「AY」と一致するもの

interview with Bibio - ele-king

 特筆すべきはそのアイリッシュでトラッドな趣だろう。たしかにこれまでもフォーキーな側面はあった、というよりむしろそれこそがビビオの音楽における特異性だったわけだけど、本日リリースとなる新作『Ribbons』ではそれが新たな局面を見せている。おそらくは昨年ヴァイオリンとマンドリンを弾きはじめたことが大きな影響を与えているのだろう。まずは先行シングルとなった“Curls”を聴いてみてほしいが、民俗的な要素が彼特有の音響や旋律と結びつくことによって、これまで以上に感情や記憶を揺さぶるじつに喚起力豊かなアルバムに仕上がっている。これはビビオのディスコグラフィのなかでもブレイクスルーとなる1作ではないだろうか。
 とはいえ彼はビビオである。ご存じのように彼はこれまでいろんなジャンルに挑戦してきたわけで、今回の新作もアイリッシュの要素ひとつに還元してしまうことはできない。アルバムにはほかにもさまざまな実験が詰めこまれていて、たとえば、これもヴァイオリンを弾きはじめたことの影響なんだろうけど、冒頭の“Beret Girl”や“Ode To A Nuthatch”にはバッハの影がとり憑いているし、あるいは“Before”や“Old Graffiti”には彼のソウルやファンクにたいする愛が滲み出ている。なかでも興味深いのは中盤に配置されたいくつかの曲たちだ。ビビオ流インダストリアルとも呼ぶべき“Pretty Ribbons And Lovely Flowers”には耳を奪われるし、ドアをノックする音と足音を核にした“Erdaydidder-Erdiddar”のリズムもじつに愉快である。
 そしてもちろん、それら種々の試みは彼のトレードマークとも言えるノスタルジーによって覆い尽くされている。ノスタルジーは懐古趣味とは違う、と以下のインタヴューにおいてビビオは強調しているが、たしかに彼の音楽はある特定の時代への帰属意識を煽るものではない。けだし、なぜわれわれはノスタルジーを抱くのか、そもそもノスタルジーとはなんなのか、そういった問いを投げかけることそれじたいがビビオの音楽の精髄ではないだろうか。レトロがある種の記号だとしたら、ノスタルジーはそれを超え出る想像である。新作『Ribbons』ではその想像の切れ端が、このお先真っ暗な現代を生きる私たちに新たな可能性の断片を示してくれているように思われてならない。

僕のフォーク音楽の経験は限られている。僕はフォーク・ミュージックの大部分があまり好きではなくて、フォーク音楽の、突出した、特定の要素が好きなんだ。余分なものが取り除かれた感じ、加工されていない感じがとても好きなんだ。

今作では“Curls”を筆頭に、随所でヴァイオリンやマンドリンがフィーチャーされています。昨年はじめたそうですが、なぜそれらの楽器をやってみようと思ったのですか?

スティーヴン・ウィルキンソン(Stephen Wilkinson、以下SW):過去の作品でヴァイオリンのパートを弾いてくれた友人がいて、彼が去年のはじめにマンドリンを注文して入手したときに、その写真を僕に送ってくれたんだ。それを見たら僕も即座に欲しくなってしまってね(笑)。そこで自分もマンダリンを買って、習いはじめた。マンドリンのチューニングはヴァイオリンのと同じだから、同時にヴァイオリンも学ぼうと思ったのさ。

ヴァイオリンを独学で学ぶのはかなり大変だったのではないでしょうか? どのようなプロセスで習得していったのですか?

SW:僕はまだ習いはじめの生徒だよ。でもマンドリンの弾き方を学んでいたことが役に立った。僕は11歳か12歳のころからギターを弾いていたから、マンドリンの弾き方を学ぶのはそんなに難しくなかったんだ。ギターみたいにフレットもあるし、弦をつま弾いて弾くから、馴染みのある演奏方法だった。だからヴァイオリンへ移行しやすかったけれど、ヴァイオリンはずっと難しかった。僕にとっては新しい楽器だから、僕はまだビギナーなんだ。だけど僕の、楽器やその演奏方法に対するアティテュードというのは、その楽器から何らかの音、たとえばなんらかのメロディを出すことができれば、それを録音することができるから、それでいい、ということなんだ。何年か前、サックスを買ったときもそうだった。曲のパートさえ吹ければ、それを録音して使うことができる。だから僕は自分のことをサックス演奏者やヴァイオリン演奏者とは呼ばない。けれど、レコーディング用のパートを演奏することはできる。あとは、YouTubeでチュートリアル動画を見たりしたよ。そこから弓の持ち方や、簡単な演奏のテクニックなどの基本を学んだ。そして、マンドリンで学んだ、アイルランドのトラッドのメロディをヴァイオリンでも弾いてみて、技術を上げるようにした。

前作の『Phantom Brickworks』は「場所」をコンセプトにしたアンビエント作品でしたけれど、今回のアルバムにもテーマはあるのでしょうか?

SW:テーマはあまりないね。今回のアルバムは、ここ数年かけて起こったことを集めたような作品だから。『Phantom Brickworks』はサイド・プロジェクトとまでは言わないけど、10年以上かけて作った、テーマ作品だった。さまざまな場所に捧げる曲をまとめた、べつのプロジェクトだったんだ。それにたいして、僕の他の作品は、フォト・アルバムのようなもので、僕がその時期に興味があった要素が含まれた作品になっている。だからアルバムによって、その時期に受けた影響も違うから、作品のスタイルも異なっていると感じられるかもしれない。

本作にはケルト音楽やトラッドからの影響が大きいです。あなたの音楽はこれまでもフォーキーでしたが、それと今回新たな影響とが見事に溶け合って、ひと皮向けた印象があります。ケルティックな要素、トラッドな要素を取り入れようと思ったのはなぜでしょう?

SW:それらは僕にとっては新たな要素だと感じられないけどね。僕が昔から強く影響を受けていたのは、60年代のスコットランド出身のバンド、ジ・インクレディブル・ストリング・バンド(The Incredible String Band)で、彼らはトラッドというよりもサイケデリックの要素が強かった。僕はファースト・アルバムを出したときから、彼らのサウンドに強く影響を受けていた。だから伝統的な器楽編成法やアコースティック楽器には当時から興味があったんだ。ジ・インクレディブル・ストリング・バンドにも伝統的な音楽を演奏している曲があるからね。それと同時期に僕はニック・ドレイクにはまって、それが僕のギターの演奏方法に大きな影響を及ぼした。だからフォーキーな部分は僕のなかでけっこう前からあったけれど、今回のアルバムではその感じがより伝統的な方法で表現されたんだと思う。とくにヴァイオリンを学びはじめたから、アイルランド人のフィドル演奏者、ケヴィン・バーク(Kevin Burke)を聴いて、アイルランドのメロディなどを学ぼうとした。だからマンドリンとヴァイオリンを学びはじめたことによって、僕のサウンドに新たな一面が加えられたように聴こえるんだと思う。

僕たちはみんな、似たような感情を体験している。同時にその体験は私的で個人的なものでもあるんだ。だから具体的な時代を参照しなくてもノスタルジーを喚起させる方法があるということなんだよ。

今回のアルバムの制作にあたり具体的にインスパイアされたアーティストや作品はありますか?

SW:とくにないかな。先ほども言ったように僕がおもに影響を受けているのは、ニック・ドレイクとジ・インクレディブル・ストリング・バンドで、その後、『Parallelograms』というタイトルのアルバムを70年代初めに出したカルフォルニア出身のアーティスト、リンダ・パーハクス(Linda Perhacs)の音楽を知った。それが今作の影響にもなっていると思うけれど、僕のフォーク音楽の経験は限られている。僕はフォーク・ミュージックの大部分があまり好きではなくて、フォーク音楽の、突出した、特定の要素が好きなんだ。ケヴィン・バークは比較的最近影響を受けたアーティストで、彼が70年代80年代にレコーディングした作品が好きだ。ギターとヴァイオリンのみが使用されていて、余分なものが取り除かれた感じのする、伝統的な音楽だから、オーケストレイションがあまりされていなくて、加工されていない(=raw)感じがする。そういう感じがとても好きなんだ。

ペンタングルやバート・ヤンシュ、フェアポート・コンヴェンションなどは参照しましたか?

SW:彼らの名前は知っているけれど、作品は持っていないからあまりちゃんと聴いたことがないね。たぶん曲をいくつかは聴いたことはあると思うけれど……。

いまUKはEU脱退をめぐって揉めていますが、今回このようにイギリスのトラッドやケルトの要素を強く打ち出したことは、ブレグジットと関係していますか?

SW:それはまったくない。僕はEU残留派だから、イギリスの現状には満足していないよ。

“Ode To A Nuthatch”にはバッハからの影響が感じられます。彼のもっとも偉大なところはどこでしょう?

SW:彼の偉大な点はたくさんあるからそれに答えるのは難しいけれど、僕が好きなバッハの音楽の多くは、無伴奏チェロ組曲なんだ。マンドリンでそれらを練習したり、最近はチェロも手に入れたからチェロでも練習したりしている。バッハには、ひとつのメロディをとおして、ものすごくたくさんの、そして多様な感情を生み出せる能力があった。彼はオーケストラのアレンジにかんしても天才だったけど、彼にはメロディとハーモニーに対する驚異的な理解力があった。そしてひとつのメロディ・ラインをとおして、さまざまな感情を生み出す能力があった。彼は真の天才だった。

“Pretty Ribbons And Lovely Flowers”はこのアルバムのなかでもとくに異質で、惹きつけられました。インダストリアルっぽくもあり、他方でヴォーカルは不思議な加工を施されていて、ビビオの新規軸ではないでしょうか。曲名に「Ribbons」とあることからも本作の核なのではと思ったのですが、いかがでしょう?

SW:この曲はアルバムの核というわけではないよ。アルバムのなかに、アルバムを代表する曲というのはとくにないからね。でも、アルバムのタイトルはたしかに曲のタイトルの影響を受けている。そして、この曲がアルバムのなかでも異質だということも同感だ。この曲で使われている手法のいくつかは『Phantom Brickworks』のときに使用したものだから、その作品との関係性はある。この曲を作ったのは、かなり前だったんだけど、ずっとお気に入りの曲だったし、周りの友人たちも気に入ってくれたから、今度のアルバムには入れたいと思った。たとえ今作がフォーキーなサウンドになっていったとしても、この曲がアルバムに残されることは重要だった。

“Erdaydidder-Erdiddar”でリズムを刻んでいるのはタップシューズでしょうか? このアイディアには何か参照元があったのですか?

SW:タップシューズではないけど、足音だよ。それからドアをノックする音。これはじっさいのドアを使ってスタジオで録音したんだ。木のドアをスタジオに持ち込んでね。足音はサンプリングした。最初に足音をサンプリングして、そこからリズムを作った。それが曲のバックボーンになった。

“Old Graffiti”はファンク~ディスコのスタイルです。“Pretty Ribbons~”からここまでの中盤は本作のなかでも雰囲気が他と異なっていますけれど、アルバムをこのような構成にしたのはなぜでしょう?

SW:『Phantom Brickworks』は例外として、僕はアルバムにさまざまな、対照的な感情を含めるのが好きなんだ。僕にとってアルバムは映画のようなもので、映画にはさまざまなシーンがあって、ひとつのシーンから次のまったく違うシーンへと移ったりする。アルバムでもそういうような旅路を作りたいと思っている。だから曲の順番というのはとてもたいせつで、今回はそれを決めるのが大変で時間がかかった。新しい曲ができて、それをアルバムに追加するたびに、アルバムの構成をすべて変えなくちゃいけなかったからね。だからかなり難しかった。

本作にはディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)やディー・ディー・シャープ(Dee Dee Sharp)といったソウル・アーティストへのオマージュが込められているとのことですが、彼女たちの魅力を教えてください。他のシンガーと違っているところはどこでしょう?

