「Noton」と一致するもの

あふりらんぽ - ele-king

 あふりらんぽの新作は本気で凄い! これまでとは比較にならないほどの傑作だと思う。アルバム・タイトルも"WE ARE UCHU NO KO"だけど、これまで多くのミュージシャンたちがコンタクトしてきた宇宙に簡単に繋がっているというか、彼女たち自身が宇宙だったというか。自分たちの言葉とリズムで天真爛漫に音楽を奏でているだけのようなんだけど、すごく神々しくて、どデカイ。このふたりはきっと、八百万の神のどれかにちがいない! ......なんて結構本気で思った(笑)。

 本人たちの話によると3~4年前には作ろうとしていたものが、オニの出産などもあり、いまにずれ込んだものらしい。曲自体はかなり以前からあったものばかりで、ライヴでもやっていた。録音は、これまでのような一発録りに近いものではなく、楽器ごとにレコーディングされ、しっかり作り込まれたものだ。2枚組のアルバムで、オリジナルの7曲がディスク1に。そしてオニとピカ、それぞれのソロ作品の曲をふたりで演奏してZAKがミックスしたものがディスク2に収められている。

 以前までのプリミティヴなガレージ・ロック風に加えて、2年半前にリリースされた『ズートブレイコー』でみせたフリー・フォームな世界もそれぞれ発展しながら、しっかり各曲に落とし込まれている。ジャーマンなヘヴィ・メタル風のM-1"ミラクルラッキーガールズ"、サイケデリック・ガレージなM-2"それがあふりらんぽ"、MC5風のヘヴィなロック・ナンバーM-3"東西南北"、トライバルmeetsサーフなエキゾチック・チューンM-4"海"、南国の民謡風なM-5"エゴロ島"......と、カテゴリーに当てはめて語ることも可能だが、いずれもそのキーワードはあくまでキーワードでしかなく、"ザ・あふらんぽ"としか言いようのない、ふたりの天真爛漫な個性によって別モノと言えるようなものになっているところがすごい。

 とくにその究極だと思えるのが、11分を超えるスケールでいち大ストーリーを綴ったM-6"ワイトゥ"。田んぼのある日本の原風景で"雨よ降れ"と歌い踊る子供たちの姿が冒頭で浮かんでくるようなこの曲は、彼女たちにズッパマリ。ふたりがよく喩えられるような"巫女"を超えて"座敷童子"とか何かの精霊のようなものを連想してしまう。

 そしてディスク1のラスト、M-7"ヤーヤーエー"は大団円としてエンディングとなる曲だ。ソロ作品を経た後のふたりによるピースフルな楽曲といったところだろうか。

 そして、実はこっちのがほうがすごい、ディスク2。前述の通り、それぞれのソロ・アルバムの曲をふたりで演奏したものなのだけど、これが泣ける泣ける。2枚のソロ作も本当に素晴らしかったが、その感動がさらにスケール・アップして表現されている。もう、母性というか、宇宙なのか、愛が溢れまくっていて、聴いていると浄化されていくよう......。さらにさらに、そこにロックの衝動もしっかり注がれているのがあふりらんぽ。いろんなものがこみ上げてきて、「うお~~~~~!」と大声を挙げたくなるのは筆者だけではないと思う。

ミドリ - ele-king

 「ひと皮むけた」「よりポップになった」というのが一聴したときの感想。音楽性はさらに広がり、ひとつひとつの完成度の高さもダントツだし、後藤まりこの歌もこれまでに増して魅力的だ。オフィシャルの資料にある「最高傑作」というのは間違いないだろう。ゼロ年代のネクストも感じさせる重要な作品だとさえ思う。セーラー服はもっと前に脱いでいてもいいと思っていたが、もはやどんなギミックも必要ないほどバンドは次の段階へ進んでいる。

 今回の新作『shinsekai』は、3人のエンジニアが録音を手掛け、ミックスは5人が担当している(うちひとりは後藤まりこ)。ミックスをやり直したりヴォーカルや演奏を差し替えたり、じっくり時間を掛けてレコーディング作業がおこなわれたという。

 ご存知のようにミドリには、クラシック出身のピアニストとジャズ出身のベーシストがメンバーにいる。そういった音とともにノイズ・ギターも、そしてときに邦楽的なドラミングも等価なバランスでミックスされる独特なものだ。その4人のセッションは直情/衝動的で、ともすればノイズ的なものになることさえ多かった。

 が、新作ではそうしたひとりひとりの個性がうまく共存しているというか、収まりがいい。それは音の抜き差しが丁寧になされているとか、お互いの音を尊重し合っているということだと思うが、個々の際だった個性はしっかりと発揮しつつ、うまく曲のパーツとして組み込まれているのだ。つまり衝動的でノイジーな曲も、今回は聴きやすい。つまり、ミドリのアクの強さといったものが、きちんと整理されたうえで再提示されたのが新作『shinsekai』の特徴ではないだろうか。ぼくがこの作品に感じる"ポップ"とは、そうしたミドリの強烈な個性を自ら"客観視"しているような感覚だ。


