梅雨前のこの時期こそ、日本にとって最高の季節ですな。竹内のようにトーフビーツや大森靖子を通勤のBGMにしたり、住所不定無職を家聴きしているあつい男がいるいっぽうで、インクやライの家聴きを楽しんでいる野田のような疲れた男もいる。いずれにせよ、この最高の初夏の後には最悪な梅雨が待っている。そして、それさえ乗り越えれば、夏だ。
チルウェイヴのエース、ウォッシュト・アウトがセカンド・アルバムをリリースする。橋元が喜び、木津は耳をふさぐであろう、が、第三者から見れば、ライもウォッシュト・アウトも同類である。そう、ピュリティ・リングも......。
『パラコズム』というアルバム・タイトルで、コンセプトは『指輪物語』で知られるJ・R・R・トールキンやC・S・ルイスの『ナルニア物語』のようなファンタジー小説や架空の世界にインスパイアされている。と資料に記されている。「逃げる」が主題である。
"ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー"のメロトロン・サウンドからの影響、あるいはレゲエのリズムが入るなど、デビュー・アルバムとは比較にならないくらい音楽的な展開がある。前作の籠もった感覚は新作にはなく、解放的だ。この音楽はあなたをすっかり骨抜きにするだろう。ウォッシュト・アウトのセカンド・アルバム『パラコズム』8月7日、日本先行発売!
(※ちなみに次号の紙ele-kingでは「この夏オススメの部屋聴きchillout特集あり。ウォッシュト・アウト=アーネスト・グリーンのインタヴューも掲載予定っす)
「Sã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
ここ数年チルアウトスペースでのDJブッキングが多いので、そんな10曲選です。
いい場所あればお誘い下さい。
DJスケジュール
5/25 Wander-ground (あきる野キャンプ場)
https://wonder-ground.jp/about.html
6/15 HOUSE OF LIQUID (LIQUID ROOM)
https://www.liquidroom.net/schedule/20130615/14701/
6/22 SLOW MOTION (神戸 塩屋 旧グッゲンハイム邸)
https://www.nedogu.com/blog/archives/7091
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三田村菅打団? - Asa Branka - Compare Notes https://www.youtube.com/watch?v=2gzoV1h1BjU |
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yumbo - 人々の傘 - Igloo Records https://www.youtube.com/watch?v=KR5I1dGS8cA |
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Nautic - Fixxx - Deek https://www.youtube.com/watch?v=zHf4KKDL9xw |
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Tom Ze - Toc - Continental https://www.youtube.com/watch?v=7brUX75sSQQ |
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Baby Fox - Curly Locks - Malawi Records https://www.youtube.com/watch?v=UwLB34_w6aI |
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S.Y.P.H - Little Nemo - HiD https://www.youtube.com/watch?v=e8SfIc3pp7o |
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The Art Of Noise - Eye Of A Needle - China Records https://www.youtube.com/watch?v=JVOYsqsnKvU |
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Fripp & Eno - Evening Star - Island Records https://www.youtube.com/watch?v=REkbY-eEuus |
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Beaver & Krause - Spased - Collector's Choice Music https://www.youtube.com/watch?v=2xKO3KAtDZ0 |
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アサダマオ - ビールの涙 - カモメレコーズ https://www.youtube.com/watch?v=1cuN0BZeIbk |
UKネオ・ポストパンク・バンドの雄(いや、雌というべきか)みたいな呼び方をされるバンドだが、実は、初めて彼女たちの演奏を映像で見た時、あんまりUKっぽくないなあ。と感じたのであった。それは、イアン・カーティスの伝記映画『コントロール』を見たときの印象に似ていた。なんかあれも、UK臭が希薄だった。というか、しゃれ過ぎていた。ヨーロッパ大陸の映画みたいだったのである。
ヴォーカルのお嬢さんのせいかな。と思った。いまどきの英国に、こういう詩情ある佇まいの女の子は珍しい。が、一見するとスージー・スーとシネイド・オコーナーの娘のようなジェニー・ベス(本名はカミーユさん)が、"Shut Up"のPV冒頭で、べたべたにフレンチ訛りの英語でバンドのマニフェストを喋っているのを聞いて腑に落ちた。彼女、おフランスの人だったのである。
どうりで、UKポストパンクというより、ポストパンク・ノワール。みたいな感じなわけだ。猥雑で何でもありだったUKポストパンクのカラフルさは、彼女たちの音楽にはない。どこまでもストイックで、あくまでもノワール(黒)で、芸術家然とマニフェストまでぶちかましてしまう。『NME』がレヴューで、「もうちょっとユーモアがあったら」と評した所以だろう。
サウンドは、「ポストパンク・カラオケ」などと評する人もいる。ジョイ・ディヴィジョン、ザ・バースデイ・パーティ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ワイアー、フォール、ギャング・オブ・フォー、バウハウス。いくらでもリファランスは出て来る。が、このお嬢さんたちのカット&ペイストには、茶化しの精神や、妙にロマンティックな過去へのリスペクトはない。ただ、息詰まるような行き詰まりのアンガーが感じられるだけで。
息詰まりと行き詰まり。などと駄洒落で遊んでいる場合ではない。この国の若者たち(UKに住む、すべての国籍の若者の意)は、そこまでイキヅマッテいるのだろうか。
ジェニー・ベスが書く言葉は、当然ながらネイティヴの英国人が書く歌詞とは違う。だからなのか、マニフェストなどぶちかますバンドにしては、言葉じたいは拍子抜けするほどシンプルだ。
I am here
I won't hide
I am shouldering you
This is easy
This is not hard
たしかにイージーで、ハードではない。邦訳の必要はないぐらいだ。そしてそれは彼女たちの絶対的な強みでもある。なぜなら、英語が多くの人びとにとって共通の第二言語となったこの世界で、誰もが原語のまま聴ける音楽を作ることができるからだ。ポストパンクは、「世の中に新しいものが生まれるとすれば、それはハイブリッドだ」という坂口安吾の言葉を体現したようなムーヴメントだった。サヴェージズも、一見とてもUKで、イキヅマッテいるようでいながら、実は混血であり、UKの外に開かれている(そもそも、純血への拘泥や鎖国幻想は、進化の否定であり、滅びのはじまりである。いい若い者が、イキヅマリなど志向してどうするのだ)。
さらに、直接的で無駄を削ぎ落とした言葉は、逆説的な広がりを持つ。
