「Nothing」と一致するもの

Fábio Caramuru - ele-king

 好むと好まざるとに関わらず、音楽は直感的に時代を反映し、ときに奇妙に変化する。気がつけば、それは“いまこの時代”の作品の傾向として現れる。今日のアンダーグラウンド大衆音楽/インディ・シーンにおけるひとつのキーワードに「ニューエイジ」がある。え、ニューエイジだって? そう、ニューエイジだ。宗教的なものとは限らないが、ときに精神世界に言及する。瞑想的で、そして多くは自然回帰願望音楽であり、癒しの音楽として機能する。
 ジョアンナ・ブルークは、70年代にロバート・アシュレーやテリー・ライリーに学んだほどの現代音楽畑の出で、初期シンセサイザー・ミュージックの実践者のひとりでもあるが、彼女が商業的な成功を収めたのはニューエイジ・ミュージックの分野においてだった。80年代初頭に彼女は海や白鳥や宇宙、ヒーリング・ミュージックの作品を発表している。そして、この80年代こそが商業音楽としてのニューエイジ・ミュージックが最初に売れた時期でもある。
 だが、長い間、たとえ売れても、ニューエイジ・ミュージックはいかがわしいものとして、他の大衆音楽とは一線を引かれていた。ことユース・カルチャーとリンクするロックのような音楽、とくにストリート・ミュージック、あるいはシリアスな(アドルノ先生の言うところの)純音楽的な立場からは胡散臭いものとして見下されていたのが実情だった。ジャズや現代音楽ではなく、水晶やお香と同じ棚に並べられることのほうが多かったかもしれない。
 だからマシューデイヴィッドの昨年の『In My World』におけるニューエイジへの傾倒に対して戸惑いを感じたのはぼくだけではないだろうが、しかしこの方向性は、じつはここ数年のアンダーグラウンド大衆音楽/インディ・シーンを聴いている人にはわからなくもなかったはずだ。なにしろ一時期のOPNにもその感覚があり、かつてのエメラルズには自然回帰願望が如実にあったし、そのギタリストだったマーク・マッガイアのここ最近のソロ作品はニューエイジ色が充満しまくり、マシューデイヴィッドが今年〈リーヴィング〉から出した『Trust the Guide & Glide』にいたってはニューエイジそのものだ。こんな状況下で、今年の夏前にリリースされたジョアンナ・ブルークにとっての初の編集盤、CD2枚組の『Hearing Music』(CDのステッカーにはがっつり「ニューエイジのパイオニア」と記されている)がアンダーグラウンド大衆音楽/インディ・シーンで注目されるのも必然だと言えよう。(プロデューサーは『I Am The Center (Private Issue New Age Music In America, 1950-1990) 』(2013年)のDouglas Mcgowanで、同コンピレーションにはブルークの曲も収録されている)

 最近、『FACT mag』にこうした「ニューウェイヴ・オブ・ニューエイジ」に関するとても興味深い論考が上げられた。以下、部分的にざっくりとだが要約してみよう。
 「ニューエイジは80年代に流行っているが、基本的にはシリアスな音楽ファンから軽蔑されてきた。しかしそれは、政治的混乱と環境問題が重なったレーガン時代のアメリカで流行っている。テクノロジーが人間の私生活に深く入り込み、睡眠さえも贅沢になりかねない今日において、人は起きている時間のほとんどを資本主義に奉仕する。ニューエイジの復活は、鬱病を抑止する瞑想テクニックへの関心、あるいは不眠症対策のアプリや瞑想アプリへのニーズの高まりと関係している。それは、不安をかき消すためのサウンドトラックとして機能している」
 この記事で面白いのは、ここ1年のハウス・サウンドに見られるニューエイジ的な音響を紹介しつつ、他方で「ニューウェイヴ・オブ・ニューエイジ」におけるヴァイパーウェイヴとのリンクを指摘しているところだ。あのレイドバックしたまどろみからは、レトロ志向やノスタルジア以上のものが見えやしないかと。そして、「ニューエイジは、概して非政治的で、市場経済に取り込まれやすいということは知られているが、Sam Kidelの『Disruptive Muzak』は、雇用年金省のヘルプラインに電話したときの応答を録音/コラージュすることで、ニューエイジ的音響でありながら批評的/政治的とも言える作品となっている」と、「ニューウェイヴ・オブ・ニューエイジ」の豊かさを主張する。
 そこまで広げて考えるなら、今年リリースされたサン・アロウとララージとのコラボレーション作品『Professional Sunflow』もこの潮流に該当するだろう。1980年に〈EG〉からデビューしたララージは、まさに80年代のニューエイジ・ブームの時代に活躍したミュージシャンのひとりで(先述した『I Am The Center』にも収録されている)、たとえ『Professional Sunflow』がインプロヴィゼーション・ミュージックであっても、サン・アロウとララージが共演すること自体が時代を物語っているし、また、ララージのニューエイジ的な思想性よりも音響的な好奇心が優先するその作品を聴いていると、「ニューウェイヴ・オブ・ニューエイジ」がゴシック/インダストリアルと同じカードの裏表つまりディストピアに対するユートピアという単純な構図にいるものではないこともわかる。しかし、ここに意味や脈絡、切実さがないとは言わせない。