 そうなるとバンドは強い。キャッチーな展開を試みてもバンドの個性は揺るがない。もともとは「歌謡曲のコピー・バンドをする」というきっかけで結成されたミドリだが、『shinsekai』ではいままで以上にJ-POP的なメロディを使っている。これまでも"おしとやか"な一面はあったが、それはどちらかというと"あばずれ"的な面と相反する飛び道具的な要素として機能していたような感じだった。これほどまでにヴォーカルが伸び伸びと歌っているのは初めてなんじゃないだろうか。

 もちろんバックの演奏は一筋縄ではいかない。後藤まりこのキュートなヴォーカルが眩しい"鉄塔の上の二人"は、キャッチーなサビ以外はエクストリームなジャム演奏だったり、"リズム"にいたってはブラスト・ビートが差し込まれる始末だ。それでもヴォーカルとバック演奏のあいだにまったく違和感を感じることはない。むしろ、その不思議な一体感にフレッシュな感動さえ覚える。ちなみに、この2曲はA.S.Eがミックスを担当。メンバーは「まるで作曲のようだったし、自分たちの新たな引き出しを開けてもらった」と語っていた。


 ミドリをはじめとするゼロ年代のバンドの特徴のひとつには、ロック以外の要素をどんどん取り込んでいく雑食性がある。その雑食性を咀嚼せぬままにアウトプットして、ただたんに奇天烈さをアピールするだけのようなバンドも多いが、この新作『shinsekai』はそうしたところから脱却して、それを新たな表現とするヒントがたくさんあるように思える。

Rob Walmart - ele-king

 さてと......。今回はなにがなんだかさっぱりわからない。パンサーやラッキー・ドラゴン、もしくはジャッキー・オー・マザファッカーの周辺からハニー・オウエンズやDFAへスウィッチしたヤクトなど曲者のリリースが多いポートランドのレーベルからアナログ3枚組み。99年に、やはり3CDで『メイド・イン・カナダ』というアルバムをリリースし、その後はRで『ブリッツクリーグ』『カムチャッカ』『ボーツ・アンド・ピアーズ』『ケイクモンスター』と、この10年でリリース量はそれなりにあるようで、マイ・スペースを見るとメンバーだという人たちの名前がずらずらと書いてはある。Tシャツはライオネル・リッチーの顔に「ROB」と書いたものが売られ、同じくアルバムのレーベルにはライオネル・リッチーに「ダブステップ」と書いてみたり。ウォルマートを名乗るだけあって......やめましょう。音だけに焦点を絞ろう。

 ひと言でいえば、ロウ-ファイ・ダブか。全23曲に共通していえることはそれだけで、最初の頃はザ・フォールをダブ・ミックスで聴いているようだなーと思っていると、緊張と弛緩が適度に混ざり合いながら、遊びとも実験ともつかない小品を山と聴かされ、後半のロング・インプロヴァイゼイションへ雪崩れ込む(200時間以上のテイクを編集したものだとか)。荒んだようなところはまったくなく、どこか真剣なものを秘めつつ、唐突にダンス・ミュージックに足を向けてみたり(スクラッチのクリシェを逆手にとった"ゾンビ・レイザー"は実に素晴らしい)、アーカイヴ型だといってしまえばそれまでだけど、どの曲もルーズでブヨブヨとしたムードは共通で、どこがいいんだろう......と思っているうちに、結局、全部聴いてしまうという...。気の抜けたカン、パンク気質を欠いたPiL、笑いのないジ・オーブ、しみったれたマッシヴ・アタック、展開のないビル・ラズウェル、覇気のないマウス・オン・マース、歌詞のないフィッシュマンズ、集中力のいらないサン・アロー......なにもかもがフェネスとは反対。やる気のない日に聴くとホントいい。眠気の嵐を描写したような"カンフェレンス・コールズ"、ジェントル・ピープルとデレク・ベイリーをダブで結んだ"ウイニー・ロースト・オン・バットファック・アイランド"、SEの洪水がたまらない"スペース・インヴェイド"......何をやってもバカバカC、誰と会っても疲れるだけ。今日一日寝ていられたらどんなにいいだろう。ずぶずぶずぶずぶずぶずぶずぶ......

Pocahaunted - ele-king

 「ドローンに祝福されたオルセン姉妹」......と冗談めかして彼女は自分たちを定義したことがある。ロスアンジェルスのイーグル・ロックを拠点に、アマンダ・ブラウンとベサニー・コセンティーノのふたりを中心としたポカホーンティッドは、2006年に〈ノット・ノット・ファン〉からカセットテープでデビューして以来、ドローンとフリー・フォークを基調とした実験的作品を実にたくさん発表し続けている。初期の頃はカセットテープやCDRがメインで、2年目からヴァイナルを出すようになった。

 2008年に〈ウッドシスト〉から出した12インチ「ペヨーテ・ロード」というタイトルが物語るように、彼女たちの音楽における実験と前衛は、おおよそフリークアウトを背景としていると思われる。早い話、ドラッギーな音楽で、彼女たちの残した大量のカセットテープとCDRはそのドキュメントであろう(だいたい1曲の演奏時間も長い)。いずれにしてもポカホーンティッドの実験性は、芸術家気取りの連中が得意な顔してやっているようなつまらないものではない......と思われる。