「起きたら一人の男の顔があった こいつ誰なんだろう 両眼がない こいつがいると落ち着かない こいつのせいで落ち着かない ああ不安になる」という"Husbands"は、ワンナイト・スタンドの歌のようでもあるが、聞く人によって「男」の定義づけは広がる。ワンナイト・スタンドの相手を単なる性器扱いにせず、「私の夫たち 夫たち 夫たち」と、いきなり法的制度で契約を交わした相手にして反復するあたり、これは実は男ではなく、社会的に圧迫感のある相手を呪詛し倒している歌じゃないかとも思えてくる。
例のマニフェスト(ジャケットにもプリントされている)にしても言い回しはシンプルだ。「全てを解体したら、どうやって再び作るか考えないとね」というのは、ポストパンクのマニフェステーションそのものだが、「黙んなさい」というのは、凄い言い切りである。
黙って私たちの音楽を聴け。なんて、そんな不敵な気負いをぶち投げて来たのは、UKギター・バンド復権の年にあってもこのお嬢さんたちだけだ。こんな大上段に構えた気概を持ってシーンに登場した女子バンドは、思い返してみても、ザ・スリッツ以降はいなかった。というか、もはや女子バンドの括りに入れるのがおかしいのかもしれない。サヴェージズは、余裕で男たちのバンドより格好いいからだ。パーマ・ヴァイオレッツだ何だとフライングする人もあったが、わたしは彼女たちを待っていた。
とは言え、「黙って聴け」というわりに、革新的なサウンドやアイディアはファーストではまだ出ていない。が、スピリッツには何かただならぬものを感じる。
おそらく、このアルバムはほんの始まりである。これから伸びて行ける幅が大きく残っている(個人的には、ニック・ケイヴのバラードのような最後の曲"Marshal Dear"に2枚目への伏線を感じた)。彼女らは、全然イキヅマッテいない。
フロアでだれかに話しかけたくなるような、いいにおいが漂う90'sよりのハウスを選んでみました。
音攻めパーティ「S」をオーガナイズしたり、THERME GALLERYというギャラリーの運営をしていたりします。
6月はSクルーみんなでHOUSE OF LIQUIDに出張します。
6/15 @ KATA (Liquid Room) 【HOUSE OF LIQUID】
THERME GALLERY https://thermegallery.com/
SOUND CLOUD https://soundcloud.com/mariiabe
BLOG https://cawgirl.exblog.jp/
いいにおいのするハウス10曲 2013.5.10
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Enrico Mantini - The maze(What you like) - Smooth sounds |
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Jump Cutz - Meditate on this - Luxury service |
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The visionary - Free my soul (duke's deep skool mix) - Music for your ears |
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Pierre lx - Gabita - Initial cuts |
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Aly-us - Go on (club mix) - Strictly rhythm |
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Vapourspace - Vista humana - Ffrr |
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Cazuma & Hiroaki OBA - Alphonse - TBA |
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Raiders of the lost arp - Stealing my love - Snuff trax |
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Reese&Santonio - Truth of self evidence - KMS |
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Kornel Kovacs - Baby Step - Studio Barnhus |
ここはタブーのない世界ですよ、というところに連れて行かれたら、われわれは、じゃあ思い切りタブーを犯してやろうと考えるだろうか? そう考えられる人はむしろ大物というか、将来何か偉業を成し遂げるかもしれない。多くの人は、たぶん、ただ弛緩するのではないかと思う。「やってはいけないことがない」→「よかったあ」である。タブーのない世界はただちに「無法地帯」を意味しない。......ヘヴィ・ハワイとはそんな場所のことであるように感じられる。このサンディエゴのデュオは、奇妙なリヴァーブを用いながら安心して弛緩できる空間を立ち上げてくる。
あまりにもキャンディ・クロウズな"ウォッシング・マシーン"からはじまるこの『グースバンプス』は、彼らの初のフル・アルバム。最初のEP『HH』がリリースされたのが2010年で、キャンディ・クロウズの『ヒドゥン・ランド』も同年だから、なんとなく髪の色のちがう双子のように感じられる。ドリーム・ポップというマジック・ワードが、まさに多彩な方向へと実をつけた時期だ。これまでも散々書いてきたところなので詳細は割愛するが、それはベッドルームが舞台となり主戦場となった数年でもある。三田格が『アンビエント・ミュージック 1969-2009』に1年遅れで収録できなかったことを悔やんだキャンディ・クロウズが、おとぎ話のようにフィフティーズの映画音楽を参照したのに対し、ヘヴィ・ハワイはビーチ・ポップからネジを抜き去る。前者を浮遊と呼ぶなら、後者は弛緩。ふわふわとぐにゃぐにゃ。どちらも似たプロダクションを持っているが、音色は対照的だ。
もともとは4人ほどの編成で活動していた彼らは、ウェイヴスのネイサン・ウィリアムスらとともにファンタスティック・マジックというバンドを結成していたこともあり、〈アート・ファグ〉からリリースしている背景にはそうした人脈図も浮かび上がる。ガールズ・ネームズとスプリットをリリースしたりもしている。レトロなサーフ・ロックをシューゲイジンなローファイ・サウンドで翻案し、ときにはポスト・パンク的な感性もひらめかせながら2000年代末を彩った一派のことだ。そのときもっとも新しく感じられたサイケデリック・ムードである。シットゲイズと呼ばれた音も彼らと共通するところが大きい。ヘヴィー・ハワイの弛緩の感覚は、ただしくこの系譜に連なるものであることを証している。
ただし、いかなる様式化も拒みたいというようにぐにゃぐにゃしている。"ファック・ユー、アイム・ムーヴィング・トゥ・サンフランシスコ"や、"ボーン・トゥ・ライド"のように軽快な2ミニット・ポップをスクリューもどきに変換してみたり、ボーイ・リーストリー・ライク・トゥの皮をかぶったパンクス・オン・マーズといった感じの"ボーイ・シーズン"、幻覚のなかで出会うペイヴメントと呼びたい"フィジー・クッキング"などをはじめ、隙間の多いアリエル・ピンク、ピントの合わないユース・ラグーン、ちゃんとしてないザ・ドラムス、ザ・モーニング・ベンダース......いくらでも形容を思いつくけれども、とにかくユルんでいるからそのどれでもないという、ある意味で強靭なボディだ。
「あんまりマジにビーチ・ボーイズ・リスペクトとか言うなよ」という、2010年当時のビーチ・ポップ・モードに対するひとつの回答であるかもしれない。カユカス(Cayucas)のような、ザ・ドラムスやザ・モーニング・ベンダースらからほとんど更新のない音を聴いていると、彼らの骨を一本一本抜いていくようなヘヴィ・ハワイの音の方が間違いなくリアルだ。少し90年代のハーモニー・コリンを思わせるジャケットは、ぼんやりとしたエフェクトや図像を好むドリーミー・サイケのアートワークとは対照的に、クリアな視界のまま夢を見るという矜持があるようにも感じられる。そう思って眺めれば、ここでエフェクトではなく消化器でモヤを張って作られているバリアには、ここ最近というよりはナインティーズ的なフィーリングが顔をのぞかせているとも思われてくる。まあ、ぜんぶ筆者の妄想の域だけれども。
