「Noton」と一致するもの

Cowboy Sadness - ele-king

 願望ないしは情動は、音楽が生まれる起点であり、燃料だ。20世紀を駆け抜けた個人主義(私は私で好きなように生きたる)はロックンロールのガソリンとなったし、怒りや否定がパンクの根幹だといわれている。では、この場合はどうなのだろう。ゆっくりとした物事のペースとスペース、これを欲していると、ただそれだけのことかもしれない。いや、文化の地殻変動におけるほんの小さな一篇の表出かもしれない。たぶんそうだろう。とにかく、なんにせよ、ぼくは疲れているのだ。それもかなりひどく。昼も夜もぐったりである。自分でいうのも何だが、カウボーイ・サッドネスの『セレクティッド・ジャンビエントvol.1』が心地よく感じるのも無理はないのである。いまはのらりくらりと、ただぼぉーっとしたい、できることなら。我らが深沢七郎はいった。ただ「ぼーと生きればいい」と。願望が音楽の生まれる起点であるなら、『セレクティッド・ジャンビエント』を具現化せしめんとした種子は、日常の暦もしがらみも忘れ、ぼぉーっとしたいという欲望に違いない。(たしか昔もこんな原稿を書いた記憶があるような)

 ロック・バンドがアンビエント/ドローンを演奏することは珍しくも新しくもない。CANはそれをやっていたし、一時期のハルモニア/クラスターがイーノのアンビエントに影響を与えた話は有名だ。あの時代、ハルモニア/クラスターがベルリン生活に疲れて田舎へと向かわなかったら、イーノの「アンビエント」がいま我々が知っているそれとは違ったものになっていたという可能性は、大いにある。まあ、それはそれとて、70年代後半にはアンビエントに積極的なロック・バンドが少なくなかった。ぼくが初めてアンビエントを聴いて「いいなぁ」としみじみと思ったのはまだ疲れを知らぬ10代なかばの話で、それはジャパンのセカンド・アルバムのB面の最後に収録されていた“ザ・テナント”という曲だった。ほかにも、ポスト・パンク期にはいろんなバンドの作品のなかに「静寂」ないしは「沈黙」があった。歌のないそれらを当時はアルバムのオマケのように思っていたが、いま思えばそれらこそが未来だったのだ。
 カウボーイ・サッドネスは、ジ・アントラーズというNYのインディ・ロック・バンドのメンバーを中心に結成された3人組で、ベースもドラムもいる。バンドの説明によれば、このプロジェクトは10年以上前からはじまったそうで、ブルックリンでの「アンビエント・ジャム・クラブ」なるイベントでのセッションが元になっている。「期待や商業的なプレッシャーから解放された」音楽として進化したと、彼らはその意図を明かしてもいる。ほらね。
 あるいは……、『セレクティッド・ジャンビエント』を、こうも説明できるだろう。ボン・イヴェールのアメリカーナとザ・KLFの『チルアウト』におけるあくまでアメリカ横断のあの感覚のみをブレンドし、トゲを抜いて、どこまでも抽象化し、どこまでもゆるくした感じ。ドローンにはじまり、ところどころでドローンをやっているのだが、スピリチュアルではないし、あからさまにドラッギーでもない。ご覧の通りの、抽象的な風景写真のスリーヴアートがほのめかすように、演奏からはやんわりとアメリカ中西部のムードが聴こえてくる……が、幻想的ではないし感傷的でもない。ベッドルームでもコンピュータでもなく、バンドでジャムってアンビエント、言うまでもないことだが、アルバム・タイトルにはユーモアが込められている。

 昨年は、コーネリアスがライヴで、素晴らしいことに新作からのアンビエント/ドローン曲 “霧中夢” を演奏していたが、こんにちロック・バンドにおけるこうした傾向をぼくは興味深く思っている。フロイトが19世紀末に発見した無意識という領域のなかの「イド」は、放っておくと欲望の赴くまま暴走するから、それを調整するために超自我を必要とするという話だった。ロックには、20世紀に解放されたまさにその「イド」の文化としての雷鳴のような性質が備わっていたわけだが、ロック・バンドの側がアンビエントに接近する傾向がもしこれからも増え続けるのであれば、20世紀に暴れすぎた欲望が21世紀では静寂の側へとしずかに変質しているのではないのだろうか。それが無意識のうちに表出してきていると……。
 もちろんこの考えはたんなる思いつきでバカげているし、人生の多くを20世紀で過ごしている自分の年齢的なことが影響しているのではないかという疑いが必要なこともわかっている。ただ、高級化するアンビエントや音響実験としてのアンビエントがあるいっぽうで、大衆的で、ポップ化するアンビエントが地道ながら増えていることにも注目したい(冥丁や吉村弘リヴァイヴァルも大きくはこの流れだろう)。それらはエネルギーの減退を意味しない。雷鳴ばかりがエネルギーではないと言っているのだ。

Turner Bros. - ele-king

R.I.P. Damo Suzuki - ele-king

「今」だけを生ききった旅人

松山晋也

 昨日(2024年2月10日)の深夜にダモ鈴木さんの訃報をツイッターで知った時、まっさきに思ったのは、やっぱりダモさんの最新インタヴューもとっておくべきだったな、ということだった。2020年秋に私の編集・監修で出た『カン大全――永遠の未来派』には、本人の回顧録『I Am Damo Suzuki』の紹介記事(崎山和弥)と、セレクテッド・ディスコグラフィ(小柳カヲル)、そして私が96年にやったインタヴュー原稿を掲載したが、総ページ数に制限があったため、最新情報までは載せられなかった。まあ、ガン治療で大変そうだと聞いていた上、インタヴューしても肝心なポイント(言葉)はだいたい予想できるという思いもあったわけだが。

 ダモさんには過去4回インタヴューした。「日本でのちゃんとしたインタヴューは初めて」だと言っていた最初の取材はたぶん88年だったと思う。70年代後半から勤めているドイツ企業の社員として日本出張中だった合間を縫って高円寺の喫茶店で会ったと記憶している。ダモ鈴木という芸名が、森田拳次による60年代半ばの人気漫画「丸出だめ夫」からとられたと知ったのもこの時だ。彼はカン加入前のヨーロッパ放浪中、自身を「だめ夫鈴木」と名乗っており、それがいつの間にかダモ鈴木になったのだという。
 しかし、96年に2度目のインタヴュー(これも高円寺の喫茶店だった)をした時は「本当にダメな奴だと思われてきたから、最近は芸名の由来についてはあいまいにごまかすようにしている。はっきり言って、僕は模範社員なんですよ」と笑っていた。実際目の前の彼は、実にきちんとした生真面目な人で、「虹の上から小便~」と歌っていたあのダモ鈴木と同一人物とはとても思えなかった。『Future Days』リリース直後の73年秋にカンを突然脱退したダモさんはこの時のインタヴューで「カンのサウンドが過剰に緻密になり、洗練されすぎたのが息苦しくなって」と脱退理由を説明したが、ダモさんをカンにスカウトしたホルガー・シューカイに数年後にインタヴューした際、彼は「結婚した女性の影響で《エホバの証人》の信徒になったせいだよ」と語った。真相は、おそらくその両方だったのだろう。ダモさんはカン脱退後は専門学校に通って石畳の道を作る職人になり、更に、デュッセルドルフの企業で正社員として働きだした。カン脱退からドゥンケルツィファーに参加する83年までの約11年間、彼は音楽活動とはほぼ無縁だ。
 そして3、4回目のインタヴューは2010年。聴衆を前にした某イヴェントでの公開インタヴューと「めかくしプレイ」の取材2本を同日におこない、翌日には一緒に朝食をとりながらあれこれとよもやま話もした。「18才からずっとヨーロッパ(スウェーデン、アイルランド、フランス、ドイツ)で暮らしてきたので、最近、日本のことをもっと理解したいと思うようになった。こうして一人で日本を演奏して回っているのも、もっと日本のことを知りたいからなんです。47都道府県を全部回るという目標を死ぬまでになんとか達成したい」。日本に息苦しさを感じて18才で飛び出したダモさんは、しかし日本をとても愛していた。「本当は政治家になりたかった」という言葉も本心だったと思う。

