「Noton」と一致するもの

Smurphy - ele-king

 今年は、どうも「ロウ」な音の質感が気になっていた。10年代前半のハイレゾリューションな音の横溢から、ザラついたロウな音へのモード・チェンジ。たとえばジェニー・ヴァルのアルバムで聴かれたようなザラついたファットなビートを思い出してもらいたい。もしくは〈アントラクト〉が送り出すイマジナリー・フォーシスなどのアーティストたちの音の質感。または〈ウモール・レックス〉のジェイムス・プレイスのアルバムの淡いノイズ。さらには〈フラウ〉からアルバムをリリースした日本のマッドエッグの壊れゆくビート。そして、〈リーヴィング〉から今年リリースされて作品たち。

 もはや説明不要だが〈リーヴィング〉は、OPN以降のアーティストともいえるサリヴァ、新時代のポップ・スターにすらなりつつあるジュリア・ホルター、インターネット以降の世界への嘲笑を一気に引き受けたかのようなD/P/I、モジュラー・シンセ使いで一躍人気のゲド・ゲングラス、ノイズ、ビートの多幸性みなぎるマシューデイヴィッドなど人気アーティストたちを送りだしたできたテン年代の「モダン・ニューエイジ」の潮流を代表するレーベルである。が、本年においては、どこか「ロウ」な質感/気分を持ったアーティストの作品を送り出しているように思えるのだ。とくにディーントーニ・パークスの『テクノセルフ』は、ザラついた質感のロウな激シブなテクノ/ビート・トラックで、まさに2016年のモードを先取り(?)したかのような素晴らしいアルバムであった。

 今回取り上げるスマーフィーのアルバムも同様だ。すでに彼女のアルバムは、海外メディア勢の年間ベストにも取り上げられていることからもわかるように、2015年以降のサウンド・アトモスフィアを湛えた傑作といってもよい。メキシコ人である彼女の音は、かの地の空気独特のザラついた質感と蒼穹の青空のような不思議な透明感を持っているように聴こえてくる。
 そこに内包された音楽はじつに多種多用である。ジューク以降のリズム感。ザラついたヒップホップなビート。電子音響的なノイズ。空間を自由に伸縮させるような彼女の「声」。まさに音の坩堝といった趣だが、情報過多の暑苦しさはまるでない。トライバルなリズム、ファットなビート、チリチリしたノイズや綺麗なカーテンのようなアンビエントが、彼女の「声」の周辺に空気の粒子のように舞い踊っていくかのような印象を聴き手に与えてくれるからだ。

 1曲め“ミッシング2MyBB”で透明なスクリーンの向こうから聴こえてくるような声とトライバルなリズムの交錯が素晴らしい。まるでポスト・インターネット時代のブリジット・フォンテーヌか。シームレスにつながっていく2曲め“サンセット”は、曲名とは裏腹に、リズムと時間が逆回転しながら深海に沈み込んでいるような白昼夢的なインタールード・トラック。つづく3曲め“アクエリアス・リジン”では、砂埃が絡みついたようなビートに亡霊のようなヴォーカリゼーションを聴かせてくれる。そして、分解したビートが再度溶け合うような4曲め“ジャルダン”を経て、5曲め“ウィケッド”では、サウンドの霧の中で美しいメロディラインを歌う(この曲、少しだけ90年代終わりの嶺川貴子を思わせる?)。以降も楽曲もリズムとビートとノイズとヴォイスが舞い踊るように表出しては消えていく。ビートにはジューク以降ともいえる分割感があるが、しかしそれすらもサウンドのレイヤーの中に溶け合っているのだ。ハイレゾでもローファイでもない。美しくも埃っぽい「ロウ」な音の中で……。

 そう、ここには「ハイレゾな10年代前半からロウ・サウンドなテン年代へ」という時代のモード・チェンジがたしかにある。本年ギリギリに届いた〈アントラクト〉からリリースされたイゾルデ・タッチのアルバムとともに、2016年にむけての新しい音の蠢きがここにある。

ライター募集! - ele-king

 ele-kingはアルバム評、書評、映画評のライターを募集します。
 info@ele-king.net 「ライター募集係」まで。
 お名前(ペンネーム可)と年齢をお書きの上、新譜、旧譜、映画、本、なんでもいいので、レヴューを3本/各800wで書いてメールしてください。
 音楽に関してはとくにジャンルはこだわりません。面白いものなら何でも取りあげるメディアではありませんが、面白い原稿なら何でも取りあげます。我こそはと思う方は、この機会にぜひご応募ください。採用された原稿には規定の原稿料をお支払いします。
 それでは情熱のこもった原稿を待っています!

ele-king vol.17 - ele-king

 わずか1年前というのは、感覚的には、つい数ヶ月前のような気がする。しかし2015年の場合は、2015年1月を生きた自分といま2015年12月を生きている自分とでは、明らかに何かが違って見える。それは何なのだろう? そして音楽はこの1年、世界をどのように見ていたのだろう? つまりリスクを持って、この危うい世界に挑んでいたのは誰なのだろうか? 「1ドルの真の代価とは?/いやな問いだな、思考が麻痺してくる」(by ケンドリック・ラマー)
 エレキングの年間ベスト号、22日発売です。ベスト・アルバム20、ベスト映画10本、そして政治特集「2016年の歩き方」。
 どうぞ注目してください。

【2015年間ベスト・アルバム20】
2015年は時代の占い棒としての音楽が健在であることを証明した。USではケンドリック・ラマーやディ・アンジェロ、UKではヤング・ファーザーズやジャム・シティ、日本では寺尾紗穂やKOHHがそうしたものの代表だ。そして、ジェイミーXXの若いロマン主義は冷えた心を温めた。しかし、2015年に欠けているものはユーモアだった。それでは年間ベスト・アルバム20枚。どうぞご覧下さいませ。

【特集:政治の季節「2016年の歩き方」】
音楽は逃避的なサーカスであり、夢のシェルターだ。が、ものによってはリアリズムに目覚めさせもする。いまや現実が騒がしくて夢見る暇もないって? 時代を描こうと思ってピンで留めても、時代はつねに動いている。私たちが思っている以上に、激しく。日本ではSEALDsがあって、アメリカでは#BlackLivesMatterがある。それらは音楽文化ともどこかで結びついている。政治の季節2015年から2016年へ、私たちはどのように歩いていけるののだろうか。