スティーヴン・スピルバーグの『リンカーン』は伝記映画ではなく、黒人奴隷を合衆国全土から解放するための憲法修正案を下院で通すためにリンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)が行った政治工作の描写にほとんどの時間を費やしている。保守的な議員には見返りを与える代わりに票を求め、逆にあまりに急進的な議員(トミー・リー・ジョーンズ)には「みんなビビるから、まあ、ちょっと妥協してくれや」と言うのである。何としてでも、修正案を通す......その執念に駆られた男の物語。つまり、100年後実現しているかもしれない理想のために、「いま」見失ってはならないものについての映画であり、ここにはふたつの時間が出現しているように思える。つまり、過去から見た未来としての現在と、未来から見た過去としての現在だ。前者については、ここから黒人の大統領が誕生するに至るまで、を思わせるし、後者については、未来のアメリカのために医療保険改革に奮闘(し、票集めを)したオバマ政権が重なって見えてくる。いま見失ってはならないもの......スピルバーグはそれだけ切実に現在のアメリカを見ているということだろうし、また、「見失った」日本に住むわたしたちには重いものである。
ひるませるような屈辱の白い空の下で
"ヒューミリエーション(屈辱)"
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ザ・ナショナルはいつも、「いま」を生きる名もなき人びとの物語を歌っている。だが、その現在は自覚的でも気高くもない。「彼ら」がいるのはいつもそんな場所である。屈辱、後悔、悲哀、諦念、混乱、卑屈さ......そういったものに囚われて、身動きが取れない人間たちの歌を、ヴォーカルで歌詞を担当するマット・バーニンガーが韻を踏みながら滑らかなバリトン・ヴォイスで歌う。
バンド・メンバーは仕事をしながら音楽活動をする時代を経て、サウンドの緻密さとスケールを増すことで世界に評価され、そしてその言葉においてアメリカで絶大な支持を得るに至った。前作『ハイ・ヴァイオレット』のレヴューにおいて、『ピッチフォーク』は「もしザ・ナショナルがたんに良いだけでなく重要なのだとすれば、それはロック・バンドがあまりうまく描かない瞬間というものを描いているからである」とし、『タイニー・ミックス・テープス』はそこに描かれた沈痛さを「時代精神」と呼んでいる。その歌のなかには、アメリカの内部で埋もれそうになっている生が息づいていたのである。
先の選挙戦におけるオバマの支援ライヴ、同性婚支持のアーティストが集まったコンサートへの参加などを経て発表される『トラブル・ウィル・ファインド・ミー』においてもまた、作品のなかには政治的なメッセージがあるわけではない。厄介ごと(トラブル)に見つからないように怯える人間たちの取るに足らない日々が、しかし詩的な言葉で表現されている。双子のアーロン兄弟のサウンドはより思慮深さを増し、英国ニューウェーヴやポスト・パンク、レナード・コーエンのフォーク、ポスト・クラシカル......といった要素が丁寧に織り込まれ、静かな高揚や陶酔を湛える。知性と理性をもって。
ザ・ナショナルがたんに良いというだけでなく重要なのだとすれば......それは、彼らの描く物語がヘヴィなときでさえ、そこには音楽的なスリルと色気が宿っているからである。自らの死を甘美に夢想する "ヒューミリエーション"は、クラウト・ロック調の反復でじわじわとその熱を上昇させる、が、沸点に達することなく終わっていく。それはまるで、地面に足をつけて生きる人びとをそっと鼓舞するかのようだ。
ザ・ナショナルが日本にもいれば......と僕は思わない。マットが以下で話しているように、彼らは何もアメリカに生きる人びとに向けてのみ歌っているわけではない。この歌はとくに進歩的でも立派でもない、「いま」を見失いそうなあらゆる人びとのそばで鳴らされている。ポスト・パンク風の"ドント・スワロー・ザ・キャップ"では「俺は疲れている/俺は凍えている/俺は愚かだ」と漏らしながら、しかしこう繰り返されるのである......「俺はひとりじゃないし/これからもそうはならない」。
自分たちがやっているロック・バンドに興味を持って、ロック・ソングに注目して聴いてくれる人がいるのが、どんなにラッキーなことか、どんなに恵まれているか......。
■今日はお時間いただいてありがとうございます。家にいるんですか?
マット:ああ、ブルックリンにいるよ。
■新しいアルバム『トラブル・ウィル・ファインド・ミー』を聴きました。素晴らしいアルバムだと思います。
マット:それはよかった。ありがとう。
■そのアルバムの話に入る前に、ここに至る数年の間に起きたバンドに関係あるかもないかもしれないいくつかの出来事について振り返ってコメントしていただきたいのですが......。
マット:ふむ。
■ひとつはR.E.M.。あなた達にとっても音楽的にお手本のような存在だったバンドだと思いますが、彼らがあの時点で解散を決めたことについて何か思うところはありましたか。
マット:まず、彼らが僕らにとって道しるべとなる灯りのような存在だったのは、その通り。とくに、マイケル・スタイプは僕らのバンドの友だちであり、一時期は擁護者でもあった。彼からは本当に良いアドバイスをいくつももらったし、そんなアドバイスのひとつに、けっして当たり前だと思うな、というのがあったんだ。自分たちがやっているロック・バンドに興味を持って、ロック・ソングに注目して聴いてくれる人がいるのが、どんなにラッキーなことか、どんなに恵まれているか......と。それがひとつ。
あと、彼はすごく洞察力のある人だ。友だちや兄弟のような存在だといっても、やっぱりバスのなかでいっしょに暮らすように旅をして回るのは大変なことで、ときとしてバンド内の状況が悪くなる場合もあるわけだよ。彼も彼のバンド・メンバーも、そんな暗い時期を何度も経験して、くぐり抜けてきた。そんな彼が僕に言っていたのは、「忘れちゃいけないのは、バンド以前に友だちだということだ。バンドより先に友だちだったことを忘れちゃいけない」ということで、僕らはまさに友だちであり兄弟であるところからはじまっているバンドだから、彼に言われて、バンドそのもの以上に個人的な繋がりを重んじるということを改めて大切に考えるようになった。あれは良いアドバイスだったよ。
彼らの決断は、要はバンドとしてレコードを作るのをやめる、ということだと僕は理解しているけれど、そうだな......どうなんだろう。まあ、僕としてはそれを尊重するよ。個人的には彼らにもっとレコードを作ってもらいたいと思うし、あそこで立ち止まらないでほしかったけど、彼らの選択は尊重したいと思う。状況は変わるもので、それはそれとして人生の違う段階へ進まざるを得ないときだってあるさ。そうすることに決めた彼らの選択は、とてもエレガントで美しいものだったんじゃないかな。これでもし将来、彼らがまたレコードを作ることになったとしても、それを侮辱するひとはいないだろうし。とにかく、彼はものすごく品のあるひとだ。ものすごく良いひとで、頭の良いひとでもある。彼のすることなら、何であれ僕は全面的に認めるし尊重する立場だ。
■ありがとうございます。もうひとつは、「俺たちは自分たちで支え合う(We take care of our own)」と歌ったブルース・スプリングスティーンについてなのですが。あのメッセージに共感するところはありましたか。
マット:そうだなあ......わからないや、というか、あまりよく把握していないんだ。ブルース・スプリングスティーンとの関わりはいままでに無かったわけじゃないけれど、この件については、はっきりしたことは言えない。「We take care of our own」という彼のメッセージに関しては、僕らにそのままあてはまるものだとは思わないし、確信も持てない。その点においては、あまり繋がりは感じないな」
[[SplitPage]]僕らが熱心に政治的な活動をしたり社会的な意識を強く持っているのは個人として、つまり僕ら5人がそれぞれにやっていることであって、僕はこのバンドがそうだとは思っていないんだ。
■少し変わった質問からはじまってしまいましたが――。
マット:いや、いいんだけど。
■こういった質問をしたのは、ザ・ナショナルもいま、かつての彼らのような、オルタナティヴなロック・ミュージック・シーンをリベラルな側から代表する存在になっているのではないかと考えたからです。
マット:ああ。
■いまの答えからすると、必ずしもそれは自覚的ではない?