SW:そのアーティストたちというよりも、ある特定の歌やアルバムを僕が知るようになって、今回のアルバムにわずかだか影響を与えているという感じだよ。“Before”や“Old Graffiti”には、僕が、ある特定のレコードを聴いてアイディアを得た要素が含まれている。いま挙げられたアーティストたちも、その人たちをサンプリングした最近の音楽、つまりマッドリブやJ・ディラ、MFドゥームなどを聴いて知るようになったんだ。彼らの音楽から、多くの60年代70年代のソウル・ミュージックのアーティストを知るようになった。だから僕が影響を受けているのは、ディオンヌ・ワーウィックやディー・ディー・シャープたちというよりも、彼女たちの曲に使われていたアレンジの方法のアイディアなんだ。ディー・ディー・シャープの曲に“I Really Love You”っていうのがあるけど、そこで使われているキイボードのような楽器のサウンドが、コードを弾くときに、タイムラグがあるような聴かせ方をしていて、その、時間がずれているような感じがとても好きなんだ。“Old Graffiti”を演奏しているときには、その感じを入れようとした。“Before”には、インストゥルメンタルのパートにメインのメロディがあるんだけど、エレクトリック・ギターが入っていて、シタールみたいに聴こえるように設定してある。そのアイディアも、ディオンヌ・ワーウィックやジャクソン5などの古いレコードを聴いてアイディアを得たものなんだ。当時のアーティストの多くはこういうサウンドを使っていたんだ。

人びとが求めているのは音楽だけではなく、自分が所有できて、見ることができて、集めることのできる、フィジカルな何かだ。それはとても人間らしいことだと思う。だからヴァイナルがまだ消滅していないということは理解できるし、良いことだと思う。

これまであなたはフォークだけでなくソウルやファンク、ヒップホップ、ハウスにアンビエントと、作品ごとにさまざまなスタイルに挑戦してきましたけれど、そのすべてに共通している「ビビオらしさ」はなんだと思いますか?

SW:ほかの人が僕にそういう意見を言ってくれることはあるけれど、自分で何かと言うのは難しいな。たとえば、僕が友人たちの前で曲をかけて、それが誰の曲か言わなかったとする。それはハウス・ミュージックかもしれないし、エレクトロニック・ミュージックかもしれないし、なんでもいい。だけど、彼らはたいてい、それが僕の音楽だということがわかるんだ。そして、僕も同じように、音楽を作る友人たちの曲を聴くだけで、誰がそれを作ったかがわかる。なぜだかはわからない。ある特定のメロディかもしれないし、リズムのアイディアかもしれない。歌を歌うアーティストなら、声で認識できるから、よりいっそうわかりやすいけどね。知り合いのなかでも、僕みたいに、さまざまなスタイルの音楽を作る人たちが何人かいる。マーク・プリチャードはその良い例だ。クリス・クラークも。ふたりとも〈Warp〉のアーティストたちだ。彼らはエレクトロニック・ミュージックを作ることもできるし、アコースティック楽器やピアノだけの曲を作ることもできる。だけど彼らの音楽には彼ららしさというものがたしかにある。でも、それがなんなのかというのは説明できない。それに、自分のサウンドを自分で判断するのは難しいと思う。

あなたの音楽を貫いているもののひとつにノスタルジーがありますが、それについてはどのようにお考えですか? ノスタルジーは人に何をもたらすものでしょう?

SW:ノスタルジーとレトロは違うものだと思う。何かが「レトロだ」と言うとき、それはある特定の時代のデザインなどを参照しているという意味で使われていると思う。たとえば70年代のレトロ・ファッションとか。レトロな音楽というのもそう。その一方でノスタルジーとは、リスナーのなかでの感情を呼び起こすことだと思う。だから音楽にあるノスタルジーは、大勢の集団にたいして、同じ特定の時代を思い起こさせるものではないと思う。むしろ、個人のなかにある、個人的な思い出を呼び起こそうとしている。僕は、僕の音楽にたいしてフィードバックをもらうけど、ノスタルジーがどのように作用するかということについて、いろいろな人の意見やコメントを読んでいる。そのコメントは世界各地の、まったく異なった環境にいる人たちから寄せられてきている。カルフォルニアの人とか日本の人とか、僕が育ってきた環境とはまったく違う人たちだ。でも、僕たちはみんな、似たような感情を体験している。同時にその体験は私的で個人的なものでもあるんだ。だから具体的な時代を参照しなくてもノスタルジーを喚起させる方法があるということなんだよ。僕が関心のあるノスタルジーは特定の時代のものではない。僕のそれは、かなり長い時間軸に及んでいるかもしれないからね。

プレス・リリースには「記憶や子供時代に感じたこと、昔の画家たちによる牧歌的な風景画にも影響を受けている」と書かれていましたが、それらについて具体的に教えてください。

SW:子どものときは、世界の見え方が違うと思う。政治についてもよく知らないし、人間であることの現実にあまり縛られていない。子どものころは、魔法や幽霊などの存在を信じている。だから子どものとき、世界はまったく違った場所のように感じる。経験することも新しいことばかりだ。僕が子供のころ田舎へ行って、父親と釣りにいったことを覚えている。それは素晴らしい体験だったことを覚えている。とても新しくていままでにしたことのない体験だったから。それを大人になったいまふたたび体験するのは非常に難しい。まったく新しい場所に行ったとしても、成長するにつれて、過去の経験によって条件づけられてしまい、ある意味、なかなか物事に感心・感動しなくなってしまう。いろいろな期待を抱いてしまったりするからね。だから子どもの世界観は大人のそれとはかなり違う。でも、自分の子ども時代の記憶もまたじっさいとは違っていたりする。人びとは子ども時代を美化して記憶している傾向がある。それは、素敵なことだと僕は思うんだけどね。
 風景画の画家たちについては、そのままの風景を記録しようとしているのではない人たちが好きだ。彼らは、その場所の写真みたいな記録を残したいわけではない。彼らは、その場にある何かしらの感情やフィーリングを捉えようとしている。僕が言っているのは、イギリスの画家ジョン・コンスタブルなどのことで、彼が描く田舎の風景には、イギリスの田舎にある静けさや穏やかさが表現されている。もちろん、それらが描かれた時代には騒音公害もなかったし、なんの汚染もなかった。いまそのような風景画を観ると、それはべつのことを表しているように僕には感じられる。僕はその時代に戻りたいと思う。そういう絵を見て、あの時代に行ってみたいと思い、あの時代、あの場所に行っている自分を空想して楽しんでいるんだ。

あなたが最初に〈Warp〉からアルバムをリリースして今年で10年になります。このレーベルに移った当時と現在とでもっとも変わったことはなんですか?

SW:音楽業界はいまストリーミングが重要で、それが10年前と比べて大きく変わったことだね。レーベルが生き残るためには、ストリーミングに真剣に取り組んでいかなければならない。人びとが音楽を聴くための新しい方法として最初にストリーミングが登場したとき、僕はあまりそれが気に入らなかった、というか興味がなかった。いまはストリーミングを受け入れていて、それが人びとの音楽の聴き方にどんな影響を及ぼしているのかを観察している。ストリーミングはラジオに近いものだと思うようになったんだ。人びとは自分で作ったプレイリストや、登録しているプレイリストを聴いていて、音楽をコンピレイションのように聴いている。さらに観察していて気づいたのは、ストリーミングではメロウな音楽やアンビエントな音楽、チルな音楽がよく聴かれているということで、これはおもしろいと思ったな。つまり、人びとはよりリラックス効果のある音楽を聴きたいと思っているということだ。それは目が疲れているからかもしれないし、職場で聴いているからかもしれない。仕事中にメロウなBGMが欲しいのかもしれない。だから、ストリーミングは人びとの音楽の聴き方にも影響を与えているということ。僕は音楽を作る側の人間で、アルバムを聴くことによって影響を受けていることが多いから、あまり音楽をストリーミングしないけどね。プレイリストを聴くよりも、アルバムを通しで聴くほうが多いな。自宅ではレコードを聴いている。だからアルバムのレコードをかけてそのアルバムを全部聴くか、少なくともレコードの片面は全部聴いている。この変化はおもしろいと思った。
 それと、この10年間でヴァイナルの売り上げが伸びているのも興味深い。それは、人びとが求めているのは音楽だけではなく、自分が所有できて、見ることができて、集めることのできる、フィジカルな何かだということの表れだと思う。それはとても人間らしいことだと思う。人間はモノが好きだ。フィジカルなモノが好きだ。だからヴァイナルがまだ消滅していないということは理解できるし、良いことだと思う。集めたヴァイナルには価値がある。その反面、曲をダウンロードするためにストリーミング・サービスにお金を払っても、曲を聴くことはできるけど、その後に残る資産が何もない。僕はレコードを聴くためにレコードを買うけれど、投資でレコードを買う人たちもいる。けれど、いつかレコードがいらなくなったときに、それを売ったらなんらかの価値があるというのも良いことだと思う。

C.E presents - ele-king

 たまに電車のなかでもC.E(シーイー)の服着ている子を見かけるんだけど、やっぱ格好いいよなーと思ってしまいます、とくにクラブ好きから人気があるC.E。Skate Thing(スケートシング)がデザイナー、Toby Feltwell(トビー・フェルトウェル)がディレクターを務める洋服ブランドですが、コンスタントにDJイベントもやっていますね。2019年度初となるパーティを2019年5月18日土曜日に青山のVENTにて開催します。
 今回は、The Trilogy Tapes主宰のWill Bankhead(ウィル・バンクヘッド)をはじめ、本邦初DJとなるBeatrice Dillon(ビアトリス・ディロン)、初来日のLukid(ルーキッド)、そしてニュー・ダブ・シーンを開拓中のMars89の4人が出演。良いメンツですね。行きましょう!

The Future Eve featuring Robert Wyatt - ele-king

 ザ・フューチャー・イヴとロバート・ワイアットによるアルバム『KiTsuNe / Brian The Fox』を聴いて最初に思い浮かべたのは、ブライアン・イーノが70年代中末期から80年代初頭にかけて主宰していたレーベル〈Obscure〉からリリースされた諸作品である。特にワイアットが歌ったジョン・ケージの曲を収録したジャン・スティール/ジョン・ケージのアルバム『Voices And Instruments』(1976)を想起した。真夜中の透明な時のようなあのムード。むろんそれも一瞬のことだ。聴き進めていくにつれ次第に「音楽の記憶」は融解し、消失していった。
 やがて『KiTsuNe / Brian The Fox』は、ほかに類例のない音楽と音響であることに気がつく。直線的に進化するというような西洋的ではない時間感覚があり、反リニア的ともいえる時の積み重なりがあった。空間に満たされていくような時間=音楽・音響が生成していた。

 では、ザ・フューチャー・イヴとは誰か。それは近年80年代にリリースされたトモ・アキカワバヤ名義の諸作品・音源が、海外のシンセ音楽愛好家たちによって「発見」され、2015年にシンセウェイヴの名門レーベル〈Minimal Wave〉から『The Invitation Of The Dead』としてリイシュー/リリースされた日本人音楽家 Th である。「ザ・フューチャー・イヴ」は彼の新名義だ。
 Th は70年代に渡英した際にポストパンク・バンドのデスパレート・バイシクルズ(The Desperate Bicycles)にギターとして加入し、活動する。帰国後、Th は「トモ・アキカワバヤ」名義でほかに類例をみない独自の電子音楽を制作しはじめた。12インチ・シングル「Mars」(1983)、「Anju」(1985)、「1985」(1985)、「Kojiki To Onna」(1986)、アルバム『The Castle』(1984)を相次いで発表。1986年にはそれらをまとめたボックスセット『Rivage De La Convulsion』をリリースし、トモ・アキカワバヤ名義での活動を封印してしまう。これらの作品のリリース点数は少なく、極めて希少であったが、インターネットの恩恵もあって、次第にその作品が海外の電子音楽・シンセ・ミュージック・フリークたちに伝播し、アルバムは、希代のレア盤として知れ渡ることになった。
 それゆえ2015年に〈Minimal Wave〉がリリースした『The Invitation Of The Dead』はまさに福音ともいえるリリースだった。このアルバムを初めて聴いた電子音楽マニアは驚いたはずだ。その「存在」も未知だが、その「音」もまた、聴いたことがない未知の音楽だったのである。トモ・アキカワバヤのサウンドは、機材の変化や時代の変容などはあるものの、ほかの何にも似ていない独自の技法によって鳴らされる個の電子音楽であり、時間を超えた驚きを与えてくれる音楽なのだ。モデルのアンジュを被写体としたアートワークも印象的であり、Th の美意識が普遍的な、時間を超えるようなものを希求していることを示してもいた。じじつ、Th は文学から美術までに造詣が深いようで、そのヒントは作品に多く散りばめられていた(彼の人生については、このインタヴュー記事に詳しく、とても興味深い内容であった)。

 90年代は盟友であるシンセサイザー奏者の半谷高明とベアタ・ベアトリクス(Beata Beatrix) を結成し(19世紀のイギリスの画家・詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの代表作からとられた名前だろう)、制作をはじめる。そして彼らが、97年、プロモCD(『87-96』だろうか?)を、ロバート・ワイアットに送ったことで Th たちとワイアットの交流・コラボレーションが始まった(ワイアットについてはもはや説明するまでもないだろう)。1998年に、ワイアットから1本のDATテープが送られてきたというのだ。
 その共作の成果は、やがてワイアットのアルバム『Cuckooland』(2003)に“Tom Hay's Fox”として収録された。“Tom Hay's Fox”が本作『KiTsuNe / Brian The Fox』のオリジナル・ヴァージョンの原曲である。彼らのコラボレーションはその後も継続し、『KiTsuNe / Brian The Fox』が、20年にわたる共作の最初のアルバムとなった(アルバムとしては2年の月日をかけて制作している)。

