はははは、最高。1曲目の"Backwell"、思わず笑ってしまう、これはまったく......カンだ! 2曲目の"Pill"もカン。アルバムにヤッキ・リベツァイトが参加しているんじゃないか、と疑ってしまうほどだ。クラウトロックのポスト・パンク的解釈といえばPILが有名だが、3曲目の"Ham Green"や10曲目の"The Cornubia"はまさにそれ。4曲目の"I Know"はカンの"マザー・スカイ"そのもの......そしてこうしたクラウトロック・スタイルが見事に格好いいから始末が悪い。ザ・ホラーズのプロデュースもそうだったし、ポーティスヘッドの『サード』にもその影響を取り入れていたけど、ジェフ・バーロウによるソロ・プロジェクト、ビーク>は彼のクラウトロック趣味が爆発している。
この3人組のバンドの他のメンバーは、ベーシストのビリー・フラー(Team Brick)、マルチ演奏家のマット・ウィリアムス(Fuzz Against Funk)。僕は彼らについてまったく知識がないけれど、とてもセンス良く、このミニマル・ロックの重要なパートとなっている。7分以上にもおよぶ"Battery Point"はアルバムのなかでもずば抜けて美しい曲で、厄介なほどドラマチックな曲でもある。ポーティスヘッドの面影を感じることもできるが、それもほんのわずか。次の曲"Iron Acton"になると、こんどはカンのベースラインにノイ!のモータリック・サウンドのお目見えとくる。電子ノイズが流れ、クラウス・ディンガーばりのドラムが疾走する。ザ・ホラーズの"Sea Within A Sea"で試みたことの焼き直しだが、こちらのほうが言葉はより不明瞭で、ぼんやりとしていて、大人っぽいと言えば大人っぽく......しかし、"Barrow Gurney"なんかは初期のクラスター(エレクトロニック・ドローン・ノイズ)だし......いったいバーロウという人は......。
彼がポーティスヘッドの『サード』でやろうとしたことは、マッシヴ・アタックが『メザニーン』でやろうとしたこととある意味似ている。そこ意地悪いほど、時代の恐怖が描かれているのだ。最後から2番目の"Dundry Hill"や最後の曲"Flax Bourton"のドローンめいたダーク・アンビエントを聴いていると、昨年、『SNOOZER』でやらせてもらったバーロウに取材を思い出す。
彼は反戦活動など個人的な政治活動を通して、むしろ孤独を感じているようだった。「僕が言いたいのは、『政府を粉々になるまでぶち壊してしまえ』ってこと。できればそうして、またはじめたほうがいい。現代社会ではもう何もかも、ちょっと手遅れなのかもしれない、もう行き過ぎてしまったのかもしれない、と思う。僕らは本当に慣らされてしまってる」――これがバーロウという人なのだろう。そういう意味で、ビーク>の異様な暗さとクラウトロックのアイデアを借りた疾走感との奇妙なバランスは、僕にはなかなか興味深いものに思える。とはいえ、僕のようにカンのカタログをすべて揃えているリスナーを困惑させるのは、冗談じゃないかと思えるほど、ベースとドラムがベタであるということ。繰り返すが、それがしかも見事に決まっているのである。
そして、彼はそのときの取材でこうも言った。「もしブリストルから非商業的で、反逆的で、エクストリームなものが出てきたとしたら、僕は基本的に100%支持する。たとえ好きじゃなくても支持するね」、はい、ビーク>がまさにそれです。
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ディンキーことアレハンドラ・イグレシアスとの出会いは、渋谷タワーのエレクトロクラッシュ特設コーナーだったと思う。まだあの頃の渋谷のレコード店はバイヤーが趣味丸出しで売れそうもないレコードをプッシュしていて、彼女の02年の2作目『Black Cabaret』もそんな感じでピックアップされていた。黒のスーツに細身のネクタイ、咥え煙草にオールバックの髪のディンキーはまるで若きアニー・レノックスみたいで、その姿に一目惚れしてCDを買ったのだった。
