「UR」と一致するもの

 森は生きているの、結局最後のスタジオ録音盤となった『グッド・ナイト』は最後にはならなかった。『グッド・ナイト』はこの度ミックスし直され、音も多少加わり、歌もパートによって多少変えられ、アートワークも変わり(裏ジャケが表に来ている)、つまり生まれ変わってアナログ盤としてリリースされる。言わば『グッド・ナイト』の別ヴァージョン。
 それは、本来ならこうだった、こうあるはずだったものに戻されているらしい……しかし、音楽において本来ならこうあるはずだったものなどない。大局的にみれば、すべてはそのときのすべての諸条件によって決定されるもので、結局のところ、このバンドが解散したのも、自らの幻をどこまでも追い求めてしまったからなのだろう。森は生きているには、最初から儚い感覚があった。
 が、そうした彼ら(首謀者は岡田+増村)だからこそ創出されたサウンドが森は生きているの魅力だった。このアナログ盤はその極みかもしれない(噂によれば、解散直前のライヴが素晴らしかったというのだけれど、いつか聴ける日が来るのだろうか……)。
 ソフト・ロックというジャンル用語は、ハード・ロック全盛の70年代における、ある種のイロニーも含まれていたかもしれないし、「ハード」に対立する「ソフト」だった。ところがソフト・ロックの内側の「ハード」を見たときに夢はさらに広がり、それを2010年代の日本で森は生きているという名前のバンドが演奏し、録音した。その夢をさらに完璧にするために、彼らは手を加えた。目が覚めないうちにやるしかなかった。2枚組アナログ盤ヴァージョンの『グッド・ナイト』、ぜひ聴いて欲しい。

森は生きている
グッド・ナイト [Analog]

Pヴァイン
Amazon


Bill Laurance - ele-king

 ジャズ、ロック、ファンク、ソウル、R&B、アフロ、ラテン、カントリーなど多種の音楽を融合するフュージョン・ジャム・バンドとして知られるスナーキー・パピー。グラミー賞受賞作の『ファミリー・ディナー vol. I』(2014年)の続編『ファミリー・ディナー vol. II』が先にリリースされ、そこではベッカ・スティーヴンス、ローラ・マヴーラ、クリス・ターナーなど進境著しい若手アーティストから、サリフ・ケイタやデヴィッド・クロスビーなど大御所に至る幅広いゲストとの共演を披露していた。彼らの魅力はインプロヴィゼイションに富むライヴ演奏で、このアルバムもライヴ録音によるものだったが、リーダー格のベーシストのマイケル・リーグとともに、バンド結成時からサウンドの核を担ってきたのがピアニスト/鍵盤奏者のビル・ローレンスである。スナーキー・パピーはアメリカで結成されたが、ビル自体はイギリス人で、いまもロンドンを拠点としている(スナーキーの活動時などはアメリカに遠征しているのだろう)。

 クラシック教育を受け、ロンドンのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・ミュージック・パフォーマンスを卒業したビル・ローレンスは、同時に14歳からプロ活動をはじめ、ライヴ・ミュージシャンとしての腕を磨いていった。スナーキー以外にもバレエ、演劇、映画、テレビ、コマーシャル・フィルムなど多方面でも演奏し、ソロ・アルバムも『フリント』(2014年)、『スウィフト』(2015年)と既に2枚発表している。それらソロ作では、クラシックの素養を感じさせる繊細なピアノ・タッチにオーケストレーションを絡め、シネマティック・オーケストラやヘリテッジ・オーケストラなどに通じる壮大で重厚な佇まいの楽曲も披露していた。これらはアメリカ録音で、マイケル・リーグが制作や指揮を行い、演奏にはスナーキー・パピーのメンバーも参加していたのだが、そのスナーキーの『ファミリー・ディナー』のようなポップ寄りの作品とはまた違うアルバムだなという印象を持った。スナーキーはオランダのメトロポール・オーケストラ(現在の指揮者はヘリテッジ・オーケストラのジュールズ・バックリー)とも共演作『シルヴァ』(2015年)を録音するが、その小型編成版的な雰囲気がビルのアルバムから感じられるのは、彼がクラシック教育を受けたことによる部分が大きい。また、『スウィフト』にはエレクトリックなテイストの作品も多かったのだが、ビルが作曲する楽曲にはUKのクラブ・サウンドの影響も表われており、それはビルが日頃接する音楽環境が関係するのだろう。

 『スウィフト』から1年ぶりの新作『アフターサン』はニューオーリンズ録音で、いままでと同じくマイケル・リーグ、ロバート・“シーライト”・スパットというスナーキーの仲間が共同プロデュース/アレンジ、及び演奏で参加する。だが、前2作とはかなりテイストが違うなということをオープニングの“ソチ”を聴いて感じた。アフロ・ビートを取り入れたかなりファンキーなフュージョン・ナンバーで、どちらかといえばスナーキー・パピー本隊が持つライヴ感が露わになっている。前2作にはホーンやストリングス・アンサンブルが入っていたが、本作はビル(キーボード)、マイケル(ベース、ギター)、ロバート(ドラムス)の3人にパーカッションが入った編成で、鍵盤が主要メロディを弾き、シンセによってサウンドを複合していく。従って個々の演奏そのものやインプロヴィゼイションに重きが置かれ、結果として演奏から生み出される熱量やグルーヴが増しているのだろう。それが顕著なのが“タイム・トゥ・ラン”で、ハモンド・オルガンが活躍するアフロ・テイストのジャズ・ファンクとなっている。“バレット”もそうだが、アフロ的なモチーフが多いのが本作の特徴でもある。この曲はディスコ・ダブ的なアレンジが施してあり、そうしたクラブ・サウンドの影響の強さも本作からは伺える。“ア・ブレイズ”はダブ色の濃いナンバーで、表題曲や“ファースト・ライト”でのバレアリック・テイストは70年代フュージョンやジャズ・ロックの現代的な解釈によるものだろう。一方、ピアニストとしてのビルを見ると、“ザ・パインズ”や“ゴールデン・アワー”での叙情的なプレイが光る。“マデリーン”はそうしたリリカルなピアノに対し、クラブ・ミュージックの影響が濃厚な太いビートが組み合わさり、ゴーゴー・ペンギンやバッドバッドナットグッドといった新世代のピアノ・トリオに比類するようなナンバーとなっている。いままでからより力強く進化したことを感じさせるアルバムだ。

黄金の館 - ele-king

 シンガーソングライターとして際立った輪郭を持つ吉田省念。地元京都、そしてインディ・シーンとはまた少し異なる場所で、さまざまなアーティストと時間を重ね、じっくりと一枚のアルバムがまとめられた。ele-kingでも本作のインタヴューを敢行予定。まずは音をチェックされたい。

くるりの活動を経て、暖めてきた楽曲達が遂に完成。
正統なロック・ルーツサウンドからフォーク・ブルース・アヴァンギャルド迄、彼の歩んで来た道のりを凝縮し、京都から発散するほんわりとした甘酸っぱいサウンドにミックスし、ゆったりと濃密な時が進む。多岐にわたる楽器演奏を自ら紬ぎ、素晴らしい豪華ゲスト陣が寄り添う事でその魅力を存分に伝えるメロディアスで爽快なポップ・アルバム!
ゲスト参加ミュージシャンは、細野晴臣、柳原陽一郎(exたま)、伊藤大地、四家卯大、谷健人(Turntable Films)、植田良太、めめ、さいとうともこ(Cocopeliena)。
ドイツに渡り、NEU・クラウスディンガー(ex KRAFTWORK)と共に音楽活動を行っていた尾之内和之をエンジニアに、自宅・省念スタジオで収録した執念の快心作が完成!

■ライ・クーダーや細野晴臣氏のように過去のさまざまな音楽のエッセンスを現代に蘇らせる名工が作った作品の佇まいがあるし、その飾り気のない純朴な歌いっぷりから、京都系フォークシンガーの佳曲集とも言っていいかもしれない。
【柳原陽一郎 ex.たま】

■言葉にならないです。果てしなく胸の奥の奥の真ん中の部分に触れる。揺れる。夢中で聴いている。
【奇妙礼太郎】

■去年、舞台音楽の現場を長く共有した省念くんのソロアルバム『黄金の館』すばらしい作品でぼくもうれしい!なつっこいメロディに朴訥な歌声、かなりねじれたアレンジと底なしのギターアイデアが最高ですよ。こんな人と一緒に音楽を作れてたのが僕は誇らしいです。多くの人に聴いてもらいたい!!
【蔡忠浩 (bonobos)】


作品詳細
吉田省念 / 黄金の館
ヨシダ・ショウネン / オウゴンノヤカタ
発売日:5月18日
価格:¥2,500+税
品番:PCD-25199
Cover Art:HELLOAYACHAN

トラックリスト
1. 黄金の館
2. 一千一夜
3. 晴れ男
4. 水中のレコードショップ
5. 小さな恋の物語
6. デカダンいつでっか
7. 夏がくる
8. LUNA
9. 春の事
10. 青い空
11. 銀色の館
12. 残響のシンフォニー
13. Piano solo

[●作詞・作曲・演奏 吉田省念 ●録音 尾之内和之 ●MIX 吉田省念・尾之内和之]


ツアー情報
■5/14(土) 京都・拾得 「黄金の館」*バンドセット&アルバム先行発売有り
■5/17(火) 京都・磔磔 「月に吠えるワンマン」*ソロでの出演
■5/24(火) 下北沢・レテ「銀色の館 #3」*弾語りソロワンマン
■5/26(木) 三軒茶屋・Moon Factory Coffee *弾語りoono yuukiとツーマン
■6/5(日) 名古屋・KDハポーン「レコハツワンマン」*京都メンバーでのバンドセット guest:柳原陽一郎
■6/14(火) 京都・拾得 「黄金の館」
■6/30(日) 下北沢・440 「レコハツワンマン」 *バンドセット Dr.伊藤大地、Ba.千葉広樹、guest:柳原陽一郎
■7/14(木)京都・拾得 「黄金の館」
■7/18(月) 京都・磔磔 *詳細未定
■7/24(日) 大阪・ムジカジャポニカ
■8/7(日) 京都・西院ミュージックフェスティバル


吉田省念:

京都出身のミュージシャン。
13歳、エレキギターに出会い自ら音楽に興味をもち現在に至る迄、様々な形態で活動を続ける。
18歳、カセットMTRに出会い自宅録音・一人バンドに没頭
これをきに楽器を演奏する事に興味をもつこの10年間は日本語でのソングライティングに力を入れ自らも唄い活動を続ける。
2008年「soungs」をリリース。吉田省念と三日月スープを結成、2009年「Relax」をリリース。
2011年~2013年くるりに在籍 日本のロックシーンにおける第一線の現場を学ぶ。在籍中はギターとチェロを担当し「坩堝の電圧」をリリース。
2014年から地元京都の拾得にてマンスリーライブ「黄金の館」を主催し、様々なゲストミュージシャンと共演。
四家卯大(cello)、植田良太(contrabass)とのセッションを収録したライブ盤「キヌキセヌ」リリース、RISING SUN
ROCK FESTIVAL 2014 in EZOに出演。
2015年ソロアルバムのレコーディングと共に、主演:森山未來 原作:荒木飛呂彦 演出:長谷川寧 舞台「死刑執行中脱獄進行中」の音楽を担当。
既成概念にとらわれない音楽活動を展開中。
website:yoshidashonen.net

Interview with Ryu Okubo - ele-king

 ただいま絶賛個展開催中の新進気鋭のイラストレーター、オオクボリュウ(通称ドラゴン)をつかまえて話を訊いた。
 90年代のある時期までは、新しいモノは新しいモノだった。しかし、新しいモノが必ずしも新しくはない。少なくとも90年代のある時期までは新しいモノが昔のモノよりも面白かった。しかし、新しいモノが必ずしも面白くはない。そんな現代の申し子であるこの若者は、構えることなく、いつも会うときと同じように話してくれた。

本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです

ドラゴンくんと初めて会った頃に、ルーツを教えてくれたよね。水木しげるからすごく影響を受けたって。

ドラゴン(以下、D):この間、三田さんと水木さんのお葬式に行ったんですよ。

ヒップホップと水木しげるっていうのが、ドラゴンのユニークなところじゃない?

D:『ele-king』の文章、素晴らしかったですよね。ああいうキャッチコピーにこれからしようかな(笑)。

そもそもドラゴンが絵を描きはじめたきっかっけって、漫画だったんでしょう? 

D:でも僕は音楽が好きだったから、最初のきっかっけは映画の『イエロー・サブマリン』ですよ。母親に見せられたんですよ。

えー(笑)!

D:それが小1とかですね。いまでもビートルズは好きなんですよ。音楽がやっぱり良かったですよね(笑)。

リアルタイムの音楽よりもそっちなんだね?

