「Not Waving」と一致するもの

FKA twigs - ele-king

 「今年はゼロ年代がちゃんと終わった」などという生意気を、『ele-king vol.12(BEST OF 2013特集)』のマイ・プライベート・チャート10に書き込んだのは、アルカの『&&&&&』(self-released)を1位に、そしてそのアルカがプロデュースしたFKAツイッグスの『EP2』(Young Turks)を6位に選んだことで説明責任は果たせるだろう、と思ったからだった。そう、かつて『remix』マガジンが副題に掲げていた「THE SHAPE OF MUSIC TO COME」というコピーがいまでも僕は好きだが、そういったものがいまでももしあり得るなら、『&&&&&』を聴いたときの戸惑いこそを信じてみよう、と。
 そして、一部の好事家はその得体の知れない音楽を便宜的に「ディストロイド(ディストピック・アンドロイド)」と呼んだわけだが、そのイメージを決定づけたのはやはり、FKA ツイッグスの『EP2』によるところが大きい。FKAツイッグスをめぐっては、通常、コクトー・ツインズやポーティスヘッドの名が出がちだが、むしろ『EP2』は、あそこまで人間臭い音楽はとても聴いていられない、という人向けに遺伝子操作された極めて人工度の高い音楽だったハズであり、それはアルカとの異次元的なコラボレーションで知られ、この『LP1』にもヴィジュアル面の担当で参加しているジェシー・カンダの作り出す世界観が背景にあるのも大きいだろう。
 音楽の中から人間の気配を極力消し去ってしまうこと。『EP2』までのFKAツイッグスとArcaの試みを比較すべきは、だから、〈フェイド・トゥ・マインド〉のケレラではなく、正しくは〈リヴェンジ〉のホーリー・ハードンだったのだろう。同じ2012年に“ブリーズ”なる同名曲を各々リリースしているのが興味深いが、声の質感やトラックの中での配置「だけ」を楽しむ世界というか、そこではヴォーカルとオケのどちらが偉いというわけでもない。いわゆる「インディR&B」的な機運を準備したのがジ・ウィークエンドだったにせよ、インディ・ロックの側からその機運に応えていたのがハウ・トゥ・ドレス・ウェルだったにせよ(彼を「BPM20ヴァージョンのマイケル・ジャクソン」と評したのはどこの海外メディアだったか)、僕に言わせれば彼らはいささか「歌い過ぎ」た。

 そういう意味で言うと、引きつづき〈ヤング・タークス〉からのリリースとなった本作『LP1』も、やや歌い過ぎといえば歌い過ぎの作品ではある。レーベル側の都合なのか、それとも正式なフル・アルバムを準備中のアルカとのスケジュール調整の都合なのか、あるいは彼女自身の要望なのかはわからないけれども、一転してアルカのプロデュース曲が激減した本作では、『EP1』から『EP2』に飛躍したときほどの距離を飛べてはいない。「10年早い音楽」が「3年早い音楽」くらいのポップ・バランスになった、とでも言うか。一方、アルカの代わりに主役級の抜擢を受けているのは、キッド・カディの『マン・オン・ザ・ムーン』シリーズや、ラナ・デル・レイの『ボーン・トゥ・ダイ』等々で知られる、「暗いのに売れるUSダウンテンポ」の名手であるエミール・ヘイニーだ。〈ヤング・タークス〉も恐ろしいことを考えるもので、要は「マーキュリー賞とグラミー賞の両方を狙え」というわけだろう。
 もちろん、この狙いが必ずしも裏目に出ているとは言い切れない。エミール・ヘイニーのプロデュースをアルカが演奏/打ちこみ面でサポートする“トゥー・ウィークス”と“ギヴ・アップ”は本作の目玉で、ヴォーカルとオケのどちらを聴けばいいのかわからなくなるような戸惑いや、未来を窃視しているような緊張感は薄まったが、なるほど、未来のトップ40チャートから迷い込んできたような変種のR&Bとしてうまくコントロールされている。“ペンデュラム”をプロデュースしている大御所、ポール・エプワースも同様で、『EP2』までに築かれたツイッグスの世界観を壊さぬよう、慎重に音を選んでいる配慮が伝わってくる。あるいは逆に、『EP2』の世界観に囚われ過ぎでは、という気がしないでもないが。
 逆に、アルカが唯一プロデュースを手掛ける“ライツ・オン”は、最後の1分間の展開には唸らされるが、アルバム全体からすればややインパクトに欠けるか。まあ、自分のアルバムを準備中の人間に“ハウズ・ザット”や“ウォーター・ミー”レベルのものを10曲用意しろ、というのはさすがに無理な相談のようである。そしてこれは僕の耳がひねくれ過ぎているのか、エミール・ヘイニー、デヴォンテ・ハインズ(a.k.a ブラッド・オレンジ)、クラムス・カジノ、アルカの名がズラリと並べられた“アワーズ”のプロデュース欄には驚いたが、いろいろなものを足し過ぎた結果、全員の個性がうまい具合で相殺されてしまっているように感じられたのは残念だ。意外なところで面白いのは、UKの新人R&Bシンガー、ジョエル・コンパスが作曲の共作者に名を連ねる、おそらくは本作の中でもっともふつうのR&Bに近い素材であるハズのクローサー・トラック“キックス”が、意外とドハマりしていて、ツイッグスのセルフ・プロデュース力の高さというか、どんな曲でも自分色に変えることのできる圧倒的な声の力をむしろ実証する形になっている。

 すっかり長くなってしまったが、ここまで来たので風呂敷を広げてしまおう。米メディア『ピッチフォーク』は今から2年前、インディとメインストリームのあいだに広がる第3の道を「スモール・ポップ」と呼んで何組かのアーティストを(おもにブラッド・オレンジ以降という文脈で)紹介していたけれども、そうした二項対立そのものがはたしていまでも有効なのか、ということを執念深く検証しつづけているのが今年の『タイニー・ミックス・テープス』だ。不得意な英語に目を通しながら、僕がアルカとFKAツイッグスの登場に受けたあの拭いがたい衝撃を思い出したのは、『タイニー』のコラムで次の一文を読んだときだ。「同時代に生み出される最新・最良の音楽は、いつだって私たちが想像するよりもはるかにスマートで、かつ生産的なものである」。なるほどたしかに、『EP2』や『&&&&&』は「気付けば到来していた未来」としていつの間にか眼前に迫り、ミュージック・フリークたちを中心とした決して小さくない市場を生んでしまった。そう、心配することなど何もないのだろう。
 ついでに言えば、クィア・ラップのプロデューサー陣からは、アルカと同じくミッキー・ブランコのプロデュースでブレイクしたベルリンのデュオ(?)のアムネシア・スキャナー(Amnesia Scanner)が、それこそ『&&&&&』の2014年ヴァージョンのようなディストロイド系のミックステープ『AS LIVE [][][][][]』(自主盤)をリリースしているし、そのミッキー・ブランコは自身の正式フル・アルバムを準備するかたわら、トリッキーの2014年作『エイドリアン・ゾーズ(Thaws)』にも参加、オーディションを開いてまで選び抜いたネクスト・ディーヴァ、フランチェスカ・ベルモンテと“ロニー・リッスン(Lonnie Listen)”で共演している。あるいは、メロウなR&Bに落ち着いてしまうのか、と心配されたケレラはご存じ、BOK BOKとの“メルバズ・コール(Melba's Call)”でグリッチR&Bと呼ばれるネクスト・レヴェルを披露、さらには、筆者が個人的に贔屓にしているラッパー、リーフと“OICU”で共演、彼方のR&Bを目指している。
 これらはあくまで一例に過ぎないが、とにかくクィア・ラップ、インディR&B、そしてディストロイドと、筆者がここ数年でなんとなくおもしろいと思ってきた変わり種の音楽が、インターネットを介して少しずつ折り重なってシーンのようなものを形成しつつある。トップ40との両立でも、もちろんいい。そのとき、FKAツイッグスにも「こちら側」にいてほしいと思うのである。あくまでもそうした先端部の動きと比べれば、という前置きは絶対に必要だが、FKAツイッグスは『LP1』でポップ・シーンへの配慮が過ぎたかもしれない。守りに入るには、いくらなんでも早すぎるだろう。「来たるべき音楽」が鳴る場所というものは、既知の情報がもたらす安らぎのなかで団らんする場所ではけっしてあり得ない、ということを、あなたは教えてくれたじゃないか。

いくたびでも - ele-king

 鈴木昭男と恩田晃、年齢も出自もちがうふたりはともに場と記憶にまつわる音を探究しつづけるサウンド・アーティストとしてつとに知られており、世界をマタにかけて活動を行ってきた、というより、世界は無数の場所の折り重なりなのだから場を探りつづければいきおいマタにかけざるを得ないともいえる。サイト-スペシフィック(Site-Specific)とは決まった場所に在ることであり、音楽では特定の場所に設置したサウンドアート作品を指してそう呼ぶことが多いですが、たとえば恩田晃はある場所でカセットに録った音を「演奏」することで、場所と記憶、過去の時間と現在時を音のなかに重畳しきわめて特異に響かせる。鈴木昭男については多言を要すまい。自然と語らいのなかでの音を探りつづけた彼の耳は音楽の制度と因習にとらわれず、アナラポス――糸電話の糸をバネにかえた、スプリング・リヴァーブをむきだしにしたような自作楽器――などを制作し、聴取行為を行為芸術にくりこみ、音楽とは別の音の体系を手ずからつくりあげるようである。

 ふたりには何度か共演歴があり、そのひとつはモントリオールの〈Oral Records〉から今年『ma ta ta bi』になった。「マタタビ」とは「股旅」であり「また旅」であり、場を求めさすらうふたりの音楽人生になぞらえたのだと思うが(そういえば恩田さんが日本に地を踏むのは5年ぶりだそうだ)、ふたたび、いや三度、四度といわず、彼らにとって出会いは旅路の交錯であり、場から場へ移る過程の途上であり、いくたび目かの出会いへのさきぶれであり、演奏は終わっても音に終わりはない。彼らが去った後はその場さえ変わってしまうようだ。いや変わったのはこっちの耳のほうだったか。
 9月20日はマタタビの日ですね。

