内田 学(a.k.a.Why Sheep?)
坂本龍一とは何者なのだろう。アーティスト・芸能人・文化人・社会運動家、そうだ、俳優であったことさえある。たしかにそれらのどの側面も彼はもっている。だが、どれも坂本の本質を真っ向から言い当てていないように思う。
では彼の紡ぎ出す音楽は、サウンドトラック・現代音楽・大衆音楽・民族音楽のどこに位置するのか、たしかに、そのどの領域にも踏み込んでいる、やはり坂本龍一はただただ音楽人なのだ、と、いまさらではあるが、この『12』を聴いて痛感した。アーティストという漠然としたものではなく、彼の血、肉、骨、細胞に至るまで、音楽を宿しているのだ。
音源の資料に添えられた坂本龍一本人の短いメモには、音による日記のようなものと自らこのアルバムを評している。実際、そうなのだろう、収録曲のすべてのタイトルも日付のみ付されている。まるで記号のように。それは大きな手術を経て、疲弊しきった心と身体を癒すための作業だったともある。
実際、坂本は、いままで定期的に行っていたソロ・コンサートを1ステージ通して行う体力はもう自分にはないと発言している。そしてライヴが気力と体力を求められるように、アルバム制作というのも、気力と体力が求められる。
ことに、坂本のように直感力はもちろん、その思考の明晰さや論理性を持つ作家にとってはアルバム制作、ことに、他から委嘱されたサウンドトラックなどの作品と区別して、あえてオリジナル・アルバムと銘打たれている過去作品においては、アルバムを構成するそれぞれの楽曲から全体に至るまで、(作為的な場合を除いて)アルバムに通底するインスピレーション、そしてそれらを構成するそれぞれの楽曲まで、コンセプトというロジックに覆われているように思う。
しかしこの『12』が、過去のオリジナル・アルバムと決定的に異なる点はそこにある。何度も繰り返し聴くうちにふと気付いたのは、いわゆる坂本が得意とする論理性や合理性のようなものが、欠落ではなく排除されているのだ。
例えばひとつ前の、『async』(非同期の意)は、坂本自身が、「人に聞かせるのがもったいない」と評したアルバムだが、そのタイトルとは裏腹にそれは“andata”を主題としながらも、恒星の周囲を回る惑星、さらにその周囲に位置する衛星のように、変奏曲、派生曲で構成されたアルバムであったように思う。そして“andata”こそ、力作というより、作家としてのひとつの到達点となる作品のように思えるのだ。なるほど、坂本が主催した「Glenn Gould Gathering」で、バッハの「フーガの技法」の次の曲として配置されたのも頷ける。
ところがこの『12』を何度も通じて聴く限り、3種類以上の音が重ねられている曲はないことに気づく。また、いまの技術なら簡単に除去できる偶発的なノイズや、マイクのヒスノイズもそのまま剥き出しである。坂本龍一ともなれば、エンジニアにそれらの作業を託すことも容易なことであろうはずなのに。
また、技術的な点ではあるが、ピアノにかけられているエフェクトも、後から修正できるようなアフター・エフェクトではなく、後から修正の効かない「かけ録り」で録音されている。つまり、これらの曲を今までのように時間をかけて推敲してロジックで構築していくことをハナから想定していないのである。
坂本に限らず一般的には、コンセプト・アルバムを制作する場合は、個々の楽曲の細部から、全体の俯瞰図に至るまで、行きつ戻りつ観照するものだが、この『12』は、その作業は行われていないのだ。ロジックがないから起承転結ももちろんない。ただただ水平線を眺めているような感覚を覚える。
つまりは観念的に創作されたものでないということである。では何であるかいえば、むしろ瞑想なのだと思う。ヒトや動物が、睡眠時に呼吸が自然と浅くなり安定するように、坂本自身が深い瞑想状態に入り、音と対峙している様子がまるで目の前で行われているようにさえうかがえるのだ。それは音を視て観照するのとは違い、あたかも触覚によって手探りで音を弄っているかのようでもある。どこか20世紀初頭の自動筆記(オートマティスム)にも通じるかもしれない。そして、この緩やかな呼吸、脈動/テンポは、それを聴くものを同じ空(クウ)に誘おうとしているのだ。