チリ生まれの彼女が97年にニューヨークに移ったのはマーサ・グラハムのコンテンポラリー・ダンスの学校に通うためで、一時は真剣にダンサーを目指していたようだ。しかし、彼女は夜のマンハッタンに吸い込まれ、ついには踊るのでなく踊らせる側により興味を持つようになり、数年後にはドイツの〈トラウム〉や地元NYの老舗〈ソニック・グルーヴ〉から12インチを出すようになっていた。パッとしない暗い実験エレポップという印象だったアルバムと、その後ビザ切れでアメリカにいられなくなったからと移住したベルリンを拠点にばりばりとミニマルを作りはじめた彼女のことがしばらく一致しなかったのも仕方あるまい。05年にスヴェンの〈コクーン〉から出てスマッシュ・ヒットを記録した「Acid In My Fridge」は、ストレートで力強くファンキーなトラックに「冷蔵庫にアシッドが隠してあるの! トリップしたら...」と訛りのキツイ英語で彼女が呟くアホ丸出しの曲だった。それで、昨年話題になった大人びた出世作『May Be Later』だ、まさに変幻自在とはこの女のことを言うのではないかと。
マシュー・ジョンソンの熱烈なラヴ・コールで実現したという〈ワゴン・リペアー〉からの発売となった4作目のアルバムは前作を遙かに凌ぐ実験精神に溢れ、しかしそれが小難しくは聞こえないという魔法のレシピでも使ったかのようにキュートに響く。ジャズ的なシンコペーションや、アフリカ音楽的でジャストなマシンビートとは真逆の太鼓が、妙な声色や気持ち悪いエフェクトと共に不協和音を奏でるがごとく、不思議な音空間を形作る。もちろん、それだけでなくしっかり踊らせるための4つ打ちキックと最低限の機能性を備えたツール的な曲もいくつかあって、前作のディープ・ミニマル路線を継承したド頭の"Childish"、ブリーピーな音とエロ可愛い彼女の歌が絶妙なタイトル曲の"Anemik"(英語で解釈すると「貧血っぽい」「気力ない」)、それからいい意味で「トランス!」と叫びたくなる"Epepsia"などは、どんなフロアでも活躍しそうだ。
女性DJというだけで、曲作ってるって実際はアイディアだけ出して片腕的なプロデューサーに全部やってもらってるんだろう?なんて誤解されるかもしれないが、ディンキーはかなりの機材マニアで、すべての打ち込みとレコーディング、ギターやエレピといった楽器演奏、もちろん歌もベルリンの自分の小さなスタジオで完全に自分の手で行っている。なんというか、ここまで嫌味なく「アート」の域に達したことをやられてしまうと、血とか育ちからくる豊穣なものをもっていてしかも華のある女性、どうやってもこんなひとに勝てる気がしねーと完敗宣言したくなるというもの。もし、日本のアーティストで匹敵するようなものが作れる存在と考えたらツジコノリコくらいだろうか。彼女、ダンスには興味なさそうだけど......。
ele-kingにヨ・ラ・テンゴ。どうなんだという声がしそうだけど、まあ聴いてみてくれ。とくに10曲目から12曲目(オリジナル・アルバムのラスト3曲。日本盤にはそのあとにキャロル・キングのカヴァーを1曲収録)。
ヨ・ラ・テンゴは1984年にアメリカはニュージャージーのホーボーケンで、現在は夫婦となったアイラ・カプラン(ギター、ヴォーカル)とジョージア・ハブレイ(ドラムス、ヴォーカル)によって結成されたバンド。途中でジェイムズ・マクニュー(ベース、ヴォーカル)が参加して現在に至る。不思議なバンド名はスペイン語で、英語だと「I got it」。
1986年に『Ride The Tiger』でデビュー以来、本作で12作目となるオリジナル・アルバムは、まずはそのストレートなアルバム・タイトルが印象的だが――。
ホーボーケンといえばdB'sを嚆矢とするパワーポップ・バンドの聖地として知られているが、ヨ・ラ・テンゴもその系統から大きく外れることはない。事実そういう曲がメインとなっている。が、しかしそれよりもむしろ当初からギター・ロック的な曲のフォーミュラを意識的に崩していこうとする意思を感じさせていたことのほうが僕には気になっていた。1993年に米インディの名門マタドールに移籍して発表した6枚目『Painful』からはその感覚はより露になり、ギターを中心としながらも、エレクトロを加味したことによる幻視的なサウンドを聴かせるようになる。そして1997年の『I Can Hear the Heart Beating as One』からはとくにその傾向が強くなり、以降のアルバムには必ず10分以上におよぶ幻想的な実験的トラックを収録してきた。前作である『I Am Not Afraid of You and I Will Beat Your Ass』(2006)では、長尺の「Pass The Hatchet...」は、なんとアルバムの冒頭に置かれているのだから恐れ入る。
