「Not Waving」と一致するもの

『カタストロフィスト』のかたわらに - ele-king

 10年、いや15年前まではマニアックな音盤を手に入れるなら、幸運を祈るか大枚をはたくしかなかった。発掘音源であれ再発であれ、純粋な新作であっても、極端にリスナーのすくない音盤はリリースされた瞬間から残部僅少で、しかるべき筋にあたるか足で稼ぐしかない。電子音楽や実験音楽、アングラなジャズ、ロック、異形のポップ、カルトスターたちの奇盤、珍盤、廃盤、海賊盤はよくないけども、売り切れは彼らとの永遠の別れを意味し、買おうにも刷り部数が3桁以内なら、プレス工場から好事家の棚に直行するようなものであり、あとはディーラーとコレクターの独壇場、ビギナーにとっては焼け野原である。音楽が骨董あつかいされることへの呪いにちかい批判は本稿後半でおこなうとして、そのまえに、私は本媒体がたちあがって日もあさいころだから、4、5数年前になるが、コラムでフルクサスについて連続して書いたとき、次はヘンリー・フリントかワルテル・マルケッティにしよと思った。思ったまま、放置してしまったのはひとえに私の不徳のいたすところだが、そもそもそう考えたのは、彼らはこの手のひとにしては比較的まとまった数の作品があったからである。

「2004年2月26日、63歳のヴァイオリニストで、作曲家、哲学者、作家のヘンリー・フリントが珍しくラジオ番組に出演した。それは、ラジオ番組の司会者で、詩人、そしてオンライン・アーカイヴのサイトUbuWebの創設者のケニー・G(スムースジャズのスターではない方の)——本名ケネス・ゴールドスミス——のゲスト出演者としてだった」

 デイヴィッド・グラブスは著書『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』の「はじめに」「序章」につづく第1章「ラジオから流れるヘンリー・フリント」をこのように書きおこす。本文はつづけて、この放送を聞き逃したとしても、ご心配にはおよびません。というのも、番組の音源はそこで流した曲のリストとともにUbuWebに3時間におよぶMP3ファイルとしてアップしてあるからだ、とつづく。グラブスにしたがってUbuWebのフリントのページを開くと、いちばん下に番組の音源がのこっており、クリックすると老境にさしかかったフリントの声がいまも聴ける、いつでも聴ける。来年でも再来年も、再来年のつぎをどういうかは知らないが、そこでも、UbuWebが存在し、全面的なコンテンツの見直しでもないかぎり未来永劫聴くことができる。

 つくづくいい時代になった。私だけでなくだれもがそう思うにちがいない。喫茶店や会議室で、ウィットに富んだ会話を交わしながら知らない名称やトピックをPCやスマホで検索する輩にはなおのことそうだろう。もっとも、ひとがしゃべっているときに画面を見るのはおよしなさい。
 ところがこれには注意が必要だ。あなたのいま聴いているフリントのインタヴュー音源はすでに十年前の出来事イベントなのである。
 グラブスは録音物が宿命的に帯びる反復聴取とそこに積もる時間の経過、交換可能な商品としての録音物、それと録音の差異、ひいては音を録る行為そのもの、フィジカルからデジタルにいたるメディア(媒体)の変遷史およびそれが録音物にあたえた(る)影響を、彼のはじめての本で丹念にたどっていく。伴奏者はジョン・ケージ。ケージをめぐる本は地球上に無数にあるが、彼の音楽が内在的に必然的にはらむ問題の系を更新するともにあらたに提起する野心的なとりくみで本書はとりわけ重要である。

 まず、レコードからデジタルへメディアがきりかわり、よりハイファイに音楽を聴く環境が整ったことをグラブスは評価する、これには目をみはった。というのも、私たちはアナログとデジタルではアナログに軍配をあげるのが粋な通人と考えがちだからである。むろん私もその一派で、長年レコードの音のまろやかさと芯の太さこそ音楽を聴く悦びと思い生きていた。グラブスの問題提起を要約するとこうなる。モートン・フェルドマンのような「まばらで抑制的な」しかも長時間およぶ楽曲を再生するには、収録時間が長く原理的にノイズのない再生環境が適している。そのほうが作曲者の意図──を汲んだ演奏者の意図──によりちかい。私たちはフェルドマンをメタリカなみの音量で聴くこともできるし逆もまたしかり。リスナー主導型の聴取スタイルはレコードを歴史と作者の思惑から切り離し、個々人の用途に奉仕する方向へうながしたが、音楽の誕生当時の狙いを精確に再現するには分解能やSN比も視野に入れるべきではないか。「Play Loud」の但し書きのあるレコードはいっぱいあっても「Play Quiet」と書き添えたものはほとんどみない。これはつまり、レコードを聴くとはいうまでもなく「集中的聴取」であるからか、あるいは、音楽は音のおりなす美学であるため、無音ないし微音、雑音は音楽にあたらない。どうも後者である気がしてならない。でなければ、代々木オフサイト、ヴァンデルヴァイサー楽派が21世紀に存在感を示した理由がない。グラブスは本書でおもに20世紀音楽を論じているが、音響以後の2000年代の傾向は1950年代(「4分33秒」の初演は1952年、チュードアの手になる)に端を発し、60年代を通じてテクノロジーとの相関で避けて通れないものになったと言外ににじませている。
 音楽と音はおなじなのかちがうのか、ちがうならどうちがうのか。
 ケージのたてた沈黙の問いを二項対立で解こうとするからおかしなことになる。おなじく音楽と音を峻別し、それぞれに個別にあたるのも無効である。前者を社会学者的(な広く浅い)知見、後者を専門家的(狭く深い)それとするなら、結局どちらも無難にならざるをえない。『別冊ele-king』第4号での岸野雄一の「ケージの理論はケージにしか使えない(中略)ケージの理論を援用して実現された音楽も、ケージの理論を援用して他の音楽を繙こうとした批評も、面白いと思ったものはひとつもない」という発言の行間にはおそらくそのような問題意識が横たわっている。ケージでもベンヤミンでもマクルーハンでもリオタールでもいい、彼らのことばのキャッチーなところだけとりだして見出しでわかった気にならないことだ。そもそもわかるとはなにがわかるのか。わかるとは思考停止のいいかえにすぎないのではないか。私たちは引用を相田みつをめいた手ごろな箴言ととらえるのではなく、自身の文脈にムリに沿わせるのではなく、そこにできた外部の嵌入する裂け目ととらえなければ断片はたやすく情報に堕す。音楽と音も似た関係にあり、両者の截然と区別できず、不断に嵌入し合う状態をケージは作曲であらためて耳に聞こえるものにしたかったのではないか。たとえ沈黙の側についたにしても、沈黙の底から躁がしさが沸きあがってくる、と古井由吉が書きそうな耳のありかた。ケージは鈴木大拙からそれをうけとり、おそらく折衷的なやりかたで彼の作曲の方法の一部とした。