 こうしたインタヴューを通じて、特に印象深かったのは、彼の言葉、あるいは哲学のすべてがいつも最終的には「今」と「自由」に収斂されていくことだった。

 彼は亡くなるちょっと前まで、90年代後半から続けていたダモ・スズキズ・ネットワークとして世界各地で精力的にライヴを続けたが、そのほとんどは、行った土地土地のミュージシャンたちを交えた一期一会の即興ライヴだった。ネットで様々なミュージシャンたち(彼はこれを「サウンド・キャリアー Sound Carrier」と呼んでいた)と自分で連絡を取り合い、打ち合わせもリハーサルもなく、ぶっつけ本番で即興コラボレイションを繰り広げた。それが音楽的に成功するかどうかなど関係なく。ダモさんは最期まで一度もマネジャーを付けず、すべてを自分で決め、行動したし、コラボ相手に関する情報(音やキャリア)を事前にインプットすることもほとんどなかった。情報は完全な「自由」を殺してしまうことを知っていたから。
 96年のインタヴューで彼はこう言っている。「即興にこだわるのは、プロダクト化されてしまうのが嫌だからです。即興はプロダクトではなく、プロセスだからね」。あるいは「音楽は生き物です。そして、音楽だけがあらゆるアートの中で時間の流れを活き活きと表現できる。だから、毎日同じ曲をやるようであれば、あんまりちゃんと生きていないってことだと思う。僕は過去には興味ない。大事なのは“今"だけです」とも。
 ダモさんにとって即興とは、「今」をいかに真剣に生きているかの証だったのだと思う。その哲学は、まだ高校生だった日本でのヒッピー時代から亡くなるまで、ぶれることなく貫かれた。もちろんカン時代のヴォーカルも、その場で無意識に口をついて出てきた言葉をそのまま発したもの――彼が言うところの「宇宙語」だった。「だから、歌詞の意味も後から考えたものが多い。俺は何を歌ってたんだろうって」。ホルガー・シューカイは私に、70年5月にミュンヘンの路上で初めてダモさんを見た時の印象を「その男は太陽に向かって呪文を唱えていた」と語ったが、今その瞬間を生き、荒々しく変容し続けるダモさんの呪文=宇宙語の生命力と覚悟こそが、厳しい修練を経た手練れ揃いのミュージシャン集団だったカンを更に高い次元へと引き上げ、新たな扉を開く起爆剤になると直観したのだと思う。

 ダモさんは2014年に大腸ガンで生存確率10%と宣告され、以後40回もの手術を受けたが、苦しい治療を続けながらもライヴ活動はやめなかった。未知の人々との新しい出会いを通して「今」を表現し続けるために。2022年に公開されたドキュメンタリー映画『ENERGY:A Documentary About Damo Suzuki』(監督はミシェル・ハイウェイ)に刻まれているのは、最期まで「今」だけを愛し「今」だけを生ききった旅人の姿だ。見事な人生だったと思う。

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追悼、ダモ鈴木さんについての回顧録

小柳カヲル

 ダモ鈴木さんの訃報は文字どおり青天の霹靂だった。今は悲しみというよりは言葉にならない虚無感しかない。彼の偉大な功績、とりわけカン時代の活動はすでにたくさんの方々がさまざまな角度から評論されているし、これからも数限りなくされるのは間違いない。そこで自分にしかできない追悼はなんだろうとあれこれ考え、仕事上とはいえ近しい関係だった私から見たダモ鈴木さんという人物を回想し、記録に残すことではないかという結論にいたった。そんなわけで個人的な追憶にしばらくお付き合いいただきたい。

 私がダモさんと初めて会ったのは、1996年の秋に東高円寺のU.F.O.CLUBで行われたシークレット・ライヴだった。古くから知られていた〈日本人ロック・ヴォーカリスト〉でありながら、日本での公演はこの日が初めてだった。開演前に楽屋の椅子に座りパイプをくゆらしているダモさんの姿をはじめて見たときの衝撃は、四半世紀以上たった今でも鮮明に覚えている。ダモさん本人による「きれいな空気もきれいなメシもありませんが」というカンの〈Doko E(何処へ)〉の歌詞を引用した口上からライヴは始まった。バックを務めるGHOSTのメンバーの演奏は圧巻で、公演の告知がされていなかったにもかかわらず会場はほぼ満員だった。そこにいる誰もが目の前で動き、肉声を発しているドイツ・ロックの伝説的ヴォーカリストに目が釘付けになっていたのは言うまでもない。終演後、帰りの電車がよくわからないというダモさんを、たまたま自宅が同じ方向だった私が小田急線で途中まで送ることになった。ダモさんのご実家は小田原方面、当時の私は藤沢方面。路線が分岐する相模大野駅でいったん下車し、ホームでハグしながら翌年から始まる新たな計画の協力を約束した。このことがきっかけでダモさんとの交流が急に近くなったように思う。

 翌1997年4月、新たなプロジェクト〈ダモズ・ネットワーク(のちのダモ鈴木ネットワーク)〉が始動した。日本では東京をかわきりに3公演が予定され、メンバーはダモ鈴木(ヴォーカル)、ミヒャエル・カローリ(ギター)、マンジャオ・ファティ(ベース)、マティアス・コイル(キーボード)、そしてドラムスには当初予定されていたヤキ・リーベツァイトに代わり、グルグルのマニ・ノイマイヤーがツアー直前に決定した。ダモさんによれば、マニさんのことは昔から名前だけは知っていたが、会うのはこのときが初めてだったという。いま思えばとんでもなく豪華な顔ぶれだったことを再認識させられる。ツアーそのものも実験的な試みがあり、ライヴを観に来た観客全員に観覧当日のライヴ音源を収録したCDが後日送付され、そのジャケットにはダモさんの肉筆による巨大絵画を小さく裁断した紙片がCD1枚1枚に設えられるという独創的なものだった。このときの演奏もかなり変わっていて、すべての曲は打ち合わせなしの即興で、カン直系のケルン・スクールらしい曲からフリースタイルのヴォーカル・パフォーマンス、果ては蕗谷虹児の児童唱歌「花嫁人形」まで飛び出し、興に入った観客をステージ上に招き入れて躍らせるなど、かなり規格外な様相だった。観客の多くは戸惑いながらもこの空間を心から楽しんでいた。このとき招待されていたダモさんのお兄様は、演奏が終わるやいなや物販ブースにいた私の元に来て「俺にはわからん」と苦笑しながら首をひねっていたのが印象的だった。そして2日目の東京公演の直前、ダモさんは携帯電話で「てっちゃん」と呼ばれる人物と親しげに話していた。通話の相手は〈フリー〉の山内テツ氏で、海外で活躍する同じような境遇の日本人ミュージシャンとして古くから交流があったと話してくれたが、彼の意外すぎるバックグラウンドを垣間見た瞬間だった。このときは知る由もなかったが、ふたりは数年後に横浜で共演することになる。