 ジョアンナ・ブルークは学生時代、スタジオの外に出てはコオロギの声を録音していたというが、ブラジルはサンパウロのピアニスト、ファビオ・カラムルの『エコ・ムジカ』にも、さまざまな動物たちの声がコラージュされている。聴こえるのはピアノの音と動物の声だけで、アルバム全体として“自然”が主題となっているそうだが、その響きがニューエイジにありがちな超現実的というわけではない。楽曲たちは牧歌的でありながら時折軽快で、素朴だが洒落ていて、ブルースからクラシック、モーダルから無調までと多彩な演奏はさり気なく、テンポが遅いわけではないがエリック・サティ的で、アンビエントなフィーリングによってまとめられている。ニューエイジ・コンセプトではあるが、日常と地続きの何気なさがこの作品の魅力であり、ぼくが気に入っている理由でもある。
 このアルバムは「ニューウェイヴ・オブ・ニューエイジ」とは何の関係もないところから出てきているが、はからずとも時代を象徴する1枚になった。安らぎに飢える北半球のアンダーグラウンド大衆音楽の誰かが聴いていても不思議ではない。仕方がないだろう、心休まる時間帯は、現代ではますます貴重になっているのだ。


Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY) - ele-king

 D.J.FulltonoとCRZKNYは日本のジューク/フットワーク・シーンを牽引するプロデューサーである。このふたりはTheater 1という名義で、昨年夏より月一のペースでコンセプチュアルなリリースを展開してきたが、このたびそれらのスプリット・シングルが2枚組CDとしてまとめられることになった(デジタル盤は12枚のシングル形式)。
 気になるタイトルは『fin』で、10月16日(日)に〈melting bot〉よりワールドワイドにリリースされる。なお本作は、D.J.Fulltonoにとっては初めてのCD作品でもある。
 これまでのジューク/フットワークの概念をテクノやミニマル・ミュージックとして大幅に拡張した本作は、ジューク/フットワーク第2世代のJlinや食品まつり a.k.a foodmanなどと同様、発祥の地であるシカゴ以外の場所でもジューク/フットワークがどんどん成熟していっていることの証左であり、日本の音楽シーンから世界へと向けられた挑戦状でもある。となれば、これはチェックしておかないとマズいでしょう!

 なお、D.J.Fulltonoは下記日程にてヨーロッパ・ツアーをおこなうことも決定している。こちらもあわせてチェック!

D.J.Fulltono EU Tour 2016
20th Oct Krakow - Unsound w/ Traxman, 食品まつり a.k.a foodman
21st Oct Paris - Booty Call Presents Global Footwork
22nd Oct Berlin - TBA

"フットワーク以降アンビエント未満、観賞する白銀のミニマル・テクノ"

世界へと切り込むD.J.FulltonoとCRZKNYによるコンセプチュアルなシリーズ・プロジェクト“Theater 1”がアルバムとなってワールドワイドでCDリリース! フットワークをフレームワークとした無機質で催眠的な新感覚のミニマリズム、〈Kompakt〉を共同主宰する独電子界の巨匠Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のミニマル革新作『Studio 1』(1997)のオマージュでありながら、テクノとしてのフットワークを拡張する逸脱の実験音響作。

『Pitchfork』、『Fact』、『Fader』、『RA』にも取り上げられ、『VICE』での特集や『Rolling Stone』の年間ベストのランクイン、そしてUnsound出演を含めるEUやUSツアーなど、先鋭アクトとして世界的な注目を集める日本フットワークの両雄が前人未到へ踏む込むテクノ最先端!

2015年の夏から1年間に渡って毎月2曲のスプリット・シングルをリリース、後のクリック/ミニマルの源流となった90年代テクノの革新的レーベル〈Basic Channel〉と並ぶ、〈Kompakt〉の共同オーナーでもある鬼才Wolfgang Voigt(aka Mike Ink, Gas)のコンセプチュアルなシリーズ作『Studio 1』を参照とした、日本からジューク/フットワークを牽引するD.J.FulltonoとCRZKNYのシリーズ・プロジェクト“Theater 1”の全リリースをまとめた全24曲のコンピレーション・アルバム。フットワークをフレームワークとしながら、160BPMの中で繰り広げられるループから変拍子、4つ打ち、ポリリズムを抽出し、デトロイト、クリック、ミニマル、ベース、ジャングル、ガムラン、ドローン、アンビエントなどのレイヤーを織り交ぜ、多種多様なグルーヴを展開。ミニマリズムにおけるテクノとしてのフットワークを前面に打ち出した、未だかつてない逸脱の実験音響作品集。

