「Noton」と一致するもの

Arne Deforce & Mika Vainio - ele-king

 現在活動休止中というフィンランドのテクノイズ・ユニット、パン・ソニック。彼らはテクノというコンテクストに、ノイズ/ミュージックを導入した偉大な先駆者である。

 そのパン・ソニックの(元?)メンバー、ミカ・ヴァイニオとイルポ・ヴァイネサンが、ほぼ同時期にノイズ/ドローン・アルバムをリリースした。ミカ・ヴァイニオはチェロ奏者アルネ・デフォルスとのコラボレーション・アルバム『ヘーパイストス』、イルポ・ヴァイネサンはディルク・ドレッセルハウス(シュナイダーTM)とのユニット、エンジェルの新作『テラ・ヌル.』を発表したのだ(両者ともレーベルは〈エディションズ・メゴ〉)。
 もっともふたりがソロ・ワークでドローン/ノイズ的なサウンドを聴かせるのは以前からのこと。特にミカはパン・ソニック的なビートとは違う非反復的なリズムをソロ作品で展開してきたのだからとくに目新しいことではない。だが、この2作品を聴き比べていくことで、ふたりのアーティストの個性があらためて浮き彫りにもなる。
 それほどまでにこの2作品は対照的だ。まず、『ヘーパイストス』において、ミカ・ヴァイニオはアルネ・デフォルスとのふたりだけで音を生成している。対してイルポ・ヴァイネサンのエンジェルは、ディルク・ドレッセルハウスとのユニットであるが、複数の音楽家がゲスト参加をしており、彼らとの共闘によって録音されたものである。
 さらには、ミカはソロ・別名義・コラボレーションと旺盛なソロ活動を展開しているが、イルポは寡作だ。エンジェルとしても2011年『26000』以来、約3年ぶりの新作リリースというのも対照的ともいえよう。
 
 それぞれの作品を検討してみよう。まず、ミカ・ヴァイニオとアルネ・デフォルスのアルバムは、チェロと電子音の極めて物質的な交錯による音響作品だ。チェロ奏者アルネ・デフォルスはヤニス・クセナキスやモートン・フェルドマンの難曲も弾きこなし、フランスの現代音楽・古楽レーベル〈イーオン〉からアルバムもリリースしている名演奏家だ。もはや「出せない音はない」とまでいわれている人である。
 『ヘーパイストス』においても、アルネはミカの繰り出す強烈な電気ノイズに真っ向から対峙し、弦が芯から震えるような強烈な音響=ノイズを鳴らしている。それはチェロという楽器の極限への挑戦のようである。さらにその轟音の狭間に不意にチェロ特有の繊細な美音をたおやかに奏でもするのだ。
そしてミカの発する電気ノイズも、アルネが鳴らす弦のハードコア・サウンドに呼応するように、マテリアルな電気雑音を放出していく。まさに電気と弦の物質的恍惚。ちなみに「ヘーパイストス」とは炎と鍛冶の神ということだが、炎をアルネ、鍛冶をミカと置き換えることも可能かも知れない。
 また、本作に通低するリズムは、ミカのほかのソロと同じく非反復的な感覚が濃厚だ。二人の音はぶつかりあい、衝突し、そこから新たな音が生まれていく。その意味で、本作は、ここ数年のミカ・ヴァイニオ作品の中でも、もっともハードコアな音響作品といえよう。ミカは現代音楽と電子音響以降のノイズ・ミュージックの融合/交錯に成功している。

 では、イルポ・ヴァイネサンとディルク・ドレッセルハウスによるエンジェルはどうか。このユニットも基本的にはノイズ/ドローンな音響を聴かせてくれる。とはいえ、2002年のファースト・アルバム『エンジェル』(〈ビップーホップ〉)にもディルクのギターはフィーチャーされており、2006年の『イン・トランスメディアーレ』(2005年にクラブ・トランスメディアーレでの録音)でも、チェロ奏者・作曲家ヒルドゥル・グズナドッティルをコラボレーターに迎えていることからもわかるように、そもそもこのユニットは活動当初から電子・電気ノイズと生楽器の融合を目的として活動していたといえる。〈エディションズ・メゴ〉より2008年にリリースされた『カルムイク』でも、ヒルドゥル・グズナドッティルはアルバム全編を通して演奏し圧倒的な存在感を示している。前作『26000』(2011)にもヒルドゥルは参加しており、もはや準メンバーといっていいほどだ(ちなみにこの『26000』には、BJ・ニルセンがエレクトロニクス、オーレン・アンバーチがギターで参加!)。
 そして最新作『テラ・ヌル.』においては、ヒルドゥル・グズナドッティルに加え、ミカとの競演経験もあるアルゼンチン出身のベテラン・インプロヴァイザー、ルチオ・カペーチェがソプラノ・サックスやクラリネットなどで参加しているのだ。なんという豪華さ。

 そんな『テラ・ヌル.』は、ディルク・ドレッセルハウスのどこか寂しげなギターからはじまる。やがて電子ノイズが絡まり、4者は音楽/音響を行き来しながら、ノイズ/ドローンの洪水を生み出していく。彼らは本作を「ダーウィン的な進化のドローン」と語っているようだが、ある種の生命の進化のように、互いに呼応しながら生成と淘汰を繰り返し、ある必然性を持って音響が生まれているように思える。とても演奏的なドローンだと思った。

