「レイヴ・カルチャー」と一致するもの

Protest Music Special - ele-king

 世界でもっとも乗降者数の多い新宿駅のすぐ目の前で、昨日実施された反戦パーティ「DROP BASS NOT BOMBS」。DJ Quietstorm(桑田つとむ名義)をはじめとするDJたちによる、すばらしきハウスの祝宴。まるでアンダーグラウンドのクラブをまるごと地上に強制召喚したかのような……あの “Strings of Life” の興奮はひと晩経ったいまもなお胸の奥で尾を引いている。
 先日のGEZANによる武道館での公演もアツかった。問題は山積みだけれど、いまカウンターカルチャーは盛り返している。勇気ある彼らの声に耳を傾けていると、まだまだ世の中捨てたもんじゃないという気になってくる。

 というわけで本日3月30日、『別冊ele-king 音楽が世界を変える──プロテスト・ミュージック・スペシャル』発売です。GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーやProtest Raveの創始者、Masr89とMiru Shinodaをはじめ、シンガーソングライターの寺尾紗穂、ラッパーのダースレイダー、新世代の春ねむりやDANNY JINといったアーティストたちがそれぞれのことばで力強く語ってくれています。独立オンライン・メディア『ポリタスTV』の津田大介、日本におけるバンクシー研究の第一人者にして『ストリートの思想』の著者でもある毛利嘉孝のような識者の方々にも話を聞きました。この困難な時代をどう生きていくべきか、きっとそのヒントが得られるはずです。
 はじめましょう、ここから。よりよき未来に向けて。

目次
世界を変える音楽の力(野田努)

[インタヴュー]
Mars89Miru Shinoda 低音で空間を制圧する──Protest Raveのこれまでとこれから(小林拓音/野田祐一郎)
寺尾紗穂 ガラッと変わってしまった世界で、それでも歌いつづける(二木信/川島悠輝)
津田大介 社会全体が不感症になっているいまこそ音楽の力が必要だ(二木信/河西遼)
マヒトゥ・ザ・ピーポー 俺はすごく面白いですね、この流れはすべて、試されてるなと思う(野田努+小林拓音/野田祐一郎)
ダースレイダー 乱世にこそ輝くヒップホップ(二木信/河西遼)
毛利嘉孝 『ストリートの思想』の著者が俯瞰するここ20年の日本の変化(二木信+小林拓音/小原泰広)
春ねむり 沈黙しない音楽(野中モモ)
DANNY JIN そのラップは多くの人びとに勇気を与える(二木信/河西遼)

[コラム]
一声二節三臓のちから──日本の大衆歌が育んできた豊かな想像力(中西レモン)
橋の下でうごめく、新たな自治空間──「橋の下世界音楽祭」の挑戦(大石始)
ECDの軌跡──『失点 in the park』に刻まれた選択と孤独(高久大輝)
2003年、反戦サウンドデモの思い出(水越真紀)
いま台湾から世界が変わりはじめている──台北レイヴ・カルチャーの一側面、〈Urban Legend 1.0〉とSssound Without Borders(二木信)

[特別インタヴュー]
ニーキャップ 彼らがアイルランド語でラップする理由 (イアン・F・マーティン/竹澤彩子)

プロフィール

菊判220×148/208頁
装丁:大倉真一郎+安藤紫野
表紙写真:野田祐一郎

音楽には世界を変える力がある──

混迷きわまる現代日本において、声をあげつづける音楽家たち

[インタヴュー]
マヒトゥ・ザ・ピーポー
寺尾紗穂
Mars89+Miru Shinoda
津田大介
ダースレイダー
春ねむり
DANNY JIN
毛利嘉孝

[特別インタヴュー]
ニーキャップ

菊判220×148/208頁
装丁:大倉真一郎+安藤紫野
表紙写真:野田祐一郎

目次

世界を変える音楽の力(野田努)

[インタヴュー]
Mars89Miru Shinoda 低音で空間を制圧する──Protest Raveのこれまでとこれから(小林拓音/野田祐一郎)
寺尾紗穂 ガラッと変わってしまった世界で、それでも歌いつづける(二木信/川島悠輝)
津田大介 社会全体が不感症になっているいまこそ音楽の力が必要だ(二木信/河西遼)
マヒトゥ・ザ・ピーポー 俺はすごく面白いですね、この流れはすべて、試されてるなと思う(野田努+小林拓音/野田祐一郎)
ダースレイダー 乱世にこそ輝くヒップホップ(二木信/河西遼)
毛利嘉孝 『ストリートの思想』の著者が俯瞰するここ20年の日本の変化(二木信+小林拓音/小原泰広)
春ねむり 沈黙しない音楽(野中モモ)
DANNY JIN そのラップは多くの人びとに勇気を与える(二木信/河西遼)

[コラム]
一声二節三臓のちから──日本の大衆歌が育んできた豊かな想像力(中西レモン)
橋の下でうごめく、新たな自治空間──「橋の下世界音楽祭」の挑戦(大石始)
ECDの軌跡──『失点 in the park』に刻まれた選択と孤独(高久大輝)
2003年、反戦サウンドデモの思い出(水越真紀)
いま台湾から世界が変わりはじめている──台北レイヴ・カルチャーの一側面、〈Urban Legend 1.0〉とSssound Without Borders(二木信)

[特別インタヴュー]
ニーキャップ 彼らがアイルランド語でラップする理由 (イアン・F・マーティン/竹澤彩子)

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* 発売日以降にリンク先を追加予定。

Eris Drew - ele-king

 プレイリストは便利だ。こんな気分で、この雰囲気で、このジャンルで、この時代で。いまや、そのセレクトすらも個人の聴取履歴をみてAIが瞬時にやってのけるのだから。ためしにサブスクで「アンビエント・ディープ・ハウス」なる単語を適当に叩いてみたところ、早速プレイリストを見繕ってくれたし、それが意外なほどに綺麗にまとまっているのだ。サブスクの時代、プレイリストの時代、AIの時代……。なんて便利な時代。では、こんな時代にDJのミックスCDを聴く理由は?

 ベルリンの〈!K7〉によるシリーズ『DJ-Kicks』から、活気のほとばしるミックスが届けられた。同シリーズは圧倒的なデトロイト・パワーを見せつけた2023年のセオ・パリッシュが記憶に新しいが、デトロイト勢のみならず間違いのないDJをカタログに揃えるこの長寿シリーズに、シカゴのヴァイナルDJ、エリス・ドリューが仲間入りした。
 トランスジェンダーのレズビアンを自認する彼女は、90年代にシカゴ第2世代のリル・ルイスが地下でおこなったウェアハウス・パーティでハウスに遭遇すると、ほどなくして自身のような孤独を抱えた「はみ出し物」が受け入れられる場所は、レイヴ・カルチャーのなかにあると気づく。DJとしての特徴は何と言っても、“こんな時代” に逆行するかのごとく、便利とは言いがたいヴァイナルに対する偏愛を持っていることだろう。それは、昨今のレコード・ブームなる生半可なものではない。8000枚に及ぶコレクションを携え世界中を飛び回る彼女は、針圧はおろかプレイする際の機材スペックにも並々ならぬこだわりをもつ。2023年〈RDC〉でのDJ NOBUとのB2Bで初めて彼女のセットを体験したが、ミキシングを基本とする四つ打ちが出自にありながら、時折大胆なスクラッチやジャグリングをも駆使するアグレッシヴなスタイルは、いまでもはっきりと目に焼き付いている。今回のミックスもそのスタイルに違わない、79分に及ぶオールヴァイナル・ミックスだ。録音/制作は、『ele-king vol.35』でも取り上げた彼女の鮮烈なデビュー作『Quivering in Time』と同じく、自然豊かなニューハンプシャーの小屋にて。

 序盤、ゼン・エクスペリエンスによるブレイクス曲が投入されるが、Discogsのアーティスト・ページには12インチがひとつのみ。あるいは、トーカ・プロジェクト “Toka Love Project” は、ハウサーなら外せない90年代ディープ・ハウスのレーベル〈Guidance〉からの知る人ぞ知る一品。かなりディープなところまで連れて行く。しかしエリスは好事家向けのディガー的ゲームは展開しない。ここにはモービーのような大御所の名前もあれば、DJガースの魅惑的なアシッド、さらにジョシュ・ウィンクの愛したレイヴ・クラシック、カリスト “Get House” までスピンされる。あるいは、エリスのパートナーであり〈T4T LUV NRG〉を共同運営するオクト・オクタとの共作を含む自身の曲もいくつかあるのだが、極め付けは “Momentary Phase Transition” で、ニューヨークの伝説的カッティング技師に頼み込み、この完全な新曲を『DJ-Kicks』にミックスするためにアセテート盤を作ったというこだわりぶりをみせる。アセテート盤のような著しく耐久性の低い素材において、彼女のプレイ・スタイルでミックスなど可能なのか。しかし脆い溝に針を落とし、彼女はやってのけた。
 フロアに居場所を見出し、90年代を駆け抜けた彼女のブレイクビーツ/レイヴ/ハウス・サウンドが詰まっており、それが自身の曲、クラシックあるいはオブスキュアにかかわらずひとつの物語としてミックスされる。レコードでは、非の打ちどころのない繋ぎは不可能だろう。針と溝が擦れる微かなノイズ、あるいは微妙なビートのズレも時々生じるかもしれない。完全とは言い難い生々しさは、彼女の肉体が刻んだリズムのドキュメンタリーをヴァイナルという物質を通じて観ているようだ。綺麗にまとまったプレイリストが溢れる “こんな時代” だからこそ、エリスの身体を通じた不完全さがこのDJミックスを、単なる選曲集ではなく生々しい物語たらしめている。それこそが、ヴァイナルへの偏執をみせるこの作品が輝いている理由なのだ。