 そんなある日、私はレコード屋でアルバイトしていると午前中で人気のない店内にひとりの女性客があらわれた。レジに立ち慣れると、お客さんがなにを求めやってきたか、年恰好、立ち居ふるまいでわかるようになるのは不思議である。私はああこの妙齢の女性は購入された商品に不備があったんだな、と直感した。眉間のシワがけわしい。案の定、妙齢の女性は陳列棚のCDに目もくれず一直線に私のほうへ歩み寄ってこういった。
「不良品なので交換してください」といって妙齢の女性はCDをさしだした。もうしおくれたが、これは90年代なかごろの話です。Jポップの呼称が定着し猫の杓子もCDを買った音楽業界の方々の夢の時代のことだ。
 わかりました、と私はいった。確認します。といっても、ご覧にとおり、店内にはバイトの私以外、だれもいない。社員と先輩バイトは客がいないのをいいことにウラで一服しているのだろう。音楽に携わる人間はスロースターターなのだ。レジを空けるわけにもいかない。仕方なく私は店内放送用のプレイヤーにCDをいれた。どういった不備でしょうか、と私は訊いた。ノイズが聞こえるんです、と妙齢の女性は答えた。何曲めですか。1曲めです。
 わかりました。かけてみると、ヒップホップに影響を受けたミドルテンポのファンキーなトラックがかっこいいディーヴァもののJポップ(どうしてもだれのCDだったか思い出せない)、90年代はこういった音楽がハシカのごとくはやったが、私と妙齢の女性はそのグルーヴに身じろぎもしない。ありましたでしょ、と妙齢の女性はいう。私はまったくわからない。もう一度頭からかける。30秒も経たず、妙齢の女性はやっぱりありましたね、という。Aメロから先にいけない。何度かけても聞こえるんですよ、と妙齢の女性がぷりぷりするぶん、私はへどもどする。ハードコアやノイズの聴きすぎで耳がバカになったのだろうか、と焦った。もうしわけありませんが、ノイズが聞こえた時点で教えていただけますか、と私はお願いした。3度めにかけるやいなや妙齢の女性は天上のスピーカーを指さした。ここです! その仕草に、私は仏陀が生まれてすぐ天を指して「天上天下唯我独尊」といった姿をかさねてひれふしそうになった。
 ──いわれてみればたしかにそうだ。ノイズである。レコードの針音のサンプリングが数秒間。CDなのにあたかもターンテーブルでかけているような錯覚、というより記号が喚起するものを狙ったプロデュース・ワークであるが、彼女はそれをノイズととらえた。私は彼女に、これはこれこれこういった意図の音楽上の演出なのでほかの商品にもかならずはいっています、と説明しおひきとり願ったが、内心おどろいた。そしてそのおどろきの意味するところは『レコードは風景をだいなしにする』を読むと前と後ではちがったものになった。彼女はCDというノイズのない媒体の特性を前景化し、私は音楽をいわゆる文脈で聴いた。テクノロジーと音楽の歴史がそこで交錯する。どちらが上か下ではない。

 ケージの著書『サイレンス』所収の「無についてのレクチャー」の最後にこうある。「テキサス出身の/女性は言った/テキサスには/音楽がない/テキサスに音楽が/ない理由は/テキサスにレコードがあるから/テキサスにレコードをなくそう/そうすればみんな歌いだす」これは『レコードは風景をだいなしにする』の第5章「テキサスからレコードをなくせ」冒頭に引用されている(引用は同書より)。以上の文の前にケージは以下の文を置いた。

 「中国の青銅製品/なんていいんだろう/だがこの美しい品々は/他人が/作ったものであり/所有欲を/かき立てがちだが/私は自分が何も/所有していないのを/知っている/レコード収集/それは音楽ではない/蓄音機/は楽器ではなく/ひとつの/ものである/ものは別のものにつながるが/楽器は/無に/つながっている(中略)それに/LPレコード/ですら/ものなのだ」(ジョン・ケージ『サイレンス』水声社/p222〜22 引用にあたり約物を省き、アキと改行を「/」であらわした)

 のちにケージみずから「Indeterminacy(不確定性)」にももちいたこの一文がこの本の通奏低音になっていることは火をみるよりあきらかである。くりかえしになるが、グラブスはレコードによる音楽の反復聴取、所有と共有、さらに音楽を録ることそのものに彼の思考は遡行する。レコードと磁気テープ(ハードディスクといいかえてもいい)の差異、プリントと写真機のちがい、あるいはバルトいうところの「プンクトゥム」、映像とそこに映るもの──他分野との類比にはさらにつっこんだ考察も必要だろう(とくにラカンを掠めるのは感心しない)が、リュク・フェラーリ、ベイリーとAMMとコーネリアス・カーデューなどなど、すでに半世紀とはいわないまでもそれほど前の先達の作品から今日的な問題を剔出する語り口は闊達で鋭く、ユーモアも忘れない(荘子の無用の用のくだりなど、わが身につまされました)。グラブスが研究者であるとともに類い稀な音楽家であることの裏書きではあるが、となると、彼が音楽家として身を立てた90年代、とくにポスロック〜音響の季節以後にこれらの問題はさらにどのような変遷を経て現在にいたるのか、彼の考えを読んでみたくなるのは人情というものだろう。それまで、私たちは本書を読み、そこに登場する作品を聴き考える猶予ができる。さいわいなことに専門店で清水の舞台から飛び降りなくともそれらの音楽にふれるためのトバ口に立てるのが21世紀だと、グラブスもいっている。それほどこの本は現在的であり、くりかえすが、きわめて野心的なこころみである。

追記:
と書いたところで、デイヴィッド・グラブスさんが来日されると知りました。やったね! 彼のCDと本を片手にかけつけましょう!


Tortoise - ele-king

 まずジャケットがいい。それはいまのトータスが、トータス以上でも以下でもないことを簡潔に言い当てる合成写真であり、そこには「ポストロックのオリジネイター」なる称賛あるいはレッテルをゆるりと剥がしてしまう絶妙な脱力感と余裕が漂っている。前作からの6年半のブランクの間に僕が何度か観たライヴでも同様で、メンバー5人が楽器を入れ変えつつハイレベルなアンサンブルを構築していく様はもはやたんなる前提であって、方法論自体は少なくともその場では大した問題ではなく、その瞬間に立ち上がる総体としてのトータスこそがすべてだというような説得力があった。何らかのメッセージもわかりやすいカタルシスもないが、ただ音が――緻密なアンサンブルの「結論」ばかりがおもしろいのである。

 ただ、トータスのライヴを観るたびに笑ってしまうのは、『スタンダーズ』収録の“セネカ”をメンバーがステージ前方に並んで手拍子を煽るのだが(いやべつに煽ってないのかもしれないが)、そのリズムが難しくて観客が即座にはついていけない瞬間である。何度か繰り返すうちに手拍子は揃っていくのだが、そうしたパフォーマンス、言い換えれば彼らなりの「サービス」がある種の複雑さだった時期はたぶんにあって、とくにリズムの実験とテクノロジーのより入り組んだ内面化に取り組んでいたゼロ年代のトータスないしはポストロックを、その受容において必要以上に敷居の高いものにしていたようにも思う。たとえばバトルスのようなバンドがゼロ年代後半にその「高度さ」を称賛されはじめたときにこそ、ユーモアを前面に出したことを思い出してもいいかもしれない。そして、トータスのそもそもの魅力とはけっして高度さだけではなかったはずだ。

 結果的には6年半のブランクがいい熟成期間となったのだろうか、『ザ・カタストロフィスト』にはトータスによるトータスに対する気負いはほとんど聞こえてこない。わたしたちはここで襟を正してポストロックをありがたがらなくてもいい。すんなりとジャズの要素が流れ出してくるタイトル・トラックのオープニングからして『TNT』の時代にワープすることができるし、リズムもずいぶんシンプルだ。もちろんバンドの20年に渡る音の冒険の成果はここで繊細に折り重なっているのだろうが、そうしたものがすっと奥に引っ込むような懐の深さがあって、たとえば“ザ・クリアリング・フィルズ”を聴くとミニマルなリズムのなかに奇妙な立体感を持ったダブ処理が聞こえてくるのだが、それ以上に時間間隔と平衡感覚が攪乱されるような陶酔感が心地いい。シンセやギターが柔らかな叙情を醸すメロディ、素朴にも思えるほどすっと流れていくドラミング。先行シングルの“ゲシープ”には彼ららしいクラウトロックに影響された緩やかなグルーヴ感覚があるし、ミニマルと彼らの重要な出自のひとつであるハードコアが奇妙に出会う“シェイク・ハンズ・ウィズ・デンジャー”の理知的な獰猛さにも痺れる。
 2曲のヴォーカル・トラックも現在のバンドの軽やかな姿勢が表れているのだろう。デイヴィッド・エセックス“ロック・オン”のカヴァーにおける思いがけないファンクと色気、そしてヨ・ラ・テンゴのジョージア・ハブレイがマイクを取る“ヤンダー・ブルー”のメロウなチルアウト……。メランコリックなラスト2曲へとアルバムが向かうときには、ただただそこに流れる緩やかな時間に身を任せることができる。