 端的にいって、同じように楽器を導入したドローン/ノイズ作品でも、ミカ(たち)の作品は、マテリアル/マシニックな音響であり、対してイルポ(たち)のサウンドは、より音楽的な反復を聴きとることができるのだ。いわば「演奏」を感じるのである。そう、ふたつに分裂したパン・ソニックは、ドローン/ノイズという共通項を持ちつつも、非反復と反復、音響と音楽、放出と演奏、テクスチャアルとコンセプチュアルという両極でサウンドを発生しているといえる。

 まるでプラスとマイナスのように対極/対照的な音を生み出すミカとイルポの現在。その音は、90年代から現在の音響シーンを貫く貴重な存在である。ゆえにわれわれパン・ソニック・マニアは、いまも彼らの動向から目が離せないのだ。

あいつ呼ぼうぜ! - ele-king

 Aliveというサービスをご存じだろうか?

 立ち上がってまだ1年にも満たないというが、テレビや経済系のメディアなどでも紹介されているので、ご存知のかたもいらっしゃるかもしれない。
 Aliveとはいわば新しいスタイルの“呼び屋”システムだ。一般のユーザーから呼びたいアーティストのリクエストを受け、その実現が可能なレベルまで“支援”が集まれば、ライヴが開催される。“支援”とはチケット予約のこと。もちろん企画が実現されない場合は決済は行われない。イメージとしては、ライヴ・イヴェント限定のクラウドファンディング・プラットフォームといったところだろうか。

 しかし、ユーザーがリクエストと“支援”を行うだけ、という最小限の手間によって、効率的にニーズを集約できるのはすごい。まだサービス開始から数か月という短い期間でありながら、モントリオールのドリーム・ポップ・デュオ、ブルー・ハワイをはじめとして、シューゲイジンな人気ガレージ・バンド、クロコダイルズやUKのサマー・キャンプ、クラムス・カジノらと比較される年若きプロデューサーXXYYXXなど、さまざまなアーティストの招聘が現実化している。「自分は大好きなんだけど、こんなマイナーな人たちの来日なんて無理だよなあ……」というようなアーティストの顔をだれでもひとりやふたり思い当たるだろうが、Aliveにリクエストしてみれば、この広い世の中、同じように酔狂な人間が意外な数存在しているという幸福な事実にぶつかるかもしれない。

 ともあれ、公式サイトに飛べば詳しい説明や絶賛支援募集中のアーティストを見ることができる。もちろん諸事情あるだろうから、リクエストがただちに支援募集企画として立ち上がるわけではないが、投稿欄にはインディ・アーティストを中心にジャスティン・ティンバーレイクなどまでが上がっていておもしろい。ついつい発想がインディにかたよってしまったが、超ビッグネームが意外な抜け穴を通って来日することだってあり得るよね。

詳しくはこちら!
Aliveサイト:https://www.alive.mu/


The Soft Pink Truth - ele-king

 良識的なひとびとがマチズモを男根主義と呼んで眉をひそめるならば、ドリュー・ダニエルは「僕たちも男根が大好きだよ!」と不気味に笑って「彼ら」に握手を求めてみせるだろう。マトモスの片割れであるダニエルのプロジェクト、ザ・ソフト・ピンク・トゥルースの久しぶりの新作では……ああ、ジャケットを見て逃げ出さないでほしい、(ゲイの、ではなく)ホモの地獄絵図が広がっている。これはダニエルによる極めて冷静な批評であり、強烈な一撃である。差別主義者への? まあ、それもある程度。しかしそれ以上に、ポリティカル・コレクトネスに捕らわれて退屈になったゲイ・カルチャーおよび、リベラルなつもりで世のなかの醜い部分から目を背けようとする一見清潔な連中を徹底的にからかっている。

 今回のコンセプトはシンプルだ。ブラック・メタルのアンダーグラウンド・クラシック・ナンバーのエレクトロニック・ミュージックによるカヴァー集……と、それだけ書けば何てこともないが、ここで繰り広げられるのは反キリスト教、サドマゾ、悪魔信仰、女性蔑視、そしてもちろんホモフォビア……のエレクトロニカ・ヴァージョンであり、その、断絶された世界のあり得ない接続である。ワイ・オークのジェン・ワズナーがヴォーカルをとる“レディ・トゥ・ファック”を聴いてみるといい。マシュー・ハーバートのリスナーもうっとりするようなエレガントでスムース、そしてフェミニンなそのハウス・トラックでの決め台詞は、「立ちあがって俺の突き刺さったハンマーを見ろよ」だ。ボディ・ミュージックめいた“ビーホールディング・ザ・スローン・オブ・マイト”、ダークで艶っぽいグリッチ・ハウス“レット・ゼア・ビー・エボラ・フロスト”、キッチュなシンセ・ポップ“ブリード・バイ・タイム・アンド・ダスト”、ドラムンベース調のカオティックな暴走“マニアック”……吐き気がするほど禍々しく不道徳であり、だが強烈にセクシーで、その分裂に聴けば聴くほど脳がシェイクされるようだ。