【目次】

002 Jun Tsunoda

012 interview OPN(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー) 三田格+坂本麻里子
026 2015・年間ベスト・アルバム20枚(泉智、木津毅、北沢夏音、高橋勇人、デンシノオト、野田努、橋元優歩、ブレイディみかこ、三田格、矢野利裕)
050 ラフトレードNYの2015年 文・沢井陽子+George Flanagan
052 映画ベスト10(木津毅、野田努、水越真紀、三田格)
060 2015年私談  文・増村和彦
064 特集:政治の季節「2016年の歩き方」
 066 interview 奥田愛基(SEALDs)、牛田悦正(SEALDs)泉智+水越真紀+小原泰広
 080 ケンドリック・ラマーと戦後70年の夏  泉智
 083 UKミュージックの救いの妖精、マーガレット・サッチャー  文・ブレイディみかこ
 086 「ワン・スローガン、メニー・メソッド」──#BlackLivesMatter 文・三田格
 128 20代がクラブに行かないワケ──ダブステップとグライムから考える マイク・スンダ×高橋勇人×野田努
 134 大学に文学部はいらない?  坂本麻里子×三田格
 138 ダンシング・イン・ザ・ストリート──2016年のための路上の政治学  五野井郁夫×水越真紀

 

101 REGULARS
102 初音ミクの現在・過去・未来(中編)  文・ヴィジュアル 佐々木渉
104 ハテナ・フランセ 第4回 戦争よりも愛のカンケイを  文・写真 山田容子
106 音楽と政治 第7回 ストレイト・アウタ・サムウェア  文 磯部涼
108 アナキズム・イン・ザ・UK 外伝 第8回 恋愛とPC  文 ブレイディみかこ
110 ピーポー&メー 人々と私  第8回 故ロリータ順子(前編)  文 戸川純

088 interview 渡辺信一郎  橋元優歩+野田努+小原泰広
118 interview KODE 9 高橋勇人+青木絵美

138 gallery 横山純

158  13年の幕間──2015年のジム・オルーク  松村正人+菊地良助


絢爛たる手塚治虫“トリビュート”展 - ele-king

 水木しげるが93歳まで生きたと思うと、手塚治虫の享年60歳はやはり若過ぎた。こんなことは言ってもしょうがないんだろうけれど、地下鉄サリン事件や同時多発テロを目の当たりにしたら、手塚治虫はどんな作品を描いたんだろうといったようなことをつい考えてしまう。なんだかんだいって魅力的なアウトローが描けた作家なので、どんな主人公を想定するかだけでも興味があるというか。

 吉祥寺リベストギャラリー「創」で17日から「手塚治虫文化祭~キチムシ '15」が開催されている(~23日まで)。手塚治虫の人気キャラを使ってマンガ家の皆さんが好き勝手な創作物を生み出し、展示・即売するというもの。オープニングからギューギューになるほど人が詰め掛けたそうで、僕が行った夕方ごろもまだ人が多く、誰の作品が出るかわからないガチャガチャはすでに売り切れ状態だった。場所はついこの間までバウシアターがあった先を左に曲がったところ。
詳しくは→https://www.chatterbox.tips/#!kichimushi/xh9pi

 最初に目に飛び込んできたのは西野直樹によるヒョウタンツギのTシャツ。なかなか凝ったデザインで種類もいくつかあった。その隣が上條淳士による「奇子とメルモ」のTシャツ。エッチの総取りみたいなコンセプトだけど、仕上がりはシンプルでこれもいい感じ。いちばん奥にもTシャツが吊るされていたので寄ってみると江口寿史である。1点は江口タッチの「ばるばら」で、まー、なるほど。もう1点は「太平洋Xポイント」って……誰もわからないでしょう~。ここから読み取れるのは江口寿史が元気だということだな。よかった、よかった。島本和彦と一本木蛮はシールドされていたので確認できませんでしたが、それぞれ「マグマ大使」と「ピノコ」の二次創作マンガかな? 女子高生のアトム子ちゃんが吉祥寺をあちこち案内している連作もどこかで見た絵だなーと思ったものの、これだけ作者名が記してない。ギャラリーの人に訊いてみたら青木俊直でした。なんで名前を隠すのか!

 基本的には同ギャラリーで個展をやったことのある作家が中心だとのことでしたが、謎の版画家・百世も作品を並べていました(あの人の娘さんですが、シークレットです。う~、言いたい)。鉄腕アトムやブラックジャックがちょっと可愛くなり過ぎでポストカード化しているほか、やはり、あの人の娘さんですよ、オカリナとか楽器のミニチュアまでありました(受注生産だそうです)。ほかに、いしかわじゅん、キタイシンイチロウ(DEVILROBOTS)、きはらようすけ、桐木憲一、Storm Machine Graphics、寺田克也、TOUMA、古屋兎丸、山田雨月、横田守と続きます。場内には「りぼんの騎士」のコスプレさんも歩いてました。値段はついていなかった。

 主催の手塚るみ子を掴まえて、なんかコメントでももらおうと思ったのですが、次から次へと取材が入っていてぜんぜん相手にしてもらえませんでした。唯一、訊けたのはele-kingで「おしっことうんこ」とか書いてる伊達伯欣は漢方の薬を間違って出したので出し直すとか言ってたのに、「先生は今日、ライヴでつかまらないです」と言われたとか。そんなスゴいゴシップはブレイディみかこでも掴んでないじゃないですか。ぶははは(©坂本麻里子)。これで、じつは伊達伯欣が医師免許を持っていなかったということになれば魅力的なアウトローの誕生なんだけど、どうもあいつはそこはちゃっかりやってそうだからなー。やはり手塚治虫の早世は痛いとしかいえない。
 ちなみに戸川純が呑んでいた漢方の薬には手塚キャラが印刷されていましたね。さて、この話はどことどこをつなげて終わりにすればいいんだろう。「みんな見に来てね」かな。みんな見に来てね。

◆開催日時
2015年12月17日(木)~23日(水・祝) 12時~18時(最終日は17時まで)
◆開催会場  
吉祥寺リベストギャラリー創  武蔵野市吉祥寺東町1-1-19  https://www.libestgallery.jp
◆出展者   
青木俊直・いしかわじゅん・一本木蛮・江口寿史・上條淳士・キタイシンイチロ ウ(DEVILROBOTS)・きはらようすけ・桐木憲一・島本和 彦・Storm Machine Graphics・寺田克也・TOUMA・西野直樹・古屋兎丸・百世・山田雨月・横田守
◆出展品   
それぞれ出展者が思いいれのある手塚作品をモチーフに、オリジナルに創作したトリビュート作品やコラボレーション商品。イラストやその複製原画をはじめ、ポストカード、Tシャツ、フィギュア、コミック冊子、その他雑貨など。どれも会期中のみ販売の限定品。(一部受注販売)
◆主催    
アシッドキューティプランニング 手塚るみ子
◆協力    
手塚プロダクション / CHATTERBOX inc / 株式会社タックデザイン
◆特設サイト 
https://www.chatterbox.tips/#!kichimushi/xh9pi
◆お問合わせ
リベストギャラリー創 0422-22-6615 