D:当時流行っていたものも聴いていましたけどね。でもビートルズはずっと好きですよ。

日本語ラップもすごく詳しいでしょう。リアルタイムじゃないと思うんだけど、キングギドラの『空からの力』の曲名が順番通りに全部言えるじゃない?

D:あれはクラシックだからみんな言えるんじゃないかな(笑)。でもそれは僕の性格もあると思いますよ。調べ癖がヒドいというか。つまみ食いしないで何でも全部いってみるというか。

じゃあ最初は絵というよりも音楽だったんだね。

D:そうかもしれないですね。

能動的に音楽を聴きはじめたときに、自分の転機になったものは?

D:ビートルズを聴くようになる前に2年間アメリカにいたことがデカいです。4、5歳のときで、マイケル・ジャクソンがすごく流行っていました。『ヒストリー』が出たときですね。当時の4、5歳のアメリカ人はマイケル・ジャクソンを聴いていたんですよ。子供たちはヒップホップを聴いてませんでしたね。トライブとか流行っていたのかもしれないんですけど、子供の耳に入ってくるのは、マイケル・ジャクソンでした。

その体験が自分のなかの文化的方向性の何かを決めてしまったの?

D:そうでしょうね。ノーマルな状態にマイケル・ジャクソンが入ってきたわけですもんね。

それでビートルズを聴いたと。

D:日本に帰ってきてビートルズですね。日本語ラップは流行っていたときに聴きました。リップ・スライムとか、キック・ザ・カン・クルーとか。僕の世代はみんな聴いていますよ。それが小6から中1にかけてのとき。

「あがってんの? さがってんの?」って。

D:あれがスーパーで流れていて、お母さんにキック・ザ・カン・クルーのアルバムを買ってもらいましたね。当時はエミネムも流行っていました。D12とか。

懐かしい。エミネムの『8マイル』も流行ったよね。

D:あの頃って、ハードな曲でもみんな聴いていましたよね。ちょっと変な時代でしたよね。だってキャッチーじゃないのに、アメリカみたいにわけもわからず聴いていたんですから。

じゃあ中学から高校にかけての思春期に大きな影響を与えたものって何? 

D:一番影響を受けたのはザ・フーなんです。

な、なんなんだよ〜、それは! 

D:本当に好きで。ヒップホップは聴いていたんですけど、高校1年生のときに、『トミー』を先生に借りて、映画にものすごく感動しちゃって。そこから3年くらいはあの辺の音楽を聴いていましたよ。ビートルズより後のバンドといいますか。ぼくはいまでもああいうバンドが来日したら見に行きますよ。キンクスとかも、リーダーのレイ・デイヴィスがソロで来日したときもフジロックで見ました。

90年代もそうだったけど、ドラゴンくん世代だとタワーレコードとかで、旧譜とかも普通に手に入るもんね。逆にいうと、古い音楽と新しい音楽が同じように売られてしまっているところもあるからね。例えば、いま流行っている新しい音楽を買うくらいだったら、再発されたフーを買うって感じ?

D:本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。

それは要するに、いいものが出尽くしているから?

D:そうなんですよ。ピカソとかすごく好きですけど、あそこまでいっているから見栄えとしてはあのまんまでいいかなと。

でも自分でカタコトをやったり絵を描いたりする上でさ、すでに過去に素晴らしいものがあるのに、そこで自分が出ていくというのは矛盾じゃない?

D:そうですよねぇ……。いつも考えてはいるんですけど。

「新しさ」とはなんだろう?

D:最近思っているのは、パーソナルになることっていうか。

「新しさ」って必要だと思う?

D:この展示の感じでいうと、見栄えに関しては新しいことをしている意識はないです。本当にキャンパスに絵の具を使って書くだけというか。キャラクターに関しても、新しいものを生み出しているつもりも全然ないんです。白くて丸いキャラクターっているでしょう? キャスパーとか、スヌーピーとか。ああいうスタイルってあると思うんですよ。それにのっとっているというか。でも今回の扱っている「アイフォンを落として割っちゃった」みたいな、最近のひとの悩みというか、それはキャスパーの時代にはありませんでしたよね。ピカソの時代にももちろんない。だから別に外見に関して新しい素材を使うとかそういう気持ちはないですけど、そういうパーソナルな部分を意識していますね。音楽に関しても似ているかみしれません。リヴァイヴァルっていくらあってもいいけど、その時代のひとがやっていて、そのひとのパーソナルなところが出ていれば、俺は面白いかなと思います。

[[SplitPage]]

その当時王道のベスト・ワンされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関しても似たものを感じます。もちろん例外はありますけど。

2〜3年前だっけ? 快速東京のライヴで知り合って、カタコトのカセットを買って、ドラゴンくんの絵をいろいろ見せてもらったんだよね。ドラゴン君にはすごくたくさんある引き出しのなかで、今回の初めての個展で、いろんな自分を見せるんじゃなくて、ひとつのコンセプチュアルな作品を見せたじゃない?

D:それは意識しましたし、現実的にも出せる作品が溜まっていなかったんです。僕、普段はクライアントワークばかりやっているんで、いざ個展をやろうとしたとき、そんなに作品は溜まっていないというか。だから個展やるときに、ひとつコンセプトを決めて展示するってアイディアにいきがちな部分もあります。

クライアント仕事へのストレスが作品に表れていたりする?

D:それはあるかもしれないです。とはいえ、仕事のようにスケジューリングをして、全部作るのに2ヶ月くらいかかりましたね。終わったのは個展が開始する1週間前でした。普段のクライアントワークで時間は厳守していたので、そこはきっちり守れましたね(笑)。

クライアントワークではどういう仕事が多いの?

D:東京メトロのCMで使われるような絵の仕事とかですかね。

アイフォンとかアマゾンとかって、現代の消費生活を象徴しているものだと思うんだけど、そういうものを屈託無く描くよね?

D:そう思いました(笑)?

うん。例えば僕なんかはアイフォンもアマゾンも利用するけど、複雑な気持ちになるもんね。むちゃくちゃ頭にきたりするけどね。でも仕方がねぇから使うか、みたいな。

D:僕は全然複雑な気持ちじゃないんですよ。でも、そう言ってもらえて良かったです。僕はこれが批判的に捉えられていたら嫌だなと。見方によればすごくベタな現代批判みたいに思われそうで。

あまりにも屈託が無さすぎると思ったくらいですよ(笑)。

D:でも僕はいつもそういう感覚ですよ。否定も肯定もせず、みたいな。

話は変わりますが、カタコトはどうなっているんですか?

D:セカンドは半分くらい進みました。やる気はあるんですが、忙しくて……(笑)。1回アルバム制作を経験しているから、もう1回あれをやるのかぁっていうか(笑)。サクッといかなかった思い出が強いんです。メンバー同士の話し合いもストレスになるし。ひととモノを作るってストレスが溜まりますよね。

カタコトの屈託の無さが好きなんだよね。ストリート系ヒップホップに対するリスペクトもすごくあるんだけど、ヒップホップは幅広いモノだから。でも、カタコトみたいなものは変種だよね(笑)。

D:もうちょっと頑張らないとダメだな(苦笑)。

いま普段聴いている音楽って何?

D:相変わらず何でも聴いていますね。ヒップホップも聴くし、新しいものも聴いていますよ。カニエの新作とか(笑)。聴いてもあんまりなんとも思わなかったですけど。

ドラゴンくんはPSGのMVをやったじゃない? あれはどうやってやったの?

D:あれはPUNPEEくんに「お金はないけど、一緒にやってみませんか?」みたいな感じで誘われたんです。

それはどこでどう繋がったの?

D:これも不思議な話なんですけど、ユーチューブに自分の短いアニメーションを何個か上げていたんですよ。そこに何も考えず、自分の好きなアーティストをたくさんタグ付けしました。例えば、鎮座ドープネスの下に自分のアニメがきたらいいな、ぐらいの気持ちです。そうしたら、PUNPEEくんがたまたま見てくれたんですよ。それが2009年ぐらいなんですけど、その頃ってPSGも出たばっかりのときで。僕はスラックのファーストを予約して買うぐらい好きだったんですよ。『My Space』のときです。だからけっこう早かったというか。

PSGとドラゴンの世界観がハマっていたよね。

D:いまでもあれは言われますからね。相変わらずあの動画の再生回数は伸びてます。



アニメーションはそのときから自分でやっているんだよね。しかもコマ撮りで。

D:やってますね。最初、アニメは能動的に作っていたんですけど、PSG以降は全部頼まれて作るぐらいなので、あまりアニメーションを研究している感じではないんですけどね。だからアニメの絵は見るひとが見れば下手くそだとバレるというか。上手く動かせるひとってもっといるんですよ。いわゆるアニメの作法とかは僕は無視してるんで。

レトロスペクティヴな感覚があるよね。現代の消費生活を象徴するものが描かれていながら、アニメで再生されているのはある意味懐古的だけど、ドラゴンくんのなかに失われてしまったものに対する郷愁ってあるの? 

D:どうなんだろう。無意識的にはあるかもしれないですね。

ドラゴンくんから見て、昭和的な面白さってなんだと思う? 

D:難しいな。何なんでしょうね。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです。

古いものが好きなわけじゃないと。

D:スヌーピーって造形もかわいいですけど、ここまで残っているからには、それなりの強度も持っていると思うんです。そこに僕はやられちゃう。ビートルズももちろんそうですけど。

スヌーピーの絵がグッとくるの?

D:絵ももちろんですけど、考えさせられる部分でもグッときてますよ。願わくば、自分の作品においても百年後のことを考えてしまうというか。音楽も、その当時王道のベスト・ワンにされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関してもそうで、もちろん例外はありますけど。

そう言われると、やはり水木さんは大きな存在なんだね。

D:水木しげるの魅力って絵だけじゃないですよね。

ドラゴンくんの作品は同世代に向けて描いている?

D:特に対象を考えているわけではないです。子供向けに描いてみたいとも思いますけどね。でも、自分が子供の頃を考えると、子供むけじゃないものも面白がっていたので、そこはあんまり子供に合わせる必要はないと思ってます。

映画では何が好きなの? 

D:うーん、何だろう……。映画はいろいろ見ますよ(笑)。タイのアピチャッポンとかすごい好きです。世界観が水木しげる的ですよ。ありえないことが起きているけど、誰も驚かないみたいな。

 

オオクボリュウ「Like A Broken iPhone | アイフォン割れた」開催中

2016年4月8日(金)- 4月24日(日)
トーク・イベント:4月16日(土)19:00-21:00 進行:安部憲行(本展キュレーター)】
時間:12:00-19:00  
休廊日:月曜日
会場:CALM & PUNK GALLERY (東京都港区西麻布1-15-15 浅井ビル1F)

Tel: 03-5775-0825
URL:https://calmandpunk.com/
facebook:https://www.facebook.com/events/1860614200832209/

Chimurenga Renaissance - ele-king

 3月末に首相官邸で行われたアベとムガベの握手がまるで独裁政権の契り合いに見えてしまったからではないけれど、ムガベ大統領が30年以上も牛耳るジンバブエにルーツを持ち、父親がンビラ(親指ピアノ)奏者としてマリンバ・アンサンブルを率いていたテンダイ・マレーアと、コンゴに起源を持つらしきフセイン・カロンの2作目を。マレーアはディゲブル・プラネッツのシュマエル・バトラーとスター・ウォーズ由来らしきシャバズ・パレシィズとして〈サブ・ポップ〉からも2枚のアルバムをリリースしてきた成長株。ユニット名に使われているチムレンガとは戦いとか抵抗といった意味らしく、近年は人権や社会正義を示すようにもなっているという(タイトルの「銃を持った女たち」とは橋元さんのことだろうか?)。

 2年前のデビュー・アルバムはそれこそシャバズ・パレシィズに作風も近く、マルカム・マクラーレンを思わせるシャンガーンなどもありつつ全体としてはヒップホップの範疇に留まるものではあった(映像も楽しめる→https://www.youtube.com/watch?v=2ChY5_uSR-8)。それが、ここではジャケットに貼られたステッカーでも強調しているようにジンバブエのビートとコンゴのギター奏法が前面に押し出され、US風のヒップホップはかろうじて殻を残しているだけに過ぎない。セネガルのヒップホップなどはあまりにもアメリカのコピーでしかなく、アフリカの遺伝子がむしろ移民先で花開くという図はダンス・ミュージック全体に見通せることとはいえ、これだけ面白い例はなかなかないかもしれない。レーベル・サイドはこれに「アフロ-フューチャリスト・ヒップホップ」というレッテルを与えている。

 透明度の高いギター・サウンドが終始、明るいムードを呼び込むのに対し、歌詞はかなり政治的らしく(それはムガベに対するもの? それともアメリカ?)、「およげ!対訳くん」とかで取り上げてくれないかなーと。前作同様、宇多田ヒカルが絶賛していたジーサティスファクションからサッシー・ブラックもMCで参加。アナログ・オンリーのようで、ダウンロード・コードが付いてます。