しかし、である。この新作『ポピュラー・ソングス』における後半3曲のトビぐあいは、これまでの彼らの試みと比べても、想像を絶するほどの展開を遂げている。この3年間に彼らに何があったのか?と訝ってしまうほど、この3曲(トータルで40分近い!!)の存在は奇跡としかいいようがない。この壮大なトリップ・アンビエント・シンフォニーは、彼らの集大成であると同時に、いきなりハイジャンプを決めてしまったようにも思える。エレクトロニクスかギターかという論議すらここでは無用だし、なによりここで鳴っているサウンドは、聴き手のココロに揺さぶりをかける。それは常に微笑みと等価だ。なんて幸福な音楽なんだろう。この素敵な音楽には、意外にもこんな普遍的なタイトルがふさわしいのかもね。もちろんこの3曲以外もいいです。ストリングスが入った曲とか特に。でもやっぱり最後の3曲が素晴らしすぎて......。
生きる屍、自らをゾンビと名乗るだけはある。ダブステップ・シーンにおける異端児、変わり者、ミステリー、反逆者、もしくは頽廃。エイフェックス・ツインがDJでプレイするだけのことはあるけれど、フランツ・フェルディナンドがリミックスを依頼した根拠はよくわからない。B級だし、安っぽいし、レイヴィーだし、......そして、大人を舐めきったようなこの自称ジャングリストは、ベッドルームの歪んだ夢想にどこまでも戯れる。悪意はない。面白がっているだけなのだろう。
さて、これはロかの"Spliff Dub"で有名な、スモーカーズ系ゲームボーイ系プロデューサーによる、例によってチープで8ビットめいた作品で、ハドソン・モホークとも共通する感性=ポップとオナニズムの際どいせめぎ合いが展開される。いや、言い過ぎだった。オナニズムというほど自己完結的なものではない。エロール・アルカンだって彼の珍味なトラックをスピンしている。ただ......この人は、自分の音楽を1枚の"作品"として真面目に出す気があまりないようだ。2008年の『Where Were U In '92?』というアルバム・タイトルが暗示するように、彼はあの時代のジャングルを愛している。あの時代のレイヴのエネルギーを、若さゆえの暴走を、俗っぽさを、そのいかがわしさを賞揚している。実際そのアルバムは笑ってしまうほど、あの頃の音楽へのオマージュとなっている。
昨年末、およそ1年前に〈ハイパーダブ〉からリリースされた2枚組のシングル「Zomby EP」も、なんとも捉えどころのない音楽だった。お決まりのダブステップを拒否するだけではない。スペイシーなレイヴ・スタイルもあればアンビエントもあるし、エレクトロニカ風のトラックもあった。コミカルだがダークで、実験的だがTVゲームめいている。低予算で作られたホラー映画の美学を彼からは感じたものだった。
今回も実に、ある意味では投げやりにできている。すべての曲は途中ですぱっと終わる。エンディングというものを放棄しているのか、ただ面倒くさいだけなのか。しかし、正直な話、それぞれのトラックは、おかしなほど魅力を持っている(だから買ってしまうのだ)。タイトル曲の"One Foot Ahead Of The Other"にはメランコリックな輝きがあり、この変人の抒情性を感じることができる。"ゴジラ(Godzilla)"もまたエモーショナル曲だが、秋葉原的なものがそこには混じっている。今回は"Expert Tuition"のようなハマリ系のミニマルも展開しているが、これが実に良い。真面目な話、最良のデトロイト・フォロワーのトラックを聴いているようだ。タイトル・トラックとともに今回のベストである。それから......"メスカリン・コーラ(Mescaline Cola)"って、このひどいタイトルのトラックは、赤ちゃんの王国の華麗なるメリーゴーランドで、最後の"Firefly Final"もまた、このオタクめいた煙好きのソウルを感じる。が、しかし、それもどれも、いきなりぱっと終わる。すべての曲は、慣習的に言えば未完成なのだろうが、この生きる屍は完成など目指していない。アーティなるものとはほど遠いが、もうひとつ別の情熱がここにはある。
