「Noton」と一致するもの

Nasca Car - ele-king

 ぼくが4半世紀にわたって応援している広島カープが16年ぶりのAクラス入り、初のクライマックスシリーズ進出! というのに大いに盛り上がっているあいだに、関西インディーズ・シーンの裏番長ナスカ・カーが11年ぶりの新譜をリリースした。

 そもそもナスカ・カーは90年代前半に、中屋浩市(最近では非常階段や関連ユニットでの活躍で知られる)、吉田ヤスシ、Dj タトルの3人で結成(経緯はこちらにくわしい)。当初は特撮番組などのサンプリングを駆使して緻密に構成されたエレクトロ?バンドであり、「西の電気グルーヴ」と称された(「東のX、西のCOLOR」の引用だろうか)。当時、高円寺20000Vの壁に貼られた印象的なチラシの数々を記憶している人もいるだろう。
 吉田・タトルの脱退後も中屋を中心にバンドは継続、ディープ・パープルばりの回数に及ぶメンバー・チェンジを経て制作された今作はその名も『最新録音盤』。次作が出ない限りは永久にこれが最新になるわけで、これが最後のアルバムになるかもしれないという覚悟がタイトルからも感じられる。これがなんと、サンプリングゼロ、ほぼバンド演奏のロック・アルバムとなった。11年前の前作(アルバム・タイトルは無し。CDの背の部分には「CDお買い上げありがとうございます!」と書かれているが、これがタイトルというわけではないと思う……)では現アメリコの西岡由美子(現・大谷由美子)がヴォーカルだったのだが、現在では中屋が自らヴォーカルを担当。
 元メルト・バナナで、現在は奇形児、前野健太とソープランダーズ、石橋英子withもう死んだ人たち、ジム・オルークのレッド・ゼツリンやマエバリ・ヴァレンタイン、EP-4等々数々のバンドに参加しているマルチプレイヤーの須藤俊明が半分以上の楽曲でギター、ピアノ等を演奏、共同プロデュースとして名を連ねているほか、ゆかりのある顔ぶれが多数ゲスト参加している(というか、ゲストなのかメンバーなのか線引が曖昧なようで、例えば須藤は中ジャケではしっかりメンバーとして写真も掲載されているにも関わらず、自身のブログでは「ゲスト参加」と表現してたりする)。
 ジャケットにウィリアム・ブレイクの引用が印刷されているほか、帯、トレー、裏ジャケに併記された日本語・英語タイトルの数々など、サウンド以外の部分における情報過多なサンプリングぶりは健在だ。
 元マドモアゼル・ショートヘア!のホダカナオミをヴォーカルに迎えた呪術的なヘヴィ・サイケナンバー“ドアを開けろ”からはじまり、打ち込み+生楽器による重量級ハード・ロックが中心(曲によってはツインドラムだったりする)となっている。「地デジのテレビはもう必要ない」と連呼し「衛星放送と契約だ」と締める“N.O.T.V.”などは、「うちにはスカパー!があればいい」と言い切った野田編集長も共感するところではなかろうか。
 ホダカのコーラスをフィーチャーしたドリーミーな“ハロー・グッバイ”、ブッダマシーンを使用した涅槃サイケ“天国への道”(昨年中屋が体験した臨死体験に触発されてるのだろうか)、ファズベースとドラムが怖-COA-を思わせる“ラン・ベイビー・ラン”など、熱いハード・ロックに混じって収録されたインタールード的な小曲もいいアクセントになっている。
 ガバキックに乗せた“嫌われ者のパンク2013”、中間のインプロ部分が大胆な“インプロヴィゼーション・アナーキー2013”など、関西ノーウェイヴの始祖・ウルトラビデのカヴァーという形による関西パンク源流への言及など、近年の非常階段での活動も併せて考えると興味深い。
 最後の“斬る!斬る!!斬る!!!”はスラッジコア的な重いリフの反復からギターとシンセによるノイズになだれ込んで終了。20年にわたる活動の総決算にふさわしい濃厚な油っこさと熱量を持った、中屋の愛する天下一品のこってりラーメンのようなアルバムである。これが最後とか言わずに、カープがリーグ優勝する前に次作をお願いしたい。