 大阪公演の翌日は、会場近くの美術学校のアトリエでCDジャケット用の巨大絵画が制作された。床一杯に敷き詰められた大きな紙に向かって色とりどりの絵具やスプレーを振り回し、ツナギ姿のダモさんは熱心に絵に取り組んでいた。作業の途中で、私は都合ですぐに大阪を去らなければならない旨を伝えたところ、まるで子どもでも抱きかかえるかのように両手で私を持ち上げ「ありがとう」と言ってくれた。

 ダモ鈴木ネットワークは同年に若干のメンバーチェンジをし、米国シアトルでの公演を手始めに世界ツアーを始め、1999年には一新したラインナップで再来日をとげた。この時の演奏も特異なもので、ステージと観客スペースの境界線があいまいになり、人々が入り乱れる白熱ぶりだった。こうしたお祭り騒ぎのようなライヴ形態は継承され、音源は2枚組CDとして毎回リリースにされた。カン脱退後のダモ鈴木にとって〈ダモ鈴木ネットワーク〉は、〈ドゥンケルツィッファー〉、〈ダモ鈴木バンド〉に続く3番目のプロジェクトで、この中でもっともインプロヴィゼーション色が強く、参加ミュージシャンも毎回入れ替えられていた。回を重ねるごとにミュージシャンを現地で起用する傾向が強くなり、しまいには世界各地のバンドにダモさんひとりがヴォーカリストとしてゲスト参加するような〈ネットワーク〉形態へと変わっていった。そのコラボレーション相手は欧米のネオ・クラウトロック・バンドにとどまらず、ネパールのローカル・バンド〈カトマンズ・キラーズ〉、インドの〈ホーリー・ヘッド・ハンターズ〉などじつにグローバルで、現地ミュージシャンたちと違和感なく溶け込んだダモさんの記念写真がメーリングリストを通じて幾度となく送られてきたものだ。当時、私が所属していたレコード会社で、ダモ鈴木関連のアルバムの輸入とディストリビューションを担当していた。仕事中にケルンから国際電話がかかってきて「50歳になったよ」などという報告をダモさんから直々に受けたこともあった。インターネットがまだ普及していなかった時代ならではの話だ。あるときは事務所に突然ふらっと現れて、空腹だというからラーメンを作ってあげたこともあった。2006年のツアーでは末の息子さんと来日され、そのとき東中野にあった拙宅に父子で宿泊していき、芋焼酎をいっしょに飲んだのも良い思い出だ。こうしてダモさんが来日(はたまた帰国とするべきか?)のたびに私はライヴを訪れたり、いっしょに食事をしたり、ときにはスタッフとして働いたりした。

 ふり返ってみると、ダモさんはあまり昔を語りたがらない人だった。特にカン時代のことを私の前で話題にしたことがほとんどない。おそらく何度も質問されてきたことだろうと思ったから、あえてこちらから取材のような質疑応答をするつもりもなかった。もしかしたらダモさんはそんな雰囲気が居心地よかったのかもしれない。こんなふうにつかず離れずの関係が続いたが、2013年に高円寺で会いファミレスに行ったのが最後になってしまった。そのとき翌日から行くという温泉旅行について楽しそうに話していた笑顔が忘れられない。そして、これはいつのことだったか正確には思い出せないが、何かの新しい取り組みについて話しているときに「何年かかってもいいんだ。10年かかっても、20年かかっても実現できれば。私の動きはゆっくりだから」というような発言があった。ああ、この人は年齢やいろいろなしがらみに制限されず行動できる人なのだなと感銘を受けたものだ。このようなダモさんの姿勢は今の自分の生き方の指標になっているといっても過言ではない。そしてダモ鈴木というひとりのミュージシャンが残した遺伝子は、多種多様に変化し現在の音楽シーンのいたる所に影響をおよぼしているのは間違いない。だから今後もまったく無縁な音楽を聴いたとき、なにかの拍子でダモさんの幻影が見えてしまうことがあるかもしれない。そのたびにあの屈託のない笑顔を思い出してしまうだろう。ダモさん、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

♯3:ピッチフォーク買収騒ぎについて - ele-king

 音楽メディアにおける批評の時代は終わり、いまは「ファンダム」(ファン文化)の時代だそうだ。言葉の使い道は賞賛のためか、さもなければ人気者にぶらさがって、売れているものがどうして売れている(=どうして成功している)のかを分析し解説すること──ではないようだ。要するに、ファンダムこそが音楽の販売促進の有力な機動力で、アーティストにとってもレーベルにとっても必要なのはファンダムであると、そういう話だと。この解釈で合っていたら、なるほどそりゃそうだと思う。が、しかし音楽文化はそれだけでは語れない、より複雑なものなのだ。およそ1世紀前にアイシュタインが解読した宇宙空間のように。

 去る1月、コンデナストによる『ピッチフォーク』の『GQ』への吸収が欧米で話題になった。『ニューヨーク・タイムス』から『ガーディアン』といった大手メディアが大きく記事にしているくらいだからこれはひとつの事件といっていいだろうし、ファンダムの時代において、この騒がれ方には考えさせられるものがある。現在の『NME』が名前は同じでも70年代〜90年代のそれとはまったく別物であるように、買収によって編集方針やスタッフは変えられるだろう。しかも買収したのがいまどきもっとも不要だと思われる男性誌(GQ)なるものの親会社とあっては、ある種の文化闘争の気配さえ生じるのは喜ばしい話で、なんとデモにまで発展したそうである。