Mo Kolours - ele-king

 民族音楽をモチーフとするアーティストはクラブ・ミュージックの世界にも数多い。アフリカ音楽やラテン、ブラジリアンなどにかぎらず、たとえばレゲエやダブもその一種と捉えるなら、ダンス・ミュージックには民族音楽が多大な影響を与え、それが舞踏性を導き出しているとも言える。クラブ・ジャズと呼ばれるものも、実際にその多くは民族音楽と結びついていた。近年はクラブ・ミュージック界でも非西欧圏の音楽にスポットが当てられる機会が格段に増え、いままではほとんどワールド・ミュージックのマニアや好事家たちの間でしか知られていなかったレア盤が復刻されている。十数年前はアフロと言えばフェラ・クティ一辺倒だったが、いまはそのヴァラエティの豊かさに圧倒されるだろう。そうした状況下ではあらゆる角度から民族音楽の解釈を行うアーティストがおり、パッと思いつくだけでもオン・ラ、フォー・テット、ルチアーノ、マーラなど、いろいろなジャンルに跨っていることがわかる。そうした中でクラップ・クラップとモー・カラーズは、民族音楽とクラブ・サウンドの融合に成功した近年のアーティストの筆頭と言えるだろう。

 モー・カラーズことジョセフ・ディーンマモードは、南ロンドン出身のシンガー/パーカッション奏者/ビートメイカーだ。イギリスの植民地だったアフリカのモーリシャス共和国出身の家系だが、モーリシャスは地理的にはインド洋上に位置し、アフリカ、アラブ、インド文化が結び付いた独特のカラーを持つ。モー・カラーズはそうした自身のルーツ・ミュージックと、ヒップホップをはじめとしたビート・ミュージック、ダブ、さらにビートダウンなどを融合し、2011年に『EP1:ドラム・トーキング』でデビュー。マッドリブやラスGからセオ・パリッシュまでを結び、そこにパーカッシヴで瞑想的なインド~アラブ・テイストを交えたような音楽性で、収録曲の“ビッディーズ”などが評判を呼んだ。その後2012年に“キープ・イット・アップ”などを含む『EP2:バナナ・ワイン』、2013年に『EP3:タスク・ダンス』、そして2014年にファースト・アルバムを発表している。これらはすべてポール・ホワイトやブリオンらが所属する〈ワン・ハンディッド・ミュージック〉からのリリースで、現在はレーベルを代表する筆頭アーティストとなった。ちなみに兄弟のレジナルド・オマス・マモード4世もサウンド・クリエイターとして活動しており、2014年に両者でスプリットEPを出したこともある。

 そんなモー・カラーズの約1年ぶりのセカンド・アルバムが、本作『テクスチャー・ライク・サン』だ。今回も〈ワン・ハンディッド・ミュージック〉からで、いままでのEPやファースト・アルバムの路線を踏襲しており、音楽的にはさほど大きな変化は見られない。全部で19曲収録し、それぞれ10秒未満から長くても3分少々といった短い曲やインタールードを繋いだもので、一種のラジオ的な作りになっている点もファースト同様だ。このあたりはラスGの諸作やオン・ラの『シノワズリ』あたりを意識したコンセプトだが、ファーストよりさらにSEやスキットの分量が増えた印象がある。冒頭の“ポッツ・アンド・パンズ・セレモニアル・イントロ”では日本の雅楽のような音色も流れ、彼なりに世界のさまざまな民族音楽、ルーツ・ミュージックをこの1年でさらに深く、広く探求していることがうかがえる。“キープ・クール”に見られるレゲエ・フィーリングはますます快調で、“パス・イット・ラウンド”でのポエトリー・リーディングはまるでムタバルーカのよう。一方、「パラダイス」ではムーディーマン的なゲットー感覚が冴えている。“ハーヴェスト”ではアイズレー・ブラザーズをサンプリングし、ソウルやファンクに対する愛情が見え隠れする。モー・カラーズの音楽性ではソウルも大きな柱で、“ア・ソウルズ・ジャーニー”もその代表。口笛混じりの“ドント・ポイズン・オール・ザ・ウォーター”にも、アイズレーやビル・ウィザーズのようなソウルフルなフィーリングが流れる。アルバムの中間では“ファインド・アウト・ワット・ユー・ウォント”や“ブレス”などダウナーなフィーリングに覆われ、そこから一転してメロウでどこかノスタルジックな味わいの“オルファンズ・ラメント”へと変わる構成の妙。ちなみにこの曲はモンゴル民謡にインスパイアされ、ピースフルなムードとは裏腹に辛辣な嘆きのメッセージを持つ。こうした曲に見られるように、アルバム全体としては環境汚染などに対する批判が込められたものとなっている。

 そして、表題曲は副題に「ゴールデン・ブラウン」とあるようにストラングラーズのカヴァー。ハープシコードを使ったこのワルツ曲は、ストラングラーズにとっても最大のヒットとなった1981年度作品だが、後にいろいろな人がカヴァーしており、個人的には1997年にオマーがやったヴァージョンが印象的だった。ストラングラーズ、オマーと英国を代表するアーティストによる、極めて英国らしいメランコリックな味わいのナンバーだが、それをミニマルでドープなビート・ミュージックへ大きく変換する一方、モー・カラーズ自身の歌を前面に打ち出した点は原曲に対するリスペクトの表れなのだろう。ストラングラーズに代表されるパンクの精神が、いまもモー・カラーズのようなイギリスの若いアーティストの中に存在している証でもある。

CFCF - ele-king

 なんと端正なアンビエント/エレクトロニック・ミュージックだろうか。まるで工芸品のように磨き上げられた音たち。とはいえ単に美しいだけではない。どこか深い影の存在も感じる。この「影」の正体はなんだろう? と思いながら、1937年に岩手県で生まれ、2001年に亡くなった洋画家・松田松雄の作品を用いたアートワークに目を向けると、このカナダ人の電子音楽家の作品と日本が時空を超えて不意に繋がるような感覚を覚えてしまった。そう、本作はカナダ・モントリオールを拠点に活動するマイケル・シルヴァーによるプロジェクト、CFCFの2015年作品である。リリースは〈ドリフトレス・レコーディング〉。