Mau Mau - ele-king

 マウ・マウは、DAFの初期メンバー、ヴォルフガング・シュペルマンス(g)とミヒャエル・ケムナー(b)のふたりを中心としたノイエ・ドイッチェ・ヴェレのバンドで、1982年の1枚のアルバム『クラフト』と2枚のシングルを残したまま歴史から消えたバンド。今回、東京の〈スエザン・スタジオ〉が、その『クラフト』11曲と録音はしたもののお蔵入りとなっていた幻のセカンド・アルバム『Auf Wiedersehen』の楽曲10曲、そしてシングル曲“Herzschlag”を加えた構成でリイシューした。『クラフト』自体が、1982年に出たきり、30年以上も知る人ぞ知る隠れ名盤となった。また、追加されている幻のセカンドの10曲など、これまで聴きようのなかったもの。しかも、レーベルのサイトの直販で買えば、シュペルマンスがマウ・マウス解散後にジャッキー・リーベツァイト(カンのドラマー)らと組んだプラザ・ホテル名義の唯一の作品「Bewegliche Ziele」のCDも付いている。すでに発売から日数が経っているのでコアなドイツ好きはゲットしているようだが、まだご存じではない方のために紹介しておきましょう。
 中古で高額な作品の内容が良いとは限らないのは当たり前だが、マウ・マウは素晴らしい。『クラフト』は、DAFとワイヤーが出会ったようなミニマリズムがあり、ファンクがドイツのポストパンクに染みついているところも他にはない魅力となっている。ワンコードの、リズミックなシュペルマンスのギターとケムナーのベースの絡みが最高だ。ふたりの演奏は、DAFの名曲“ケバブ・トラウム”のオリジナル・ヴァージョンや〈ミュート〉からのセカンド・アルバムでも聴けるが、マウ・マウは、1980年あたりのDAFのサウンドのもうひとつの洗練された発展型だと言える。
 『Auf Wiedersehen』は、エレクトロニックな要素が大幅に入ったニューウェイヴ・ディスコ・スタイルで、『クラフト』よりもポップになっている(サックスもフィーチャーされている)。1983年というと、ニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」ではないがリップ・リグ&パニックもキャバレ・ヴォルテールもパレ・シャンブルグも、ニューウェイヴがいっきにディスコに走っている。『Auf Wiedersehen』もまさにその時代の音だが、やはりここにもファンクのセンスがあって、しかもそれはノイエ・ドイッチェ・ヴェレらしい反復の美学とドイツ語のあの独特の空気感のなかにある。

!!! - ele-king

ディスコ・パンクがインになっているような気がする。と思ったのは!!!の今年の新作『スリラー』を聴いたとき……ではなく、じつを言うとファクトリー・フロアのシングルおよびそれに続くアルバムを聴いたときだが、FFがハウス全盛のUKのなかでもひときわ異彩を放っているのは、それを「パンク」とどうしても呼びたくなる乾いた攻撃性によるものだろう。10年ほど前、NYを中心としてそれをディスコやハウスの色気と繋いだのがディスコ・パンクだった。アーケイド・ファイアの新作における“リフレクター”でジェームズ・マーフィがサウンドに関与した途端、バンドにそれまでなかったセクシーさが導入されていたのはその成果であり、また、再びその時代がやってきたような予感がさせられるものである。かつてのディスコ・パンクを定義したトラックのひとつ、!!!の傑作シングル“ミー・アンド・ジュリアーニ・ダウン・バイ・ザ・スクール・ヤード(ア・トゥルー・ストーリー)”からすでに、10年経っているのだ。サイクルが一周したとしても不思議ではない。今年の〈エレクトラグライド〉にファクトリー・フロアと!!!が出演するのは、なかなか象徴的な出来事だと思う。