 正直にいうが、ぼくは『ピッチフォーク』を読んでいなかったとはいわないけれど、定期的にチェックするほど熱心な読者ではなかった。理由のひとつには、日本のレーベルや関係者が「『ピッチフォーク』で●●点!」とかいってみたり、「日本には『ピッチフォーク』のようなメディアがないから云々〜」とかいわれたりするのは、ニュートン力学以前に戻って宇宙の中心は『ピッチフォーク』にありといわれているようで、ぼくのなかの嫉妬心ないしはちっぽけな逆張りが働いてしまったからである。詩人ウィリアム・ブレイクにいわく「逆張りなくして進歩なし」、まあ許して下さいな。だからその対抗馬だった『タイニー・ミックス・テープ』(すでに終了)やUKでは編集方針が変えられる以前の『ダミー』と『ファクト』、そして現在も活動中の『クワイエタス』のほうを読んでいたし、『クワイエタス』はいまも読んでいる。当初は、『ピッチフォーク』も『ローリング・ストーン』(あるいは形骸化した『NME』)のような古株ロック・メディアに対する逆張りだったわけだが、いつの間にかこっちが主流になってしまったのだ。
 音楽文化史的にいえば、『ピッチフォーク』の功績は、まずはゼロ年代初頭のアニマル・コレクティヴをはじめとする、それこそ主流が相手にしなかったインディの存在を広くアピールし、時代を更新したことにある。それまでは、70年代の『クリーム』をのぞけば、アメリカのロック・メディアは自国のアンダーグラウンドな文化を率先してフォローすることはなかった。ヤン・ウェナーがパンクを認めたがらなかったように、アメリカのロック文化には保守的な側面があって(日本もそうだし、UKにもそれはあるわけだが)、NY生まれのヒップホップを最初に表紙にした音楽メディアは、おそらく1982年8月の『NME』(とうぜんグランドマスター・フラッシュである)だったし、シカゴ・ハウスもデトロイト・テクノも、アメリカが見向きもしなかったアメリカの音楽を積極的に取り上げ、真っ先にそれらを評価したのはイギリスのメディアだった(フランキー・ナックルズやデリック・メイなどは、80年代後半の『NME』のほとんどレギュラーだった)。そう考えれば、『ピッチフォーク』は自国のブラック・アンダーグラウンドのことも、ロッキズムが排除したダンス・カルチャーのことも、それ以前にくらべればそこそこフォローしてきた最初の米メディアといえるのかもしれない。白人男性ロックが宇宙の中心にはならないよう配慮していることだって、よくわかる。
 とはいえ同サイトのもっとも大きな功績は、オンライン音楽メディアのテンプレートを作ったこと、1枚のアルバムについて多くの言葉で語るというスタイルを定着させたことだろう。音楽作品に対する点数制は英米メディアのお家芸で、ゲームとしては面白いが、『ミュージック・マガジン』のそれを見ればわかるように茶番もしくは悲劇にもなりかねない。たとえ点数が低くても、それなりの文字数を擁した『ピッチフォーク』の論評には(すべてがそういうわけではないのだろうけれど)ちゃんとした考察もしくは愛情が表現されいるようだし、文章のクオリティはおしなべて高い印象がある。最近というか、もう1年以上前になるが、現代音楽家クセナキスの編集盤のレヴューはよく憶えている。学術用語をならべただけの、わかるひとにしかわからないよくあるそれではなく、クセナキスの極めて複雑な人生を描きながら、なにゆえ彼が「人間以外のテーマ」をもたなけばならなかったのかを論じた内容で、ちゃんと大衆に読まれることを意識した、エリート主義に染まらない知的かつみごとな構成力をもった文章だった。それから、2年ほど前にele-king booksから『ピッチフォーク』の副編集長だったジェン・ペリーの本(『ザ・レインコーツ──普通の女たちの静かなポスト・パンク革命』坂本麻里子訳)を出してみて、語り口のうまさや洞察力など音楽ジャーナリストとしてのたしかな力量に舌を巻いたものだった。しかしながらその他方では、毎日複数枚のアルバム・レヴューを掲載するその大量な情報の放出は、音楽が溢れかえりファストフードのように消費されている現代のリスニング文化と極めて親和性の高いものではあったが……(他人のことを言える立場でないことはよくわかっている)。
 まあ、それはそれとて『ピッチフォーク』の買収騒ぎを、音楽メディア文化がいま危機に瀕していることへのリアクションだというならぼくもそこに一票投じたい、などと悠長なことをいってる場合ではない。『クワイエタス』は、このところ毎年年末になるとだいたい弱音を吐いた編者の(身につまされる)原稿が載っているので、ここは音楽ジャーナリズムの踏ん張りどころだ。

 『ピッチフォーク』の買収騒ぎのなかで、『クワイエタス』(あるいは『ワイアー』などに寄稿)の名物ライター、ニール・クルカルニが死去したことも音楽ジャーナリズム的には最近のトピックだった。アジア系イギリス人ライターのこの人こそ逆張りの王様というか芸のある毒舌家で、ストーン・ローゼズのファーストをクソだと言える数少ない書き手だった(彼によれば、1989年のマンチェスターで最高のアルバムは、ドゥルッティ・コラムの『Vini Reilly』で、聴いてみるとたしかにその意見は説得力がある)。クルカルニにかかればオアシスも『スクリーマデリカ』もボロくそで、フランク・ザッパの全作品など無理して聴く必要はないなどと言い切った勇敢な人だ(日本でいえばある時期の三田格や磯部涼に近い)。彼のような名物ライターがいなくなったことをUKでは多くのひとたちが惜しんでいるが、ぼくが彼の文章を読んでいたのは必ずしも彼の毒舌が好きだったからというわけでもない。クルカルニは魅力的なレゲエ・ライターでもあったからだ。
 
 音楽に関する文章はいまでも重要な文化だ。より深い理解を助けてくれるし、自分にはなかったより面白い解釈を与えてくれもする。ときには神話を強化し、エネルギーを伝達してもくれる。ハイ・カルチャーとロー・カルチャーの境界を曖昧にする文化的経験としての音楽リスニングの言語化、知性派なら、現代思想を援用し既成理論への挑戦の手がかりにするだろう(面白いことに、UKの音楽批評にペダンチックな文章がたびたびみられるようになったのはパンク・ロック以降である)。自分の知らなかった音楽を紹介してくれる記事はありがたいしデータ重視の文章もリスニング生活では役に立つが(もともとぼくは、音楽雑誌のレヴューすなわち新譜情報から読むタイプだった)、記憶の書棚に残るのは、繰り返すがその音楽の理解を深めてくれる文章(正確でネットを頼りにしていない豊富な知識の共有や労を惜しまない現場主義者によるレポートもここに入る)、音楽から連想される感情的な強さやエネルギーを有し、音楽を聴いていて良かったと思える記事やエッセイ、知的な内省および書き手の人生におけるその音楽の意味をうまく表現している優れた自分語り、非学術的な文化論や自分には思いもよらなかった解釈(当たり前すぎるそれではなく、破壊的で見当違いな解釈はときに魅力だ)や共感しうる強いオピニオンをもった(反論にびびっていない)文章のほうかもしれない。ひとを酔わせる力、教養、そしてユーモアがあればなおのことよい。文章が良かったから音楽を聴いてみたなんていうことは多々ある。これはもう、アルゴリズムの牢獄からの脱出であり、だからぶっちゃけたところ、音楽の趣味でいえば『クワイエタス』とぼくはそれほど合っているわけではないのだが、それでも読んでいるのはウィットに富んだ文章が載っているからだ。

 じつをいえばこのele-kingはファンダムにはじまっている。雑誌を創刊する数年前からぼくはダンス・ミュージック/エレクトロニック・ミュージックに夢中で、言葉のないこれこそ音楽の未来だと真剣に思っていた。UKやドイツのダンス・カルチャーの熱気を日本に伝えたい、自分はこのシーンの一部になりたい、そういう思いで執筆やメディアをはじめている。その際のハウスやテクノに関する情報は、みずから現地に取材に行くか、(いまでもそうだが)先ほど申し上げたようにイギリスのメディアに頼るしかなかった。必然的にぼくはそれらを読むことが習慣となり(ぼく程度の英語力しかない人間がインターネット以前の時代に英語の雑誌や書物を読むことは、なかなかたいへんな作業だった)、そしてイギリスの音楽メディアに親しんでいくうちにファンダム以上の文化がそこにあることをぼくは認識していったというわけだ(サイモン・レイノルズによれば、それは「多趣味で独学」の文化だ)。それに準じてele-kingの中身もファンダムからは離れ、ライターとしてのぼくも変わっていったように思う。
 ダンス・カルチャーの重要な要素にDJカルチャーがあり、なんども書いているようにそれはリスナー文化の発展型ともいえる。DJが特定のジャンルに縛られがちなように、我が身を振り返ってもわかる話だが、ファンダムも外側で起きていることに無関心になりがちなところがある。聴いている側における言葉の醸成といったもうひとつの文化圏は、ともすれば生じる近視性、閉鎖性ないしは排他性を突き抜けることができる。センスの競い合いでもマウント合戦でもない、もっといえば音楽への単純な付加でさえない、そのもうひとつの文化を育てたいというのが編者としてのぼくの野心だし、音楽に関する文章が面白い、価値のあるものだと理解してもらいたいからメディアをやって、書籍や翻訳物も出している。ぼくはスポーツも好きで、スポーツに関する文章もよく読むほうだが、そのほとんどはくそつまらない勝利至上主義に支配されている。「ポピュラー文化はポピュリストである必要がない」(byマーク・フィッシャー)ことは歴史が証明しているのだし、もし音楽メディアが売れている音楽のことばかりの文章に占められていったら、どうだろう? 少なくともぼくはそんな世界に住みたくはない。