闘病の日々、ただただ日記をつけるように行っていた瞑想。ここまで後から手を加えられていないにも関わらず、その集中力、瞬発力と骨の髄まで染み込んだ音楽的感性を、病身の身でありながら絞り出す強靭な精神は驚異としか言いようがない。
多少でもこのアルバムに作者の恣意性があるとしたら、数ある日記的スケッチのなかから、これらのトラックを選別したこと、そして時系列ではなく意図されて曲順が構成されていることだろう。
個々の楽曲についての分析は割愛するとして、最後の曲に配置されたトラックは、坂本龍一からのメッセージのように思えて仕方がない。その内容は聴く者によって違うかもしれないが。
本来このような作品、後の坂本龍一の研究者が発表するような作品を自らリリースしたこと、その意味も大きい。いわゆる「頭の中を覗く」のではなく、音楽人として細胞レベルまで露呈する。それも自らの意思で。あたかも検体を差し出すかのように。「後はまかせた」とでもいうかのように。
この『12』が坂本龍一のオリジナル・アルバムとして音楽史においてどのような位置付けになるかは、まだ語られるべきではないが、坂本龍一という音楽人を知るためには貴重な音源であることは間違いない。教授、本当にありがとうございました。(1月15日記)
[[SplitPage]]デンシノオト
音を置く------。ひとつひとつ丁寧に、慈しみながら、繊細に、 音がノイズが、旋律が、音の庭に、そっと置かれていく。
坂本龍一の6年ぶりのアルバム『12』を聴いて、そんな印象を持った。坂本龍一が、ひとりでコツコツと、まるで毎日の大切な仕事のように、いうならば「音の庭師」のように、音を丁寧に、繊細に、置いていく光景が脳裏に浮かんだのだ。静かな庭に響く音たち。サイレント・ガーデンのような音楽とでもいうべきか。唐突だが、私は、どこか後期の武満徹の透明な響きを連想した。
同時に『12』は00年代以降の坂本龍一が追求していたアンビエント/クラシカルな音響作品の結晶体ではないかと思う。この20年ほどの坂本龍一の活動が、静謐な音響のなかにミニマムに、そして複雑に息づいている。
では、『12』は、これまでの坂本龍一のアルバムのなかでどのように位置付けにある作品だろうか。ひとことでいえばとてもパーソナルな作品だと思った。
サウンドのムードとしては『async』(2017)の後半、 “ff” や “garden” を継承する透明なアンビエンスを展開している。しかし『async』よりもさらにパーソナルな音だ。これまでのようにコンプセプトを立てたソロアルバムではなく、いわば「日記」のように制作された楽曲を収めたアルバムゆえ、より個人的な音に感じられるのは当然かもしれない。
スケッチのようなアンビエント/電子音楽を収めたアルバムというならば、2002年にリリースされた『COMICA』がある。『COMICA』は9.11から受けた衝撃を治癒するかのように内省的な電子音楽を展開していたという意味では、『12』との共通項を見出すことが可能だ(私見では『COMICA』があるからこそ2004年の『キャズム』があり、『キャズム』があるからこそ、2009年の『out of noise』が生まれ、あの傑作『async』に至ったと考えている)。しかし『COMICA』の楽曲は、ある程度は編集されていたようだが、この『12』の楽曲はほぼ無編集のまま収録されているという違いがある。
さらに、1曲目、5曲目、7曲目などで聴くことができるシンセサイザーの音色や響きについては、『愛の悪魔』(1999)や『デリダ』(2002)の内省的な電子音/電子音楽も思い出しもする。クリアな残響が美しいミニマルなピアノ曲という意味では、『トニー滝谷』(2007)などのミニマルなサウンドトラックも想起してしまう。とはいえ『愛の悪魔』『デリダ』『トニー滝谷』は、映画音楽である。映画作品あってこそ作られた音楽だ。一方、『12』は、まるで日記をつけるように演奏・録音された楽曲であり、作品の成立過程がまるで異なる(私見だが『トニー滝谷』クリスタルな残響に満ちた透明なピアノの音は、『out of noise』以降のソロアルバムの音に受け継がれているように思える)。