 『KiTsuNe / Brian The Fox』は「オリジナル・ヴァージョン」と「リング・ヴァージョン」の二部構成となっている。「オリジナル・ヴァージョン」はCD全4曲、LP全5曲、「リング・ヴァージョン」は全8曲がそれぞれ別ディスクに収録されている。
 ちなみに「オリジナル・ヴァージョン」は、〈12k〉のレーベル主宰者にして現代有数のアンビエント作家テイラー・デュプリーがマスタリングを担当し、アルバムのアートワークは Th による写真作品が用いられ、デザインを先端的音楽レーベルの象徴ともいえる〈Modern Love〉のアートワークで知られる Radu Prepeleac が手掛けた。音響から視覚に至るまで Th の「美意識」が隅々まで行き渡っている作品といえよう。リリースは日本のエレクトロニカ・電子音楽レーベルとして著名の〈flau〉である。歴史に残る偉大なリリースだ。

 実際に聴いて頂けると即座に理解できると思うのだが、本作に横溢する音(ドローン、ノイズなど)は、まったく「記号化」されていない。「ドローンならこういう音」、「アンビエントならこういう構造」というありきたりな形式や構造で成立していないのである。ここで音楽家たちは、それぞれに個/音を模索し、生成し、磨き上げ、創り上げているように思えた。ワイアットの詩と歌/声が電子音空間のなかで融解し、拡張し、聴き手の聴覚の記憶を融解するようなサウンドが生まれている。
 むろん音楽の種類でいえばアンビエントやドローンに当てはめることは可能だし、ときにラ・モンテ・ヤング的なラーガ・ドローン的な響きを聴き取ることも不可能ではない。しかしその音はすぐに別の響きへと姿を変えてしまい、安直な言葉の枠組みに収まることを周到に回避していくように展開する。ワイアットの声やヴォーカルも、音響の只中に空気のように揺らめき、やがてドローンの中に液状化するように同化し消失してしまう。「解釈」を拒むように、「解釈」に抗うように。
 そう、『KiTsuNe / Brian The Fox』は、音楽をとりまく無数の「言葉」たちから、するりと、しなやかに、まるで「狐」のように身をかわす。リニアな「時」の呪縛から自由になるために、とでもいうべきか。その結果、音と時間が溶け合っていくような時間が生成する。音楽が時間というノイズの只中に消失していくような感覚は、ザ・ケアテイカーの傑作連作『Everywhere at the End of Time』に近い喪失感を有しているように思えた。

 同時に、ここで生まれている音響は、単なる破壊でも否定の結果でもない点も重要である。音色や構造に未知の感覚があるのだ。聴き手は聴いた瞬間には形式が理解できても、その構造は即座に理解できない。電子音が、声が、ギターの音が、ヴァイオリンの音が、ミニマムなノイズが、まるで夢のように、砂のように、水のように生成し、変化する。われわれはその「音のさま」に茫然となり、聴き惚れてしまうだけだ。「オリジナル・ヴァージョン」1曲め“01.01”と「リング・ヴァージョン」のラスト“04.08”においてワイアットの声が幽玄なドローンの中に消えゆく、音響、質感、感覚……。時間の感覚が変容する。
 つまり、直線的に流れゆく時=音楽から、堆積していく時=音楽の感覚への変容である。『KiTsuNe / Brian The Fox』には、どこか「東洋的」ともいえる時間感覚が横溢している。それはノシタルジアが未来化するような感覚を聴き手に抱かせることになる。未知の音が、未来のサウンドが、濃厚なノスタルジアと共に、堆積する時=音楽が、「幽霊」たちの再臨のように鳴り響く。

 「オリジナル・ヴァージョン」の“02.01”以降、「声」は音響のなかに融解し、電子音やノイズも拡張され、音響化し、まるで空気と時間の層が、液状化するように展開する。音は持続し、変化するが、静謐であり、ノイジーでもある。
 “02.03”は、コード進行や和声など音楽の痕跡が微かに表面化する。消え去る直前の音楽と声。喪失感と再生を象徴するかのような楽曲である。そして「オリジナル・ヴァージョン」の最終曲“03.01”においてワイアットの声/ヴォーカルが再蘇生するように鳴り響く。僅か50秒ほどの短いトラックだが、サウンドが有している時の感覚は実に濃厚だ。「オリジナル・ヴァージョン」は20数分ほどの作品であり(CDとヴァイナルでは収録曲数が違い、ヴァイナルではCD未収録の“02.02”を聴くことができる)、「リング・ヴァージョン」は40分ほどの作品だが、そこに実時間の長さとは無縁ともいえる濃厚な「時」が流れているように感じられた。その名のとおり「リング・ヴァージョン」は、「オリジナル・ヴァージョン」にある「円環する時」の感覚を引き出し、拡張させ、さらなる輪廻的な世界感へと生成変化させているのではないか。
 レーベル・インフォメーションにおいて「ワイアットの声と詩、テープのMIDI変換によってプリミティヴな音階を獲得し、まるでアクションペインティングのように特異な動きへと変貌を遂げ、生命の輪廻が表現された」と記されていたが、 「リング・ヴァージョン」はまるで時が溶け出し、別の時間層へと再生成するようなシルキーな質感の“04.01”で幕を開ける。
 39秒ほどの2曲め“04.02”では再びワイアットのヴォーカル/ヴォイスよって詩が提示され、続く8分20秒ほどの“04.03”では、さまざまなサウンド・エレメントがまるで真夜中の森の微かなざわめきのようにミックスされる。まるで静謐さのむこうにある蠢きを感じさせてくる不穏なトラックだ。
 4曲め“04.04”では再びワイアットのヴォーカルによって詩世界が提示され、音響世界を別のフェーズへと導く。7分ほどの“04.05”も“04.03”と同様に不穏なムードを展開するが、この曲では地上世界から離れ、宇宙的ともいえる深遠なムードが物質と非物質の差異を無効化するように漂っている。
 多層的な声のレイヤーによるドローン化した宗教曲のような“04.06”、ダークな音響空間が静謐な粒子の音響へと展開する“04.07”を経て、ふたたびワイアットの声が響く“04.08”でアルバムは幕を閉じる。この最終曲においてモノフォニーから明確なポリフォニーへと音楽が変化したのち、ふたたびすべてが溶け合う。堆積する時間の層と融解する時間の感覚が、真夜中の森が発する「幽霊」の気配のような本作のアンビエンスは、記憶=ノスタルジアを未知の音響空間として生成する。この2枚のディスクは通常の時間軸を崩すように、融解するように、聴き手の意識を変えてしまうような魅惑がある。

 見事なアルバム構成であり、終焉だが、これで終わりではないようである。現在 Th たちは、ワイアットの希望を汲んで、「ゴースト・ヴァージョン」も制作中という。引退をしたワイアットの最後のリリース作品となる可能性も高いので、いまからリリースに期待が高まる。
 また、本作のために制作されたサイト(https://ki-tsu-ne.com/)も開設された。モノクロームを基調としたヴィジュアルにも Th の美意識と普遍性を感じ取ることができるはずだ。音と共に鑑賞・体験することで、音響と視覚による総合的なアートとして生成するように思えた。

dialogue: Shinichiro Watanabe × Mocky - ele-king

 鍵盤の纏うノイズに、ギターの軋む音──第1話を視聴してもっとも驚いたのはそこだった。いやもちろん、ボンズによる映像も素晴らしいのだけど、それ以上に全篇をとおして繰り広げられる細やかな音の乱舞に、どうしようもなく惹きつけられてしまうのである。かつてこんなにも“生き生きした”具体音をTVアニメで耳にしたことがあっただろうか。そして続く第2話。モッキーによる劇判がこれまた冒険心に満ちあふれている。間違いない。渡辺信一郎、本気である。
 モッキーといえば、もともとはピーチズやゴンザレス(昨年ドキュメンタリー『黙ってピアノを弾いてくれ』が公開)、ファイストらとともに、カナダはトロントのアンダーグラウンドから浮上してきたアーティストだ。ジェイミー・リデルとの度重なる共作や、近年ではケレラ作品への参加でも知られる彼は、実験的な試みとユーモアを軽々と両立させてしまう才の持ち主で、その絶妙なバランス感覚は3月の来日公演でもしっかりと確認することができた。そんな彼が渡辺信一郎による新作アニメのサウンドトラックを手がけることになったのは、いったいどういう経緯からだったのだろう?
 本日深夜よりフジテレビ「+Ultra」ほかにて放送開始となるオリジナルTVアニメ、『キャロル&チューズデイ』。その記念すべき船出を祝して、総監督=渡辺信一郎と音楽担当=モッキーによる貴重な対談をお届けしよう。


みんなAIに興味を持つべきだと思う。その時代がもう来ているから。音楽もそう。僕はいまそれと闘っているんだ。そのなかでバランスを見つけるためにね。だから『キャロル&チューズデイ』のテーマは自分にとってすごく身近なものだった。 (モッキー)

今回、渡辺総監督が『キャロル&チューズデイ』の劇伴にモッキーさんを起用したのはなぜですか?

渡辺:元々、モッキーさんの音楽は好きでよく聴いてたんだけど、今回オファーしたのは、来日公演を観たのがきっかけかな。前回の来日のときのライヴで、どの曲も映像が浮かんでくるような感じがして、すごくサウンドトラックに向いてる音楽だなと。あとは、メンバー全員がすごく音楽を楽しんでる感じが伝わってきて、それがとても心地よくて。丁度そのころ『キャロル&チューズデイ』の企画を考えてたころで、音楽をやっていくうえで幸せって何だろう、と考えてたころで。たとえば何百万枚も売れてヒット出しててもすごく不幸なヴァイヴスを出してる人もいるなか、この多幸感はなんなんだと。そういうことを考えるきっかけにもなったライヴでしたね。

モッキーさんは、渡辺総監督から依頼を受けてどう思いました?

モッキー:ビッグで才能のある方からオファーを受けるというのはとても良いことだよ。

渡辺:ハハハハ(笑)。

モッキー:渡辺さんの作品も音楽と繋がりが深いものだと思う。渡辺さんの映像もすごく音楽を思い起こさせる。だから依頼があったときは嬉しくて飛びついたね。そのオファーを真剣に受け止めて、渡辺さんの作品にふさわしい雰囲気を持った音楽を作ろうと強く思ったよ。

これまでモッキーさんは、渡辺さんの作品には触れていたんでしょうか?

モッキー:そうだね、たくさんというほどではないけど、渡辺さんの特徴を知るくらいにはじゅうぶんに観ていたよ。僕はアニメのエキスパートじゃないけれど、それでも渡辺さんの作品は素晴らしいと感じたね。

本人に実際に会ってみてどうでした?

モッキー:すぐに繋がりを感じることができるアーティストだと思ったよ。話す言語はもちろん違うんだけど、まるで同じ言語で会話をして繋がっているような感じがしたんだ。言葉を交わさなくても通じ合えるというか。

渡辺:打ち合わせがすごく短かったんだよね。

モッキー:信頼があるからね。相手を信頼できるかどうかっていうのはとても重要なことで、それはコンサートでも同じだけど、「何か問題が起こってもこの人と協力すれば乗り切ることができる」というのを打ち合わせの段階で感じることができたから、安心して進めることができたんだ。

渡辺:あっというまに仕事の話は終えて、あとはほとんどくだらない雑談(笑)。だから周りのスタッフが、もっと詳しく説明したほうがいいんじゃないの?みたいな(笑)。いや経験上、こういうのは国籍とか関係なく伝わる人には伝わるものなんで大丈夫かなと。

渡辺さんはモッキーさんと実際に会ってみてどう思いました?