そして彼は自分のベッドルームで煙を吐きながらチキンをほおばり、こんな下らない音楽を作っている......。
渋谷のワルシャワは好きなレコード店のひとつで、店にカフェ・コーナーが設置されて以来、アルコール目当てで立ち寄るようにもなってしまった。去る10月、店内に「傑作です」のキャプションとともに壁に並んであったこれをじっと見て、視聴して、悩んだ挙げ句に買うことにした。実は僕は、その時点でボン・アイヴァーさえもまだ聴いていなかった。
およそ1年前、『ガーディアン』や『オブザーヴァー』はボン・アイヴァーの『For Emma, Forever Ago』を最大限に褒め称えた。「2008年の最高のレコードはアメリカの僻地の闇のなかの人影によって作られた」、『オブザーヴァー』の記者はそう書いた。もっともその背後には「この年には2年前の『Whatever People Say I Am...』のような、決定的なアルバムが1枚もなかった」という失意もあった(2008年12月7日)。『ガーディアン』にいたっては2008年は「ゴミだめインディの死が宣告された年」であり、「ギター・レコードは年間ベストのどこにもない」と記したほどだった(2008年12月12日)。そしてこのふたつのメディアは、TV・オン・ザ・レディオとボン・アイヴァーを持ち上げたのである。「コールドプレイがブライアン・イーノとそのバカげた一式を借りて急進派を急いでいる」ような時代において、27才のジャスティン・ヴァーノン(ボン・アイヴァー)が2006年の冬のあいだ父親の山小屋で録音した音楽は、実に感動的な愛の音楽だったと、そういう話だ。
そして、これは僕の悪い癖で、たとえばフリート・フォクシーズのような、汚れを知らないような音楽を聴いているとどうにも落ち着かなくなるという事情もあって、僕は欧米を代表する大メディアの推薦をスルーしていたのである。そんな人間がどうして・ヴァーノンを擁するヴォルケーノ・クワイア(火山の聖歌隊)なるバンドのアルバムに惹かれたのかと言えば、ワルシャワの「傑作です」の言葉と、そしてこのバンドの前身にペレがあること――ギタリストのクリス・ローズナウとドラマーのジョン・ミュエラー――が興味深く思えたからだった。ペレは、90年代から00年代初頭にかけて活動していたバンドで、わかりやすく言えばポスト・ロック的な実験(エレクトロニクス、ジャズ、クラウトロック等々)を好んだバンドだ。好き嫌いはともかく、その工夫された音はモダンだった。同じように禁欲的だが、ボン・アイヴァーの素朴さとはいわば対極にある。
そんなわけで、ヴォルケーノ・クワイアのファースト・アルバムを買った。1曲目のギターのイントロがその決め手となった。アルバムには美しい調和があるが、それはヴァーノンの、ボン・アイヴァーで見せたファルセット・ヴォイスとアコースティック・ギターのコード・ストロークの組み合わせとは違った類のもの、控えめなエレクトロニクスと実験的なポップスとの調和だ。
2曲目の"Seeplymouth"はバンドの抒情性が広がり、劇的な高まりが爆発する。その激しさは、まさにUSオルタナティヴの真骨頂なのだろう。実験色の強い曲――アンビエント・テイストを展開する"Dote"、ギターのループとコーラスの絡み方において『ピッチフォーク』がアニマル・コレクティヴの『Sung Tongs』との近似性を指摘した"And Gather"、プリペアード・ピアノめいたトラックとロバート・ワイアットめいたソウルがねじくれていく"Mbira In The Morass"なども面白い。
このアルバムを聴いて、そして遅ればせながらヴァーノンのデビュー作であるボン・アイヴァーの『For Emma, Forever Ago』を聴いた。結論を言えば、ヴォルケーノ・クワイアのほうが気に入っているし、こちらのほうに可能性を感じている。
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