書籍『レイヴ・カルチャー』解説 - ele-king

 正確にそれがいつだったのかは憶えていない。2000年代に入ってから、ダンス・ミュージックがEDMと呼ばれはじめた頃、あるDJとの会話のなかでその話題になって、彼が言った言葉がいまでも忘れられないのだ。「なにせ近頃のレイヴにはスポンサーが付いているからね」、皮肉たっぷりに笑みをうかべて彼はそう言った。「マジかよ」「信じられないよな」。これは「近頃のサッカーは手を使ってもいいらしいぜ」と言われたようなもので、本質的な矛盾なのだ。そう、しかしながら、2025年に近づこうとしている現在では、むしろ逆かもしれない。「え? スポンサーも付けずにレイヴを開催するの? マジかよ」

 レイヴ・カルチャーは、本質的にアンダーグラウンドな、しかし巨大なムーヴメントだった。あっという間に拡散し、ここ日本にも1992年には飛び火したことが確認されている。
 レイヴ・カルチャーから見える景色は、人それぞれだろう。汗だくで踊る人びと、笑顔、倉庫の壁、英国の田園地帯……、宗教的な体験をしてしまった人も多かったし、資本主義の向こう側を幻視してしまった人だって少なくなかった。
 本書が詳説しているように、レイヴ・カルチャーのレジャー産業化には時間を要さなかった。だが、そこから溢れ出たものすべてを資本主義が回収するには、このサブカルチャーのユートピア的な可能性のスケールのほうが上回っていた。その象徴的なシーンが、本書の第6章後半に書かれている〈スパイラル・トライブ〉と〈DiY〉が先導したフリー(無料)・レイヴだ。〈DiY〉は、ぼくが経験したレイヴのひとつである。

 それは、無許可のレイヴを禁止するための法案、CJBが法律となって(すなわち “ビル” ではなく “オーダー・アクト” になって)から4年後の、1997年のことだった。ぼくが英国の音楽文化に惹かれた理由のひとつが、政府からの弾圧に対して必ず「なにくそ」という動きが出てくるところだ。〈DiY〉は一時的自律ゾーンとしてのレイヴ・カルチャーを継承すべく活動を続けていた、イングランド中部のノッティンガムを拠点とするパーティ集団(およびレーベル)だ。1991年に始動した彼らはそれまで何度か逮捕され、何度か機材を没収されていたが、その当時もまだ無料レイヴを続けていた。
 レイヴ開催の情報は、もちろん口コミ、電話連絡のみだ。警察に知られないようにやるわけだから、フライヤーなど捲くはずがない。おおよその場所を知って、車を走らせる。牧草地帯のなかを1時間以上進むと、やがて彼方にレーザー光線が見える。うぉぉぉぉ、車内では歓声が上がる。しばらくすると、キックの音が聞こえる。会場はもう近い。さらにずっと進んでいくと、数台の車が駐車して、並んでいる。自分たちもそこに車を駐車し、暗闇のなか明るいほうに向かって歩く途中、金網のフェンスに当たったが、よく見ると、そこには人がひとり通過できる穴がこじ開けられていた。フェンスのなかに入って、草を踏みながら音のほうに進んでいくと、前方に見える倉庫のなかで人びとが踊っているのがわかる。レイヴだ。
 この話はなんどか書いているので端折るが、明け方には警察に包囲され、ぼくといっしょに行った友人たちは運良く、いま思えばほんとうに運良く朝日のなか会場を後にすることができた。そのときいっしょだった友人から、本書『レイヴ・カルチャー(原題:Alterd States)』のことを教えてられたのは、〈DiY〉の無料レイヴの興奮さめやまぬ1997年の冬だった。かくしてぼくは、その翌年ロンドンで本書の第二版を購入するのだった。

 マシュー・コリンの『レイヴ・カルチャー』は、それが出版された当時から絶賛されている。これほど包括的に、ジャーナリストとして、そしてインサイダーとしてあの時代を詳述している書物はほかにない。音楽評論家、サイモン・レイノルズの『Energy Flash : A Journey Through Rave Music and Dance Culture』もMDMAとアシッド・ハウスを触媒に急展開した1990年代のダンス・カルチャーを描いた本として知られるが、こちらは時代のなかで細部化されていくスタイル(ハウス、テクノ、ジャングル、トリップホップ、エレクトロニカ等々)を追いながら、アーティストや音楽作品にスポットを当てている。著者の好み(ジャングルへの偏愛、IDMへの嫌悪)も反映された、批評的な読み物になっている。本書にも著者の好みが反映されているのだが(ハッピー・マンデーズへの愛情、バレアリックへの他人事感)、『レイヴ・カルチャー』のすべての小見出しが「場所」の名称になっている点に注目したい。重要なのは場所なのだ。ここに著者のこだわり、レイヴの哲学が垣間見える。重要なのはスターではない。その場所に集まる人びとであって、音楽そのものなのだ。ぼくが初めて本格的なレイヴに行ったのはずいぶん遅く、1993年になる。ブリクストン郊外の工場跡地のような場所で開かれていたパーティで、もちろんフライヤーなどない電話による暗号めいた口コミによって集まっている。その際、ただひとこと伝言されるのは「場所」(通り名)なのだ。
 もっとも、そのブリクストン郊外のレイヴは、セカンド・サマー・オブ・ラヴからすでに5年も経っていたので、商業的なイベントではなかったが形式化はされていたし、ロンドンということもあってスタイリッシュな若者が多かった。しかしながらノッティンガムの無料レイヴとなると、町の電気屋がPAや照明の配線を指揮し、パートタイマー風の女性や労働者たち、あるいは大麻好きの老人とか、まあ、あまりお洒落ではない人たちもベーシック・チャンネルやロン・トレントで踊っていたのである。ぼくが最初にレイヴ・カルチャーに感じた悦びのひとつにはそれがあった。ぼくはそれ以前にも、ロックのコンサート、あるいはハスウやテクノのパーティで知らない人たちと盛り上がった経験があったけれど、それは同じ趣味の者同士の集まりだ。レイヴや、レイヴ的な感覚の強いパーティにおいては、ふだんの生活においては知り合うことのない人たちと出会うことになる。踊ったり、話したりしながら、彼ら・彼女らとの共同体感覚を覚える体験は、ぼくには新鮮だった。

 MDMAがレイヴ・カルチャーの燃料になったことは隠しようのない事実だ。では、このドラッグがなければ何も生まれなかったのかと言えば、そうではないだろう。1970年代の英国にはノーザン・ソウルと呼ばれるアンダーグラウンド・パーティの文化があった。レイヴ・カルチャーの青写真と言われるそれは、英国中北部の労働者階級の若者たちから生まれ、発展したもので、公民館のような場所を借りて、DJがかけるアメリカ産のブラック・ダンス・ミュージック(この場合は、70年代のシカゴやデトロイト、フィラデルフィアのソウル)にあわせて汗だくになって踊るシーンだ。〈DiY〉の音楽的師匠がシカゴのディープ・ハウスだったことは、彼らがノーザン・ソウルの伝統と繋がっていることを物語っている。
 また、第6章で詳述されているように、1980年代の英国にはヒッピー・アナーキストによる無料フェスティヴァルのシーンが、政府からの弾圧に遭いながらも成長していた。そして、それがレイヴ・カルチャーと交差したとき、大衆文化におけるもっともアナーキーな形態が具現化する。1992年5月22日から一週間ぶっ通しで開催されたキャッスルモートン(その公共の場)でのレイヴは、イギリス史上最大級の非合法フリー・レイヴとなった。この一大事件が、いかに警察の監視を煙に巻きながら実行されたかは本書に詳しい。それは歴史的な出来事で、とどのつまり、英国における監視社会の強化とレイヴ禁止への必要性を国家に強く認識させたのは、5万人を集めたこの無料パーティだった。
 その背景には、マーガレット・サッチャーの新自由主義によって変えられた社会構造や価値観がある。幸福とは物質的な豊かさを意味し、町の個人商店は企業の進出にとって閉店を迫られ、誰もがクレジットカードを持てるようになり、人生とは熾烈な競争を意味するようになった。囲い込みなき支配が進行するなか、レイヴ・カルチャーにおける過剰さに若者たちの希望の見えなさが反映されていたのだとしたら、仮にMDMAがなかったとしても、既存のシステムを寄る辺としないなんらかの集団的な熱狂は起きていたと考えられる。
 だが、やはり、MDMAがなければこの文化は生まれなかった。ドラッグに関する評価は慎重にならなければならないが、共感力や愛情をありえないほど増大させてしまうエクスターがダンス・カルチャーと融合したことで、多くの人間が同じ場所で同じ時間、前代未聞と言えるほどの前向きな世界を幻視したことの意味は小さいものではなかった、少なくとも音楽にとっては。レイヴ・カルチャーを起点に、その後10年のあいだにいったいどれほどのすばらしい音楽が創出されたことか。
 初期のジャングルのシーン(第7章を参照)から登場した4ヒーローがよくよく主張するように、レイヴ・カルチャー(ことにジャングル)のすべてをMDMAと結びつけるのは間違っている。同ユニットのマーク・マックはこれまで口が酸っぱくなるくらいに強調している。自分が行ったレイヴでぶっ飛んでいたのはごく少数で、ほとんどのダンサーはドラッグ無しで踊っていたと。レイヴの現場にいた人間のひとりとして言えば、その通りだと思う。シラフで踊っていた人たちや4ヒーローのようにアンチ・ドラッグのアーティストは何人もいる。
 だからMDMAがすべてではないが、しかしやはり、その影響は否めない。たとえば、どんなかたちにせよ、日常的な思考の枠組みを超越してしまうことは、当たり前だと思っていた観念を相対化する。反資本主義へとハンドルを切ったフリー・レイヴのシーンもさることながら、もうひとつ象徴的だったのは、1993年に起きたニューエイジ・トラヴェラーズの顕在化だった。レイヴを経験し、学校や親から教えられた人生の設計図が必ずしも絶対的なものではないと気付いた子どもたちが次から次へと家出し、ニューエイジ・トラヴェラーズ、すなわちキャラバンを住居とする流浪の民となったという話で、そのほとんどが中産階級の子どもたちだったことも、先述したレイヴ禁止法案の可決を急がせている。