 アフリカついでに、ドミューンでもけっこう受けたゴールデン・ティーチャーのメンバーが参加したグリーン・ドアー・オールスターズのデビュー作も。これはグラスゴーとガーナ、そして、ベリーズ(旧英領ホンデュラス)から複数のグループが混在としたセッション・バンドで、どうやら主導権を握っているのはグラスゴーのグリーン・ドアーというスタジオ(〈ZEレコーズ〉からマイケル・ドラキュラの名義でアルバムをリリースしていたエミリー・マクラーレンがプロデュース)であり、同じくグラスゴーのハントリーズ&パーマーズ(『クラブ/インディレーベル・ガイドブック』p.55)から主宰のアウンティ・フローやオプティモのJ・D・トウィッチが最終的に宅で仕上げているという過程はどうしてもエイドリアン・シャーウッドのニュー・エイジ・ステッパーズを想起させる。ただし、レゲエではなくアフリカ。アリ・アップの役回りはやはりゴールデン・ティーチャーのキャシー・オージでしょうか。

 オープニングからしばらくはイメージ通りのアフリカ音楽が続き、だんだんダブを多用したり、クラブ的なスキルが比重を増してくる。エンディング近くになってくると、パーカッションの刻み方だけでアフリカ音楽を感じさせるだけで、チムレンガ・ルネッサンス同様、形式性はどんどん希薄になっていく。どこまでやったらレゲエとは呼ばれなくなるかという問いがニュー・エイジ・ステッパーズに存在していたとしたら、同じことがここではアフリカ音楽によって行われていることは間違いない。時にハンドクラップだけ、ハットとコーラスだけでアフリカがそこに立ち現れてくる。

 ハドソン・モホークやラスティといったベース系だけでなく、グラスゴーといえばメアリ・スチュワート人気といい、スコットランドの独立騒ぎであれだけ高揚したんだから、面白い音楽が出てこないほうがおかしいともいえるけれど。

interview with Hiroshi Watanabe - ele-king









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon


 人生には何が待っているかわからない。当人にとっての自然な流れも、はたからは意外な展開に見えることがある。ヒロシ・ワタナベといえばKaito、KaitoといえばKompakt。Kompaktといえばドイツのミニマル・ハウス、ポップ・アンビエント、水玉模様……ヒロシ・ワタナベといえばKaito、Kaitoといえば子どもの写真、美しい風景、クリーンな空気……。

 しかしヒロシ・ワタナベのキャリアは──90年代半ばのNY、DJピエールのワイルド・ピッチ・スタイル全盛のNY、エロティックでダーティーなNY、それは世界一ハードなクラバーのいるNY──そこからはじまっている。

 そして2016年、彼はデリック・メイのレーベル、──デトロイトの名門中の名門とでも言っておきましょうか──、〈Transmat〉から作品をリリースする。アルバムは『MULTIVERSE(マルチヴァース)』というタイトルで、12インチEPはすでに出ている。EPのほうは〈Transmat〉からの初の日本人作品という話題性もあって、あっという間に売れたし、好評だった。アブドゥール・ハックによるアートワークも良かった。

 それで『MULTIVERSE』だが、これはヒロシ・ワタナベらしい繊細さをもちながら、じつにパワフルで……というか寛容さと力強さを兼ね備えていて、些細な瞬間に大きな喜びを見いだすことさえ可能な、前向きな心によって生まれた作品であることは間違いない。人生に挫折した男も女もふと空を見上げ、ひょっとしたらこの苦境を乗り越えられるかもしれない、そう思うだろう。

 これを〈Transmat〉サウンドと呼ばずして何と言おうか。初期ヒロシ・ワタナベが荒々しいダンスの渦中で生まれた音楽なら、Kaitoはダンスフロアに草原の清々しさを吹き込む音楽、そして『MULTIVERSE』は……こうも言えるだろう、デリック・メイとの二人三脚で生まれた音楽であると。

 このインタヴューではヒロシ・ワタナベの20年以上のキャリアを振りながら、彼のダンス・ミュージック/電子音楽への考え方を紹介している。長い話だが、初めて聞けることばかり。デリック・メイとの熱い(!)やり取りのところまで、どうぞお付き合い下さい。


2016年正月の神戸公演にて。

理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

今回の新作、表面的には「〈コンパクト〉から〈トランスマット〉へ」──という風に見えると思うんですよ。やっぱりカイト名義の〈コンパクト〉からの作品は、ある時代(2000年代の最初)を象徴するものでもあったし、その印象がまだ強いんじゃないでしょうかね。

ヒロシ・ワタナベ(以下、HW):たしかに、長い期間やってきましたからね。

〈トランスマット〉から日本人が出るらしい、それがヒロシ・ワタナベって知ってびっくりする人は少なくなかったと思いますよ。

HW:でしょうね。

ただ、ちょうど2000年代に入ったばかりの頃、ぼくがデトロイトに行ったとき、車のラジオから〈コンパクト〉が流れてきたことがあったんですよね。ラジオのDJが「コンパクトからの新譜で〜」みたいな紹介の喋りがあって、あのミニマル・ハウスがかかるみたいな。

HW:意外というか、オープン・マインドというか。

そういう意味でいうと、今回のヒロシ・ワタナベの〈トランスマット〉リリースも、ヨーロッパ経由なわけでデトロイトと繋がらなくはないんですよね。だって彼らはヨーロッパ大嫌いで大好きじゃん。

HW:ヨーロッパのひとたちも、アメリカのシーンに絶対に興味を持っているけど、アメリカという国に対してはめちゃめちゃアンチだったりする。
 ぼくが結果的にデトロイトの〈トランスマット〉からのリリースにたどり着いた経路にも、不思議で面白いところがあるんです。ぼくは、もともとはボストンで大学に通いながらダンス・ミュージックを作りはじめたんですね。メインストリームも消化しつつ、自分なりの音を探っていたんですが、それがのちのちクァドラ(Quadra)というプロジェクトになっていきます。で、卒業後にボストンからニューヨークに行って、当時もっとも衝撃だったDJピエールやジュニア・ヴァスケス 、ジョニー・ヴィシャスなどのハード・ハウスのスタイルに影響を受けました。ゲイ・カルチャーに根ざしながら、ゲイ・シーンだけではないものを一生懸命に聴いていましたね。

90年代のニューヨークにとってハウスは本当に大きかった。ヒップホップも大きかったけど、ハウスもすごかった。ジャネット・ジャクソンのようなポップ・スターも、みんなハウスをやっていたよね。

HW:あのマンハッタンと狭いその近隣のエリアにガッツリ組み込まれていたハウス・シーンに、ぼくもドップリ入っていたわけです。

どのような経緯で?

HW:1990年にボストンに渡って音楽の学校(バークリー音楽大学)へ通って、1994年に卒業したあとにニューヨークで曲を作りはじめました。学校でかぶってはいないんですけど、DJゴミ(DJ GOMI)さんがぼくの先輩なんです。ゴミさんがバークリーに遊びに来ていたので、ちょっとお会いして挨拶したりとか、ニューヨークのシーンについて伺ってみたりしました。卒業する間近にゴミさんの家に泊まらせてもらって、ニューヨークをいろいろ案内してもらったり、いろいろお世話になったんです。「じゃあ、これからがんばってね」と言われて、ぼくはニューヨークへ渡るんですけど。

なんでハウス・ミュージックにそこまでのめり込んだんですか?

HW:ボストンで楽曲を作りはじめたときは、基本的にテクノなサウンドの方が好みだったんです。中学のときはYMOも聴いていたし、レコードもほとんど持ってました。とにかく、シンセサイザーを使って打ち込みが盛り込まれている音楽が、ひと通り好きだったんです。でもクラフトワークはあんまり聴いてないんですよね。アンダーグラウンドの音楽に対する自分の着目点は、王道のクラフトワークまで遡らずに、当時流行っていたブレイクビーツ系のテクノや〈XL〉のものでしたね。ドイツの〈EYE Q〉なんかもも聴いていました。学校には、打ち込みをやっている仲間がいっぱいいたんです。

お父さんが作曲家で、お母さんがジャズのピアニストなんですよね。

HW:そうです。

ご両親に対する反発心からテクノへ行ったんじゃないかと(笑)。

HW:ははは(笑)! 反発心からじゃないんですよね。

テクノって、音楽をちゃんと学んだひとからするととんでもない音楽でしょう?

HW:ぼくはとんでもないスタイルで作られた音楽に完全に魅了されたんです。高校は東京音楽大学の付属へ通ってクラシックも勉強したし、バークリーではジャズや音楽理論も多少なりとも勉強しました。でも自分が音楽を作って放出するときに、そういうアカデミックなものとはどうも違う。オーケストラでのコントラバスの経験ももちろん肥やしになっていますけど、理論上のことだったり、テクニカルな部分は、自分がやりたい音楽にはほぼほぼ当てはまらない感覚がずっとあったんですね。だからこそダンス・ミュージックを聴いたときに、「もう自分にはこれしかないじゃん」という気持ちに駆られましたね。

テクノって、多くが感覚で作られているし、単純じゃないですか? クラシックを学んでいると、その辺が逆に新鮮だったりするの?

HW:それで間違いないと思いますよ。理論やテクニックの部分を取っ払ったとこでどこまで勝負できるかという点において、テクノってすごく素敵な音楽なんです。ただ、もっと幼少期にさかのぼると、うちの父親が当時アナログ・シンセサイザーを多用して、マルチ・レコーディングやフィールド・レコーディングをした音を組み合わせて、夜な夜な楽曲を作っていたのを見ていた体験があるんです。

お父さんの影響が大きんだ。

HW:大きいです。かつ、当時はニューエイジ・ミュージックと呼ばれていた、いまでいうアンビエント・ミュージック、それこそアンビエントの原点というか。

UKのある有名なテクノのアーティストが、なんでテクノを好きになったのかという話をして、それは5歳の頃、オーディオ好きの父親に、部屋を真っ暗にして冨田勲を聴かされたことがきっかけだったと。そのとき、自分が本当に別世界へ行ってしまった感覚を覚えてしまったと言っていたんだけど、そんな感じですよね?

HW:それにほぼ近いですね。当時小学生のころ住んでいたのは平屋の木造民家だったんですけど、父親がバンドの練習をするためにひと部屋を手作りでかなり強力な防音室にしたんですよ。その防音室にぼくは忍び込んで当時全盛だった『スター・ウォーズ』の2枚組LPを真っ暗にして大音量で聴いていたんですよね。するともう、そこは宇宙になわけですよ。右も左もわからない状態で音だけに浸るって、その体験とまったく同じなんですよ。

しかしヒロシ・ワタナベをその気にさせた音楽って、〈XL〉であり、レイヴ・カルチャーであり、ダンス・ミュージックなわけですよね。

HW:サンプラーとブレイクビーツに興味があったんですよね(※レイヴ・ミュージックは基本、ブレイクビーツだった)。
 当時はアカイのサンプラーが一世を風靡していたんですけど、ヒップホップのスタイルはかっこいいけど自分が作る音楽ではないなとずっと思っていたんです。ヒップホップのスタイルは自分が経験してきた文化と違うし、最初はサンプリング・ミュージックを作ることには前向きにはなれなかったんです。でも、〈XL〉やオルタン8などブレイクビーツのサンプルは、ヒップホップとはまったく別のやり方でしたね。ヒップホップは無理だけど、こっちは全然いけるじゃんって思った(笑)。

その手のダンス・ミュージックは、どうやって知ったんですか?

HW:最初は、学校のシンセサイザー科の友人から教えてもらいましたね。彼はテクノを聴いて、自分でも作っていたんですけど、そこからテクノの仲間がどんどん増えていきます。学校外にも仲間がたくさんいることがわかって、いろんな人たちと出会うんですけど、そのうちのひとりがいま大阪にいるエニトクワ(Enitokwa)で、彼は同じ時期にボストンにいました。

レイヴに行って踊ってました?

HW:最初は聴いてるばかりでした。音楽と出会ってしまい、音楽を聴きまくる感じでした。クラブにも行ってないですし。

じゃあベッドルーム・プロデューサーとしてスタートしたわけですね?