渡辺:とても気さくで陽気な人だったから、逆に「この人のどこからあんな切なく寂しい曲が出てくるんだろう」って思ったかな(笑)。

モッキー:それは僕自身にもわからないなあ。渡辺さんの作品も同じだと思うけど、すべての作品にはバランスがあって、悲しい曲が生まれる背景には何かハッピーなことがあるのかもしれない。悲しい曲でも歌詞がハッピーだったり、逆にハッピーな曲だけど歌詞が悲しいものもあったりするし。今回渡辺さんはAIというテーマを扱っているけど、それだけじゃなくて、他にもいろんなものがあるからこそ、そういうアイディアが生まれてくるんだと思う。あと、渡辺さんの場合はユーモアというのもすごく大きな要素だと思うね。それで繋がりを感じられたんじゃないかなと。

渡辺:そういえばAIに興味があるって言ってたよね。AIに支配された世界のPVまで作ったことがあるって、その場で見せてくれて。

モッキー:みんなAIに興味を持つべきだと思う。その時代がもう来ているから。音楽もそう。コンピュータとかロボットとか。80年代や90年代と違って、いまはドラマーがいらない時代だし、オートチューンが歌ってくれる時代でもあるし、音楽もロボットに支配されつつある。僕はいまそれと闘っているんだ。そのなかでバランスを見つけるためにね。だから『キャロル&チューズデイ』のテーマは自分にとってすごく身近なものだった。

渡辺:それを聞いたときは意外で。そんなことにも興味があるんだって。

じつは、いいサウンドトラックを作る秘訣というのがあるんですよ。それは、一度もサウンドトラックをやったことのない人に頼むということ。ビギナーズ・ラックというか、はじめての人特有のマジックみたいなものが必ずあるんですよね。 (渡辺)

『キャロル&チューズデイ』の世界では99%の音楽がAIによって作られていますが、もし同じ状況だったらモッキーさんはどういうスタンスで音楽を作っていきますか?

モッキー:もう現在すでにそんな感じだと思っているんだよ。人間は完璧ではないから、たとえばコンサートではミスを犯す。でもそれこそがアートを作っているんだと僕は思う。映画も同じで、これから何が起きるかとか、完璧なものができるってあらかじめわかっていたらおもしろくない。最高のテクノ・ミュージックも何かミスが起こったときのものだと思っていて、僕はそのときにこそ生まれるおもしろいものを捉えたいんだ。

AIが99%の音楽を作っているということは、『キャロル&チューズデイ』の世界ではそれだけ多くの人びとがAIの音楽に満足しているということだと推察しますが、AIが作ったものと生身の人間が作ったものとの違いってどこにあると思いますか? リスナーはその違いに気づくことができるでしょうか?

モッキー:若い人たちにはわからないと思う。経験がないから。(と言った直後に突然、力強く机を叩く。その場にいた一同が凍りつく)──驚かせてごめん。こんなふうに机を叩くとみんな「ウッ!」ってなるよね。それは机を叩くとヴァイブレイションが伝わって、何かを感じるからだと思うんだ。でもケータイのスピーカーから出てくる音じゃそのヴァイブレイションが作れない。それは人間だけが出せる音。ただ、だからといってコンピュータのようなテクノロジーで作られた音楽がダメだという話ではないよ。音楽はテクノロジーによってどんどん進化して、良いものになっていったと思うし、実際に自分もエレクトロニック・ミュージックを作っているわけだけど、そこでどうにかバランスをとって人間味を持ち続けていくことが大事だと思う。

先の質問をしたのには理由があって、モッキーさんは以前人間ではないリスナー、ずばり猿を相手に演奏をしたことがありますよね。

モッキー:若い頃にやったね。コンサートでいろんな都市をまわったんだけど、コンサートをする前に動物園へ行って、猿のまわりでセットアップして、そこで演奏をしたんだ。僕が演奏すると猿がジャンプしたりしてすごく昂奮しているんだよね。で、喜んでいるって思ったんだけど、動物園の係りの人に「喜んでるんじゃなくて、嫌がってるんですよ」って言われてしまった(笑)。だからそこでは悲しい曲、静かな曲を演奏したんだ。センシティヴになる必要があったんだよね。そういうふうに猿に対して演奏をすることによって自分のスタイルを築き上げていって、そのあと夜になったら人間に向かって演奏をしていたってわけ。そうやって自分のサウンドを見つけたんだ。

人と違うことをやれ、っていうのがパンク、ニューウェイヴの教えですよ(笑)。ってことで、普通より音楽を立てるというか、映像と音楽がフィフティ・フィフティぐらいのつもりでやってます。 (渡辺)

今回劇伴の制作はどのように進めていったのでしょう?

渡辺:モッキーさんにはサウンドトラックとして40曲くらいを作ってもらったんだけど、そのうち20曲はわりと普通の劇伴のスタイル、音楽メニューを書いてどういう音楽がほしいか説明してオーダーするって形でした。それで、残りの曲のうち12曲は、本人の希望により制約なしに感じたまま自由に作ってもらう、あと残りの8曲だけ、どうしても作品に必要な曲というものがあるんで、そこだけ自分がリファレンスを出してこういう曲を作ってくれとオーダーして。

モッキー:すごく厳しいボスなんだ。「これだけ作れ!」みたいな感じでいつも言われていたよ(笑)。

渡辺:いやいや(笑)。モッキーさんは、自由に作るほうも、オーダーに合わせて作るほうも両方できるのが凄いなと。

できあがった曲を聴いてみていかかでした?

渡辺:ちゃんとサントラでもありつつ、モッキーの曲にもなってるのがよかった。サントラになると急によそ行きというか、お仕事になっちゃうミュージシャンもいるんで(笑)。じつは、いいサウンドトラックを作る秘訣というのがあるんですよ。それは、一度もサウンドトラックをやったことのない人に頼むということ。ビギナーズ・ラックというか、はじめての人特有のマジックみたいなものが必ずあるんですよね。それは、アーティストのファースト・アルバム特有のマジックと同じようなものだと思うんだけど、手探りで新しいものを作っていくときにだけ生まれるものだと思いますね。

音と映像が組み合わさった第1話を観て、どう思いましたか?

渡辺:サウンドトラックってあくまで裏方としてドラマを盛り上げていくものという考えがあって、それはそれで正しいかもだけど、そんな他の人がやってるのと同じことやってもしょうがないじゃない。人と違うことをやれ、っていうのがパンク、ニューウェイヴの教えですよ(笑)。ってことで、普通より音楽を立てるというか、映像と音楽がフィフティ・フィフティぐらいのつもりでやってます。モッキーさんの曲は普通のサントラより音楽として強度があるから、それをなるべく活かしたいなと。

モッキー:音楽に関するアニメだし、それで大丈夫だよね。

渡辺:例えばハリウッドの映画を観ていても、見終わって音楽の印象が残るものってあんまりないじゃない?

モッキー:いまはそうだね。

渡辺:昔の映画にはもっと印象的な作品があったしね。ただし、こういうやり方はリスクもあって、失敗すると音も映像もつぶし合っちゃうから、ギリギリのバランスで成立するように考えてますね。

モッキー:やっぱり渡辺さんは天才だと思うよ。

モッキーさんは第1話を観て、いかがでした?

モッキー:ものすごく気に入ったよ。ジギー(作中に登場するフクロウの目覚まし時計兼ペット)が好きなんだ。欲しいんだよね。僕のために作ってもらえないかな(笑)。ジギーをコンセプトにしたアルバムを作りたいんだ(笑)。まあそれはともかく、『キャロル&チューズデイ』ではAIだけじゃなくて、友情だったり、人生における音楽の役割、なぜ人類が音楽を必要とするのかというのも大きなテーマのひとつになっていると思う。やっぱり音楽って、昔もいまも変わらず僕たちの人生の一部であり、欠かせないものだと思うんだ。たとえば仮に人間が火星で生活をすることになったとしても、みんな音楽を持っていくだろうとか、そういうことをよく考えるんだよね。なんで音楽なんだろうって。それってやっぱり、僕たちが生まれながらにして持っている感情だと思うんだ。子どもが泣けばお母さんは自然に歌を歌うしね。最近のメインストリームのアメリカ映画ではそういうことがぜんぜん語られなくて、人間の作る音楽というものが脇に置かれてしまって、注目されていない。『キャロル&チューズデイ』はそういうことを重要なテーマだと語ることができる作品だから、自分がそれに関わることができたのはすごく光栄に思っている。

モッキーさんが今回劇伴を作るにあたり、とくに意識したことはなんでしょう?

モッキー:とにかく渡辺さんを信用するのみで、僕はとくに何も意識しなかったね。ただもう信頼だけ。自分にとって渡辺さんはミュージシャンのような存在なんだ。初めて会ったときも他のミュージシャンに会っているような感じがしてね。ほんとうに安心することができるし、彼が作った作品の音楽を作っているというだけで、人間と人間が関わっているということを感じることができた。だから、とくに意識したことはないんだ。渡辺さんは音楽の知識が素晴らしいからね。音楽について少し会話をしただけで、すぐに音楽のことをすごく知っている人だってわかったよ。

渡辺:じつは、モッキーさんに音楽を頼んでもうひとつ良かったことがあって。今回、サウンドトラックとはべつにヴォーカル楽曲を国内外のいろんなミュージシャンにオファーしてるんだけど、普通はなかなかハードルが高いミュージシャンたちが「モッキーがやってるなら」ということで興味を持ってくれる場合が多かった。やっぱり彼はミュージシャンズ・ミュージシャンで、ミュージシャンのあいだで人気があるんですよ。「そのおかげで、多くのミュージシャンが参加してくれたとこもあるんじゃないかな。

いまおっしゃられたように、『キャロル&チューズデイ』にはモッキーさん以外にも多くのミュージシャンが参加していますけれど、彼らを選ぶときに何か基準はあったのでしょうか?

渡辺:もちろん自分が好きなアーティストっていう大前提はあるけど、今回はやっぱり作品内容に合ってる人、テイストが合っている人が中心。とくに『キャロル&チューズデイ』ではメロディを重視してるんで、メロディメイカーとしていいかどうかにウェイトを置いてたかな。

モッキー:それは僕も同じで、メロディを作るときって自分の意識とか注意が必要なんだよね。それは(AIではなく)人間だからこそできることなんだ。ほんとうに人間味のある人間だからこそメロディを気にかけるんだと思う。

渡辺:あと、オファーをしていくなかで話を聞きつけたアニメ好きのミュージシャンがオレにもやらせろと言ってきたり、そういうパターンもありますね(笑)。ちなみに今後、モッキーさんにはサントラのオファーがいろいろ来るんじゃないかな。売れっ子作曲家になったりして。

モッキー:日本だけかもしれないけどね(笑)。でも日本が大好きでお気に入りだから。日本は尊敬の念とか感謝の念が素晴らしい。

『キャロル&チューズデイ』では人生における音楽の役割、なぜ人類が音楽を必要とするのかというのも大きなテーマのひとつになっていると思う。最近のメインストリームのアメリカ映画ではそういうことがぜんぜん語られない。 (モッキー)

最後に、これから『キャロル&チューズデイ』を観る方に一言ずつお願いします。

渡辺:音楽が好きな人で、これまでアニメはあまり観てこなかったような人でも楽しめる作品になってると思うんで、ぜひ観てほしいです。音楽ファン必見です。

モッキー:僕もそう思うよ。みんなが楽しめる作品、大人も子どもも世代を問わず楽しめるアニメだと思う。

渡辺:あと、フクロウが好きな人もぜひ観てください!

モッキー:そのとおり! やっぱりジギーだけの作品も作ったほうがいいと思う(笑)。

ではスピンオフ決定ということで(笑)。

モッキー:ジギーが主役のコメディをやろうよ!

渡辺:プロデューサーに言っておきますか(笑)。でもジギーのおもちゃは作ってほしいですね。

モッキー:目覚まし時計もいいんじゃない? ジギーにステージ上で演奏してもらうのもいいね。もし実現したら最初に僕にくださいね!