 2008年にヴァイナルとCDで出した『アイランド・ダイヤモンド』でダブ/レゲエの要素を取り入れた彼女たちだが、昨年の『パッセージ』ではふたたびドラッギーなドローンを試みている。が、そして、1年ぶりとなった新作(ロスアンジェルスのインディ・レーベル〈ノット・ノット・ファン〉からのリリース)では、フリー・フォークとドローンを通過したザ・スリッツとでも言えばいいのだろうか、まあ、そんな演奏になっている。ベサニー・コセンティーノが脱退し、アルバムには、しばし活動をともにしているロブドアー(Robedoor)のふたり(ひとりは〈ノット・ノット・ファン〉の主宰者)、そして西海岸のもうひとりのサイケデリックな妖婦、サン・アロウのキャメロン・スタローンズが参加している。

 そして......新作においては、何よりも「現実にしろ」というアルバム・タイトルが、過去の裸足でノイズを鳴らす彼女たちとの違いを暗示しているように思える。アートワークもPファンク的である。音楽にとって逃避主義は重要な要素だが、ポカホーンティッドは、しかし音楽がそれだけに回収されるのには抵抗があるらしい。

 とはいえ、僕には彼女たちの「現実にしろ」という言葉から広がるディテールを聴き取れる者ではない。できることと言えば......繰り返すようだが、ドローンとフリー・フォークを通過したザ・スリッツと喩えられそうなこの音を楽しむことぐらいだ(まあ、それだけでも充分か......)。アマンダ・ブラウンの声が力強く響く"タッチ・ユー"、ファンクとノイズのタイトル曲"メイク・イット・リアル"、彼女たち流のガレージ・サイケ"ユー・ドゥー・ヴードゥー"、そしてアルバムのクライマックスは、ぶっ飛んだスペース・ダブを延々と展開する最後の曲"セイヴ・ユアセルフ"......〈ノット・ノット・ファン〉を中心としたコミュニティにおける最新の成果はかつてのドローン状態とは打って変わってリズミカルに響いている。瞑想を止めて、ダンスに走っているようである。

films - ele-king

「ポスト-クラシカル」は、いま、売れるらしい。ポスト・ロック/エレクトロニカ系のディストリビューターと打ち合わせをしていたら、余談でそのような話になった。コリーンがきっかけだったのか、シルヴァン・シャボーだったのか。いずれにしろ10年ぐらい前からその辺りがじわじわと動き始め、いま、「ヨハン・ヨハンソンはスっゴい売れる」とも。たしかにヨハンソンは一時期、中古盤の数がハンパなく、それで揃えられてしまったほど。

 とはいえ、どうも食指がそれほど活発には動かない。ジム・オルークの『ザ・ヴィジター』も明らかにポスト-クラシカルの文脈に沿った内容で、スティーヴ・ピーターなどシカゴ音響派か、そのフォロワーがまとめてそちらに移動している印象も強く、実験性の行き所としては安易な印象もなくはない。ヨハンソンなどはたしかジーザス&メリー・チェインに影響を受けて......とか、そんなような人だったらしく、実際、『ディス』のように快楽性の高い内容のアルバムもあったりはするんだけど、評価されている部分はまったく異なり、やはり(ポスト-クラシカルというぐらいで)ストイックなほうが明らかに人気がある。その幼さもわからないではないけれど、まー、それに付き合うのは面倒くさいなーと。

 元々素養があったから不思議ではないけれど、ワールズ・エンド・ガールフレンドも「ポスト-クラシカル」の先駆として時々、名前が挙がる(ミュージアム・オブ・プレイトはまったく出ない?)。これはまー、なるほどで、そう思うとエイフェックス・ツインがフィリップ・グラスに興味を示した辺りをルーツとして考え直すことも可能に思えてくる。リチャード・D・ジェイムズにはレイヴから遠ざかろうとするアンビバレンツな感情が常に見え隠れしていたので、批評的な要素もあるだろう。あるいは、もっと音楽的な解釈もありうるのかもしれない......。

 そして、ワールズ・エンド・ガールフレンドを皮切りにカズマサ・ハシモトやミドリ・ヒラノらを送り出してきたミディ傘下のノーブルも「ポスト-クラシカル」のレーベルだったといえるし、これからもそうあろうとしている......ように見える。「メンバーの数もわからない」という触れ込みの新人、フィルムスのデビュー・アルバムは直球の「ポスト-クラシカル」といえ、辛気臭くも穏やかでゆったりとした世界観を丁寧に広げていく。レーベルからのインフォメイションには「厳かな」という形容が散見できたけれど、ゴシック風の重みはなく、ましてやバロック風の躍動感からも掛け離れ、強いていえばボーズ・オブ・カナダが中世音楽のダウランドをリメイクしたようなスタティックな音楽性に終始する。流れよ我が涙~フロー・マイ・ティアーズ......というアレですね。

 ちなみに「ポスト-クラシカル」というタームは日本独自のようで、欧米で「ポスト・クラシカル」というと、6世紀から10世紀ぐらいの中世期を指し、そういう意味でもフィルムスのやっていることは当たってはいる(欧米ではかなり長いレンジで「モダーン・クラシカル」という分類があり、それはそれでヘンな用語だなーと)。