HW:最初はそうです。ただ、そのあとボストンに808ステイトやエイフェックス・ツインなどがボストンに来ているので、見に行ったんです。そこでクラブ・サウンドの凄さを体感して、「DJをしないと、ダンス・ミュージックは作れないんじゃないの?」くらいに思いはじめました。
 作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。
 それで、踊るんだったら躍らせる側に回った方が早いじゃないかと。それで中古の機材を集めてDJをはじめたんですが、そのころに知り合ったDJの友人がニューヨーク・ハウスのレコードを持っていたんです。それを自由に使っていいと言ってくれたので、わけもわからないままレコードを漁って、いいなと思ったものを友人のところでかけていたんですよ。そこでDJピエールのワイルド・ピッチ・スタイルを聴いちゃって、「これ何!?」みたいになって(笑)。

DJピエールで4つ打ちの良さに目覚める。

HW:ブレイクビーツを聴いていると、シンプルな4つ打ちがスカスカに思えてしまうんですね。だけどDJピエールは、普通の4つ打ちなのに、なんでこんなにかっこいいんだろうと。そこからハウス・ミュージックに興味を持つんです。ニューヨークへ行ったきっかけもDJピエールでしたね。


いきなりニューヨークという、その行動力はすごいです。

HW:若いエネルギーがすごいなと思うのはそこですよね。若さゆえに何にも考えずに、どんどん入っていけちゃうじゃないですか。これはもういても立ってもいられないから、ニューヨークへ行くしかないと。それ以前の歴史やアンダーグラウンド・シーンの流れをあまりわかっていないまま、いまその街で起こっていることに夢中になって追っかけていくんですね。
 それでぼくはサウンドを追い求めてニューヨークへ行くんですけど、実際はこんなにゲイ・カルチャーなんだと。

カルチャー・ショックでしたか?

HW:ぼくはけっこうすんなり受け入れましたね。彼らが巻き起こしているシーンがこれなんだって、サウンド・ファクトリーへ行ったとき、そう思いました。あまりにも強烈なサウンドシステムと、すさまじい盛り上がり方。そこではジュニア・ヴァスケスが延々とプレイしている……セットのなかで、ドープな時間だったり歌物の時間だったりハッピーだったりと展開していくわけだけど、そのシーンに触れたときに、「このために音楽が生まれているんだな」というのも思い切り体感して。ここでかかるような音楽を作って勝負したいと思いましたね。

ニューヨークではどんな生活だったんですか?

HW:最初はゴミさんの紹介で、〈Dr.Sound〉というところに勤めていたんです。クロサワ楽器系列で、経営は日本人だったんですね。その楽器屋さんには、DJデューク(※90年代のNYハード・ハウスの中心人物のひとり)が遊びに来たりとか、いろんなDJが来たので、用意していた自分の新作デモカセットをすかさずデカい音でかけていました(笑)。「これ誰の曲だ? お前のか?」とか、そう言われるのを待って(笑)、それで知り合いになってオフィスに呼んでもらって、デモ・テープを渡しまくりました。もちろんデュークのところ(※〈セックス・マニア)レーベル〉からも出したかったんだけど、ぼくはあそこまでダーティ・ハウスじゃなかったから(笑)。


働いていた楽器店の入口にて。

ヒロシ・ワタナベがDJデュークや〈セックス・マニア〉といっているのが面白いんですけど、カイトのイメージとは真逆だよね(笑)。

HW:カイトのサウンドは、小中学校のときに触れたニューエイジ・ミュージックにまで遡れる。あるいは映画音楽だったりとか。音でイメージが空想できるようなスタイルというか。クアドラの音楽はそのイメージに自分が解釈したテクノを融合させたイメージだったんです。クアドラ名義では1995年に〈フロッグマン〉から1枚目を出しました。その前にはコンピレーションにも参加していたんですよね。あの曲は、ボストンで学生だったときに作った曲です。ああいう、クアドラのイメージはとっておきながら、それとは別にニューヨークで自分が勝負したいと思うものを探求していくと、ハード・ハウスのスタイルだったんですね。

なるほど。面白いね。

HW:ぼくはニューヨークにいたけど、ガラージみたいなものにはいかなかったんですよ。さっきのヒップホップといっしょで、ガラージは日本人が勝負をかけても無理だろうと思っていたんですよね。あのグルーヴ感は、真似て作るものではないと。自分が勝負できるのはハード・ハウスだと。とにかく、ピエールの、じわじわ構築していくようなワイルド・ピッチ・スタイルが大好きでした。当時、ヒサさんのレーベル(〈キング・ストリート〉)からも、あの手法を取り入れた作品がリリースされていました。

しかし、DJデュークなんか、ポルノみたいなハウスじゃないですか(笑)。

HW:ラベルとかもひどいし(笑)。



ヒロシ・ワタナベのイメージとは著しく異なっている(笑)。

HW:現場でぼくが追い求めていたハードで熱いシーンと、ぼくがオリジナルで作品を出し続けた自分のイメージはけっこうズレているんです。

90年代半ばは人気がすごかったもんね。

HW:そうなんです。音はすごく良いんです! 

[[SplitPage]]

作品もリリースしていないときに、何曲も作って自分で聴くんですけど、やっぱ何か足りないわけですよ。こんだけ頑張って作って、音もいいし質感もよくなってきている。しかし、何が足りないんだろうと考えてみたら、「これは俺が踊ってないからだ!」って思ったんです(笑)。


Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse

Amazon


DJは、どんなふうにはじめるんですか?

HW:楽器屋さんに来てくれるお客さんでDJもしていた大事な旧友と知り合うんです。最初は、彼といっしょにDJができる場所を探すことにしたんですよね。彼はイースト・ヴィレッジに住んでいて、ぼくはクイーンズのグリーンポイントというところにはじめはいたんですけど。で、マンハッタンのイースト・ヴィレッジにあったセイヴ・ザ・ロボッツ(Save The Robots)という、めちゃめちゃアンダーグラウンドでアフターアワーズ・パーティが盛んなクラブがあったんですね。アヴェニューB沿いの、かなり危険な区域なんですけど。


Save the robotsでのDJシーン。

90年代には、まだ70年代のニューヨークが残っていたんですね。

HW:そうなんです。アヴェニューA、B、Cとかにいっちゃうとヤバいんですよ。ジャンキーやフッカーだらけの怪しくて危ない場所でしたね。でもそこにかっこいいクラブがあるから行こうぜ、と。レコードを持ってお店が開いたら直ぐに入って、「DJやりたいんだけど、やれないかな?」とオーナーに直接訊いてみたんです(笑)。そしたら「お前ら上のラウンジの方でちょっとかけてみろよ」と言われて、ふたりで一生懸命かけるんですよ。

すごい強引な(笑)。

HW:はい(笑)。でも、そうしたら運良く、「空いてる曜日があるから、お前たち上でよかったらいいよ」って誘われて、毎週そのクラブでふたりで時間をわけてDJをやるんです。で、上のフロアなのに、がっつり盛り上げてハードに攻めていたら、お店のひとが面白がってくれて、「お前ら、下のメインフロアでやっていいよ」となったんです(笑)。そこで実験がはじまるんです。
 ある日、あるパーティにヒサさんが遊びに来ていて知り合いになるんですね。それで、早速次の日にすぐヒサさんのところに自分のトラックを持っていきました。そうしたら「アーバン・ソウル(Urban Soul)とサンディー・ビー(Sandy B)の“バック・トゥギャザー(Back Together)”をリミックスしてみないか?」と言われて、「DATをくれて好きにやっていいよ」と。それでもう、必死になって作ったら、それが出たんですよ。

ヒサさんも知名度ではなく、音で選んだんですね。

HW:はい! 音でいけました。セイヴ・ザ・ロボッツでDJ をしていて面白かったのは、わけのわからない日本人がDJをしているわけじゃないですか? でも曲やプレイがすごいと「お前何てやつだよ?」って訊いてきてくれるし、ガンガン踊ってくれるから、その反応を素直に体感できたというか。作ったばっかりの楽曲をDATでかけたりとか。アセテート盤を作ってかけてみたりとか。

ニューヨークには何年いたんですか?

HW:丸5年ですね。1999年の夏に帰ってきているんで。

ある程度ニューヨークで活動しながら、帰ってきたのはなぜだったんですか?

HW:アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。
 当時はジュニア・ヴァスケスが頂点の時代で、みんながジュニアがプレイしている晩に自分のレコードやDATを持って、ジュニアのブースまで行くわけですよ。ぼくもほんの数回それをやりました。でも、自分がジュニアのところまでわざわざ音源を持って行ってもかけてくれないんだったら、なんか嫌だなという違和感もあって、それよりジュニア本人がレコード屋さんで選んだものが自分の音楽だったら、そんな最高なことはないじゃんと思ったんですよ。目標はそれだと。それで、まずはいろんなハウスのレーベルに作品を持っていって、自分の作品をリリースしようと思ったんです。

初めてのリリースは、1996年に〈Nite Grooves〉から出した「Bad House Music」?




HW:それはニューヨークで出したオリジナルの最初で、その前に“Back Together”リミックスが先に出るんですよ。

盤としては、ひょっとして〈フロッグマン〉から出た「SKY EP」が最初だったりして。

HW:レコードとしては〈フロッグマン〉からの方が早いです。でも、いちばん最初はクアドラが入ったコンピレーションですね。続いてイエロー(Yellow)が出した『East Edge Compilation 2』にDefcon 5という名前で参加しました。それが95年で、ほぼ同時期。

1996年にはジョニー・ヴィシャスの〈Vicious Muzik〉からもシングルを出していますね。

HW:ニューヨークへ行っていろいろ模索しているうちに、クラブでジョニー・ヴィシャスにも出会うんですよ。ジュニアもかけていたジョニーの曲があって、それを聴いて「やべーな、こいつとは会うしかない」と。かつてトンネルでDJをしていたヤング・リチャードが HouzTown 名義で、先にそのレーベルから「Brooklyn A Train」という曲を出したんです。それもすごくドープな曲で。それからぼくもナイト・システム(Nite System)名義で出すんです。

なんでそんなに名義を使い分けていたんですか?

HW:ひとつには色分けですよね。全然コンセプトが違うからクアドラでやるわけにもいかないし。言ってしまえば、ハードハウスはぼくにとっては実験だったので、それで生きていきたいというよりもニューヨーク・シーンに対しての自分なりの挑戦というか。

ハード・ハウスは、もう、とにかくクラブでダンスするための音楽だよね。トランスさせる音楽というか。

HW:さっきも言ったように、音楽の学校へは行ったけど、ぼくが求めている音楽にはいっさいがっさいそれが必要なかったんだなと気づいてしまった(笑)。

とにかく、ハウスのアンダーグラウンドな世界に入って、順調な活動ができていたんですね?

HW:DJもやっていてネットワークもできていたので、週末の金曜日にトンネルで回せたりとか。サウンド・ファクトリーがトワイロ(Twilo)という名前に変わったときも、友人がオーガナイザーになってイベントを立ち上げたとき、メインフロアでDJができましたね。いろんなクラブでDJができるようになった。レコードも出せて活動の幅の広がった。

すごいですね。

HW:ただ、ぼくは、デモを渡さずにジュニアがいつ自分の曲をかけるのかという一点だったんです。それであるとき、友人から電話がかかってきて「ジュニアが先週ヒロシの曲をかけたよ!」って教えてくれたんです。次の週に急いで駆け込んで、ずーっとかかるか何時間も見ていたんです(笑)。

フロアで(笑)?

HW:そう、ずーーーっと。そしたらかけてくれたんですよね。スタジオでちまちま作った音楽がレコードとなって、そしてジュニアが見つけてくれて、そしてフロアでかけてくれて。

なんていう曲だったんですか?

HW:〈Deeper〉からナイト・システム名義で出した曲です。

嬉しかったでしょぅ、それは。

HW:はい。と同時に、ニューヨークでのミッション・コンプリートみたいな感じになっちゃったんです。当時ぼくはもう結婚していました。籍入れたのは1996年の終わりころ! なので新婚生活真っ只中だったんです。DJと曲作りが基本だったからお金が全然なくて本当にひどい生活だったんだけど……。

早い!

HW:本当にただ一緒にいたくて。若くて熱かったっすね。

息子さんのカイトくんはまだ生まれてないわけでしょう?

HW:生まれてないです(笑)。






NY時代の自宅スタジオの風景。


[[SplitPage]]

アーティスト・ビザを取っていたので、半永久的にいれたんです。だけど、ぼくは目的があってニューヨークにいたわけで、ただアメリカ生活がしたかったわけじゃないんですよね。音楽に魅了されてニューヨークまでやってきたので、自分の音で勝負しないと何の意味もないと思っていました。


Hiroshi Watanabe
MULTIVERSE

Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse

Amazon

話を戻すと、ジュニアがヒロシ君の曲をかけて?

HW:嬉しかったと同時に、目標を果たしてしまったというか。自分の気持ちがそこで変わっていくんです。 当時はお金がなかったから、マンハッタンからクイーンズへ引っ越して、住んでいたアパートは屋根に上がれたんですけど、そこに寝そべって星空を見ていたときに、ふっと「俺、日本帰ろう」と思ったんです。奥さんにもその気持ちを伝えて、日本に帰る決断ができて、帰国を決めて段取りを整えているときに、奥さんのおなかに赤ちゃんがいることがわかったんです。このタイミングにはある意味運命を感じた。それがカイトなんですけど。日本に帰ってきて1月後に生まれるのかな。
 だから、子供が生まれるから帰ってきたのねってみんなに言われてたんだけど、全然そうじゃなかったんです。ある意味アメリカでのミッションをクリアし、高校を出てから日本の社会にも触れてなかったから。頭も高校生のまま! で、音楽を作ってきて、ちょっと社会的にまずいんじゃないかとも思ったんです。日本を知らなさ過ぎていたし、日本で社会人の経験がないのがまずいんじゃないのかと。それで戻ったんです。

ニューヨークでは、DJやって、EPを出しているぐらいでは、食っていけない?