●公演詳細
鈴木昭男/恩田晃 デュオ・パフォーマンス

日程:2014年9月20日(土)
会場:17:00 開演:17:30
会場:原美術館ザ・ホール 東京都品川区北品川4-7-25 Tel 03-3445-0651
出演:鈴木昭男、恩田晃
チケット:4,000円(入館料・税込み)

お申し込みは以下より
原美術館 詳細ページ
https://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/sHYBk6enGT7UOAatlmQr/

Pains Of Being Pure At Heart - ele-king

 ギター・ポップは無期限に有効なカード。たとえば〈サラ〉や〈エル〉といったすばらしいレーベルの遺産が繰り返し参照されるように、それは時代と世代をまたいでもつねに一定数のファンをかかえ、「エヴァー・グリーン」という言葉の響きとともにずっと生きつづけていくのだろう。
 しかしそのエヴァーとははたして字義通りの永久を意味しているだろうか、グリーンはみずみずしさを象徴するだろうか。それはある「止まった時」を永続させるものであって、よくよく考えると死のグロテスクなヴァリエーションであり、虚無を愛する倒錯と耽美にふちどられたものではないかという気がしてくる。
 否定しているのではない。それこそがエヴァー・グリーンの原理であり、尽きせぬ魅力の源泉ではないかということだ。若い思い出はいまの活力になるが、そのなかにずっととどまっているのは危険なこと。そして危険と美は隣り合う。エヴァー・グリーンとはけっして安全で無害なものではない。安全で無害なものがあんなにキラキラと輝くはずがない。

 ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートは、そうした危険さを最大限の繊細さでもって音にし、未明の2010年代にあざやかなインパクトと存在感を残したバンドだ。バンドというフォーム自体がインディ・ロック・シーンにおいて説得力を失いかけた時期に、彼らはそれをもっとも美しいゾンビとして蘇生させた。他方には無邪気なガレージの盛り上がりがあり、ビーチ・ポップなどのヴィンテージ志向なサーフ・ロックや、あるいはシットゲイズといったローファイ再評価、ポストパンク的な感性やシューゲイズとも結びついた〈キャプチャード・トラックス〉などが、めいめいのやり方で過去のロックのアーカイヴと向かい合っていて、結果としてあの時期のUSインディには大きなバンド批評のうねりがあったのだなと思い返される。

 アナザー・サニー・デイ、ヘヴンリー、ロケット・シップ、ザ・スミス、ジーザス・アンド・メリー・チェインからマイ・ブラッディ・ヴァレンタインにプライマル・スクリーム……、ゾンビだと言ったが、ペインズの楽曲は、ある種のインディ・ミュージックに対する度外れの愛着とリスペクトを偲ばせ、コスプレイヤーにも見まごうほどの高い参照性と再現性を誇ってきた。前作『ビロング』のエンジニアとして、アラン・モウルダー(マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやスロウダイヴなどを手掛けた)を起用していることなどにもそれは明らかだ。もちろん、彼ら自身が特定のアーティストを名指してその再現を標榜しているわけではないし、その比類ないソング・ライティングは、先達の遺産をなぞるだけではけっして得られない輝きとオリジナリティとを宿しているものだ。ポップで、繊細で、親しみ深く、耳に残る。しかしポップなソング・ライティングをして万人向けだと言うのは間違いだ。彼らのポップは、やはり前述のアーティストたちのアーカイヴを共有することで成立するものであり、「ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート」……同じ「いたみ」をもつ者にしか触れられないというような、インティメットでクローズドな共感に支えられるものではないかと思う。そしてそこに漂ううっすらとした潔癖感が、彼らの音と佇まいに影と悩ましい魅力とを与えている。ファースト・アルバム『ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート』のジャケットは、彼らの後ろにひろがる音楽的なアーカイヴと、そうした潔癖的なピュアリズムをこの上なく見事に象徴している。

 と、こんなに前置きをしておいてひっくり返すようだが、それから数年を経て3枚めのフル・アルバムとなった今作『デイズ・オブ・アバンダン』には、凍れるエヴァー・グリーンではなく、生きて流れる血を感じた。プロダクションもクリアでみずみずしく、オーヴァーグラウンドな洗練がある(キラーズなどの録音にも携わり、22年ぶりとなったマイブラの最新作『m b v』を手掛けたというアンドリュー・サヴールがプロデューサーとして迎えられている)。隔絶した世界ではなく、この世のポップ・シーンで鳴っているような、これまでにない強さ。曲にもヴァリエーションがある。バンドは大きな変革の時をむかえ、今回はソングライターであり中心人物であるキップ・バーマンひとりの編成となっているが、そのことは大きく関係しているだろう。

 “ビロング”のひずんだ音像が、“シンプル・アンド・シュア”のような分離のよいプロダクションへと変化している……この変化を快く思わない人ももしかするといるかもしれない。“ケリー”のジョニー・マー風のギターに、もっと時代の風合いをつけてほしいという人もいるだろう。それはそれでペインズを深く愛するファンなのだろうと思う。そう思う人は、アルバム後半、“マゾキスト”でちょっと安心し、“アンティル・ザ・サン・エクスプローズ”で歓喜とともにぶっ飛ばされるということになるはずだ。

 しかし、偉大な先人たちの美のくびきから逃れるような、おそらく聴けることはないだろうと思っていた種類の躍動を耳にして、バーマンがよい意味でスモールなバンドを組織できるアーティストであるのと同時に、万人に届き得る回路をもった人なのかもしれないと思い直した。どちらがいいというものではないけれど、“アート・スモック”から“シンプル・アンド・シュア”へと展開する本作は、ギター・ポップを骨董品にしない果敢な良作として、ひとつの未来を指し示しているのではないだろうか。いつかは老いて腐食するかもしれないエヴァー・グリーン、生きて息をするものの美しさが、わずかに、そして尊く顔をのぞかせたアルバムである。
秀逸なジャケットは、題材が日本ぽいけれども、韓国のアーティストの手になるものだそうだ。たて笛と学校机の表象は耽美的なモチーフにも思われるが、寝顔や植物、そして散らかった様子にはやはり生命の赤みが感じられる。

interview with Jun Miyake - ele-king

 ここ数年の三宅純の想像のひろがりはとどまるところを知らない。ボサノヴァやサンバやジャズや弦楽曲とシャンソンとブルガリアン・ヴォイスにジャズ、形式を異にする音楽が矛盾なく同居しまるでとけあうような、猥雑なのに遠目からはきわめて滑らかな音の織物とでも呼びたくなる彼の音楽は2007年の『Stolen from strangers』、昨年出した『Lost Memory Theatre act-1』で「Lost Memory Theatre」なるコンセプトを得てまさに水を得た魚になった。


三宅純
Lost Memory Theatre act-2

Pヴァイン

Tower HMV Amazon

 というのは慣用句ですけれども、ある枠組みを設け、それを水にひたせば、水は枠組みのなかに還流する。マドレーヌと紅茶の関係をもちだすまでもなく、記憶はささいなきっかけで呼びさまされるが、作品のかたちをとるには虚構のフレームが必要であり、三宅純はそれを劇場になぞらえる。その一幕目(『act-1』)ではアート・リンゼイからニナ・ハーゲンまでが記憶のよりしろとなった。はやくも登場した『act-2』はサティを思わせるピアノ曲“the locked room”で、部屋の扉に後ろ手で鍵をかけられたかのように、幕が開いてしまえば、終曲の“across the ice”まで、エレガントなのにときにリンチ的(あるいはバダラメンティ的)な迷宮の回廊沿いの小部屋を覗いてまわらねばなるまい。なぜなら、そこにはフロイトのいう夢のヘソのような、カフカを論じてガタリのいう抗いがたいものが働いている気がしてならない。

 インタヴューは私鉄の駅からすこし歩いた先の、側面いっぱいに窓をとった三宅さんの部屋で行った。取材を終えて、帰ろうと思ったとき、一時間前にやってきた道筋があやふやになり、帰り道を教えてもらった。
 なんのことはない一本道だった。
 記憶が還流してしまったのだろうか。

■三宅純 / Jun Miyake
日野皓正に見出され、バークリー音楽大学に学び、ジャズトランペッターとして活動開始、時代の盲点を突いたアーティスト活動の傍ら作曲家としても頭角を現し、CM、映画、アニメ、ドキュメンタリー、コンテンポラリーダンス等多くの作品に関わる。3000作を優に超えるCM作品の中にはカンヌ国際広告映画祭、デジタルメディア・グランプリ等での受賞作も多数。05年秋よりパリにも拠点を設け、精力的に活動中。アルバム”Stolen from strangers”はフランス、ドイツの音楽誌で「年間ベストアルバム」「音楽批評家大賞」などを受賞。ギャラリーラファイエット・オムの「2009年の男」に選出され、同年5月にはパリの街を三宅純のポスターが埋め尽くした。主要楽曲を提供したヴィム・ヴェンダース監督作品「ピナ/踊り続けるいのち」はEuropean film award 2011 でベスト・ドキュメンタリー賞受賞。またアカデミー賞2012年ドキュメンタリー部門、および英国アカデミー賞2012年外国語映画部門にノミネートされた。


このテーマこそ、自分のずっとやってきたことなんだと思います。言葉で言うのはやさしいけど、音楽にするのは至難で、ようやく年も食ってきて、記憶の蓄積も、失われた記憶もある。そういう状態になったんですね。

(刷り上がったばかりの『Lost Memory Thatre act-2』のジャケット・デザインを見ながら)三宅さんはデザインの指示もされるんですか?

三宅:ええ、好みははっきりしているので。ジャン=ポール・グードのグラフィック・デザインをすべてやっているヤン・スティーヴさんという方がいらして、彼と結託して、ジャン=ポール・グードの作品から気に入ったものを選んでプロトタイプを仕上げ、こういう感じになったのですが許して頂けますでしょうか、と。

事後承諾ですね(笑)。

三宅:むこうも最近用心しているみたいですね(笑)。『Stolen from strangers』でも彼の写真を使っているんですが、けっこう変えちゃったので一ヶ月くらい口をきいてもらえなかった。

ジャケットは『act-1』と『act-2』で白と黒といった対称性を出そうということでしょうか?