 CFCFは00年代末期より『コンティネント』(2009)や『アウトサイド』(2013)など、チル・ウェイヴ以降ともいえるエレクトロニック・ミュージックをリリースしてきたわけだが、本年2015年にリリースした『ラディアンス・アンド・サブミッション』と『ジ・カラーズ・オブ・ライフ』(リリースは〈1080p〉)においては、精密で繊細でロマンティックなアンビエント/エレクトロニック・ミュージックを展開している。近年の潮流ともいえるニューエイジ的ともいえるが、そのようなアンビエント感は彼の作風に内包されていたものだから、いわゆる売れ線狙いの不自然さは微塵もない(そもそも『ジ・カラーズ・オブ・ライフ』は2011年に録音されていたものだという)。いわば「箱庭的」な音楽への希求とでもいおうか。ちなみに両作とも日本のみでCD化される。まさに快挙。

 1曲め“イン・プレイズ・オブ・シャドウズ”は本作を象徴するようなトラックである。朝霧のような電子音と柔らかなギターに、フィールド・レコーディングされた雑踏の声などが繊細にレイヤーされていく。つづく2曲め“スカルプチャー・オブ・サンド”ではダークなサウンドとクラシカルな旋律が反復し、本作特有の「影」を際立たせていく。4曲め“テザード・イン・ダーク”では森の中を彷徨うかのようなアコースティックギターの音色/旋律と、透明な音の群れのような電子ノイズの運動が耳をくすぐる。深い鼓動のようなキックや木の粒のようなパーカッシヴなサウンドもたまらない。5曲め(アナログ盤ではB面1曲め)“ザ・ルーインド・マップ”と、8曲め(アナログ盤ではB面3曲め)“ラ・スフリエール”は、ヴォーカル・トラックである。澄んだ歌声とギターと絹のような電子音が空気のように交錯する美しい曲。ラスト曲“トゥー・ミラーズ”では、波打ち際のように反復するギターと、星空のような電子音が耳を洗ってくれる。アルバム全編、ギター、ピアノ、マリンバ、電子音などが細やかに繊細に配置され、まるで手入れの行き届いた庭園のミニチュアールのようなサウンドに仕上がっている。
 たとえるならば、坂本龍一の名作『音楽図鑑』を受け継ぐかのような80年代ポストモダン的な音楽とでもいうべきか。もしくはアンビエント以降の80年代のブライアン・イーノ諸作品のようなアート/ポップ・ミュージックの領域を越境するような感覚とでもいうべきか(3曲め“ア・ヴァリエーションズ・ランゲージ (フロム・ザ・セイム・ヒル)”は、イーノ『ミュージック・フォー・フィルムズ』収録曲のカバーだ)。いや、むしろエレクトロニクス化したザ・ドゥルッティ・コラムとでも形容した方がしっくりくるだろうか。というほどに、本作にはある種の「ロマンティックさ」があるのだ。

 マイケル・シルヴァーの世代にとって80年代とは、「あらかじめ失われた時代へのロマン」ではないかとも思う。と同時に私などは、その「80年代」に、どこか「日本(の戦後)の影」がちらつくのである(ここからOPNからジム・オルーク論、セゾンカルチャー論へと強引に展開も可能だろう)。そう思うと『ラディアンス・アンド・サブミッション』という名前のアルバムにアートワークに日本の洋画家・松田松雄の作品を用いている点は(たまたま見つけというが)、やはりとても重要なことに思えてくる。石のような庭園で、石のように凍結した人物たち。戦後。80年代。日本。ポストモダン。

 もちろん、そんな妄想的な議論に性急に結びつける必要はまったくない。なにより本作は美しいシンセサイザー・ミュージック/アンビエントミュージックなのである。未聴の方は『ジ・カラーズ・オブ・ライフ』とともに、とにかく聴いてほしい。洗練されたメロディとサウンドが耳と心に、まるで水のように浸透するはずだ。

 なるほど、譜面が読めないというのは、ロック以降の音楽をやっている多くの人にとってのコンプレックス(劣等感)だったかもしれないが、それはロックの時代にとどまらない。むしろこの数年間のほうが、譜面が読める人/楽理がわかっている人が音楽を語るほうが面白い……いや、そのほうが正しいにきまってんだろう、という風潮があった。言っておくが、それを学歴好き社会と重ねてしまうのは、ぼくの学歴コンプレックスから来ているわけではない。学歴が高ければ面白い原稿を書けるとは限らないように、譜面を読める/書ける人が面白い音楽を創作するとは限らないのは周知の通りであるというのに、いまさら制度になびいてしまうのは、反動保守というわけでもなく、それだけ巷(とくにネット上)がしっちゃかめっちゃかだからだろう。じたばたしても、もう元には戻れない。
 とまれ。そもそも譜面なんぞに縛られないからこそ現代音楽はロックとの接点を持ち得たとも言える。この意味がわからなければ、音楽における「実験」の意味もわからないだろう。換言すれば、なぜぼくたちはエイフェックス・ツインのような、一生懸命にピアノを習っている人からしたらわけのわからないであろう音楽をかくも評価しているのだろうか……という話である。
 
 譜面とは必ずしもニュートラルなものではない、とトニー・コンラッド(ヴェルヴェッツに影響を与えた現代音楽家)は言う。それは言うなれば支配層からの指示を伝達するものであったと。また、オーケストラの原型が、17世紀の軍事訓練から来ていることも彼は指摘する。もうひとつ例を挙げてみよう。ピエール・シェフェールやピエール・アンリに学び、ミュージック・コンクレートを実践したパリの作曲家、フランソワ・ベイルは、(コンクレートにおける)楽譜の不在を肯定し、音符を使ってやることの限界を乗り越えるための電子音楽の可能性について語る。
 クラシック音楽の発展型たる現代音楽とは、モダニティ(近代性)への批評としてのポストモダニティの一形態と言えるのだが、時代はまさに、大衆音楽においてはオーケストラや西洋音楽の常識に拘束されたりはしないビバップ/フリー・ジャズがあり、ロックンロールがあった。制度とは外れたところで、スポンティニアスな演奏(=フリー・ジャズ)があり、反復ないしはノイズ=ロックンロールがあった。現代音楽の側から見たらそれはそれで新鮮な驚きだったろうし、時代における両者の接点も本書には記録されている。ブライアン・イーノは、ソウル・ミュージックからの影響を、音の未分化(未階層化?)にあると明かしている。要するに、伝統的音楽においては、リズム(下)、楽器(真ん中)、声(上)といったように階層が決まっていたが、ソウルにおいては声もリズムであり、楽器も声だったと、こうした曲を構成する各パートの未分化こそが後にアンビエントと呼ぶもののコンセプトに発展したと説明しておられる。