主戦場 - ele-king

 及び腰でこれを書き始める。韓国の慰安婦問題に関するドキュメンタリーで、日韓の言い争いには巻き込まれたくないから。僕がこのドキュメンタリーを観ようと思ったのは韓国映画をもっと気持ちよく楽しみたいという思いからで、最近でいえばナ・ホンジン『コクソン』は2010年代後半のベスト3に入れたいほど僕は気に入っているし、イ・チャンドン『バーニング』やヨン・サンホ『新感染』といったエンターテインメントは公開されても、慰安婦問題を扱った『Herstory』や『I Can Speak』は日本では特別上映会というものでしか観られない(ので僕は観ていない)からその代わりという意味もある。ミン・ギュドン『Herstory』はとくにアメリカでの評価が高く、それはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でどれだけの女性たちが性的な被害に遭っていたかを描いたラリーサ・コンドラキ『トゥルース 闇の告発』やアンジェリーナ・ジョリー『最愛の大地』から続く#MeTooの流れに沿ったものであり、この後には多分、ノルマンディー上陸作戦で同様なレイプ行為が多発していたことを描く作品に続いたりするのではないかと予想される。「主戦場」というのはアメリカのことを指していて、それは慰安婦問題がアメリカでどのように受け取られるかを危惧した日本のナショナリストの発言から拾われたものだという。慰安婦問題についてアメリカで「20万人の女性たちが強制的に性奴隷にさせられていた」と報道されているのは誤りであり、彼らの認識を覆すための戦いという意味である。

 監督は日系アメリカ人のミキ・デザキというユーチューバー。最近はネットフリックスやフールーから大作映画が飛び出しているように、これもユーチューブから派生してスクリーンにステージを移した長編作品ということになるのだろう。冒頭から多種多様なニュース映像をマイケル・ムーアばりの早いテンポでつなぎ合わせていくので、ひとつの話題が飲み込めないうちに次の話題に進んでしまい、あたふたしかける。オープニングは彼がこの問題に興味を持ったきっかけからスタート。デザキはフロリダで生まれ、医大で学位を習得した後、沖縄や山梨県で英語教員を勤めていたことがあるという。その時の体験からなのだろう、「日本にも人種差別はある」という内容の動画をユーチューブにアップしたところ、日本ではテキサス親父として知られるユーチューバー、トニー・マラーノがこれに噛み付いてきたという。移民排斥を訴えるアメリカのオルタ右翼にとって、移民を受け入れないと表明してきた日本はいわば聖地であり、単一民族で国家を築き上げてきたことは彼らにとって大いなる理想といえる。そのテキサス親父はその頃、サンフランシスコに慰安婦像が建造されることに大反対していた。慰安婦像の何がそんなに問題なのか。自分に文句を言ってきたテキサス親父がそんなにも夢中になっている問題に興味が湧き、デザキは慰安婦について調べ始める……と、ドキュメンタリーを観ているだけではそのように受け取れるものの、パンフレットを読むと元朝日新聞の記者、植村隆がネトウヨに中傷されていると知ったことがきっかけで、この問題を知ることとなったと彼は答えている。はて、どっちなんだろう? アメリカでは日韓がこの問題で対立していることもほとんど知られていないため、なぜそんなことになったのかを理解したくなったと彼は続けている。

 取材は韓国と日本、そしてサンフランシスコ議会を行ったり来たりする。慰安婦問題にディープな興味を持っていなかった僕は、まずは韓国内で行われていた議論が興味深かった。慰安婦問題が表面化したのは90年代に入ってからだったけれど、家父長制が根強い韓国では、終戦後もいわゆる「汚れた存在」となった慰安婦は社会にすんなりと戻ることはできなかった。慰安婦たちがなかなかカミングアウトできない社会にも大きな問題があったという部分。それから慰安婦問題でたびたび俎上に上がってきたのが強制連行の有無で、プロの売春婦だったら問題はないとする見解もよく耳にするけれど、日本軍による強制ではなかったものの、ほかに選択肢がなくて慰安婦になった女性たちや韓国の業者に騙されて慰安婦になった女性たちは「反日」という文脈では声が上げづらい立場にあるというもの。具体的には、すべては日本軍が悪いとする「挺身隊問題対策協議会」と、日本には構造的責任はあるけれど、個別には韓国内の責任も問うべきだとするパク・ユハが対立し、ドキュメンタリーを観た後で調べてみたところ、パク・ユハは裁判で訴えられるほど韓国内では劣勢であり、日本では彼女の著作を右派も左派もそれぞれの文脈で評価しているということ。慰安婦といってもひとりひとりはみな異なる運命を辿り、まとめて論じることにそもそも無理があるんだなということがここまでではわかる。実際には人種的にも多岐にわたっていたそうだし。

 最も多くの時間が費やされているのは日本の右派と左派の議論である。どうやら同じ人数で同じ時間になるように配分されているらしい。論点は大きく「強制連行か否か」「慰安婦の数」「性奴隷の定義」などに整理され、細切れにされたインタビューがテーマに沿って再編されている。あたかも対論が行われているかのような例のスタイルである。もともと右寄りの人は右派の話をうんうんと聞き、左寄りの人はその反対となるのだとすれば、僕は明らかに左派であった。全体の90%近くが左派に説得力があり、とくに杉田水脈は喋れば喋るほどボコボコにされていくという感じに見えた。彼女の言葉尻を捉えるようなインサート映像もあったりして、そこは公平ではない気もしたけれど、彼女の理屈が一貫していないことは確かで、伝わってくるのは彼女の負けん気だけ、みたいな。右派の重鎮といえる櫻井よしこはほとんど発言はなく、ほかに藤岡信勝やケント・ギルバートらが右派として名を連ねている(歴史まで整形してしまう高須克哉は出てこない)。対して左派は吉見義明や林博史など。左派の話には納得するところが多かったけれど、人物的に印象に残った人はいなかった。まあ、冷静に喋っていたということなんでしょう。声が大きな人には負けるというか、僕は人類は良い方向に進むか悪い方向に進むかではなく、意志の強い人に引きずられるだけだと思っているので、これだけを見ても日本が右寄りになっていくのは当然だなあと思うばかり。

 右派の決まり文句としてたびたび出てくるセリフに「文書が残っていない」というのがあった。しかし、映画『日本のいちばん長い日』でも描かれていたように軍部は敗戦が決定的となるや記録文書を次から次へと焼却してしまったので、残っていないのは当たり前である。なので、右派も左派も当時の韓国の新聞記事だったり、細かいものをどんどん探し出してくる。そこからわかることはいろいろあるけれど、とくに印象に残ったのは慰安婦には未成年が少なからずいたということと、やはりそれは日本も批准していた国際法ではアウトだったということ。あるいは右派が主張するように慰安婦になることでいい思いをしていた人ももしかするといたのかもしれないけれど、どっちにしろ終戦と共に日本兵が渡していた軍票は紙屑同然になってしまったのだから、最終的には金を稼いだことにはならない。また「いい思いをしていたはずだ」という趣旨のことを繰り返す右派の主張はかなりしつこくて、外国人に生活保護を受けさせるなという在特会の主張を思い出すなあと思っていたら、実際に映像が在特会へと飛んでいったのは驚いた。バンクシーでもハロウィーンでもピエール瀧でも日本のニュースはすぐに金の話になるし、それはここでも同じだという印象。

 ドキュメンタリーのピークは慰安婦像を建てるかどうかで議論を交わすサンフランシスコ議会に移っていく。これが『バットキッド・ビギンズ』で描かれたサンフランシスコと同じ市なのかと思うほど、議論の応酬は凄まじい。結果は広く知られている通り、サンフランシスコ市は慰安婦像を建て、大阪市は姉妹都市を解消することとなった。後半はそのようにして世界にも積極的に働きかけていくネトウヨの背景に焦点が当てられる。安倍政権、そして日本会議である。スクリーンではこれまでに登場してきた右派の人脈図が示され、それらをすべて結びつけていた人物が浮かび上がる。日本会議代表委員などを務める加瀬英明にデザキはマイクを向ける。そこで語られることは(以下、ネタバレなので自粛。加瀬の従姉はちなみにオノ・ヨーコ)。話のスケールはさらに大きくなる。慰安婦に限らず戦後の賠償問題が俎上に上ると、必ずでてくるのが1965年に結ばれた日韓基本条約で、これによってすべては解決済みだという話になりがちだけれど、それはアメリカの都合で結ばせた条約であり、そもそも日韓をこのような関係に追い込んだのはアメリカの外交政策だと、オリヴァー・ストーンばりの歴史批判にデザキの論調も切り替わっていく。「主戦場」というのはアメリカを指していると先に書いたけれど、そもそも日韓で慰安婦論争が起きる種を蒔いたのがアメリカだという回帰性が示され、日韓基本条約が結ばれた時とは情勢が変わって、いまは日韓が争ってくれた方がアメリカには都合がいいのだなということも想像がついてくる。実際、現在の日本と韓国はともにアメリカから兵器を爆買いし(トランプになってからアメリカの軍事産業は30%の伸び率)、日本に関しては小松製作所などが軍需産業から撤退しなくてはならないほど日本政府に兵器や部品を買ってもらえなくなったというし。

 僕は学生時代に小さな本屋でアルバイトをしていて、お客さんに「韓国関係の本はどこですか?」と聞かれ、とくにコーナーもなかったので「うちには置いていません」と答えたら、いきなりものすごい剣幕で怒鳴りつけられ、それ以来、朝鮮人も韓国人もみんな嫌いになってしまったこともあるんだけれど、友だちができたり、水木しげるさんに3日連続で戦争の話を聞く機会があったりして、いつしかあの時のお客さんが怒鳴りつけるのも仕方がないことなんだなと思うようになった。一番いいのはやはり学校で現代史を教えてくれることだとは思うけれど、この作品で日本会議が政治の中枢にどれだけ食い込んでいるかを観てしまうと、学校教育に期待するのも無理がありそうだし、あー、めんどくさいなーと思うばかり。これだから政治は嫌いだ。

映画『主戦場』劇場予告編

世界で最初のハウスのレコードを作った男が綴るリアルな歴史

シカゴ・ハウスとは、どのように生まれ、どのように発展し、どのようにしくじり、どのように世界でもっとも愛される音楽スタイルになったのか

解説:西村公輝

自分のように、ハウス・ミュージック(とくにシカゴにおける)の成り立ちというものに少しでも興味を持っている者としたら、ハウス・ミュージック勃興期の出来事の大部分は想像/妄想を働かせる以外にない“ブラックボックス”と化しており、本書ではそれこそ目から鱗の剥がれ落ちるがごとくの貴重な証言が続々と飛び出してくることに感動する。 (解説より)

英「FACT mag」の“読むべきエレクトロニック・ミュージックの本10冊”のうちの1冊にも選ばれた、決定的なドキュメント

シカゴで生まれ世界で愛されているダンス・ミュージックの初期の物語

■著者
ジェシー・サンダース (Jesse Saunders)
1962年生まれ、シカゴ出身のDJ、プロデューサー。“ハウス・ミュージックのオリジネーター”と称されている。80年代、地元シカゴでハウス・ミュージックという新たな音楽ジャンルを発明し、1983年にハウス・ミュージック初のレコーディング作品となる“ファンタジー”を制作、1984年にはハウス・ミュージック初のリリース作品となるシングル「オン・アンド・オン」を発表する。その後、ハウス・ミュージックのクラシック、“ラブ・キャント・ターン・アラウンド”や、ハウス・ミュージックとしてはじめてビルボード・チャートにラインクインした“ファンク・ユー・アップ”といった初期ハウス・ミュージックの重要作品を次々と手がける。さらに、自身のレーベル〈Jes Say Records〉に加え、ラリー・シャーマンらとともに〈Trax Records〉を共同設立。〈Trax Records〉からは、数多くのハウス・ミュージックのクラシック作品がリリースされている。また、1986年には、ジェシーズ・ギャングとして、〈Geffen Records〉とメジャー契約し、アルバム『センター・オブ・アトラクション』をリリースしている。以降、現在まで、DJとして世界各国のさまざまなヴェニューでプレイし、プロデューサー、リミキサーとしても数多くの作品を手がけている。
https://www.jessesaunders.com/

■訳者
東海林修
青山学院大学大学院総合文化政策学研究科修士課程修了。青山学院大学総合文化政策学部附置青山コミュニティラボ(ACL)特別研究員。オンライン・ミュージック・マガジン「UNCANNY」を主宰、編集長を務める。またこれまで、A&Rとして様々な作品を手がけている。
市川恵子
エディンバラ大学大学院文学研究科中国文学専攻修了。国内広告代理店、音楽出版社にて、国内外のコンテンツビジネスを担当し、現在は主に、フリーの通訳者、翻訳者として活動する。

目次

プロローグ
第一章 サンダース家
第二章 ジェシー・ザ・DJ
第三章 ウェアハウス・ミュージック
第四章 ファンタジー──夢が現実になるとき
第五章 ハウス・ミュージック
第六章 不意打ちの痛み
第七章 新たな震源地
第八章 ファミリー・ツリー
第九章 間違った方向
第一〇章 終わり、そして、はじまり
第一一章 ハウス・ミュージックを愛するすべての人びとに

解説 世界はハウスの仮想庭園になった (西村公輝)

Overton's Window(常識の枠)を大きく開けたAOC(オカシオ・コルテス)。
政界に登場したニューヒロインは、私たちのカルチャーにどのような影響を与えるのだろう。

 去る1月上旬、オカシオ-コルテス下院議員がBusiness Insider(ビジネス専門ニュースサイト)のインタヴューで「MMT = Modern Monetary Theory(現代貨幣理論)」について言及し、再び全米を騒然とさせた。これは一部の政治・経済クラスタだけが騒いだものではなく、若年層を中心に注目されるAOCだからこそ政治・経済の枠を超えて多くの人を巻き込む騒ぎとなったといえる。

1000万ドル以上の所得のある超富裕層の税率を、60%から70%で課税することを支持します。

グリーン・ニューディールを成功させる方法に関しては、富裕層課税などいくつもの財源創出方法があります。

政府の赤字支出は良いことです。グリーン・ニューディールを実現させるためには、財政黒字こそが経済にダメージを与えるとするMMT の考えを、”絶対に”私たちの主要議論にする必要があります。