 とはいえ現在!!!がいる場所は、かつてと同じではない。僕のフェイヴァリット・アルバムはいまでも2007年のジャム・ファンク作『ミス・テイクス』だが、その当時の彼らの魅力であったハードコア・バンド出身ならではの汗臭さや暑苦しさを彼ら自身がかなぐり捨て、スタジオ・バンドとして洗練されたダンス・トラックを制作することを目標としたのが『スリラー』だった。アルバム・タイトルにもあるようにマイケル・ジャクソン的なR&Bの要素が注入され、その代表と言えるトラック“ワン・ボーイ/ワン・ガール”を聴いて浮かぶのは地下のライヴ・ハウスに集まる男連中の姿ではなく、ステージ上で衣装を着たファンク・バンドである。いわば、ディスコ・パンクにおけるディスコの部分を研ぎ澄ましていった過程が見える。ただいっぽうで、パンクの部分がやや見えにくくなったことが寂しく感じられもした。
 だが、その“ワン・ボーイ/ワン・ガール”をハウス・ミュージックの大物モーリス・フルトンがリミックスしたヴァージョンを聴けば、!!!が試みたことのさらなる成果が感じられる。音数を絞ったなかでブリブリ響く太いベースと軽快に鳴らされるパーカッション。サウンドが整頓されたことによる、これほど効果的なグルーヴはかつての!!!にはなかったものだ。ダンス・バンドとしての!!!の楽曲の快楽性が引き出されている。
 『R!M!X!S』は『スリラー』期のトラックのリミックスがまとめられた編集盤だが、総じてクラブ・ミュージックとして調理されており、逆流して『スリラー』のダンス・トラック集としての出来栄えの良さを証明しているように思える。ディープ・ハウス・トラックがヒットしたアンソニー・ナプレスによる“カリフォルニイェー”のミニマル・テクノ・ヴァージョンなどは、下手したら原曲以上にパンキッシュで格好いいし、〈100%シルク〉からのリリースで知られるアレックス・バーカットによる“スライド”はハードなテクノ・トラックとして否が応でも身体を揺らすだろう。面白いのはパトリック・フォードがトラックを手がけ、メイン・アトラクションズがラップする“カリフォルニイェー”で、このスクリュー感はもはやクラウド・ラップのそれである。

 かつて!!!はパーティやダンスに対する執着を“ミー・アンド・ジュリアーニ~”で「なぜだが分からないが、その魅力に抗えないもの」として表現していた。それは、ディスコやハウスに憧れたパンク・バンドによる素朴な愛の表明だったろう。が、それから10年が経ち、バンドはよくコントロールされたダンス・ミュージックを提供して、ひとを踊らせることに完全に奉仕している。それはパーティ・バンドとしての覚悟である。

ルー・リード、追悼文に関するお詫び - ele-king

 11月6日午前0時にて本サイトに掲載した三田格さんのルー・リード追悼文における阿木譲さんに関する記述に事実誤認がありました。編者の不見識を恥じると同時に、阿木譲さんおよび関係者の皆様、読者の皆様に、web ele-kingを管理する者として、かつて『ロック・マガジン』を読んだことのあるひとりの読者として、ここに深くお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。

11月6日午後20時 野田努

 10月はずっとイタリアのオトラントという街にいた。
 ブライトンの保育士がなんでイタリア南部のリゾート地に滞在していたのかといと、それはなんとも数奇な経緯であったのだが、要するにうちの坊主である。夏休み中、彼がイタリア人のお兄さんとSKYPEする機会があった。そのとき、坊主にラモーンズのTシャツを着せていたのがまず間違いであった。イタリア人のお兄さんは、「あ、ラモーンズのTシャツ着てる」とか言って、やたらウケていたのである。しかも、息子の野郎ときたら、貧民街の暇こいてるガキにありがちなフットボール・ギークぶりを発揮して、プレミア・リーグやセリエAについて、くだんのお兄さんと楽しげに話し込んでいた。
 だいたいうちの坊主はずぶの素人である。学芸会に出たことはあっても、演技の経験など無いのである。だのに、SKYPEで「直訳:ポジティヴなエネルギーを感じた(意訳:ウマが合った)」というだけで、自分の映画に出そうなどと思う監督がいるだろうか。しかも、メールされてきた脚本を読んでみると、どうやらヒロインの息子役のようだ。けど、こんなに英語のセリフの多い日本人のヒロインを演じる女優って誰? 菊地凛子とか? ははは、んなわきゃねえだろ。こんな低予算映画で。と思っていると、その翌週、イタリア人のお兄さんがSKYPEでへらへら笑いながら言った。
 「お母さん役には、リンコ・キクチが決まっているから」
 へっ? 
 と動揺しているうちにばたばたといろんなことが決まり、気がついたらわたしたちはローマにいた。が、映画の製作というものはどうもそういうものらしい。とにかく、唐突にいろんなことが決定し、進行し、いつの間にか息子は異国の地で衣装合わせなどさせられていたのである。