 ひとつ確実に言えるのは、このアルバムはブラック・メタルのエクストリームさを対象化して風刺しながらもその内部に入り込んでエナジーを吸収しているということだ。背徳的なメタルの世界を指さして批判しているのではなく、その地獄で血糊を浴びて笑ってみせている。この世に蔓延る差別が反社会的で非常識な黒づくめの連中のせいならことは簡単だが、そうではない。だからダニエルはこのアルバムのオープニングを、アントニー・ハガティといっしょに朗読するゲイ・アンダーグラウンド・シーンのプロテスト・ポエットではじめる(“インヴォケイション・フォー・ストレンス”)。ここにあるのは多くの人間が見ようとしないこの世の暗部の饗宴だとそこで宣言するかのようで、戯画化された地獄は本当に存在するのだといやでも思い知らされる。

 だが結局のところ、これはすさまじく悪辣かつ狂ったジョークだ。TMTがレヴューの「スタイル」を「エレクトロニカとハウスにおけるホモフォビアの悪夢」としているのには笑ったが、いやしかし実際、笑うしかない。ホモフォビアは悪夢のようだが現実に存在するのだから。ドリュー・ダニエルはアウトサイダーとしての共感の眼差しすらをブラック・メタルに向けつつ、不健全な文化と性に満ち溢れたパーティを今日も繰り広げている。

Plastikman - ele-king

 プラスティックマン、aka リッチー・ホウティンの新作アルバムが発表されると聞いて、心躍らないテクノ・ファンはいないだろう。彼がシーンにおよぼした影響は計り知れないものがある。言うまでもなく、リッチー・ホウティとはミニマル・テクノというジャンルのイノヴェイターなのだ。
 1993年の、スネアロールのループと簡素なビートのみで構成された恐るべきフロア・アンセム“スパスティック”、マイク・インクの〈スタジオ・ワン〉と並、究極のミニマリズムと評されている1996年の『コンセプト1』シリーズ、膨大な量のトラックをパーツごとに分解し、ミックスすることによってDJミックスの概念を変えた『DE:9 クローサー・トゥ・ジ・エディット』……などの作品を通じて、リッチー・ホウティンは、90年代初頭からつねにフロント・ランナーとして斬新なアイデアを世に問いかけている。

 リッチー・ホウティンと彼が率いるレーベル〈プラス8〉/〈マイナス〉の成功によって、歩むを止めることなく規模の拡大・発展を続けてきたミニマル・テクノは、00年代から続くリカルド・ヴォラロボス、ルチアーノといったチリ~南米勢の隆盛を経て、現在ではルーマニアを中心とする東欧シーンの台頭の時代を迎えている。ペトレ・インスピレスク、ラドゥー、クリスティ・コンズといったアーティストが作り出す生々しいテクスチャー、執拗にエディットされたウワモノ、絶えず細微な変化を繰り返すビートに特徴を持つそれらのサウンドは、ミニマル・テクノがいく度目かの大きな変化の季節を迎えていることを示唆している。
 そんな渦中で、11年ぶりにリリースされるプラスティックマンのオリジナル・アルバムが本作『EX』だ。プラスティックマン名義としては、2010年には過去の作品を集めたCD15枚+DVD1枚のボックス・セット『アーカイブス1993-2010』を、同時にそこからの編集盤的ベスト盤『コンピレーション』をリリースしているが、ニュー・アルバムとなると2003年の『クローサー』以来である。

 リッチー・ホウティンと言えば、最新テクノロジーを駆使した挑戦的なDJ/ライブ・パフォーマンスでオーディエンスを湧かせているが、ことオリジナル・トラックに関しては、エンターテインメント性を避け、作品性をできうる限り掘り下げることに注力している。
 ファースト・アルバム『シート・ワン』(1993)、セカンドの『ミュージック』(1994)ではドラッギーなアシッド・サウンドを披露して、『コンシュームド』(1998)や『クローサー』(2003)においてはダークで内省的なサウンドを志向しているが、ベースとなっているのは最大限に装飾性を省いた反復性にある。ニューヨークのグッゲンハイム美術館で催されたクリスチャン・ディオールのイヴェントのために制作された本作においても、それは変わることない。

 ここには、ヒプノティックなベースラインとシンプルなビート、ときにアシッディに鳴り響くドープなシンセサイザーのヴァリエーションで展開するプラスティックマン・スタイルの、2014年ヴァージョンが展開されている。リスナーにとっては、プラスティックマンの独特のトリップを久しぶりに堪能できるというわけだ。ミニマル・テクノの第一人者としての揺るぎないコンセプト、そして実験と前進、プラスティックマンの美学が見事なまでに反映された1枚だと言えよう。

The Antlers - ele-king

 ゲイの同僚からジ・アントラーズの新譜CDを貸してもらった。
 彼は別の保育施設に転職することになった。職場で一番仲が良かった人間が去るのはやはり寂しい。
 「君は非ヨーロッパ圏から来た非ホワイトな外国人だし、僕はゲイだ。あるグループの英国人父兄には絶対に受け入れられない保育士なんだよ」
 と言った彼とは、おもむろに不快な視線をこちらに向ける保護者(この層は白人だけではない)だの、「You are yellow! Your skin is so yellow!」と4歳のお嬢さんに言われても耐えなければならない純商業的保育施設従業員の辛みだの、といった非常にアンクールな、頑なにはなりたくないけどやっぱマイノリティーだといろいろあるんだよね。みたいなことをランチ休憩に愚痴り合える仲だった。
 だから、そんな同僚がいなくなるのはとてもサッドだ。そんな心情にジ・アントラーズの新譜は妙にフィットした。なんでまた50歳にもなろうというばばあがこんなおセンチなものを聴いてるんだ。という気はするが、今年の夏は気分が下向きである。

