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『カタストロフィスト』のかたわらに

『カタストロフィスト』のかたわらに

デイヴィッド・グラブス
『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』

若尾裕+柳沢英輔訳
フィルムアート社

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文:松村正人   Jan 19,2016 UP

 10年、いや15年前まではマニアックな音盤を手に入れるなら、幸運を祈るか大枚をはたくしかなかった。発掘音源であれ再発であれ、純粋な新作であっても、極端にリスナーのすくない音盤はリリースされた瞬間から残部僅少で、しかるべき筋にあたるか足で稼ぐしかない。電子音楽や実験音楽、アングラなジャズ、ロック、異形のポップ、カルトスターたちの奇盤、珍盤、廃盤、海賊盤はよくないけども、売り切れは彼らとの永遠の別れを意味し、買おうにも刷り部数が3桁以内なら、プレス工場から好事家の棚に直行するようなものであり、あとはディーラーとコレクターの独壇場、ビギナーにとっては焼け野原である。音楽が骨董あつかいされることへの呪いにちかい批判は本稿後半でおこなうとして、そのまえに、私は本媒体がたちあがって日もあさいころだから、4、5数年前になるが、コラムでフルクサスについて連続して書いたとき、次はヘンリー・フリントかワルテル・マルケッティにしよと思った。思ったまま、放置してしまったのはひとえに私の不徳のいたすところだが、そもそもそう考えたのは、彼らはこの手のひとにしては比較的まとまった数の作品があったからである。

「2004年2月26日、63歳のヴァイオリニストで、作曲家、哲学者、作家のヘンリー・フリントが珍しくラジオ番組に出演した。それは、ラジオ番組の司会者で、詩人、そしてオンライン・アーカイヴのサイトUbuWebの創設者のケニー・G(スムースジャズのスターではない方の)——本名ケネス・ゴールドスミス——のゲスト出演者としてだった」

 デイヴィッド・グラブスは著書『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』の「はじめに」「序章」につづく第1章「ラジオから流れるヘンリー・フリント」をこのように書きおこす。本文はつづけて、この放送を聞き逃したとしても、ご心配にはおよびません。というのも、番組の音源はそこで流した曲のリストとともにUbuWebに3時間におよぶMP3ファイルとしてアップしてあるからだ、とつづく。グラブスにしたがってUbuWebのフリントのページを開くと、いちばん下に番組の音源がのこっており、クリックすると老境にさしかかったフリントの声がいまも聴ける、いつでも聴ける。来年でも再来年も、再来年のつぎをどういうかは知らないが、そこでも、UbuWebが存在し、全面的なコンテンツの見直しでもないかぎり未来永劫聴くことができる。

 つくづくいい時代になった。私だけでなくだれもがそう思うにちがいない。喫茶店や会議室で、ウィットに富んだ会話を交わしながら知らない名称やトピックをPCやスマホで検索する輩にはなおのことそうだろう。もっとも、ひとがしゃべっているときに画面を見るのはおよしなさい。
 ところがこれには注意が必要だ。あなたのいま聴いているフリントのインタヴュー音源はすでに十年前の出来事イベントなのである。
 グラブスは録音物が宿命的に帯びる反復聴取とそこに積もる時間の経過、交換可能な商品としての録音物、それと録音の差異、ひいては音を録る行為そのもの、フィジカルからデジタルにいたるメディア(媒体)の変遷史およびそれが録音物にあたえた(る)影響を、彼のはじめての本で丹念にたどっていく。伴奏者はジョン・ケージ。ケージをめぐる本は地球上に無数にあるが、彼の音楽が内在的に必然的にはらむ問題の系を更新するともにあらたに提起する野心的なとりくみで本書はとりわけ重要である。

