Home > Reviews > Film Reviews > バンクシー・ダズ・ニューヨーク - BANKSY Does New York
バンクシーの作品を見ていると、グラフィティ・アートというのは、何を書くか、ではなく、どこに書くか、がアイディアの9割なんだなとよくよくわかる。ロンドンのテイトやNYのメトロポリタンなどの美術館、ディズニーランドや動物園、パレスチナの分離壁から観光名所まで。アイロニックで、しばしば反芸術的なほど思い切った叙情的、感傷的でわかりやすい物語を臆面もなく盛り込むバンクシーの作品は、それが描かれ、置かれる場所によって即座に無敵の攻撃力を備えてしまう。
2013年10月に選ばれた「場所」はニューヨーク・シティ。毎日、市内のどこかに作品を展示するという告知に、ファンやマスコミは大騒ぎ──この映画の主役はこの展示そのものだ。文化的なアートの街は、再開発で金持ちしか暮らせなくなっている。猥雑と多様性と変化と寛容の空間だった「都市」は、広告が貼りめぐらされ監視カメラに見守られる、清潔で安全で流動性のない不寛容な空間に成り果てている(これは世界中ほとんど同じことだ)。
そもそもグラフィティ・アートは存在を許されていないものだった。生まれた瞬間から消される運命にあって、多くの敵に囲まれている。その運命に逆らって束の間の表現として現れては消える花火みたいなもので、いいとか悪いというものではなく、都市とはそういうものだった。ところがバンクシーのグラフィティ「作品」は行政の特別扱いで保存され観光名所になったり、あるいは壁ごと売買されたりする。他のグラフィティ同様いつ消されるかわからない非合法な存在ながら、オークションで高値をつけて流通もするという矛盾がまた別の敵視を呼んだりもする。「都市や屋外や公共の場所こそ、アートが存在するべき場所なんだ。アートは市民とともにあるべきだ」と言うバンクシーがこの作品で描いたのは、1970年代くらいまで「都市」と呼ばれていたあの空間そのものだ。いや、違う。資本主義の商品でしかなくなり、消滅しかかっている都市の(懐かしい)空気をも相対化して、21世紀の新たな都市空間を作り出している。“展示”をお祭りのように楽しもうとする市民やファン、どこかに金儲けのチャンスがないかとうかがう画商や“庶民”たち、“落書き”を一刻も早く消そうとする者や保存しようとする者も、アンチ・バンクシーの手で重ね書きされた作品の“修復”をする者もいる。汚れていく壁、正体不明、群がる群衆──それぞれがそれぞれのやり方でこの予測できない事件を体験し、楽しもうとする。狂奔するメディア、さらに思いがけない裏をかくバンクシー。
“展示”によって現れるすべての現象が、いまではすっかり鳴りを潜めている「都市的なもの」を活性化する。この映画もまたそのひとつだ。2013年10月にニューヨークで起きたことを追いかけるこの映画は、バンクシーの展示へのリアクションへのリアクションでもある。
すべては、追いきれないほどのスピードで疾走する。案の定であり予想外であり、既知であり未知であるそれらエピソードのひとつひとつが追いきれないほどの意味と無意味のシャワーになって頭の中を揺さぶる。どんなメディアも、どんな野次馬も、どんな反骨のグラフィティ作家も、あるいはどんな資本主義的野心すら、バンクシー独特の手法と行動力が凌駕する。再開発ラッシュで更地だらけになってきた東京の、オリンピック後の生き方にまで想像が伸びてゆくだろう、きっと。
文:水越真紀