 1994年に可決されたレイヴ禁止法として知られる悪名高き「Criminal Justice and Public Order Act」は、若者文化/カウンター・カルチャーに対する明白な政治的な弾圧であると同時に、公共空間をめぐる政治的議論にも発展した。ぼくが催涙ガスを浴びたのは、1993年(ちなみにこの年ぼくは都合6回渡英している)秋の反CJBデモに参加したときのことだった。それはレイヴのみならず集会の自由/公共権を奪うものを意味するとして、多くの一般市民が反対デモに参加した。数万人の参加者はトラファルガー広場に集まって、ハイドパークを終点として市の中心街をシュプレヒコールしながら歩いたわけだけだが、ハイドパークの入口にまで来たとき、警官隊が整列しているそのすぐ近くに一台の大きなトラックが待ち構えていた。そして、こともあろうかそのトラック(のちに〈DiY〉と判明)は、いきなり爆音でハウス・ミュージックを鳴らしたのである。すると、そのうちのひとりがトラックのルーフによじ登って踊りはじめ、ズボンを脱ぎ、警官隊に向かってお尻を突き出したそのときだった。デモ隊からわれんばかりの歓声があがると、人びとが石を持って警官隊めがけて投げた。
 これが、翌朝の新聞の一面で報道された(人頭税反対のとき以来の)暴動のはじまりだった。ハイドパークには火が点けられ、暴れる人びとを威圧するため騎馬隊が大勢やって来た。ぼくは必死で逃げ回りながら、セントラルパークを脱して、通り沿いのマクドナルドに入ったものの、しかし店の窓ガラスにも投石があり、ガラスは割れ、流血もあり、テーブルの下に身をかがめるという……いまでもそのときの光景をありありと思い出すことができる。レイヴ・カルチャーは、たんなる快楽主義を燃料としただけだったのに、これほど大きな社会的/政治的な出来事でもあった。それが市民運動化する展開、336ページから338ページにわたって紹介されている〈リクレイム・ザ・ストリート(ストリートを取り戻せ)〉こそ、日本のサウンドデモがヒントにした発想/形態である。

 その後英国では、アカデミアにおいてもレイヴ・カルチャーは研究されている。その典型的な例をいえば、監視資本主義社会や権力を研究したフーコー/ドゥルーズ的な解読がある。国家が管理する時間からの逸脱、すなわち純粋な無用性による自律ゾーンが大衆文化によって生まれたという歴史的な事実は、これからもさらに研究され、語り継がれていくことだろう。
 2023年には、おもにフリー・レイヴに焦点を当てたドキュメンタリー映画『Free Party: A Folk History』が公開された。また、いまでは伝説となったキャッスルモートンでのフリー・レイヴに関しては、2017年にはBBCが『Castlemorton: The Rave That Changed the Law』というドキュメンタリーを制作し、放送した。レイヴ・カルチャーに関する決定的な文献としてベストセラーとなった本書も、2010年には新装改訂版が出版されている。
 この日本版は2010年版の完訳というわけで、最初に著者が2009年に書いた序文が加えられている。「あれは特別な時代だった」、ぼくもまったくその通りだと思う。そしてコリンが自らに問うてるように、ぼくも自分に問い続けている。それ以上の何かだったのか? それともただたんにドラッグ熱にうかれてやってしまったことなのか? 決定的な回答などないが、あれが特別な何かだったことはたしかだ。コリンは、あのシーンのインサイダーのひとりとして、ほんとうに意味のある本を書いてくれた。ぼくは本書のほとんどすべてに共感できるが、もっとも好きなのは、じつはハッピー・マンデーズに関して書かれたところかもしれない。理由は、個人的にとくに好きだったわけではないこのバンドのことを、本書を読んで好きになったからだ。
 本書はたった一行(スコットランド紙幣のばらまき事件)しか触れられていないが、ほとんどの音楽ジャーナリズムがレイヴ・カルチャーを「顔が見えない、音楽性がない、無意味だ」と酷評してい時代に、レイヴの高揚、(サッチャーが不要なものとした)連帯性、型破りな推進力をポップ・ミュージックとして表現したのがザ・KLFだったことも追記しておきたい。また、ロック・バンドのパルプの1995年の曲、“Sorted for E's and Wizz”についても記しておくべきだろう。これは、M25環状道路から少し離れた場所にある広場で、何千人もの人びとと一緒に過ごすことについて歌った曲である。じっさい彼らのヒット曲“Common People”はトニー・ブレア時代のアウトサイダーたちのアンセムとなって、この曲は人びとをレイヴのように盛り上がらせたのだった。

 ジャングルについて書かれた第7章「都市のブルーズ」が気に入っているのは、1992年当時の爆発したてのこのシーンの現場を体験しているからでもある。サイモン・レイノルズはそれを「ハードコア連続体」と、なかば通俗のロマン化と言えなくないも言葉で賞揚しているが、多くの批評家が過小評価したこの移民文化は、たしかに過剰なシーンだった。その章に登場するシャット・アップ・アンド・ダンスについて若干の補足をしておく。英国特有のサウンドシステム文化とアメリカのヒップホップ/そしてソウルIIソウルに影響され誕生したSUADによる楽曲は、当初はブレイクビート・ハウスと呼ばれ、メインストリームのアーティストの露骨なサンプルが使われていたことで知られる。海賊ラジオを介してヒットした彼らの曲は、アンダーグラウンド内での成功として完結されるはずだった。ところが、1992年に“Raving I’m Raving”なる曲が国内チャートの2位という大ヒットによっては急変した。この前年のアメリカでは、ビズ・マーキーの“Alone Again”のサンプリング使用をめぐる裁判があった。最終的に裁判官がそれを「窃盗」と判決したことで歴史は急変し、サンプリングを使った音楽すべてが態度をあらためなければならなくなった。英国のSUADは、ヒットしたばかりに“Raving I’m Raving”に関するサンプリング使用で訴訟を起こされたばかりではない。過去の楽曲ににまでもその調査はおよび、結局、彼らはヒットしたがゆえにレーベルを畳むしかなかった。2004年、10年ぶりにアルバムを発表したSUADは政治的に先鋭化され、そのタイトルは『リクレイム・ザ・ストリート』だった。

 マシュー・コリンはノッティンガム出身のジャーナリストで、本書は彼にとって初の著書になる。2001年には西側諸国では詳細が見えづらい、ユーゴスラビアのベオグラードにおけるパブリック・エナミーやザ・クラッシュ、デトロイトのアンダーグラウンド・レジスタンスの影響力とセルビアの反体制文化を支えるラジオ局〈B92〉を描いた『This is Serbia Calling』をもってさらに評価を高めている。2007年にはセルビアからジョージア、ウクライナまでの若者たちの社会運動を現地取材し、掘り下げた『The Time of the Rebels』を上梓、2015年にはマーク・フィッシャーのZero出版からパブリック・エナミーおよびフェラ・クティ、ラヴ・パレード、プッシー・ライオットなど、音楽が政治・社会運動とどう交差するかを綴った『Pop Grenade』を刊行、多くの識者からの賛辞を得ている。『ビッグ・イシュー』、『i-D』、『タイム・アウト』といったメディアのウェブサイト編集者も務め、『ガーディアン』、『オブザーヴァー』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』をはじめ数多くの新聞や雑誌に寄稿している。BBCやアルジャジーラといった国際メディアの特派員も経験しているコリンだが、本書を読めばわかるように音楽への愛情、ことに民衆に力を与えるレベル・ミュージックに対する共感には並々ならぬものがある。 

文:野田努

Rave Culture - ele-king

 『レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語』、長らく入手困難状態にありましたが重版しました。重版の奥付(いちばん最後のページ)にはQRコードがあり、読み込むと特典の野田努の解説(久保憲司とともに、日本人ライターとしては当時のUKレイヴを経験している数少ないひとり)が読めます(7月31日以降)。
 同書は、当時のイギリスの社会背景のなか、アシッド・ハウスとMDMAを引き金に誕生し、やがて英国を揺るがすほど猛威をふるったこのサブカルチャーのありのままの歴史が読める本で、マシュー・コリンという信用できる真面目なジャーナリストが書いた名著です。
 また、同時に、これまた長らく入手困難状態にあった『ハウス・ディフィニティヴ』も重版しました。ハウス・ミュージックは、ぼくたちにとってつねに故郷です。一家に一冊。よろしくお願いします。