 10年も続けば、しかし、裾野は相当に広く、層も厚くなっているし(スタジオ・ボイスがあれば特集もアリだったか)、昨年はじめのバルモーヒーのように見過ごせない存在もいることはいる。フィルムスも完成度は高く、ネクストを見せてくれないとは言い切れないものがある。

Various Artists - ele-king

 環ロイと二木信の対談を読みながら、制度化されたヒップホップということについて考えてみた。パンクでもハウスでもヒップホップでも、どんなジャンルでも時間とともに制度化される。制度化とは、この社会のなかでのある種の妥協点でもある。良くも悪くも......、そう、ホントに良くも悪くも......。

 しかし、東京の〈セミニシュケイ〉は「良くも悪くも......」などとは思わないだろう。そのアティチュードにおいて15年前のムードマンの〈ダブレストラン〉を彷彿させるこのインディペンデント・レーベルは、音楽が制度化に屈服することを許さない。音楽は不定型なまま流動的に変化し、その本来的な危うさを保ち続ける。決して"奴らの手"に渡さないのだ。

 彼らはいままで1枚の7インチ・シングル(やけのはら+ブッシュマインドによる名曲"Daydream"を含む)と1枚のコンピレーション・アルバム『Culture Expands The World』(08年)を発表している。それらは彼らが望むようにアンダーグラウンドなシンジケートによって確実に伝播しているようだ。仲間は増え、新たな音が生まれている。2枚目のコンピレーションとなる本作は、その成果と言えよう。

 レーベルの背後には3人のDJ/トラックメイカーがいる。昨年のSFPのシングルに参加しているスターバースト、自らをサイケデリック・Bボーイと形容するブッシュマインド、レーベル社長を兼任するドン・Kである。本作には、前回に引き続き――彼ら3人に加えてガバの達人DJ PK、彼らの精神的支柱であるアクト、女性DJのイレヴン、杉並区の最終兵器と言われるタック・ロックとソネトリアス、名古屋のトム、京都のデイドリームネーション、アブラハム・クロスのソニック、あるいはギルティ・Cやノー・ルール......といった面々が参加している。今回は新たに、C.I.A.ZOOのラッパーとして知られるハイデフとトノ、あるいは北海道のZZY、いま話題のメデュラのトラックメイカー/ラッパーのマス・ホール、ミステリアスなデッド・ファッキン・ニンジャ、そしてアメリカのミシガン州からはカク......といった面々が加わっている。全24曲、1枚のCDには77分詰まっている。ちなみに値段は1800円。ここにも彼らのメッセージが見て取れる。

 冒頭では最近素晴らしいアルバムを発表したばかりの六歌仙がラップをかましている。そして、ラウンジーで軽やかなブレイクビートを展開するスターバースト、ジャジーなフィーリングを弄ぶドン・Kやカク......まずはレーベルのピースな側面を見せる。で、ソネトリアスとふたりのラッパー(オーアイ& エラ)が彼らの気怠く煙たい日常を描写すると舞台は暗転、ポッセたちの薄汚れた素晴らしい世界が待っている。そして、イレヴンがダブの重低音を響かせれば......、ようこそ〈セミニシュケイ〉のドープな世界へ、というわけだ。ノー・ルールやブッシュマインド、ハイデフやトノ、デッド・ファッキン・ニンジャといった連中が待ってましたとばかりに彼らのタフなビートを叩きつける。アルバムは22曲目からレーベルのもうひとつの顔を見せる。それは深いサイケデリック・トリップだ。ソニックとデイドリームネーションが前作に引き続きその役目を見事に引き受ける。最後はドン・Kのやわらかいチルアウトで幕引きをする。

 個々のアーティスト名をチェックしながら聴くよりも、作者名など気にせず流しっぱなしで聴くほうがいい。牢獄のようなこの街のプレッシャーに打ち負かされることのない彼らの日々の音から"自由"が聴こえてくるかもしれない。それは清々しくもあり、ときに力強くもある。そして彼らの音楽が実はフレンドリーであることに気づくだろう。

オニ - ele-king

 「元始、女性は実に太陽であつた。」他にすがり、生かされている青白い月となってしまった女性なる存在よ、「私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。」
―平塚らいてう『青鞜発刊に際して』

『青鞜』発刊より99年が過ぎて、いまや女性は青白い月ではない。大きな街頭モニターで、綾瀬はるかがジャイアント・コーンにおいしそうにかぶりついている。何度みても見惚れてしまう。画面にあふれる、なんという充実だろう。こんなにきれいに全けく、世界や生活とチューニングできるなんて......。自分で稼ぎ、自分で余暇を充実させる、こんなことは明治の女性にとっては空想の域であっただろう。しかし、では現在女性は太陽かと問われればそれも肯定しかねる。太陽と言えるほどプリミティヴなエネルギーを現代の人間が持てるものだろうか。オニのソロ初となるアルバム『サンウエーブ・ハート』のジャケットには、アップで撮られた本人の顔に重ねて大きく太陽が描かれている。