 すなわちそれこそがトータスらしさだと言えるだろう。トータスはおよそロックが持っていた大仰な意味性を解体したが、トータスそのものに強い意味、ある種の信仰を与えられつつあったいまだからこそ、それ自体を知的に異化してみせている。90年代のトータスを聴くときのように、リラックスしてここに何の物語性を見出さなくてもいい。ややこしい方程式を手放してもいい。トータスの音の結論にこそ没入することのできる、20年越しの見事な解がここにはある。

KANYE WEST × KENDRICK LAMER - ele-king

 カニエ・ウェストがサウンドクラウド・ページに、ケンドリック・ラマーとの初コラボレーション曲、“NO MORE PARTIES IN L.A.”を公開した。英紙『ガーディアン』によれば、サンプリングの元ネタは、ジュニー・モリソンの“Suzie Thundertussy”。また同紙には、曲中のケンドリック・ラマーが歌うリリックが抜粋されている。

“Liquor pouring and niggas swarming your section with erection / Smoke in every direction, middle finger pedestrians / R&B singers and lesbians, rappers and managers / Music and iPhone cameras.”
KANYE WEST×KENDRICK LAMER – “NO MORE PARTIES IN L.A.”

 なお、カニエ・ウエストは2月11日にニュー・アルバム『Swish』のリリースを控えている。



Isolde Touch - ele-king

 実験の旗色が悪いのか。前衛は死んだのか。あの死なないはずの、もしくは何度も死んでも蘇生したはずのピエール・ブーレーズも死んでしまった。前衛音楽も、実験音楽も、とうの昔に20世紀のフォルダに入れられてしまってわけで、マニアの蒐集欲を満たすブツ=盤としてフェティッシュな欲望の対象になってしまったのだろうか。むろんこれはこれで悪くない倒錯だ。私も大好きな倒錯である。

 では、実験音楽も前衛音楽も死んだ、というかゾンビ化した21世紀において、音楽における実験的な試みそのものも無効化したというのだろうか? いや、そうではないだろう。そもそも音楽とは終わることなき音の実験ではないか。20世紀が終わっても音楽が音楽である限り実験は終わらない。実験とは生の証である。ならば、もっとカジュアルに、もっとクールに、もっとモダンに、もっとモードに、音の実験をすればいい。モダン・モード・エクスペリメンタル。

 そして昨今の音楽的潮流において、そのようなモダンでモードなエクスペリメンタル・ミュージックは極めて重要な存在になっている。ベルギーの実験音楽/サウンド・アート・レーベル〈アントラクト(Entr’acte)〉はその代表格だろう。〈アントラクト〉はグラフィック・デザイナーでもあるアロン・ケイ(Allon Kaye)が主宰するレーベルで00年代から活動を続けている。もはや中堅といってもいいレーベル・キャリアだが、白地+色の新しいアートワーク・フォーマットやヴォイナル・リリースなどを導入して以降は、ノイジーな実験音楽のクラブ的展開という新しい領域へとその活動を拡張しつつある。じじつ、昨年リリースした、イマジナリー・フォーシズ(Imaginary Forces)、ガイ・バーキン&サン・ハマー(Guy Birkin & Sun Hammer)、カイル・ブラックマン(Kyle Bruckmann)などのアルバムは、エクスペリメンタルとロウなテクノをリンクさせた素晴らしいアルバムであった。

 そんな〈アントラクト〉から、イゾルデ・タッチの新作がリリースされた。彼女は南カルフォルニアを拠点として活動をしているアーティストである。イゾルデ・タッチ名義では〈ファーザー・レコード(Further Records)〉からアルバムを発表しており、本作は2作めに当たる。また本名アーシャ・セシャドリ(Asha Sheshadr)名義では、〈グリッド・コンプレックス(Gryd Complex)〉や〈ジギタリス(Digitalis Limited)〉などから作品をリリースしている。

 この〈アントラクト〉という、いまもっとも重要なエクスペ・レーベルからのリリースは彼女に大きな飛躍をもたらすのではないかと思う。じじつ本作はとてもユニークな作品に仕上がっているのだ。どの楽曲も、霞んだ音ならではの、美しくも儚い美が生成されている。アルバム1曲め“スタンダード・デヴィエーション(Standard Deviation)”から、その美的感覚は十分に表出している。クラシカルなピアノのループに、硬い電子ノイズに、ダブィなベース、キックの音、彼女自身と思われる声が、真っ白な空間に漂流する粒子のように交錯していくのだ。

 個人的には2曲め“パセティック・マシン(Pathetic Machine)”、3曲め“スカルペルス(Scalpels)”、4曲め“PVCバーン(PVC Burn)”などに聴かれるビートの音色=テクスチャーに注目したい。柔らかい声の層に、崩れ落ちていくかのようなインダストリアル・ビートが融合し、崩壊直前の美を聴き手に与えてくれるのだ。この感覚は極めて独特である。
 また、どの楽曲においても(彼女の)「声」と「ノイズ」によって極めて独特なアンビエント/アンビエンスな感覚が生成している点も重要だ。この宗教歌曲的/賛美歌的ともいえるクラシカルなアンビエンスは、2010年代以降のドローン/アンビエントを経由した新世代ならではの響きではないかと思う。私見だが、カラリス・カヴァデール(KARA-LIS COVERDALE)のアンビエント作品との近似性も感じられた。

 それにしても2015年において、〈アントラクト〉はついに頭ひとつ上に突き抜けた。ノイジーなサウンドを伴ったエクスペリメンタル・ミュージックでありながら崩壊したようなテクノ・ビートやループも混入されており、00年代の電子音響や10年代初頭のインダストリアル/テクノ「以降」を感じさせる作品を多数リリースしたのだ。とても新しく、モダンなレーベルへと刷新したように思えてならない。
 新年早々〈アントラクト〉のサイトでは、2016年最初のカタログがアナウンスされていた。主宰アロン・ケイの審美眼(耳)はますます冴え渡っているといっていい。今年も刺激的で、クールで、エクスペリメンタルで、モダン/モードな作品をリリースしてくれることだろう。

Jesse Ruins - ele-king

 インディ・シーン、ひいてはクラブ・シーンでも世界的にその存在感を強く示しているバンドJesse Ruins。彼ら新曲とリミックスの合計6曲をコンパイルした『EVE』が3月11日に発売される予定だ。フォーマットは12インチ(枚数限定)とバンドキャンプでのデータ配信になる模様。
 ダイナミックでときに抑制されたリズムと、緻密にコントロールされた数多の音から最後まで目が離せない。目隠しの状態で聴けば、この音楽がベルリンで、またはNYアンダーグラウンドで生まれたと思うリスナーもいるだろう。どんなシーンにもコネクトできる可能性を内包しつつも、実態が掴めないサウンド。実にJesse Ruinsらしい1枚だ。
 リミキサー陣には〈1080P〉などのカセットテープ・レーベルからリリースしているTlaotlon、東京若手テクノ・コミュニティIN HAにも所属するRafto、謎のルーキー・デュオSuburban Musikらが参加。幽玄でロウなテクノ・サウンドから、ときにダビーな側面も噴出する個性溢れたリミックスに仕上がっている。できることならターンテーブルを使い、心して向き合いたい6曲だ。