レイヴ・カルチャー──エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語
マシュー・コリン(著)坂本麻里子(訳)
四六判並製/448ページ
ISBN: 978-4-910511-02-3
本体 2,700円+税

https://www.ele-king.net/books/008314/

HOUSE definitive 増補改訂版
西村公輝(監修)猪股恭哉+三田格(協力)
A5判並製/オールカラー/304ページ
ISBN: 978-4-910511-48-1
本体 2,700円+税

https://www.ele-king.net/books/009195/

Greil Marcus - ele-king

 映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』を、去る5月某日水曜日の午後、下高井戸の映画館で観た。都心での興行を終えてからの上映だ。平日の昼過ぎ、さぞかし空いていることだろうと思ったが、上映時間の10分前に到着したら長い列が待っていた。整理券をもらうと69番目、ぼくのうしろにも人は並んだ。客席の7割はぼくよりも年配の方々だった。彼ら・彼女らは、このスタア誕生物語をどのように思われたのだろうか、と観終わってからぼくは思った。
 何人かの知人からは「これで若い子たちが興味を持ってくれればいい」という前向きの感想を聞いた。映画の内容はともかくディランに注目する機会をもたらしたんだからそれでいいんじゃないのか、と。じっさいに年齢が若い子や若くはないがこれまでディランに関心のなかったひとたちがこれでディランを聴くことになればいいじゃないかという意味だ。
 なるほど、だとしたら、この映画で興味を持った人たちたちが、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルではハウリン・ウルフも出演して、5万人の聴衆のなかの黒人たちは立ち上がって踊っていたこと、“風に吹かれて”を聴いてサム・クックが“チャインジ・ゴナ・カム”を作ったこと、ディランが市民運動史における最初のクライマックス、ワシントン行進でジョーン・バエズらと歌っていること、もっと言えばスーズ・ロトロが公民権運動にコミットしていたこと等々の基本的なこともいずれは知ることになるのだろう。“ライク・ア・ローリング・ストーン”が6人編成のバンドといっしょに2日間にわたって24テイク録音し、4ヴァースで構成された6分ほどの曲を通して演奏できたのはわずか2回だけだったことであるとか、そして、バエズをして「最高のプロテスト・ソング」と言わしめた、あのすばらしい“ハッティ・キャロルの寂しい死”、あるいは“はげしい雨が降る”を聴いて、ぼくのようにあとから聴いた人間のなかにも忘れがたい深い余韻を残すことになるのだろう。
 だとしたら、あの映画では、古い価値観に縛られた迷惑な化石として描かれているアラン・ロマックスのような人たちの、「フォーク・ミュージック」を探し、集め、その魅力を伝えるために費やした労のことも知ることになるのだろう。というか、本来「フォーク・ミュージック」というものが、アコースティック・ギターの弾き語りのことではないという歴史的な事実を知ることになるのなら、ぼくも「これで若い子たちが興味を持ってくれればいい」と言おう。音楽には二種類あって、権威に守られてきた音楽、庶民のあいだで(記譜されることなく)歌いつがれてきた音楽、「フォーク・ミュージック」は後者の音楽のことである。
 映画が間違っていると言いたいわけではない。あれはあれでたしかにディランなのだ。夜でもサングラスをかけるファッション・スタイルを確立し、ストーンズと同様に「生意気な振る舞い」を定着させたのはディランだ。既存の価値観をせせら笑うアウトサイダー、そんなロックスターの原型を作った男……。
 もっとも、ディランのなかにはいろんな人格(キャラ)があって、そのすべてがディランであるという、ややこしさがある。もうひとつのディラン公認のディラン映画『アイム・ノット・ゼア』では、6人の役者が六つのディランを演じているわけだが、我らがボブ・スタンレーはディランについてこんな風に書いている。「ディラン以前には、すべてのポップスターは外の世界にペルソナを投影していた。(…)ビートルズやストーンズでさえ自分たちが何者であるかをはっきり伝えていた。ボブ・ディランは違った。(…)彼はまるで自分だけの惑星のようで、人びとは必死にその惑星への行き方を知りたくなった」。ガーランドにしろホリデーにしろシナトラにしろプレスリーにしろ、彼女・彼らにははっきりとしたひとつの個性(自己イメージ)があった。しかしディランというのは、自分をひとつの個性で売り出すことを拒んだ最初のポップスターだった、とスタンレーは言っている。
 ディラン研究のベテラン、グリール・マーカスも大枠はそうだ。ディランの多面性を「他者のなかに自分を見る」能力に由来すると見ている。ディランの共感力、他者の人生との同一化、ディランの本質はそこにあると。

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 マーカスが2022年に上梓した『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』の日本版を7月末に刊行できることになった。この本では映画の “スタア誕生物語” 的な性質は削除され、話の単純化によって犠牲になったものたちが幽霊のように浮かび上がっている。とくにアメリカの抑圧と暴力のなかで存在する黒人文化(ブルース、そして公民権運動)、それらと共鳴していたアメリカのフォーク・ミュージックに焦点が当てられている。それはもう、マーカスのおはこである。
 ぼくもグリール・マーカスの『ミステリー・トレイン』に衝撃を受けたひとりだ。ロックについて書くことが、その人気にへつらった付属物でも、偉そうな審査員でも、安っぽい自分語りでも、情報オタクでもなく、ひとつの独立したエッセイたり得るか、それを最初に、しかも極めて大胆に、かつ学究的でありながら情熱的に具現化した最初の本だ。音楽作品と映画、文学を横断しながら歴史を往復し、「衝動と欲望の権化、自由と復讐、スタイルと死を体現する存在、限界のない生を生き、ときには帽子ひとつのために人を殺すような悪漢」——スタッガー・リー神話をもってスライ&ザ・ファミリー・ストーンについて書いた文章は、ぼくのなかで音楽について書くことの意味をすっかり変えてしまった。もし音楽ジャーナリズムと学問の架け橋というものが存在するなら、それはこの人の功績である。
 『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』はいまから3年前にグリール・マーカスが上梓した本で、これまでさんざんディランについて書いてきた作家による最新版だ。ディランの七つの曲を取り上げ、マーカスはディランについて語るわけだが、それはアメリカを語ることへと拡張される。マーカスの文章に親しんでいる方にはお馴染みのマーカス節だが、扱うべき領域が広大で、直線的な時間軸から逸脱し、その学識がしばしば突飛な推論へと転じることから、初めて読む人は面食らうかもしれないが、これが60年代のアメリカが生んだもっとも尊敬されているロックの文章だ(マーカスに匹敵するライターは、ほかにレスター・バングスしかいない)。最初の一曲は、もっとも有名な“風に吹かれて”だが、ディランが21歳のときに書いたこの曲が南北戦争の記憶へと結ばれ、そして『フリーホイーリン』のジャケットではほとんどフェチ化(映画でもなかばその扱いだったが、要するにかわい子ちゃん扱い)されているように見えるスーズ・ロトロが、この章ではどれだけ同曲において重要であったか主体化される。また、“時代は変わる”の章では、1964年の同曲が2021年1月6日のアメリカ連邦議会襲撃事件に照射される。マーカスが60年近く聴き続けていると書いている、あの怒りと悲しみの“ハッティ・キャロルの寂しい死”に関しては、かなりアクロバティックではあるが、ローリー・アンダーソンの“オー! スーパーマン”との対話をもってその予言的な曲を再考する。悲運の天才シンガー、カレン・ダルトンについて書きながら、囚人たちの嘆きを綴ったバラッド曲“ジム・ジョーンズ”におけるディランの翻訳力を説いた章も読み応えがある。本書の掉尾を飾るのは、2020年発表の“最も卑劣な殺人”——最初に聴いてから、何回も聴かずにはいられなかった曲——だが、どうかこの最後の一文までたどり着いてほしい(読書の快楽だ)。

 誰もが問う問題。では、ディランとは何者か? そのつかみどころのない存在をマーカスが表現したのが本書『フォーク・ミュージック』であるのだが、この翻訳権を得るために交渉した際、日本版を出すにあたってマーカス本人からひとつだけリクエストがあった。それは最初のページに入っている写真(ジェイムズ・ボールドウィンとの2ショット)は必ず入れること。つまり、黒人文化とディラン、そして「フォーク・ミュージック」(庶民の歌)、これらは大きなキーワードになっている(計らずとも、映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』がまったく言及しなかった領域は語られている)。また、もうひとつ、1960年代(*)という歴史の大いなる分水嶺、話は飛ぶが、いまエレキング編集部はまさに「アメリカとは何か?」(誰もが知っているつもりでいながら、じつはしっかり理解されていない)という特集号を作っているのです。こうご期待。

 最後に、ディランに興味はあるけど、いきなりマーカスは難しい、という人のためにディラン入門として最良の一冊を紹介します。2年前に刊行された北中正和の『ボブ・ディラン』(新潮新書)。中古盤で揃えている人には、60年代から70年代前半までの重要作の日本盤には、たいていは中村とうようと北中正和による質の高いライナーノートが付いているのもありがたいし、北中さんの『ボブ・ディラン』と一緒に『フォーク・ミュージック』もよろしくお願いします。

(*)1960年代、グリール・マーカスは、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの一大拠点となったカリフォルニア大学バークレー校で文学を専攻した。彼はそこで、抗議と議論の熱狂のなかで『リヴォルヴァー』や『ブロンド・オン・ブロンド』、『ザ・ドアーズ』などをリアルタイムで聴き、あるいはロバート・ジョンソンをはじめとするブルーズを温ねている。西海岸の抵抗勢力を鎮圧すべく反動保守を味方に、レーガンが州知事となった瞬間を知っているマーカスは、レーガンが大統領になった年には鬱病になり、そして、彼にとって初めてアメリカの外側にある音楽=パンクについての論考を9年かけて書き上げる。それがかの有名な『リップスティック・トレイシーズ』である。