 ライトニング・ボルトのような熱量とノー・ウェイヴな感性を持った、大阪の女性エクスペリメンタル・ジャンク・デュオ、あふりらんぽ。その片割れ、オニ。あふりらんぽのエネルギーは天に逆らうかのような無軌道性があるが、本作はオニがパーソナルな命題として太陽を志向し、その力を称えるものではないかと思う。

 「種を、種を種をいっぱいまいた、おなかの中に、いっぱいの種をまいたよ! (中略)それが...伸びて伸びて伸びての~びて、天にむかってのーびーてゆくよー」
――"オニという花"

 オニとは何か、オニとは誰か、オニとは命だ。いまを精一杯に咲き、新しい命を増やす花だ。という自己表明からアルバムははじまる。音楽としては「フリー・フォーク」の日本におけるひとつの展開、といえるだろう。ギター弾きとしての本領が注がれた非常にシンプルな作品だが、「フリー・フォーク」らしい、一種の疎外論的な文明批判がある。あるいは、素朴とも思われるアニミズム。シックス・オルガンズ・オブ・アドミッタンスらに色濃いだろうか。トルミスの「鉄への呪い」という表現に倣えば、「鉄の支配する世界」つまり、原始的な生命の世界を抑圧するものへの呪詛ないしは批評である。むろん直接的な呪いの言葉などどこにもうかがわれない。それは、むしろ描写しないことのなかに表れる。太陽、鳥、山、風、汗、唄、雨......歌われる素材をみれば、生命と世界を言祝ぐ言葉で埋め尽くされている。芽は伸び、鴇色の雲が空を飛び、遠き山は静かな愛をくれる。オニの、張りがあってよく透る声がその一語一語を明瞭に紡いでいく。佐藤正訓氏の帯文の引用だが、「本当の人間の『すっぽんぽん』の歌」というのが順接的な解釈になるだろう。

 しかし、普通に聴いていけば、人や一般的な生活を思わせる言葉がまったく登場しないことに違和感を覚えると思う。駅でもいい、ビルや公園でもいい。またテレビや携帯、恋や倦怠、ビール、ネット、なんでもいい。全編にわたって、およそ現代日本の生活という生活についてまわるディテールがすっぱりと切り落とされ、人間すら出てこない。原始的なものへの志向性はわかるが、少し異様な印象がある。「鉄」(いまの言葉なら「ファスト風土」に相当するだろうか)は意図的に描写を省かれているのだ。なぜ山やら風やら「雨雲さん」ばかりを歌うのか。そこに「すっぽんぽん」の人間性がある、などという素朴なフィクションに、素直に乗るわけにはいかない。

 人が出てこないと述べてしまったが、子どもが出てくる。一般名詞としてではなく、彼女自身の子どもと思われる描写で登場するのが、唯一の人間である。それは非常に大切なものとして歌われる。というか、このアルバム全体がひとつの子守唄として捧げられているという印象さえ受ける。

 非常にクリアな録音で、かすかな残響には小さなコンサート・ホールを思わせる奥行きがある。アルペジオが際立つ。1曲目のような、テンポのある王道フォーク・ソングもいいが、大方はもっとぐっと沈み込むような曲調で、この空間的な奥行きがとても効いている。"緑の天使"、"鴇色の空"、"アクエリアス"など多くの曲では、シンプルなフィンガー・ピッキングがむしろ静寂を強調する。うっかりと彼岸へ誘われるかのような感覚がある。"緑の天使"においては、風鈴と蝉の声が微弱に挟まれることで、生というよりは死のイメージに接近する。

 こうしたなかに子どもへの視線が織り込まれていく。ただ、個としての独 立したキャラクターは描かれない。子どもからの発信はなく、母からのくるみこむような一方的な視線だ。しかもところどころで、まるで恋人を思わせるかのような「あなた」という呼称が使われる。まだへその緒でつながっているかのように渾然一体となった、母と子と自然、という三角形の宇宙。これが本作の基調を成す世界観となる。三者の強固な結び付きに微かに戦慄する。本当に、他に何も出てこない。他者的な視線も挟まれない。生み、育てるということはこんなに排外的なものなのだろうか。アクのない、クリアで柔らかいヴォーカルでつづられる中盤。しかしここで母性とは、ほとんど自然の猛威である。そしてこの子どもという項をおいて、初めて「太陽」のモチーフが立体化する。

  激しいストロークで感情的に歌われる終曲"サンウェーブ・ダンス"。朝露のようなトラッドな感触のブリティッシュ・フォークから曲調が一転するドラマチックなトラックだ。命を生み、命を育むものとしての渾身の演奏だ。唄も跳ね、踊る。ギターもテクニカルだが、ヴォイス・パフォーマンスも見事で、詞に添えられた本人直筆のイラスト―お日様と生命の曼荼羅図だ―とともに非常な迫力を持ってアルバムはしめくくられる。

 しかし、母親としてではない、オニという一人の女性は太陽だろうか。それを描くには、この作品で省かれた様々な雑音と風景が喚び戻されねばならないだろう。次は、原始にではなく現在にエネルギーの源泉を掘り当てるような音が聴きたいと思った。