P/A/D/O MASSACRE - ele-king

 オンライン上でもオフライン上でも陰惨な出来事ばかりが否応なしに目に入り込む日々が続く2020年代、僕はせめてもの救いを求めて毎週のようにクラブの扉に手をかけるようになった。
 パンデミック期──具体的には感染者が日本で最初に確認された2020年1月16日から2023年5月8日(偶然にも自分の誕生日だった)まで──に、どうやって「密かに営業していた場所」を発見したかについてはまた別の機会にいつか記すとして、僕はこの時期に人生そのものがグリッチする不思議な体験を通過し、いまはDJとライターの二足のわらじを履くワーキング・プアとして生活を続けている。
 といっても、別にそんなことは特別な話でもなんでもなく、この世界で暮らすあらゆる人がウイルスの流行を機に自身の生活や価値観を見直さざるを得なかったのがここ数年のこと。音楽とはすなわち人の血の通った、生きることと密に結びついている営みだから、シーンを取り巻く環境や価値観、それらを包括する景色も社会不安とともに一変したのが「アーリー・2020s」の混乱期だったのではないかなと思う。

 もちろん、そのなかで出会った物事のすべてが絶望的だったわけではなく、パンドラの箱の底に希望が残されていたように、鬱屈とした日々を支えてくれる出来事や人びとに何度も邂逅した。僕は希望を、幡ヶ谷の〈FORESTLIMIT〉(フォレストリミット)というクラブと、そこで毎週水曜日に開かれる〈K/A/T/O MASSACRE〉(カトーマサカー)というデイ・パーティで見つけた。2010年にディープで暖かみのある実験的なサウンドが鳴らされる場として立ち上げられたこの小箱は、インディペンデントな美学とともに粛々と営業を重ねながらつねに進化を続ける稀有な空間だ。風営法にまつわる事情でナイトライフが窮地に立たされれば深夜営業をいち早く取りやめ、コロナ禍で追い詰められれば配信スタジオにその姿を切り替え、音楽と人の営みを信じ抜き、どうにか今日も存続し続けている。

 〈K/A/T/O MASSACRE〉は、そんなフォレストリミットで2014年ごろからほぼ毎週水曜欠かさず開催されているウィークリー・パーティ。今年で10周年を迎え、その開催総数は460回超。ジャンルやシーン、国境をも問わず毎週まったく違った景色を見せてくれる、東京のアンダーグラウンドなクラブ・シーンを活性化し続ける催しだ。このパーティでは、その日デビューを飾る新人とシーンの中枢を担うアーティストがひとりの音楽を愛する人間として並列に交わり、階層のないフラットなフロアがつねに提供され続けている。今回はそんな〈K/A/T/O MASSACRE〉とアナキズムを掲げるポスト・パンク・バンド PADO のコラボレーション企画について記録していく。

 〈P/A/D/O MASSACRE〉と題された本回を主導した PADO は、ロシアン・ドゥーマー・ミュージックやポスト・パンク、ノー・ウェイヴなどの影響下にあるスリーピース・バンド。現在制作中のファースト・アルバムは「資本主義に対する無気力な抵抗」をテーマとしており、鬱屈とした社会へ明確なアゲインストを掲げている。PADOは本回を開催するにあたって掲げたステートメントのなかで、

アナキズムとは詰まるところ、「隣人が私の家の柵を修理してくれている時、隣人のためにカレーを作り、隣人がカレーを作ってくれた時は、隣人の子に本を与え物語を読み聞かせる」ことである。

 と宣言している。人と人との間にあるはずの慈愛による相互扶助を信じてみようよ、というシンプルながら力強い発信で、その意志を実践すべく当日フォレストリミットでは現金だけでなく物々交換によるグッズの取引がおこなわれていた。

 もちろん、言うまでもなくクラブの運営やパーティの開催という営みは、それがどのような形であっても「資本主義の内側」でおこなわれる。本当の意味で(資本主義の)「外側」に達しうる音楽の営みは、フリー・エントランスもしくはドネーションを頼りに無許可でおこなわれるスクワット・レイヴぐらいだろう。それでも、どうにかして資本主義という壁の外側を目指すことはできないのか? という挑戦的な意志が明確に示されていて、僕はその姿勢に賛同を示す意味でも手元のドリンク・チケットを物販のライターと交換してみたりした。エントランスの横にはフリー・物々交換ブースもあり、こちらには最初何冊かの本やアクセサリーが置かれていたが、終わりごろには数枚のレコードなどに変わっていた。それは美しい移ろいだと思う。

 今回の出演者は PADO のほか、ライヴに東京で血の匂いとともに独立独歩の活動を続けるハードコア・パンク・バンド moreru を迎え、DJにはコレクティヴ〈XPEED〉のファウンダーを努め、コロナ禍のユース・レイヴ〈PURE2000〉を手掛けるなど2020年代シーンの潮流をいち早く形成した AROW(亜浪)、インドア・クィア・レイヴ〈Ximaira〉や脱構築ネオ・ゴスパーティー〈魑魅魍魎〉などを主催する deadfish eyes、クィアネスに連帯するレイヴ〈SLICK〉を運営する Mari Sakurai、「Trance cult gov-corp」を自称するレイヴ・クルー〈みんなのきもち〉が出演した。「レイヴ」「自主性」「孤立」などのエッセンスを共通項として集った面々の多くはフォレストリミットとも縁深い存在であり、幡ヶ谷の地下室に自然と集まるうちに気づけば自身がDJブースに立っていたという出自を持つ、パンデミック世代の表現者たち。明確な意思表示はなくとも、現状への異をそれぞれが唱えているようなラインナップが集う、記録的な日となった。

 オープンを飾ったのは deadfish eyes の90分セット。BPMこそハイだがつねにダウナーでゴシックな空気感が漂っており、本回への強い想いを感じさせるアクトだった。鬱屈とした怒り、美学、信念がロング・セットのなかに凝縮されたような。
 続く AROW はハイピッチなBPMを引き継ぎつつ、徐々に自身のメイン・フィールドであるダブ・テクノ~ベース・ミュージックへとフロアを引きずりこんでいく。各アクトがコロナ禍以降のユース層からたしかな支持を得ていることもあり、前衛的で粘り気の強いサウンドとダークな雰囲気に反し次から次へと人が押し寄せてくる。