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マット:いや、言ってることはわかるんだ。ただ、「we take care of own」という、あのメッセージに関しては、曲自体が何を言おうとしてい
るのか僕がちゃんと把握できているかどうかわからないんで、こういう返事になってしまう、ということで。まあ、僕らもオバマを支持したりなんかしてきたから、そういうレッテルを貼られている部分はあると思う。とくに、海外から見ると僕らはものすごく政治的に熱心に動いている、政治的な意識の高いバンドであるかのような印象を受けるかもしれない。実際そうだしね。ただ、僕らが熱心に政治的な活動をしたり社会的な意識を強く持っているのは個人として、つまり僕ら5人がそれぞれにやっていることであって、僕はこのバンドがそうだとは思っていないんだ。マイケル・スタイプだってそうだったんじゃないかな。
オバマの件......対立候補ではなくバラク・オバマの支援に回ったのは、ああいうケースにおいては自分の立場を決める必要があるからにすぎない。僕はいまだにアメリカは本来あるべき状況から20年遅れていると思っている。社会問題の進展具合からすると、ね。甚だしく遅れている。オバマになってからも、まだ全然本来あるべきところに到達していない。アメリカはつねに後ろ向きな勢力との闘いがあって......まあ、どの国にも似たような状況はあるんだろうけど、アメリカには極めて後ろ向きで保守的な動きがあって、とくにここ10~15年はそれが非常に危険な様相を呈している。ジョージ・W・ブッシュの時代はもちろんだったけれど、もっと最近になっても、悪い連中が力をつけて危険になっている......ということは僕もはっきり言えるし、そういった問題はロック・バンドなんかよりずっと重要なんだよ。だけど、僕らの音楽がリベラルであるとか、進歩的であるとかいうふうには思わない。むしろ僕らの音楽は、単純にロマンスと恐怖心についてのものがほとんどから。
■よくわかります。日本もまさにいま、そういう状況がありますし。
マット:うん。
乗り越えていけたらいいのに
だけど僕は悪魔と共に身を潜めてる
"デーモンズ"
■そしておっしゃるように、ザ・ナショナルの曲に描かれているのはアメリカの普通のひとたちの日常であり感情ですよね。ただそれが、アメリカの真ん中あたりの、とくにリベラルでもなさそうな人びとのことを描いているようも思えます。あなた方がニューヨークという大都市を拠点にするリベラルなバンドなのになぜだろう、と思うこともあるんです。たとえば、前作の"ブラッドバズ・オハイオ"や、"レモンワールド"の「ニューヨークで生きて死ぬなんて、俺には何の意味もない」というフレーズに、そんな印象を受けるのですが。
マット:うーん、たぶん僕の視点というのは、こう説明した方がわかってもらえるかな。要は、どこに属しているのか自分でもわかっていないひとの視点だと思うんだよね。ニューヨーカーでも、アメリカ人でも、あるいは男でもない。もちろん、そういう事実に影響されていないとは言わないけれども、アメリカのニューヨークに住む白人男性であるという事実は、わずかな......ごくごく小さな、小さな要素でしかない。僕らの曲が言わんとしていることへの影響は、ごくごく微々たるものだと思う。だから、例えば世界の......どこでもいいや、どんな人種でもいい、どこかの女性が聴いても恐らく共感してもらえると思うんだよね。その、僕が考えていることに対して、それも、かなり近い形で。
■なるほど。
マット:とにかく僕はそう思うんだ。僕の興味をひくこと、わくわくさせることは、アメリカ人だから、でも、男だから、でも、アメリカの白人男性だから、でもない、と。僕にとって重要なこと、僕が考えたり書いたりしていることは、たぶん......これは僕の推測だけど、たぶん同じことを考えて、同じように感じているひとが大勢いるはずなんだ。そういう、大きなことなんだよね。大きな......普遍的なこと。
いまの僕は善良 しっかりしてる
背が前より高く見えるとデイヴィは言う
だけどそのことが理解できないんだ
どんどん小さくなってる気がずっとしてるから
"アイ・ニード・マイ・ガール"
■たしかに。そうやってあなた方の曲は日本のリスナーにも響いているわけですが、しかし、そこには不器用で苦しんでいるひとが多く登場しますよね。
マット:ああ。恐怖心、不安、あとは......喪失感、悲しみ......そして愛。そういうのは誰でも理解できる感情だから。ムラカミ(村上春樹)なんかは、僕からするとまったく違うところから出てきたひとだけど、彼の書いていることを僕は理解できる......と思う。それも、彼が書いているのがそういう大きな、当たり前の......いや、当たり前ではないにしろ、人間の心の、人間関係の素晴らしさを......素晴らしさと、あと悲しみもちゃんと描いているからだと思う。
■たしかに、個人的なことを書いているようで、それが普遍的なテーマになる、というのはありますよね。あなたの場合も、あくまで個人的なことを書いているんだけれども、それが結果的にアメリカのポートレートになっていく。
マット:うん、僕自身は「これが僕の感じていること、考えていることですよ」と言っているだけなんだ。自分なりに推測すると、僕が自分に対して正直にそういったことを書いているから、他のひとにも伝わるんじゃないか、と。こんなことにこだわっているのは自分だけなんじゃないか、という恐怖心は、じつはつねにある。
[[SplitPage]]ニューヨーカーでも、アメリカ人でも、あるいは男でもない。もちろん、そういう事実に影響されていないとは言わないけれども、アメリカのニューヨークに住む白人男性であるという事実は、わずかな......ごくごく小さな、小さな要素でしかない。
■なるほど。では音的な話を。新しいアルバムには、あなたたちが影響を受けてきたであろうさまざまな要素――パンク、70年代のシンガーソングライター、イギリスのニューウェーヴ、90年代のオルタナティヴ・ロック、クラシック音楽など――が見事に融合しているように思えますが、制作にあたってバンド内で合意していた音的なテーマはあったんですか。
![]() The National Trouble Will Find Me 4AD / Hostess |
マット:いや、僕らはあらかじめレコードについて話し合うということはしない。それどころか、完成するまで方向性の確認なんかしないに等しい。......うん、昔はもっと話し合っていたけれども、最近はむしろ、曲が勝手に発展していくに任せて、僕らはその後を追いかけていく、という感じ。今回、ある程度自分たちが自信を持っているという自覚はあったように思うよ。いままでのレコードだったら入れていなかったかもしれないような、聴いた感じがセンチメンタルすぎる曲とか、古風すぎるからもっとクールに、モダンにしたい、とかいう曲が出来ても今回は気にせずに、とにかくどんどん書いて、僕らが恋に落ちた要素を素直にレコードにしていったんだ。