三宅:対称性は意識していません。ジャン=ポールの作品を使いたいとは思っていたんですが、アルバムの構想が固まってから選びはじめたんです。

最後にうかがおうと思っていたんですが、『act 3』も当然考えておられるんですよね。

三宅:考えています。いままでこういうつくり方をしたことがなかったんですけど、『act-2』はあくまで一幕と三幕があっての二幕目の立ち位置だと僕は思っているんです。

そのように私も感じました。

三宅:いままでは一枚ごと「どうだ!?」って感じで出してきたんですけど、そういう意味ではちょっと性格がちがうんですよね。

『act-1』は、聴いたことがないのにどこかそれを喚起するような音楽に誘われて、記憶の劇場に足を踏み入れたような、『act-2』は迷宮のなかにいくつかの小部屋があって、そこにある扉をのぞいてまわるような印象を受けました。たとえば“across the ice”の余韻のあとになにかが訪れるのではないかという期待をおぼえたんですね。『Lost Memory Theatre』シリーズは三宅さんのライフ・ワークというか、このテーマは三宅さんの作風にぴったりだと思いました。

三宅:このテーマこそ、自分のずっとやってきたことなんだと思います。言葉で言うのはやさしいけど、音楽にするのは至難で、ようやく年も食ってきて、記憶の蓄積も、失われた記憶もある。そういう状態になったんですね。

失われてしまった記憶があるからこそ、『Lost Memory Theatre』が成り立つんですね。

三宅:そうです。そのなかには強制終了した記憶もあるんですけど。

強制終了するというのは具体的にどういう意味ですか?

三宅:個人的な記憶も含めて、憶えていたくない記憶ですね。

そういうものも――

三宅:なくはない(笑)。『act-1』に参加してくれたメヒチルド・グロスマンというピナ・バウシュとも仕事をしていた女優さんがいるんですけれど、彼女とのレコーディング(“Ich Bin Schon”『act-1』収録)でロスト・メモリーとはなにかという話になったとき、「失われたということは、あなたが消したんでしょ?」と釘を刺されたんですが、「うーん、必ずしもそうではないな」と思ったんです。ライナーにも書いたように、場所と結びついた記憶はなくなってしまうものでもあるし、津波なども含めればかならずしも彼女がいうとおりではないんですが、彼女が言っている意味もわかる。たとえば彼女とピナ・バウシュとの記憶はいったん消さないと痛みが強すぎて耐えられないものではあったと思うんです。

ロスト・メモリーとはなにかという話になったとき、「失われたということは、あなたが消したんでしょ?」と釘を刺されたんですが、「うーん、必ずしもそうではないな」と思ったんです。

ピナ・バウシュもそうですが、亡くなることで失われてしまうことも、人とのつきあいにおいてはありますからね。

三宅:僕はピナにかんしては、亡くなって存在が消滅したのではなく、圧倒的に不在していると感じています。徹底的に不在している、と。作品もまだ生きていて彼女の存在はあるのだけど、その席が空いちゃっているということですね。

アルバムの話を順番にうかがっていきますが、前作から今作まで1年かかっています。『act-1』を録り終えてすぐ『act-2』の制作にとりかかられたのでしょうか?

三宅:もっと前からです。目的もなく録っている曲もけっこうあって、そういう半分手のついていた曲もたくさんありましたし、『act-2』のうちの8曲くらいは過去の舞台作品で使ったものなんです。白井晃さんの作品ばかりなんですけれど、舞台作品というのはサントラが出るような珍しいケースもありますが、そうでない場合はひとびとの記憶のなかにしか残らない。その意味でまさに“Lost Memory Theatre”なんですね。そのなかで自分が気に入っていたものがいくつかあったので――ピアノ曲が多いのですが――それが今回キーになると思ったんです。
 僕は『act-1』については、劇場に人を呼び込み、そこではかぎりなく失われた記憶を喚起する曲が流れているけれども、それは過去に聴いた音楽そのものではない、というのを目指していました。今回はむしろ、個人の小さな部屋を開けるとそこに詰まっている匂い、温度、湿度があって、場合によっては慌てて閉めて出てしまう、そういうイメージなんです。でもそれはもちろん聴く方の自由なので、限定をするつもりはないんですけれど。

ピアノを使った曲が中心になったのは、ピアノは記憶に働きかける機能が強いということですか?

三宅:そういうわけではないです。どの楽器もそういう要素があるとは思いますけれど、たまたまそういう舞台のためにつくった曲がそういう曲調だったんですね。

CD化された『中国の不思議な役人』とか『Woyzeck(ヴォイツェック)』ともちがう舞台ですか?

三宅:そうです。ポール・オースター原作だったり、フィリップ・リドリー原作の舞台です。

収録するにあたってアレンジし直しましたか?

三宅:曲によって手を入れたものもあれば、そのまま使っているものもあります。

今回は前作よりもインストの比重が大きくなっているのもピアノの影響でしょうか?

三宅:今回はインスト中心でいこうという気持ちが最初からあって。やっぱりその小部屋のイメージが自分にはあったので。歌が入ると部屋がだんだんと大きくなっていっちゃうんです(笑)。

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音楽なんて、最初から理論はないわけだから。イノヴェイターがいて、「これはどうなってるんだろう」って、理論はあとづけなんですよ。それなのに、音楽学校は逆に教えちゃうので型にはまった人が出てきちゃう。


三宅純
Lost Memory Theatre act-2

Pヴァイン

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『act-1』には“Eden-1”が入っていて、『act-2』には“Eden-3”“Eden-4”と収録されていますが、“Eden-2”はどこにいってしまったんでしょう?

三宅:“Eden”シリーズは20年くらい前に書いた曲なんです。とあるプロデューサーと話していたときに「レーベルをやらないか」みたいなお誘いを受けて、そのとき考えたコンセプトが今回の『Lost Memory Theatre』に近かったんですね。ただ、当時はまだ30代の若造ですから、そういったテーマを立ててみても、たんにノスタルジックになってしまったり、ひとりよがりになってしまうおそれがあったんですが、それをいまふりかえり、楽曲自体は時間の風雪に耐えられると思い、出すことにしました。曲名は仮のタイトルが残ってしまっているだけで、名前をつけ替えればそういう疑問は残らなかったかもしれませんけど、20年前の曲としてそのまま使っているんですね。“Eden-2”がどうなったかはデータを見直さなきゃわからないですが、もしかしたらそれだけ別個に世に出ている可能性もあります。

なるほど、CMなどで耳にしているかもしれませんね。三宅さんはCMや舞台のような、依頼される仕事のほかにつねにご自分のアルバムを同時並行で制作されているんですか?

三宅:つねに同時並行です。以前レコード会社にまだ体力がある頃は、〆切も与えられて期限付きでそれだけに集中するようなこともあり得ましたが、いまはそういう時代でもありません。自発的にやる場合はある程度思いついたときにやっておかないと、かたちになっていきませんし。

話はそれますけれど、音楽をとりまく現状を三宅さんはどう思われますか?

三宅:違法ダウンロードみたいなものにかんしては、憤りを感じないわけではないですけれど、どうしようもないレベルにまでいっちゃっているから、パッケージを買うだけの熱意とリスペクトがある方に買っていただければいいという気持ちです。でも音楽自体が必要とされていないという感じはしていないんです。昔から極北の音楽をやっていますから、ファンの方に向けてつくるというよりは、そのつど欠落している自分の部分を埋めようとしているので、制作へのモチヴェーションにも変わりはありません。もちろん音楽産業がさかんであればよいのにな、とは思います。

欠落しているというのは、ご自身が聴きたい音楽がないからつくらざるをえないということもあるのでしょうか?

三宅:それはありますね。おもに流通している音楽のなかに、ということかもしれませんが。もちろんいまはあらゆる種類の音楽が飽和していますから、発掘していけばそういった音楽もあるかもしれませんが、僕の作品のようにハイブリッドな音楽は少ないかもしれません。

三宅さんは、たとえばジャズでもサンバでもボサノヴァでもいいですが、あるジャンルの音楽をご自分のなかに取りこむとき、形式そのものを援用するのでしょうか? あるいはその音楽が表象する感覚を先に考えますか?

三宅:大きくわけると後者にちかくて、エッセンスのようなものをとりこもうと考えています。これはほとんどフィジカルなプロセスなんですけれども、昔は聴いたこともないような音楽をサンプルに、明日までにこういう曲をつくってくれみたいなことがCMではよくあったんですよ。

明日ですか!?

三宅:バブルの時期はよくありました。そんな時も、理論的に分析して作れば似たものはできるかもしれないんですけど、おもしろくもなんともないんですよ。ある音楽が奏でられる地方があって、その地方の人たち、その音楽が暮らしのなかにある人たちはなにを聴いたらうれしくなるだろう? 彼らの体がよろこぶ感じをいつも心がけていたんですね。そうすると、意外と現地の方が聴いたときに「これって昔からあったような曲だね」といってくれたりするんです。『Innocent Bossa in the mirror』(2000年)をつくったときも、ボサノヴァは名曲が多くて一種のアンタッチャブルな領域だと思ったんですけれど、そこで100年前からあったような曲をつくってみようと大それたことを考えて、珍しくピアノだけで主要曲をつくりました。

三宅さんにとって音楽はロジカルなものではないということでしょうか?

三宅:ロジカルな側面は当然ありますけれど、それはあとからとってつけた理論なんですね。音楽なんて、最初から理論はないわけだから。イノヴェイターがいて、「これはどうなってるんだろう」って、理論はあとづけなんですよ。それなのに、音楽学校は逆に教えちゃうので型にはまった人が出てきちゃう。

でも三宅さんも学校ではそういうふうに教わったんですよね?