 本書『ミュージック』は、現代音楽と括られる作家たちのインタヴュー集である。とっつきにくいデザインだが、とにかくまあメンツがすごいんだ。カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・ブーレーズ、ヤニス・クセナキス、ロバート・アシュリー、フランソワ・ベイル、テリー・ライリー、トニー・コンラッド、スティーブ・ライヒ……。
 そして、ポップ・ミュージックとの接点を持つ以下の人たち、オノ ・ヨーコ、ブライアン・イーノ、アート・リンゼイ、クラフトワーク、カエターノ・ヴェローゾなどのインタヴューもある。
 実に、そう、実に興味深いリストだが、ここ読める言葉は、データばかりを追っている人にはほとんどが無価値だろう。彼らの「考え方」に興味がある人には読む価値が充分にある。
 発言集なので人によって発話量が違うし、話もさまざまだが、ぼくはモダニティのきしみ、批評としてのポストモダニティ、そのはざまでの錯雑、その揺らぎ……として読んでいる。いろいろ勉強になるし。
 ぼくのようにポピュラー・ミュージックの側にいる人間があらためて確認すべきは、たとえばそれを「アート」「アーティ」などと口当たりの良い言葉で評価するときの誤謬を繰り返してはならないということだ。たんにペダンティックであることが、なんとなく高尚であることが「アート」ではない(むしろ非アート)。その高尚さに懐疑を与えることが「アート」であり、そのために「実験」はある。最近の例で言えば、シカゴのフットワークは、なるほど、まさに「アート」だけどね。
 まあ、制度から逃れたいと思っていた人が制度そのものになるってことはよくある話だ。しかし、クラフトワークが自らを「土着的」と言っているのは面白かったな。テクノのゴッドファーザーは、『アウトバーン』がベートーヴェン(古典派)やドイツ・ロマン主義の影響にあるこを認めている。そんな興味深い言葉がいたるところで見つかる。
 譜面に支配されることはないが、感覚だけでやっていると、いつかは不安になるものだ。とくに「気持ち良い」ってことだけを頼りにしている人は危ない。「気持ち良い」には、いつまでも同じように気持ち良いわけではないという落とし穴があり、人は刹那に生きたくてもそうはならないことのほうが多い。よって、気持ち良さが信用できなくなるときが来る。そのとき必要なのはコンセプト=「考え方」だ。
 最後におまけとして、カールハインツ・シュトックハウゼン大明神の「ループ(反復)」に関する、いかにも「らしい」、しかしとてもいい発言を本書から引用しよう。
 
 しかし「ループ」という言葉をもっと正確に定義しなければいけません。第一には字句どおり、直接的反復のことです。でもそれだけではありません。地球が太陽の周りを回ればループに──1年に──なりますが、まったく同じ年はなく、われわれは進歩もしています。重要なのはループが、人体のなかの分子の運動のように「ミニ」としてしか把握できないこと、つまり中心をめぐっての動きであることです。根本的に重要なのは、こうしたフィードバック・ループから生じる成長と縮小のプロセスです。

John Grant - ele-king

 「もし結婚できるようになったら……」
 数ヶ月前、僕はあるゲイの友人と飲んでいるときにふと尋ねたことがある。
 「結婚する?」
 友人はうーんと少し考えて、「それは相手によるな」と答えた。「そりゃそうだ、そう簡単にいかんよな」と僕はわははと笑って、そしてジョン・グラントの前作『ペイル・グリーン・ゴースツ』のジャケットでこちらをにらみつける彼の姿を思い出していた。もし結婚できるようになったら……、そんな仮定をするようになるとは、ほんの数年前はこれっぽっちも僕は思っていなかった。時代は前に進んでいる、たしかに。だが、グラントはそのアルバムで別れた恋人への憎しみと孤独、「そう簡単にはいかない」側の中年ゲイの悲哀を赤裸々に歌っていた。だから彼の歌はいまの時代にこそ必要だったのだろうし、彼がこちらをにらんでいた理由もよくわかる。

 ところが、新作のジャケットにおいてジョン・グラントの鋭かった目は……光っている。タイトルがアイスランド語とトルコ語で『中年の危機と悪夢』となっているのはいかにも彼らしいし、オープニングのタイトル・トラックは哀切に満ちた得意のピアノ・バラッドだ。そこで歌われる「自分が70年代のニューヨークを恋しがるようになるとは思っていなかった」とはつまりエイズ禍以前のことで、相変わらずHIVポジティヴである自分の混乱とどのように付き合っていけばよいかの苦悩が綴られる。「俺はよく食料品店で何も見ずに突っ立っているんだ/何を買ったらいいかわからないから」……カラフルであることが称揚されるこの時代においてグラントは、ひとりスーパーでボーっと立っているゲイ中年としての己の姿を自虐的に描写する。

 しかし、アルバムはそこから音において旋回しはじめる。“スナッグ・スラックス”の脱力したシンセ・ポップ、“ゲス・ハウ・アイ・ノウ”と“ユー・アンド・ヒム”のふざけたハード・ロック。前作にもあった80年代ニューウェーヴ色はさらに強くなり、ニュー・オーダーやデペッシュ・モードからの影響がいかに強いか、というか彼がそれらで育った世代であることがよくわかる。またバラッドにおけるストリングスや管楽器のアレンジも含めてアダルトであることが強調されているのだが、ずいぶんユーモラスで軽やかになっている。やや曲数が多く全体のまとまりとしては前作のほうが上だと正直思いはするがしかし、表現のあり方において何か吹っ切れたことがよく伝わってくる。曲自体においてはこだわってきたゲイネスから緩やかに解放されているし、何より彼自身が生き生きしている……目が光るわけである。

 シングルの“ディサポインティング”はトレイシー・ソーンとキャッチーなドゥワップ・コーラスを引き連れたポップ・ナンバーだ。ゲイ・サウナを舞台にして裸のヒゲオヤジが大量に出てくるビデオ(https://youtu.be/U2Ig4sMURdc)はカジュアルなゲイ・カルチャーがオシャレなものとして扱われる現在において、あまりにもホモセクシュアルすぎて意地悪だなーと思わず笑ったが、しかし直球のラヴ・ソングだ……彼にしては。ラフマニノフやドストエフスキー、フランシス・ベーコンを愛するスノッブな中年男が、それでもそれらは「君の笑顔に比べたらがっかりなんだ」と歌いあげる。間違いなく本作におけるハイライトである。

 もちろんジョン・グラントはいまも、オシャレでもなく明るくもなく輝かしい希望に満ちてもいない側のゲイの……いや、ゲイに限らない、中年男のひとりとして相変わらずここにいる。だがユーモアを手放すことはないし、それでも新しい愛に出会ってしまうことを、自らの姿をさらけ出しつつここでドキュメントしているのである。