Jesse Ruins - EVE – Teaser

Jesse Ruins
“EVE”

税込定価 2500円
<収録曲>
A side
1, Eve Liquid
2, Wet King
3, Mineral

B side
1, Mineral (Tlaotlon Remix)
2, Mineral (Rafto Remix)
3, Eat A Holy Monitor (Suburban Musik -Suburban Boys RMX)

予約受付はこちらで受付中
Jesse Ruins Bandcamp
MAGNIPH store

Jesse Ruins
https://jesseruins.com/

 朝一番に知人から届いた携帯メールでボウイの死を知った。起き抜けの寝ぼけ頭ということもあって最初は「ネット発のデマでは?」との疑惑の方が大きかったし、たまたま最新作『★』を前日に聴いていたタイミングということもあって余計に信じ難い。しかしBBC他のニュース・サイトを複数確認していくうちに徐々にリアリティが浸透し始め、それに伴いショックも少しずつ心に広がっていった。

 諸メディアに関連報道が次々にアップデートされ、セレブのトウィートはもちろん英首相デイヴィッド・キャメロンが定例記者会見の場で追悼の意を表し、現在現カンタベリー大主教までボウイ・ファンだったことを告白(!)。国際宇宙ステーションに乗船した初の英国人宇宙飛行士ティム・ピークからも追悼メッセージが届いた(ティムではなく「トム」だったら最高だったな)。ベルリン、ロンドンのブリクストン、とボウイゆかりの地にファンが花束を捧げ始めた映像に続き、夜が明けて彼の終の住処となったニューヨークのアパート前にも人びとが集い出した。朝刊にこそ間に合わなかったものの、第一陣を切ったロンドンの夕刊紙『Evening Standard』追悼号が街頭に溢れ出し……といった具合だったが、1月11日は「まさか」「何かの間違いでは」と、どこかキツネにつままれたような思いで過ぎていった気がする。

 その思いは多くの人びとも共有していたようで、テレビ(定時ニュース番組でのトップ報道を筆頭に、BBCやChannel 4は番組編成を変更して追悼特番やアーカイヴ番組を放映)やラジオをチェックしていても「信じられない」の声はよく耳にした。2003年の発作以降ツアー活動は停止、イベントのサプライズ・ゲストや他アクト作品への客演他こそあったものの00年代半ばから10年代始めにかけて彼が公けの場に滅多に登場しなくなり、「ロック界のグレタ・ガルボ」〜半ば隠遁者のエニグマと化していったのはよく知られている。今にして思えばそれすらもこのフィナーレを視野に入れた「終わりへの準備」だったように映るし、創作面の最後のメイン・パートナー役だったトニー・ヴィスコンティも彼の死を「これまでの彼の人生同様、芸術作品だった」と評している。が、当時の自分はむしろボウイの尊敬するマルセル・デュシャンが絵筆とキャンバスを捨てて「網膜芸術ではなく、観念としての芸術」を生き方において実践したように、「これも彼流の『不在』パフォーマンスであり、自己神話作りのひとつなのだろうな」と認識していた。

 というのも:面白いことに、この時期の彼のメディア・プロファイルはレコーディング・アーティスト/パフォーマーとしてアクティヴだった90年代よりも逆に大きかったからだ。「もっとも影響力の強いアーティスト」「ロック名盤」他の各種リストはもちろん、イギリスのヘリテージ・ロック雑誌界隈では手を替え品を替え「The Dame」(=デイムはイギリスのパントマイム劇で伝統的に男性が女装で演じるキャンプな中年女性の役柄で、ジョークと愛情を込めてボウイをこう呼ぶ人間は英音楽メディアに多い)を表紙特集に引っ張り出していた。2012ロンドン・オリンピックの非公式アンセムとして“Heroes”が繰り返し使われ、感動の波で人心を包んだのも記憶に新しい。2000年に行われたBBCとの取材でボウイが「インターネットは人間の生活を変える!」と、いささかネットに懐疑的な面持ちのインタヴュアー(ボウイよりも年下の著名ジャーナリスト)にアツく断言してみせる場面があるのだが、こうしたアート・テクノロジー・メディア・社会に関する先見性は不在時ですら彼の存在を様々な場で感知させることになった、と言える。

 その沈黙〜潜伏状況は、2013年に突如発表され人びとの度肝を抜いた前作『The Next Day』で変化した。とはいえ、同作に寄せられた賞賛には「老醜をさらさないボウイ」への祝福・感嘆・憧れも多分に含まれていたように思う。同作の音楽的なクオリティや知的でコンテンポラリーなコンセプトはもちろんだが、彼とほぼ同期のシルヴァー世代ロッカーの多くのように禿げも肥りもせず/あるいは年輪が刻まれ過ぎてフリーキーになることもない彼の久々のイメージは「ボウイ健在!」を刻み付け、ファンの期待をみごとに裏切らなかった。『★』発表時の(おそらく最後とされる)公式プロモ写真にしても、特有のニカッとした笑顔の若々しさとバロウズやレナード・コーエンを思わせるフェドーラ+スーツ姿は実にスタイリッシュで「さすが」と思わされた。

 これはまあ、「あまりに浅い、年齢差別な発想」と笑われても仕方ない意見なのかもしれない。が、3年前にヴィクトリア&アルバート博物館が企画した『David Bowie Is』と題された展示(コスチューム、メモリアル・グッズ等の私蔵コレクションの回顧展)がV&Aのチケット販売歴代記録を破る大ヒットになったように、音楽だけではなくイメージとスタイルの変遷を繰り広げ、現中年〜熟年層世代のファッション観に多くの影響を与えたアイコンに①気楽なジャージ+Tシャツ姿、あるいは②(アーティであれブリングであれ)頑張り過ぎな高級ブランド服を着られたら──やっぱりがっかりするだろう。イメージの重要さを知り尽くしていた彼は、最期までセルフ・イメージを維持し切ったことになる。

 もちろん我々に「オフ」でのボウイを見るチャンスはなかったとはいえ(実は自宅ではユルくビーサンとか履いていたんじゃないか? とも思うけど)、アルバムや銀幕を通じボウイがクリエイトしてみせた(あるいはクリエイターたちが彼に投影した)「異星人」「アンドロジニー」「人獣ミュータント」「吸血鬼」「魔王」等々のペルソナはアザーズ/ミスフィッツ/アウトサイダーの言い換えであり、そこには常に人知を越えた一種の神秘性〜肉体という限界を超越し、(驕ることなく)あざ笑いうっちゃり、かぶいてみせる「スーパー・ヒューマン」の魅力が漂っていた。たとえば昨今人気の高いイギリス俳優にしても、ベネディクト・カンバーバッチ、エディ・レドメイン、トム・ヒドルストン等、表=よく見えるとフリーク気味なマスク、裏=お茶目な素顔のコンビネーションがメインストリームに台頭しているのは、彼らの登場をはるか昔に地ならししたボウイDNA効果のひとつの顕われじゃないか?と。