 それにしても。何、この薄汚い小屋。っつーか潰れた商店の跡。しかも、蚊がぶんぶん飛んでいて、俳優が着替える場所なんか、どうでもいいような布がカーテン代わりにかかっているだけ。本当にこんなところにオスカー・ノミネート女優、リンコ・キクチがやって来るのか。
 監督は相変わらず笑いながら「ローマへようこそ」か何か気の抜けるようなことを言っているし、なんかその全体的にダラダラしたムードの中で、足の指の間を蚊に刺されて非常に苦しい思いをしていると(またイタリアの蚊というやつは、そこだけはやめてくれというところを刺しやがる)、衣装班のトップらしき初老の婆様が坊主を手招きした。
 「あら、素敵なTシャツ着ているわね」と、婆様は息子のTシャツをしみじみ見ている。
 「あなたのお母さんがあなたの衣装を担当するのが一番いいんじゃないかと思うわ」
 へっ? それって、のっけから仕事投げてる状態? 大丈夫なのかよ、こんな上品な婆さんにガキの衣装なんかやらせて。というわたしの懐疑心をよそに、監督と婆様は顔を見合わせて頷いている。
 「そのTシャツ、衣装の一枚として使わせてもらってもいいかしら」
 と言われてわたしは困惑した。
 脚本の設定としては、うちの息子の役は、イタリアの避暑地で豪華ヨットを出してバカンスしている英国の富豪の子供。だったと思うのだが、その日息子が着ていたのは、英国のど庶民スーパーマーケットASDAのTシャツである。いくらなんでも、時価20億円のヨットでバカンスする家の子供が、ASDAのTシャツを着てるってのはないと思うんだけど。と思いながら、この時点でわたしが思い出していたのは、パティ・コンシダインの監督デビュー作『思秋期(Tyrannosaur)』である。あの映画でもオリヴィア・コールマン演じるミドルクラスの妻が、Chav御用達量販店Primarkのカーディガンを着ていて、それはちょっと違うんじゃないか。と思ったシーンがあった。英国は、スーパーマーケットにさえクラスがあると言われる階級社会だ。よって映画の小道具や衣装にその分野でのミステイクがあると、リアリティが損なわれてしまう。

 が、そんなわたしの思惑など関係なく、エレガントな婆様は、うちの息子のTシャツを愛おしそうに撫でていた。シルクハットと髭、懐中時計と自転車がプリントされたその絵柄は、ルネ・マグリットやダリといったシュールレアリストを髣髴とさせるものなのだが、おそらくどっかのデザイナーがショーで使ったから量販店が一気にコピーしはじめた絵柄だ。だのに、何がそんなに嬉しくて婆様はこのTシャツを気に入ってしまったのだろう。UKとイタリアのファッションには、そんなに時差があったのだろうか。
 と思いながら、辺りを見渡せば、デスクの上やら何やらに和風ちっくな小物が転がっていた。風呂敷。バンブー柄を思わせる包み紙。和紙。これもまた、よくあるタイプのエキゾチック・ジャパーン映画なのだろうか。例えるなら、味噌汁の椀に角砂糖を入れて出してくるカフェ(実際にブライトンのゲイ街にある)。みたいなヨーロピアン・ジャポネスクのかほりが漂っているのだ。そういうのはファッションなら別にいいが、映画となると、やはり味噌汁の椀には角砂糖じゃなくて味噌汁を入れて欲しい。みたいな違和感が生まれるため、頭の固い日本人からとやかく言われることになる(で、よくとやかく言うひとりがわたしである)。それに、欧米人が考えるジャポネスクの世界というのは色が珍妙になりがちだ。日本の朱赤はオレンジになってしまい、桜色はピンクになる。原色の国イタリアの人間に、日本古来の色彩は出せない。
 と思いながらレールに並べてある衣装を見ていると、それらはイタリアの原色というより、どこかサイケデリックな感じもし、化石のようなロック女と呼ばれるわたしが妙に反応してしまうのは何故だろう。ひょっとすると、この婆様、むかしはいっぱしのロック・チックだったとか。
 どうやら彼女は、映画の美術全体を統括するアート・ディレクターでもあるらしく、映画の舞台になるヨットはウルトラ・モダンなデザインと聞かされていたが、写真で見る限り、モダンという言葉だけでは片づけられない変なものを感じる。黒と白にオレンジを効かせたインテリアは、どこか70年代のSFみたいな怪しげなムードだ。表面的には、ミニマルでお洒落。みたいな線を狙っているような感じなんだが、なんだか根底にあるものは、そんなにさっぱりしたものでもないような気がするのは何故だろう。
 と考えながらホテルの部屋でビールを飲んでいると、「歩くIMDb」とわたしが呼んでいる日本屈指の映画狂からメールが来た。
 「ミレーナ・カノネロは、3回アカデミー賞を獲っている衣装デザイナーです。『シャイニング』とか『ゴッドファーザーPart3』、『炎のランナー』なんかもやっている。近年では……」と有名な映画の題名が続くのを見ながら、え。実はあの婆様そんな大物だったのか。と面食らっていると、「母ちゃん、腹減った」と背中に息子がぶら下がって来るので、体勢を崩しながらわたしは最後の一行を読んだ。
 「ちなみに、『時計じかけのオレンジ』の衣装を担当したのも彼女です」
 息子をおんぶしてPCを凝視しているわたしの両腕に、ざわっと鳥肌が立っていた。
 その瞬間にわたしが思い出していたのは、彼女が衣装に使いたいと言った、シルクハットの絵柄の息子のTシャツだった。
 「あのTシャツをミレーナがあんなに気に入ったのは、どこか『時計じかけのオレンジ』を思い出させるからです。彼女にとっては、あの映画ですべてが始まりました。あの映画でもシルクハットが象徴的なアイテムとして使われていたでしょう」
 後日、ミレーナ・カノネロのアシスタントはそう言ったのだった。