 おセンチ・ロックというのは今世紀のUKポップ&ロックの人気ジャンルだ。代表的なバンドはコールドプレイやキーン。メロディアスで感傷的というのは英国には昔からあったジャンルだが、これらのバンドには例えばザ・スミスのような暗さの突き抜けはなかった。
 が、一方でUSのジ・アントラーズの『Hospice』を聴いた時には、お。と思った。『Burst Apart』を聴いた時は、グリズリー・ベアやん。と思った。で、5枚目にあたる『Familiars』では、“Palace”という曲の物寂しいブラス音が妙に沁みて日本の小学校の下校時間を思い出し、こりゃブライトンの浜辺でブルーグレーの空を見上げながらぼんやり聴く曲だな。と思っていると、The AntlersがYoutubeで公開した同曲のイメージ写真に、数年前に燃え落ちたブライトンの埠頭娯楽施設の写真が使われていた。
 なんでまたニューヨークのバンドがブライトンなのか。
 レヴューしてくれと呼ばれたような気がした。

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 SAD、PAIN、BEAUTY。といった言葉がだいたい彼らのレヴューにはよく使われている。ヴォーカルのピーター・シルバーマンの声(楽曲によっては女声にしか聞こえない)が圧倒的に劇的で、儚げに震えたり、ひゃーーーと唐突にビロードのような高音で裏返ったりするので、THEATRICALやMOODYもよく使われる形容詞だ。まあ若いうちならこういうのもいいのだろうが、婆さんの年齢になってくるとアルバムを通じてエモーショナルな世界を展開されると「うへー。」となって普通は途中で止める。だから、「お。」とは思ったもののThe Antlersをまともに聴くことはなかったのだ。
 が、今回の『Familiars』はアルバムを通して何度でも聴ける。JAZZYになったからだろう。「夕暮れブラス」みたいなホーンの音がとても新鮮で、ひたすら床を這いつくばって悲しがっている感じではなく、それに飽きて起き上がり、ベランダから夏の空を見ている感じがある。
 陰気だったり、感傷的だったり、内省的だったりすることをサッドと呼ぶなら、近年のUSはサッド・ソング流行りだ。サン・キル・ムーン、ベック、ラナ・デル・レイ。セイント・ヴィンセントのアニーが「泣きながら歌ったら1テイクで済んだ曲がある」と言っているインタヴューを読んだが、いったいみんな何がそんなに悲しいのか。
 しかしサッド・ソングというものは、泣いている自分を幽体離脱したもうひとりの自分が外側から見ていなければエレガントには聞こえない。そういう意味では、『Familiars』は珍しくエレガントなサッド・ソングズ・アルバムと言えよう。いみじくも本作で一番素晴らしい楽曲のタイトルは“ドッペルゲンガー”という。

僕が鏡の後ろに閉じ込められている時、僕の声は聞こえる?
 僕の静かなる熱狂のせいで吠えてしまう僕の分身の声が?"Doppelgänger"

 US産のジ・アントラーズは、本アルバムでザ・スミスとシガー・ロスの間に位置するエレガントなバンドに成長した。そのエレガンスとは「醒め」や「客観性」という言葉でもいい。が、それは音楽やリリックスを作ることに対するある種の「硬質さ」でもあろう。

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 さて、今月はモリッシーの新作アルバムが控えている。
 いよいよサッド・ソング界のキングの登場である。客観性と主観性のあいだにある境界線を縦横無尽に行き来するあのキングの新譜を期待して、わたしは寝ることにする。

Kroutrock - ele-king

 眠たい目をこすりながら、いまTVの前で起きていることは幻覚じゃないかとブラジルVSドイツ戦を見ていた方も多いかと思われますが、ドイツって、憎ったらしいほど強いですね。
 さて、これはサッカーとはまったく関係の話です(日本時間の14日の朝が決勝なんですけどね……)。好評発売中の『クラウトロック大全』ですが、7月15日(火曜日)、DOMMUNEにて番組が決まりました。当日は、小柳カヲル氏が、貴重盤やレア音源をかけてくれるかも!? ぜひ、実写版クラウトロックにチューンインしてください。

7月15日(火曜日) 19:00~21:00
ele-kingTV ♯27 / 実写版「クラウトロック大全」
出演:小柳カヲル、赤石順子、野田努

Baths - ele-king

 表題曲の“オーシャン・デス”、「海の死」はミニマル・テクノ……いやハウスだ。ダークな低音、キックのストイックな反復にじょじょに重なっていく女性ヴォーカルはエレガントでセクシー。ゾクゾクするほどスリリングなダンス・トラックでこのEPは幕を開ける。が、耳がどうしても追ってしまうのはその奥で聞こえるノイズというには何やらクリーンで微細な音の粒子、そのざわめきである。バスがよく使用する雨音のサンプリングもあるだろうか、さわさわ、プチプチ、チャプチャプ……というような。そして、2分半過ぎにやってくる波の音。ここでジャケットをじっくり眺めたい。どこか終末もののSF映画を思わせるような不可侵な佇まいの「世界」がそこにはあり、そしてそれはバスのインナーワールドそのものである。IDMをハウス化したフォー・テット『ゼア・イズ・ラヴ・イン・ユー』(2010年)がある流れを決定づけたことをいま改めて思う。その先で鳴っている“オーシャン・デス”はたしかにフロア受けするだろうビート・ミュージックでありながら、そこでひそかに息をしている小さく繊細な音たちを見つけることこそがバスを聴くことなのだと思う。