それを後から改めて聴いたいまだからわかるのは、ああ、ここには僕らの大好きなものや影響が集約されているな、ということ。ニュー・オーダーからロイ・オービソンにまで及ぶ僕らのレコード・コレクションの、あっちもこっちも入っているな、とね。でも、いずれにせよ意識的ではなかったし、戦略会議のようなものは僕らにはあり得ない。いろいろなもののミックス――漠然としたミックス――が僕らで、いまとなってはそれ自体が意味を持つようになっている。だからもう、話し合いは必要ないんだ。
■つまり、これぞザ・ナショナルのサウンドだ、という作品だ、と。
マット:思うに、たぶんこのレコードは......うん、最もピュアかもしれないね。良い曲を書くということ以外には何も考えていなかった、という意味で、良し悪しは別として僕らの本質をいままでの作品以上に体現しているんじゃないかな。
■はい。では、これが最後の質問になりますが。はじめの方でお話したようなことを踏まえて、あなた方はアメリカのバンドだということに意識的ですか。
マット:ふむ......意識はしてないよ。だけど、きっと音楽には僕らの気づかない形で滲み出てはいるんだろうな。アメリカ的なバンドでありたいと思っているわけではないし、アメリカのバンドであることを重要視しているわけでもないし、アメリカに対しては僕なりにたくさん愛情を感じている一方、それと同じくらいの怒りとフラストレーションも感じているし、だからといってアメリカのバンドであるということを意識するかというと......いや、してないな......うん、僕は自分たちがアメリカ的なバンドだとは思わないよ。音楽的な影響でいったら、英国のバンドや、どこの国か知らないけれどもクラシックのコンポーザーとか、作家ではムラカミだったりするわけで、そういうものから受けた影響は、恐らくアメリカ的なものから受けた影響に勝るとも劣らない。アメリカ人がやっているバンドである以上、DNAの一部であり成長過程の一端であるアメリカ的なものは否定できないし、僕らの音楽の一部にも間違いなくなっている。それはこれからもなっていくんだろうけれども、僕らはそのことにことさら意識的ではないし、それだけのバンドだとは思っていない、ということだ。
しばらくスペイン映画しか観たくないと思っていたのに、やはりキム・ギドクの新作は......気になった。3年間、映画が撮れなくなったことを自画撮りしたセルフ・ドキュメント『アリラン』を観ていればなおさらである。同作によれば、彼自身はこれまでインディペンデントを貫いてきたにもかかわらず、彼の助監がいわゆる商業資本で映画を撮ったことにはかなりの抵抗を感じたようで、そのうちの1作であるチョン・ジェホン監督『プンサンケ』には(商業主義の最たるものといえるキム・ドンウォン監督『リターン・トゥ・ベース』とはまったく違って)北にも南にも属さない朝鮮人を描き出すという意欲が漲っていたにもかかわらず......である(といっても同作の脚本はキム・ギドク。ちなみに『リターン・トゥ・ベース』で直球のツンデレを演じるシン・セギョンはちょっとよかったなー。韓国のTV番組では「整形していない美女ランキング 第4位」だそうで)。
そして、キム・ギドク監督『嘆きのピエタ』は驚いたことに、竹内正太郎を虜にしたヤン・イクチュン監督のデビュー作『息もできない』と同じ設定、同じテーマだったのである。血縁社会が崩壊し、近代的な組織に再編されていく社会を闇金の立ち位置から描き、疑問形で終わるのが『息もできない』だったとしたら、そこから後の展開を描いたのが『嘆きのピエタ』だったといえる。そして、そのことは疑問形で終わらせた『息もできない』の鮮やかさを相対的に浮かび上がらせることとなり、一方でギドクがまだリハビテイションの段階にいることを印象づけたところもなくはない。とはいえ、パッションはハンパないし、構成力も健在で、韓国映画を世界に知らしめた火付け役のギドクが本格的に復帰するまでにそれほど時間がかかるとも思えなかったので、ここでは社会構造の変化が急速に進んでいることをふたりの才能ある監督が瞬間的に切り取っていること、そこに最も留意しておきたい。同じ闇金を扱いながら、背景にどのようなテーマも盛り込めない山口雅俊監督『闇金ウシジマくん』を情けなく思うばかりである(闇金を舞台にした少女マンガ、ヤマシタトモコ『サタニック・スイート』は違う意味でチョー面白かったですけどね)。
先駆者だからいつまでも先頭を走れるわけではない。そんなことは当たり前田のタクシム広場である(まさかイスタンブールで暴動とは......)。ジュークのオリジネイターとされるPR・ブーもDJロックやDJラシャドが先にアルバムを投下しまくるなか、このままいけばDJフルトノやヘタするとゴルジェにも抜かれるというタイミングで、ようやくデビュー・アルバムをかっ飛ばしてくれた。正直、後から出てきた人たちについていけなくなってるんだろうと邪推の嵐で再生ボタンをプッシュ。またしても『ゴジラ』のサンプリングからスタートし、『ゲゲゲの鬼太郎』みたいなイントロの"インヴィジブル・ブギー"に続く頃には早くも深みに引き込まれていた。ベースを16で刻み、ドラムをハーフで叩くというフォーマットはすでに崩壊していて、オフだらけの"レッド・ホット"や"ジ・オポーネント"など、ビートのパターンだけを聴くともはやドラムン・ベースにしか聴こえないトラックや、基本はスネアでドライヴさせながら、あちこちでオフを機能させるなど、官能のデパートメントみたいなセンスにはまったく逆らえない。"バトル・イン・ザ・ジャングル"で後半に向かってサイケデリックになっていく構成も楽しめるし、"187ホミサイド"ではブルースも感じさせる。ベスト・トラックは"スピーカーズ R4"か。ビートには凝っていなくても、ファンファーレを撒き散らした"ロボットバッティズム"もそれはそれでいいんじゃないかと。最近だとフレイミング・リップス『ザ・テラー』のように国内盤用のボーナス・トラックが全体の流れを台無しにしてしまうことも多いけれど、ここではそれも含めて全体の構成もちゃんと考えられている。
ジュークを消化したサウンドはマシーンドラムやジャム・シティなど、ポツポツと目立つつつある。そうしたなかではスレイヴァ(本名)のデビュー・アルバムがシンセ・ポップとの融合を果たした最初の例にあたるのだろう。リズムはもちろんというか、形だけのものになっていて、そっちで何かを期待できるものはないとしても、シンセ・ポップの新局面としてはわりと気になる出来となっている。もともと、シンセ・ポップというのはシクスティーズのイミテイションだったり、R&Bの換骨奪胎だったり、紛い物であることがアイデンティティであったわけだから、ここでも正しくジュークのイミテイションがつくられているということはできるだろう。大げさなリフが楽しい"ハウ・ユー・ゲット・ザット"や"ホールド・オン"の切ないメロディなど、適度に転げ回りながらシンセサイザーが作り出すカラフルな景色はどこかセカンド・サマー・オブ・ラヴの初期を思わせる。同じようにシンコペーションが多用されたジュークのリズムに、レジデンツのようなセンスを持たせたものとしては名古屋の食品まつりもユニークなカセット・アルバムをブルックリンのノイズ系レーベルからリリースしている。仕上がりはオオルタイチを思わせる気の抜けたブレイクビーツのようでもあるし、やはりリズムの面白さを受け継いだり、発展させたものではないとしても、ジュークをどこに持っていってしまうのかという不安と期待を煽りまくるものとしてはユニークな存在感を放ち、次も聴いてみたいものにはなっている。もしかして中原昌也がジュークをやったらこんな感じだったりするのかも。