 というわけで、「いや、でもそれは英国の激安スーパーの商品ですよ」と再三言ったにもかかわらず、ミレーナはくだんのTシャツをうちの息子の衣装として使った。当該映画が日本で上映されるようなことにでもなったら見ていただくのも一興だろう。英国貧民街を象徴するASDAのTシャツと、オスカー受賞のハリウッド衣装担当者が出会うことはそうない筈だ。
 そう言われてみれば、わたしたちがそれから4週間を過ごしたヨット(映画の舞台はヨットの中だけだ。そういう映画なのである)のインテリアも、別に全裸のマネキンが椅子になっているとかいうわけではないが、時代とともに変貌し、ソフトに洗練されて21世紀まで営業されてきた『時計じかけのオレンジ』のコロヴァ・ミルク・バーのようだった。あの映画にインスパイアされて作られた映画のセットは数限りなくあるだろう。が、実際にオリジナルに関わった人間が、というか、生涯どこかでそれを引きずって生きて来た人間が、現在の年齢のままでそこに立ち返るとどうなるか。ということをやって見せたアラセヴは、そういえば今年はもうひとりいたな。と思う。

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 『The Next Day』でマーキュリー賞にノミネートされていたデヴィッド・ボウイは、受賞式で製作費12.99ドルのPVを初披露した。それは、ブルジョワジーなアート映画で3ポンドTシャツを使ってみせたイタリア人の婆様を思い出させる。
 あの世代の凄みというのは、レジェンドが高齢になっても頑張っているということではない。彼らはいまでもASDAのTシャツを使うことに躊躇しないということなのだ。
 下の世代はリスペクトなどというゆったりした感情で彼らを仰ぎ見ている場合ではない。嫉妬すべきだ。

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Arcade Fire - ele-king

 「アメリカには住みたくない」……ウィン・バトラーは歌っていた。2007年のことだ。そしておそらく、この頃アーケイド・ファイアははじめのピークにいた。LCDサウンドシステムが「オレたち北米のクズ」と歌っていた2007年、ポール・トーマス・アンダーソンがアプトン・シンクレアの社会主義小説『石油!』を映画『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』においてアメリカの大地に眠る血の物語として翻案し、フランク・ダラボンが『ミスト』でスティーヴン・キングの小説の結末を改変してまで反米を表明し、コーエン兄弟がコーマック・マッカーシーの小説を映画化した『ノーカントリー』でアメリカの倫理の崩壊を描いていた2007年、ブルックリンは実験とトライバルと非アメリカを目指し、M.I.A.を筆頭に非西欧のビートが鳴り響いていた2007年……。そのアルバム、『ネオン・バイブル』はあまりにも時代と合致していた。戦時下において「爆弾がどこに落ちるか教えてくれ」と言うのはそれ以上ないほど政治的な振る舞いだったが、しかしながら、アルバムのエモーションの出口は「アメリカには住みたくない」の続きにこそあった。「わたしたちは、飛行機が行かない場所を知っている/わたしたちは、船が行かない場所を知っている/わたしたちは、車が行かない場所を知っている」……疾走するビートとともにそう告げる“ノー・カーズ・ゴー”はまさに、アンセムだった。そこは「光がまたたき、夢が始まる場所」で、そして彼らは、「おんなこども」に向けて、「行こう!」と叫んだのだった。