 『オブシディアン』収録の“アース・デス”に対応しているであろうタイトルを持った5曲入りEP。その“アース・デス”、「地球の死」にはあった地面に身体を叩きつけるような烈しさと比べてみると明らかだが、全体としてより洗練されたムーディなメランコリアが聴ける。アンニュイなピアノ・バラッドにリニアなリズムが入ってくる2曲め“フェイド・ホワイト”のオーガニックな質感の演奏にはもはや「LAビート・シーンの」という枕がよけいなものに思えてくる。『セルリアン』を思わせる聖性を帯びたハーモニーに溢れたアンビエント・ポップ“ヴォイヤー”、もっとも素朴な歌が込められた残響音が重なり合うようなシンセ・ポップ“オレター”、それらは表題曲に比べれば控えめだが先の2枚で試みたことからの断絶はなく、しっかりと磨き上げられている。

 「きみの身体を僕の墓場に埋めて(“オーシャン・デス”)」……相変わらず、死のイメージが抜き差しならないリレーションシップへの欲求と重なっていることも見逃せない。「太陽が消滅したところできみを待っている」だなんていちいちモチーフが大仰だし(セカイ系……と言うべきなのか)、「僕はべつにきみを愛してはいない、愛してはいない」と繰り返さねばならない切実さが胸を刺す。バスの作る音には内向的な青年の内側でざわめくエモーションが流れ出ていて、それが烈しく噴出したのが『オブシディアン』だったとすれば、この『オーシャン・デス』ではその狂おしさのなかを心地よく浮かぶようだ。そしてそうした思春期的なモチーフ、ナイーヴでフラジャイルな愛の歌というのは、バスが関わっているようなヒップホップやIDM周辺のビート・ミュージックではかつては立ち現れにくいものだったように思うが、たとえばライアン・ヘムズワースやノサッジ・シングなどを並べてみると共通のムードがぼんやりと浮かんでくる。きわめてパーソナルなバスの表現における現代性はそこだろう。

 ラストのバラッド“ヨーン”はそうした意味でも、サウンド面でも、非常にバスらしさが自然に湧き出た美しい佳曲だ。柔らかなタッチのピアノ、カリカリ、ガリガリと左右に動くプログラミング、降り注ぐコーラスと、その狭間を転がるような小さな音の粒、そして愛の意味を問うナイーヴで正直な歌声。だがその最後で描かれるのはバスのセカイではない。か弱そうな青年がそこで、その外側の世界を静かに見ていることが何やら予感めいていて、ドキリとさせられるのだ――「まるで永遠に移り行く樫の木のように、世界はあくびをして 前に進んでいく」。

Morrissey - ele-king

 ザ・スミスはポップ・バンドである。モリッシーはポップ・ソングライターで、ときにはアイドルだった。曲の主題はセックスから社会に虐げられている人たちのメロドラマ、洞察力のある風刺までといろいろだが、モリッシーはサッチャリズムに対して、過剰ともいえる敵意をむき出しにしたことで知られている。ルサンチマンをぶちまける暴君ではなかったが、80年代半ばの彼はイギリスを救える道はサッチャー暗殺とまで言ってのけている。保守党を狙ったIRAの爆弾事件についても「ターゲットは間違っていないが、サッチャーが生きていることは悲しい」とコメントして、いくらなんでもそれは言い過ぎだろうとヒンシュクを買ったこともある。

 新作のリリースを間近に控えているモリッシーだが、ふたつの意味において、格好のタイミングで彼の90年代初頭の旧作が2枚、リマスターで&未発表ライヴ映像もしくは未発表ライヴ音源付きでリイシューされた。1992年の『ユア・アーセナル』(ライヴDVD付き)、翌年1993年の『ヴォックスオール・アンド・アイ』(ライヴ音源付き)──2枚ともザ・スミスの栄光から切り離された、ソロ・アーティストとしてのモリッシーを確立した作品だ。前者は、彼の音楽的ルーツであるグラム・ロック愛が滲み出ていることで知られている。
 もちろん、モリッシーのスタンスが大きく変わっているわけではない。ソロ・アーティストとしてのモリッシーは、1988年の『ヴィヴァ・ヘイト(憎しみ万歳)』という、なんとも的確な題名のアルバムでデビューしている。ザ・スミスの『クイーン・イズ・デッド』のタイトル名の候補には、のちの『ヴィヴァ・ヘイト』の最後に収録された“マーガレット・オン・ア・ギロチン”があったというけれど、モリッシーが作品においてあからさまなサッチャー批判や政治的な復讐心を露わにするのはザ・スミス時代よりもソロに入ってからだろう。

 1992年といえば、ゾンビーやM.I.A.がレイヴ黄金時代と懐かしむ年ではあるが、政治の表舞台ではサッチャーが退陣を表明し、さすがに労働党が巻き返すのではないかと言われながら、投票率77%の選挙戦で保守党が勝った年だった。『ユア・アーセナル』に収録されている“ナショナル・フロント・ディスコ”は当時のイギリスの右傾化を描いていた曲だが、いまの日本で聴いても突き刺さるだろう。「“イギリスはイギリス人のもの”って、デイビー、風が吹いて、僕の夢をすべて吹き飛ばしてしまった」