https://soundcloud.com/shokuhin-maturi
「なんかさー、あのチアリーダーみたいなルックスの子、20代にして認知症なのかなって」
スタッフ休憩室で新人の娘がVのことをそう評すと、ペンギン組責任者Dは紅茶を吹きそうになって笑った。
30歳のDは、ペンギン組に配置されているわたしの上司でもあるわけだが、彼女は部下である23歳のVが大嫌いである。
ブルネットの髪に顎の尖った理知的な顔立ちをしたD(実際に、キレキレで仕事もできる)と、ブロンドに水色の瞳をしたプリティ&おっとりしているV(実際に、よくいろんなことを忘れる)は、見た目からして正反対なのだが、生まれ育った環境も正反対だという。
Dは3人の子供を育てあげた公営住宅のシングルマザーの娘だ。父親は無職のアル中だったそうで、1年の半分は家におらず、ちょっと帰って来ては、すぐ何処かに消えていたらしい(路上生活やシェルター生活を好んでする癖があったようだ)。こういう父親のいる家庭はアンダー・クラスに多いものだが、Dの家庭はあくまでも労働者階級だったらしい。
忘年会で泥酔した帰り、彼女はタクシーの中で言った。
「私の母親は、いつも働いていた。昼は工場で働き、夜は他人の子供を預かっていた。週末は映画館でポップコーンを売っていた。それでも家にはお金がなかったから、学校の制服なんか、お下がりのまたお下がりで、破れて穴が開いていた。アンダー・クラスの子のほうが、よっぽど裕福な家の子に見えた」
そんなDは、何かにつけてVに辛くあたる。というか、いじめる。というのも、Vはミドルクラスのお嬢さんだからだ。
通常、良家の子女は、限りなく最低保証賃金に近い報酬で働く保育士などの職には就かないものだが、英国版ハンナ・モンタナみたいな外見のVはディスレクシアであり、職場で読み書きするのに、わたしのような外国人の助けすら必要とする。彼女の兄たちはケンブリッジ大卒のエリートだそうで、裕福な両親や兄たちに守られて育ってきたのだろうVは、気持ちの優しい娘だ。ディズニーのプリンセスみたいなので子供たちに人気もある。ぼんやりしているので失敗は多いが、それにしたってご愛嬌と思える性格の良さがある。が、Dは許せないらしい。
「ファッキン・ポッシュな糞バカ」と陰でVを呼び、彼女が失敗する度に、何もそこまで言わなくとも。と思うほど叱るので、Vはよく泣く。
と書くと、Dはまったく嫌な女のようだが、実際には情に厚く、知的な姐御肌だ。しかし、Vのこととなると、人が変わる。
英国は階級社会だといわれるが、その階級は法的なものでもなければ、制度的なものでもない。それは人びとの意識のなかにあり(ソウルのなかにあると言った人もいた)、人びとはその意識と共に育ち、育つ過程でその意識も大きく、逞しく、成長して行く。
「人間の最大の不幸は、自分で生まれて来る地域や家庭を選べないことだ」
が口癖の英国人を知っているが、保育園などというキュートな(筈の)職場での、若いお嬢さんたちの階級闘争一つを見ても、この国の人々にとり、階級というのがどれほど根深い概念なのかというがわかる。
もはや、業といっても良い。Dにしたって、自分がやっていることがいじめであることがわからないようなアホな人間ではない。わかっている。わかっているのにやめられないのだ。ヘイトレッド(憎悪)というのは、業のことだ。一時的なセンチメントではない。
だからこそ、音楽であれ、映画であれ、書物であれ、この国の文化芸術には、階級という業から解き離れているものは一つもないように思う。階級は、ヘイトレッドを生み、コミュニティを生み、闘争と愛を生む。人種、性的指向、宗教、障害などはヘイトレッドを生む人間同士の差異として万国共通のものだが、この国には、それらに加え、階級意識。という宿業のエレメントがある。
このエレメントは、実は最もパワフルで根深いものかもしれない。しかも、「金持ちの足を引っ掛けて転ばせる貧乏人はクール」みたいな、ワーキング・クラス・ヒーロー賛美の伝統もあるので、貧者から富者への攻撃は許される。特に、保守党が政権を握り、貧乏人がいよいよ貧乏になってから、この風潮は強くなっている。ネオ・ワーキング・クラス意識の盛り上がり。とでも呼ぶべきだろうか。低賃金で働く若い労働者の層が、被害者意識をやたらと肥大させ、妙に頑なになっている。
貧者が貧者であることを高らかに叫ぶことのできる社会は素晴らしい(わたしが育った時代の日本では、貧者は「いない」ことにされていたから)が、時折、どうしてそこまで階級に拘泥して生きるのか。と思う若い子に出会うのだ。
思えば、わたしがペンギン組に配置された当初、Dが最初に確認してきたのは
「あなたの氏育ちはわからないけど、私は本当に貧乏な家庭で育ったの」
だった。
「わたしの親も、相当な貧乏人ですよ」
と答えたが、もしわたしがミドルクラス出身で、しかも外国人という場合、いったいわたしはDにどんだけのいびりを受けていたのだろう。
「なんでそんなにVのこといじめるの」
忘年会の帰り、タクシーをシェアしたDに、わたしは尋ねた。その日のDは、わたしが尻を押さなければタクシーにも乗れないぐらい泥酔していた。
「いじめてないでしょ」
「ありゃいじめだよ。虐待と言ってもいい」
わたしが言うと、Dはのけぞって大笑いした。
「ははははは。下層の人間には、上層の人間を虐待する資格がある」
「ないよ、んなもん」
「あるの。この国では」
愉快そうに笑うDを見ていると、まあ、わたしも人のことは言えないか。と思う。わたしも、むかし、「わたしは金持ちは嫌いである。なぜなら、彼らは金持ちだからだ」と書き放ったことがあったからだ。
まあ、要するにその程度の、バカなことなのだ。
そしてそれだからこそ、呪いのように変わらないのだ。
************
そんなDが、先日、保育園をやめた。
海辺の豪邸に住む金持ちに、現在の2倍の報酬でお抱えナニーとして雇われたという。
「こんなこと言うのはナイスじゃないとわかってるけど、でも、嬉しい」
Dがやめると知った時、Vはそう言ってロッカー室でそっと涙ぐんだ。
ようやく、ペンギン組の階級闘争に幕がおりるのである。
Dが園を去る日、ピザ屋で送別会が行われた。来ないかな。と思ったが、Vはやって来た。敢えて「行きません」という勇気はなかったのだろう。
送別会の席上でさえ、Dは、労働者階級の人間特有のあけすけなブラック・ユーモアで、本人が目の前にいるのにVの失敗談をジョークにしてげらげら笑い続けた。