アレクサンドリア・オカシオ-コルテス

 このインタヴューが、誰もが「政府の財政赤字は悪いことだ」と思っていた”Overton's Window(常識の枠)”を、AOCが広げた瞬間となった。勿論このニュースが配信されるやいなや、そのコペルニクス的発想の転換に追いつくことのできない多くの人々は困惑し、バイラル・メディアでは、「借金を増やして良いわけがない」という当然の怒りの声から、「またインテリぶってるのか」「はいはい、炎上商法ね」といった冷笑めいた否定的なコメントも数多く寄せられた。しかし好奇心からMMTに興味を示す人たち、またはその先進的イメージから「AOCをサポートする」といった好意的なコメントも数多く投じられ、結果としてネット上には数多くの賛否両論の言葉が飛び交うこととなった。

 このAOCのインタヴュー報道を受け、保守派が怒りをあらわにしたことは想像に難くないだろうが、著名人たちもこぞって反応した。ビル・ゲイツは「MMTなんて狂ってるね、財政赤字は問題に決まってる」と一蹴。他にも現FRB議長のジェローム・パウエル、ハーバード大教授で元財務長官のローレンス・サマーズ、そして投資の神様といわれるウォーレン・バフェットまでもが、ゲイツと同様に一方的な批判を重ねた。その内容は「債務がGDPよりも速いペースで増加しているのだから 歳出削減が必要だ」、「ハイパーインフレにつながる」と判で押したようなものであった。

 他方で、ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンは、NYタイムスで連載中のコラムでAOCの発した富裕層課税について触れ、「オカシオ・コルテスの提案はクレイジーに聞こえるだろうが、著名なエコノミスト達の真面目な研究とも完全に一致している。 米国では少なくとも73%、おそらく80%以上の富裕層税が適正だろう」と擁護。映画監督のマイケル・ムーアも、「誰がトランプをぶっ潰せるかって? 現在の民主党の大統領候補にはいない。オカシオ-コルテスが立候補すべきだろう。彼女がこの民主党進歩派の運動のリーダーだってことは誰もがわかっている。トランプを支持する視聴者の多いFOXの世論調査でさえ、富裕層の税率を70%に上げようという彼女の主張を、実に70%もの人が支持したんだ」とTV番組で声高に叫んだ。

 しかし、パウエルら批判者、クルーグマンら擁護者の双方いずれもが、MMTの呈する理論を代弁できているとは言えないだろう。MMTの真髄は、赤字財政であっても野放図に支出しても良いとするものでもなければ、富裕層に対する課税を強化しようというものでもないのだ。どのような理由でAOCは「財政赤字は良いことだ」と語ったのだろう。

 AOCの師・米大統領候補サンダースの設立したサンダース・インスティテュート。その経済政策担当で、サンダース自身と民主党上院予算委員会の経済顧問も務めた、NY州立ストーニーブルック大教授のステファニー・ケルトンは語る

MMTは、異なった経済や貨幣制度を調査するためのレンズのようなものです。

アメリカ、イギリス、カナダや日本を見て、これらの国々は独立した主権国家で不換紙幣と呼ばれるものを使用しているという意味で似ています。

自国通貨を発行できる国は、請求書が払えなくなるような状況に陥ることはありません。

 そして、その国債を発行することによる政府支出の上限は、「過度なインフレ圧力」なのだと加える。経済に余剰な供給能力があるのならば赤字支出可能だということだ。ステファニー・ケルトンは、90年代に投資家のウォーレン・モズラーやニューカッスル大学教授のビル・ミッチェル、ミズーリ大教授のL・ランダル・レイらとMMTの基礎を築いたチャーターメンバーだ。MMTの理論が成り立つ前提条件は他にも、変動相場制や、多額の外貨建て債務を有していないことなどが挙げられるが、いずれもケルトンが言及した国々に条件が符号する(そう、我が国もだ)。

 AOCの発した「政府の黒字は経済にダメージを与える」とする発言も、一見して矛盾するように感じられるだろう。しかし政府が民間部門から過大に徴税したり、緊縮的な政策を続けて財政を黒字化させるということは、それだけ経済を巡る貨幣を取り上げることに他ならないのだ。

 現実が経済学を裏切っている。現実を経済学で説明できない。人々の信頼を失い、ジレンマに苦しみ続けた経済学がようやく出した解答が、このMMTだといえるだろう。政府は赤字支出により、国民経済を発展的に管理する必要があり、そのためにこそ国家が存在している。人々がかつて畏怖の対象としてきたリヴァイアサンこそが我々の経済活動をまわす原動力だったと気づかされる。

 米国ではトランプ大統領の登場以前から、深刻な格差の拡大が社会問題となり、それによって世論も二極化した。民主党支持者の60%が社会主義に好意を示し、教育や社会保障への予算割り当ての増額を望む一方、従来のリバタリアニズムを堅持する共和党支持者の多くは、税や政府予算の規律を重視するばかりか、移民への社会的保障が国家運営を阻害するとして批判さえ加えてきた。

 「神の見えざる手」を過剰に信仰するリバタリアニズムや「自己責任論」が、ネオリベ思想にも直結する形に収斂した。そのカウンターとして現れたのが反ネオリベのトレンドである。主流メディアにおいてしばしばこのように語られるが、これは事象を正確に説明しているとはいえない。ネオリベとあまり変わらない「第三の道」を継承したかつてのオバマのリベラル政権下においてこそ、現在に続く反ネオリベ・反緊縮の種が萌芽を待ちわびていたと見るべきだろう。

 リバタリアニズムとリベラリズム両者の瓦解、それによって生まれた反ネオリベの芽がトランプ政権を産み、そしていま、サンダースやAOCを切望するポピュリズムの声となったのだ。

 ポピュリズムとは民衆のデモクラシーを求める声とも言える。そもそもリベラル・デモクラシーは、社会に見放された落後者に対しても、民衆の意思たる代表制をもって人権を保障し、救済するためのシステムであったはずだ。しかし、80〜00年代を通して「ネオリベラリズム」や、ネオリベのマイルド版である「第三の道」に破壊され続けたリベラル・デモクラシーは、いつしか過度なリベラリズム(個人の自由を強調する指向性はリバタリアニズムにも近い)とデモクラシーとに乖離した。

 それらに反発する民衆の声がいま、本来的な意味で、人びとの生きる土地やコミュニティーを愛する純粋なデモクラシーへと進化を遂げるかたちとなった。それこそがポピュリズムの、地べたに根を張る民主主義の本来の姿ではないだろうか。

 Neil YoungやRed Hot Chili Peppers、Vampire Weekendのようなアウトサイダーと呼ばれるロック・ミュージシャン、そしてNASやDiplo、Stieve Aokiといったストリート出身のクラブミュージック牽引者たちのサポートによって、3年前にサンダース旋風が吹き荒れたことは記憶に新しい。

 16年の大統領選に旋風を巻き起こした若者のデモクラシーを求める声は、”#FeelTheBern”のハッシュタグを生み、Cardi Bの”Vote for Daddy Bernie, bitch”へと、そして21 Savageのリリック”I couldn’t imagine, my kids stuck at the border(なぜ子供たちが国境で拘留されているのだ)”に呼応するAOCに引き継がれ、いまなお大きく響きわたっている。

 本コラムを通読いただけた方には、なぜ2019年にアレクサンドリア・オカシオ-コルテスが、そしてMMT=Modern Monetary Theoryがたち現れたのかご理解いただけただろう。それは、人びとが望んだ民主主義が、そこに結実しただけなのだ。

RAINBOW DISCO CLUB 2019 - ele-king

 絶対行く価値アリの、2010年5月2日にはじまったレインボー・ディスコ・クラブ(RDC)は、今年で10年目を迎える。音楽好きがDIYではじめた野外フェスが(しかも、いわゆるメジャーなアーティストがいっさい出ないフェスが)、かれこれ10年も続いているのは、主催者側の並々ならぬ努力もさることながら、ひとえにこのフェスティヴァルそれ自体が信用されているからだろう。エレクトロニック・ミュージックを愛する人間であるならば、RDCはいちどは行くべきフェスであり、出演者の時間表を気にしながら行動するフェスに飽きた人間が行ったら、楽園かと思えるようなフェスである。何度も言うようだけど、家族連れが多いのもRDCの特徴。
 今回は、第一回目に出演したDJハーヴィーをはじめ、〈ラッシュ・アワー〉、DJ NOBU、ベンUFO、瀧見憲司といったお馴染みのメンツに、マシュー・ハーバートやヨシノリ・ハヤシなど話題のアーティストも登場。伊豆の素晴らしいロケーションのなかで生まれる3日間の音楽コミュニティ、ひとりでも多くのひとに楽しんでもらいたい。

■RAINBOW DISCO CLUB 2019

日程:2019年4月27日(土)9時開場/12時開演~4月29日(月・祝)19時終演

会 場:東伊豆クロスカントリーコース特設ステージ(静岡)

出 演:
〈RDC Stage〉
DJ Harvey
Rush Hour Allstars (Antal / Hunee / San Proper / Masalo)
Matthew Herbert
DJ Nobu b2b Wata Igarashi
Ben UFO
Move D
Palms Trax
Jayda G
Kenji Takimi
Yoshinori Hayashi
Sisi
Kikiorix

〈Red Bull Stage〉
Leon Vynehall
Maurice Fulton
Tijana T
Captain Vinyl (DJ Nori + Muro)
Cro-Magnon
DJ Sodeyama

料金:
通し券(2泊3日)20,000円
*規定枚数に達しましたら当日券の販売はございません。
*20歳未満の入場は保護者同伴の場合のみご入場いただけます。
*中学生以下はチケット不要です。

キャンプ券 4,000円
*炭を使用するBBQは禁止。コンロ、バーナーのみ可能。
*アルコール類、瓶、缶の持ち込みは固くお断り致します。

駐車券 3,000円
*駐車場出入庫は1回1000円別途必要。

オフィシャルサイト:
https://www.rainbowdiscoclub.com

第4回 愛と生存ンンン……。 - ele-king

 三月は〈おしまい〉になっていた。何もかもがだめだった。布団のあいだにうずくまってスマホでソリティアをしたり指の皮を血が出るまで剥いたりしていたら一ヶ月が終わった。神はなぜこんな血の出やすいところにエンターテインメントを用意したんでしょうね。正直今も左手の人差し指で親指の皮をめくりながらこの文章を書いている。
 やらなければならない種々のことを全て先送りにした。何もしたくなかったし、実際にほとんど何もしなかった。全部が恐ろしいほどおっくうで、身体の外側の時間の流れに全くついていけないと感じていた。アルバイトだけは通えていたが、アルバイト以外では人に会わなかった。何もかもが遠かった。
 三月はだめだ。私にとっては冬よりもきつい。着替えて一歩外に出ればつい一ヶ月前まで渇望して止まなかった太陽があるのに、どうしても部屋から動けない。冬の〈おしまい〉には「こんな気候なら仕方がない」という説得力と納得があるが、春の〈おしまい〉は外的要因に己の不調の理由をなすりつけにくいほど陽の光がうつくしい。苦しい。私は一生この天気を「行楽日和」と形容できない。

 だが不思議と今シーズンはその場にいるのが耐えられないほどの精神の下降はなかった。奇妙な凪だ。「ヘル日本」なニュースが常態化しすぎて怒ることにすら疲れていたのかもしれない。いや、性暴力に、公務員の韓国差別に、入管の人権無視に、こんなにたいへんなことばかり起きているのに新元号だのオリンピックだのどうでもいいニュースばかり流すテレビに、ずっと怒ってはいたし、これは自分の現実なのだという意識もあったが、その一方でなんだか妙に全てが自分から遠かったのだ。普段なら内臓がどよめいてその場で手足をばたつかせたり唸ったりせずにいられないようなときでも、「ああ、そうか」と思ってしまえている自分がいた。悲しくてムカついてとりあえずほうぼうに署名をしたが、それ以上の具体的な対処法がわからず、ゴジラになって全部踏み潰したいなあなどと考えていた。
 思うに、短い間に大量かつさまざまな問題を視界に入れすぎたために、視界の縮尺がどんどん小さくなっていき、世界に対する目線がゴジラになっていったのではないか。渋谷109からTSUTAYAまでの徒歩経路を表示したマップより山口県から青森県までの徒歩経路を表示したマップのほうが漠然としているのと同じで、広い範囲の大量の問題を見ようとした結果視点が上空になって細部が見えなくなっていくのだ。どうしようもないたくさんの細かい何か。何から手をつけていいかわからない。これもう全部ダメじゃない? 全部踏み潰したい。グシャッ。踏んだ後は足の裏を拭く。