Ssaliva - ele-king

 インターネットはデジタル・ナルシスの生成空間だ。とくにSNS以降のインターネットは、他人と自分の関係性から境界が液状化し、融解し、消えかけていく場所といえる。ここでは愛は憎しみに簡単に反転するし、他人へのうっすらとした嫌悪は、いわば自己嫌悪の否認である。
 このデジタル・ナルシス的な鏡像関係は、新しい環境と「風景」を生み、われわれ人類の新しい「内面」を生み出している。ほとんど無現に増殖/液状化していく新しい「内面」の誕生である。その意味で、インターネット以降の世界を生きるわたしたちは、それ以前の人類からすると増殖する他人と自我の融合を抑えきれない「ミュータント」なのかもしれない。となれば「ポスト・インターネット」とは「液状化し増殖するわたし自身」が大前提となった時代の呼称となるだろうか。
 たとえば、アルカとジェシー・カンダの音楽とアートワークなどは、そのように増殖する自己(「ミュータント化するわたし」)を象徴的=批評的に表象している。だからこそ時代を象徴する作家なのだろうし、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーも同様である。ダニエル・ロパティンは20世紀のジャンクをかき集め、そこに一種の「わたしの死(=幽霊)」を見出していく。彼は、コピーと模倣で増殖するデジタル・ナルシスの「死」を見据え、わたしたち/彼らのゴースト・アトモスフィアを形成していくのだ。

 ベルギーの電子音楽家サリヴァ=フランソワ・ブランジェもまた、そんなデジタル・ナルシス=ポスト・インターネット時代/世代の音を生み出すエクスペリメンタルな電子音楽家のように思えた。彼はこれまでも同郷ベルギーの〈ヴェレック(Vlek)〉や、マシュー・デイヴィッド主宰の〈リーヴィング(Leaving)〉などから、ヴェイパー・ウェイヴ以降特有のロウな質感を持った融解的なエクスペリメンタル・テクノ/電子音楽をリリースしており、すでに一部の通人からは注目を集めていた人物である(カップ・ケイヴ名義としても活動)。そして2015年には、同じくベルギーの〈エクスター〉(Ekster)から本作をリリースしたわけだが、本作によって彼の評価はさらに決定的なものになるのではないか。なぜならこの新作もまたOPNやアルカの新作などと同じように、ポスト・インターネット的でありポストモダン的でありデジタル・ナルシス的であり、つまりは2015年的としか言いようがない作品なのだから。

 1曲め“サンポ”における電子のカーテンが開くような、冷たくも不安定なトラックから一気に引き込まれる。つづく2曲め“オーヴァーランド”や5曲め“ステイブス”の融解したビート、断続的で乾いたノイズ、淡いコード感、3曲め“エクストラ・スペース”、4曲め“ドリーム・ダイヴ”のグリッチ・アンビエントとでも形容したい質感など、どれもまったく素晴らしい。以降、どのトラックもミニマルな電子音、グリッチ・ノイズ、空気のようなアンビエンス、融解したリズム、クリスタルなシンセサウンド、それと相反するロウな質感が交錯し、優雅でシュールレアリズムの雰囲気に満ちた「いま」の電子音楽が展開する。オリジナル盤ラスト曲“フュギュア”など、不安定なシンセサイザーによって奏でられる優美な賛美歌のようである(この「優美さ」はフランソワ・ブランジェの最大の個性とも思える)。ポスト・インターネット時代のデジタル宗教曲?

 そして本作の音楽性を見事に表現しているのがアートワークではないかと思う。透明な氷のような、水のような、ガラス細工のような顔のオブジェが向かい合ったこのアートワークは、ポスト・インターネット的なデジタル・ナルシスと、モノ的・ゴースト的な感覚が横溢するいまの時代の美意識を、その音楽とともに見事に表象している(インターネットとは、いうならば自分自身の鏡だ)。本作もまたOPNやアルカなどと同じく「音楽であって音楽ではない/ポスト・インターネット時代特有のサウンド・オブジェ」なのである。まさに2015年を象徴するアルバムといえよう。

追悼:原節子 - ele-king

 原節子の訃報が筆者の暮らすイギリスにも伝わってきた。ああ……と切ない思いに駆られたので、訃報に関するネットのコメント欄をチェックしたりイギリス人にこの話をしてみたところ「まだ生きてたんですか!」の驚きが多く、知人については原節子と言うよりも「OZU」を持ち出しておぼろげに「ああ、あの女優……?」、そして「……何歳だったの?」と続く反応だった。

 それもそうだろう。1963年の女優業引退後は公の場やパブリシティ/取材を退け続け、ガルボ以上に私生活は謎に包まれていた女優さんだ。原節子を初めて見たのも、そういえば出演映画ではなかった。小学生の頃、「麗しの名女優写真集」みたいなグラビア本の新聞広告で、ディートリッヒ、バーグマン、ヘップバーン号等に混じって原節子号があるのを見かけたのがきっかけ。筆者が『東京物語』で実際に彼女が動きしゃべるところを観るのは、その10数年後の話である。

 それによっぽどのシネフィルを除き、著名監督ならまだしも外国俳優の名前まで細かく覚えている人は少ない。筆者の知る、比較的日本に興味があって日本産映画も多少は観ているイギリス人の中でも、名前だけで即通じるのは「三船」と「たけし」くらいだ。黒澤映画のダイナミズムやスケール、北野武の日本的なヴァイオレンス描写の方が、海外では遥かに共感しやすいカリスマとエキゾチックなインパクトを生むのだろう。

 ダイナミズム、スケール、ヴァイオレンス、カリスマ、エキゾチズム。こうした単語群ほど、小津安二郎と原節子のもっとも実り多きコラボレーションとされる「紀子三部作」──トポロジーや家族構成・人物設定にこそ若干違いがあるものの出演俳優や登場人物の名前にだぶりが多いこの3作品は、同じ家族の物語を少しずつテーマを変え変奏したフィルム・サイクルと言っていい──こと『晩春』(1949年)、『麦秋』(51年)、『東京物語』(53年)と隔たりのある言葉もないかもしれない

 カメラはほとんど動かないし、場面の多くは様式化された屋内撮影。暴力にいたるたかぶった感情や衝突に欠けた中流家庭のストーリーであり、現代劇なだけにサムライも十二単も出る幕は無い。親たちこそ和服に純日本家屋なノリだが、対照的に戦後世代は洋装で闊歩し、丸の内のビル街はニューヨークのように屹立し、ショートケーキを食べる贅沢もある。一方で畳の間に籐椅子があったり寝るのはやっぱりお布団だったりするのだが、谷崎潤一郎『陰影礼賛』の仄かに照らす日本ではなく、電灯がくっきり捉えた和洋折衷の日本が広がっている。