酒が飲めないVは二次会には来ないと言い、先に帰ったが、帰る間際にバッグから花柄のプリティな箱を出してDに渡した。
「また、最後までこんなポッシュなもん買って来て!」
Dは笑う。地元では有名なフランス人ショコラティエのいる高級チョコレート店の箱である。
「Good Luck.」「Take care of yourself」「You too」などと社交辞令を言い合い、ふたりはハグを交わし、Vは店を出て行った。終わり良ければ全て良し。か。なんやかんや言っても。と思いながら見ていると、Dが、箱と一緒に渡された小さな封筒を開けた。
可愛らしい水玉のGood Luckカードが入っている。Dがカードを開くと、中にはこう書かれていた。
「Thanks for nothing」
Dの顔は、見る見る真っ赤になった。その晩、またもやわたしが尻を押さねばタクシーに乗れぬほど彼女が泥酔したのは言うまでもない。
「あの女、やっぱりムカつくっ!」
帰りのタクシーの中でもDは荒れていた。
「親が金持ってるってことはね。行きたきゃ上の学校にも行けるし、将来できる仕事だって無限にあるってことなんだ。それを彼女はあたら無駄にして、ぼんやり生きて」
Dが、大学のファンデーション・コースの通信講座を受けたがっていたことを思い出した。
「だけど、それは個人のチョイスだからね」
「あんなに恵まれてるくせに」
「それぞれが、自分で選ぶことだからね」
「これだからミドルクラスの奴らは」
彼女が脇を向いて静かになったので、寝たのかな。と思って顔を覗き込む。BBCラジオ2からオアシスの曲が流れていた。
Dは虚空を睨みながら、小声でリアム・ギャラガーと一緒に歌っている。
Because maybe
You're gonna be the one that saVes me
And after all
You're my wonderwall
彼女にとってのワンダーウォールとは、階級意識なのだろうか。とふと思った。
それは、生きるバネとなり、慰安となり、回帰する場所にもなるものだから。
それは、冷たく厳然としているのにどこか暖かい、不思議な壁である。
人間が先へ進むことを阻む壁であり、人と人とをディヴァイドする腐った壁であることには、変わりないとしても。
ときにケオティックに、厳密に、それ自身が生き物のように動めき、しかし、あたかも機械のように展開するポリリズムの醍醐味、情け容赦ないリズムの反復、多彩なドラミング──アフロ、ラテン、ファンク、そしてダブとテクノ。
録音が素晴らしい。この気持ちよさは、ヘッドフォンよりもスピーカーで聴いたほうが良い。ベーシック・チャンネル級の低周波が出ている。とはいえ、ここはベースをやや引き締めて、中音をクリアにしたほうが、この打楽器協奏曲の陶酔は伝わる。13人もの打楽器奏者によるアンサンブル、打ち鳴らされるビートが心地よい雨粒のようにスピーカーから空間に広がる。
芸術的な録音──昔から耳の肥えたドイツ人は、こういう仕事を精密にやる。という印象がますます焼き付くだろう。いや、ドイツ人だからこれができるわけではないのだが......セネガルの民族音楽そのものは、いまさら珍しくはないにせよ、欧州のミニマル・ダブの音響がそれと出会ったときに奇跡的な音楽が生まれた、としか言いようがない。
ベルリンのマーク・エルネストゥスと、そして、セネガルの音楽、ンバラ(Mbalax)との出会いは偶然だった。デンマークを旅行中、とあるガンビア人のDJがその大衆音楽をプレイしたのをエルネストゥスは耳にした。衝撃を受けたドイツ人は、パリのレコード店で売っているアフリカ音楽のレコードを漁った。それからエルネストゥスは、より多くを知るためにセネガルへと向かった。ンバラの打楽器奏者、Bakane Seckとは、思ったよりもすぐに出会えたと、レーベルの資料には記されている。
ンバラの面白いところは、キューバ音楽の影響を思い切り受けている点にある。70年代に定義されたという西アフリカのダンス・ミュージック=ンバラは、セネガルにおいて根強く人気のあったというラテン音楽にインスパイアされている。当時のラジオ局やクラブはサルサばかりをかけていたのだ。
かくして、スペイン語とコンガがサバール・ドラム(セネガルの打楽器)に変換されるのは時間の問題だった。それはパーティ・ミュージックであり、悪魔払いにもなった。植民地主義への抵抗ともなって、酒飲みのBGMにもなった。
ンバラは、もともとはサバール・ドラムによるリズム・パターンの名称だった。レーベルの説明によれば、それが多彩な打楽器演奏によって、「セネガンビア」なる大衆音楽へと発展したという話だが、「セネガンビア」とは、同じ民族でありながらイギリス領とフランス領に分断されたセネガルとガンビアの連合名でもある。レーベルが言うには、「セネガンビア」の音楽的発展のプロセスに大きく関与していたのが、Aziz Seck、Thio Mbaye、Bada Seckといったジェリ・ジェリ家の人たちだった。エルネストゥスが出会ったBakane Seckは、高名なサバール・ドラム奏者であり、先生であり、広範囲における影響の源だった。
そしてある日、首都ダカールのスタジオには、ジェリ・ジェリ家から紹介された現地のミュージシャンが集まった──Bakane、Bada Seck、Doudou Ndiaye Rose、Babacar Seck、Moussa Traore、Laye Lo、Assane Ndoye Cisse、Yatma Thiam、あるいは歌手のMbene Diatta Seckなどなど。13人の打楽器奏者もやって来た。そして、トーキング・ドラムは叩かれ、ベース・ギターが弾かれ、DX-7もミックスされた。(ミュージシャンは、その筋では有名な人たちだそうで、メンツの解説は専門家に委ねたい)
『800% ダガ(Ndagga)』、そのダブ・ヴァージョン『ダガ・ヴァージョン』との2枚同時リリース。レーベル〈ダガ〉は、エルネストゥス自身が主宰する(そのくらい気合いが入っているのでしょう)。昨年から今年の春にかけて、12インチ・シングルがすでに4枚切られている。アフロであり、ファンクであり、ダブであり、テクノとしても楽しめる音楽である。「ウェイリング・ソウル(レゲエのコーラス・グループ)の歌メロのようじゃないか」とはレーベルの弁だが、たしかに言われてみれば、それもあながち的外れな喩えではない。『ダガ・ヴァージョン』には、はっきりとレゲエ色が出ている。
このところの休日、布団から出たらまずかけるのがこの2枚。台所に立ちながら、サバール・ドラムのポリリズムを浴びている。
1948年生まれ、少年期をニュー・ヨーク/ブルックリンで過ごしたチャールズ・ブラッドリーは、14歳のとき(1962年)にアポロ劇場でジェイムズ・ブラウンを見て衝撃を受け、その歌真似をしはじめ、自分も歌手になることを心に決めた。しかし、その道に順調に敷石は並べられなかった。若くして野宿生活を余儀なくされ、職業訓練でコック職を得てからはヒッチハイクで全米を転々とする。その間の音楽活動も実を結ばず、1990年代半ばまでの約20年間は、カリフォルニアでアルバイトで食いつないでは、歌手として小さな仕事を取る暮らしを送っていたという。