三宅:幸か不幸か僕は即興演奏だけを目指して学校に入り、必須の作曲の科目以外はけっこうドロップしちゃっていたんです。基礎的なところはわかりますし、あとからは勉強しましたけれど、即興演奏って、つまりその場で作曲することじゃないですか? 作曲なんてやるやつはゆっくりしか即興ができないんだと、当時僕はそう思っていました。ほんとうはまちがっているんですけど。理論は自分でダメだなって思ったときにやればいいと思っていたんですよ。

さっさと学校を出て活動したかったということですね。

三宅:入ったときから外で演奏していました。

僕はずっと移動しているせいか、生きている間は旅だと思っているんです。

三宅さんはアメリカで活動され、いまはパリを拠点にされていますが、ローカリティが音楽そのものに働きかける部分は大きいと思いますか?

三宅:もちろん居住環境が変わったり国が変わることで意識せざるリフレクションはあると思いますが、基本的なメンタリティは変わらないですよ。そんなことをいえば、今日ここにいらっしゃるまでに歩いた道とか乗った交通機関とかでみなさんもそれなりの影響を受けているわけで。僕はずっと移動しているせいか、生きている間は旅だと思っているんです。そのなかのどこを切りとるかということですよね。

移動しつづけるなかで、伝統のようなものから遠ざかってしまうのではないかという危惧はないですか? たとえば日本的なものから。

三宅:それは日本の音楽教育システムが悪すぎるせいなんですよ(笑)。つまり、文明開化のときに新しい西洋の音楽の教育システムをつくってしまって、伝統音楽に対して一回切っちゃったでしょ? だから僕の世代でも(伝統的なものは)ないし、もっと上の方でもすでにない人が多い。皆さんの世代もきっとそうでしょう。ただ、そんなに聴いたことがなくても血の中にお祭りの太鼓とか能の間のとり方とかが入っていると思うんです。というのは、僕は白井さんの舞台で泉鏡花の『天守物語』という演目をやったことがあって、能管とか琴とか三味線とかを使って、はじめて和ものにがっぷり挑戦したんですね。そのときに和の旋律というのはあえて聴かなくても、「あっ、そうか。こういう感じか」とつづきが出てきちゃうことがわかったんです。和の感覚を僕はそんなに肯定してこなかったのに。けっこう怖いなとは思いました。で、答えに戻ると、日本から離れたからといって日本の伝統と切れるという気はしていません。なぜかというと、日本では伝統自体が切れているから(笑)。

逆に、海外で日本的なものを期待されることはありませんか?

三宅:それはあります。つらいんですね。その場合は、僕たちは伝統から切られているんだと。きっとあなたたちが聴いているのと同じか、あるいはもっと雑食的にいろんなものを聴いて育っている、と答えますね。

たしかに、日本の国土は自分たちでも気づかないくらい雑多なものでできているかもしれないですね。

三宅:僕がやっていることもそういうことだと思うんです。だから、そういう意味でこれは日本的な音楽だと僕は思っています(笑)。

話は戻りますが、『Lost Memory Theatre』における記憶とはどのような種類のものでしょう?

三宅:通過してきたありとあらゆる記憶のレイヤーです。

東京だと昨日まであった建物が壊されて更地になったあと、そこにかつてなにがあったかまったく思い出せないことがありますよね。東京とパリを較べてどう思われますか?

三宅:パリは街の美観を維持することが法律で決まっているんですよ。変えてはいけない地域があって、エアコンの室外機も付けられない。1階のお店の入れ替わりとかはありますけど、建物の外観は変えられないんですね。日本だと築40年の建物は古いですが、パリには三百年四百年の建物はざらにあって、それを直しながら使っているわけで、その感覚はすごくちがいますよね。

記憶のあり方もちがう気がしますね。

三宅:ちがうと思います。パリも中心部はそうだとしても、郊外は近代化しているので一概にはいえませんけどね。

でもどちらが正しいということではなくて、それぞれの都市のありようだとは思いますが。

三宅:もちろんどちらが正しいということではないんですが、さっきの教育の分断と同じように、フランスの人たちは何百年、何千年という流れが途切れていないとは思います。つまり、昔から何代も暮らしてきたところに自分も暮らしていて、営みが昔から脈々とある。そこはいまの日本にあまりないところだと思うんです。とくに東京なんかだと。

電車に乗っても、どの駅に着いたのかパッと見はわからないですからね。

三宅:あれはちょっと問題ですよね。アレックス・カーさんという著述家が日本の美についていろいろ書かれていますけど非常に共感したんです。彼は京都に庵があって、そこで古美術品などを集めたりしていたんですが、それを入手する手段が開発とともに変わってきてしまった。あるいは、彼は四国の山村にも別の庵があるんですが、その村自体が過疎化してダムができちゃうとか。

そういう現実がいたるところで進行していますよね。

三宅:田中角栄の『列島改造論』あたりからもうよくなかったのかもしれないね。たとえ改造するのであっても、この美しい国土をどうやったら美しいまま発展できるかって考えればよかったと思うんですけどね。

日本的な美しさは往々にして外から発見されますね。

三宅:この小さな島の中だけで価値観がまわっているからそうなるんでしょうね。どうせなら鎖国していればよかったのかもしれない(笑)。

急に極論が(笑)。でも三宅さんは閉塞した日本が息苦しくてフランスでの活動を選ばれたんじゃないですか?

三宅:それもありますが、もし鎖国していたら出なかったかもしれないですよ(笑)。そのなかにきれいなものはいっぱいあるんだから、それを極めればいいと思っていたかもしれない。さっきの教育システムの話にまた戻ってしまうかもしれないけれど、他の国のおもしろいものを知ってしまったから、彼らとコラボレーションするためには日本は地理的に遠い、その点がいちばん大きいです。

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コラボレーションでもなんでもそうですが、最初からうまくいくことは非常に稀なので、なんらかのコミュニケーションで埋めなくてはならなかったり、たがいに思っていた音の方向がちがうとかそういうことはいくらでもあります。

三宅さんはこれまで数え切れないほど仕事をしてきたと思いますが、いままでのキャリアで迎えた最大とピンチというと何を思い浮かべますか?

三宅:つねに臨戦態勢なので、マズいという感じがあたりまえなんですよね(笑)。コラボレーションでもなんでもそうですが、最初からうまくいくことは非常に稀なので、なんらかのコミュニケーションで埋めなくてはならなかったり、たがいに思っていた音の方向がちがうとかそういうことはいくらでもあります。僕は締切に遅れることはないので、言われたけどできないみたいなピンチはないんです。

較べるのもおこがましいですが、私も仮にも締切のある仕事をしていますけれども、三宅さんのように自信をもって遅れないとはいいきれないです(笑)。

三宅:瞬間湯沸かし的にやっちゃうんですよ(笑)。

壁に突きあたったりしませんか?

三宅:曲を完成させることにかんしていうと、頭の中できちんと音が聴こえていれば、そこにむかって走るだけなんです。まあ曲をつくっている最中に話かけられるとなにするかわかりませんけど(笑)。

CMの曲をつくるのでも、舞台でも映画のサウンド・トラックでも同じことですか?

三宅:同じです。デモを完成させてオーケストレーションするまで、だいたい3時間くらいなんですね。たまに「今日はこのくらいにして、つづきは明日やると楽しいかも」と思ってわざとやめるときもたまにあります。そうじゃないときは早く出しちゃわないと落ち着かないから。

出して自分の頭の中のスペースを空けるみたいな感じですか?

三宅:キャパは狭いけど、べつに音楽のことばかり考えているわけじゃないですよ。もっとほかによくないことも考えてますし(笑)、でもつくっているときは音楽に異常に集中しています。曲をつくるまではそういうプロセスなんですけれども、実際それをおのおののミュージシャンを呼んで、録って、そしてひとり増えるごとにプリ・ミックスしていくにはものすごく時間がかかります。なので、1曲3時間で書いたとしても、アルバムとして出すのに5年とか7年かかるんですね。青写真は短期間で出せたとしても、それは自分の頭のなかのものだけであって、人に会って、この人だと思う方に参加してもうらうたびに、その人なりの奥行が出てくる。それを微調整しながら、思いどおりにいかない場合は「どうしようかな」というのがいつもあるんです。

その録る環境そのものが楽音だと思うんです。僕は人肌、環境が集まったときにひとつの音楽になる、と考えます。だから無音のアイソレートされた、めちゃくちゃデッドな部屋で録る楽器の音はそんなに好きじゃない。

いまだとPCのシミュレーションでかなりリアルなサウンドができますが、それでもやはり誰かといっしょに音楽をつくりあげたいという気持ちが強いですか?

三宅:どんなに機械が進化しても人肌とはまるでちがいます。楽音というのは、たとえばサンプリング・サウンドはそこで録った環境も含めての音ですけど、(三宅氏の住居の階上から音が聞こえる)いま上で工事の音がしている、これも音楽の一部じゃないですか? その録る環境そのものが楽音だと思うんです。僕は人肌、環境が集まったときにひとつの音楽になる、と考えます。だから無音のアイソレートされた、めちゃくちゃデッドな部屋で録る楽器の音はそんなに好きじゃない。それなりの響きがあるところ、ふさわしい響きがあるところで録りたいと思いますね。


三宅純
Lost Memory Theatre act-2

Pヴァイン

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『act-2』も、階層化した音が奥行を感じさせますが、三宅さんの音楽は音響までふくめて成り立っているんですね。

三宅:それはもちろん。たとえば、自宅でストリングスを録ろうとなって、予算の都合でひとりしか呼べなくて、でも30人分の音がほしいときには、ただ30回音を重ねるのではなくて、椅子を少しずらしていったりとか、マイクを途中で変えてみたりとかそういうことは自分でやります。最終的にはエンジニアの腕にかかってきます。

サンプリングの小さなノイズを曲のなかにとりいれていますよね。そういった音は漫然と聴いたら聞こえないかもしれない。そういう音ものも含めての音楽だと考えていらっしゃるのでしょうか? あるいは記憶を音楽で表すには瑕(ノイズ)が必要なのでしょうか?