HW:ギリギリです。1タイトルを売ると、当時多くて2000ドルくらい。少ないと1300ドルくらい。

それを毎月出すわけでもないしね。

HW:それをコンスタントに繋げて、あちこちでDJをしながら小さなお金をかき集めるって感じでしたね。それでギリギリです。結果的に自分の修業の場になってやれてよかったですけど。
 イースト・ヴィレッジのアヴェニュー・A沿いに、ものすごくハイプなアヴェニュー・A・スシ・バーというのがあったんですよ。やばくって、内装もいっちゃってるんですけど、ニューヨーク中のクラバーが日本食を食べに来るヒップな場所なんですね。入ってすぐに席とDJブースがあって、その奥にまた席があって、さらに奥に寿司を握る場所があるんです。そこに毎日入れ替わりでDJが入っていて、そこに勤めていた友人がやめちゃうんですけど、「ヒロシくん、よかったらやる?」と話をくれて毎週木曜日に回すことになったんです。そこのお客さんは耳が肥えているから、スシ・バーなんだけど本気でDJをしてないといけない。しかも時間も長くてロングセットなんです。そこでいいDJをすると、お客さんが帰るときに名前やスケジュールを聞いてくれるんですね。「ここでご飯を食べている連中を踊らせてやるぞ」くらいな感じで、毎週そこでDJをやってました(笑)。

当時のニューヨークって、いまのベルリンじゃないけどさ、クラブ・カルチャーの中心地だったものね。

HW:その通りですね。そこにテイ(・トウワ)さんとかもいたんですよね。

90年代末は、でも、ちょうどひとつの時代の終わりでもあったよね。それを肌で感じたということもあるんですか?

HW:あります。

ワイルド・ピッチ系のニューヨークのハード・ハウスの流れも、そのころにはピークに達していたもんね。

HW:成熟しきっちゃっていて。言ってみれば、それ以上先はルーティン・ワークになって飽きちゃうギリギリのところで、ぼくはニューヨークから引き上げたんです。ぼくが帰国した2年後にテロがありますよね。それでニューヨークは一気に変わってしまう……。

当時は、日本の状況を何も知らないわけでしょう?

HW:そうです。ニューヨークにいたとき、3ヶ所くらいツアーで日本を回らせてもらったことがありましたけどね。マニアック・ラヴと沖縄のヴァンプと福岡のO/D。マニアック・ラヴやイエローが盛り上がっていたのは知っていました。
 それに、アメリカに10年いようが、日本人は日本人じゃないですか。だから日本で起きているテクノ・シーンのことを、ぼくはすんなりと受け入れられたんですよね。「こんな面白いことをやっているのか!」って見れたんです。日本のシーンがうごめくすごさに関しては、とてつもないものがありましたからね。


Kompaktの昔のレコ屋さん内でDJ中のヒロシ。

しかし当時は多くの日本人はニューヨークに学ぼうとしていたわけですよ。

HW:ただ、ぼくはニューヨークでドラッグ・カルチャーもモロに見てしまったんです。ぼくは正直一切ドラッグはやらなかったので、葛藤はありましたよ。ぼくは音楽でぶっ飛んで欲しいと思っていましたからね。

そこはデリック・メイと同じスタンスですね。

HW:おこがましい話だけど、ぼくはデリックに強いシンパシーを感じるんですよね。ぼくは自分が持っている感覚をフルに使って「さらにぶっ飛ばせる音楽を作ってやろうじゃん」と決意をあたらにしたんです。

帰国して、それからカイトをやるわけですが、その経緯を教えて下さい。

HW:日本に戻って子供が生まれて、家庭を持つことになり、日本の社会に揉まれるんですよね。最初は日本についていくのが大変でした。
 そういう時期、EMMAくんが〈NITELIST MUSIC〉を立ち上げたばっかりで、曲を集めていたんです。ぼくの作った曲の半分はニューヨークくさいもの、半分は日本に戻ってきてもう一度構築しようと実験していたものでした。〈NITELIST MUSIC〉からは、ヒロシ・ワタナベとナイト・システム名義で作品を出してもらうんですけど、ニューヨークでやってきたことを踏まえながら、新しいことをやりたいなとも思っていたんです。ちょうどその頃に、のちにいっしょにトレッドというユニットを組んでアルバムを出すことになる、グラフィック・デザイナーのタケヒコ・キタハラくんに会うんです。彼はヨーロッパの音を当時僕より断然追っていて、とくに〈コンパクト〉レーベルという存在を意識していましたね。彼から「ヒロシくん、〈コンパクト〉にデモを送った方がいいよ」と言われたんです。で、曲を送ったら、1週間後くらいにウルフガング・ヴォイトからメールで連絡が来たんですよ。
 ミヒャエル・マイヤーが言うには、送ったタイミングもすごくよかったみたいです。〈コンパクト〉は、1998年にレーベルがはじまってから、ひと通り出し切っちゃった感があったみたいで、自分たちがどこに向かうべきか話し合っていたときらしく。そこにぼくのデモテープが送られてきた。オフィスでかけてみたら、みんなが反応したそうです。メールには、「ちょうど新しいものを探していたんだよ。お前の音はバッチリだから出そう!」と書かれていましたね。

デザインもよかったですよね。〈セックス・マニア〉の猥雑さとは真逆でしょ。いかにもドイツ的なデザインで。なぜカイト名義にしたんですか?

HW:自分の本名でもよかったんですけど、ヒロシ・ワタナベだと印象がニューヨークすぎるんじゃないかと。でも彼らは日本語名がいいと言っていたんです。日本語名って難しいじゃないですか。日本人にとって日本語名プロジェクトがダサく感じることもあると説明していたんですよ。なかなか良い案が出なかったんですけど、「ちょうど生まれて間もない息子のカイトの名前はこういう漢字で、こういう意味(宇宙の謎を解く)があるんだよ」って伝えたら、「もうそれしかねぇよ!」と決まったんです(笑)。そうやってカイトのプロジェクトが生まれたわけです。だから最初に曲を作っていたときに、息子をイメージしていたわけではないです。

親バカからきたわけじゃないんですね(笑)。

HW:全然違います(笑)! ゼロからはじめて、日本で暮らしながら生まれる音楽ってなんだろうという模索の中から作ったのがカイトです。で、セカンド・シングルの「Everlasting」にジャケをつけることになって、子供の写真を送ったらあのジャケになってたんです。



あれがカイトのひとつのイメージを作ったもんね。

HW:自分が意図的にそのイメージを作り上げたわけじゃないけど、一度出した以上はそれでプロジェクトは走っていく。あの当時はダンス・ミュージックにあんな子供がドーンと露骨に出ちゃうって、なかった。だから自分でも面白いかなと思ったんですね。

当時売れたでしょう?

HW:かなり売れましたね。

だって、2000年代からは、ヒロシ・ワタナベといえばカイトですよ。

HW:自然とそうなっちゃいましたよね。


Kaito Live at Studio 672 in 2002

[[SplitPage]]


デリック・メイと一緒に。

日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon

ニューヨークのハウスは、12インチ・カルチャーですよね。しかし、ヨーロッパのテクノにはアルバムを出すというスタンスがある。結果、カイト名義では6枚以上のアルバムを出すことになりますよね。

HW:2002年、最初のアルバムを作り終えたあと、〈コンパクト〉がぼくのライヴ・ツアーを組んでくれたんです。そのとき、ケルンのまだ小さかった頃のオフィスに行ったんです。そこで、カイトの音楽のもとになったビートレス・ヴァージョンをミヒャエル・マイヤーに聴かせたんです。そしたらビートレス・ヴァージョンもこのまま出そうって、その場で決まったんです!

ああ、それが有名な『ポップ・アンビエント』シリーズにも発展するのかぁ。ヒロシ君の曲の特徴のひとつは、メロディだから、ビートレスの作品というのはすごくわかります。また、〈コンパクト〉というレーベルにすごく勢いがあった時代だった。クラブだけではなくて、アメリカのインディ・ロックの連中も、〈コンパクト〉と〈WARP〉はチェックしていたでしょ?

HW:ジェラルド・ミッチェルが「俺はカイトのビートレス・アルバムが大好きで、毎朝起きると聴いてんだぞ。本当だぜ」と言ってくれました。「デトロイトの連中はみんなお前の曲好きだよ」って(笑)。本当なのかなぁと思ってたんですけど、デリックも「デトロイトの奴らはお前の音楽をずっと追っかけてるぞ!」って教えてくれたんです。それって、お世辞じゃなかったみたいで、ぼくは正々堂々と自分の音楽で彼らとつながることに自信が持てたというか。
 そういう人たちって、ぼくにはレジェンド過ぎるので、会うたびに緊張していたんです。デリックとも最初は全然話せなかったんですよ。イエローが閉店する週の同じ日に、デリックがDJでカイトがライヴというときがあったんですね。そのとき初めて話ができたんです。ちょうどデリックの子供が生まれたばかりで、ぼくも三男が生まれたばかりで、子供の話で盛り上がりましたね(笑)。
 それから数年後、日本でデリックに会ったときに、「お前のサウンドは、俺がデトロイトで追い求めていたものと、はっきり言ってまったく同じものだと思っている」と言ってくれたんです。言っていることが飛びすぎていたから、信じられなかったんですけど、「本当だぞ」って言うんですよ。

2003年に〈Third-Ear〉から出た12インチ「Matrix E.P」は、たしかにデトロイティシュでした。メロディの作り方は、いま思えばデリック・メイの好みだったのかな。






「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。


HW:デトロイト・テクノって、メロディアスで、哀愁的な感覚も入ってますからね。マイク・バンクスにはジャズやいろんな要素が入って、音楽のアカデミックな部分が盛り込まれてくるけど、旋律的な部分ではみんなに共通項があると思うんです。

なぜいまデトロイトなんでしょうか?

HW:いままでにもいろんな出会い/出来事がありましたけど、今回の一件は強烈でした。ただ、極めて自然な流れだと思うんです。2004年あたりにぼくはギリシャのレーベルからいろいろ出しているんですけど、そのときに出した数枚のアルバムがデリックの手に渡って、DJで使っていたんですね。

そうだったんですね。ギリシャとのネットワークはどうやってできたんですか?

HW:ギリシャの〈Klik Records〉の元A&Rだったジョージっていう最高な友人がいてリアルタイムに「Matrix EP」をレコード屋さんで見つけてくれたんです。あの曲を聴いて、ぼくに直接連絡をくれた。「この音楽を見付けてからもう何回もリピートして聴いてるよ、うちのレーベルから何か出さないか?」と。ちょうど、アテネ・オリンピックが終わった後ぐらいでしたね。




アテネで開催されたBig In Japanの模様。野外の映画館が会場となり2000人以上動員した。2007年6月


2006年、ギリシャでのポスター。

ギリシャって、経済破綻しながら、なんで音楽は廃れないんだろう。いまでもレーベルがあるしね。

HW:しかもいまでもたしかにパーティ・シーンはあるんです。あそこは国柄、人間性がなんというか、すごくあっけらかんとしているんですよね。イタリアやスペインとも似ていますね。暖かくて、国のどこに行ってもオリーブの木があってっていう、そういう土地柄で、ものすごくオープンな人柄という印象です。
 それから、クラブ・ミュージックをボディではなくてマインド・ミュージックとして捉えているんじゃないかと感じます。ぼくの音楽に対しても、グルーヴもそうなんだけれど、その上に乗っかっているものにシンパシーを感じているといつも行く度に思うんです。

ギリシャはけっこうまわってますよね?

HW:アテネを中心にツアーしていますね。多くのDJは、ギリシャに行くと、だいたいミコノス島にあるカヴォ・パラディソという一番コテコテな有名なクラブでやるんです。観光客ばかりで羽振りがいいんで、有名なDJはみんなそこへ行くんですけど、ぼくはギリシャ全土にある、現地人しか来ないような小さいバーから大きなクラブまで回りました。車やフェリーを使って。それを2005年から毎年2回くらいやったんですよ。
 〈Klik Records‎〉が仕掛けたプロモーションも功を奏しました。発行部数が多い一般紙にぼくのCDをフリーで付けたこともありました。だから、一般のひとにもウケたんですよ。あるツアーでアテネのホテルに滞在していて、ちょっとお腹が空いたから何か買いに行こうと思ってホテルを出て、信号のない大きな道路を渡ったんです。そしたら近くに警察がいて「ヘイ!」って言われたんですよ。渡っちゃいけないところだったのかなと焦って立ち止まったんです、そしたら「アー・ユー・ヒロシ?」って警察が言ってきたんです(笑)。

それはありえないよね(笑)。

HW:本当なんです。「アイ・ライク・ユア・ミュージック」って。




なるほど。90年代はニューヨーク、そして2000年代はヨーロッパのシーンとリンクしているんだけど、2000年代に入ってクラブ・カルチャーも変化するじゃない?