 60分後、moreru のアクトに切り替わったタイミングでは会場のドアが閉まらなくなるほどギャラリーで溢れ返り、もはやライヴを鑑賞するというより熱気の渦に飲まれるしかない状況に達していた(2010年代の中頃、高円寺スタジオドムに200名以上が集っていた GEZAN 主宰のイベント〈セミファイナルジャンキー〉の匂いを思い出すような)。平日のデイタイムにここまでの熱狂が自然と生まれる、という意味でもやはりマサカーは特別な場所だと改めて感じた。
 moreru の出番が終わり、カオティックな熱狂を引き継ぐのは、アンダーグラウンドに軸足を置きつつオーヴァーグラウンドな領域にもその手腕で自由に行き来するDJ・Mari Sakurai。テクノを軸にさまざまなジャンルを横断してきた東京のクラブ・シーンを彩る才人であるが、とくに2020年代以降始動した〈SLICK〉などを入口にユースからの厚い支持も集めている。根底にパンキッシュなマインドを持つ氏はテクノを主軸にゲットーの香りが漂う危険なエレクトロなどを織り交ぜ、一旦人の引いたフロアのムードを巧みに再構築していき PADO のライヴへとバトンを渡す。

 主役である PADO のライヴは硬質なサウンドに怒りや悲哀を忍ばせつつ、あくまでも粛々と演奏を続けることに徹していたことが印象的だった。エンタメ的な仰々しさ、演じることをあえて廃し、それでもなお立ち現れる情感を表現しているように。そもそもドゥーマー・ミュージックとはインターネット・ミームから生まれた概念で、そこにはDOOM=破滅、死、悲運といった抑鬱的なニュアンスが横たわっている。絶望感をもってして、それでも希望を伝えていくために必要なのは虚像ではなく、フロアや日常生活と地続きである、という実像をさらけ出すことなんだろうか。
 そして、ラストを飾ったのは〈みんなのきもち〉によるロング・セット。今回は複数の構成員のなかから、主導者・Ichiro Tanimoto と新鋭・Shu Tamiya の2名によるB2Bが4時間以上にわたって披露された。かつて、僕はさまざまな電子音楽を「トランス美学」的な解釈で届ける彼らにただひとつ欠けているものがあるとすれば、それはユートピアでもディストピアでもない「ただの現実」と向き合うための生々しさだろうな、と密かに思っていたけれど、ユースは加速度的に成長する。〈みんなのきもち〉という集団は、すでにヴァーチャルな世界観に収まりきる存在ではないことを、長尺のなかで自然と証明するような地に足のついたプレイだった。ストロボライトの眩い光のなか、トランシーな音像のテクノを主としたセレクトでフロアの身体性を呼び起こし、最後にはユーフォリック、あるいはエピックなトランス美学へと立ち返っていく。

 と、いう流れで音が止まったのは翌日木曜、午前4時過ぎごろのこと。音楽が止めば後は朝食でも摂りながら始発を待ったりするのが普通のことだろうけど、それでも残った数十人は決して帰ろうとしない。それこそが〈K/A/T/O MASSACRE〉、観客もアーティストも極限まで消耗し、あとに残るのはボロボロになりながらも音楽を笑顔で求める幸せなフロア・ゾンビたち。結局、僕を含めた数名のDJによってパーティは2回戦、3回戦とおこなわれていき、すべてが終わったのは朝7時半ごろだった。ラストこんな夜が人知れず平日にずっと繰り返されていて、数えきれないほど多くの人びとになにかを与え続けている。そして、なにかを与えられた我々も、次に訪れる人びとへバトンを渡し続ける。音楽は人の血が通った営みであり、それはどれだけ巨大であろうと、どれだけ微細であろうと同じなはず。そう信じていたい、という人は、ぜひ一度フォレストリミットへ足を運んでほしい。この場所こそが真にフラットなダンスフロアである、ということは、ドアを開けたらわかるはず。

R.I.P. Wayne Kramer(1948 - 2024) - ele-king

 ぼくの世代でMC5といえば、たとえばザ・KLFの大ヒット曲 “What Time is Love” でサンプリングされた “Kick Out the Jams” の冒頭のMCだったりする。「キック・アウト・ザ・ジャムス、マザーフ**カー!」。もっともこれは、ザ・KLFの前身ザ・JAMsにひっかけた洒落でもあるわけだが、それはそれとて、このフレーズが60年代カウンター・カルチャーのもっとも威勢が良く、もっともぶっ飛んで、もっとも有名な掛け声であることは間違いない。だいたいこれは、音楽史上最初に録音された「マザーフ**カー」であり 「フ**ク」であるという名誉から、リリースからしばらくして問題の部分は「ブラザーズ&シスターズ」に差し替えられている。いまspotifyでアルバムを聴いたらそっくりそこがカットされていた。「キック・アウト・ザ・ジャムス、マザーフ★★カー!」、もともとは「いつまでもジャムってんじゃねぇよ」という意味だったが、当時のオーディエンスがこれを「邪魔物を蹴散らせようぜ、クソ野郎ども」と解釈し、転じて「好き勝手やったるぜい」という革命の合言葉になったのだ。

 1948年、デトロイトの労働者階級(電気技師の父と美容師の母のあいだ)に生まれたウェイン・クレイマーが10代で友人となったギタリスト仲間のフレッド・"ソニック"・スミスといっしょに、ロックンロールとブルースとフリー・ジャズの影響を受けたバンド、モーターシティ5すなわちMC5を結成したのは1965年のことだった。マネージャーはホワイト・パンサー党の党首にして反体制の申し子、大麻解禁論の先駆者ジョン・シンクレア、ウェイン州立大学でのMC5とサン・ラーのジョイント・コンサートを企画したあの男である。
 いまとなってはMC5は、作品よりもバンドを取り巻く物語のほうが有名なバンドのひとつになっているのかもしれない。同じ時代のデトロイトの、史上もっとも素晴らしいロック・バンドのひとつに数えられるザ・ストゥージズと違って彼らは政治的だったし、売れなかったし、リアルタイムではあまり評価もされなかったようだし、クレイマーにいたってはドラッグの売買に手を染め5年ほど刑務所のお世話になったりとか、とてもじゃないが順風満帆な生涯とはいえなかった。だが、庶民の怒りに火を付けるような扇動的なそのギター・サウンドには、ザ・ストゥージズとは違った魅力があったのもたしかだ。それに「キック・アウト・ザ・ジャムス、マザーフ**カー!」、これこそ本来のアナキズム宣言である。ようするに、「俺たちは支配されない権利を主張する」とこのバンドは高々と言ったのだ。そして、こんな連中が愛されないほど世界はまだ冷めていない。プライマル・スクリームがセカンド・アルバムでエミュレートさせたMC5、2008年にはメルトダウン・フェスティヴァルで共演し、そのライヴ盤(『Black To Comm』)も出しているのだからほんとうに好きだったのだろう。他にもある。デイヴィッド・ボウイの “Cygnet Committee” で「キック・アウト・ザ・ジャムス」が歌われていることや、ザ・クラッシュの “Jail Guitar Doors” (シングル「Clash City Rockers」のB面曲)がウェイン・クレイマーのことを歌っていることをぼくが知ったのは、もう、ずっとずっと後のことだった。