 スマートに整えられたプチ・ブル〜小市民(この3作における稼ぎ頭/家長的な男性はいずれも学者・教授・町医者といったホワイトカラー系)の世界を「都会的」「洗練された」と評する声も分かるし、原節子に対する印象を親に訊ねたところ、返ってきたのは「モダン」の言い換えと言える「バタくさい女優さん」だった。目鼻が大きくはっきりした彼女の顔立ちはなるほど華やかかつオープンで、スレンダーな体躯にも関わらず外国女優のようなヴォリューム感が漂い、低めな声に静かなヴァイタリティとある種の厳かさが宿る。『東京物語』で言えば杉村春子の柿にスイカのタネをくっつけたような和な顔とも、あごが未発達な少女顔の香川京子とも異なる、「大人の女性」。色んな意味で日本離れ、いや俗世離れした美人である。

 貧相さとは無縁なそんな彼女の気品とは、たとえば『安城家の舞踏会』、『白痴』といった作品──それぞれチェーホフ、ドストエフスキーが下敷きになっている──で演じた、零落しながらも気高さを内に秘めた女性の役回りに結びつくことにもなったのだろう(後者は長たらしい上に舞台劇と自然派とドイツ表現主義とがごっちゃになったようなアンバランスなメロドラマながら、小津作品でのそれとはまったく違う原節子のエキセントリックですらあるファム・ファタル演技が見もの。主役4人の中でももっとも磁力が強い)。だが小津のこの3作は、ロシア文学を通して社会の変化や無情さ、階級差といった大きなテーマを描き出すのではなく、ごくフラットな世界に閉じている。

 先にも書いたように、物語の中心になる家庭はいずれも裕福ではないものの並みのちょい上レベルで、登場人物たちはまっとうに働き生きている。出征したまま帰らぬ人となった次男という形で戦争が悲しい影を落とすのを除けば、円満な家族。『麦秋』と『東京物語』で職業婦人を演じている原節子は、その中で自立した新たな女性のイメージ=進歩の象徴/憧れを体現している、と言えるだろう。だが、そんな原節子=紀子を旧社会型の足枷が引っ張ることでストーリーは進んでいく。『晩春』と『麦秋』での紀子は婚期を逃したまま親と暮らしている娘という役どころで(『麦秋』ではご丁寧に「紀子ちゃん、28歳かね」とだめ押しされる場面がある)、親はもちろん親戚や周囲もやきもきしている。英語のイディオムに「Elephant in the room(部屋の中の象)」というのがあるけれど、これは大きく明白なぶん、厄介なので逆に誰もが口を閉ざしておざなりにしがちな問題=腫れ物という意味で、嫁がない紀子さんはいわば一家の「象」ということになる。

 『晩春』は笠置衆演じる父との父子家庭のひとり娘なので、「私がお嫁に行ったらお父さんはどうなる?」の遠慮が未婚の遠因になっている。『麦秋』の紀子がなぜ行き遅れているかは曖昧だが、東京で秘書としてきびきび働く彼女は独身の気軽さ×親元で暮らす安心感を共にエンジョイしていて、暢気。とはいえ「女盛りの別嬪さんが勿体なくも独身」という状況はミステリアスに映るのか、『晩春』での父:周吉と娘:紀子の関係にエレクトラ・コンプレックスを指摘する人間もいれば(父に再婚話が持ち上がり、紀子は「不潔だ」と不快感を示す場面もある)、『麦秋』紀子が戦死した兄の友人(妻を亡くした子持ち男性)と結婚するという展開に、ブラコンを持ち出す者もいるだろう。

 そうしたフロイト/ユング型の分析もどこかしら当たっているのだろうとは思う。が、うーん、単純に女の視点から言わせてもらえば、紀子の在り方に自分はコンプレックスを感じない。むしろ共感する。自分がたまたま実際の紀子(=父親とふたり暮らし、あるいは両親と同居している同世代の女性)を知っているからかもしれないし、『麦秋』に登場する既婚族VS未婚族女性の笑えるやりとりの場面を観ていて、友人の多くが未婚族側に当てはまるなぁ、と感じたのもある。彼女たちは結婚や制度を避けているわけではないし、良い相手に出会わないんだから仕方ないわよね〜という調子で、いずれも「適齢期を逃した」型の悲壮感に欠けている。60年前以上に作られた映画のキャラクターなのに、「紀子さん」は今の自分の周りに結構いっぱいいるのだ(逆に、近い世代の男性で「離婚した子持ち」が多いのは面白い。これはイギリス人の話なので安易に日本人と較べることはできないかもしれないが&円満な夫婦やカップルもたくさん知ってますけども)。

 今の日本の状況が実際どうかは知らないが、晩婚傾向は続いているのだろう。自分が若い頃ですら「25歳までに人並みに結婚を」という雰囲気がジョン・カーペンターの霧のように迫ってくるのは無視しにくかったし(結局、無視したけど)、1950年代なら、未婚女性に対するプレッシャーはもっと大きかったはず。ゆえに紀子は縁談をもちかけられ、説得され、最終的には嫁ぐことになるのだが、家族や周囲をすったもんださせた割に、肝心の見合い相手の顔はおろか見合いの場面すら画面に登場しないんだから笑ってしまう。小津映画ではオープニングから話が始まっていたり、細かな事情説明抜きで何かが起きた「その後」や「余波」に場面が変化しているというのは多いが、クライマックスとも言える交際〜男女の駆け引きの具体的な描写なしで紀子は結婚を決意し、『晩春』では文金高島田姿で涙の別れになり、『麦秋』では家族で記念写真を撮影し、その次には夫の赴任先の秋田に引っ越した後……という流れになる。

 紀子のこの一見唐突な決断を、海外の評は「彼女は親に対する義理から結婚に踏み切る」とし、保守的な古い因習に屈した若い世代という図で説明をつけたりしている。なるほど、ロマンスの欠如は彼らには不可解なのだろう。しかし『晩春』紀子は父の「俺のことは心配しなくていいから」の言葉に励まされて新たな世界へ踏み出す決心をするし、『麦秋』紀子は近過ぎて気づかなかった旧友の魅力に目覚め、あっさり結婚を承諾する。それは、自分の目にはちょっと曲がっていて水をせき止めていた樋が、添え木や軽い修繕でまっすぐになり、再びちゃんと水を流すようになったヘルシーな光景……と映る。ジャンプしさえばなんとかなる。おそらくどちらの紀子も、良妻賢母としてちゃんと幸せになるのだ。