HW:〈コンパクト〉はウルフガング・ヴォイトが社長の座を降りた頃から変わったんですよ。小さなレコード屋さんから大きなオフィスに移って、ビジネスやディストリビューションを大きくしていった。しかし、シーンはデジタルに移行していったので、運営が当時一度難しくなっていってしまった様子でした。

そうだよね。インターネットが普及していったのと反比例して、アナログ盤は減った。

HW:マーケットがデジタルへ移行していくことに関しては、僕も抵抗があったんですけど、ぼくはもともと曲作りから入っているんで、DJソフトのトラクターも早い段階で導入したんですよね。コンピュータを現場に導入する感覚って、楽曲を作っている人間にしてみれば、普通なんです。むしろパソコンがあったほうが安心できるというか。だけどよりDJという側面で強く音楽に接してきた人には、けっこう抵抗があったと思います。パソコンの状態の保ち方とか、データの整理の仕方とか、そういう基本的なところから話がはじまっちゃうから。

そういう意味では、なおさら、なぜいま〈トランスマット〉なのかと思いますね。デリックとの対談で「40代のゼロからのチャレンジ」みたいなことを言っているでしょう?

HW:20数年のキャリアを振り返ったときに、いまという現在を通過できるかできないかのチャレンジをしているってことなんです。ニューヨークでジュニア・ヴァスケスがぼくの曲をクラブでかけるか、というチャレンジと同じくらい大きな試練がやってきたというか。デリック・メイが〈トランスマット〉に求めるものを、ぼくが作れるか作れないかって、とてつもなくハードルが高いことなんですよ。

しかも〈トランスマット〉は〈コンパクト〉みたいにコンスタントに動いているレーベルじゃないからね。

HW:デリックは出したいものしか出したくないし、タイミングなんかどうでもいいわけですよ。自分が出してきたどのレーベルでもそうなんだけど、まず自分が作った音楽があって、出来上がったものを渡すのが自然の流れじゃないですか? でも今回のリリースに関してはそうじゃない。数年前ぼくはデリックに「〈トランスマット〉から出せる機会があれば光栄だし、そんな光栄な時を願わくば待っているよ」ってデリックに言ったんです。そのときは「もちろんそのチャンスがないわけじゃないぜ」って答えたんですけど、ぼくはそれをずっと覚えてたんですよね。
 それであるとき、ふたりで熊本にDJをしに行ったんです。そのときに、カイトとしての自分の今の環境や状況の相談みたいな話をしてて、ものすごく親身になってくれたんです。「もちろん俺はカイトの音楽自体ももっと世の中に認知されるべきだし、お前はカール・クレイグと同じような存在であるべきなのに、なぜもっと世界で認知されていないのか俺には理解できない」、「デリック、嬉しい言葉だけど俺もわかんねぇから、理由を教えてくれ」と(笑)。そうやって個人レベルでのやりとりが密にはじまるんですよね。

そのやりとりが面白いんですよね。そういうやりとりはいつぐらいから?

HW:震災あたりからだから、5年前くらいです。

そのときから自分のデモを聴かせていたんですか?

HW:デモを聴かせているというよりも、当時は純粋にぼくが出している曲を聴いてくれていたんです。彼がぼくの曲をDJで使っているのを知ることで、そんな嬉しいことはないと思いながら、ぼくもデリックにしっかり話していいんだなと思えてきて、あるときに、「お前はデトロイトに来てフェスに出るべきだ!」って言われたんです。そりゃいつでも出たいけど、どうしようもないじゃないですか。そしたら「俺が話をつけてやるから、ちょっと待ってろ!」と。それでしばらく経って、また会ったときに「ヒロシ、ごめんな。俺はプッシュしたんだけど、イベントの体制が純粋に音だけで選ぶような今は状況ではなかった。ごめんな」と。そういう見方をしてくれていたんですよね。
 それでデリックは、彼なりにぼくに対してできる最善のことは何かと、考えてくれるようになったんでしょうね。そこまで関係性ができたときにぼくはデリックに曲を渡すんです。忙しいだろうし返事もすぐには来ないだろうなと思ってたんですけど、「いいかヒロシ、〈トランスマット〉の称号を手にするのはとんでもないことなんだぞ?」と返信が来まして(笑)。

はははは(笑)!

HW:「その称号をお前が手にするには、こんなレベルじゃダメなんだ」って(笑)。

すごいね(笑)!

HW:「そこにたどり着く方法は自力で見つけろ。お前には絶対できる。本当に出したかったら、次の〈トランスマット〉からのリリースはヒロシだ」と。デリックがそんなこと言うなんてすごいじゃないですか? 

まあ、すごいですね(笑)。

HW:だけどそれと同時に、いままでにないプレッシャーを感じたんです。いいものができたら曲を出すって言われている以上、作らなきゃいけない。でも作っても「ヒロシ、これじゃない」と返信し続けられたら、ぼくは生きた心地がしないわけです。ずーっと自信をもって音楽を作ってきているし、自分の音楽を感じながらやってきたものの、そこで作れども作れども、もしOKが出ないなんてことが起きたら、デリックの言うポイントに到達できてないってことになる。それは自分の音楽人生であっちゃいけないし、ありえないことだと思ったんですね。

しかしデリックも直球な言葉ばかりを言ってくるんだね。

HW:だから、20年以上のキャリアを積んできたにも関わらず、もう一回ゼロから自分がチャレンジする機会をデリックがくれたとも言えるんですよ。ニューヨークで無心になって作っていた当時の自分がいま新たに蘇ったというか。デリックに「これだよ!」って言われなかったら、俺の20年間はなんだったんだろうと、そのときに思ったんです。そこからはもう、徹底的に作り続けました。

「あの山を登るのに、他の連中はこの平坦な綺麗に舗装された道を行く。しかし、お前は一人きりで裏の崖からロープ一本で登ってるんだ」とか言われたらね(笑)。

HW:「お前は荒野のなかの一人たたずむ侍だ、自身の中に潜む何かを掴むために一人きりでいるんだ」(笑)とか。

そうやって火をつけるのが彼のやり方なんだろうけど、すごいものがあるよね。

HW:最初に送った楽曲は〈トランスマット〉へというつもりではなかったにせよ、しょっぱなが「これじゃない、もっと〈トランスマット〉に相応しいものを作れ」って言われたわけじゃないですか。(笑)だから簡単には曲は送らないと決めたんですけど。なんでもいいわけじゃなくて、自分で彼のいうポイントに到達できたと思えるものでないと送っちゃいけないと思ったし、深く考えると、自分がいいと思ったものに対して「お前はこんなものをいいと思ってんのか?」と反応をされたとしたら信頼も失うことになる。だからそのときに自分は何を作るべきなのかを、いろいろ深く改めて探るようになったんです。

[[SplitPage]]

カール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。









Hiroshi Watanabe

MULTIVERSE


Transmat/UMAA Inc.

TechnoHouse



Amazon


ニューヨーク時代にハウスを追求し、カイトではアンビエント的な要素もいれつつ、より多様なエレクトロニック・ミュージックをやっていたと思うんですけど、それとは別のコンセプトが必要になってきたときに、何をどうやって考えたんですか?

HW:〈トランスマット〉で選ばれてきた音楽もしっかり一通り聴き返したんです。純粋に改めて「デトロイト・サウンドって何だろう?」という観点から作っても、ヒップホップやガラージ・ハウスを真似するのと結局同じことになってしまう。そんなことでは絶対にダメだし、そんな方向をデリックが求めていないことはハナっからわかってたんです。とはいえ、カイトのまんまやることはぼく自身が納得できなかった。それは〈コンパクト〉や他のレーベルでやればいい。やっぱり〈トランスマット〉から出すのであれば、その歴史の名に恥じないものを作らなきゃいけない。ぼくが好きなカール・クレイグやケニー・ラーキンのような不動で唯一無比なデトロイト作品はすでにあるわけだし、DJでもかけてきました。でも過去に曲を作る上でデトロイトを意識したことは一度もなかったんですよね……。
 例えばグレッグ・ゴウ(Greg Gow)やステファン・ブラウン(Stephen Brown) とか、マイクロワールド(Micro World)、特にジョン・ベルトランなんかはめちゃめちゃメロディアスで、ディープで綺麗で繊細だし。デリックのすごくホットなDJプレイのシーンだけじゃなくて、彼自身の音楽の好みや〈トランスマット〉が歩んできたルートを紐解いていけば、そもそもなんでカイトにシンパシーを感じてもらえ、DJでも使ってくれている理由とかもより明確にわかってきたんですね。

自分の武器が何なのかがわかってきたということ?

HW:そういうことです。ぼくが何かに合わせるということよりも、自分が本来持っているものの何をデリックは見ていたのかを、自分でもう一度探し求めたといいますか。

今回のアルバムは、いままでのヒロシ・ワタナベ作品のなかではもっとも感情に訴える音楽ですよね。それが大局的な意味で言うところのデトロイティッシュなものですよね。ブレインでもボディでもなく、エモーションに行くっていうね。

HW:タイトルや曲の情景が出来上がるにつれて、自分が導かれていく場所はタイトルが示しているものだってわかっていきました。生きている意味だったりとか、自分が生かされている場所だったり、そんなところまでさかのぼって音に気持ちを込めざるをえなかったんです。もちろんアルバムの2曲目を聴いてみると、自分がニューヨークで体験したことが現れていたりするんです。野田さんのライナーにも書いてくれていましたけど、逆に“Heliosphere”なんかはデリックが好きなカイトのテイストだと思うんです。アルバム全体には自分のいろんな部分が散りばめられているんですよね。

そういう意味でいうと、ヒロシ・ワタナベがいままでやってきたことが集約されているんだけれども、やっぱりデリック・メイに火をつけられた部分というか……

HW:40半ばで心が少年になっちゃったんですよね。一度もレーベルから出したことのない時代にさかのぼって、気持ち的には本当にあの頃に戻っていたというか……。あの頃って、本当に血眼になって楽曲を作っていたというか……。

デリックとヒロシくんの関係がはまったんだと思います。たとえば“The Leonids”という曲は、本当に素晴らしい曲ですね。

The Leonids (ele-king exclusive preview)
https://soundcloud.com/kaito/the-leonids-eleking-exclusive-preview/s-wpIVz

デトロイティッシュであなりながら、ヒロシ・ワタナベらしい繊細さ、ソウルフルな展開……。

HW:人種を飛び越えたところでのソウル・ミュージックって何だろうって考えましたね。「特定の生まれもったルーツがないとソウル・ミュージックとは言えないのか?」と。言葉がないダンス・ミュージックってそういうところを越えていけるような、ものすごく特殊な音楽だと思うんです。本当の意味で魂や人種を飛び越えることが、どのように音が変換されていくのかを見てみたかったんですよ。

それもデトロイト・テクノの重要なコンセプトでですね。例えば、ケンドリック・ラマーというヒップホップのひとがいて、ぼくはいま大好きなんですけど、彼はソウルやファンクもちゃんとわかっていて、ジャズやフライング・ロータスのような最新のエレクトロニック・ミュージックも取り入れている。なによりも弱き者たちへの力強いメッセージもある。しかし、そこで主に参照されるのは、やはり自分たちの内なる文化、アフリカン・アメリカンの文化なんですね。
 デトロイト・テクノのすごいところは、彼らは自分たちの内側だけを参照しないところなんです。ヒロシ君もよく知っての通り、自分たちの内なる文化を誇りとしながら、ヨーロッパであるとか、他の文化にどんどんアクセスする。90年代にぼくが初めてデトロイトへ行ったときに、友だちの車で最初に流れたのがエイフェックス・ツインだったんですね。ぼくにはものすごい先入観があったんですね。黒人はエイフェックス・ツインを聴かないだろうっていう。しかし、真実はそうではなかったんです。デトロイト・テクノは、アフリカン・アメリカンであるということだけでは完結できないんです、そして、それを彼らは“未来”と言ったんですよね。
 どこまでデリックが意識しているのかわからないけど、〈トランスマット〉は早くから、アラブ系とか、中国系とか、アメリカ人でも主要ヨーロッパの人たちでもない人たちの曲を出していますよね。しかも彼は、日本のことが大好きだから、もっと早くに日本人の作品を出したかったかもしれない。だから、ヒロシ・ワタナベの作品を出せたことは、彼自身も嬉しかったんじゃないのかな。あるいは彼は気まぐれな男だし、商業ベースでレーベルを運営していくタイプでもないんで、出会いのタイミングもあったとは思うけどね。ちなみにこの「マルチヴァース(Multiverse)」というタイトルですけど、これは人種を超えた何かを表しているんですか?