 そんな風にボウイが全キャリアを通じて体現してみせたと言える「不可能を可能にする在り方」は、ファンである一般人にとっての憧れ・夢でもあった。もちろん自分のような凡人にボウイのような不老の秘訣は持ち合わせがないし、逆立ちしたって真似るのは無理と重々承知している。しかし、彼のようなスーパーな人間──それはロック界に限らずスポーツでも映画界でも、突出して秀でた人物のすべてに当てはまるが──が存在することそのものが自分の潜在意識の中で生に対するポジな励み、あるいは目標として「支え」になっていたとは思う。テレビで某コメンテーターが「私たちは導いてくれる『灯り』を失ってしまった」と語ったのはなるほど納得で、彼がインスパイアしたと言っても過言ではないパンク/ポストパンク/ニューウェイヴ/ニュー・ロマンティクス/シンセ・ポップ/ゴス〜ひいては若いアート・ロック勢は言うまでもなく、60年代UKロック黄金時代に間に合わず、混沌とした世界に迷い、疎外感を抱えていた世代のイギリスの子供や若者たちにポップを通じて未来やポスト・モダンの感性を浸透させ、進化を続けたボウイは、やはりリーダーでありアイコンだった。

 しかし何よりも素晴らしいのは、仮に「ボウイ」の名の下に人びとが集まれば、そこにはグラム・マニアからソウル好き、クラウト・ロック愛好家にプログレ人、ディスコ・ダンサーにインダストリアル・ロッカー、現代芸術家にファッショニスタ等々、種々雑多なサブカル・トライブと年代と性とが混じり合う図を容易に想像できる点だ。ミスフィッツによる「影の集団」と呼んでもいいだろうし、こうした「はみだしっ子の連携」はロバート・スミスやモリッシー、スウェードにジャーヴィス・コッカー、マドンナ〜レディ・ガガらのレゾンデートルにまで引き継がれている系譜とはいえ、ここまで長くアウトサイダーたちに心の拠り所を提供し続け、アクセス・ポイントを幅広く多く持つアーティストというのは──やはりボウイ以外にいないのではないだろうか。

 グラム好きなイギリス人の知人は、悲しみにくれて「まだ起きるべきじゃなかった、早過ぎる死。ひとつの時代が終わった」と話していた。それは、既にマーク・ボランを失っている彼にとっていよいよ本当に青春期が終焉したという意味なのだろうし、先に書いたように我々の心を見えないどこかで支えている(今風の「セレブ」ではなく真の意味での)「スター」の消失は、これからイギリスの深層心理にどんな影響を及ぼすだろう?と懸念すらしてしまう。彼のようなスーパー・ヒューマンですら、やはり死神がドアをノックするのを食い止めることはできなかったわけで。

 もっとも、ボウイの輝きに免疫がある人びとはいくらでもいる。1月12日早朝にスーパーに買い物に行き、大手新聞の朝刊一面をすべからく飾ったボウイのポートレートを眺めていたところ、たまにすれ違い会釈する間柄の近所のおっさん(たぶん50代)が新聞を掴みがてら「もう(ボウイ報道は)たくさんだよなぁ」と苦笑気味に話しかけてきた。なーる、イギリス人の誰もがボウイに感電したわけではなかったのね……と自らの近視ぶりを認識したのだが、この人と同じ世代の音楽好きの友だちも、意外や訃報に対するリアクションが冷たいのには驚いた。のだが、これは彼のアンチ・コマーシャリズムで硬派な元パンクスとしてのつっぱった姿勢ゆえだった模様(翌日、わざわざ「昨日は言い過ぎた、ごめん」と謝りの電話をかけてきた)。ジェンダー・ベンディングを始めとするボウイの危険分子としての存在感や厭世型のアポカリプス思想が苦手なもうちょい上の世代は、ディランやポール、ミックやニール・ヤングの伝統性や団結志向にアイデンティファイしている。若い子にいたっては、「ボウイ、Who?」な反応の方がむしろ普通だろう。

 ゆえに自分があれこれ心配する必要はないのだろうし、時間は刻々と過ぎ、新たなニュースも続々寄せている。この拙文のタイトルはアフォリズムを得意としたデュシャンの墓碑銘にちなんでいるのだが、ファンへの最後の贈り物として新作アルバムを発表し、「飛ぶ鳥後を濁さず」とばかりに実にさりげなくスマートに逝ってしまったボウイもまた、どこかデュシャンのように自らの死を客観視できる、一時的に地球を訪れた「Visitor」のひとりだったのかもしれない。というわけで、世界は前に進み続けている。が、うざったいのを承知で書かせてもらうと──イギリスのコンシャスな音楽好きにとって、ボウイの死はおそらくジョン・ピールの死(2004年)と同じレベルのショックと余波とを残していくだろう。かたやBBC=公共放送の場でラディカルな/他局ではオミットされる/アンダーグラウンドな音楽を情熱と共に紹介し続けた怪傑、かたやトレンドを嗅ぎながら独自のひねりを添えてマス・マーケットに提示できるスター・マイスター……とキャラクターは違うものの、英音楽カルチャーの織地における信頼できるナビゲーターがまたひとつ消えたのは間違いない。

 こうしたハブの遺失がすべてマイナスというわけではなく、ジョン・ピールの志しを継ぐ存在と言える音楽専門ラジオ局=BBC6は今も元気で意欲的なプログラムを組んでいるし、ボウイが早いうちから積極的に取り組んでいたネットはいまや最大の音楽発信源/リスニング・ポータル/発見ツールとしてアクティヴに進化している。優れたミュージシャンや音楽はこれからも生まれ続けるだろう。だが、今の自分の中にどこか、広い海と長く続く砂浜にひとり取り残された子供のような頼りない感覚があるのもまた、確かだ。

 擬装チェンバー・ポップの傑作『Ansiktet』(Inpartmaint)以後、ピアノ・カルテットを結成し、このところ弦楽曲に注力してきた渡邊琢磨(akaコンボピアノ)が、本媒体でも何度かとりあげた気鋭の映像作家、牧野貴とタッグを組み、「Origin Of The Dream(夢の起源)」と題した音と映像によるステージを渋谷WWWで初演する。具体的なイメージを重層化し、縦横無尽に運動させる牧野の映像と、古今東西の弦楽曲の批評的乗り越えを目する渡邊琢磨のスコアにもとづく13台の弦楽器の52本のストリングスが織りなすドラマの交錯は、逃れることのできないほど官能的な、夢の起源(Origin Of The Dreams)を思わせる舞台になることうけあいです!


写真:Yasuhiro Koyama


写真:Ryo MItamura

渡邊琢磨 × 牧野貴 Live Concert
'Origin Of The Dreams'

2016年3月17日(木) 
渋谷WWW
開場20:00/開演20:30
 
映像:牧野貴
音楽:渡邊琢磨

Piano,Conduct : 渡邊琢磨
1st Violin : 梶谷裕子、大嶋世菜、高橋暁
2nd Violin : 須原杏、帆足彩、波多野敦子
Viola : 中島久美、中山綾、河村泉
Cello : 徳澤青弦、橋本歩
Double Bass : 鈴木正人、千葉広樹
 
料金:3,300円(全席自由/ドリンク代別)
会場:渋谷WWW
住所:東京都渋谷区宇田川町13-17 ライズビル地下
アクセス:https://www-shibuya.jp/access/
お問い合わせ:WWW 03-5458-7685
チケット購入ページURL(パソコン/スマートフォン/携帯共通)
https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002179310P0030001