加えて坂本龍一のルーツがこれ以上ないほどに素直に表現されているパーソナルな作品という点では、ピアノ・ソロの『BTTB』(1999)系譜の作品と位置付けることもできるかもしれない。8曲目 “20220302 - sarabande” などは、普通のポップスではあまり使われない複雑な転調が自然に用いられ、より洗練・成熟した「20年後の『BTTB』」とでも称したい楽曲を収録している。だが、『BTTB』はピアノソロ・アルバムでもあり、電子音楽・電子音響的な要素はないという差異がある。
小節構造にとらわれない自由な演奏/音響の記録という意味では、クリスチャン・フェネスとの共作『Flumina』(2011)を思わせもする。加えて冷たく美しいシンセサイザーの響きという意味では、アルヴァ・ノトと共作したサウンドトラック『レヴェナント』(2015)の音響のようでもある。00年代以降、彼らとの共作が、坂本に与えた影響を大きいことに違いはないが、『12』のサウンドは、純度100%の坂本龍一の音楽である。
つまり、本作『12』は、2009年の『out of noise』、2017年の『async』のオリジナル・ソロ・アルバムで追求されたアンビエント音響、1999年の『愛の悪魔』、2002年の『デリダ』、2007年の『トニー滝谷』などのサウンドトラック・ワークで披露されたパーソナルなシンセやピアノの響き、アルヴァ・ノトやフェネスなどの電子音響アーティストとの共作による電子音とピアノの融合、1999年の『BTTB』で実現したバック・トゥー・ベーシックな坂本のピアノ楽曲など、坂本龍一の四つの系譜が交錯しつつ、しかしそのどれからも微かに逸脱している稀有なアルバムということにある。
しかし坂本ファンであれば、じつは、この『12』のような「完全なソロ」、つまりは彼の音の結晶を聴きたかったのではないかと想像してしまう。じじつ私がそうだ。『12』は、私にとって長年夢見ていたようなアルバムなのである。私はこのアルバムをすでに深く愛してしまっている。
このアルバムに満ちている美しさ、清潔さ、透明さ。それは意図されたものというより、ごく自然に坂本龍一の身体を通じて表出した結果ではないか。大病を患った坂本龍一が自身の心と体を癒すために、日々の感覚のままに、編み上げられたアルバムだからだろうか。
じっさい坂本龍一は、このアルバムをつくるきっかけについて、治療後、それまでは音楽を聴いたり、作ったりする体力がなかったが、ある日、シンセサイザーの音を浴びたくなり、何も決めずにただ演奏したことが始まりだったという。その曲が、本作の1曲目 “20210310” に収められている曲らしい。以降、日記を書くように徒然なるままに、音のスケッチを残していった。いわば音による治癒のようなものを感じつつ、編まれていった曲たちといえよう。つまり自身の体力と病、そして坂本の長年にわたる音楽の経験が交錯し、一種、身体に作用するような音楽・音響作品に仕上がっていったのではないか。
楽曲名から推測するに、2021年3月に2022年4月までに制作された12曲が収録されているが、坂本はこの「12」という数字に特別な意味は持たせていないと語っている(2023年1月1日・NHK FM放送・ラジオ特番「坂本龍一ニューイヤー・スペシャル」より)。
曲名も制作日がわかるような簡素な数字になっている(自分としてはこのシンプルなミニマムさに河原温のミニマルアートを思い出してしまった)。 ただ「12」という数字には坂本がこだわり続けてきた時間の概念を象徴しているとも『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の最終回(「新潮」2023年2月号)でで語っている。たしかにこのアルバムを聴いていると「時」を意識する。
シンセサイザーのシャワーのような曲に始まり、やがてピアノと電子音、環境音が交錯する電子音響になり、再びシンセサイザーによるアンビエントを経て、より洗練された「作曲」を意識した曲に変化し、メタリックな、鈴のような金属音でアルバムは終わる。まるで時の円環のように私は、またアルバム冒頭に戻り、はじめからアルバムを聴いてしまう。くりかえし、くりかえし…。
音から音楽へ、そして音へ。私は、その曲すべてに、いや音のすべてに、音の一音、音の一粒を慈しむような感情を感じた。もちろん「美しい」という言葉は批評の放棄かもしれないが、しかしやはり「美しい」と私は何度もつぶやきたい。『12』はとても美しいアルバムだ。