HW:そうです。次元を飛び越えたところで、自分たちが存在する意義とは何かと。音や自分が生きてきた証のなかで、しっかりと正々堂々と繋がってこれた関係性でもあるわけじゃないですか。そういうなかで、もっと飛び越えた次元で自分が生きていることが最終的にどんな証になるのか、この機会に自分の気持ちを盛り込まなきゃと思ったんです。

どこで意識されたのかわからないですけど、世界情勢をみると、それはタイムリーなメッセージですね。アメリカもヨーロッパもすごく難しい時期にきていますね。もちろん日本も。

HW:本当はもっと飛び越えていかなきゃいけないんですよね。みんな本当のところはわかっているんだから。

DJカルチャーの重要さもそこにありますよね。さっきのギリシャの話もそうだけど、ぼくたちは日本に住んでいるけど、ムーディーマンのDJを通じてデトロイトのインナー・シティのソウル・ミュージックを聴くこともできる。南ヨーロッパの辺鄙な街で生まれたハウス・ミュージックを聴くことができる。大げさに言えば、普段は出会うことがない文化にDJを通して触れることができる。DJはある意味では文化の運び屋なんだけど、同時に文化をミックスすることもできるんですよね。

HW:音楽というところで繋がっているひとたちは、DJに限らずいろんな国や人種にふれたときに、問答無用にひとつになれることを体感しているわけじゃないですか。それこそ僕たちが地球全体で抱えている問題って実はすごくシンプルで、人種なんか関係ないはずです。ところが、国が大変になってくると、政治や宗教が原因でいろいろな事件が起きる……そういう意味では、ぼくがいま感じられることは注ぎました。野田さんの素敵なライナーもありがとうごいました! ぼく自身のメッセージもあえて添えましたし、きっとトータルで音や言葉からそれらを感じてもらえると思います。

OPNとFKAツイッグスがコラボ!? - ele-king

 どこまで交友の輪を広げるつもりなのでしょうか。「ともだち100人できるかな」とでも言わんばかりに、またしてもOPNが新たなコラボレイションを仄めかす映像を公開しました。お相手はなんと、FKAツイッグスです。ふたりはそれぞれ、同じ2秒ほどの短い動画をインスタグラムに投稿しています。今後のふたりの動向に注目です。

https://www.instagram.com/p/BEG-PMYDhxq/

https://www.instagram.com/p/BEG-bpSC-rv/

@eccojams_が投稿した動画 -

Susumu Yokota - ele-king

 ダンス・カルチャーとは朝まで踊ること。いちどダンスフロアに出たら水分補給以外はフロアに居続けること。現実には起こり得ないと思っていたことが目の前で起きていること。知り合いと会うと、いや、初めて会ったひとともハグしあって、「愛してるよ~」と真顔で言い合うこと。気持ち悪いよなぁ、でも当時はそれが普通だった。で、明け方、帰るときに(踊りすぎで)膝がガタガタになっていることに気がつくこと。ダンス・カルチャーとは朝日がやたら眩しいこと。あるいはトイレ付近で……(これ以上は書かないでおこう)。
 あの地下の階段を下りるときいつもドキドキした。今夜は何が起きるんだろう、明け方にはどうなっているんだろうと思ってドアを開けた。クラブはビールを片手に談笑する場ではなく、ただ無心に踊る場であり、クラバーはDJを見るのではなくお互い(もしくは宇宙)を見ていた。これが1992年から1994年の東京の週末に起きていたことだった。

「ダンス・カルチャーとは、ラジカルに対立するふたつのレイヴすべてに関する事柄が一体化されたものである。ひとつ、トランセンデントラル(超越的)で、ネオサイケデリックかつより高次な意識の論述──ヒューマニティ/ガイア/宇宙が結合する海。もうひとつ、エクスタシーとレイヴ・カルチャーがせき立てる10代の安っぽいスリルのラッシュ・カルチャー……」サイモン・レイノルズ『Generation Ecstasy』

 この狂騒の季節において欧州(とくにUKとドイツ)の主要都市では、多くの記録者(プロデューサー)が多くのドキュメント(作品)を残しているが、横田進は東京において数少ない記録者のひとりだ。この度サブライムから再発された『Acid Mt.Fuji』は彼の代表的な記録のうちの1枚。1994年の作品である。
 じつはこの前年のEBI(海老)名義のアルバム『Zen』(ベルリンのスペース・テディからリリース)やFrankfurt-Tokio-Connection名義の諸作(フランクフルトのハートハウスからリリース)の頃がダンス・ムーヴメントのピークだったので、『アシッド富士山』はその第一段階の最終章と言える。メロディ重視の曲作り、ささやかなアンビエント・タッチは熱から冷めようとする次の季節の予兆ともいまとなっては言えるが、まあやはり、『アシッド富士山』(というタイトル)であることは誤魔化しようがない。再発されたこのCDには、1994年6月の伝説のライヴが収録されているが、それは狂騒の季節の記憶の断片、それ以外の何ものでもない(そういう意味では貴重な音源)。
 ぼくは1995年の『Metronome Melody』を評価している。透き通った音色の綺麗なメロディ、それが横田作品の最大の魅力だったと思っているからで、実際の彼も物静かで耽美的な人だった。しかし本来ならダンスしなかったそういうひとたちもダンスなしではいられなかったのが1992年~1994年の東京のアンダーグラウンドだった。あれは何だったんだろう……何年も経って、いろいろな人がさまざまなことを考えている。ある海外の批評家が、あれは、社会のさまざまなプレッシャーから集団まるごと解放されてしまった状態であり、ゆえに当たり前だと思っていたことがじつはプレッシャー(抑圧)だったと気づいてしまったと、よってノンポリ集団が社会とリンクしていくのである云々と分析していたことがあったけれど、それはたぶん正解で、たぶん間違ってもいる。

 去る3月27日は横田進の一周忌ということで、生前につきあいのあった人たちが集まった。その会場となった渋谷のクラブ・ギャラクシーに向かう途中で、桜を見ながら、ああ、横田さんはこんなに桜が綺麗なときに亡くなられたのか、そういえば彼の最高傑作の1枚は『SAKURA』というタイトルだったな、と思った。

interview with Yeasayer (Ira Wolf Tuton) - ele-king


Yeasayer
Amen & Goodbye

Mute / Traffic

PsychedelicIndie Pop

Tower HMV Amazon

 イエーセイヤーは、とくに世界的なヒットとなった『オッド・ブラッド』以降はポップ・フィールドでサイケデリックを追求してきたバンドだ。それはMGMTやドードースがそうであるようにサイケデリックであり、また、ヴァンパイア・ウィークエンドがそうであるようにエキゾチズムを内包している。以下の発言ではアラン・ローマックスからジョン・コルトレーンにまで言及されているけれども、彼らは学究肌でもスピリチュアルに突き抜けるでもなく、トライバルな意匠をあくまでポップに扱いつづけてきた。その少しねじれた感覚は、このインタヴュー冒頭においていくつかの質問への回答が絶妙にかわされていることにもあきらかだろう。登場こそブルックリンのアンダーグラウンドだったものの、彼らはアニマル・コレクティヴやギャング・ギャング・ダンスとも、あるいは、初期のレーベルメイトであるポニーテールらのエクスペリメンタリズムとも別の道を行った。そして参照点は異なれども、もはやフレーミング・リップスやオーウェン・パレットなどにこそ比較すべきストレンジ・ポップの旗手となりつつあるのかもしれない。

 『オッド・ブラッド』よりも抽象性とダンス要素を上げた『フラグメント・ワールド』から4年、今作『エイメン&グッドバイ』はアートワークにデイヴィッド・アルトメイド(ニューヨークで活動するカナダ人彫刻家)を加えていることにまず目が行くが、ジャケットにあふれている乱雑で多様な意匠のせめぎあいは、彼らの音楽の在り処としてとてもしっくりとくる。そしてこの一見無秩序な要素の中から、彼らにとっての中心はここだといわんばかりに歌と旋律が立ち上がってくるのは感動的だ。“アイ・アム・ケミストリー”にはスージー・ローチェ(ロバート・フリップのプロデュースでデビューした三姉妹コーラス・グループ)がフィーチャーされているが、子どもの声かと錯覚するそれは、アルバム全体から奇妙な歌の力を引き出しているように感じられる。こうしてみると、イエーセイヤーが歌や旋律の引力に魅せられてきたバンドであったことにあらためて気づかされる。
 それではこのタイトルも奇怪なポップ・アルバムについて、ベースのアイラ・ウルフ・トゥートンに訊ねてみよう。

■Yeasayer / イエーセイヤー
NYブルックリンのインディ・ロック・バンド。クリス・キーティング(Chris Keating Vo/Kb)、アナンド・ワイルダー(Anand Wilder G/Vo/Kb)、アイラ・ウルフ・トゥートン(Ira Wolf Tuton B/Vo)、2007年に『オール・アワー・シンバルズ(All Hour Cymbals)』でアルバム・デビュー。ベックのツアー・サポート等を行い、2010年には〈ミュート〉移籍第一弾のセカンド・アルバム『オッド・ブラッド』をリリースし、同年フジ・ロック・フェスティヴァルにて来日。2013年にサード・アルバム『フレグラント・ワールド』をリリース。同年、初の単独来日公演を行う。

シェイプノート唱法、シェイカー・スピリチュアル、ミサ・ルバというコンゴの合唱団、それにバルカンの合唱音楽など数例を取っても、すべての伝統的ヴォーカル音楽が僕らを惹きつけたんだ。

エキゾチズムはあなたがたが初期から持っている特徴だと思います。これはイエーセイヤーのひとつのテーマととらえてもよいのでしょうか?

アイラ・ウルフ・トゥートン(以下アイラ):僕らはいつもたくさんの異なったかたちや過去やいまの様式を組み合わせるようにしているし、そうしたいと思ってるんだ。その中でお互いを活かしあって、しなやかでまがい物でなく、コンテンポラリーなサウンドになるように努めてるよ。

そうしたものは、専門的な民族音楽へのアプローチを通してではなく、あくまでポップ・ミュージックとして表現されていると感じます。純粋な民族音楽の表現にはあまり興味がありませんか? また、とくに興味を寄せている地域の音楽はありますか?

アイラ:アラン・ローマックス(Alan Lomax)の作品に関してはバンド結成前にメンバー全員がそれぞれいっぱい聴いたね。シェイプノート唱法、シェイカー・スピリチュアル、ミサ・ルバというコンゴの合唱団、それにバルカンの合唱音楽など数例を取っても、すべての伝統的ヴォーカル音楽が僕らを惹きつけたんだ。
 それから、僕らは映画音楽にも多大な影響を受けてきている。その(音楽的)解釈や録音物を通して、通常だったらそんなにたやすく出会うことのない伝統なんかに、一足飛びに触れることができるんだ。早坂文雄は好きで印象に残っている。彼はまだ幼い頃の僕に世界の扉をひとつ開けてくれたんだ。

地理的にもそうですが、時代的にも大胆な混淆を好まれているように見えす。“チャイルド・プロディジー”などはわかりやすい例かもしれませんが、とくに脈絡なく突然バロック音楽が参照されたりもしますね。このようにいろいろなものが混ざるのはなぜなのでしょう?

アイラ:思うにそれは音楽に対する一つのアプローチ手段だよ。僕にとっては、美しさ、それに音楽制作にチャレンジすることも無限の可能性の中に存在している。そのかけら(可能性)さえも完璧に掴むことはできないけど、むしろ自分のあらゆる理解力を養ったり拡げるため、また、時には別の伝統で自分の最高の声をより理解するために、すべてのことは可能だと知るほうがいいだろう。

僕の好きな音楽は、いま生きているこの世界を見るためのレンズとして機能するような音楽なんだ。僕らは懐古主義になろうとしたことは一度もないよ。

こうした音楽性には、実際に世界の現在の状況や未来についてのヴィジョンが重なっていたりしますか?

アイラ:僕の好きな音楽は、いま生きているこの世界を見るためのレンズとして機能するような音楽なんだ。僕らは懐古主義になろうとしたことは一度もないよ。

前作『フラグメント・ワールド』などは、そのタイトルがまさにあなたがたの音楽を示唆するようにも思われます。ダークでモノトーンな印象ながら、とてもリズム・オリエンテッドなダンス・アルバムでしたよね。今回は、対照的に楽曲性の高いものになっていると思いますが、これは意識された差なのでしょうか?