 その脱出宣言があまりにも鮮烈だったため、政権交代を挟んだ2010年作『ザ・サバーバス』で彼らが――とりわけウィン・バトラーが――生まれ育った郊外へと幾分メランコリックに立ち返ったことは、なんだか後ろ向きな所作に思えたのが正直なところだった。テキサスで生まれ育ち、そして本当にアメリカを「脱出した」バトラーが、アメリカの変化を国外から眺めてノスタルジックな気分になったのだろうかと疑ったし、何より、郊外というテーマそのものがいかにもアメリカ的で、それこそインディペンデント映画では2000年前後にすでに一斉に取り組まれた題材でもあった。自分が子どものころに育った地区の住所を入力するとその辺りの風景が映し出される「インタラクティヴな」ヴィデオもアイデアとしては面白かったが、アメリカン・ロックにかなりの部分で取り組んだサウンドとも相まって、ぐるぐると自分の家の近所の景色が回るその映像を見ながら何とももどかしい気持ちになったのだった。そのアメリカとの愛憎の深さこそが、アーケイド・ファイアの業であり、生々しさだったとしても。

 LCDサウンドシステム、そして〈DFA〉のプロデューサーであるジェームズ・マーフィを新作でプロデューサーに迎えると聞いたときも、期待半分、不安半分といったところだった。サウンド面でのチャレンジとしての起用は間違いなかったが、彼とて一時代を築いて自ら表舞台を降りた人間である。それ以上に、新たなインディ・スターとなったヴァンパイア・ウィークエンドの今年の新作が決定的だった。なんて軽快なんだろう……そう思った。自分たちがいる場所に宗教対立や格差や政治的な問題があるとして、それをじゅうぶん踏まえた上で、軽やかに楽しんでしまおうとするその態度こそ、現代的でスマートな知性に思えたのだ。アーケイド・ファイアのある種の悲壮さというものはつまり、暗い時代(それはある意味、わかりやすく暗い時代、ということだが……いまとなっては)に召喚される宿命だったのではないか……と。イラク戦争がはじまって間もない2004年の『フューネラル(葬式)』での登場がそもそも、出来すぎていたのだ。

 しかしそれでも、アーケイド・ファイアは世界中の期待を背に還ってきた。2013年、アーケイド・ファイアはどこにいるのだろう。アメリカではスティーヴン・スピルバーグが『リンカーン』においてそれでもオバマ政権支持を匂わせ、ニール・ブロムカンプが『エリジウム』で格差社会とその世界での「国民皆保険」を夢想し、世論がシリアと戦争をさせなかった2013年に……。
 驚くべきことに、アーケイド・ファイアは中米ハイチのカーニヴァルにいる。あるいは、70年代のディスコに。かと思えば80年代のニューウェーヴが煌く英国に、70年代後半のボウイがいたヨーロッパに……。バロック・ポップと呼ばれる彼らの徴となったスタイルも、あるいは大陸的なアメリカン・ロックの要素もかなり後退している。ダブル・アルバムとなった『リフレクター』はアーケイド・ファイアがリズムにおいて、そしてその音楽性において、大胆な変身に成功したアルバムだ。そして何より、雑多なジャンルをまたぐこの無国籍な佇まいは、彼らをついにアメリカを巡る物語の呪縛から開放しているように聞こえる。
 リード・トラック“リフレクター”がまず、ジェームズ・マーフィとのタッグの成功を高らかに宣言する。バウンシーなハウス・ビートと重くならないベースのグルーヴ、指先のタッチでジャンプする鍵盤と、息がたっぷり吹き込まれるブラス。そのディスコ・トラックはバンド史上もっともセクシーに響く。“ウィー・イグジスト”はR&Bとニューウェーヴが合体したかのようで、“ノーマル・パーソン”にはトーキング・ヘッズもウェルヴェット・アンダーグラウンドもいる。ビートがモータウン調に跳ねる“ユー・オールレディ・ノウ”にしても、シンセが反復する“アフターライフ”にしても、聴きどころの中心はリズムにある。2枚目はとくに内省的なムードがあるものの、全体としてはダンス・アルバムと言っていいだろう。
 なかでも象徴的なのは、ハイチをはじめとする中南米のカーニヴァルからインスピレーションを受けているだろう“ヒア・カムズ・ザ・ナイト・タイム”だ。このトラックは猥雑な街のざわめきからはじまり、スチール・パンとパーカッションとシンセがゆったりとしたグルーヴを演出するが、4分30秒を過ぎた辺りで打楽器が連打されて怒涛のダンス・タイムに突入する。「気をつけろ、夜がやって来る」……しかしその警告は、同時に祝祭の宣言だ。本作のイメージには映画『黒いオルフェ』が繰り返し引用されているが、そのカーニヴァル・シーンを思い出しもする(舞台はブラジルだ)。