加えて『12』の収録曲を繰り返し聴いていると、まるでピアノやシンセサイザーの音色を間近で感じるような距離の近さを感じてしまった。曲が生まれる瞬間を聴いているような感覚とでもいうべきか。では「距離の近さ」とは何だろうか。私は、坂本龍一の生の「呼吸」が音楽に反映しているからではないかとも思えたのだ。
その点から3曲目 “20220123” と4曲目 “20220123に注目したい。この2曲は、ピアノと環境音が、まるで森の中をゆっくりと歩くように交錯する瞑想的なトラックだ。そこに何か呼吸のような、もしくは環境音のような音が一定に反復されていく。私は勝手にこのスー、ハーという音を坂本の呼吸=リズムのように感じ取ってしまった。続く4曲目 “20220123” でも即興的なピアノに環境音がレイヤーされ、そこに呼吸音とも鳥の鳴き声ともいえる音が繰り返される。
この2曲のピアノは即興的であり、「呼吸」は少し浅く、苦しげである。しかしその呼吸もまた透明な音楽の中に次第に溶けていくかのように残響を響かせる。まるで音によって身体が治癒されていくように。なによりピアノの透明な響きと「間」が実に美しい。呼吸。残響。間。ここにあるのは「時間」というものの美しい提示だと思う。
音を置く。鳴らす。聴く。呼吸をする。すると持続と変化が起こる。ときに反復も逸脱ある。まるで「生きること」そのものように。生を治癒するように。そうして時間が無限に連なっていく。坂本龍一が「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」最終回(「新潮」2023年2月号)でひいていた武満徹『時の園丁』の言葉を思い出した。
『12』のミニマルな音響のなかには、無限の時/音の螺旋階段がうごめいている。2023年から未来に託すような名盤として、これからも聴き継がれていくに違いない。(1月7日記)
野田努
ぼくはこのアルバムを詩的な作品として受け取っている。これら12曲のなかには、恍惚とした瞬間もあれば喜びや哀歌めいたところもあり、甘美だが無常観すら感じるところもある。ほとんどピアノとシンセサイザーだけで作られて、日記のごとく記録(録音)された12曲は、即興めいているが、それぞれ異なる主旨/アプローチ/展開を見せている。
『12』がすごいのは、死と向き合った音楽家の、肉体的にも精神的にもギリギリの状態を経験したうえで奏でる音楽がどんなものになるのかという、時折息づかいも聞こえるほど、それ自体がexperience(実験/体験)でありながらも、そうした壮絶な遍歴から切り離して聴くこともできる点にある。それほどこの音楽からは、慈しみのようなものが滲み出ている。それはある意味謙虚な佇まいで、誰もが入っていける寛容な音楽として記録されているのだ。
とはいえ、やはりここからは強いものを感じないわけにもいかない。坂本龍一は、かつて自分のことを「アウターナショナル」という造語で形容した。ここ数年の日本のエレクトロニック・ミュージックにおいて、あるいはロックにおいても、日本的なエスニシティを強調することで西欧に受ける音楽が散見されるようになった。それはそれでひとつのやり方だろう。しかし、日本のどの音楽家よりも国際舞台において評価され、活動してきている坂本龍一は、自らの属性を日本の外側だと表現したことは忘れたくない。流浪の民のごとき存在であることを主張し、「国は存在しない、理想郷」、そのような言葉で自らの属性を語っているが、この『12』においてもその意思は貫かれている。
音楽には受容力があり、言葉にすることのできない感覚さえ表現することができる。これは清浄で、超越的な音楽なのだろうか。繰り返すようだが、『12』は、たとえば歴史的なアンビエント作品、『ミュージック・フォー・エアポーツ』や『アンビエント・ワークスvol.ll』なんかと同列に聴くことだって可能なアルバムでもある。 “世界はぼくが思っているよりも速く動いている” 、この年末年始ずっと聴いていた、ディラン・へナーという(坂本龍一を尊敬している)いま注目のUKの若いアンビエント作家の新曲のひとつだが、『12』は、ぼくのなかでは、彼のやはり同じように詩的かつ哲学的な作品ともリンクしている。世俗的なものと切り離されているとは思えないが、世俗的な暗い底流からは解き放たれた音楽であることはたしかだろう。ここまでのところぼくがとくに好きなのは 3曲目“20211201” と 7曲目“20220214” 。どちらも残響音がたまらない。