90年代の後半には、ブルックリンのクラブでジェイムズ・ブラウンの物まねパフォーマンスの仕事をするようになるが、およそ50歳になってもまだ"自分の歌"を聴いてもらえる機会をつかめなかったばかりか、それ以降もペニシリン・アレルギーで命を落としそうになったり、ガンショットによって弟を失ったり、芽の出ない下積み生活に深刻な不幸が追い討ちをかけるという、話に聞くに散々な日々を送りながらも、とにかく歌うことは止めなかった。
そしてJBなりきり芸人と化していたチャールズ・ブラッドリーは、遂にそのブルックリンのクラブで、〈ダップトーン(Daptone)・レコーズ〉の主宰者、エンジニア兼レーベルの中心バンド:ダップ=キングス(Dap-Kings)のバンマス/ベイシストでもあるゲイブリエル・ロスの目に止まるのだ。
ブルックリンに拠点を置き、ファンク、ソウル、アフロ・ビートを主な守備範囲とする〈ダップトーン・レコーズ〉は、今世紀創業の新興ながら、当初からディジタル録音を一切行わず、アナログ・レコードをリリースの基本メディアとしていることで知られているインディ・レコード会社/レーベルだ。音楽の種類とサウンドの質に硬派な職人気質のこだわりを示す同プロダクションは、チャールズ・ブラッドリーのよく言えばヴィンテージ・スタイルの、悪く言えば堅物の唱法/個性を丸ごと評価し、この歌手を、そこから大切に"育てはじめる"。
そしてレーベル最初期の2002年から、ブラッドリーの7インチ・シングルが定期的にリリースされはじめ、その計8枚のドーナツ盤によってじっくりと仕上げられた長い長い下積みの努力が、ダップトーン内のダナム(Dunham)・レコーズからのファースト・アルバム『No Time For Dreaming』に結実したのは2011年、ブラッドリー62歳のことだった。
歴史上のA級ソウル・シンガーたち(O.V. ライト、ジェイムズ・ブラウン、シル・ジョンソン、ジョニー・テイラー、ボビー・ウォマック......)の面影がちらつくブラッドリーの歌のなかには、むしろそれゆえに、彼のそうした偉人たちには及ばない部分が浮き彫りになる。率直に言えば、それは"華"と呼ばれる類のものだろう。だけど一方でこの男の"歌"とは、そこを補って余りある誠実さと熱量なのだということ、この質実剛健を絵に描いたようなたたずまいと生命力それ自体が歌い、メッセージと化しているような存在感なのだということもまた、聴けばすぐにわかる。歌唱力ばかりか、"華"にも運にも恵まれたスターたちの圧倒的な輝きのなかには望むべくもない、古いソウル名盤には刻まれていない種の"ソウル"が、62歳の"新人"シンガーにはあった。それでこの男に日の目はようやく、しかし当たるべくして当たり、人びとはこの素敵な、同時にほろ苦い美談を愛でては、"あきらめずにやっていれば、いつかはものになる"、という教訓をそこから汲み取った。そしてジャケットで寝っ転がっている当人が、「夢を見てる時間はないのさ。起きて仕事しねえとナ(gotta get on up an'do my thing)」と歌うのに感じ入った。
そして、その初作で広く賞賛され、ここにきていよいよ仕事期の本番を迎えたブラッドリーが、"たった2年しか"インターバルを置かずにこの4月に放った2作目『Victim of Love』がとにかくみずみずしいのだ。苦み走り、枯れ味も立つ、還暦を越えて久しいシャウターが、このフレッシュでエネルギッシュな歌い飛ばし方一発ですべてを魅惑的に潤していくカッコよさは、実力派歌手の技巧的成熟とは全く質の違うものだ。長い潜伏期の果てに、"はらわた"からマグマのように噴出する歌だ。
サウンドの面では、自己紹介盤にふさわしくファンキー~ディープ・スタイルを重視したファースト作よりも、少し曲調が多彩な広がりを見せた。歌メロには60~70年代ポップスの薫りもするし、サイケ・ロック/70'sモータウン・サイケ風のアレンジもある。総じてダークでスモーキーな前作から明るくカラフルな方向へ歩みを進めた印象を受けるのは、この間に彼が浴びたスポットライトの光量も反映している気がするし、今作のリード・チューン"Strictly Reserved for You"のPVの彩度も関係していると思う。
それにしても、都会に疲れた男がベイビーを愛の逃避行に誘うそのPVの、絶妙に制御されたダサあか抜け具合が素晴らしい。苦労人の背中に染みついた陰影も、人としてのチャーミングさも殺がずに映し出しながら、現代的な色彩感やカットと、わざと古臭いPV風に演出したゆるい絵づらとを繋ぎ合わせている。このセンス、バランス感覚に、〈ダップトーン/ダナム・レコーズ〉と、ブラッドリーの専属バンド:メナハン・ストリート・バンド(Menahan Street Band)に特徴的な"ネオクラシック哲学"が見て取れる。
ダップ=キングスや、人気アフロ=ビート・バンドのアンティバラス(Antibalas)にブドーズ・バンド(Budos Band)などから精鋭たちが集い、ブルックリンの通り名を冠したメナハン・ストリート・バンドの演奏は、一聴するとかなりオーソドックスな70's南部サウンドのようでいて、細部にはソウル・マニアの白人ならではの美感とイマジネイションがさりげなく補われている。言わば21世紀のスティーヴ・クロッパーやドナルド・ダック・ダンたちが、60~70年代サウンドの洗練の一段先で、今の耳が望む痒いところにさらに手を延ばしたような音作りだ。メナハン・ストリート・バンド名義で洒脱な(ジャケットからして!)インスト・アルバムを2作出していること、そしてその1枚目『Make the Road by Walking』(Dunham)のタイトル曲を、ジェイ=Zが2007年の"Roc Boys (And the Winner Is)"で効果的にサンプリングしていたことを記憶している人も多いだろう。
さらにチャールズ・ブラッドリーの2枚目が今年4月にリリースされたのと同じタイミングでジェイ=Zが発表したニュー・シングル「Open Letter」(内政問題に発展した、ビヨンセとのキューバ渡航について言及した内容が話題を呼んだ)では、ブラッドリーの1枚目に入っていた"I Believe in Your Love"をサンプリングしている。ブルックリンの話題の新多目的スタジアム《バークレイズ・センター》の昨年のこけら落としに抜擢され、8公演を全ソールド・アウトにした地元愛に篤いブルックリン・ボーンの超スーパー・セレブが、地元インディ・レーベルの〈ダップトーン〉の作品をバックアップし、さらには62歳でデビューしたブラッドリーのセカンド作のリリースに、前作からのサンプリングで花を贈るなんていうのは、なかなかにいい話である。
しかし、何にも増していい話だと思うのは、ブラッドリーがこの5月、遂に、彼が50年前にあのJBを見たアポロ・シアターに、齢60代半ばにしてデビューすることだ。夢は叶うものなのだ......。ブラッドリーの歌が、しみじみ、生きる歓びの歌に聴こえてくる。