 ロック通のなかには1970年のセカンド・アルバム『Back in the USA』のほうが良いという意見もあるが(ニック・ロウ、モーターヘッドはこのアルバムを賞賛している)、ぼくはMC5の傑作は1968年のデビュー・アルバム『Kick Out the Jams』だと思っている多数派のひとりだ。アルバムを聴いていると燃えてくるし、安ウィスキーの力も加われれば暴動を起こそうという気持ちにだってなるかもしれない。MC5にとってのサイケデリックとはひとりで夢想することではなく、書を捨て街に出ることで、羽目を外し、生きたいように生きることことだった。あの轟音ノイズ・ギターは、やったるぞぉぉ、うぉぉぉという雄叫びだったし、しかも、うぉぉぉ、くそったれ、好きなようにやったるぜい、というだけのアルバムでもなかった。ここにはデトロイト出身のブルースマン、ジョン・リー・フッカーも歌った(60年代デトロイトの暴動に関する)戦闘的なブルース曲 “Motor City is Burning” もあれば、アルバムの最後にはサン・ラーのカヴァー曲 “Starship”もある。ロックにおける極めて初期形態の雑食性が萌芽しているのだ。ファンカデリックがその初期において影響を受けないわけがない。デトロイト・テクノ繋がりをいえば、ポール・ランドルフ(いちおうデビュー・シングルは〈プラネットE〉、デビュー・アルバムはムーディーマンの〈マホガニー〉というベーシスト)が、デトロイトが生んだもうひとりのロックの最重要人物、アリス・クーパーの2021年のアルバム『Detroit Stories』にてウェイン・クレイマーとほとんどの曲で共演している。またクレイマーは、収監中の人びとに楽器と指導を提供する非営利団体〈ジェイル・ギター・ドアーズUSA〉のエグゼクティヴ・プロデューサーとしても活動していた。彼が故郷デトロイトへの愛情を忘れたことはなく、2002年にエミネムの半自伝的映画『8 Mile』を観たときには、 「これは俺の息子だ!」と反応したという。
 まったく聴いたことのない人は、まずは“Kick Out the Jams”のオリジナル・ヴァージョンを大・大・大音量で聴くこと(できればスピーカーで、近所迷惑になるくらいの音量で)。もう1曲選ぶとしたら、ぼくはプライマル・スクリームとの共演でも演奏している、アルバム未収録のガレージ・ブルース・ロック “Black To Comm” (ベスト盤に収録)を挙げたい。

 偉大なるウェイン・クレイマー、2月2日に膵臓癌のため逝去。文字通りの激動の75年の生涯、ほんとうにお疲れ様でしたと言いたい。

Angry Blackmen - ele-king

 オルタナティヴ志向に磨きをかけるクリッピングやPhewとのコラボレートで知られるワシントンのモデル・ホームなどを追い、不穏なインダストリアル・ビートで押し通すクエンティン・ブランチとブライアン・ワレンのデビュー・アルバム。シカゴ出身で、16歳ぐらいで活動を始めたらしく、2人ともケンドリック・ラマーとアール・スウェットシャートに強く影響を受けたという。さらにブランチはMFドゥーム、ワレンはチャンス・ザ・ラッパーやリル・ウェインの名前もフェイヴァリットに挙げている。マンブル・ラップが出てきた頃にリル・ヨッティーだったかがノトーリアス・B.I.G.なんか聴いたことがないと言い放ち、並み居る古参たちから不興を買っていたけれど(それはそれで僕はいいと思うけれど)、ワレン&ブランチはヒップホップの歴史に精通しているようで、メンタル・ヘルスを初めてラップで扱ったのはグランドマスター・フラッシュ “The Message” だと考え、それこそノトーリアス・B.I.G. “Suicidal Thoughts” へのオマージュとして “Suicidal Tendenciess” でアルコール依存についてラップするなど全11曲を『The Legend of ABM』に詰め込んだ。

 全体のテーマは資本主義、アフロ・フューチャリズム、マスキュリニティ(男らしさ)とインテリ寄りで(クリッピングの歌詞はギャングスタ系)、映画『アイ・アム・リジェンド』の原作『地球最後の男』を骨組みとして採用しているらしい。サウンドがあまりに攻撃的なので、そうは思えなかったけれど、英語のニュアンスがちゃんと聞き取れるリスナーには哀愁がにじみ出ている歌詞がとてもいいらしく(そういうことがわかる人は羨ましい)、声の響きはどこかエミネムに通じるものがある。ジャケットに写っている女性はタイトル曲 “The Legend of ABM” で「業界に旋風を巻き越すためにブライアンとクエンティンが戻ってきました」と日本語のナレーションを入れているユキ・フジナミ。これまでに5枚しかシングルをリリースしていないのに、自らを伝説と称して「帰ってきた」と表現するのだから、その自信はなかなかのもの。

 先行シングルは “Stanley Kubrick” 。出来上がった曲が映画みたいだったからという理由でこのタイトルにしたらしい。ブリープ強めで最初から個性が際立ち、続く “FNA” で畳み掛けるラップと金属音の軋みも切迫感が滲み出る。自己愛を意味する “Amor Propio” や “Magnum Opus” はまさしくモデル・ホームばりで、ハーシュ・ノイズを敷きつめた “Dead Men Tell No Lies” はナイン・インチ・ネイルズが孤独を訴えた “The Day the World Went Away” に強く影響を受けた曲だという。 “FUCKOFF” はもう怒り狂ってるだけ。 “Outsiders” はマシンガンのようなビートで、 “GRIND” だけがカチャカチャと金属音が鳴る小気味のいいアクセントになっている。タイトルからしてスロッビン・グリッスルみたいな “Sabotage” は映画『テルマ&ルイーズ』のモデルとなり、シャーリーズ・セロンが映画『モンスター』(03)で演じたシリアル・キラー、アイリーン・ウォーノスのインタビューを元にしているという。普通とは異なるものの見方を提示したかったのだとか。サウンドだけでもそれは充分だけど。

 ワレン&ブランチはまだ若い。細部がまだ拙いというか、彼らが持っているヴィジョンにスキルが追いついているとはさすがに言いがたいところもある。とはいえ、パッションは充分で、すぐにも飛躍的な伸びが期待できるだろう。セカンド・シングルが “Riot” (17)というタイトルだったりと、重いものが弾けているような存在感はどうしてもURを思い出してしまうし、ブラックライヴスマターを時代背景として育った世代がどうなっていくかという興味は抑えられない。

 ちなみにアングリー・ブラックメンと契約したのはこれまでにデス・グリップス、クリッピング、J・ペグマフィア、USガールズなどを送り出してきた〈Deathbomb Arc〉で、荘子itらのドス・モノスやBBBBBBBなども同レーベルと契約している。

『哀れなるものたち』 - ele-king

 またしても閉じ込められた女性。いくらなんでもパラノイアックすぎる。これだけ繰り返されると監督にとってはセラピーの意味でもあるのかと思ってしまう。ヨルゴス・ランティモスはこれまでに『籠の中の乙女』(09)、『ロブスター』(15)、『女王陛下のお気に入り』(19)と、場所の移動を制限された女性ばかり描き、少し毛色が異なる『聖なる鹿殺し』(17)でも娘のキムは急に歩けなくなり、移動が困難になる(その原因と考えられるマーティンも椅子に縛りつけられて動けなくなる)。様々な設定を駆使して多様な物語を生み出しているようでいて、実際にはランティモスは自由に動くことを許されない女性の苦しみをあれこれと映し出しては喜んでいる変態ではないのか。スタンリー・キューブリックに団鬼六が憑依し、『コレクター』のリメイクばかり撮り続けている変質者ではないのか。現実の世界で女性を監禁したい。しかし、それは許されない。だから映画をつくることでその欲を満たしているのではないかと疑いたくなる。