いずれにせよ、これはなんて美しい音楽であることか。そしてこれは誰も傷つけたりしない。いまはただただ聴いている。オリエンタリズムを否定しグレン・グールドを愛したエドワード・W・サイードなら「ユートピア的」と形容したかもしれないが、ユートピックでもディストピックでもない、より根源的なものに向かっているようにも感じる。最後の曲では、じつに暗示的に、ツリーチャイム(?)のような音だけが鳴っている。それはぼくには自然の音との回路のように聞こえるし、仮に『12』が個人的な作品だとしても、そこは確実に開かれているのだ。(1月10日記)
[[SplitPage]]三田格
どうしてそうなったのか覚えていないのだけれど、大学生だった僕と小山登美夫は、その日、新宿アルタのステージにいた。映画『戦場のメリークリスマス』のプロモーション・イヴェントで、僕たちは「戦メリ」に夢中な若者たちという設定でステージ上の椅子に座っていた。2人ともまだ映画は観ていなくて、要するにサクラだった。ステージには30人ぐらいが3列に分けて座らされ、僕らから5席ほど右に坂本さんがいた。前口上のようなものが長くて、僕らは多少、緊張していたけれど、坂本さんはとっくに飽きてしまったらしく、やたらと目でこちらに合図を送ってくる。最初はなんだかわからなかった。坂本さんは視線をこっちに向けながらひっきりなしに眉毛を上下させている。もちろん面識はない。初対面というか、ただ近くにいるだけである。『戦場のメリークリスマス』という映画の意義が語られ続けているなか、坂本さんの眉毛は上下し続ける。僕も小山も吹き出すのを我慢して下を向いてこらえていた。しばらくしてからまた坂本さんの方をちらっと見ると、まだやっている。あのしつこさには参った。ようやくイヴェントが本題に入って坂本さんが若者たちの質問に答える時間が始まり、僕らは解放された(イヴェントの後で僕は坂本さんに “君に胸キュン。” を勝手にリミックスしたテープを渡し、それが坂本さんの番組でオン・エアされたのに、その時の放送を聞き逃してしまい、そのテープが放送されたことを教えてくれたのは砂原良徳だった。さすが「カルトQ」)。10年ぐらい前に坂本さんがドミューンに出演した際、打ち上げでたまたま隣の席になった僕はアルタのイヴェントのことを訊いてみた。なぜ僕らを笑わせようとしたのかと。坂本さんは爆笑して、「覚えていない! あの頃のことはなんにも覚えてない!」と実に楽しそうだった。「忙しすぎてなんにも覚えてないんだよ!」。そして、日本酒の中瓶を取り出すと「これは貴重なお酒で、美味しいから飲んでみて」という。僕はお酒が飲めないというか、お酒を飲むと偏頭痛が大爆発してしまうので、「いや、飲めないんです」と言うと、「いいから飲んで」と引き下がらない。「いやいやいや」と僕がいうと「いいから、いいから」とお酒を注ぎ始める。あのしつこさは変わっていなかった。僕は手塚治虫の酒や赤塚不二夫の酒を飲み、赤瀬川原平やビートたけしのお酒も飲んだ。忌野清志郎のビールもちょくちょく口にしている。ここで坂本龍一の酒だけ飲まないのもなんだよなと思い、頭痛のことは忘れてちょっと飲んでみた。基本的に飲まないので味のことはわからないけれど、それはとても美味しく、なんというか滑らか~で不思議な世界に出会ったような気がした。「お、美味しいですね」。「そうだろー」。坂本さんの眉毛がまた上がった。
かつてスタジオボイスで坂本さんにインタヴューした際、坂本さんに「アンビエント・ミュージックはつくったことがない」と断言されてしまった。それもかなりきっぱりと。そんな無茶なと思ったけれど、それ以上追求しても眉毛が動くだけだと思って僕はあっさりと引き下がった。なので、『12』を前にして1曲目からアンビエント……と書き出すわけにもいかず、昨年から延々と悩み続け、晦日も正月も雑煮も初荷も通り過ぎ、そうか、この滑らかで不思議な感触はアンビエントではなく、お酒を飲んで気持ちよくなった状態、そう、酩酊音楽と呼べばいいのではないかと思いついた。