 まず、レコードからデジタルへメディアがきりかわり、よりハイファイに音楽を聴く環境が整ったことをグラブスは評価する、これには目をみはった。というのも、私たちはアナログとデジタルではアナログに軍配をあげるのが粋な通人と考えがちだからである。むろん私もその一派で、長年レコードの音のまろやかさと芯の太さこそ音楽を聴く悦びと思い生きていた。グラブスの問題提起を要約するとこうなる。モートン・フェルドマンのような「まばらで抑制的な」しかも長時間およぶ楽曲を再生するには、収録時間が長く原理的にノイズのない再生環境が適している。そのほうが作曲者の意図──を汲んだ演奏者の意図──によりちかい。私たちはフェルドマンをメタリカなみの音量で聴くこともできるし逆もまたしかり。リスナー主導型の聴取スタイルはレコードを歴史と作者の思惑から切り離し、個々人の用途に奉仕する方向へうながしたが、音楽の誕生当時の狙いを精確に再現するには分解能やSN比も視野に入れるべきではないか。「Play Loud」の但し書きのあるレコードはいっぱいあっても「Play Quiet」と書き添えたものはほとんどみない。これはつまり、レコードを聴くとはいうまでもなく「集中的聴取」であるからか、あるいは、音楽は音のおりなす美学であるため、無音ないし微音、雑音は音楽にあたらない。どうも後者である気がしてならない。でなければ、代々木オフサイト、ヴァンデルヴァイサー楽派が21世紀に存在感を示した理由がない。グラブスは本書でおもに20世紀音楽を論じているが、音響以後の2000年代の傾向は1950年代(「4分33秒」の初演は1952年、チュードアの手になる)に端を発し、60年代を通じてテクノロジーとの相関で避けて通れないものになったと言外ににじませている。
 音楽と音はおなじなのかちがうのか、ちがうならどうちがうのか。
 ケージのたてた沈黙の問いを二項対立で解こうとするからおかしなことになる。おなじく音楽と音を峻別し、それぞれに個別にあたるのも無効である。前者を社会学者的(な広く浅い)知見、後者を専門家的(狭く深い)それとするなら、結局どちらも無難にならざるをえない。『別冊ele-king』第4号での岸野雄一の「ケージの理論はケージにしか使えない(中略)ケージの理論を援用して実現された音楽も、ケージの理論を援用して他の音楽を繙こうとした批評も、面白いと思ったものはひとつもない」という発言の行間にはおそらくそのような問題意識が横たわっている。ケージでもベンヤミンでもマクルーハンでもリオタールでもいい、彼らのことばのキャッチーなところだけとりだして見出しでわかった気にならないことだ。そもそもわかるとはなにがわかるのか。わかるとは思考停止のいいかえにすぎないのではないか。私たちは引用を相田みつをめいた手ごろな箴言ととらえるのではなく、自身の文脈にムリに沿わせるのではなく、そこにできた外部の嵌入する裂け目ととらえなければ断片はたやすく情報に堕す。音楽と音も似た関係にあり、両者の截然と区別できず、不断に嵌入し合う状態をケージは作曲であらためて耳に聞こえるものにしたかったのではないか。たとえ沈黙の側についたにしても、沈黙の底から躁がしさが沸きあがってくる、と古井由吉が書きそうな耳のありかた。ケージは鈴木大拙からそれをうけとり、おそらく折衷的なやりかたで彼の作曲の方法の一部とした。