三宅:目的もなく好きだから入れています。というのは、いま解像度という意味では、テクノロジーの発達でクリーン過ぎる音の領域にまで入ってきているんです。デジタルでクリーンな状態は音が冷たい。だからものすごくクリーンな音を録っておいて、それを汚す音を入れないと僕は落ち着かないんです。

その判断はプレイ・バックしながらそのつど考えていく?

三宅:はい、そうです。音をひとつ足しただけでも全部のバランスを繰り返しとり直します。エンジニアに渡すときはほぼ完成形に近くなっているので、「バランスはこれね!」と指定して、音響処理だけをお願いするんです。プリ・ミックスにはすごく時間をかけます。

バランスが崩れるとまったくちがうものになってしまうんですね。

三宅:すべてバランスだと思います。シンプルなディレイとかリヴァーヴとほんのすこしコンプレッサーをかけることはありますが、お化粧でやるのはあまり好きじゃないです。

そう考えると、構想とか楽想とかがあったとしてもレコードのかたちになるまでには時間がかかりますね。

三宅:非常にかかりますし、そこの段階ではいろいろな迷いも生じます。レコードにするには反復に耐えうる普遍性ももたせなければならないので。

だから三宅さんの音楽は古びないんですね。

三宅:だとうれしいですけどね。そうあってほしいと思っていますけれど。

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──三宅さんが現在の三宅さんになった、つまり納得できた最初の作品はどこからですか?

『永遠之掌(とこしえのてのひら)』(88年)から『星ノ玉ノ緒』(93年)に移るこの2作かな。

録音にもトレンドがありますから、たとえば80年代のゲート・リヴァーヴが強くかかった作品などは、いま聴いたらちょっと大仰かもしれませんが、それでも三宅さんの作品は初期から一貫して残っていくものだという気が私はします。

三宅:それを目指していますけれども。やっぱり、ゲート・リヴァーヴもそうだけど、当時の最先端だったシンセの音とか、やっぱ恥ずかしいよね(笑)。自分のアルバムではそんなに使っていないと思うけど、CMでは使っているんですよね。

先日森美術館のアンディ・ウォーホール展へ行ったんですけど、最後のほうでウォーホルのテレビCMが流れていたんですよ。そういえば、この曲は三宅さんだったなと思い出しました。あれは最初のアルバムですよね?

三宅:そうですね。

〈TDK〉から出された──

三宅:よく知ってますね(笑)。

いや、私、もってますよ(笑)。

三宅:ほんとに!? いくつなの(笑)?

四〇代です(笑)。ウォーホルもインパクトありましたが、曲も気になったんですね。CMで使ったのは“I Knew I Was”ですよね。あのアルバムは再発されないんですか?

三宅:〈TDK〉の2枚は、自分にとって、あっ、あれは一種のピンチだね(笑)。僕はそれまでは「どジャズ」をやっていて、当時はフュージョン真っ盛りで、会社の意向もあったんです。それを全部飲んじゃうとほんとうにフュージョンになってしまうので、せめてブラコン止まりにしよう思っていたんですね。自分なりにベストを尽くしたんですが、2枚録ったあとで「レコード会社のいうことを聞きすぎると、自分の作品としてあとで反省することが多いな」と思って、こういう極北の音楽をやりはじめた気がします。

三宅さんが現在の三宅さんになった、つまり納得できた最初の作品はどこからですか?

三宅:『永遠之掌(とこしえのてのひら)』(88年)から『星ノ玉ノ緒』(93年)に移るこの2作かな。『永遠之掌』は80年代的に生の割合と機械の割合がイーヴンくらいになっていて、いま聴くとここは生にすればいいのにというのはいくらでもありますけれど、コンセプトとしては自分のやりたかったものではあった。ハル・ウィルナーとやった『星ノ玉ノ緒』はいま聴いても大丈夫かなと思いますね。

『星ノ玉ノ緒』は初期の代表作だと思います。スブリームさんとはこのころからのおつきあいですものね。スブリームさんとのアルバム『リュディック』を再発することにしたというのは、どういう理由からでしょう?

三宅:ライセンス期間が前のところときれたから(笑)。

もっとメロウなことをおっしゃっていただいた方がいい気がしますが(笑)。

三宅:そうだね。そういうトークができればいいんだけど(笑)。僕だけの意志ではないので。でもこれは彼女にとってこれは大きなアルバムだと思うので、マーケットからなくなってしまうのはいけないと思うんですね。

お見舞いに行ったら、「ジュン、この保険金でアルバムをつくろう!」と(笑)。すごい人だなと思いました。

三宅さんがフランスへ行かれて、東京を拠点とするスブリームさんがクロスフェードするようなかたちで制作されたアルバムですからね。

三宅:このアルバムをつくる前、彼女は大きな交通事故に遭ったんです。事故のかなり前から、アルバムをやってほしいとはいっていたんですけど、レコードディールがなかったので「機が熟したら」ととりあえずいっていたんですが、お見舞いに行ったら、「ジュン、この保険金でアルバムをつくろう!」と(笑)。すごい人だなと思いました。そういう思いが詰まっているのでこの作品をマーケットから消してはいけないとも思ったんですね。

『リュディック』の“Chinchilla”を聴いていたときに、私は娘がいるんですが、彼女が「このひと誰?」と聞いてきたので『ぜんまいざむらい』のひとだよ、と答えたときに、すごく納得していたおぼえがあります。

三宅:あぁ、少しイントロが似てるかもね。さらに補足するなら“Chinchilla”はレクサスのCMでした。節操なくてすみません(笑)。

いえ、三宅さんの音楽を耳にする機会が多く、強く記憶に残るものだからだと思うんですね。なので『Lost Memory Theatre』もどんどんアクトを重ねていっていただければと思います。

三宅:『act-3』でいったんきって、次に行きたい気持ちもありますけれど(笑)。『act-3』に関してはまだまっさらな状態なんですね。

そういえば、『act-1』の“A Dream Is A Wish Your Heart Makes”、『act-2』の“Que Sera Sera”ともに映画にまつわるカヴァー曲が入っています。どちらもアルバムの中間部に位置していますが、アルバムの構成に共通点をもたせる意味でそうされたんですか?

三宅:あっ、ほんとうに?

意図的ではないんですか?

三宅:曲順はこういう世界をつくるのにいちばん悩むとこで。ピンチは曲順でやってくるのかもしれない(笑)。アルバムというのは曲順でまるっきり変わってしまいます。同じ曲を収録していても曲順が変わるだけで流れもちがうし聴こえ方もちがう。「1曲目はこれだな」と決めたところから(曲順を考える作業が)はじまるんですけれど、真ん中にもってこようという意図はなかったですね。ここまでこうきたらこれかなと。

作品としてシンメトリックな構造を通底させたのかと思っていました。『act-1』は“Assimetrica”からはじまりますし。

三宅:そういうことをいえばかっこよかった(笑)。

(笑)最初にも申しあげましたが、『Act-2』は次を予兆させる作品だったので、いちファンとしてもぜひケジメをつけていただきたいと思っています。

三宅:ありがとうございます。たくさん聴いていただいてうれしいです。

MANNERS - ele-king

 近代では、村に帰属できない漂泊民が定住する経済的トポスとして、都市は生まれ、発展した。貿易の拠点であり、人が自由に出入りするエリアであり、商業と文化に惹きつけられるように人が集まる場所だった……と。大企業が支配する今日の都市にはまた別の物語があるのだろうけれど、都会情緒はつねに音楽にとって大きな主題としてある。

 見汐麻衣(ex埋火)の新しいプロジェクト、MANNERSは、淡い都会情緒を煌めかせながら、大人びて洗練されたアレンジとグルーヴのなか、時折カンタベリー系さえ彷彿させるジャズ・ロックもちらつかせる。プロデューサーは石原洋、エンジニアは中村宗一郎。ゆらゆら帝国~オウガ・ユー・アスホールを手がけてきた黄金コンビの、新たなプロジェクトである。注目のデビュー・アルバムの発売は10月15日、タイトルは『Facies(フェイシーズ)』。続報を待とう。

MANNERS WEB:
https://srennam.wix.com/manners

DJ AGEISHI - ele-king

 大阪のDJ AGEISHIが今年還暦を迎えた。日本で最初のDISCOと呼ばれた「赤坂MUGEN」からキャリアをスタートし、過ぎる時代の中で数々のスタイルの変遷を重ねながら、いまだに一線の場で活躍を続ける日本が誇るリビングレジェンドをお祝いすべく地元大阪を始め各地で祝賀パーティが催されてます。
 東京では9/3青山ZEROで、そして9/5には12周年を迎えたばかりの中野HeavySick ZEROにて豪華な面々を迎えて開催されます。キャリアに裏打ちされたその素晴らしいプレイを是非現場にて体感して下さい。

■DJ Ageishi 生誕60年を祝してバースデーバッシュをDJ NORIホームパーティTreeにて、開催決定!