 アーケイド・ファイアは何を祝っているのだろう? 歌詞に目を通せば、相変わらず死について触れるモチーフが散見されるし、あるリレーションシップにおけるすれ違いや誤解が歌われているようだ。けれども、自分たちを無視しようとする者たちに対して「でも僕たちは存在している」と実存を主張する“ウィ・イグジスト”や、「普通のひと」の不気味さを抽象的に描写する“ノーマル・パーソン”が印象に残る。それは彼らが、「おんなこども」に向けて呼びかけていたことを僕に思い出させる。
 『リフレクター』は、世界中に散らばったダンス・サウンドの断片をかき集めることによってある種の「祭」を出現させるアルバムだ。それはあの日、あのエクソダスを信じた人間たちを集めて繰り広げられるカーニヴァルに違いない。アーケイド・ファイアは現れたときからすでに死とともにあったが、しかし葬式を祭典と解釈したのは他ならぬ彼らだった。死からはじまるダンス。黒いオルフェは悲恋の末に無残な死を迎える。だが、映画の終わり、子どもたちは新たなオルフェの再来を確信している。そしてまた、季節はカーニヴァルのはじまりを告げるだろう。

大人気コラムニスト、ブレイディみかこのロングセラー・エッセイ集。
“壊れた英国” から私たちが学ぶべきものとは?

拡大するアンダークラス、
年老いたパンク、
トニー・ブレアに骨抜きにされたロック。

アナキーな社会というのが、革命家が夢見たような世界ではなく、
すべてのコンセプトや枠組みが風化した後の
無秩序&無方向なカオスだったとすれば……?

気鋭のコラムニストが混迷の時代に打ち込むブリリアントな一撃!

混迷の時代に、読む者を熱くさせる
当世一のパンク・コラムニスト、
その原点となる初期名エッセイ集。


「海外に住む日本の女たちは、多かれ少なかれパンクなのだ。日本女性であることも大事にし、リアルな人生に突き動かされ、つらぬかれた!」菊地凛子さん(女優)

Machinefabriek - ele-king

 オランダ人電子音響作家、マシーンファブリックことルトガー・ヅイダーベルト。彼は2004年に録音作品をリリースして以降、厖大な数の作品を発表し続けている(その数は100に匹敵する)。作品の完成度、リリース数といい、いわば電子音響シーンの00年代を代表する音響作家と言っても過言ではないが、同時に彼の全貌を掴むことは困難を極める。

 なぜなら、彼のリリースしてきた録音物はとにかく厖大だからだ。〈12k〉などの著名レーベルからノン・レーベルまで、とにかく出してきた。CD、レコード、カセット、データ……。それらの録音媒体を横断しながら、彼の音響は日々、増殖を重ねていく。つまり作品数そのものが、アーティストとしての存在価値にも繋がっているようにも思える。マシーンファブリックの音響は時にナイフのように鋭い。が、その鋭利な音響が、不意に、その線と面が歪む瞬間がある。まるで生命のように? であれば作品もまた生命のごとく増殖しなければならない。リリース方法もまた作品でありコンセプトを体現するものだ。ゆえにさまざまな録音媒体を横断しながら、彼の音響は増殖を重ねていく。

 となればコラボレーション作品も重要だ。ひとりからふたりへ。その増殖的創作はマシーンファブリックの音楽性の本質とはいえないか。近年も既にヤン・クリーフストラ、ロムケ・ヤン・クリーフストラらとのユニットCMKK『ガウ』、バナディラとの共作『トラヴェログ』、サンジャ・ハリスとの共作『マシン・ルームス』などが‎相次いでリリースされている。そして10月には、セルジオ・ソレンティノとの作品『ビネット』も発表されるのだ。