グリール・マーカス/坂本麻里子 訳
『フォーク・ミュージック——ボブ・ディラン、七つの歌でたどるバイオグラフィー』

P-Vine/ele-king books
7月29日発売
3500円+税

■グリール・マーカス(Greil Marcus)
 1945年カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。1963年にカリフォルニア大学に入学、『ローリング・ストーン』を創刊するヤン・ウェナーと知り合い、ロック評論家の第一世代の最前線として活動。1975年には、いまもなお読み継がれている『ミステリー・トレイン』の初版が上梓する。
 未訳だが1989年に出版された『Lipstick Traces』は、セックス・ピストルズの源流としてシチュアシオニズムやダダ、はては中世の千年王国論宗派にまで遡り、パンクを民衆の抗議詩の文脈のなかで論じた重要作として知られる。また、これも未訳ながらディランとザ・バンドが趣味で録音した「The Basement Tapes」からアメリカを論じた『Invisible Republic: Bob Dylan 's Basement Tapes』も影響力ある一冊。
 ほかにも多数に著作があるが、日本では以下の翻訳書がある。『ロックの「新しい波」 パンクからネオ・ダダまで』(三井徹 訳、1984年、晶文社)、『ミステリー・トレイン ロック音楽にみるアメリカ像』(三井徹訳、1989年、第三文明社)、『デッド・エルヴィス』(三井徹 訳、1996年、キネマ旬報社)、『ライク・ア・ローリング・ストーン─Bob Dylan at the Crossroad』(菅野ヘッケル 訳、2006年、白夜書房)

■坂本麻里子
 1970年東京生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。ライター/通訳/翻訳者として活動。ロンドン在住。訳書にコージー・ファニ・トゥッティ『アート セックス ミュージック──コージー・ファニ・トゥッティ自伝』、ジョン・サヴェージ『この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも──ジョイ・ディヴィジョン ジ・オーラル・ヒストリー』、マシュー・コリン『レイヴ・カルチャー——エクスタシー文化とアシッド・ハウスの物語 』、ジェン・ペリー『ザ・レインコーツ——普通の女たちの静かなポスト・パンク革命』、ハンナ・ロス『自転車と女たちの世紀』、マーク・フィッシャー『K-PUNK 夢想のメソッド——本・映画・ドラマ』『K-PUNK 自分の武器を選べ——音楽・政治』、ネイト・チネン『変わりゆくものを奏でる——21世紀のジャズ』ほか多数。

Cosey Fanni Tutti - ele-king

 ポルノ産業とは男性によって男性の快楽のために作られた装置で——日本でそれは、ポルノ産業との無関係を装ったさまざまなジャンルにおいて広範囲に機能している——、そこでは女性は非現実的なものとして客体化される。コージー・ファニ・トゥッティがポルノ雑誌のモデルやヌードダンサーをやったことは、1970年代のフェミニズムからするとポルノ産業への従属と解され、1976年の悪名高き〈Prostitution(売春)〉展とともに、権威的なアート界からも女性解放からも、そして国会からも個人攻撃の対象となった。
 社会の規範に迎合しないこと、不寛容に対するあらんかぎりの存在証明、立ち入り禁止の領域を横断すること——それが彼女の生き方であって、彼女のアートであるという考えが、彼女の自伝『アート セックス ミュージック』で明かされている。コージーの挑発的でセクシャナルなヌード写真がギャラリーに飾られている21世紀では、ウィメンズ・ポリティクスとアートの関係も再調整されたようで、当初言われていたような、それが低俗なポルノと高級なアートとの階層を粉砕するものだというよくある解釈が、いまでは中産階級的に思えてくる。あくせく働く必要のなかった中産階級の子息たちによる“過激な集団”COUMトランスミッションズのなかで、唯一の労働者階級出身だったコージーが働きながらアート活動を続けた話も自伝にくわしい。先日、『ワイアー』の表紙を飾った彼女だが、そのカヴァースートリーを読んで思わず声が出てしまったのは、これだけ国際的な名声を得たいまでも、コージーは生活のために働くことから逃れられていないという現実だ。こうした日々の生活と彼女のアートが無関係になることはあり得ない。自伝にあるように、彼女にとっては「人生がアート」なのだ。

 『2t2』は、コージー・ファニ・トゥティにとって2019年の『TUTTI』に続くオリジナル・ソロ・アルバムに数えられるが、その前に1枚、デリア・ダービシャーのドキュメンタリー番組『The Myths And Legendary Tapes』のためのサウンドトラックを2022年に発表している。コージーにとって、これが重要だった。
 ダービシャーは1960年代、BBCラジオの電子音響プロジェクトで働き、電子音楽家の先駆者のひとりとしていまでは日本でもよく知られている。コージーはドキュメンタリー番組の音楽を依頼されたことで、ダービシャーについて調べた。マンチェスター大学に残された彼女の資料を読みあさり、そして手記や記録を読んでいくうちに彼女の人生への共感がどんどん膨らんでいったのである。
 第二次大戦開戦の2年前、労働者階級の娘として生まれたダービシャーだが、数学の成績が抜群に優秀だったがゆえに、当時の労働者階級の少女としては極めて稀なことにケンブリッジ大学の奨学金を獲得した。数学を学ぶにはもっとも権威ある場所だが、彼女が専攻を数学から音楽に変えたのは、学内における根深い女性蔑視によって入学した女性の多くが余儀なく中退するなか、ダービシャーには音楽だけが逃げ場であり、楽園に思えたからだった。就職のため、BBCに異常な枚数の手紙を送りつけていたのも、そこは当時、英国内で唯一音楽を流す機関だったからで、BBCに行く以外のことが彼女には考えられなかった。
 ダービシャーを音響工学に向かわせたのは、数学的で、未来を予感させるヤニス・クセナキスによる電子詩だった。願いかなってBBCの音響プロジェクトに就職できたダービシャーだが、最初に彼女がもっとも苦労したのは、誰もが上品な英語を話すBBCという職場のなかで、労働者階級のコヴェントリー訛りを矯正することだった。彼女の最初の「音響プロジェクト」は自分自身の声の強制的な変調だったのかもしれない、コージーはそう書いている。
 そのいっぽうでコージーは、ダービシャーについて調べている時期に、たまたま古本屋でマーガリー・ケンプの本を見つけて、なんとなく気になって買った。ケンプは幻視体験をもつ14世紀の女性神秘家で、裕福な家の出ではあったが、その型破りな言動ゆえに迫害され、国外への巡礼を繰り返し、異端の罪で七度も告発されながら自分を貫いた人物である。コージーの人生において宗教はまったく縁のないものだったが、教会から「とんでもない狂女」と非難されたケンプは、1976年に「文明の破壊者」と国会議員から名指しで非難された自分と似ている、コージーはケンプの人生についても研究した——そして、ダービシャー、ケンプ、そしてコージー自身、生きた時代の違う3人の女の人生の共通点を見出しながら描いたのが、2022年に刊行された2冊目の書籍『Re-Sisters』だった(先述したコージーのコメントは同書からの引用)。本作『2t2』は、その延長にある。

 アルバムの前半は躍動感のある曲が並んでいる。1曲目の “Curæ(キュレイ)”──ラテン語で「注意」や「配慮」の意──を聴いていると、コージーが「レイヴ・カルチャーに参加できなかったことを後悔している」と発言したことを思い出す。アルバムの中盤以降では、彼女のコルネット、そして今作における重要な楽器であるハーモニカをフィーチャーしたアンビエント風の曲が続いている。とくに “Threnody” と“Sonance”の2曲では、興味深いことにコージーの穏やかな境地を感じることもできるが、そう簡単に晴れ晴れとした気持ちにはなれないとでも言いたげに、アルバムには闇があり、低音がある。自伝『アートセックス ミュージック』の映画化が決まり制作がはじまろうとしたとき、ジェネシス・P・オリッジの遺産管理団体がTGの曲の使用の許可をしなかった(使用にはメンバー全員の許諾が必要)。インダストリアル・ミュージックの起源とスロッビング・グリッスルの結成を描く映画に対するその対応が、自伝のなかでオリッジからの虐待を書いたコージーへの報復であろうことは察しが付く。最初は「ふざけんな」だったコージーの反応は、しかし最後には、並外れた忍耐と交渉の果てに得た合意における勝利の「ありがとう」、そして「ふざけんな」を添えた感情へと変わっていた。その先に生まれたのが、『Re-Sisters』であり本作『2t2』である。

 コージー・ファニ・トゥッティという名前は、モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」 (「女はこうするものだ」の意)をもじったものだというが、つくづくこの芸名は素晴らしいアイロニーだ。
 『Re-Sisters』には、最後に素晴らしい一文がある—— ‘WILL’ではなく ‘WON’T’。つまり「やらないこと」「拒絶すること」、彼女たちが男性優遇の社会のなかで自分の居場所を見出すためにやったことが「従属への拒絶」だったことは大きな意味があるように思う。「私たちがいまやっていること自体は、たぶん重要ではない。けれど、いつか誰かが関心を持って、この土台のうえに何か素晴らしいものを築いてくれるかもしれない」というアート活動にともなう宿望、男性アーティストからはなかなか出てこない言葉ではないだろうか。本作『2t2』を聴いた誰かが、いつかさらに素晴らしいものを作るだろう、そんな思いを抱かせるような音楽は決して多くないのだ。

〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉 - ele-king

BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025

 ele-kingで絶賛執筆中のデジさん(緊那羅:デジ・ラ)、音楽活動も精力的にやっています。7月20日に東京のアンダーグラウンドの牙城、幡ヶ谷 FORESTLIMITにて、〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉を主催します。とても面白そう。参院選の日、夜は幡ヶ谷に集合です!

〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉
Artists :
Heejin Jang
Taro Aiko from M.A.S.F.
Kinnara : Desi La
DJs : Moemiki
Deadfish Eyes 2025/07/20
幡ヶ谷 FORESTLIMIT
adv ¥2300 w/1D /// door ¥2500 w/1D
Open 18:00

2025/07/10迄——予約はaimaidebakuzen@yahoo.co.jp
2025/07/10以降——当日券(door)になります。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSf7KdhsC8wMDdjymQtYj9MKyDc2ahmMig0ibbD8gwOy0jqVEw/viewform

 みなさん、こんにちは。お知らせがあります。7年ぶりにBEAUTIFUL MACHINEが帰ってき ます——その名も「BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE」。2013年に初開催し、6年間 続けてきましたが、様々な限界にぶつかり、沈黙していました。
 ノイズ・ミュージックとレイヴ・カルチャーの融合、そして「マシン」そのものへのオマー ジュという二重の意図から生まれたBEAUTIFUL MACHINEは、クラブ・シーンで活躍する DJたちと先鋭的な電子音楽アーティストたちをつなぎ、日本の2つの強力なアンダーグラ ウンド文化を11回以上にわたりクロスオーヴァーさせてきました。

 〈BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025〉では、韓国から電子音楽アーティストHeejin Jangをヘッドライナーとして迎えます。彼女の来日は2018年以来初となります。さらに、 ノイズペダルメーカーTaro Aiko (M.A.S.F.)、ジューク・シーンやGqom愛好家のMoemiki、そ してイベント〈Ximaira〉よりロマンティックなインダストリアルセレクションを届ける Deadfish Eyesが出演。そして最後に、緊那羅 : Desi Laが、新作「Demons to some, Angels to others」からの最新セットを披露します。

 After a 7 year absence, BEAUTIFUL MACHINE is back — this time as BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE. First launched in 2013, the event ran for 6 years straight before going dark. Inspired by the idea of fusing noise music and rave culture with the parallel dual intention of paying tribute to the "machine" itself, Beautiful Machine brought together DJs active in the club scene and seminal electronic artists, cross mixing two of the strongest underground cultures in Japan over 11 times.
BEAUTIFUL MACHINE RESURGENCE 2025 is bringing together headliner electronic artist Heejin Jang from Korea in her first visit to Japan since 2018 with noise pedal creator Taro Aiko of M.A.S.F., heavy hitting djs juke and Gqom enthusiast Moemiki and Deadfish Eyes of event Ximaira serving up a romantic industrial selection, and lastly Kinnara : Desi La, playing a brand new set from his upcoming release ”Demons to some, Angels to others”.

■Heejin Jang
 ヒジン・チャン(Heejin Jang)は、韓国・ソウルを拠点に活動する アーティストです。彼女のライブサウンドパフォーマンスでは、即 興のコンピュータ音楽を披露し、日常的で些細な音の要素から着想 を得て、それらを再構成し、瞑想的な体験やデジタルによって引き 起こされるパニックのような現象的な空間を創り出します。ヒジンは、ザ・ラボ(The Lab)、ヤーバ・ブエナ芸術センター (Yerba Buena Center for the Arts)、ムムック・ウィーン(mumok Vienna)、ハーベスト・ワークス(Harvestworks)、ライズームDC (Rhizome DC)、ハイ・ゼロ実験音楽フェスティヴァル(High Zero Experimental Music Festival)、センター・フォー・ニュー・ミュー ジック(Center for New Music)、ダブラブ(DubLab)などでライヴパフォーマンスや作品展示を行ってきました。彼女の音楽は、 『The Quietus』、『NPR』、『The Wire』などでも取り上げられて います。
Heejin Jang is an artist based in Seoul, South Korea. In her live sound performance, Heejin presents a set of improvised computer music. She arranges and synthesizes sonic spaces that draw from the everyday and the trivial, re-forming them into phenomenal situations of meditation or digitally induced panic.
Heejin played live and exhibited her pieces at The Lab, Yerba Buena center for the arts, mumok Vienna, Harvestworks, Rhizome DC, High Zero Experimental Music Festival, Center for New Music, DubLab, and many more. Her music has been reviewed on The Quietus, NPR, The Wire and more.
Music:Bandcamp: https://heejinjang.bandcamp.com/
Website: https://heejinjang.com/

■ Taro Aiko from M.A.S.F.
 ノイズ・シーンから圧倒的な支持を得る音響ブランドM.A.S.F.の開発者にしてエレクトロニクス奏者。自身が設計制作した発振器やエ フェクターを用いた独自のハードスタイルを追求・展開してきた。 近年はモジュラーシンセサイザーを用いた演奏を取り入れ、より過 剰な音響演出を試みる。節度や常識を一切考慮しないそのオリジナ ルな創作は、音を生成する瞬間に演奏者と聴き手の境界を溶解させ る、自己生成する生物としてのノイズである。
A developer of the highly acclaimed sound brand M.A.S.F., which has earned overwhelming support from the noise scene, and an electronics performer. He has pursued and developed a unique hardstyle using self-designed and built oscillators and effects units. In recent years, he has incorporated modular synthesizer performances, pushing toward even more excessive sonic presentations. His original creations, unconcerned with restraint or convention, generate noise as a self-generating organism that dissolves the boundaries between performer and listener in the very moment of sound creation.

■ Deadfish Eyes
 ポスト・パンクやニューウェイヴ等の音楽から強く影響を受け、インダストリアルミュージックやノイズを織り交ぜた、耽美主義的な表 現を得意とするDJ。 マイノリティのためのクィアパーティー「Ximaira」を主催し、レジデントも担当。
A DJ heavily influenced by post-punk, new wave, and known for their decadent expression that blends industrial music and noise. They are the organizer and resident of "Ximaira," a queer party for minorities.

■Moemiki
 トリップ・ホップからクラブ・ミュージックの世界に入り、フットワークの洗礼を浴びて2018年よりパーティオーガナイズと DJ活動を開始。エクスペリメンタル/ゴルジェ/フットワークを行き来す る呪術的なアプローチが持ち味。好きなBPMは160。
Entering the world of club music through trip-hop and baptized by juke/footwork, she began organizing parties and DJing in 2018. Her signature style is a shamanic approach that traverses experimental, gqom, and juke. Preferred BPM: 160.

■Kinnara : Desi La(緊那羅:デジ・ラ)
 緊那羅:デジ・ラは、電子音楽家、3Dモーションアーティ スト、グラフィック・デザイナー、クリエイティヴコーダーとしてジャンルを 横断しながら活動する多才なクリエイティヴ・アーティストです。新たなテク ノロジーと建築的世界のリズムを芸術を通して表現することにフォーカスし た未来派のアーティストでもあります。緊那羅:デジ・ラは、ライヴ・パフォーマンス作品であるオーディオ・ヴィジュアルパフォーマンス《CHROMA》やアンビエントAV作品《SPHERE OBJEKTS》、漆黒の中で行われる没入型電子音響体験《DARK SET》、多層的なテーマを持つ音楽リリース、そしてWeb3上に構築された抽象的なミクス トメディアによる空間的ゲーム/ギャラリーなど、幅広いメディアと表現形 式を行き来しながら活動しています。
 彼のヴィジョンの核心にあるのは、「未来主義」であり、社会の進化を積極的 に受け入れること。それは、過去のすべてを再解釈・再構成・再構築し、現 在そして未来の世代のために進化させるという考えに基づいています。保存 ではなく、再構成こそが重要なのです。
緊那羅:デジ・ラのヴィジュアル作品は、渋谷や銀座のアンダーグラウンドな 空間で展示されたほか、シンガポール、マレーシア、インドネシアなど海外でも発表されています。彼の代表的イベント《BEAUTIFUL MACHINE》は 2013年に始まり、6年間で11回開催された後、いったん幕を閉じましたが、 現在《BM》は再び蘇りつつあります。
Kinnara : Desi La is a versatile Creative prolific as an electronic musician, 3D motion artist, graphic designer, and creative coder working across genres. A futurist focused on expressing the rhythms of the new technological and architectural world through his art. Kinnara : Desi La bridges his art between live performance works like his audiovisual performance CHROMA and ambient audiovisual SPHERE OBJEKTS, pitch black DARK SET explorations in intense electronic listening, multi-thematic music releases and his abstract mixed media spatial game / gallery in web3. Kinnara : Desi La`s total vision embraces futurism, the embrace of advancement in society as a cornerstone of his world view. All things of the past should be reinterpreted, remixed, reconstructed, and rebuilt for the advancement of our current and future generations. Reconfiguration versus preservation.
Kinnara : Desi La`s visuals have been shown in the depths of Shibuya and Ginza and internationally in Singapore, Malaysia, and Indonesia.
Kinnara : Desi La`s flagship event BEAUTIFUL MACHINE began in 2013 and continued for 6 years over 11 times before going dark. Now BM is resurrected.
https://kinnara-desila--afrovisionary-creations.bandcamp.com/