 しかし同時にこういうときほどむしょうに人間がかわいく見える。アルバイト先に行くために地下鉄に乗ると、乗り合わせた人がやけにかわいい。眠る人の眉間のしわ、使い込んだカバン、四隅が剥がれかけのスマホケースなどを、あまり長く見ると失礼なので一瞬だけ風景として目に入れて、みんな生きててかわいいな~と思って噛みしめる。老若男女関係なく、なんというか、月齢を重ねた生き物がそこにいることそのものがどうしようもなく素敵だ。電車の窓から見えるたくさんのマンションは虫の巣のようで、一生懸命作られた穴一個一個に人間がいっぱい寄り集まって暮らしていると思うと、なおのことかわいい。自分の生活を全部棚に上げて、全部かわいい。

 この気持ちも「ゴジラになって全部踏み潰したい欲」と結局は同根なのだろう。すなわち私のなかの野放図な殺意も野放図な好意も、結局は対象と向き合いたくないという無責任な気持ちだからだ。殺意を握りしめていても私は実際に生きている人間のエネルギーを前にしながらそれを実行しようとは思わないし、全員かわいくても「じゃあ今からこの全く知らない人と手を繋いで見つめあって一時間喋って」と言われたら絶対に拒否する。これは個体に向けた気持ちではないのだ。現実的な結果を望むならベクトルを決めなければならない。私(ゴジラではない)の身体から全方位に向けて広域攻撃を撃っても威力は分散してしまって効果がない。対象に攻撃されかねない距離まで近づいて、対象を定めてエネルギーを使わねばならない。(常に現実的な結果を求めることが正しいわけでは当然ないが、「やるからには勝ちたいじゃん」とも思う。)すなわち、どのような気持ちに基づいてやるにしろ、仕留めたいものがあるなら対象と本気で向き合わなければならない。

「向き合う」とは対象に影響されて自分が変化する可能性を受け入れることだ。対象と食うか食われるかの場所に立つことだ。相手と関わったことについて責任を引き受ける覚悟を持つことだ。そして向き合うことは愛である。嫌悪だろうが好意だろうが、対象について考えて考えて考えて考えて「向き合った」なら、それは愛としか呼びようがなくなる。
 しかしここまで書いてきて改めて思うけれど、「向き合う」行為は本当に特定の種類のエネルギーを大量に必要とする。ここに力を注ごうと決断する勇気もいるし、実際にそこに注ぐ力も必要だし、もし力が足りなくなったときには撤退を決める覚悟も必要だ。「生存」する行為にエネルギーを集中させていて「向き合う」余力がいっさいないとか、あるいはほかのエネルギーならば用意できても「向き合う」ためのエネルギーだけは枯渇しているとか、私一人の実感だけでもたくさんの状況が思い出せる。人間のエネルギーは些細なことですぐ変わり、容易に矛盾する。落ち込みがあるのはどうしようもない。

 そこまでわかっていてもやっぱり何もできずにいるのはつらくて悔しい。気持ちの上でどうにも解決しがたいものがある以上、なおさら言葉で繰り返しおのれのキツさを許しておきたい。実際無理なんですよ、泥みたいに布団の上で潰れて昼まで寝て親に用意してもらったご飯で生きてんのが本当に申し訳ない。でも今の状況を「立て直す」には、やっぱり呆然としながら消極的に生存にしがみついている状況を積極的に肯定するしかない。どんなに泥でも、生存を手放さない選択は立派だ。えらい。すごい。クソ、ごめん、いいんだ、いいんだよ。

interview with Matthew Herbert - ele-king

 ぼくの知り合いにひとり、本人はきわめて政治的な人間だが、聴く音楽のいっさいは政治とは無関係なものを好むというひとがいる。彼を思うと、ノスタルジックなジャズやMORを好んでいる人間が必ずしも政治的に無関心で保守的であるなどということはないと断言できる。その彼はビッグ・バンド・ジャズが大好きだ。
 マシュー・ハーバートのアイデアは、そういう意味でも面白い。がなり立てるパンクやラップではなく、ノスタルジックなスウィング・ジャズとエレクトロニカとの混合。エレクトロニカも、基本、耳(とその刺激を解析する脳)を面白がらせる快楽的な音楽であり、政治的な作品は、たまにサム・キデルのようなひともいるにはいるが、それは少数派だ。
 快適さのなかにメッセージを忍び込ませるやり方がぼくは好きだ。
 マシュー・ハーバート・ビッグ・バンドは、かつてそれをやってきた。甘くノスタルジックな演奏を交えながら、グローバル資本主義経済を糾弾する2003年の『グッドバイ・スウィングタイム』のことだ。

 『ザ・ステイト・ビトウィーン・アス』は、ブレグジットを契機に始動したプロジェクトである。2年以上を費やし、当初はEU離脱の日とされていた3月29日にきっちりリリースされた。『グッドバイ・スウィングタイム』と同様に、ノスタルジックなスウィング・ジャズとエレクトロニカ(+執拗なフィールド・レコーディング)との混合であり、しかし今作には、そうしたハーバート自身のクリシェを打ち砕く異質さがある。その異質さには、今作のより深い政治性が絡んでいる。自分が英国人であることを強く意識しながら作られた『ザ・ステイト・ビトウィーン・アス』からは、イギリスそしてヨーロッパなるものに直結するサウンド、響き、伝統が否応なしに聴こえてくる。そしておおよそ音楽は晴れやかではないが情熱的で、スリリングに展開する。ダークな曲、メロウな曲、ダンサブルな曲、ドローンからIDM、ジャズからアンビエント……と、まあ、ヴァラエティに富んだ内容で、いつものようにフィールド・レコーディングを活かし、音の細部にまで凝っている。多少重たいが、聴き応え充分の力作である。
 このアルバムを聴いたとき、ぼくにはわからない点がいくつかあったので、ぜひハーバートに取材をしたいと思っていた。なぜ、この作品のアートワークが「木」なのか、残留派であるハーバートは、では離脱派にはっきりとノーが言えるのか(残留派にも離脱派にもそれぞれ言い分がある)、アルバムから聞こえる動物たちの声は何なのか、アルバムにはハーバートのイギリス愛も混じっているのではないか、そもそも現代において左翼とは何なのか、などなど。すべての疑問に彼なりに答えてくれた。(※文末に来日情報あり)

僕はEU離脱に関して多くの嘘を撒き散らした何人かの政治家に対してすごく憤りを感じている。でも、「離脱」に投票した人たちに対しては、友情や協力の意志がある。僕は安定した、幸せな社会で暮らしたいんだ。

政治的であり、なおかつ作品としての魅力を高めようとするとき、そのバランスというのは難しいと思いますが、このアルバムはぎりぎりそれを成し遂げているし、あなたがこの作品に注いだ熱量がどれほどのものかわかる力作だと思いました。音楽的にも、ジャズ、クラシック、エレクトロニカ、ダンス・ミュージック、ミュージック・コンクレート、ドローンなどといったこれまであなたがやって来たことが集約された作品ですよね。すべてを投入して作ったというか、そんな印象を持ちました。

ハーバート:かなり苦労して完成した作品ではあった。何に苦労したかというと、当然音楽を作ることが大前提としてあるわけで、新聞記事を書くわけでも、ドキュメンタリー映画を作るわけでもない。音楽作品でありながら、イギリスにおける政治の現状を反映したものにしたかった。ただその現状というのが、もうめちゃくちゃで……(苦笑)。
つまり、何かについて曲を書いていると、その10分後には状況がまったく変わっている。だから書いていたものをやめて、新たな状況について今度は書きはじめる。で、その10分後にまた状況が一変する。そこの両立が非常に難しかった。それに加え、長いあいだ自分は誰に聞いてもらいたくてこの音楽を作っているのか、戸惑いもあった。いままさにEU離脱を含めた政治状況の渦中にいる人たちが対象なのか、それともヨーロッパにいる人たちに向けて我々の立場を説明したくて書いているのか、それとも20年後にこれを聞く人たちに向けて書いているのか。どういう視点で語るのか、なぜこれをいま伝えなきゃいけないのか、というのが制作中に何度も変わっていったんだよ。

イギリスのEU離脱をめぐる議論は、いまだどこに着地するのかわからない状況というか、カオスになっているようですね。とりあえず、3月29日に離脱することはなくなったわけで、その日をリリース日に決めていたあなたにとってこれは良かったのか悪かったのか、どうなんでしょうか?

ハーバート:すごく良かったと思っている。というのも、我々は国としてまだどんな形であろうとEUを離脱する準備がまったく整っていない。国は激しく分断されたままだ。僕が作る音楽は、僕にとっては大事なもので、参加してくれた人たちにとっても大事なものかもしれないけど、人の生死に関わる問題じゃない。でもEUは多くの人の生死に関わる重大な問題だ。だから僕としては、延期になったのは良いことなんだけど、依然としてどうなるのか先がまったく読めない。あり得ない状況だよ。3年ものあいだこの件について話し合ってきたにも関わらず、いまだにEU離脱とどう向き合うべきかわかっていない。まさにいまのイギリスの政治のどうしようも無さが浮き彫りになった形だと思う。

先頃は反ブレグジットのデモに100万人が集まったという報道がありましたが、100万人というのはすごい数ですね。おっしゃるようにいまはまったく先が読めない状況ではありますが、あなたが望んでいるのはいかなる決着なのでしょうか? 

ハーバート:まず何よりもEU離脱をやめるべきだと思っている。そもそも馬鹿げた考えだった。しかしながら、誰も自分たちの声に耳を傾けてくれない、と感じている人はこの国大勢いる。彼らはこの国の政治に対して長いあいだ失望していた。自分たちの意見は汲み取ってもらえない。生活も不安定で、職もない。満足な医療制度も得られず、自分たちが住むコミュニティーとの繋がりが感じられない。そういう人たちの多くが「離脱」に投票した。なぜなら「離脱すれば自分たちの生活が良くなるから」と言われたからだ。でも実際は、EU離脱が生活の向上をもたらしてくれることはない。むしろこの国をより貧しく、より孤立させるものだ。前向きなものでは決してない。
だから僕としては、もしEU離脱をやめるなら、そういう人たちに改善策を与えてあげなければいけないと思っている。「離脱」「残留」に分断されてしまった国民をどうにかしてまたひとつにまとめないといけない。そもそも「離脱」「残留」という分け方自体、人が創り上げたものでしかないから。そこに明確な線引きはもともとなかったはずなのに、分断の原因になってしまった。個人的に思う今後の最良の展開は、もういちど国民投票を行うことだ。そうすべきだと思っている。今度は、具体的な実施計画に対して投票するのだ。そうすることがもっとも賢明だと思う。政治家が決められないのであれば、国民が決めるべきだ。

今回のアルバム制作の発端は、ブレグジットに対する憤りだったと思いますが、おっしゃるようにEUに残留すればすべてが解決するような問題ではないように思いますし、じっさいアルバムのテーマはより大きなものへと発展していますよね? 

ハーバート:そうだね。アルバム制作をはじめた頃は、政府の動向を細かく追っていて、EU離脱問題とそれに纏わる政治状況だけに絞った作品を作ろうと思っていた。でも途中で、めちゃくちゃなアルバムだってことに気づいた。政府がめちゃくちゃだったからね。その動向ばかりに目を向けていたために全く意味のなさない、どうでもいいものになっていた。
だから途中で決めたんだ。我々にとって本当に重要な問題を取り上げようと。その最たるものが気候変動だ。実はEU離脱問題は、我々が直面する本当の危機的問題から我々の目を逸らすためのものでしかない。イギリスだけの問題ではない。他の国もそう。気候変動や経済格差こそが本来取り組まなければいけない問題だ。今EU離脱問題に費やしている予算は本来気候変動に使われなきゃいけないものなんだ。

先ほどイギリスが分断されているという話がありましたが、タイトルの『The State Between Us』も分断されてしまったイングランドを意味しているのでしょうか?

ハーバート:必ずしもそういう意味でつけたわけじゃない。もちろん、見た人が好きに解釈してくれればそれで良いと思っているよ。タイトルの元々の発想としては、政府(政治)が人と人のあいだに入ってきたらどうなるか、というものだ。例えば、僕は近所の人たちと共有した価値観もたくさん持っている。田舎に住んでいるからまわりは農家が多い。でも、彼らの多くが「離脱」に投票をした。だから僕にとってタイトルが意味していることは、政府が自分とお隣さんとの関係の障壁となったとしたらどうなのか、ということ。自分はどんな感情を抱けば良いのか、と。僕はEU離脱に関して多くの嘘を撒き散らした何人かの政治家に対してすごく憤りを感じている。でも、「離脱」に投票した人たちに対しては、友情や協力の意志がある。僕は安定した、幸せな社会で暮らしたいんだ。だからタイトルは、以前は何の問題もなかった社会に、政府や組織が介入することで問題が生じてしまったらどうなるか、ということを意味している。

こうやっていろいろ考えてみたんだけど、イギリスならではのもので特別な何かを見つけることができなかった。それはつまり、自分がどこで生まれたかなんて所詮地図上のある場所にたまたま生まれたってだけのことだからだ。この国の好きな部分もあるし、好きじゃない部分もある。それはスペインや他のどの場所に対しても言えることだったりする。そういう部分も含めて、アルバムはイギリスらしさとは何かを追求しようとした側面もある。

“You're Welcome Here”の“Here”とはイングランドのことだと思いますが、あなたは今作を作るためにブリテイン島を旅したそうですね。それはなぜですか? それは、もういちどあなた自身のアインディティティないしはイングランドという国のアインディティティを確認したいから?