 そんなイメージが浮かぶのは、原節子が醸し出す賢さや安定感ゆえではないかと思う。『麦秋』の中で、旧友と結婚し秋田に転居することになった紀子に対し、独身の友人は「あなたはお金持ちと結婚して優雅なマダムになると思っていたんだけど?」という旨の(残念まじりな)意外さを口走る。これは映画を観ている側も同じで、美人スターが白いセーター姿で飼い犬と別荘でくつろいでいる図の方が、彼女が田んぼに立つ姿より遥かに想像しやすい。だが紀子/原節子の穏やかに達観した微笑は、幸せは与えられるものではなく自ら探し出し作り出すもの、と知る者の智慧を感じさせる。言い換えれば、紀子は誰と結婚しても充足できる=パートナーで規定される必要のない、揺るがない「個」を持つ女性ということ。その精神的なゆとりゆえに婚期に対する焦りが薄いのも分かるし、見合い相手の男性が透明人間なままでも違和感はない。『麦秋』と『東京物語』の間に発表された笑劇作品『お茶漬けの味』は、愛のない見合い結婚に不満を隠さない高飛車な妻がふとしたきっかけで地味な夫の空気のような存在感に頼っていた自らに気づき、「夫婦ってお茶漬けの味なのね★」とちゃっかり理解し心を改める……という内容だが、紀子というキャラはお茶漬けの味の良さと大事さを悟っている。大丈夫な人、なのだ。

 この達観あるいは大丈夫な自足ぶりが、しかし突き詰まって孤独にスライドしているのが『東京物語』の紀子だ。ここでの紀子は主役の平山家の娘ではなく、戦死した次男の未亡人、すなわち義理の娘という設定。はるばる上京してきた夫の両親との再会を喜び、実の子たちに邪険にされる老夫婦を自らの親のようにいたわる、天使のような女性である。子供たちの薄情さを際立たせるための対照的な役どころというのもあるとはいえ、他人に優しくするのが苦手な日本人とは思えない非現実的なキャラも、そもそも浮世離れした原節子が演じると疑念なしにすんなり受け入れられるんだから面白い。

 とはいえやっぱり紀子で、「息子のことは忘れて、気兼ねせずお嫁に行って」と、ここでも笠置衆と東山千栄子に気を揉まれている。まだ若いんだし将来を考えてください、その方が我々も心苦しい思いをせずに済むのじゃ、と諭される。こうした情深いやり取りを経て物語は悲しい結末に向かっていくのだが、果たして紀子は老夫婦の願いどおり再婚/再生に踏み出すのか? と考えてみるに、自分にその図は浮かばない。彼女のラスト・シーンは汽車の中=旅立ちであり、時計という小道具の示唆する「時の刻みの再開」も含めてポジティヴな終わりと言える。だのに原節子が最後に浮かべる表情はモナ・リザのそれのように微妙で、野球選手のように遠くに向いている。

 『東京物語』の紀子は会社勤めをしながら、亡き夫と暮らしたアパートで今も暮らしている。炊事場やトイレも共同とつましく、老夫婦をもてなすのに什器を隣人から借りる場面からも、友人づき合いが少ない静かな生活ぶりが窺える。だが彼女自身が「気楽でいい」と語るように、少なくとも紀子はこの小さな部屋の「主」であり、老夫婦の大人になった子供たちの抱える気詰まりや遠慮──長男の子供は祖父母の滞在で勉強部屋を明け渡すのに不服を唱えるし、転がり込んだ親の処遇に困る次女は夫に対する引け目が我慢できない様子――はない。「操を守る未亡人」という古風な佇まいながら、紀子の方がよっぽどしがらみから解放されている。

 その気楽さに流され、なんとか日々を乗り切っていくうち、気がつけば夫の死から8年も経っていた……というのはリアリティがある。かつ、紀子は実は夫を忘れている日も多くなっていて、と同時に何かが起きるのを待っている女心や孤独に慣れることへの獏とした不安も正直に打ち明ける。仕事に生きるキャリアウーマンとして意地を張ったり強がっているわけではく、案外と生活が性に合ってしまったのだろう。そんな風に猶予している自らを「ずるいんです」と彼女が自責するのは、結婚・出産といった一般的な「女性の幸福」双六の存在は承知しつつも、ひとりでいる自由に気づいた後ろめたさがあるからではないか?と思う。

 親子の情が薄い兄や姉を身勝手だと非難する年若い末娘:京子に対し、紀子は子供が親から離れて行くのは当たり前だから仕方ない、となだめる。今は子である京子にも親の番が回ってきて、同じような経験をするだろう=人生はサイクルという含みがあるわけだが、紀子自身はそのサイクルから外れている。これらの映画で娘の嫁入りは「かたづける」とも表現されるが、箪笥か何かのようにかたづいていない。冗談まじりに「歳はとらないことにしている」と話すこの人は、さりげなくオルタナなのだ。

 そんな風に順番がなく、かすがいを持たない生き方は浮草のようで寂しくもある。時にメランコリックな表情も浮かぶし、老夫婦に注ぐ気遣いにしても、夫と彼女を繋ぐ最後のよすがである彼らにすがりたい気持ちが彼女に残っているのを感じさせる。だが、その夫がロング・ショットの遺影としてしか登場しないように(またも透明人間!)、あるいは平山家も分散していくように、人間はいつかひとりになっていく。そうなる前に家族の種子を飛ばし絆を残していく人もいれば、逆に孤独に向かって準備を進める人もいる、ということ。前者を実りのある立派な人、後者を世捨て人だの変わりものと看做す社会傾向は強いが、「人生はいやなことばかり」とあっさり微笑み生きている紀子に、自分は気品こそ感じるが欠如感は抱かない。

 原節子を形容する有名なフレーズに「永遠の処女」というのがある。昔は「気持ち悪いなあ、こんなの、当人は迷惑だろう」としか思えなかった。生きる伝説/孤高の理想なんぞになってしまったら、逆にその人間は孤独が募るだろうから。ただ、キス・シーンや水着姿を断り続け、スター・システムから逸脱し沈黙のまま95歳で世を去った原節子と、三部作を通して幸福の鋳型をやんわりと、しかし自らの意志で少しずつ退けていった紀子とは重なる。そう思えば、彼女が生涯独身だった点も少なからず影響しているであろう「永遠の処女」なる奇妙なイメージも、個の生き方を守り通した=精神の強さという意味合いで考えれば、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 『東京物語』の後も原節子は小津安二郎の映画に出演しており、「その後の紀子」とでも言うべき妻や母親役を演じている。『青い山脈』他、代表作は他にもある。だが、納得できないことはやらない、流されない女優だった原節子がそのストイックな芯をスクリーンに焼き付けたと言える紀子というキャラクターに、自分は映画の「夢」に留まらないリアルな人間の手応えを感じる。それは、とても珍しいことだ

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