The Black Dog - ele-king

 ここ数年はいろんな理由が重なって海外に行っていない。最後に行った海外が3年前の南シナ海の島で、ちなみにアメリカに最後に行ったのは......2006年の1月だ。われわれ一行は税関で厳密な審査に遭うばかりか何人かは取調室まで連れて行かれ、非常に不快な思いをしたものだった。9.11以降に初めてアメリカに行ったときには指紋をスキャンされ、顔写真を撮られ、そのときもずいぶんと不快な思いをしたものだったが、そういえば9.11以前でもデトロイトの空港でバッグの中身をすべて調べられたことがあった。たしかにザ・ブラック・ドッグが告発するように、いまやブライアン・イーノの『ミュージック・フォー・エアポーツ』の楽天性など70年代という過去の絵空事、虚構である。

 ザ・ブラック・ドッグはUKテクノのベテランだ。1989年、当初3人組のプロジェクトとして登場したザ・ブラック・ドッグは、〈ワープ〉から2枚のアルバムと〈ジェネラル・プロダクションズ〉から1枚のアルバムを出すと、プラッド(エド&アンディ)とザ・ブラック・ドッグ(ケン・ドウィン)のふたつに分裂した。プラッドはその後、周知のように〈ワープ〉を拠点としながらビョークとの共作や映画音楽などにもにも挑戦するなど順調に活動を続け、いっぽうザ・ブラック・ドッグはよりアンダーグラウンドで、よりアーティな道を選んだと言える。それは、もともとテクノの匿名性を強く意識して、ミステリアスな存在を望んだザ・ブラック・ドッグらしいあり方だ。彼らが1995年に〈ワープ〉からアルバムを出したとき、イギリスの雑誌『The Face』で顔は出させずにインターネットのチャットのみで取材を受けた話は有名で、それほどまでに彼ら、いや、彼(ケン)は匿名性を望んだ。また、分裂後に出した1996年のアルバム『ミュージック・フォー・アドヴァーツ(宣伝のための音楽)』が良い例だが、ザ・ブラック・ドッグは、プラッドにはない批評性(トゲ)を持っている。

 本作『ミュージック・フォー・リアル・エアポーツ』は、分裂後のアルバムとしては5枚目となる。この2~3年、ザ・ブラック・ドッグはふたたび評価を高めている。2007年にはオリジナル・メンバー時代の音源を編集した『ブック・オブ・ドグマ』を発表しているが、〈ダスト・サイエンス〉を主宰するマーティン&リチャード・ダストが加入してからの『レディオ・スケアクロウ』(08年)や『ファーザー・ヴェクサションズ』(09年)といったアルバムは、聴き応え充分のデトロイティッシュなテクノ・サウンドで満ちている。ここ数年のあいだで、ザ・ブラック・ドッグは自らの音楽性をあらためて定義したと言えるだろう。何枚かの魅惑的なシングルも記憶に新しい――「フルード」(07年)、ロバート・フッドをフィーチャーした「デトロイトvsシェフィールドEP」(08年)、オウテカのリミックスを収録した「ウィ・アー・シェフィールドEP」(09年)等々......。

 『ミュージック・フォー・リアル・エアポーツ』はこの2~3年の作風とは趣を異にしている。メロウでダンサブルだった『レディオ・スケアクロウ』とも違うし、IDMスタイルを美しく豊かに展開した『ファーザー・ヴェクサションズ』とも違う。これはダーク・アンビエントの作品だ。このアルバムでザ・ブラック・ドッグは、未来への苛立ちをスケッチしているようだ。いわゆるディストピア・ミュージックである。ダブステップからの音楽的な影響を聴き取ることもできる。収録曲の半分はアート・インスタレーションのために作られたというが、"偽情報デスク""パスポート・コントロール""この線の向こう側で待て""空席計算""遅れ""睡眠遮断"......トラック名が暗示するように、悪夢としての空港体験が描かれている。

 車の音、ざわめき、音の断片の集積とともにわれわれは空港の「出発」のラウンジに座って、曇った空を眺めているようだ。ザ・ブラック・ドッグのもうひとつの拠点であるシェフィールドの〈ダスト・サイエンス〉は、同郷のキャバレ・ヴォルテールを精神的支柱としながら自分たちの作品とともにデトロイト・テクノ(アンソニー・シェイカー、ダン・カーティン等々)やリチャード・H・カークの作品も発表している。『ミュージック・フォー・リアル・エアポーツ』はブライアン・イーノというよりはキャバレ・ヴォルテールに近く、デトロイト・テクノというよりもブリアルやコード9と同じ匂いを持っている。

Thomas Fehlmann - ele-king

 ドイツのニューウェイヴ(=ノイエ・ドイッチェ・ヴィレ)の時期を知る者にとって、モーリツ・フォン・オズワルドやトーマス・フェルマンがブレイクビーツやテクノに関心を示すだけでなく、ドイツではそれらの牽引者でもあったことは、けっこうな興奮を引き起こす事実だった。「かつて最先端にいた人たちがまたしても最先端にいる」という発見は懐かしさと新しさを同時に体験できる貴重なモーメントであり、レイヴ・カルチャーというものが単なるバカ踊りではないという保障を得たようなものでもあった。マラソン、レディメイド、ペリー&ローダン......と、どれだけ彼らが名義を使い捨てようが僕たちは振り落とされなかった。ましてやベーシック・チャンネルだった。

