトロシティ・イグゼビジョン"はJ.G.バラードの『残虐行為展覧会』を参照し(バラードはウィリアム・バロウズと並んでインスピレーションの源だったのだ)、スロッビング・グリッスルがマルキ・ド・サドのアンチ・ヒューマニズムを展開すれば、マガジンはドストエフスキーの描いたアンチ・ヒーローを歌い、ギャング・オブ・フォーはブレヒトを引用した。スクリッティ・ポリッティにいたっては、彼らが入れ込んでいた現代思想家の名前=ジャック・デリダを曲名にしたほどだった。
スクリッティ・ポリッティの洒落た知識主義やマーク・スチュワートの政治的決意が騒がれるいっぽうで、それらとは反する快楽主義への意識を高めたのもポスト・パンクだった。ヘヴン17、あるいはソフト・セルやジ・アソシエイツといったバンドは、ほんのひとときの"快楽"を臆することなく賞揚した。そしてこうした連中がのちのハウス・ミュージックへと流れていく......と思えば話は早いのだが、ポスト・パンクにおけるダンスへの情熱の裏側にはドイツへのオブセッションが複雑に入りくんでいることも忘れないで欲しい。そう、ジョイ・ディヴィジョン、ウルトラヴォックス、ゲイリー・ニューマン、ジャパン......等々。スロッビング・グリッスルにいたっては、ある時期本気でファシズムに取り憑かれたほどで(このバンドは、レイノルズが指摘するように、アナーキズムの自由意志性が労働論ではなく唯我論に向かうときファシズムとの親和性が待っていることいち例)、それはまあともかく、とくに東欧や旧ソ連や中国への憧れにはマーガレット・サッチャーの新自由主義に晒された若者たちの正直な迷い――この残酷な競争社会を生きるくらいなら統率の取れた社会主義の国でロボットのように生きたほうが楽だという、なんとも辛い、微妙な揺らぎがある。とくにウルトラヴォックスの"アイ・ウォント・トゥ・ビー・ア・マシン"や"マイ・セックス"といった曲には、そうした倒錯性がよく出ている。
まあ、そんなわけで僕は、ザ・レインコーツの取材でポスト・パンクを「パンクにおける"議論"」という言葉に喩えてみた。もちろんどんなジャンルにも"議論"はあるものだが、ポスト・パンクにおけるそれは表現の、先ほどから指摘しているような、とんでもない多様性に結びついている。
レイノルズはこう書いている。
パンクは雑多なる不満分子の大群を、「反対」勢力としてわずかのあいだだけ団結させた。しかし、その問いが「何に対して?」に移行したとき、ムーヴメントは散り散りになり、それぞれが自分自身にとってパンクが意味するものの創造神話と、次にどこへ行くべきかのヴィジョンを育てていった。白熱する議論のなか、それぞれが共有している意見の不一致は、それでもなおそれぞれが共有しているものを明らかにした。パンクによって復活した音楽の力への信頼、そしてこの確信とともに生じる責任。これこそが「これからどこへ?」という問いを取り組むに値するものとした。この分裂と不一致の副産物がポストパンクの多様性であり、60年代の音楽の黄金時代に匹敵するサウンドとアイデアの魅惑的な豊かさなのだ。
大筋に関してはまったくその通りだと思う。
『ポストパンク・ジェネレーション』にはイギリスとアメリカ、ドイツやオーストラリアのバンドが取り上げられているが、この国からも多くの偉大なる「興味深い失敗」=ポスト・パンクが生まれている。フリクション、スターリン、タコ、ほぶらきん、非常階段、水玉消防団、チャンス・オペレーション、NON BAND、プラスティックス、P-モデル、じゃがたら、ミュート・ビート、EP4、突然段ボール、ゼルダ、INU、アント・サリー......エトセトラエトセトラ......われわれはこうした音楽に夢中になり、レイノルズが書いているように「どこまで音楽に真剣に取り組めるか、来る週も来る週も試み探求した興奮に次ぐ興奮の日々」を送った(90年代初頭にテクノに夢中になった人にはこの感覚がそれなりにわかる。そう、最低でも週に2回はレコード店をチェックしなければ気が済まない日々のことを......)。
だが......この素晴らしい労作である『ポストパンク・ジェネレーション』に関してもっとも重要なことを最後に言わせてもらえば、僕も、そしてレイノルズもまた、実はポスト・パンクの弊害についてもよく知っている、ポスト・パンクの"ポスト"についてもよく知っている、ということだ。レイノルズはレイヴ・カルチャーに触発された『エナジー・フラッシュ』を著し、僕も『ブラック・マシン・ミュージック』を書いている。どちらも1963年生まれの音楽狂いが、ダンス・カルチャーに触発されて書いた本だ。われわれ世代は、アシッド・ハウスの到来とともに「さらばポスト・パンクの知識偏重主義よ、さあバカになろう」と言って踊っているのである。ジョイ・ディヴィジョンのレコードを売り払い、中古でバーズのレコードを探し、そして太陽を求めたのだ。
だから、とうの昔にハウスとストーン・ローゼズを通過したわれわれ世代にとっては、『ポストパンク・ジェネレーション』は、あらかじめ結末を知っている物語を読んでいるようでもある......が、しかしイギリスの高名な評論家は、その結末にあらためて"揺らぎ"を与えているようだ。そうした"揺らぎ"は、ポスト・パンクの時代に思春期を送った人間にとってのある種の因果なのかもしれない。冒頭に書いたように、質問は答えよりも重要なのだ。それは決断主義に徹することのできない弱さと自由、もしくはいい加減さと優しさとの表裏一体を意味する。威張れた話ではないが、40にして迷っている人間だっているのだ。
レイノルズはこう結んでいる。
僕が音楽にこんなにも多くの期待を寄せることができるのはあの時代のおかげであり、感謝の思いはこれからも変わらない。
まったく同意するが、「音楽にこんなにも多くの期待を」寄せているのは、われわれの世代だけではない。磯部涼や七尾旅人や二木信だって、それぞれの背景があり、それなりに期待を寄せている。自分よりも10歳も若いのに裸のラリーズを50枚持っているという松村正人のような人に関してはただただ驚愕するが、彼の場合は、奄美大島出身ということが大きく影響しているのかもしれない。とにかく、当たり前の話、ポスト・パンク世代だけが特別であるはずがない......が、あらためていま思えば、あの時代の音楽にはいまでも有効な、成し遂げるべき夢があるとは思う。
パンクが否定したヒッピーよりも前向きな意味でヒッピー的で(ラフ・トレードを見よ)、60年代の反体制のスターの背後には敏腕マネージャーやメジャー・レーベル、業界の切れ者たちが付いていたものだが、ポスト・パンクの"カウンター"を後押ししたのは素人たちの理想主義への情熱だった。DIY主義であり、アンチ・スターシステムであり、独学主義だった。ポスト・パンクのそうした態度がやがてわれわれ世代をハウス・ミュージックに向かわせ、レイヴ・カルチャーに突進させたことは言うまでもない。
だからって30年後のいま、「引きちぎって、もういちどはじめる」べきだろうか? ポスト・パンクには"やり過ぎた"側面もあるし、"曖昧すぎた"ところもあった。"集まる"ことを警戒し過ぎたことも否めない。短期間のあいだにあまりにも多くの実験を詰め込めすぎたのかもしれない。が、迷ったときに立ち返ることは無駄ではない。なにせアイデアの宝庫だし、なにせポップ音楽における新自由主義への最初の反応だった。で、"答え"だって? そんなものは下僕どもにまかせておけばいい――と、ポスト・パンク風な引用でこの原稿を終わりとしよう。