 そんなある日、私はレコード屋でアルバイトしていると午前中で人気のない店内にひとりの女性客があらわれた。レジに立ち慣れると、お客さんがなにを求めやってきたか、年恰好、立ち居ふるまいでわかるようになるのは不思議である。私はああこの妙齢の女性は購入された商品に不備があったんだな、と直感した。眉間のシワがけわしい。案の定、妙齢の女性は陳列棚のCDに目もくれず一直線に私のほうへ歩み寄ってこういった。
「不良品なので交換してください」といって妙齢の女性はCDをさしだした。もうしおくれたが、これは90年代なかごろの話です。Jポップの呼称が定着し猫の杓子もCDを買った音楽業界の方々の夢の時代のことだ。
 わかりました、と私はいった。確認します。といっても、ご覧にとおり、店内にはバイトの私以外、だれもいない。社員と先輩バイトは客がいないのをいいことにウラで一服しているのだろう。音楽に携わる人間はスロースターターなのだ。レジを空けるわけにもいかない。仕方なく私は店内放送用のプレイヤーにCDをいれた。どういった不備でしょうか、と私は訊いた。ノイズが聞こえるんです、と妙齢の女性は答えた。何曲めですか。1曲めです。
 わかりました。かけてみると、ヒップホップに影響を受けたミドルテンポのファンキーなトラックがかっこいいディーヴァもののJポップ(どうしてもだれのCDだったか思い出せない)、90年代はこういった音楽がハシカのごとくはやったが、私と妙齢の女性はそのグルーヴに身じろぎもしない。ありましたでしょ、と妙齢の女性はいう。私はまったくわからない。もう一度頭からかける。30秒も経たず、妙齢の女性はやっぱりありましたね、という。Aメロから先にいけない。何度かけても聞こえるんですよ、と妙齢の女性がぷりぷりするぶん、私はへどもどする。ハードコアやノイズの聴きすぎで耳がバカになったのだろうか、と焦った。もうしわけありませんが、ノイズが聞こえた時点で教えていただけますか、と私はお願いした。3度めにかけるやいなや妙齢の女性は天上のスピーカーを指さした。ここです! その仕草に、私は仏陀が生まれてすぐ天を指して「天上天下唯我独尊」といった姿をかさねてひれふしそうになった。
 ──いわれてみればたしかにそうだ。ノイズである。レコードの針音のサンプリングが数秒間。CDなのにあたかもターンテーブルでかけているような錯覚、というより記号が喚起するものを狙ったプロデュース・ワークであるが、彼女はそれをノイズととらえた。私は彼女に、これはこれこれこういった意図の音楽上の演出なのでほかの商品にもかならずはいっています、と説明しおひきとり願ったが、内心おどろいた。そしてそのおどろきの意味するところは『レコードは風景をだいなしにする』を読むと前と後ではちがったものになった。彼女はCDというノイズのない媒体の特性を前景化し、私は音楽をいわゆる文脈で聴いた。テクノロジーと音楽の歴史がそこで交錯する。どちらが上か下ではない。

 ケージの著書『サイレンス』所収の「無についてのレクチャー」の最後にこうある。「テキサス出身の/女性は言った/テキサスには/音楽がない/テキサスに音楽が/ない理由は/テキサスにレコードがあるから/テキサスにレコードをなくそう/そうすればみんな歌いだす」これは『レコードは風景をだいなしにする』の第5章「テキサスからレコードをなくせ」冒頭に引用されている(引用は同書より)。以上の文の前にケージは以下の文を置いた。

 「中国の青銅製品/なんていいんだろう/だがこの美しい品々は/他人が/作ったものであり/所有欲を/かき立てがちだが/私は自分が何も/所有していないのを/知っている/レコード収集/それは音楽ではない/蓄音機/は楽器ではなく/ひとつの/ものである/ものは別のものにつながるが/楽器は/無に/つながっている(中略)それに/LPレコード/ですら/ものなのだ」(ジョン・ケージ『サイレンス』水声社/p222〜22 引用にあたり約物を省き、アキと改行を「/」であらわした)

 のちにケージみずから「Indeterminacy(不確定性)」にももちいたこの一文がこの本の通奏低音になっていることは火をみるよりあきらかである。くりかえしになるが、グラブスはレコードによる音楽の反復聴取、所有と共有、さらに音楽を録ることそのものに彼の思考は遡行する。レコードと磁気テープ(ハードディスクといいかえてもいい)の差異、プリントと写真機のちがい、あるいはバルトいうところの「プンクトゥム」、映像とそこに映るもの──他分野との類比にはさらにつっこんだ考察も必要だろう(とくにラカンを掠めるのは感心しない)が、リュク・フェラーリ、ベイリーとAMMとコーネリアス・カーデューなどなど、すでに半世紀とはいわないまでもそれほど前の先達の作品から今日的な問題を剔出する語り口は闊達で鋭く、ユーモアも忘れない(荘子の無用の用のくだりなど、わが身につまされました)。グラブスが研究者であるとともに類い稀な音楽家であることの裏書きではあるが、となると、彼が音楽家として身を立てた90年代、とくにポスロック〜音響の季節以後にこれらの問題はさらにどのような変遷を経て現在にいたるのか、彼の考えを読んでみたくなるのは人情というものだろう。それまで、私たちは本書を読み、そこに登場する作品を聴き考える猶予ができる。さいわいなことに専門店で清水の舞台から飛び降りなくともそれらの音楽にふれるためのトバ口に立てるのが21世紀だと、グラブスもいっている。それほどこの本は現在的であり、くりかえすが、きわめて野心的なこころみである。

追記:
と書いたところで、デイヴィッド・グラブスさんが来日されると知りました。やったね! 彼のCDと本を片手にかけつけましょう!


文:松村正人