Kneecap - ele-king

 アメリカでトランプ大統領を本気で怒らせているのはブルース・スプリングスティーンだが、イギリスで英国首相キア・スターマーから直々に批判されているのは、現代のセックス・ピストルズか、チャブの逆襲か、祝祭と抵抗の新世代か……などなどいろんな言われ方をしているアイルランドのニーキャップだ。
 去る4月のコーチェラ・フェスティヴァルにて、とことん反イスラエル/親パレスチナを繰り返したことで物議を醸し、大きな注目を集めた若きラップ・グループ、5月には英国警察から調査され、メンバーのモ・カラの過去の発言(議員を殺せとか、ハマスやヒズボラを支持するような発言等々)によってテロ容疑として起訴されたばかりであるが、先週末のグラストンベリー・フェスティヴァルへの出演をめぐってもスターマー首相から「適切ではない」と苦言を呈されていた。
 そして、『ガーディアン』にいわく、この新たな「民衆の敵」にして「時代の寵児」がグラストンベリー・フェスティヴァルのステージに挙がると、200以上のパレスチナの旗がはためき「くたばれスターマー」、そして8月の法廷裁判を控えているモ・カラに対しての「モ・カラを解放せよ」のコールがわき起こったというではありませんか。現地でこれを観たひとがいたら、どうか編集部までご一報を。

 ちなみに今回のグラストンベリー・フェスティヴァルで最高に話題になっているのはこのニーキャップ、そしてこともあろうかナイジェル・ファラージ支持を前日の取材で公言したロッド・スチュワート様々なのである。まあ、グラストンベリーがたんなる儲け主義のロック・フェスに成りはてたという話は前々から聞いておりましたが、しかし今回のニーキャップの騒動を知って、腐ってもグラストン、UKポップ文化の底力というか、ガッツあるなと思いました。

 なにしろ、ポップ・カルチャーがここまで国家を本気にさせたという点では、セックス・ピストルズ、レイヴ・カルチャー以来のことではないだろうか。アイルランド語をまぜてラップし、反英国主義とアイルランド性を強調するニーキャップがナショナリズムの焼き直しではないことは、彼らの活動の全体を見渡せばわかる。階級闘争、反植民地主義、あらたなる連帯の呼びかけ……ニーキャップは政治と音楽が再び交差する地点をこの時代に創出し(モ・カラの説明によれば「党派性を意味しない、小文字の“p”の政治性──生活感覚としてのポリティクスの実践」ということになる)、いまや音楽におけるレジスタンスの新たな磁場となっているのかもしれない。マッシヴ・アタックの3Dもジョニー・マーもポール・ウェラーもニーキャップへの支持を表明しています。
 彼らのライヴは祝祭的だが、政治集会のようでもあるとのこと、昨年リリースされたアルバム『Fine Art』のプロデューサーがトドラ・Tであることからも、音楽的にも面白いことをやろうとしている姿勢がうかがえる。
 しかも、じつにナイスなタイミングで彼らの映画『KNEECAP/ニーキャップ』が8月1日より日本での上映開始ときた。これはこれで、そうとう面白そう(ありがちな英雄譚ではない、むしろその解体だとか)。この暑い夏、我々日本人もポップ・カルチャーの最前線を観ない手はない。

対抗文化の本 - ele-king

 長く続いた店が閉まるのは、いつだって悲しい。ましてや、自らが主体的に関わってきた場所であれば、なおさらである。

 下北沢の路地裏にあったブックカフェ「気流舎」は、2007年の開店以来、実に17年間にわたり存在し続けた。オープン当初から掲げられていたのは、当時すでに古風とも言える「対抗文化(カウンター・カルチャー)」という言葉。この理念を軸に、独立系の古書店兼ブックカフェ・バーとして歩みを始めた。

 原発事故を境に、創業店主による個人経営から、常連客たちによる共同運営(有限責任事業組合)に体制を移行し、筆者も「非組合員」ながら運営に関わるようになった。そして2024年末、ついに気流舎は店舗としての役割を終えた。残務処理を担う「組合員」を除けば、メンバーたちはそれぞれの旅路へと散っていった。

 シュタイナー建築を学び、「あけぼの子どもの森公園」のムーミン屋敷の設計でも知られる建築家の故・村山雄一氏による空間は、幸いにも居抜きで残ったが、長年店頭を彩ってきた植物たちはすべて撤去され、庭先の土もコンクリートで覆われてしまった。近隣に住んでいることもあり、跡地の前を通るたび、アスワドが1981年に発表した曲の一節「African Children, Living in a Concrete Situation」が、しばしば頭をよぎった。どうやら下北沢におけるジェントリフィケーションも、いよいよ完成の域に達したようだ。

 そもそも「気流舎」とは何だったのか。どのような役割を果たしていたのか。その答えは共同運営という性格上、関わった人の数だけあったはずだ。書店であり、カフェであり、酒場であり、小規模なイヴェントスペースでもあり——そしてなにより、「対抗文化の本」に関心をもつ人々が集う場所だった。

 そこでは、公の場では語りにくいようなテーマ——ポリティカルな議論やサイケデリックな体験談——が自然に交わされた。本を読むつもりで立ち寄ったのに、いつの間にか話し込んでしまうような、密度の濃い空間だった。

 形式上は店舗でありながら、店長は存在せず、雇われたスタッフもいなかった。メンバーは誰ひとり報酬を受け取らず、店番は希望すれば基本的に誰でもできたし、途中でフェードアウトすることも許された(貴重本の紛失といった課題も生じた)。過去には運営費を確保するために賛助会員を募り、ドネーションを集めたこともあった。

 「気流舎」という名称は、社会学者・見田宗介が「真木悠介」名義で1977年に著した『気流の鳴る音』に由来する。共同運営が始まってしばらくすると、この本を読むことが唯一のメンバー加入条件となった。そういう意味でも、気流舎は本を媒介としたコミュニティだった。

 『気流の鳴る音』は、ペルー生まれのアメリカの作家・人類学者のカルロス・カスタネダの『ドン・ファンの教え』シリーズの解説書としても読めるものであり、人類学、比較社会学、シャーマニズム、マルクスの思想、インディアンの詩、インドやメキシコの旅のエッセイといった諸要素が交錯するユニークな本だ。副題の「交響するコミューン」が示すように、融合を目指す「ニルヴァーナ原理」ではなく、多様な個が響き合う「エロス的原理」がコミューンのあり方として志向された。

 そんな本の影響もあってか、サイケデリック(文化)、アナキズム(思想)、ニューエイジ(運動)といった、一見交わりづらく対立しがちな要素が、あの小さな空間のなかでは、絶妙なバランスで共存していたように思う。ある時期までは、確かにそんな空気があった。

 2000年代中頃から、東京各地にはインフォショップ、オルタナティヴスペースと呼ばれるような自主管理型の空間が点在するようになった。そうした場は、大学キャンパスが自治的な機能を急速に失っていくなかで、代替的な議論と実践の場になり、文化的・政治的運動を支える関係性の温床となっていた。本書に収録された『ストリートの思想 増補新版』刊行記念イヴェントでは、著者の社会学者・毛利嘉孝氏と、アジアの自主管理空間を研究する江上賢一郎氏による対談が行われ、気流舎もまさにその時代の、その界隈の、ピースのひとつだったことを改めて強く実感することになった。

 こうした場がひとつ消えることは、都市における共有財産=文化的拠点がまたひとつ減ることを意味する。再開発によって家賃が高騰した現在の下北沢において、若い世代が新たにスペースを借り、非営利で維持することは極めて困難である。リアルな場所での集まりがむしろ必要とされている今、運営(組合)体制を刷新し、次世代にバトンを渡すという道はなかったのか。閉店が正式に決定した後も、イヴェントの終わりにゲストや来場者と共に、そんな未練を語り合った。皆が口を揃えて言っていたのが、「もったいない」だった。

 ただ、場所が消えても、残るものはあるはずだ。「気流舎」という名のもとに続いた17年間が熟成だったのか、発酵だったのか、あるいは腐敗だったのか—— その答えは風のなかだが、ただひとつ言えるのは、そこには確かに、空間に沈殿したひとつの文化のスタイル、あるいは集合的な表象のようなものが存在していた、ということだ。それを自分なりにすくい取り、記録したかった。

 特に昨年8月の運営会議で年内閉店が正式に決まってからは、まるでダブプレートを切るサウンドマンのような勢いで、自分が考える「対抗文化」のイヴェントを次々と企画し、空間に響かせ、録音し、文字に起こしていった。とりわけ、長年あやかってきた『気流の鳴る音』の思想的影響については、しっかりと文字で残しておきたかった。そうして気流舎を通り過ぎていった77名の「旅人」たち——その名の通り有名無名を問わぬ語り手たち——の言葉のモザイクを一冊に結晶させることにひとり没頭した。完成した書籍『本のコミューン 対抗文化のイヴェント記録と通り過ぎた旅人たちの風』は個人出版というかたちをとり、出版レーベル名を「文借社(あやかりしゃ)」とした(草森紳一『あやかり富士』にあやかった)。

 本書には、60年代に本場アメリカでサイケデリック・レヴォリューションの渦中を体験し、帰国後は「いのちの祭り’88」で実行委員長を務めたおおえまさのり氏、ヒッピー・コミューン運動「部族」の中心メンバーであり、「部族宣言」を書き、トカラ列島の諏訪之瀬島に長らく暮らした詩人・長沢哲夫(ナーガ)氏、そして、60年代に日本各地に存在した土着コミューンを歩き記録した『不可視のコミューン』の著者・野本三吉氏など、いわばヒッピー世代のレジェンドとも呼べる80歳超えの「長老」たちも登場する。