ハーバート:“You're Welcome Here”の“Here”はイギリスのことだけではなく、音楽も意味している。例えば「このアルバムは君を歓迎するよ」「このアルバム、この音楽の世界にようこそ」とかね。
イギリスのアイデンティティに関心があったというのは、その通りだ。だから、自分では行けなかったから人にお願いしてアイルランドの国境を端から端まで歩いてもらった。それから「離脱」に大半の人が投票したグリムズビーという町にも行った。それから同じく「離脱」に投票した地元のケント州にも長く滞在した。各地に実際に足を運ぶことが大事だった。アルバムにはロンドンで録音された音源はとくに使っていない。ロンドンの合唱隊は参加してくれているけど、ロンドンで録った「音」は入っていない。
僕にとってイギリス人であることのアイデンティティはますますわからなくなってきている。子供の頃に聞かされた「イギリス人たるものはこうあるべき」という価値観にしても、大人になってみるとそうではなかったと思うことがほとんどだった。僕は1970年代に幼少期を過ごしたわけだけど、人種差別、男尊女卑がまかり通っていた時代だったし、男性に支配された社会だった。いまでも男性が社会を支配してはいるけど、少しずつ変化していると感じる。「イギリス人であるというのはどういうことか」というのをずっと考えていたんだけど、例えば「僕は田舎が凄く好きだ」「でもスイスやイタリアや日本にだって美しい田舎はある」と思った。じゃあ、「ユーモアのセンスがすごく気に入っている」と思ったけど、他の国にだってユーモアはある。「この国の音楽がすごく好きだ」と思っても、アメリカやアフリカの国だって良質の音楽を排出している。
こうやっていろいろ考えてみたんだけど、イギリスならではのもので特別な何かを見つけることができなかった。それはつまり、自分がどこで生まれたかなんて所詮地図上のある場所にたまたま生まれたってだけのことだからだ。この国の好きな部分もあるし、好きじゃない部分もある。それはスペインや他のどの場所に対しても言えることだったりする。そういう部分も含めて、アルバムはイギリスらしさとは何かを追求しようとした側面もある。

冒頭の鳥のさえずりが聞こえる場面ですが、場所はどこでしょうか? なぜそこからはじめたのですか? 

ハーバート:あれはドイツにある森のなかで録ったんだ。そこには意図があって、今回のEU離脱問題はこの国とドイツとの関係が多分に関係していると思っている。第二次大戦後ずっとこの国はあの戦争と本当の意味できちんと向き合えてないと思う。ドイツの人たちの方が、あの戦争が自分たちの生活にどう影響をもたらしたかを受け入れている。でもこの国ではまだ神話化されている部分が大きい。というのは、勝利国だったために、内省する必要がなかったんだ。戦争に自分たちがどう関わったかということに対してね。だからとくにドイツに対する誤解は多い。それにアンジェラ・メルケルの方が、メイ首相よりもずっと優れたリーダーだ。彼女(メルケル)の考えにすべて賛同するわけではないけど、国家の首席としてはずっと優れている。そんなわけで、「ドイツの木」からアルバムをはじめるという発想が気に入ったんだ。

「木」と言えば、アートワークにも「木」をあしらいました。また、アルバムの冒頭の曲では木が切られているであろう音がチェーンソーの暴力的な響きとともに挿入されています。「木」は明らかにこのアルバムの象徴としなっていますが、それはなんの象徴なのでしょうか?

ハーバート:EU離脱問題を「木」に置き換えて考えたら面白いと思ったんだ。僕からすると我々は存続危機に直面している。つまり、気候変動によって我々が当たり前だと思っているものがこれからどんどん失われていく。我々人間が行いを改めなければ、人類を含む多くの生き物が絶滅するだろう。これこそが本当の危機だ。だから僕は、何人かの政治家の発言に耳を傾けるよりも、「木」に耳を傾けたいと思ってしまう。自然との向き合い方を考え直さないといけないと思っている。だからこの世界を違う視点から見てみるいい機会だと思った。

あの曲の途中で挿入される歌はなんですか?

ハーバート:曲は僕が作曲したもので、歌詞は16世紀の詩人のジョン・ダンの言葉を引用している。

ビッグバンドでやるのは 11年ぶりと久しぶりですが、今回のテーマをいつものようなエレクトロニカ・スタイルではなくビッグバンドでやりたかった理由はどういったところでしょうか?

ハーバート:ビッグ・バンドの大きな魅力は、ある一定の水準で音楽を奏でられる人だったら誰でもバンドに参加できる、ということだ。例えば、イタリアやスペインやドイツに行ってアルバムのレコーディングを行った際、見知らぬ演奏者の前に譜面を配布さればそれで済んだ。すぐにでも演奏をはじめられる。民主主義的な形態だと感じるね。さらにそこに合唱が入るわけで、アルバムに参加しているのはみんなプロの歌い手ではなくアマチュアの合唱隊だ。そうやって民主主義的な生き方を体現しようとしている。ただ政府を批判するだけでなく、その代替案を提示しているんだ。僕からすると、ビッグ・バンドと合唱隊はいい代替案だと思う。コミュニティーを生み、創造性を生み、協調性があって、経済活動でもあり、人種や性別も関係ない。有用なメタファーだったんだ。

参加した人たちの人数が、数百人とも千人とも言われていますが、CD盤面の記されている名前がそれですよね。これはすべて世界のいろいろな場所でのライヴの際に参加した人たちの名前なのでしょうか? そしてそうした人たちの名前を記したのにはどんな意味がありますか?

ハーバート:全員の貢献をきちんと示したかった。というのも、こうして君と話をしているのは僕だけど、実際は大勢の人がこの作品を支えている。コミュニティを表しているんだ。実はバンドの名前にも納得がいってない。僕の名前が前面に出てしまっているからね。でもSpotifyやApple musicといったサービスのなかで、聴き手にとって作品を見つけやすいというのも大事だった。まあ、せっかく参加してくれたのだから名前を記すのは礼儀でもあると思った。ライヴでも土地土地で新しい人たちに参加してもらった。例えばマドリッドに行ったときは、ステージ上に僕のバンド・メンバーはたったの3人だけで、残りの115人はそこで初めて会う人たちだった。ローマでもベルリンでも同じだ。日本で去年ライヴをやったときも、日本人のバンドと合唱隊に参加してもらった。ライヴの度に違うライナップだったんだ。

イギリスに対しては相反する思いを抱いているのはたしかだ。今回気付いたのは、ある国の国民として生きる上で鍵となるのは価値観なんだということ。どんな価値観を持っているか。だから僕にとって大事なのは……。僕がイギリスでもっとも誇りに思えるのはNHS(国民医療サービス)、それとBBCだ。

今作であなたがあらたにトライした音楽的な実験があるとしたら何でしょうか?

ハーバート:実験と言えるかわからないけど、さまざまな場所を録音した。NHSの病院でも録音したし、首相別邸のChequersの周りを自転車で回って録音もした。それからある人にイギリス海峡を泳いでもらったし、別の人に第二次大戦の戦闘機で飛んでもらった。他にもイタリアの第一次大戦の最前線だった古戦場を歩いてもらったし、アイルランドの国境の端から端までも歩いていろいろ録音してもらった。これ以外にもいろいろなフィールド・レコーディングを行ったよ、

動物の声をフィーチャーした“An A-Z Of Endangered Animals”を収録したのはなぜでしょうか?

ハーバート:僕にとってはこういったことこそが本当の問題だ。生態系の多様性の崩壊だ。野生動物や昆虫の数が激減している。非常に深刻だし悲しい問題だ。今回アルバムに音を収録した絶滅危惧種の動物たちは10年後、15年後にはその声を聞くことがもうできなくなっているかもしれないんだ。絶滅に瀕した動物たちによるコーラスだ。

まさかご自身でフィールドレコーディングされたわけじゃないですよね?

ハーバート:さすがにそこまではできなかった。そうするには費用がかかりすぎるからね。

最後シェリーの詩を歌った“Women Of England”で終わっていますが、あなたこの作品でイングランドを批判してもいますが、同時に愛してもいますよね? “Women Of England”を聴いてそう思ったのですが、いかがでしょうか?

ハーバート:イギリスに対しては相反する思いを抱いているのはたしかだ。今回気付いたのは、ある国の国民として生きる上で鍵となるのは価値観なんだということ。どんな価値観を持っているか。だから僕にとって大事なのは……。僕がイギリスでもっとも誇りに思えるのはNHS(国民医療サービス)、それとBBCだ。国民全員が少額を払うことで、多くの恩恵を得られる機関だ。そういうのは喜べる、前向きな積立だ。それ以上に、優しさ、平等、公正さといった価値観を現れでもある。でもそういう価値観がこの国ではいま脅威に晒されている。そこに僕は怒っている。いま右翼の多くの人は我々もアメリカを見習うべきだと思っている。でもいまのアメリカは非常に残酷で分断された国で、社会のお手本とするには最悪の国だ。

あなたが愛するイングランドというのは、ファンキーな“Fish And Chips”のような曲に表れていますよね? 

ハーバート:いや、あの曲はグリムスビーという街で録音したものなんだけど、グリムスビーはかつて漁業が盛んな街だったのに、その漁業が衰退してしまった。僕にとってこの曲はニューオーリンズの葬送曲のイメージで、漁業の死についての歌をパーティ調に奏でることで皮肉を込めているんだ。

4月に来日しますが、楽しみにしています。どんなプレイをするつもりでしょうか? 話せる範囲でお願いします。

ハーバート:そうだな。本当になんとも言えないんだけど、DJセットというのはつねに即興だと思っている。だからとりあえずいろんなジャンルからのいろんな音楽を持っていって、あとはそのときの感覚で作り上げていく。でも、まあ、基本はハウスとテクノで、そこに実験的なものや、新しいノイズなんかも盛り込んでいきたいとは思っている。まあ、基本はその場の即興だよ。

ブレグジットを遠目で見ながら、もしも左翼思想というものが世のなかで弱い人たちを助けるという思想だとしたら、はたしていま弱い人たちは誰なのかということを考えてしまうのですが、あなたの意見を聞かせてください。

ハーバート:そんな複雑な話じゃないと思っている。実際よりも事情は入り組んでいると我々に思わせるのも政治的罠のひとつなんだ。この国が抱えている大きな問題というのは、数年前に大きな経済危機があって、その際に経済を持続させるために政府が国民の税金を金融産業に投入した。保守党政府は、経済的にいちばん底辺にいる人たちに負担をさせたんだ。つまり障害者、生活保護を受けている人、貧しい人、子供、シングルマザー、女性。そういう人たちへの補助を減らすことで、銀行が引き起こした負債のツケを底辺の彼らが払う羽目になった。それこそがこの国の根本にある不正であり、EU問題もそれに対する反動だった。保守党が築いた社会構造に対する人びとの不満の表れだった。だから僕にとって弱い人たちというのは、他の人が起こした問題のツケを払わされている人たちだと思っている。


ハーバート来日情報!
Hostess Club Presents...Matthew Herbert DJ Tour 2019

HOSTESS CLUB ALL-NIGHTERのレジデントDJでもあったダンスミュージック / サンプリング界の鬼才マシュー・ハーバート、各地で豪華ゲストを迎えるDJツアーの開催が決定!

東京
2019年4月22日(月)代官山UNIT
with Yoshinori Hayashi and 食品まつり a.k.a foodman
Open / Start 19:00
Extra Sound System Provided by PIONEER DJ

北海道
2019年4月23日(火)札幌 Precious Hall
with Naohito Uchiyama and OGASHAKA
Open / Start 20:00

福岡
2019年4月24日(水)福岡Kieth Flack
with T.B. [otonoha / under bar]
Open / Start 20:00

京都
2019年4月25日(木)京都 CLUB METRO
with metome (Live Set)
Open / Start 20:00

Ticket:
東京公演 5,800円(税込)
札幌 / 福岡 / 京都公演 5,300円(税込)

https://ynos.tv/hostessclub/schedule/20190422.html

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