日本酒の中瓶を持ち歩く坂本龍一の音楽を説明するのにぴったりのカテゴライズではないだろうか。『Gohatto』も『Elephantism』も『Comica』も『Alexei and the Spring』も『Love Is The Devil』もみな酩酊音楽の系譜に属している。坂本音楽の謎がこれでひとつ整理できた。ふー。それでは『12』を紐解いていこう。ここで安心して筆を置くと原稿料がもらえなくなる。『12』は何か遠くのことに想いを馳せているような酩酊音楽で幕を開ける。ブライアン・イーノ “An Ending (Ascent)” を思わせる悲しいドローン。いきなりエモーショナルで、生と死の境界を見つめるかのように透き通った諦観が冒頭から胸を撃つ。喜怒哀楽のどこにも寄せなかった『Comica』とはまったく違う。続く “20211130” からはアルヴァ・ノトとのコラボ・シリーズと同趣向で、少しばかり希望が増大し、ハロルド・バッド『The Room』がニューエイジぎりぎりと評されたように曲の表面を弱々しさが覆いつつ、背後に隠されたテンションが印象派の尊厳を仰ぎ見る。初ソロが『宇宙~人類の夢と希望~』だし、『Esperanto』や『The Fantasy Of Light & Life』の一部を聴くと坂本龍一は気質的にはニューエイジで、それは手塚治虫の影響であり、生まれ変わったら人類学者になりたいと言っていたことからもわかる通り人類全体に対する慈愛や興味が音楽から滲み出している。かといって一時期の知識人たちのようにオウム真理教や統一教会といった個別のニューエイジに引きずられなかったのはやはり知性や教養といった歯止めが効いていたからだろう。ひっきりなしに聞こえるのは坂本の息遣いだろうか。肩の上にジョン・ケージが乗っかっている。酩酊音楽というより、だんだんと瞑想音楽になってきたかと思いきや、息遣いがフィジカルな場面を想像させることで、完全にはスピってしまわない効果を上げている。続く “20211201” もアルヴァ・ノトとのコラボ・シリーズをさらにゆっくりと展開する感じか。余韻が主役。そして、病気をすると肺が弱り、呼吸が短くなるはずなのに、同じように息遣いを混ぜながら8分を超える長い曲に挑んだ “20220123” 。『Comica』にはなかった微妙な透明感が宿り、それがまた儚さを無限に醸し出している。教授、やっぱりこれはアンビエント・ミュージッ……いえ、なんでもありません。
5曲目で『12』は一転する。重苦しく波打つシンセサイザーは “Carrying Glass(『The Revenant』)” から深刻さを割引いて、ムルコフや伊福部昭よりも92年のレイヴ・ヒット、ユーフォリア “Mercurial” に途中から被さるシンセサイザーをそのまま取り出した感もあり、当然のことながらブリープのループやトライバル・パーカッションは入ってこない。延々とシンセサイザーがとぐろを巻き、アシッドな汗が滲み出る。このグラマラスな厚み。ゴシックを気取った酩酊モードにもほどがある。 “20220207” で再び前半のタッチに戻り、不完全に反復されるミニマルの断片に18番ともいえるピアノの高音でアクセントをつけたイーノ “1/1” のオマージュか。 “戦場のメリークリスマス” で果たした西洋と東洋のクラッシュは継続され、とんでもなく想像力を広げさせてもらうと、上海華夏民族楽団が “ウルトラQのメイン・テーマ” をチョップしてスクリュードさせた大衆音楽の供養にも聞こえる。ジャズ系のダン・ニコルズがスマホだけで録音したという『Mattering And Meaning』にも一脈で通じるものがあり、とくに “Yeh Yeh” は近しい発想に思える。 “20220214” はただ静かにしていたいという気分が反映されているのか、前述の “An Ending (Ascent)” から歓びを差し引き、PIL “Radio 4” をスローダウンさせたようなシンセ・ドローン。喜びや楽しさにもエネルギーは必要だから、その手前で立ち止まり、ただここに「ある」というだけで恩寵があるという価値観がここには刻印されている。酩酊音楽はここまでとなり、以後はピアノ曲に移り、唯一、ヘンデルのカバーらしき副題がつけられた “20220302 - sarabande” は輪郭のはっきりとしたピアノが前景化している(音響のせいなのか、知識のない僕にはラフマニノフ “嬰ハ短調” に聞こえてしまう)。