牧野貴(映画作家)
2001年日大芸術学部映画学科撮影・現像コース卒業後、単独で渡英、ブラザーズ・クエイに師事する。2002年よりテレシネ・カラーリストとして多くの劇映画、ミュージックビデオ、CF、アーカイブの色彩調整を担当する傍ら、2004年より単独上映会を開始する。フィルム、ヴィデオを駆使した、実験的要素の極めて高い、濃密な抽象性を持ちながらも、鑑賞者に物語を感じさせる有機的な映画を制作している。また、ジム・オルーク、ローレンス・イングリッシュ、コリーン、マシネファブリーク、大友良英、山本精一、渡邊琢磨、カール・ストーン、タラ・ジェイン・オニール、イ・オッキョン等の前衛音楽家と共同作業においても、世界的に高い評価を獲得している。2009年には上映組織「+」プラスを立ち上げ、今まで日本に紹介される事の無かった映画作品を多数上映している。2011年よりエクスパンデッドシネマプロジェクトを開始、ヨーロッパ、北米、南米、オーストラリア、アジア等数多くの国際映画祭で受賞、上映多数。作品の発表は主に映画祭、映像芸術祭、音楽祭などの他、映画館、美術館やギャラリー、ライブハウスでも行い、その活躍の場は増幅を続けている。現代日本実験映像界を率先する作家である。https://makinotakashi.net/

渡邊琢磨(作曲、ピアノ)
97年、米バークリー音楽大学で作曲を学ぶ。帰国後、「COMBOPIANO」名義で活動を開始。2000年、NYに渡り鬼才プロデューサー、キップ・ハンラハンとの共同制作でアルバムを次々とリリースし注目を集める(英、音楽専門誌「WIRE」などに取上げられる)以降、国内外のアーティストと多岐に渡り音楽制作活動を行う。2004年、内田也哉子、鈴木正人(little Creatures)と、「sighboat」を結成(サマーソニック'10出演ほか)。2007年、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアー18カ国30公演にピアニストとして参加。2008年、内橋和久(gt)、千住宗臣(ds)とCOMBOPIANOをバンドとして再編(フジロックフェスティバル'09出演ほか)2014年、本人名義としては6年ぶりとなるアルバム『Ansiktet』をリリース。同年、本人主宰による室内楽アンサンブル「Piano Quintet」を結成(アラバキロックフェスティバル'15出演ほか)映画音楽、CM、舞台等、多岐に渡り楽曲制作・提供する。https://www.takumawatanabe.com/


 

都築響一×平井玄 - ele-king

 正直、東京(ま、西側っすね)に30年以上住んでいても、いまだに東京人というアインディティティを持てないんですよね。まったくピンと来ない。で、ぼく(=野田)のように、たまたま仕方なくここに住んでいる人が、ぼくのまわりには多い。家賃は高いし、次から次へと再開発されるし、味気ない街ばかりだし、クラブも中心地ばっかだし、歩くの早いし、自動車うるさいし、恐いし、世界のいくつかに都市を見てきたけれど、これほどコミュニティが形成しづらい都市もなかなかないと思う。大声で「東京」っていうのが、いまだに違和感があるっす。
 御大、都築響一と平井玄が「東京」をめぐって対談する。果たして「リアルな東京」とはどこか?

1月22日(金)19時開場/19時30分開始
第3回「街から」トークライヴ
TOKYO 右なのか? 左なのか?
都築響一と平井玄が首都の臍の下、新宿二丁目でガチンコ対決する!

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入場無料(但しワンドリンクオーダー)投げ銭制
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「マスコミが垂れ流す美しき日本空間のイメージで、なにも知らない外国人を騙すのはもうやめにしましょう」(『TOKYO STYLE』)と言ってデビューした都築響一。麴町育ちの彼は20年を経て『東京右半分』をものした。隅田川西岸しか知らない平井玄は、去年『ぐにゃり東京』で「神は街の底に宿る」とのたまわった。垂れ流しの怪しいオリンピックが迫る
東京の「リアル」は右か、左か。はたまた・・・・・どこに?
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主催:街からトークライブ実行委員会 03-6638-6685
「街から」誌:https://www.machikara.net/

https://cafelavanderia.blogspot.jp


星から零した水たまりの話 【前段】 - ele-king

 何時ごろだったんだろう。おぼえが凪いでは遠くけだるげに薄靄へとまぎれこみ、ぼくはといえばおおかた放心していた。おどろくほど菫がかった濃い空にも、次第しだいに暗がりが満ちてくる頃合いではあったのだけれど。時計で時刻をたしかめるたんびに吐息のような軽い失望。刻限なんですって、でもなんの? かならずしも視界は良くない。墨版ヲ抜イタノハ誰カ? やがてはついえ、なんにもかにもなくなってしまうよりかはほんの、ほんに少ぅしだけ手前、市営バスなら停留所から次のんまでのちょっきり真ん中らへん。うろついてた猫が流し目くれながらわざとらしく目の前を横切り、ラジオはありきたりな軽音楽を鳴らしていた。不思議なほど眠くはなかった。ねむたくないのならでも、ただただ、だからこそ、いつもながらの夕くれどきだった。
 と、音楽が不自然にやや遠のいて、雑音ともなんとも、だけどさっきまでのジョッキーとはあきらかにちがう、なんだよ、これ。胸騒ぎよろしくときめいては、壊れた信号機さながら三原色に瞬く電波に乗って、揺れながらもなお近づいてくるなんて。囁くような波動のこれって「こえ」? 

  子どもたちを 夢中にさせて
  子どもたちを、めざめさせて
  子どもたちみんなに ブギーを

 たったの一度っきりしかない恩寵というものがある。あとにも先にも二度とはおこりえない。ただいっぺんこっきりの僥倖。
 ぼくにもそれは訪れた。
 テレビから来た。え、TV? そうテレビ! 木枯らしモンローや無用の介あたりを最後に殆ど省みられることもなくなっていたブラウン管。ウルトラQもプリズナーNo.6もゲバゲバ90分もとっくに終わってしまってて、腐った夕方の奇妙な吹き替え洋画(J・ロージーBOOM! 『昼顔』、エリオ・ペトリ!)か再放送のマグマ大使(お母さんが人間モドキに! だのに江木俊夫は三色ロッテの半ズボン!)あるいは記憶もいくらか前後してるか。
 でもその、陳腐化はなはだしかったはずの四角い箱から、うそじゃないけどうそみたいな、そいつは、ほんとうに来たんだ。
 1980 Floor Show。
 ビデオなんてあるわけない。大急ぎで受像機の前に、でっかいテープレコーダーを据えてテレビのボリュームをあげる。ジャックなんか差し込んじゃったらこんどは音がきこえないだろう。日本全国でこの夜、いったいどれだけたくさんの少年少女が同じように、つかわないコンセントをこっそり抜いて、レコーダーに付け変えてしまっていたことか。人差し指を口の前に立てて「いいからあっち行っとけってば」騒ぎたて煩い弟や妹を遠ざける、シーってあんた、“China Girl”なんかまだ2年は先だよ。
 なんとも幼稚な、ぶざまで、おまけに、なんてイノセントな15才。どんなにロックに飢えていたろう。なんと渇き、餓えていたことか。
 その前年には神戸に、船で(!)来日したボウイのライヴにも行っているというのに。因果にも疑り深い日本人は、でも目が悪いのと、巨大ホールでの演出に疎外感というより、周囲の観客の目が気になってたのかも。慣れてないから。すべて想いおこせばJUN ROPEのCMが入っていたよなあ。国営放送とおもいこんでいたのはきっと“Starman”のせいだ。大阪でNHKは2チャン(ネル)だったから。

♭ たまらなく 誰かに知らせたくなって 
   電話したんだ 知らせなきゃってね
   遠いけど ほら、きこえるよね?
   TVにだって映ってるじゃないか! 
   チャンネルは2だ 回してごらん
   窓からだって見えてる あれって?
   あの光が「彼」だよね もしか
   ぼくらが合図したら 来たりしてね
   この地上に? まさか でも 
   パパたちにはないしょだよ だって
   バレたらぼくら さらわれちゃうかも
   (連れてって欲しいくせに……!)
  