 フィッシャーマンズ・フレンドのデビュー・アルバムは「トイトニック・ビーツ」という曲ではじまる。シカゴ・ハウスでも、デトロイト・テクノでもなく、彼らは1989年にはそれらを(日本式の読み方では)「チュートン人」のビートと呼んでいた。チュートン人とは古代ローマに滅ぼされたゲルマン系の民族名で、日本人が自分たちのことを大和民族と呼び習わす感覚に近いだろうか。史上もっとも攻撃的な民族とされたチュートン人にジャーマン・テクノの先駆者たちはアイデンティファイしながらレイヴ・カルチャーに突入していった......らしい。勝手な推測になるけれど、ジャーマン・ロックが「クラウトロック」ならば、ジャーマン・テクノは「トイトニック・ビート」だという差別化の意識が働いたのかもしれない。つまり、大きな壁は「ロック」に向けられていたということだといえなくもない。

 マーキュリー傘下に〈トイトニック・ビーツ〉を設立したフェルマンはアレックス・パタースンとのリレイションシップを得て、ウエストバムや元DAFのガビ・デルガドーをフューチャー・パーフェクトなどの名義で〈EG〉にライセンスし、自身はベルギーの〈R&S〉とソロ契約を結ぶ。デトロイト・テクノを洗練させ、さらにはアシュ・ラ・テンペルやクラスターなど、70年代のジャーマン・プログレッシヴ・ロックとも連続性を持たせた表現に移行したのはこの時期からである(ジ・オーブのメンバーとしても活動していることはとくに指摘する必要もないだろう)。

 レディメイド名義から数えて通算7作目となるソロ・アルバムは『24Hベルリン』と題されたTV番組のサウンドトラックにあたるらしい。ベルリンに足を踏み入れたことがない僕は、ここで繰り広げられている音楽がベルリンらしいサウンドなのかどうなのかはまったく見当がつかない。『グッド・フリッジ』(98)のように壮大なヴィジョンが展開されるわけではなく、アンダーグラウンド・ヒップホップへの接近を試みた『ロウフロウ』(04)のようなヒネりもなく、たしかに地に足がついているような印象は強い。これがベルリンの日常だといわれれば、あー、そうなんですねーとしかいいようがない。もしくはパブリック・イメージ通りのフェルマン・サウンドが飽きずに展開されているといったほうがわかりやすいだろうか。最初から最後までイヤなところがひとつもなく、それこそ空気のように流れるだけ。シューシューとどこかに溶けていくようなアトモスフェリック・ダブ・テクノ。これは何も変わらない良さだと言い切りたい。

 最近のコンパクトはアナログ盤を買うと、必ずCDもおまけで付いているようです。

New Residential Quarters - ele-king

 子どもを寝かしつけた9時近くにたまたまアクセスしたドミューンの五所純子さんの番組でかかった小室哲哉がまだ初々しかった時期の曲を聴きながら、そういえば私の妻も小室哲哉の曲が主題歌だった映画を小学生のころ見たと言っていた。私の妻は五所さんやChim↑Pomのみなさんと同年かすこし年長のはずだが、小室哲哉は彼らが過ごしてきた年月の一部だった。番組は終わった。私はそのまま、私と同郷で(たしか)同学年のヒカルくんのDJを見続けたのだが、10時を過ぎたころにヴィラロボスのトラックに、私の故郷の島では誰もが知っている、坪山豊が作曲し、島の最大の娯楽である闘牛のアンセム(?)でもある「ワイド節」がピッチをあげてミックスされたのを聴き、4月に入ってから普天間基地(の一部)の移設問題で島が揺れてきたのを考えはじめた、というか、この1月はそのことばかり考えていてele-kingの原稿を全然書いてなかった! ここから基地問題について書きはじめるといくら字数を尽くしても終わりそうにないので止めますが、私は忘れてならないのは、沖縄と沖縄周辺をめぐる基地の問題は歴史、政治、地政学(ポスト冷戦構造とか現実問題としての東アジアとかアメリカとか)、地方の振興策とか地域間の格差とか、複数の力学が入り組んだ"問題の系"であるがゆえに政治的であることは当然としても、鳩山がいう「公平な負担」というのは、この前の戦争(というのは1945年に敗戦した戦争だ)で沖縄と同じくアメリカに統治され53年に日本へのクリスマス・プレゼントとして(本当なんですよ)返還されたその島にも当てはまるのかということだ。美辞麗句として吐かれた「公平」の言葉は少数の記憶を曖昧に覆い隠そうとする――逆進税である消費税が新自由主義の残滓としてでもまだ議論されるのはその見せかけの「公平」さのせいだろう――が、記憶はある者の身体を通して他者の身体に伝達される――それは語りでも歌でも記された言葉でもいい――ことで、53年はおろか沖縄の本土復帰の日にも間に合わなかった私がヒカルくんのDJから考えたように、歴史修正主義の隠蔽をこえる広がりを持ちうるのではないか。