 とにかく、20年以上昔のこの音楽は、少しも古びていない。期せずして蘇った、いや、彼の音楽が似合う世のなかになってしまったというか……、『ヴォックスオール・アンド・アイ』というタイトルの由来は、ブレイディみかこさんのレヴューを参照するとして、グレアム・グリーンの小説『ブライトン・ロック』の登場人物たちが歌われるアルバムのはじまり、名曲“ナウ・マイ・ハート・イズ・フル”のなかでモリッシーが歌う「控え目に表されるところの憂鬱」は、いま、あらたな解釈を求めているかのようだ──「やっかいごとが待ち受けている/家は立て直さなければならなくなり/愛する家の住人は間もなく精神分析医の前に横たわる」

 ある種のユーモアも含まれているのだろう。モリッシーの政治的表現は、たとえ感傷的であっても、曲調はメロディアスで、ポップで、グラマラスで、言葉はウィットに富んでいるので窮屈な気持ちになることはない。が、たとえば、“ホールド・オン・トゥ・ユア・フレンズ”──「信頼の絆が悪用されてしまった/何か大切なものが失われてしまうかもしれない/仕事なんかやめてしまえ/すぐになくなってしまう金なんか使ってしまえ/友だちをたよりにするんだ」、“ ホワイ・ドント・ユー・ファインド・アウト・フォー・ユアセルフ”──「いちばん正気に思える日こそ狂っている/どうして自分の目でたしかめようとしないんだ」などなど、いまでも聴き捨てならないキラーなフレーズがいくつもある。ブリットポップ前夜のアルバムとは思えないほど浮かれた様子はなく、日本版サッチャーが政権を握り、「社会なんてない、あなた個人のことだけを考えればいい」が常識となっている国で聴いて違和感がないのも当然と言えるが、同時にこれは世のなかにどこまでも疲れた人間にも信じる気持ちを取り戻してくれる音楽でもある。

The Swifter & David Maranha - ele-king

 ザ・スイフターは、ドラム・パーカッションのアンドレア・ベルフィ、ピアノのサイモン・ジェイムス・フィリップス、エレクトロニクスのBJ・ニルセンらによるトリオ編成のインプロヴィゼーション・グループである。リリースは、実験電子音楽レーベル〈エントラクト〉から。
 ザ・スイフターは2013年に〈ザ・ワームホール〉という〈タッチ〉のカセット専門レーベルの、サブ・レーベルからファースト・アルバムをヴァイナル・オンリーでリリースしており、本作が2作めのアルバムとなる。内容は、2013年2月にリスボンで行われたライヴ録音である。総収録時間は30分ちょうどで、ミックスはメンバーのアンドレア・ベルフィが担当。そしてゲスト奏者としてポルトガルのミニマル・ミュージックのベテラン、デヴィッド・マランハがオルガンで参加している。デヴィッド・マランハとアンドレア・ベルフィはこれまでにも競演がある。

 エレクトロニカ以降の電子音響シーンを多少でも知っている方ならばご存知だろうが、アンドレア・ベルフィ、サイモン・ジェイムス・フィリップス、BJ・ニルセンらは、〈ルーム40〉や〈タッチ〉などの老舗・著名音響レーベルなどからアルバムを発表しているアーティストである。
 近年では、アンドレア・ベルフィは、2012年に〈ルーム40〉から打楽器とドローンが絶妙に融合した作品を発表しており、サイモン・ジェイムス・フィリップスも同じく〈ルーム40〉から、シャルルマーニュ・パレスタインのようなミニマルなピアノ・アルバムをリリースしている。BJ・ニルセンは昨年〈タッチ〉から環境そのものを思考/聴取するような新譜を送り出している。デヴィッド・マランハは、ステファン・マシューやデヴィッド・グラブスなどともコラボレーションを行っている。

 ちなみに私がこのグループのことが気になったのはBJ・ニルセンが参加していたからだ。BJ・ニルセンは先に書いたようにフィールド・レコーディングにエレクトロニクスのエディットした環境工学的な作品で知られる音響作家である(環境と音を考察する著書を刊行したばかり。日本のサウンドアーティスト、ユイ・オノデラが参加)。その彼がまさかこのような演奏主体のフリー・ミュージックのメンバーに加わるとは思ってもみなかったのだ。もちろん3人の経歴(とデヴィッド・マランハの競演歴)を考えれば、それほど突飛なことではないと理解できるのだが。
 また、〈エントラクト〉から、このような演奏主体の音源をリリースされることも珍しい。実験電子音楽とフリー・ミュージックのジャンル性が越境されていくのはいいことだし、〈エントラクト〉にしては400部とプレス数も多いので、レーベル側も力を入れているのだろう。
 じじつ本作を聴いてみると、フリー・インプロ・リスナーだけでなく、エレクトロニカ/実験音響のリスナーにも訴求する力があるようにも思える。インプロ主体のフリー・ミュージックでありながら、フリーにありがちな極端な静寂と轟音を行き来する演奏というよりは、一定のミニマルな持続(ドローン)を中心線に置いているので、どんなにフリーな演奏が繰り広げられようと、エレクトロニカ以降のドローン/アンビエントを経由した聴き方ができると思うのだ。