 「1980 Floor Show」を見たのは家のテレビでだった。ほんとうに偶然だった。生放送だったのかって、あんたね、文脈読み違えるのもたいがいにしておくれでないかって、李礼仙かっちゅうねん。だれが少女仮面やねん、だれが薪能で大鶴義丹やねん。“All You Need Is Love”ちゃうちゅうねん。

 やれ魂が揺サブラレただの、あたまの中心までズドンって撃ちこまれたみたいだったのって、けっして、そう、けっして、
 誓ってそんな、なまやさしいものではなかった。
 使い古され、たとえ究極の名言ではあっても最近、使用過多かもしれなくてもやはり、言明する義務はある。すなわち、
 マルクスのいう「命がけの飛躍」がそこにはあった。
 すくなくともあの日、「あれ」を見た瞬間からわたしは、後戻りすることなどできなくなってしまったのだ。厳然たる事実だ。然るにこのていたらく……なのかもしれない。反省なんか…、いや反省くらいふつうにいくらでもするし、ただ、再び同じ繰り返しが訪れたら躊躇無くまた、おんなじ轍を必ず踏んでやる、というだけだ。ミック・ロンソン(死んでる)のソロでボウイ(死んじゃいました)が歌った“Like A Rolling Stone”聞いてるか。かつて間章(死んだ)はパリの本屋の店先で、モーリス・ブランショ(故人)の新刊の題名が「友愛」なのを見て、人目もはばからず街中で泣いた。ぼくだってめっきり涙を流さなくなって久しいけど、いや泣くのはECDに譲るとしよう。わたしには別の主題がある。とうてい一代では終われないし終わるつもりもない。1回だけで追悼しきれるものではない。
 誰にとって? ぼくに、わたしに、ボウイに、オレに、やつがれに、拙者に、自分に、みどもに、おいらに、ミーに、ハルミにとって、ああ。
 絶対に「決定的」で、だからこそ……、
 じじつぼくはいまだに、打ちのめされたそっから一歩も、立ち直れてさえいない。

 さて、年寄りになればなるほど懐古趣味高じては時代環境も背景も顧みずに、昔日を美化しては頑固に言い張り言い募る傾向が、ある。あるね、じつによく。とはいえこの「1980 Floor Show」のビデオも売ってたけど。買って、そして見たけど。
 それで?
 おまえな、『迫力ありますね』とか心にもないこと言うなや。あほにおもわれるで。ええ? オレが傷ついたりするかいな、知ってるか? KINKI KIDSの“硝子の少年”って、ゲイやらオカマに人気あんの。むろんのこと時間などあるはずもないし、猶予などあろうはずもない。お金はどうだろうか、わからない。
 ぼくには、ついにわきまえられそうにもない。「どうしてモロッコ行きを繰り返すんですか?」ときいてくる人までいる。つまり、この2016年にデヴィッド・ボウイを、ぼくが追悼することは、かつてのぼくがある種の、へんな嫌われかたをしたのはなぜか、というのに通底はするにちがいない。
 それは「かっこいい」と「かっこわるい」
の二元論、姫と坊主、美女と野獣…ではなしに、いいやそれだけじゃない以上、次回に回そう。それにしたって、
 もしもわたしが死んだら、そしてお葬式まで出すことになったとしたら、まずはAlladine Saneで、出迎えて欲しい。それといまひとつ、“Time”の中の「We Should Be On By Now」について、
 「わたしたちは 間に合ってっているはずだのに」と、
 それと、Ryco盤CDの『LOW』のボーナス最後の「サウンドアンドヴィジョン」途中からのノイズが、空襲に聞こえるのはわたしだけ?

 京都にいたんだ。
 だいたい現代音楽家が不摂生だからこんな羽目に陥るんだ。ピエール・ブーレーズがあとさきも考えずよりによって正月明けなんかに死んじまうもんだから。知らんぷり決めこもうにも、ふくれっつらした切手貼る用のスポンジが水を含んでなきゃ意味を為しえないようにね。言い過ぎだわ、いくつだって思ってるの? かくてそんなようにして、体内に蓄電されすぎた真冬の人の手が、深い毛のふさふさした猫をなぜたりなんかしたら。電気掃除機のでっかくて意味のわからない、ほんのちょっぴり触れるだけで、わざとらしくぱちぱちとはぜる。そうよそれ。静電気が摩擦熱のあおりくらって、おかげで狂った予定の歯車は留めゴムが一方的に勝手にのび、のびのびとエントロピーの羽根をひろげはじめてしまう。空腹なのに繕いごとに余念がなくなってしまっては間にあわない。しっちゃかめっちゃかな徹夜続きのまま新幹線に飛び乗るのがやっとというこんなありさまじゃねぇ。掛けた目覚ましに跳ね起きて眠たい目をこすりながら、五条烏丸にほど近いゲストハウスまで。なんて立派な2階建ての、木造のでもしんしんとなんて冷えるのかしら。昼の日なかからひたひたと飲み続けたあげく22時もまわって京阪の駅地下にあるクラブ「メトロ」に。31才で夭逝したアシッド・フォーク歌手(山田仁というらしい)の没後十年記念オールナイトのギグ。友川(カズキ)さんと……。

 以下、後段に続く

文:山崎春美

LUSH - ele-king

 ジーザス&メリー・チェインから始まり、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、チャプターハウス、スワーヴドライヴァー、スロウダイヴ、ライドら、甘いメロディと壁のような轟音ギターの波とともに80年代末〜90年代頭を駆け抜けたUKバンドの再結成が相次ぐなか(ele-king的に言うところの「UKオヤジロックの逆襲」ですね)、かつてのシューゲイザー界隈(ハッピー・ヴァレーでもテムズ・ヴァレーでもいいけれど、いまや誰もそんなふうに呼ばない……)においてもっとも華々しい輝きを放っていたバンド、ラッシュがついに再始動した。

 当時「あなたミキ派? それともエマ派?」なんて浮かれた議論が飛び交うほどにスペシャルなスター性を備えていたフロントの女性ふたり、赤髪のミキ・ベレーニ(ギター&ヴォーカル)と黒髪のエマ・アンダーソン(ギター&ヴォーカル)。音楽性云々よりも彼女たちの立ち振る舞いに異様なまでの注目が集まっていたのは懐かしくもうなずける話だが、そんな輝きとは対照的に、97年に起きたクリス・アクランド(ドラム)の自殺という何とも悲劇的で後味の悪い事件を後にシーンから静かに去っていったラッシュ。その後、フィル・キング(ベース)はメリー・チェインに加入。エマはリサ・オニールをヴォーカルに迎えたユニット=シング・シング(筆者は運良くエマと連絡を取り、数少ない彼女たちのライヴをロンドンで目撃しているがもちろん最高だった!)を結成し、フレッシュなギター&エレポップを聞かせる2枚のアルバムを残すもすでに解散。そして、ミキはいくつかの作品にゲスト参加していたものの、その後、雑誌の編集者として働くなどしてほぼ音楽シーンから離れてしまっていた。そんなこともあり、ラッシュだけは再結成とは縁のない存在だと思ってある意味ほっとしていたのだが……世のなか何がどうなるかわからない。

 そんな折に古巣〈4AD〉からリリースされたのが、彼女たちの歩みを完全網羅したこの5CDボックス・セットだ。デビュー・ミニ・アルバム『スカー』のアートワークをあしらった豪華ブック仕様のゴージャスな装丁から香る、美しい歪みとデカダンスな危うさを秘めたオリジナル〈4AD〉臭に、往年のファンは鼻をかぐわし目頭を熱くするにちがいない。ヴィジュアル面において初期〈4AD〉のカラーを決定づけたデザイン・ユニット〈23エンヴェロップ〉のデザイン集としても楽しめるこの感じ。いまのスタイリッシュでイケてる〈4AD〉とはどこか様子が違うこの感じ──そうなんだよ。つまり耽美なんだよ! 耽美!!