2014.9.3. WED
OPEN 22:00 / DOOR 2000yen(1d) / W/F 1500yen(1d)
Guest DJ:DJ AGEISHI (AHB pro.)
DJ:NORI(KONTACTO)、YUKI TERADA
more info
青山ZERO
https://aoyama-zero.com/

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■Luv&Dub Paradise
~DJ AGEISHI Happy 60th Birthday!!!!!!~

2014.09.05(fri)
@heavysick ZERO
OPEN&START/23:00
DOOR/2000YEN+1D
W.F/1500YEN+1D
DJ:DJ AGEISHI (AHB.pro)、DJ WADA (Co-fusion)、DJ NORI (TREE/gallery)、Ackky (journal)、KABUTO (CABARET)、Hagiwara (FAT BROS)、P-RUFF (radloop)、JYOTARO (BLACK SHEEP/LOCUS)、FUSHIMING(HOLE AND HOLLAND)、YAMADA(Luv&Dub Paradise)
more info
heavysick ZERO
www.heavysick.co.jp/zero/

Burial Hex - ele-king

 今年のはじめごろ、ブリアル・ヘックス(Burial Hex)が初めてLAでショウをおこなうとのことでEBMやミニマル・ウェーヴなんかのパーティをガンガン推している寝床から、近所のハコ、〈コンプレックス〉に観に行った。かなりキモかっこ良かった。90分近い、終始スーパー・ラウドなロングセットを飽きさせず……いや、途中のドローン・パートで一服していたけれども、充実したパフォーマンスであった。いったいどこからこんなに湧いてきたのか、ショウに群がるLAのゴス女子は不思議とメンヘラ感が薄い。カリフォルニアの気候とゴス、情熱的なラテン系女子とゴス、自然な調和をみせる光と影かな、などとゴスな衣装に包まれるたくさんの谷間やケツを目で追っていたから妙に満足しただけかもしらんが。

 話がだいぶ逸れた。アメリカ中西部のド田舎、ウィスコンシン州マディソンを拠点に活動する暗黒電子音楽家クレイ・ルビー(Cray Ruby)ことブリアル・ヘックスに僕はデビューから現在に至るまで毎度、黒くてぬるっとした感銘を受けている。ホラー・エレクトロニクスと形容されるクレイのサウンドはインダストリアル、儀式音楽、アンビエント、フリー・インプロヴ、サイケ・フォーク、ネオクラシカル、コズミック・シンセジス、ブラック・メタル、といったアンダーグラウンド・ミュージックに湧き出る黒い泉の水にディスコの油を加えて完成させたエリクサーである。その完璧な配合は錬金術師クレイにしかおこなえない。書いていることがだいぶ中2じみてるな。クレイいわくブリアル・ヘックス(埋葬された呪い)は地底深くに隠されたある種のエネルギー・サイクルであり、それはヒンドゥー教の宇宙論において循環するとされる4つの時期の最終段階、万物が破滅にいたる終末の状態を表すそうだ。カリ・ユガ(Kali Yuga)である。なんのこっちゃ。

 ブリアル・ヘックスのサウンドを単なる中2で終わらせないのは、そのオカルトな思想体系や芸術的探求心のズブッズブなドープさ、それにギリギリ悪趣味にならない完璧なバランスで成立する比類なきトラックの完成度にある。
 サイキックTVやメルツバウのリリースでもお馴染み、ノイズ/ゴス系大御所レーベル、〈コールド・スプリング(Cold Spring)〉から前回ココでレヴューした『惑わしの書(Book of Delusion)』に引きつづき、12インチや7インチ、テープなどのキラーなトラックだけを集めたコンピレーション・アルバム『心霊の護り(In Psychic Defense)』(同名タイトルの12インチも存在するので注意)が発売された。これがまた名曲揃いで、購入後にディグりがいのある音源だ。それに、毎度毎度僕のお気に入りの映画のシーンを持ってきては勝手にミュージック・クリップにしてやがるのも気になりやがるのだ。前作、『惑わしの書(Book of Delusion)』のタイトル・トラックではフェリーニのローマだし、

 今作に収録される“ハンガー”にいたっては僕もその昔自分のバンドのライヴで濫用していたマヤ・デレンの『ディヴァイン・ホースメン(Divine Horsemen)』だし! おまけにリリックはランボーの詩だし、

 ラストの“ザ・タワー”はデレク・ジャーマンの『セバスチャン』だし……

 このトラックは収録されなかったが、“ザ・ナイト”のリリックはリルケの詩だし、

 今作に収録される7インチにカットされたトラック“ファンタジー”はピュンピュン系のアシッド嫌いの僕でも聴き入るほどキモかっこいい名曲だ。ぜひダンスフロアで聴きたい。

 かつてのニノス・ドゥ・ブラジル(Ninos Du Brazil)のニコ・ヴァセラリとクレイのコラボレーションであったアート・インスタレーション、『I hear a shadow』の共鳴から連なる暗闇からのズンドコの誘いはこんな現代だからよく響くのかもしれない。CDなんで手に入りやすいと思います。

interview with Blonde Redhead - ele-king

 カズ・マキノ氏はけっして流暢に話す人ではない。しかし、言葉をさがしながら、回答をさがしながら、正直に真摯に質問に答えようとしてくれることに心を動かされる。そこには、人に何かを伝えることについて、人に何かを届かせることについて、ふと自分(私)の不誠実や不努力を省みずにはいられないような……ひいてはマキノ氏自身が音楽に対してどのように向き合っているのかということを感じずにはいられないような、とても濃い時間と交流がある。
 ミュージシャンだってスポーツ選手だって同じだ。言葉たくみにインタヴューに答える必要はない。しかし受け答えから伝わる情報は言葉だけではない。まっすぐなコミュニケーションはときに驚くほどの情報をつまびらかにする。プレゼンに長けた、不況型で超高性能なゆとりアーティストたちもまばゆいが、今回のインタヴューでは、ナインティーズのUSインディが持っていた一種の口の重たさや純粋主義が、社会と時間にすり減らされることなく生きつづけていること、そしてそれが言外に語ることの多さに思わず感動してしまった。


Blonde Redhead
Barragán

Asawa Kuru / ホステス

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 そう、ブロンド・レッドヘッドといえば、ハードコアとジャンクとノイズをアーティに縫合し、スティーヴ・アルビニ率いるビッグ・ブラックや、スリント、ジーザス・リザードなどのカリスマ・バンドを世に送り出してきた名門〈タッチ・アンド・ゴー〉の重要アーティストとして、レーベルの90年代を華やがせたバンドのひとつだ。アルビニがあのおびただしいマイクを向けたのはたとえばドラム・セットにであって、「言葉」にではない。バットホールのギビー・ハインズの裸は、どんな言葉によるエクスキューズよりも雄弁に彼らを語る。レーベル内においては少し異色の佇まいをしているとはいえ、ブロンド・レッドヘッドもそのように「無口」なバンドである。もう20年以上にも及ぶ活動のなかで、語るよりもただ奏でるという、あの佇まいや存在感はまったく変わることがない。イタリア人の双子兄弟(ドラム、ギター)と日本人女性(ヴォーカル、ギター)というソリッドで耽美的なフォーメーションは、そのまま彼らの音のアイデンティティだ。立ち姿と演奏以外は何も必要ないと思わせられるその美しさは、当初のポスト・パンク寄りのジャンク・サウンドがのちに幽玄なサイケデリック色を強め、それに重なるように〈4AD〉へと移籍したのちも、ミステリアスに引き継がれている。

 今週、彼らは4年ぶりにして9作めとなるスタジオ・アルバム『バラガン』をリリースする。プロデュースとミックスはドリュー・ブラウン(ベック、レディオヘッドなど)。前作『ペニー・スパークル』(2010年)や、その前の『23』(2007年)がリリースされた折には、「昔のほうがよかった」という向きもあったが、今作を聴けば、それら〈タッチ・アンド・ゴー〉期のものが、〈4AD〉期のもののなかにもずっと息づいていたことをあらためて知ることになるだろう。そしてまた、〈4AD〉以降の艶やかさが、〈タッチ・アンド・ゴー〉期の厳しい美意識に統制されたノイズなくしては発火しないことにも納得するだろう。言葉ではないもの、理屈ではないものが燃えるように渦巻くこの作品は、昔から変わらず、しかし残る灰もないほど激しく熱を帯び、それゆえにおそろしいほどの静やかさを得ている。

■Blonde Redhead / ブロンド・レッドヘッド
日本人女性カズ・マキノと、イタリアはミラノ出身の双子兄弟アメデオとシモーネを中心に、1993年に結成。バンド名はアート・リンゼイの原点と言えるDNAの曲名からとられており、ソニック・ユースのドラマー、スティーヴ・シェリーがプロデュースしたデビュー・アルバムが絶賛されて一躍脚光を浴びた。現在においてもNYアート・ロックの中核を担い、第一線にて活躍するベテラン・バンドとして大きな存在感を誇る。


やっていることはあまり変わってないというか。ただ、記憶喪失みたいな感じで、何度やっても新鮮に感じることができれば、それで十分って思います。あたしがそう感じられれば。

2012年にチャリティ・コンピを編集されていますよね。『ウィ・アー・ザ・ワーク・イン・プログレス』(*1)という、タイトルもとても好きな作品です。あのとき思ったのは、マキノさんってエレクトロニックな音楽がお好きなんだなということなんです。

*1:東日本大震災被害と復興支援を目的とするチャリティ・コンピ

マキノ:そう! すごく小っちゃい分野のエレクトロニック・ミュージックが大好きで。

そうなんですね。少し意外でした。コンピには、フォー・テットとかノサッジ・シング、パンサ・デュ・プランスなんかも入っていましたけど、もともとお知り合いだった縁からですか?

マキノ:彼らとはいっしょにツアーを回ったりもしていました。もうすっかり友だちという感じで……。

ああ、ツアーを回っておられるんでしたね。

マキノ:あたしはあの分野の方へも、あたしたちみたいな分野の方たちへも、どっちにも注意を払っている感じです。そうすると、思いがけないところで交流があったり、お世辞かもしれないけど自分たちの音楽を褒めてくれたりすることもあって。

ミニマル・ハウスとか、いわゆるLAビート・シーンとか、そういうところとブロンド・レッドヘッドが交差するのがおもしろいなと思っていました。もっと古いテクノやダンス・ミュージックにさかのぼっていったりはしないんですか?

マキノ:うん。そんなによく理解しているというわけじゃないんですけど、少しなら。パンサみたいな友だちからいろいろ教えてもらっていますね。ツアーでいっしょにデトロイトに行ったときに、「あそこへあの人に会いに行こうよ」って、いろんなところに見学に連れていってもらいました。

へえー! 一方で、テリー・ライリーまで入っていますよね。

マキノ:そうなんです。大好きです!

たしかに、ブロンド・レッドヘッドの昔の作品にはミニマルな要素もあるように思えますね。もしかして、むしろ原点だったりするんですか?

マキノ:そういうわけでもないんですけどね。でもしいて言えば、エレクトロニック関係の人たちに教えてもらったり、そういう音楽に興味を持つなかで広がっていったものかな……。

なるほど。他に収録されているライアーズとかディアハンターとかは、より近しいところで活躍しているバンドかなと思うんですが、実際の影響関係を感じたりはしますか? ……時間がないのに、新作のお話じゃなくてすみません!