 演奏のメインは、サイモン・ジェイムス・フィリップスのシャルルマーニュ・パレスタイン的なミニマル・ピアノとアンドレア・ベルフィのドラムスである。フィリップのピアノは光の点滅のようにミニマルな演奏を延々と続け、ベルフィのドラムは一定の反復を繰り返すハイハットに、アクセントのようにリズムを打ち込んでいく。そしてこれら演奏の中心線に、ドローン的な線の音楽が流れている。
 そのドローン感覚を浮き彫りにさせるのが、ゲスト参加デヴィッド・マランハによる電気オルガンだ。このオルガン・ドローンがじつに素晴らしい。デヴィッド・マランハのオルガンは比較的に小さくミックスされており、よく耳を澄まさないと聴こえない。もちろんこのミックスは意図的なものだろう。なぜなら、「聴こえるか/聴こえないか」の中間のほうが聴き手はより音に耳を傾けることになるのだから。その結果、覚醒と陶酔が同時に巻き起こるようなサウンドが生成しているのである。轟音といってもいいアンドレア・ベルフィのドラムと光のように点滅するサイモン・ジェイムス・フィリップスのピアノの「あいだ」に鳴り響く柔らかくシルキーで煌くようなドローン・サウンドの素晴らしさ。

 そう、このグループの演奏は、たしかにインプロだが、しかし音たちは、ひとつのドローン=中心線に沿って鳴っているのだ。アルペジオもドラムの自在なフィルも、すべて文節化されたドローンのようなものである。ここにこそ、このグループの演奏が、いわゆるフリージャズ的なインプロとは違う「音響的フリー・インプロヴィゼーション」として成功している理由があるように思える。
 そして、3人の演奏に異質な他者として介入してくるのが、BJ・ニルセンのエレクトロニクスだ。エレクトロニクスといっても、彼が自分のアルバムで使うようなフィールド・レコーディング素材なども変形されつつ用いられている。演奏の持続の中に、エレクトロニクスを介入させることによって、音楽の速度を、その内側から変えていくのだ。そこでは周期的な持続と非周期的な音が交錯している。つまりは演奏とグリッチの交錯。

 2014年現在、エレクトロニカ以降の環境は、クリック/グリッチからドローン/アンビエントを経由したフリー/インプロヴィゼーションへと移行しつつあるのではないか。もちろん、これはいまにはじまったことではないが(2004年からすでにフェネス、ピタ、大友良英、サチコMの競演盤などがあった)、緻密なプログラミングから豊穣な不確実性の導入という変化は、この時代において必然性がある(ジャズ人気の再燃やブラジル音楽の人気の背景には、人間による演奏とエレクトロニクスの拮抗が重要なポイントだろう)。たとえばこの7月には、〈スペック〉から音響作家マシーン・ファブリックが率いるインプロヴィゼーション・バンドPiiptsjillingの新作『Molkedrippen』がリリースされる。今年1月にはカフカ鼾の素晴らしい作品も発売されている。

 この「音響作家と演奏家によるフリー・インプロ・バンド」が、ドローン/アンビエント以降の新しい環境として、幾多の優れた先例(つまりは成功と失敗)を踏まえつつ、新たな潮流となていくのだろうか? さらに、ここにトータスからラディアンへと至り、現在、頓挫している演奏とエレクトロニクスのフォームの現在へと繋げてみると、どのようなパースペクティヴが浮かび上がるのだろうか? ドローン/アンビエントが、いささか紋切り型へとむかいつつある現在だからこそ注目したい動向である。

パスピエ - ele-king

 パスピエといえば、そのニューウェイヴ/テクノポップ性が特徴的だ。実際、リーダーの成田ハネダ自身、ジューシィ・フルーツやビブラトーンズなどの名前を出して語っている。なるほど、ファースト・フル・アルバム『演出家出演』収録の“フィーバー”は、背後のキーボードがニューウェイヴ・ポップ的で、たしかにジューシィ・フルーツやノー・コメンツ“東京ガール”なんかを思わせる。あるいは、『わたし開花したわ』あたりのシンセサイザーやヴォコーダーは、YMO周辺か。とくに“電波ジャック”“あきの日”なんかを聴くと、テクノ歌謡のような郷愁も感じられてよい。そう考えると、“チャイナタウン”“はいからさん”などは、YMO“東風”や矢野顕子“在広東少年”のような、テクノ・オリエンタリズムの系譜に置くことができるか。いずれにせよ、テクノ歌謡の香りが感じられるのがよい。ちなみに、ヴォーカルの大胡田なつきについては、「やくしまるえつこっぽい」とか「YUKIっぽい」といった声が多いようだ。それなりに同意するが、僕は「椎名林檎っぽい」と思った。いくつかの曲の歌い方と言葉の割り方が、とても椎名林檎っぽい。これもよく言われているようである。