 そんなことはともかく内容の話をしよう。まずディスク1は、コクトー・ツインズやディス・モータル・コイルとの仕事でもお馴染みのジョン・フライヤーがプロデュースした前述の『スカー』(1989)と、コクトー・ツインズのロビン・ガスリーがプロデュースしたEP『スウィートネス・アンド・ライト』(1990)、そしてEP『マッド・ラヴ』(1990)を寄せて集めたプレデヴュー・アルバム『ガラ』(1990)である。いまだに後のアルバムよりこの作品を好むファンが多いことからもわかるように、コクトー・ツインズ直系の透明感とニューウェイヴの洗礼(ミキとエマは14歳の頃からの知り合いで、学生時代にいっしょにニューウェイヴのファンジンを作っている!)がぷんぷんと香り立つ。コーラス成分多めの空間的なアルペジオに、美しくもときにエッジーなコード・ストロークが織りなすツイン・ギターの響き。艶やかに重なる自由でナチュラルなミキとエマの声とハーモニー。それらを屋台骨として支える男ふたりの安定感抜群のリズムのコンビネーションがこの時点で見事に完成している。ラッシュを語る上で欠かせないインディ・ダンスな名曲“スウィートネス・アンド・ライト”ほか、“ブリーズ”“デラックス”“ソートフォームス”“エスリール”はこのアルバムに収録。さらにボーナス・トラックとして、熱心なファンにもうれしいさまざまなBBCセッション音源が収録されている。

 続くディスク2には待ちに待たれたデヴュー・アルバム『スプリット』(1992)を収録。切ないメロディに乗る「可愛い女の子が輝いてるわ 若さに笑みがこぼれる」なんて可憐な歌い出しが印象的な“フォー・ラブ”ほか、“ナッシング・ナチュラル”“スーパーブラスト!”などの代表曲。さらに、“タイニー・スマイルズ”“オーシャン”“ローラ”などの隠れた名曲にも清らかに湧き出る泉のようなアイデアを聴くことができる。ロビン・ガスリーによるプロデュースということで『ガラ』の延長線上にありながらも、アルバムとしての統一感がはっきりと表れた内容だ。ボーナス・トラックには、EP『フォー・ラブ』のカップリング曲“スターラスト”(後に『スプーキー』に収録されるヴァージョンよりも断然カッコいい!)や彼女たちが敬愛するワイヤーの名曲“アウトドア・マイナー”のカヴァーほか、ケヴィン・シールズとDJスプーキーによるリミックス曲なんかもばっちり入っている。

 ディスク3にはセカンド『スプリット』(1994)を収録。冒頭の“ライト・フロム・ア・デッド・スター”からストリングスを導入するなど、堂々とした貫禄も感じさせる内容。“ブラックアウト”“ヒポクライト”“ラヴライフ”と続く華麗でダンサブルな疾走も素晴らしいが、“デザイアー・ラインズ”“ネヴァー・ネヴァー”など、ゆるやかにたゆたう長尺曲におけるアレンジ力に、バンドの成長過程を楽しむ要素が多かったこれまでのおもしろさに加え、バンドの洗練もそこここに感じとることができる。ボーナス・トラックにはEPのカップリング曲ザ・ジストのカヴァー“ラヴ・アット・ファースト・サイト”のほか、レアなアコースティック・セッションも収録。

 続くディスク4はサードにしてラスト・アルバム『ラヴ・ライフ』(1996)を収録。冒頭の“レディキラーズ”からストレートでグランジーなギターに、ファルセットではない迫力あるミキの素のヴォーカルが飛び出したりして驚く。また、ストリングスのほかに管楽器も導入されたり、パルプのジャーヴィス・コッカーが参加したり、“500”“シングル・ガールズ”などの60Sテイスト溢れるとびきりのバブルガム・ポップが弾けたりと、ラッシュの大きな転換期をとらえた内容だ。コーラス、リヴァーブ、ディレイなどの深いエフェクト空間に包まれていた靄が晴れ渡り、当時隆盛していたブリットポップに接近したとかなんとか言われたりして、かつての物憂げなラッシュを期待したファンからは賛否両論な作品。だが、いま聴くと何てことはない……時流に乗るどころか、この先何年経っても色あせることのない王道ポップが並べられた(でも、どこかにそれに対するわだかまりもある)挑戦的なアルバムだったことがわかるはずだ。

 そして、最後のディスク5は日本来日記念盤として発売されていたコンピレーション作品『トポリーノ』(1996)。『ラヴ・ライフ』に収録されていたシングル“レディ・キラーズ”と“500”のカップリング曲をまとめた1枚で、とくにマグネティック・フィールズ、ザ・ルビナーズ、ヴァシュティ・バニヤンの秀逸すぎるカヴァーに心踊らされる。その後、グー・グー・ドールズとのアメリカ・ツアーを余儀なくされたりして、本人たちがまったく望んでなかった「メインストリームでの成功」というプレッシャーは相当なものだったのだろう。そんな居心地の悪さからの解放感がサウンドに表れた楽しい内容となっている。クリスが手掛けた唯一の曲“パイルドライヴァー”ほか、ボーナス・トラックに、ミドル・オブ・ザ・ロードの“チピチピ天国”、エルヴィス・コステロの“オール・ディス・ユースレス・ビューティー”、ワイヤーの“マネキン”、さらにイギリスの子供番組「ルパート・ザ・ベアー」のテーマ曲など、彼女たちの目からウロコすぎる選曲眼とカヴァー・センスをこれでもかと味わうことができる。

 ミキのお母さんが日本人で、いとこがハナレグミで、またいとこがコーネリアスで……なんていまさらそんな情報を語るのも野暮だけれど、日本にゆかりがあるラッシュの作品がこぞって廃盤状態にあるいま、この6時間半にもおよぶボックス・セットは、彼女たちが後のシーンに与えた影響をどうのこうの考えるよりも、彼女たちが残したきららかな魅力を変わらぬ鮮度で伝えてくれて素直に楽しむことができる(ちなみにクレジットにはないが、音も丁寧にリマスタリングされていて心地よさもアップしている)。また、その反面、恐いもの知らずの夢見るニューウェイヴ少女があれよあれよという間に注目を浴びてシーンからはみ出るほどの人気者になり、それゆえに与えられた苦悩と大親友の自死の末にバンド解散という影のストーリーも抱えていただけに、今回の再結成はじつに感慨深く晴れやかで頼もしいかぎりである。なんとも……歳月が薬なんていうけれど、彼女たちは20年もかかったってわけだ。

 ちなみに、ドラムに元エラスティカのジャスティン・ウェルチを迎えたラッシュの再結成ライヴは、いまのところ今年4月のマンチェスターを皮切りに、5月にロンドン、9月にNYでの開催が決定している。さらにこれから新作EPのリリースも予定されているというから本格的だ。もうこうなったら、ブラーもダイナソーJr.もマイブラもメリー・チェインも現役バリバリでいることなんで、そこにラッシュも加えて92年の再来〈ローラーコースター・ツアー2016〉なんか仕掛けて日本に来てくれい! お願い!!

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