4月は残酷な月……と言ったのはT.S.エリオットだが、しかしなんなんだろう、この世捨て人のような音楽は。ボヘミアニズムをためらうことなくにおわせる彼が生きている世界とは、どんな世界だ。日高理樹が息を吸って吐いている世界……それはぼくと同じ世界である。
トリクルダウン(は幻に 終わった新自由主義)がもたらす冷酷な世界。考えてみればロック文化が世界的に、あるいは米国において昔にくらべて弱体化したのも、中間層の弱体化と関係しているのかもしれない。それは白人史観だと言われそうだが、なんだかんだいって大戦後の大衆音楽文化を支えた主成分は彼らであり、ウッドストックもそうだった。それがパンクでは、あらゆる階層が交錯したかもしれない。しかしいま下北沢を歩いても、新宿2丁目あたりを歩いても、残酷なほどクリーンになっている。数年前に改築された下北沢の小田急の駅は不便極まりないし。
90年代までは日高理樹のような人が下北にはたくさんいた。平日の昼下がりに暇を持てあました若者が道ばたに座っている風景も、珍しくはなかった。しかしいまでは観光客の外国人が道ばたに座っているその横を、まるでそれが視界に入っていないかのように、人はさくさく歩いている。日高理樹の音楽も同じように、それがなかったかのように忘れられるのだろう。聴こえない人には聴こえない音楽。見えない人には目の前にいても見えない人。
彼はすでに2枚のアルバムを発表しているようだ。これは3枚目のアルバムになるのだろうか、リリース元は広島のレコード店〈Sereo Records〉。グルーパーのようなドローン・フォーク調の曲があり、物静かな作品ではあるが、90年代末のキャレクシコのようなローファイ宅録ならではの捻りと面白味をもった曲もある。何も持たない人間が多重録音して作った音楽で、スタイルこそまったく別ものだが、ムーンドッグの音楽のような無邪気さ/誠実さも感じる。タイトルが言うように、彼は「見捨てられた(Abandoned)」領域に侵入する。ドアを開けて部屋に佇み、静かに微笑んでいる。
わからない。彼の音楽に気がつく人は、ぼくが考えているより多くいるかもしれない。ぼくがこんな仕事を続けているのも、こういう人たちがいるからで、日高理樹のような人たちがいない世界を望んでいないからだと思う。というか、間違いなくそうだ。

DYGL 




ダブステップ・シーンから火が点いた2562ことア・メイド・アップ・サウンドは近年、そのイメージから離れていくように、尖った実験性を持ってダンスフロアに面白い提案を投げかけている。レフトフィールド・サウンド筆頭レーベル〈スード〉から発表したこのコラボレーションもそのひとつ。
ドント・ディージェイという名前からもレフトフィールドぶりが伝わって来る彼は、デビューから一貫してポリリズムによるミニマルな陶酔性を探求している。中でも特にこの”ガムラン”は出色の仕上がり。
何度も制作を共にしているポーン・ソード・タバコ(PST)とSVNのふたり。簡素な4つ打ちリズムの中に潜むロウなテクスチャーとじんわりと滲み出てくるトロピカルなムードによる反復の快楽がたまらない。
00年代を代表するアンセム“レイ”を生んだアムの一員、フランク・ヴィーデマンの初ソロ作品に収録されているトラック。電子音による特異なセッション空間とグルーヴを実現している。
ドント・ディージェイ、そして彼が参加するプロジェクトであるザ・ドリアン・ブラザーズ、ひび割れたトロピカルサウンドが特徴的なハーモニウス・セロニウスの楽曲をコンパイル。その共通項にあるのはやはりポリリズム。