 さらに、西荻窪「ほびっと村」界隈を中心とした70年代ヒッピー・カルチャーにまつわる記録も、本書では重層的に収録されており、貴重な証言集となっている。マジックマッシュルームが合法だった時代にレイヴ・カルチャーに出会った世代としては、こうしたヒッピーの先達たちの軌跡と、自分たちの文化との連なりをしっかりと記録しておきたいという目論見があった。

 とはいえ、「カウンター・カルチャー」という語を使うと、どうしても60年代欧米発祥のヒッピー・ムーヴメントやサイケデリック・カルチャーの系譜に限定されてしまう印象があり、本書では、より広く複雑な文脈を見渡すために、あえて「対抗文化」という表現を選ぶことにした。

 個人的な趣味を言ってしまえば、ぼくにとって「対抗文化」とは、ブルースを源流とするブラック・ミュージック、あるいは世界中の「大衆前衛」のなかに潜む〈抵抗の力〉を感じ取り、引き受けることにある。それはまた、被抑圧者の声に耳を澄ませ、その声に動かされて、自らも行動を起こしていくことを意味する。本書も微力ながら、そうした文化実践の一端を担おうとする試みでもある。

 たとえば、現代的な手法で「ルーツ」を再構築しつづけるジャマイカの新世代ラスタたちによる闘い〈レゲエ・リヴァイヴァル〉運動、英国ラヴァーズロックの甘くやわらかな響きの奥に秘められたポリティカルなメッセージ、貧困や苦悩を歌いながらも、そこに自己解放の希望を託すブルースの表現力、さらにはブルースのしゃがれ声に宿る屈折したエネルギーを、澄んだ音色のアドリブによって昇華するビーバップの革命—— 音楽に宿る感情の複雑さと、その背後に折り重なる歴史や社会の文脈を掘り起こすこと。そこにこそ、ぼくが「対抗文化」として捉える核心がある。

 評論家であり、革命思想家であり、そして何より日本におけるブラック・ミュージック理解の先駆者でもあった平岡正明の没後十五年を記念し、気流舎の終わりにイヴェントを開催できたことは、ぼくにとって大きな意味をもつ出来事だった。

 思い返せば、人生で初めて企画したイヴェントが、平岡正明氏を迎え、音楽や芸能について縦横無尽に語り尽くしてもらうというものだった。そこから20年。原点とも言える人物を再び軸に据えたイヴェントで「対抗文化」の空間を締め括ったのは、ぼくにとっての「ルーツ回帰」だったとも言えよう。

 「変わりゆく同じもの(the changing same)」——アメリカの批評家アミリ・バラカのこの言葉は、ブラックミュージックを貫く特徴としてあまりに有名だが、これからの自分の活動を見定めていくための指標にもなっていくだろう。

 気流舎の終焉は、ある意味でコミューン志向の場の宿命だったかもしれないが、この小さな社会実験(ブック・コミューン!)から得たものは計り知れない。挫折の果てにこそ〈解放〉があり、場所や立場を失うことで初めて〈自由〉になれる—— そのことを実は真木悠介からすでに教わっていたのだ。長らく沈没していた宿舎(サライ)に別れを告げ、あとは自分のやり方で旅を続けていくだけだ。

『本のコミューン 対抗文化のイヴェント記録と通り過ぎた旅人たちの風』刊行の集い

本のコミューンVol.7 
南阿佐ヶ谷編

チャイ・ブック・サロン ——火曜舎でチャイと本に出会う
https://ayacari.base.shop/blog/2025/06/04/155359

火曜舎のマサラチャイの特徴である「ここではない何処か遠くへ飛べる」「脳天に響く」「良薬のような」「ワインのように余韻の長い」本を各自一冊持ち寄って、紹介し合いましょう。

日時:2025年6月28日(土) 16時〜19時  
場所:火曜舎(東京都杉並区成田東5-35-7)
会費:1,500円(マサラチャイ付き)


本のコミューンVol.8 
チェンマイ(タイ)編

Vision of Chiang mai with CCC
チェンマイ・チル・クラブと見るヴィジョン

https://ayacari.base.shop/blog/2025/06/08/120817

チェンマイ旧市街にあるバックパッカーホステルの庭で持ち寄ったチルなモノと時間を分かち合い、チェンマイ・チル・クラブで一緒にヴィジョンを語りましょう。

日時:2025年7月5日(土) 17時〜20時  
場所:Deejai backpackers (ディージャイバックパッカーズ)チェンマイ旧市街
入場:無料(カンパ歓迎)
ゲスト:
CHIE(SuperChill タイ伝統療法・トークセン、CCC)
Grace Okamoto(フォトグラファー、CCC)
Yuki Makino (NEO食堂 Aeeen Japanese Vegan ) 

CCC - Chiangmai Chill Club

「大人の部活」をコンセプトに、Chill好き女子たちが本気で遊ぶ実験的コミュニティ。テクノパーティー主催、森でのピクニック撮影会、オリジナルハーブ試飲会、ボディワーク交換会などジャンルにとらわれず“やってみたい”を形にしていく場。旅人を含む、一期一会のメンバーで遊びをCreateしています。

▼書籍詳細&購入先
https://ayacari.base.shop/items/104200844

本のコミューン
対抗文化のイヴェント記録
と通り過ぎた旅人たちの風

企画・編著 ハーポ部長
デザイン 戸塚泰雄(nu)
発行所 文借社
2025年4月20日発行
四六判334ページ
定価 2,000円(税別)


目次

Ⅰ 浮遊するコミューン

〈レゲエ・リヴァイヴァル〉とアーバンラスタの闘い 
鈴木孝弥 

オーガニックにしときなさい ージャー9との対話 
ハーポ部長(翻訳 竹内嘉次郎) 

都市型コミューンの誕生
ー 砂川共同体・石神井村コミューン・ミルキーウェイキャラバン 
大友映男(やさい村) 

コミューン暮らしとその終わり
ー ポンちゃんと無我利道場の思い出 
蝦名宇摩

無謀なるものたちのコミューン ー下北沢コミューン研究部の記録 
ハーポ部長

ひとつのコミューンがなくなるとき 
中西淳貴(笹塚コミューン)

Ⅱ 路上と抵抗

ストリート以降/都市 
毛利嘉孝 × 江上賢一郎

ラヴァーズロックと抵抗の音楽 
石田昌隆

交流無限大 ーだめ連 ぺぺ長谷川の文化遺産 
神長恒一(だめ連) × いか(ぬけ組) × 原島康晴(編集者)

はみ出す言葉、Fuzzyな存在 
石丸元章(企画・聞き手:銀色夏実 発言:北沢夏音、大田 ステファニー 歓人、『さいばーひっぴー』編集部すずき&うみこ)

Ⅲ ヒッピーやらパンクやら ータンタンに捧ぐ

梵! ヴォヤージュ! 
ハーポ部長

クール・レジスタンスの時代 
北沢夏音 × 青野利光(『スペクテイター』)

チャンマイ薬草ライフ 
ことり薬草えこインタビュー

 
暴力と尊厳の考古学 ー『死なないための暴力論』刊行記念 
森元斎 × 成瀬正憲

生涯一パンク 
中沢新一 

Ⅳ 風に吹かれて ー気流の鳴る音をきく

メキシコの真木悠介 
今福龍太 × 上野俊哉

『気流の鳴る音』を気流舎で 
鶴見済

自分の内に絶えることなく歌があること ー真木悠介輪読部の記録 
椋本湧也 

ぼくの人生と真木悠介 ー気流舎での出会い 
野本三吉 

Ⅴ ブック、マジック、ミュージック

カウンターカルチャーの印刷物はどのように作られたか? 
槇田 きこり 但人(プラサード書店)
(校閲 石塚幸太郎)

わたしの知ってる最近のZINE事情 
野中モモ

没後一五年 平岡正明は「笑う革命思想家」だった 
阿部晴政 × 向井徹(平岡正明著作集委員会)

民俗音楽の彼方へ 湯立て神楽編 
ものいみやなかの会(齋藤真文&宮嶋隆輔&中西レモン&すー&斎藤ぽん&ハズミ)

気流舎と旅 
ハーポ部長

坂部の冬祭りレポート 
アクセル長尾

鬼とパンク 天龍村坂部冬祭りについて 
石倉敏明 

インドネシアの呪術師に弟子入りしたタオイストの話 
中原勇一(やわらぎ気功クリニック)

気流舎から始まった本の旅 
汽水空港モリテツヤ インタビュー 

エッセイ 旅のノートから(38人の旅話&本の紹介&気流舎への一言)

ハーポ部長 ELIJAH-FAR-I  鍵谷開 高橋ペコ 桝田屋昭子 Yusuke Suzuki 高岡謙太郎 ありい 大槻洋治 根岸恵子 すずき 銀色夏実 茂田龍揮 花崎草 くるみ 橋本勝洋(サンガインセンス) 川上幸之介 タンタン(長谷川浩) 翔太郎 内田翼 石崎詩織 川崎光克 さおり 平田博満 おおえまさのり ケロッピー前田 円香(現代魔女) わたなべみお 関口直人 猫村あや 馬場綾(アマゾン屋) リサ 長澤靖浩 宮脇慎太郎(ブックカフェソロー)  諫山三武(未知の駅) 吉澤順正 おぼけん(『新百姓』) 長沢哲夫(ナーガ)

  
虹より高く ーロバート DE ピーコとブルース共同体 
ハーポ部長

ロバート DE ピーコ音源QR「ライヴ・アット・気流舎」

      
編集後記 
僕らには儀式が必要だった
気流舎から寄留者へ

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