Home > Reviews > Film Reviews > 黙ってピアノを弾いてくれ
諸説あるので手頃なところでまとめてしまうと人類は直立歩行をするようになって両手が自由になり、さらに肉食によって脳の容積が倍=現在の大きさになったという。「手」や「脳」が人類にもたらしたものは計り知れない。そう、フェイクニュースを流したり、過剰融資や人身売買は人類にしかできないことである。『キャプテン・アメリカ』や『ブレードランナー2049』といったSF映画を観ていると、人類のさらなる進化はいまだに身体改造というイメージが強いのかなと思うけれど、僕は人類にさらなる進化があるとしたら座ったまま特に運動をしなくても身体能力が衰えることがない種が突然変異で現れることだと思う。筋肉は使わなくても維持されるし、有酸素運動も必要ない。直立歩行時代の人類をホモ・エレクトスと呼ぶなら、ホモ・セデレの出現である(セデレはラテン語で「座る」)。これにはきっと現生人類はかなわない。全滅するだろう。
多くの人はしかし、まだ立ち上がらなければ、生きていくことはできない。そして、ラップを始めるのである。チリー・ゴンザレス(以下、ゴンゾ)もそうだった。僕は彼が〈キティ・ヨー〉からデビュー・アルバム『Gonzales Uber Alles』を2000年にリリースするまでその存在を知らなかった。当たり前である。彼はカナダのアンダーグラウンドで蠢いていたのである。ゴンゾのドキュメンタリー映画は彼が無名時代にその衝動を持て余し、カナダのクラブでラップをがなり立てるシーンをまずはたっぷりと見せる。体格がいいので、まずはそれだけで迫力がある。何かしていなければ死んでしまうとばかりに彼は音楽に没頭している。ゴンゾはバンドを結成することにし、集まったメンバーはファイスト、モッキー、そしてピーチズだった。そう、ピーチズがまたとんでもなかった。ゴンゾもピーチズもセクシーを通り越して、ICBMでも打ち込むような勢いでラップをまくし立てる。彼らはそのままベルリンに殴り込みをかけ、あっという間に人々の注目を集めてしまう。当時を思い返してピーチズとゴンゾが互いについて回想し合うシーンが面白い。ゴンゾもピーチズも相手の迫力に勇気付けられて、自分も前に進むことができたと語り出す。卵と鶏みたいな関係なのである。それにしてもよく映像が残っているなと思う場面も多い。
ゴンゾの暴走は政治に及び、さらに舞台をパリに移しても静まらない。次から次へとユニークなエピソードが飛び出すので、ネタバレはここまで。彼は想像以上に荒くれで、かつてセルジュ・ゲンズブールが「大衆」の嫌がることをやればやるほど愛されていった過程をゴンゾがものの見事に踏襲していることもよくわかる。社会に収まりきれない人を音楽家と呼び、大衆がそれを愛するという国民性がフランスにはあり、日本にはあんまり見当たらないのかなあと思うばかりである。ゴンゾはそして、「パンクではもうダメなんだ」と彼がそれまでがむしゃらにやってきたことに終止符を打ってしまう。彼はマイクを捨ててピアノの前に「座る」。進化したのである(ウソ)。ピアノの天才だと自惚れていたゴンゾがクラシックの簡単な譜面を弾くこともできないといって打ちひしがれてしまうシーンも見応えがあった。彼は自分が思う通りにピアノが弾けるまで練習の毎日を繰り返す。その挙句にできたのが『Solo Piano』(04)であった。あの作品に至るまでに、これだけの葛藤があったとは思わなかった。『Solo Piano』が成功してから、彼はまた「パンク」に戻り、ドキュメンタリーの後半では新たな暴走を展開し始める。彼がステージに立つと何をやり出すかわからない。その緊張感はスクリーン越しにもびしびし伝わってきた。ゴンゾが監督のフィリップ・ジェディックに出した条件はひとつ、ドキュメンタリー映画にもかかわらず「プライヴェートはなし」だったという。
(編集部注)チリー・ゴンザレスのアルバム『Solo Piano』シリーズの最終章『Solo Piano III』は〈ビート〉より絶賛発売中です。
三田格