 それにしても、この「~っぽい」の参照先が、国外でなく国内になったのはいつ頃だろう。90年代はどうだっただろうか。ミスチルはたしか「オアシスっぽい」とか言われていた気がする。ナンバーガールは「ソニック・ユースっぽい」だったか。単純化した議論は禁物だが、個人的な印象として言わせてもらえば、2000年代のなかばあたりから、とくにロック・バンド系の参照先が、いよいよJ-POPになっていた気がする。そうか、2000年代のなかばともなれば、べつに洋楽を参照しなくとも、J-POPがJ-POPとして自給自足できるようになっていたんだなあ。そんなことを考えながら、パスピエの過去作を聴いていた。
そして、新作の『幕の内ISM』だが、これがすこぶる清々しい。多彩なサウンドを追求しつつも、一方で、なんと堂々とJ-POP然としていることか。「堂々とJ-POP」とか言うと、嫌味を言っているように思うかもしれないけど、もちろんそんなことはない。堂々とJ-POPでいることは、先鋭的なバンドであることと同じくらい、たいへんな創意と工夫が必要なのだ。多彩なサウンドは、ニューウェイヴ/テクノポップという枠にとどまらない。パスピエの新作はこれまで以上に、J-POPであろうとしているように思える。
たとえば“七色の少年”がジュディ&マリーっぽい。そうかと思えば、“とおりゃんせ”冒頭、鋭いギターに4つ打ちのバスドラが重なる展開は、ここ数年のJロックと足並みを揃えているようでもある。もっともこの4つ打ちの潮流は、音楽ライターの柴那典がしばしば指摘するように、フェスへの対応という側面があって、ロック・フェスに感銘を受けた成田ハネダの趣向が反映されているのかもしれない。この鋭いギターと4つ打ちに、シンセサイザーのサウンドが加わると、どことなく最近のザゼンボーイズを思わせる“トーキョーシティ・アンダーグラウンド”になる。そして、そのシンセの音がさらに存在感を増すと、今度はモーニング娘。‘14とまではいかないが、少しEDM寄りになって“MATATABISTEP”となる。この多彩なサウンド。これぞ、同時代のJ-POPを貪欲に並べた、堂々たる「幕の内ISM」だ! 本誌インタヴューで成田が言う「POPの中のJ-POPバンド」というコンセプトが、いま書いたようなことを指すのかどうかは心許ないが、ともあれ、アルバムを通して、このハイブリッドなJ-POP感は心強い。ナンバーガールやザゼンボーイズは見え隠れするが、ピクシーズは見えない。EDMの感じはあるが、ニッキー・ミナージュやLMFAOを思い出すわけではない。サウンドへの野心はあるが、J-POPであることを手放さない。そのバランス感覚がとてもいい。だから、確信した。パスピエに対しては、ふるき良き80年代ニューウェイヴ/テクノポップの郷愁のみを感じ取るべきではない。彼らは、80年代のテクノ歌謡と00年代の4つ打ちロックを同時に見据えているバンドなのだ。ここを見誤ってはいけない。テクノ歌謡とJ-POPの高度なハイブリッドとして、パスピエは堂々たるJ-POPのたたずまいを獲得しているのだ。
 鋭く響くギターとダンス・ミュージックを融合させるセンス。ここには、マーク・スチュワートとアーサー・ラッセルを通過した向井秀徳の姿が、どうしても見える。パスピエが向井秀徳をどのくらい意識しているか/していないのかは知らないが、ジャケット・ワークや詞世界も、少し向井秀徳的である。そもそも、現在J-POPのフィールドで活躍するロック・バンドが、少なからずナンバーガールやザゼンボーイズの影響下にあったりする。とくに、00年代のJ-POPの潮流を築いたと言ってもいいだろうアジアン・カンフー・ジェネレーションは、“N・G・S”(Number Girl Syndrome)という曲を歌っていた。ああ、そういえば、「~っぽい」の参照先が国内のバンドに向けられるようになったと僕が思ったのは、他ならぬアジカンが登場したときだったなあ。00年代が終わりを迎えようとする時期に登場したパスピエは、そういうJ-POP史の流れのなかにいるのだ。

 だとすれば、本作のハイライトは、間違いなく“アジアン”という曲である。とくに出だし、「超高速 画期的な三原色 原則は相対感覚 どうしても気になるのクオリア」という抽象的な歌詞が、アジカンっぽい。と思ったら、途中、今度は歌い方が椎名林檎っぽくなる。椎名林檎の古風なセンスを経由して、さらにはナンバーガール的な五線譜縦並びのビートを駆使して、大胡田が「いろはにほへとちりぬるを~♪」と歌い上げる。ここにおいて“アジアン”は、“はいからさん”や“とおりゃんせ”などと同様、テクノ・オリエンタリズムの系譜に接続される。J-POP史を串刺しにした、めまいがするような情報量だ。
 つまり、この曲の題名である“アジアン”とは、00年代を代表するロック・バンドの表象(「アジアン」・カンフー・ジェネレーション)と、テクノ歌謡の表象(オリエンタリズムとしての「アジアン」)が合流した地点なのである。80年代テクノ歌謡と00年代4つ打ちロックを同時に見据えるパスピエは、J-POPの「幕の内ISM」である本作において、この場所――すなわち、「アジア」にたどり着いた。テクノ歌謡への郷愁だけでも、J-POPへのおもねりだけでも、駄目なのである。両方を見据える試みでこそ、パスピエの「アジア」は見出されるのだ。したがって、本稿の結論は、すでに大胡田が歌っている。

   未来と原始 遺伝子なら合わさって輪廻 ずっと探していた答えは たぶんアジア!

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