マキノ:いえ、あたしも興味あるんです、他の分野の人たちには。……えっと、影響関係ですか? ぜんぜん(笑)。

えっ(笑)。でもリスペクトされる対象なんじゃないでしょうか、ブロンド・レッドヘッドって。

マキノ:うーん、みんな優しくしてくれますけど、尊敬とかはないんじゃないかなあ。はははは。

えー。でも20年にもおよぶ活動のなかでずっと一線にいらっしゃるというか、活動が縮んでいかないのはすごいですよね。

マキノ:ほんとですか。

実際どうですか? 日々あたらしいアーティストや音楽が生まれていくわけですけど、自分たちの立ち位置やスタンスみたいなものの変化を感じますか?

マキノ:ははは、崖の淵へとじわじわと……(笑)。

いやいや。ではなくてですね(笑)。

マキノ:そうですねえ、やっていることはあまり変わってないというか。ただ、記憶喪失みたいな感じで、何度やっても新鮮に──いままでの経験をシチューみたいにずっと煮込んでいくっていうんじゃなくて──感じることができれば、それで十分って思います。あたしがそう感じられれば。
 とはいっても、振り返ってみれば自分の好きなものも変わってないなって思ったりもするんですけどね。何か新しいことをやりたいと思ったら、飽きてしまったものは省いていっているつもりなんですけど、結局それは同じものをちがうアングルから見ているだけ……というようなところはあるかもしれないです。

ということは、やっぱり、バンドにおいて作品の方向性の舵取りをしているのはマキノさんということになるんでしょうか。

マキノ:どうだろう……。

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でもあたしはなんか、このバンドの世界はあたしの世界っていうか……。あたしが自分の世界から抜けられないで、ずっとその中にいると、また彼らがそこに帰ってくるっていう感じです。


Blonde Redhead
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不思議なんですよ。アメデオさんのギター・ノイズも、シモーネさんのあのドラミングも、ブロンド・レッドヘッドの音楽を引っ張る上で絶対に欠かせないものじゃないですか。でもブロンド・レッドヘッド感を統べているのは何なのかという。それはマキノさんじゃないですか?

マキノ:うーん。……そうかもしれない。

ヴォーカルが入るときに命が吹き込まれる感じはありますか?

マキノ:うん、ヴォーカルっていうかメロディかな。自分でもよくわからないんですけど。

アメデオさん、シモーネさんは双子ですけど、3人でひとつながりみたいに見えます。話し合いやセッションのせめぎ合いでバンドのダイナミズムが生まれたりするんじゃなくて、ひとつのものから音が生まれてくるというか。

マキノ:そう。でも毎日いっしょにやっていて思うのは、彼らは本当に男の子だなって。集まっていっしょに何時間か演奏したら、そのあとは疲れたから帰るとか、サッカーしにいくとか、すぐに切り替えられるんです。でもあたしはなんか、このバンドの世界はあたしの世界っていうか、こう……それから抜けられる感じじゃないんです。抜けたいとも思ってなくて、四六時中そのことしか考えていないし、それに関係することしかしないのに、彼らはそういうんじゃないんですよね。あたしが自分の世界から抜けられないで、ずっとその中にいると、また彼らがそこに帰ってくるっていう感じです。
 たとえばレコーディングが終わると、今度はあたしがジャケットを考えたりする時間がきて、それも音楽と同じくらい時間がかかったりするんですけど、ふたりはぜんぜん関与しなくて、たまに「どうなってるの?」「どんな感じ?」ってきいてきたりしますね。それで、「それはいいね」「これはこうしたほうがよくない?」ってフィードバックしてくれる。あたしはその世界から出られなくなることがときどき嫌になっちゃったりもするんですけど、たぶん彼らとはそういうちがいがあるんじゃないかなあ……。

性別のちがいというところもあるかもしれないですね。母体、というような言葉が浮かびます。海みたいな、胎内みたいなところ……

マキノ:どっぷり、っていうか、本当に自分で抜けられない世界なんです。彼らはプラクティカルっていうか、そういう意味では普通の世界と行き来できていて、いいなあって思ったりすることもあります。

むかしからその(〈4AD〉期的な)傾向はあったと思うんですけど、それを隠してつくっていたのが〈タッチ・アンド・ゴー〉のころのやつかな……。

わたしが個人的に好んで聴いていたのは〈タッチ・アンド・ゴー〉からの3枚なんですけども、あのソリッドで殺伐とした空気感、ノーウェイヴィでハードコアっぽさもあって、そういったところがすごく〈タッチ・アンド・ゴー〉というレーベル自体の色をも体現していましたよね。その後の〈4AD〉期はより耽美的なシューゲイズ感を増していて、魅力的なサイケデリックを展開されています。きれいに線引きできないかもしれませんが、こうした転換は意識されたものですか?

マキノ:そうですね……、むかしからその(〈4AD〉期的な)傾向はあったと思うんですけど、それを隠してつくっていたのが〈タッチ・アンド・ゴー〉のころのやつかな……。表面を除くと、みんな同じ要素かもしれないです。

ああー。

マキノ:どっちの要素もアットホームというか、親しいものかなと思います。ライヴをやっていても、その間を行ったりきたりしていますね。

なるほど。ではそのだんだん剥き出しになっていった〈4AD〉的なサイケデリック感、耽美的な要素というのは、今作ではいちばんピークに達しているように思えます。

マキノ:聴きました!?

はい! そういう意味では極点じゃないですか?

マキノ:そうですね、すごく、究極な……。

『ペニー・スパークル』(2010年)の“ヒア・サムタイムズ”みたいな、ギター・ノイズが入ってこないシンセ・ポップの系統があるじゃないですか。そういうものの究極というか。

マキノ:そうですね、今回のアルバムにはギターはたくさん入っているんですけど、なんていうのかな、それはけっこう悪い癖というか。悪くもないんですけど、わたしたちは、放っておくとスペースが残らないほど音をレイヤードしてしまう傾向があるので、それをなるべくしないように、たくさん空間が残るように、って思ってやってますね。

なるほど、そのぐしゃっとした感じは魅力でもあるわけですけどね。

マキノ:うん、でも自分たちのなかで空間をつくるような傾向があまりないので、そのぶん努力してやってます。

“ノー・モア・ハニー”なんかもすっごくかっこいいんですけど、なるほど、たしかにスペースができていて、そのぶんむしろ空気が濃密に感じられるようになったのかもしれないです──あったはずのノイズが吸収されていて。

マキノ:うん。

あるいはそんな方針が生まれたのは経験とか年齢の積み重ねだったりするんでしょうか? それともたんにいまの好みなんですかね。

マキノ:どっちもあるかな……。でも、新鮮は新鮮で、いまの時代の傾向を見ると、あまりそのようなことをしている人たちはいないのかもしれないですね。

たとえば“バラガン”のように、マニュエル・ゲッチングとかにもつながっていくようなタイプのアンビエント・トラックもあるじゃないですか。それなんかも同じような考え方から生まれているんでしょうか。

マキノ:うーん、ほとんど何も聴かずに作ったようなアルバムなんですけどね。

なるほど、元からあったものだと言われれば、そうなのかもという気持ちになります。それが、ノイズの皮をむいたら出てきただけという。

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あたしがもしいま音楽をはじめたばっかりだったとしても、おんなじことをやっていると思います。


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マキノ:今回2年かかったんです。実際に残したものはいちばん最初のテイクだったりとかするんですけど、レコードについて考えた時間は2年間。曲を書いていながら、完成する前にやめてレコーディングに入ったりしたんですけど、それは時間がなくて終わらなかったからではなくて、終わらせないほうがいいって思ったからで──贅沢な話なんですけど、書きながら録音しようっていう意図とかはありました。そういうのは考え抜いて決めたことです。

ドリュー・ブラウンさんの起用はエレクトロニクスとバンド・サウンドをミックスするのに長けているから、というような理由ですか?

マキノ:いや、彼はとにかくものすごくセンスのいい人で、もちろんエレクトロニックへの理解もすごくあるんですけど、彼のいちばんの特徴はライヴ・レコーディングで──いまはもうないようなスタイルで、ライヴ録音できるっていうことなんです。

なるほど、同期じゃなくて、セッションを大事に考えていらっしゃるんですね。ブロンド・レッドヘッドは。

マキノ:そうですね。それに、80年代以降のシンセサイザーは使わないって。あっても80年代の初めくらいまでで、すべては70年代、60年代のものを使いました。ちょっと好きな新しいキーボードなんかがあっても、それは我慢して。あんまり誰にもわからないようなところなんですけど(笑)、そういうところに妙に気をつけて作ったものです。

なんというか、ニュアンスとしては「ヴィンテージ」というよりも、変わらないもの、古びないもの、というような感じですかね。

マキノ:そうですね。うん。

ブロンド・レッドヘッドのイメージに重なります。悪口じゃないんですけど、「吸血鬼か?」って感じに変わらないじゃないですか。老いないというか……

マキノ:あははは!

ははは! 年を重ねるということについてはどんなふうにお考えです?

マキノ:たしかにやっていることは昔から変わらないと思うんですけど、やっていることに対する重みみたいなものはあるんじゃないかと、ちょっとは感じてるんです。でも、あたしがもしいま音楽をはじめたばっかりだったとしても、おんなじことをやっていると思います。すごく難しいことをしているわけでもないと思いますし。
 まあ、いままでやりつづけてきた結果というのは、どうしても、もし欲しくなくても積もっていくものだから。

老いるのはいやですか?

マキノ:老いるのですか? いや、老いるのがいやというより、老いたということを自覚できないでいるのはいやだなって思います。いや、それもそれなりにすばらしいと思うんですけど、……そういう人ってたまにいるじゃないですか。

ははは! 老いた自覚のない人ですか。

マキノ:すごいアレなのに、まだ小学校に行くのと同じような恰好をしているっていうような。でも、自分もそのノリになっちゃったりするのかなって思うこともあるんですけどね……。といいつつ、老いるのが怖いわけではないです。

あと、海外の人からすれば、日本人の女の子ってふうに見られるわけじゃないですか──

マキノ:そうでもないよ。

あ、そうですか?