 私は長くなりましたが、なにを言いたいのかというと、音楽をめぐる記憶の仕組みです。90年代の手法だったサンプリング~リミックス~カットアップ~コラージュ(はちがうか)、つまり編集文化にはセンスやリスペクトの裏書きがあり、方法に自覚的なかぎり改竄や盗用といった言葉さえ、ラディカリズムに落としこまれてきたが、「ネタ」は濫用されることで背景にある体系から独立し、「ネタ」というより情報のようにふるまいはじめ、アーカイヴは10年前よりずっと味気なくなった。私はメディアの問題は無視できないと自戒しないわけにいかないが、アーカイヴはもうエントロピーの上限に達してしまったのだろうか? それともバベルの図書館のように際限はないのだろうか? 私はいまの時点ではどちらともいえないけど、USTREAMのリアルタイム性はアーカイヴの座標に時間という新しい次元をもちこみ、そこに流れてくる膨大なテキストデータは共有の概念をSNSのようにコミュニティ内に蓄積させず、タイムラインに沿って離合集散することでコミュニティの舞台であるアーカイヴをも活性化させてはいるのだと思う。いまさらだが、私はTwitterのユーザーではないのでおもしろさはよくわらかないが、つぶやくよりつぶやかれることで主体の時間に他者の時間が割りこんでくることのおもしろさがある気がする。それは動物化の別の局面かどうかを検証するのは他稿にゆずるとしても。

 音楽のアーカイヴは時間を取り戻して音楽的になった、と書くとまるっきり同語反復なのだが、音楽はほかのどのカルチャーよりも時間(時空)がフォーマットに密着したものだからこの変化は原点回帰のようにも思える。しかしそれはたんに戻っただけではない。

 NRQをご存じだろうか?
 ギターの牧野琢磨に、二胡とマンドリンを担当する吉田悠樹とコントラバスの服部将典、ドラム、クラリネット、アルト・サックスの中尾勘二からなるインストゥルメンタル・クァルテットでNRQは新興住宅地を意味するニュー・レジデンシャル・クォーターズの略称である。ネット・メディアにはあるまじき遅さで恐縮ですが、彼らは今年のヴァレンタインにファースト・アルバム『オールド・ゴースト・タウン』を〈swi〉からだした。彼らはセッションや別バンドでも活動するミュージシャンたちで、吉田悠樹は前野健太とデヴィッド・ボウイたちの一員だし、服部将典はこのサイトの読者によく知られているであろうShing02の歪曲バンドでの活動をあげればよいだろうし、中尾勘二はコンポステラやストラーダでポピュラー音楽史に足跡をのこしてきた。牧野琢磨は私もメンバーの一員である湯浅湾のギタリストでもある。なんて書くと「また身内でテキトーに褒めあって!」とけなされそうなのだが、私がここまでムダともいえる冗舌を弄してきたのは、いいものはいいと言いたいからだけじゃなく、彼らは私を考えさせるからだ。彼らの音楽はブルースやジャズや軽音楽などの古き良き時代の音楽のエッセンスを抽出したものと思われがちだがそうではない。いや、そうでないことはないかもしれない。NRQの音楽には過去への憧憬がたしかにあるが古典の再解釈ではない。大谷能生はそれをライナーノーツのなかで「あたらしい過去」と呼んでいる。私は前段に書き忘れたが、ゼロ年代までの激化したリヴァイヴァル・ブームは近過去を消費して古典へ接近することになったが、その時点で古典を音楽にとりいれるのはそれまでのリヴァイヴァルの手法も超えなければならなかった。私なりに大谷能生の言葉を煎じ詰めると、「あたらしい過去」には2種類あって、HOSEやcore of bells――関係ないがこの前のライヴには感動した――のように形式の外から形式を操作するメタフィジカルなやり方と、あくまで音楽の内側で音で語る方法があって――もちろんこれは明確に線引きできるものではなく、あくまで比重の問題だ――NRQは後者だと思う。NRQというか、牧野琢磨といいかえてもいい。牧野琢磨は厳密にギタリストであり、彼の言語はギターである。ギターとシールドと数個のエフェクターとアンプと振動する空気があれば牧野琢磨は語るだろう。その語り口にはギターを習得するうちに彼の身体に流れこんだ数多のブルースメンの記憶が介在しているはずだ。彼のファースト・ソロの『イン・ザ・サバーブス』(grid)にすでに兆候はあったが、「古いゴースト・タウン」と名づけたNRQのファーストに作曲と演奏と録音の形であらわれている。編曲と作曲をメロディに溶けこませた吉田悠樹の二胡であるとか、服部将典の強くて味わい深いコントラバスとか、NRQとHOSEとふいごにもいる中尾勘二については長い別稿が必要なほど、それぞれが音楽のゆたかな記憶をもつひとたちだから、『オールド・ゴースト・タウン』を聴いているいまこのときも、「NRQが『ワイド節』をカヴァーしたらおもしろいかもな」とか「私も楽器練習しようかな」とか「5月14日の彼らのレコ発(@マンダラ2)はどうなるのかな?」とか、私は触発され考えはどうどうめぐりするようでいて、彼らの音楽がそうであるように、螺旋を描き、あたらしい場所にたどりつきそうだった。

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