アイラ:僕らは毎回アルバムでは異なったアプローチをしている。個々人が変わるのと同じように、友人関係もそう、愛や家族、影響を受けるものや環境もそう、挙げていくとそのリストはずっと続くよ。どの作品であれ意図的に過去にやってきたものと同じようなものをリピートして作るのは不誠実だと感じるんだ、だってその間僕らの周りはめまぐるしく変わってるんだから。

お答えいただけるみなさんそれぞれにお訊ねします。あなた方が考える意味でもっともエキゾチックだと思う作品(音楽でも映画でも小説でもなんでも)と、もっともドリーミーだと思う作品を教えてください。

アイラ:僕がもっともインスピレーションを受けたのは個人で、彼らは完全に自身のアート、創造そして愛に身を投じていて、それは普通では到底できないことのようだ。『ジャイアント・ステップス(Giant Steps)』から『至上の愛(A Love Supreme)』『クル・セ・ママ(Kulu Se Mama)』までのジョン・コルトレーン。ボウイ(David Bowie)はいまでも忘れられない。グスタフ・スティックリー(Gustav Stickley)、ドビュッシー(Debussy)、ジョージ・ナカシマ(George Nakashima)、ショパン(Chopin)、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies Van Der Rohe)、ジョン・ミューア(John Muir)……と、挙げていくと止まらなくなるよ。
 僕が夢見るのは自分の住むキャストヒルにある湖のことだね、毎日それぞれ少しづつ違う表情を見せるし。自然界のほうがより自分にとっては夢のようなものになってきているよ。

『オール・アワー・シンバルズ』をミックスした場所はいまやジェイクルー(J Crew)というブランドのデパートになってるね。そう、ブルックリンは変わってしまった。

『オール・アワー・シンバルズ(All Hour Cymbals)』の頃から聴いています。当初は「ブルックリン」というキーワードとともにあなたがたの音楽を知りましたが、あなた方自身は当時「ブルックリン」で起きていたことをどのようにとらえていましたか?

アイラ:『オール・アワー・シンバルズ』をミックスした場所はいまやジェイクルー(J Crew)というブランドのデパートになってるね。そう、ブルックリンは変わってしまった。まだ巨大な都市だけど。カルチャーやアート・スポットはもっと遠くの郊外に移ったみたいだよ。でも悲しいのは僕らが当時知っててよく通ったいくつかのクラブやアパート、リハ用の場所や溜まり場がブランドやインスタントな建造物にとって代わったことだね。もっと頭にくるのは、金のある企業の取り繕ったようなサマで、すぐに乗り替わってブランド企業の取り巻きになったこと。しかし、僕らはこの年の過剰開発を止める第一世代にはならないだろう。理由として、世代に限らずニューヨークの過去を懐かしむ心が強いのは、都市の変化のスピードがいつの時代も急速だから。そこはコンスタントに建造物を建て、破壊する都市なんだ。

あの頃と比べて、時代が要請している音にどのような変化があったと思いますか?

アイラ:思うに音楽の消費のされ方が変わってしまったね。インターネット上のコンテンツ増加を通して、いまや誰でも自らの手でブランディングをできるようになったから。僕らは手っ取り早く、より自分と同質で安全なものに近づき、恐ろしいものにも近づいている。前者はすぐに消え去るようなつまらないカルチャーであり、後者は、仲間や会社、政府の監視を認識したり受け入れたりすることによって生じる個人の権利への不安だね。

今作のアートワークにデイヴィッド・アルトメイド(David Altmejd)さんを起用したのはどのような経緯ででしょう? また、人体やとくにその頭部の表現に特異な方法を持っているアルトメイドさんですが、彼の作品とイエーセイヤーとの音楽の関連をどのあたりに見られますか?

アイラ:デイヴィッドが僕らといっしょにやりがってくれてたんだ。彼のようなヴィジョンを持ったアーティストが僕らの作品を解釈し、また違った視点から彼の作品として表現してくれるなんて、光栄だったよ。

“アイ・アム・ケミストリー(I AM CHEMISTRY)”のMVもじつにインパクトがありました。子どもたちのコーラスが挿入されているのは、テーマやコンセプト上での必要があったからでしょうか?

アイラ:あのヴィデオはマイク・アンダーソンの作品で、ニュー・メディア・リミテッド(New Media Ltd)が手がけたものなんだ。いつもながら、才能ある人たちと仕事をするのは僕らの世界観を広げてくれてすごく興奮するね。あのコーラスは実際ザ・ローチェス(The Roches)のスージー・ローチェの声を目立つようにフィーチャーしてるんだ。レコーディングの過程で女性のパートを意識して作った部分で、実際、女性の声が必要だと感じたんだ。スージーと彼女のバンド(彼女の二人の姉妹とともに)から僕らは多大な影響を受けてきたから、彼女といっしょにやるのはとても光栄だったよ。

ミュートが僕らにアドバイスしてくれたのはプロデューサーといっしょに仕事すること。

アルバムを重ねてこられる中で、よりポップに感じられるもの、より複雑な音楽性をもったもの、それぞれに特徴があったと思います。〈ミュート〉への移籍はアルバム制作の上でどのような影響があったでしょう?

アイラ:ミュートが僕らにアドバイスしてくれたのはプロデューサーといっしょに仕事すること。それはいままで僕等がやってこなかったことで、やろうとも思ってなかった。しかし数度の失敗を経て、僕らが出会ったのがジョーイ・ワロンカー(Joey Waronker)、彼は自然と僕らの作業プロセスに馴染んでくれて、思うに気分的にも盛り上げてくれた。彼は4番めのメンバーになってくれて、いままで見れていなかった音楽的なポイントのいくつかを埋めてくれたね。

“ハーフ・アスリープ(Half Asleep)”などのようにテクスチャーを優先したサイケ・ナンバーと“デッド・シー(Dead Sea)”などビートが優先される曲では制作の過程はまったく異なるものでしょうか?

アイラ:僕らがトライしているのは、曲それぞれに異なった、その曲に正直なアプローチなんだ。だいたいにおいて、もし2つの曲で同じアプローチやお題があるとしたら、そのうちの1つは削ることになるだろう。君が言った2曲の制作上の違いは、僕ら3人から生まれるまさに(それぞれの曲で)異なったパーツの組合せから作り上げられた、ひとつの結果だね。

今回のアルバム・タイトルでもある「エイメン・アンド・グッドバイ(Amen & Goodbye)」ですが、これは誰か(何か)に向かって投げかけられた言葉なのでしょうか? 表題曲がニューエイジ風の短いトラックだったことで、謎かけのようにも感じられます。あなたたちが何かに決別したということですか?

アイラ:だいたいにおいて、僕らが決別したのは時間と諍い事、そしてこのアルバムを作るためにかかった手順だね。そうたくさんのことと決別したよ。

僕がいま注目してるのは、いくつかのLA関連のもので、ケンドリック・ラマー関連やサンダーキャット周りのミュージシャンたちかな。

“ユーマ(Uma)”などは壊れた懐メロといった雰囲気を感じました。あなたがたの音楽には時折古風なポップ・ソングの片鱗も現れますが、これはとくにあなたがたのうちの誰の資質によるものなのでしょう?

アイラ:アナンドが“ユーマ”に、より70’sロックのアレンジのテイストを持ち込んだんだ。グループ的にもそっちのほうがおもしろそうだったし、もともとのララバイにするよりも、もっとコラージュした感じでジュークボックス的、それに子どもっぽい感じのアプローチのほうがね。僕ら的には初めてドラムスもパーカッションも使わなかった曲で、そういうふうに極端に振れることが重要だったんだ。

ライヴ・パフォーマンスにも定評のあるみなさんですが、今回のアルバム・コンセプトはどのようにライヴに反映されているでしょうか?

アイラ:ちょうどいまそれに取り掛かっているところさ。僕らにはライティングなどショウを組み立ててくれるアーティストの友人がいて、アルバムをライヴ用に組み替えているところなんだ。このプロセスは実際すごく楽しくて、早くその完成形を見せたくて仕方がないよ。

現在の音楽シーンのトレンドを意識することはありますか? どんなものをトレンドだと感じていますか?

アイラ:僕がいま注目してるのは、いくつかのLA関連のもので、ケンドリック・ラマー関連やサンダーキャット周りのミュージシャンたちかな。いま現在起きているミュージシャンたちのフレッシュな動きを見るのはいいと思う。だけど僕がよく聴いてるのはオスカー・ピーターソンで、そんなにトレンドを追ってはいないよ。

結成から10年になります。これからの活動として意識的に話しあっている目標などはありますか?

アイラ:未来に生きるほど危険なことはないよ、いまだけを生きるようにしてるよ。

Fatima Al Qadiri - ele-king

 ただのグライム。ファティマ・アル・カディリならそう言うだろう。そこに枕詞を付け足す必要はない。「元々あった呼び名で十分だったのに」と、フューチャー・ブラウンの一員として彼女は昨年のインタヴューで答えている。アンビエント・タッチのグライムは昔からあったのであり、わざわざそれをリ・ブランディングする必要などない、と。
 とはいえ彼女の前作『エイジアティシュ』が注目を集めたのは、単にその「想像上の中国」というコンセプトが、グライムの上モノにときおり現れるアジア趣味(シノグライム)の受け皿となって、西洋文化に潜む東洋への欲求をうまい具合に満足させたから、というだけではない。低く唸るベースとヴォーカル・ドローンとの共存によって特徴づけられた『エイジアティシュ』は、ベース・ミュージックであると同時にアンビエント・ミュージックとしても成り立っていた。オリエンタルな意匠の下にグライムとアンビエントとを同居させてみせたこと、やはりそこにこそファティマ・アル・カディリの面白さがあったと言うべきだろう。

 セカンド・アルバムとなる本作でも基本的にその路線は踏襲されている。悪く言えばサウンドの上で大きな変化はないということだが、明確に前作にはなかった要素もある。それはメッセージ性だ。彼女は同じインタヴューの中で「フューチャー・ブラウンの政治的関心をひとつ挙げるとしたら?」という問いに対し、「警察の残忍性について」と答えている。本作のテーマは、ジョシュ・クラインの彫刻が大きく掲げられたアートワークからも窺えるように、近年合衆国で多発している警察による過剰な暴力の行使である。
 いくつかタイトルを並べてみよう。「血色の月」、「外出禁止令」、「集中砲火」、「地下牢」、「崩壊」、「権力」。これらの語が差しあたって映し出しているのは、いまアメリカで実際に繰り広げられている壮絶な暴力行為だ。そういう意味でこのアルバムは、アティテュードの面で最近のビヨンセと共振しているとも言える。
 だがさらに言ってしまえば、本作が告発しようとしているディストピアは必ずしもアメリカ国内に限定されるものではない。アル・カディリの出身地がクウェートであることを思い出そう。「軍隊の警察化」や「警察の軍隊化」が主張されるようになって久しいが、その転換期にあたる湾岸危機当時、彼女はまさにイラク軍による占領下で幼年時代を送っていたのである。このアルバムには彼女のそのような過去も色濃く反映されているように思われる。つまり本作は、「ブラック・ライヴズ・マター」からパリ同時多発テロやシリアの騒乱までをも射程に含んだ、怒りと絶望の音楽なのである。

 ハードな現実を直視するという意味で、本作はたしかに正統なグライムだ。彼女の言葉で言えば、ただのグライムである。それなのにこのアルバムでは、グライムの大きな要素の一つであるラップという手法が用いられていない。ニュース番組や引退した巡査部長の発言などがサンプリングされてはいるものの、それらはあくまで装飾の域に留まっている。つまり、本作には明確なメッセージ性があるのにもかかわらず、それが直接的に主張されることはないのである。フューチャー・ブラウンのように、やろうと思えばMCをゲストに迎えることだってできたはずだ。だが彼女はそうしなかった。それには彼女の音楽のもう一つの重要な側面であるアンビエントが関わっている。
 アンビエント・ミュージックには、通常は聴く必要のないものとして意識からシャットアウトされている音を強制的に顕在化させるという機能がある。ベッドルームでアンビエントを流しながらうとうとしたことのある者ならば一度は体験したことがあるであろう。風が窓を叩く音、車が外を走る音、換気扇が回る音、衣服が擦れる音、自分が呼吸する音、そういう普段は意識から排除されている様々な「ノイズ」が際立って耳に入ってくる瞬間を。
 アル・カディリはこのアルバムで、そのようなアンビエントの効果を音以外の事象にまで拡張させようとしているのだ。仕事に忙殺されている人びとに、エンターテインメントに熱中している人びとに、恋愛のことで頭がいっぱいになっている人びとに、かれらの意識からシャットアウトされている現実──いま合衆国で、世界中で起こっている悲惨な出来事──へと一瞬でも注意を向けさせること。
 要するにこのアルバムは、あなたのオフィスやあなたのベッドルームと、実際に暴力行為が発生している海の向こうの現場や戦場そのものとを、直接的な手段を用いずに接続しようとする試みなのである。だから彼女の言葉に逆らって言おう。これはただのグライムではない、と。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495