 『哀れなるものたち』がこれまでと少し異なるのはエマ・ストーン演じるベラ・バクスターが造物主の比喩である父親と対立して(以下、ネタバレ)屋敷の外に出て移動の自由を楽しむこと。『籠の中の乙女』では家父長によって頑なに監禁状態は解かれなかったのに対し、そこはあっさりとクリアして、ベラは屋敷を飛び出して世界を旅し、食を楽しみ、性を解放し、労働する。文字通り外の世界を自由に動き回る。ただし、ベラはこれまでの作品とは異なり、胎児の脳を母体に埋め込まれたタブラ・ラサとして設定されている。身体は成熟した女性だけれど、脳は赤ちゃんに等しく、いわば社会的に初期化された存在である。社会と相対峙するのではなく、ただ吸収していくだけ。幼児が世界を把握していくプロセスと似たような体験を積み重ね、絶えず食べ物を吐き出して(=アブジェクション)成長し続けていることを印象付け、これが面白おかしく感じられると同時に、幼児化した女性の振る舞いはただのバカにしか見えない場面も少なくない。既存の社会に対して批評的な価値を持つでもなく、がに股っぽい歩き方はどことなく都会に連れて来られたキング・コングを思わせる。それこそ純粋無垢であれば女性という存在はインパクトを持つというか、イノセントな女だけが社会で有効というのはとんでもない幻想だし、裏を返せば女性は社会化されてしまうと魅力がないと訴えているようなもので、女性を社会の外側に立たせることで活躍することを可能にした『ワンダーウーマン』(17)と構造的には同じである。社会的に初期化されれば、それこそ『ネル』(94)のように言葉も通じないというのが普通だとは思うのだけれど……(シニフィアンを混乱させた『籠の中の乙女』はある意味、その原理に沿っていた)。

 もっといえば日本のTVドラマでよく見かける「空気を読めない女性の主人公」も似たり寄ったりで、エキセントリックなキャラなら女性たちは社会に出ても肯定されるという設定にも通じるところはある。どうしてこのようなエフェクトをかけないと女を社会化された存在として認識できないのだろう。移動の自由や男たちの管理から解き放たれて、ベラ・バクスターは一見、様々な主体性を得たかのようだけれど、実際には社会の周縁へと押しやられているだけではないのか。そう、これまで何度も女性を監禁し続けたランティモスがそう簡単に女性を解放するわけがない。むしろランティモスは女性を社会から浮いた存在として固定し、観念的な文脈に閉じ込め直したのである。『籠の中の乙女』や『女王陛下のお気に入り』が部屋ごと空間を移動しただけで、前半は定住しない旅行者、後半は売春婦と、ベラが生きる場所はいわゆるオーソドックスな社会ではない。リドリー・スコット(『テルマ&ルイーズ』『最後の決闘裁判』)や80年代の深作欣二(『火宅の人』『華の乱』)が描く社会的な身体を持つ女性たちとは異なり、主役である女性と社会の距離は1ミリも縮まらず、彼女の声が社会に届くことはない。

 社会的に初期化された身体を持つ男性の作品は何かあったかなと考えていたらターザンの誕生を描いた『グレイストーク』(84)や『フォレスト・ガンプ』(95)が思い浮かんだ。どちらも周縁から社会のヒーローへとポジションを移動させ、無知であるがゆえに社会をシェイクする作品である。『哀れなるものたち』にそうしたフィクショナルな飛躍はない。ベラ・バクスターは旅を終えて、かつて自分が飛び出した屋敷へと戻っていく(放蕩娘の帰還?)。そして、自分を生み出したウィリアム・デフォー演じるゴッドことゴドウィンの死を看取り、外に出て行ったことがなにひとつフィードバックされることなく、初めからそこに居ればよかったという雰囲気で幕を閉じていく。旅の途中で出会った男たちがすべてどうしようもない存在だったという認識が残ったぐらいで、『籠の中の乙女』で外に出られた姉妹が自分たちの意思でもう一度、家のなかに戻っていくような終わり方である。ベラの成長はただゴドウィンとの関係を肯定するために、それだけのために必要なことだった。どうしても人はそこを肯定したいし、それこそファザコンの人には突き刺さる話なのだろう。むしろ僕には、どんな人でも自分が誰かの子どもであるということがすでに牢獄だと思える作品だった。

 『哀れなるものたち』で素晴らしいのは圧倒的に美術。ある種の美意識を徹底していれば、その中に閉じ込められていることに女性たちは気がつかないと言わんばかりの装飾美にあふれ、人生の舞台装置だと勘違いさせるスティームパンクの造形はどこまでも幻惑的。また、「サタデー・ナイト・ライヴ」の準レギュラーとして、すっかりコメディエンヌの座に収まったエマ・ストーンの演技はコメディの先へ進もうとする気迫を感じさせ、メタ・レヴェルの感動を呼び起こす。原題は「Poor Things」で、「哀れ」というより「空振り」とか「外れ」みたいなニュアンスではないだろうか。そう思うと、もしかして最近になって世界的な評価を得ている『嫌われ松子の一生』(06)に影響を受けたりして。

 なお、『哀れなるものたち』の音楽はジャースキン・フェンドリックスのレヴューに詳しいです。ところで途中でベラが音楽と出会い、涙を流すシーンがあるけれど、幼児が美しいメロディを聴いてわけもなく泣いたりするとは思えず、ここはフランケンシュタインのエピソードをあまりに考えずに重ねてしまった気が。

A Certain Ratio - ele-king

 ポスト・パンク/ファンクのヴェテラン、ア・サートゥン・レシオがニュー・アルバムを送り出す。『It All Comes Down to This』と題されたそれはほぼオーヴァーダブなし、剥き出しの1枚になっているようで、〈Mute〉から4月19日にヴァイナル、CD、ディジタルの3形態にてリリース。プロデューサーは〈Speedy Wunderground〉の仕掛け人、ダン・キャリーだ。
 なんでも、今回の新作は世界が混乱しているなかで書かれたそうで、ACR史上もっとも政治的なアルバムになっているとのこと。気候変動や企業戦争、トランプ、ウクライナ、イスラエルvsパレスティナなどなどが背景に横たわっているようだ。まずは先行公開中の表題曲を聴いておきましょう。

https://mute.ffm.to/acr-iacdtt


Moor Mother - ele-king

 ムーア・マザー(カマエ・アイエワ)が新作『The Great Bailout』の詳細を発表した。この作品もまた、コントリビューターが面白い。全9曲のなかには、前作にも参加したメアリー・ラティモアほか、 サンズ・オブ・ケメットのアルバムにも参加していたエンジェル・バット・ダウィッド、エレキング的にとくに嬉しかったのはグレッグ・テイトの『フライボーイ2』でも詳述されている。まったくの独学で宇宙を紡ぐロニー・ホーリー、そしてノイズの使者アーロン・ディロウェイの参加。テーマは、「アフリカとヨーロッパの関係」にフォーカスしたものらしい。まあとにかく、これはまた素晴らしいこ音楽作品になりそうです。
 発売は〈ANTI- 〉からで3月8日リリース。先行曲はこちらにて聴けます。

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