 日本人実験映画作家、牧野貴の作品(『イン・ユア・スター』など)への参加にも注目したい。牧野貴はまさに日本を代表する実験映画作家である。瞳の網膜を強烈に刺激するその作品は世界でも高く評価されているが、氏の作品において音楽・音響は重要であり、事実、彼の代表作にはジム・オルークが音楽を提供しているのだ(紀伊國屋書店からDVDがリリースされている)。マシーンファブリックは『イン・ユア・スター』という作品の音楽を手がけており、同作品の音楽は3インチCD-R作品として限定リリースもされた。この電子音響、エレクトロニカ、実験音楽、実験映画など、ジャンルを越境する活動はじつにスリリングである。

 それらのコラボレーションは、重要なソロ・ワークスへ確実にフィードバックされているように思う。本年も既に多数の作品がリリースされているが、なかでも注目したい作品は〈アントラクト〉からリリースされた『ドイプファー・ワーム』と、今回取り上げる〈ハーバル・インターナショナル〉からリリースされた『ストロームツーン II』だ。前者『ドイプファー・ワーム』はシンプルにして複雑な運動をするアナログな電子音が空中を蠢くかのようなサウンド。ヘッドフォンで聴くと脳内に電子音が直接的にアジャストするかのような快楽に満ち溢れている。対して『ストロームツーン II』は、より多層的なエレクトロニクス・サウンドによってコンポジションされた作品に仕上がっているのだ。

 じつはこのアルバム、2012年にごく少数のみリリースされた2枚組の7インチ、ヴァイナル盤『ストロームツーン アハト/ネゲン +ティエン/エルフ』に収録されたトラックを中心に、未発表曲を合わせた作品集なのである。アルバム名に「Ⅱ」とつけられているのも、そういう意味であろう。だが聴いてみると分かるのだが、本作はレア・トラックの寄せ集め的なアルバムではまるでない。近年の彼の作品のなかでも抜群に高い完成度を誇るアルバムである。

 霧の向こうで唸るような低音から、鼓膜を震わす微細な音響の揺れ。それらが、上下左右の音響空間にダイナミックに重ねられていく……。雰囲気としては2011年に日本発売した『ディオラマ』に近いが、あの作品よりも音響は太く、そしてアトモスフェリックだ。淡い震動からはじまる“ストロームツーン・タイ”からすでに特別な響きがはじまっている。そして何より8曲め“ストロームツーン Zes”を聴いてほしい。00年代の電子音響的手法が、2013年的な音響の磁場のなかで交錯する瞬間が、はっきりと聴き取れるはずだ。柔らかい音と、研ぎ澄まされた音。硬質な金属がある瞬間にグニャリと曲がってしまうような感覚。

 この「進化」は、たとえば、ティム・ヘッカーの新作『ヴァージンズ』と共鳴しているとも思える。それはどのような共鳴なのか。生々しくも物質的な電子音響が、単なる即興的な音響の運動だけではなく、かといってコンポジションしているだけでもなく、むしろそのふたつが交錯することで生まれる電子音響における新しいノイズ、新しいドローン、新しいサウンドの共鳴である。ティム・ヘッカーは、その新しい音楽をボーダー・コミュニティのポストクラシカルな音楽家たちと作り上げた。マシーンファブリックもまた多くのコラボレーション作品を通じて、濃密な電子音響作品を生み出したのだろうか。

 もちろん、ふたつのサウンドはまるで違うものである。ティム・ヘッカーはヨーロッパの歴史の終焉を音響で描く。対してマシーンファブリックは人間以降のポストヒューマンな世界観を音響で鳴らしている。正反対といっていい。だがこれらの繊細かつダイナミズムなサウンドの奔流と質感に、2012年から2013年という時代の潮流を聴きとることは難しいことではない。そう、電子音響におけるドローン/ノイズは、今も進化のただなかにある。人工生命のように。

 本作はアートワークも素晴らしい。レベッカ・ノートンというアーティストの作品だ。面と線が多層的に折り畳まれながらも、分解と生成を繰り返す、そんな本作の音響の様子が見事にヴィジュアルで表現されている。レベッカ・ノートンのアートワークは7インチ盤『ストロームツーン/Negen+Tien/Elf』に続いての起用。アートワークもまた本シリーズにおいて、欠かせない重要なエレメントということもわかってくるだろう。

泉まくら - ele-king

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