マキノ:うん、うん。

自分の言語(日本語)じゃない言語で表現するのって、すごく得っていうか、客観的に、自分のことじゃないみたいに自分のものを作れる。

なるほど、でも日本の人からすれば、マキノさんは日本でも海外でもない狭間に立つ人という感じがすると思うんですね。そういう狭間から見えるものがあるんじゃないかなって。

マキノ:自分の言語(日本語)じゃない言語で表現するのって、すごく得っていうか、客観的に、自分のことじゃないみたいに自分のものを作れる。日本語でやってたらここまでフランクに表現できないんじゃないかなあって。そこには妙な溝というかギャップがあって、それがあたしにとってはすごく便利っていうか、ちょうどいいっていうか。
 だからたまに「日本語で何かやらないの?」って訊かれるんですけど、ぜったいできない!

あ、やらないというよりできないという感じですか。

マキノ:急に恥ずかしくなって無理だと思います。それはある意味で得なことだと思います。

J Mascis - ele-king

 J・マスキスよりもJ・マスシスと発音するほうがしっくりくる世代のものです。なので、ここではあえてJ・マスシス表記で統一させていただこうと思うのですが、いかがでしょう? ま、どちらでもいいんですが、なかなか思い入れもありまして。J・マスシスといえば、もちろんダイナソーJr.その人であり、個人的な話になるけれど、ダイナソーをリアルタイムで聴いた最初の作品が『ホエア・ユー・ビーン』(1993)なので、ハードコア上がりの疾走感と爆発力を携えた名作『バグ』(1988)、ゴージャスさを増したメジャー・デビュー作『グリーン・マインド』(1991)らに比べるとずいぶんレイドバックしたところから入門しているわけで……。が、しかし、トレードマークの轟音は健在で、翌94年の『ウィズアウト・ア・サウンド』リリース時の来日公演(@新宿リキッドルーム)では、高く積み上げられたマーシャルアンプから繰り出される音の壁に耳をつんざかれ、興奮状態で朦朧とした意識のなか、胸を焦がすこよないバラード“ゲット・ミー”に身をゆだねながら、当時はまだ止めていなかった煙草に火をつけて悦に入っていたものだ。

 そんな話はさておき、97年のダイナソーJr.解散以降、さまざまなバンド・プロジェクトのほか、J・マスシス+ザ・フォッグ、J+フレンズなどの名義でソロ作品をリリースしてきたJであるが、ずばり「J・マスシス」名義のものとなると特別である。前作『セヴェラル・シェイズ・オブ・ホワイ』(2011)では、全編アコースティック&ドラムレスという予想範囲内の(しかし、これまでにない歌のおセンチっぷりは、はるか予想外!)静かな作品を用意してくれたが、3年ぶりの本作も基本路線は変わらず。前作の1曲めには、“リッスン・トゥ・ミー”(俺の言うこと聞いてくれ)なんて謙虚な(?)タイトルをもってきていたが、本作1曲めでは“ミー・アゲイン”(もう一度俺を)などとさらに切実なタイトルからはじまる(Jの歌詞にはやたらと「Me」が出てくるんだな)。しかし、その内容に押しつけがましさなどまったくなく、前作において多分に含まれていた湿り気をいくらか運び去り、からっと晴れ渡る爽快さに満ちあふれている。“エヴリ・モーニング”では、J自身による跳ねまくる軽快なドラムも導入され、彼のトレードマークであるビッグマフ(ファズ)を踏みこんだ太っとく歪むギターソロも飛び出して耳を奪われる。“ヒール・ザ・スター”では、ティラノザウルス・レックスよろしく、Jが心酔するインド文化の影響が垣間見えるラガーでオリエンタルなギター&パーカッションの混沌が現れ、続く“ワイド・アウェイク”では、一変して広大無辺のアメリカーナな景色が広がり、ゲスト参加のショーン・マーシャル(キャット・パワー)の乾いた歌声とともに優しく静かに枯れ落ちる。さらにダイナソーの隠れた名曲“フライング・クラウド”を彷彿とさせるサイケデリック・フォーク“スタンブル”、刷毛でなすったような渋いファズ・サウンドがアコースティック・ギターの背後を薄雲のように流れる“カム・ダウン”など、ラフな作りのなかにも、思わず二度見、三度聴きしてしまう気の利いたアレンジが詰めこまれ——平均年齢80歳のコーラス・グループ=ヤング@ハートのメンバー、ケン・マイウリによる装厳なピアノ演奏もじつに巧妙——パンキッシュなパワーコードと複雑なアルペジオが織り成すリズミカルなギター、そして、なにより、しこたま気が抜けているのに不思議と力強い抑揚をもつ声&メロディの妙がいかんなく発揮されていて、ぐいぐいと惹きつけられる。

 「ダイナソーのアコースティック版」と言ってしまえば、じつにわかりやすくてそれまでの話になってしまうが、ここでは85年のダイナソーJr.デビュー以来、およそ30年に渡って繰り広げられてきたJ節がなんら変わらずに展開されている。しかし、ただのヴィンテージ趣味に終わらないこだわりの歪み、曲の緩急、リズム、声色の高低、ポジとネガ、ピッキングの強弱、ファズの軋みからノイズの取り扱いまで、やる気があるのかないのかまったくわからない感情の起伏に従って、ころころと変わる楽曲の表情の豊かさはこれまでの作品のなかでもピカイチであり、いつになく愛らしくもある。前作同様マーク・スパスタによるソフトでサイケな色づかいと、もふっとした質感の(得体の知れない)ゆるキャラが仲良くたたずむ幻想的なアートワークも、おとぎ話のように浮世離れしたJの音楽をうまく表していて、まるで、手に取りやすいのに捕まえにくい彼の生態そのもののようである。そして、緑と紫に発色し(ダイナソー時代からやたら好んで使われている色の組み合わせ)、苔のごとく生え広がる少しばかりの憂鬱もブレンドされ、そのメランコリアはじわじわと心のひだに沁み入り、胸の内奥をしっとりと濡らしてくれる。

ストリートで遊びつかれるための21冊 - ele-king

 重版出来! 在庫僅少となっておりました磯部涼・九龍ジョー『遊びつかれた朝に──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』ですが、そろそろ復活いたします。発売から3ヵ月ではやくも品薄となり、発売から3ヵ月たってもまだまだオーダーをいただけているele-king booksの人気作、購入を迷われていた方はぜひこの機会にお買い求めください。

 また、紀伊國屋書店新宿本店さんで開催中の「ストリートカルチャーフェア」内にて、著者のおふたり、磯部涼さんと九龍ジョーさんの選書コーナーが展開されています。
 ストリート・カルチャーについてさまざまな角度から考え、実際にそのなかで“遊びつかれる”ための21冊。売り場では選書リストの載ったリーフレットも配布中。ぜひ足をお運びいただき、良書の数々をめくってみてください!

■ストリートで遊びつかれるための21冊
──磯部涼・九龍ジョーによる選書フェア
紀伊國屋書店新宿本店にて開催中の「ストリートカルチャーフェア」内にて

開催場所:紀伊國屋書店新宿本店 7階芸術フロア
開催期間:8月中旬より開催中



Tower Amazon

語られていないことが多すぎる!
磯部涼×九龍ジョー、
ライヴハウスからネット・ミュージックまで、
音楽と“現場”のいまを考える対話集。

磯部涼と九龍ジョー。
音楽やそれを取り巻く風俗を現場の皮膚感覚から言葉にし、時代を動かすアンダーグラウンド・カルチャーをつぶさに眺めてきた人気ライター2人が、これからの音楽の10年を考える連続対談集『遊びつかれた朝に──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』、ついにリリースとなります!
2010年代に、音楽はどのような場所で鳴っているのか、それは政治や社会とどのように関係しているのか……。
過剰な情報に取り巻かれながら、いまいる場所に希望を生むための、音楽のはなし。

●まるで問題集。考えるためのヒントがぎっしり!
日々おびただしい音源とニュースが行き交う音楽シーン。しかし、「話題」はあふれていても、「問題」はぼんやりとそのなかに埋もれてしまっているもの。小さなシーンやコミュニティの豊かなあり方から、隣国韓国インディの現在や風営法や原発をめぐる運動、あるいはシティ・ポップ再評価を通した東京と都市の考察まで、インターネット上も含めたさまざまな「現場」を軸として、見えない問いに色をつける4つの対話を収録。もっともっと考えたくなる、音楽カルチャーのいま。

●すぐに誰かと話したい! いまならではのトピック、ふたりならではの考察。
銀杏BOYZが残した本当のインパクト/日本にインディが根づくとき/音楽に可能な“下からの再開発”/ミュージシャンと政治の関係/風営法は何を守るのか/「すべてをかける」音楽の終わり/アートと倫理/韓国インディのいま/世界標準か、「ガラパゴス」か/「ずっとウソだった」──ヒットソングが示すもの/2万字インタヴュー再考/東京とシティ・ポップ/圧縮情報のシャワー/なぜ音楽のなかで社会について語ろうとするのか
……などなど既視感を越えていく充実の議論。

■磯部涼
音楽ライター。1978年生まれ。主にマイナー音楽、及びそれらと社会との関わりについてのテキストを執筆し、2004年に単行本『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』(太田出版)を、2011年に続編『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)を刊行。その他、編著に風営法とクラブの問題を扱った『踊ってはいけない国、日本』『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(ともに河出書房新社)がある。

■九龍ジョー
編集者、ライター。1976年生まれ。ポップ・カルチャーを中心に原稿執筆。『KAMINOGE』、『Quick Japan』、『CDジャーナル』、『音楽と人』、『シアターガイド』、などで連載中。『キネマ旬報』にて星取り評担当。編集近刊に、坂口恭平『幻年時代』(幻冬舎)、岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』(河出書房新社)、『MY BEST FRIENDS どついたるねん写真集』(SPACE SHOWER BOOKS)などがある。

■磯部涼+九龍ジョー・著
『遊びつかれた朝に
──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』

ISBN:978-4-907276-11-9
価格: 本体1,800円+税
並製 256ページ


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