演奏はかなりゆっくりで、アンチ・ドラッグ系の人力スクリュード・プレイというか。続く3曲も短いピアノ・ソロで、『BTTB』でいえば “intermezzo” の系統。坂本龍一のピアノは( “aqua” みたいなものでなければ)どこを切ってもラヴェル(やサティ)が出てくるような気がする(知識が乏しいのでよくわからない)。悲しいともそれを押し殺しているとも、あるいは、メランコリーというのとも違って、前頭葉のどこかにある感情なんだろうけど、ひとまずは言語化できない楽しみができたと強がっておこう。80年代は坂本龍一のつくった音楽が時代の音になったけれど、90年代はハウスやブレイクビーツなど他人がつくったフォーマットを自分流に聞かせるだけで別に坂本龍一じゃなくてもいいんじゃないかと思う曲が多かった。それが『御法度』や『BTTB』で自分の音を取り戻し、坂本龍一でなければならないピアノ曲に昇華させ、それがここにも4曲並んでいる。クロージング・トラックは静かな鐘の音。これまでも時々鳴らされていた音だけれど、こうも続くとドビュッシーがパリ万博で聞いたガムランの音がそのまま坂本龍一のオブセッションとなっていまだに響き続けているかのようである。
昨年は『Thriller』の40周年記念盤で初めてマイケル・ジャクソン版 “Behind the Mask” を聴いた。想像以上にこれがよかった。アレンジも原曲に忠実で、ポップスとしての完成度は高かった。原盤権を手放すことがカヴァーの条件だったそうで、坂本龍一がそれに応じなかったために『Thriller』への収録は見送られたという。もしも収録されていたらポップ・ミュージックの全体像はいまと少しは異なるものになっていたのだろうか。そうでもないのだろうか。坂本さん本人が “Behind the Mask” のリフはキンクス “You Really Got Me” と同じだったことに後で気がついたと話していて、当時、 “You Really Got Me” のカヴァーで売れまくりだったエディ・ヴァン・ヘイレンが『Thriller』でギターを弾いていたということはなかなかの符合だったとも思う。いずれにしろ坂本龍一はその翌年、 “戦場のメリークリスマス” がベルトルッチの耳にとまって世界に躍り出ることになり、日本では「世界の坂本」として奇妙な立ち位置を占めるようになる。80年代は北野武や村上春樹、川久保玲や安藤忠雄など「世界」に実力を認めさせた日本の文化人を多く輩出していて、なぜか「世界の川久保」とか「世界の村上」とは言われず、その後も「世界の宮崎」とか「世界の草間」もなく、ただ1人坂本龍一だけが「世界」呼ばわりされていた。日本で評価されるということは評価してくれた人の奴隷になると同義で、やがてはその権力を禅譲されるという習慣(家父長制度)がどこまでも染み渡り、若い才能が自由に活動する土壌が整っているとはとても言えないのだけれど、「世界の坂本」がそうした制度の外側で自由に動けたことは大いなる利点であると同時にいったん村の外に出てしまうと日本の村社会には戻りにくいという難点もあった。坂本龍一はそのまま藤田嗣治やオノ・ヨーコのように海外の才能になりきることもありだったという気がするけれど、坂本は日本を愛していると何度も発言し、00年代以降は政治的発言を有効にするために、無意識かもしれないけれど、ダウンタウンとの芸者ガールズだったり、労務者のコスプレをしてTVに出るなど、いわば「足立区のたけし 世界の北野」というパロディと同じ要領で日本の村社会に底辺から出入りする方法を見つけていく(日本人はスゴい才能にひれ伏す気持ちが薄く、どういうわけか素人芸を好むので、圧倒的な才能を実のところは煙たがっていて、自分たちよりも下に見える振る舞いをすれば「親しみやすい」といって受け入れるところが多分にある)。日本の村社会にはそのような抜け道があることを坂本龍一は教えてくれ、そして、そうまでして坂本が日本の才能であり続けてくれたことに感謝すべきではないかと思う。『12』というアルバムを僕は「日本の坂本」として聴きたい。(1月7日記)






