CAT No : MBIP-5569
Artist : Theater 1 (D.J.Fulltono & CRZKNY)
Title : fin
Label : melting bot
Format : 2CD (Album) / Digital (12 Singles)
Price : ¥2,400 + tax / ¥300 per Single at ITMS
Release date : 2016/10/16
Genre : Techno / Minimal / Footwork
Territory : Worldwide
Barcode : 4532813635699

【CD限定特典】CD exclusive bonus track *Download Code

Theater 1 CD exclusive DJ mix by D.J.Fulltono

- CD (Album) Tracklist -

DISC I (CRZKNY album edit)

01. Remi
02. Nanami
03. Annie
04. Jerusha
05. Peter
06. Jo
07. Katri
08. Annette
09. Thomas
10. Anne
11. Marco
12. Heidi

DISC II (D.J.Fulltono album edit)

01. John
02. Romeo
03. Jackie
04. Maria
05. Cedric
06. Pollyanna
07. Sara
08. Lucy
09. Flone
10. Perrine
11. Sterling
12. Nero

CD Artwork & Design by hakke https://twitter.com/mt_hakke

- Digital (12 Singles) Tracklist -

01. Remi
02. John

01. Romeo
02. Nanami

01. Annie
02. Jackie

01. Maria
02. Jerusha

01. Peter
02. Cedric

01. Jo
02. Pollyanna

01. Sara
02. Katri

01. Annette
02. Lucy

01. Flone
02. Thomas

01. Anne
02. Perrine

01. Sterling
02. Marco

01. Nero
02. Heidi

Digital Artwork & Design by Theater 1
https://meltingbot.net/release/theater-1-fin
https://soundcloud.com/meltingbot/sets/theater-1-fin

▼ シアター・ワン・バイオグラフィー


D.J.Fulltono [Booty Tune] https://soundcloud.com/dj-fulltono

DJ/トラック・メイカー。レーベル〈Booty Tune〉を運営。大阪にてパーティー「SOMETHINN」を主催。ジューク/フットワークを軸に ゲットーテック/エレクトロ/シカゴ・ハウスなどをスピン。〈Planet Mu〉、〈Hyperdub〉のジューク関連作品の日本盤特典ミックスCDを担当。スペインのConcept Radioにて発表したDJ MIXでは、ジュークの中にテック・スタイルを取り入れながら新たな可能性を模索する。2015年に6作目のEP「My Mind Beats Vol.02」をリリース。また、「Vol.01」はUSの音楽メディア『Rolling Stone』の“20 Best EDM and Electronic Albums of 2015”に選出され、世界の音楽ファンからも評価を得た。タワーレコード音楽レヴュー・サイト『Mikiki』にて「D.J.FulltonoのCrazy Tunes」連載中。



CRZKNY [HIROSHIMA SHITLIFE] https://soundcloud.com/crzkny

日本ジューク/フットワーク・シーンの代表的トラック・メイカーの一人。ハイペースな楽曲制作、そして過剰低音かつアグレッシヴなLIVEでファンを魅了し続けている。2012年から現時点までのリリース総数は、142タイトル、430曲以上を発表。国内盤CDアルバム『ABSOLUTE SHITLIFE』(2013)、『DIRTYING』(2014)を〈DUBLIMINAL BOUNCE〉よりリリース。またアメリカ、メキシコ、ポーランド、アルゼンチンなどの海外レーベルからも多数リリース。日本のトラック・メイカーとして初のシカゴ・フットワーカーMVも制作された。日本初のジューク/フットワーク・コンピレーション『Japanese Juke & Footworks』シリーズを食品まつりと共同で企画。近日、自身3枚目のCDアルバムを発表予定。並行してE.L.E.C.T.R.Oの制作も行っており、初期Electro作品「RESIST」はアナログ盤にて海外レーベルよりリリース、表題曲リミキサーとしてドレクシアのメンバーDJ Stingrayも参加している。国内においては〈Tokyo Electro Beat Park〉から2枚のフルアルバム『NUCLEAR / ATOMIC』、『ANGER』を発表。Keith Tenniswoodなど海外トップアーティスト達に絶賛される。また2012年より原爆・核・戦争・歴史についてのコンピレーション『Atomic Bomb Compilation』シリーズをGnyonpixと企画、多くの国内外アーティストが参加。今までに『The Japan Times』、『Red Bull Music Academy』、『Pitchfork』などで特集、インタヴューなどが掲載されている。国内グライム・シーンにおいても、2013年に開催されたWarDub.JPにおいて100名超の中から見事トップ10入りを果たし、翌2014年に開催された140BPM WARでも決勝進出を果たした。現在ノイズ・エクスペリメンタルDJとしてYung Hamster名義でも活動中。
https://meltingbot.net
https://twitter.com/meltingbot
https://www.facebook.com/meltingbot

interview with Machinedrum (Travis Stewart) - ele-king


Machinedrum
Human Energy

NINJA TUNE/ビート

Electronic PopIDMBass MusicR & BExperimental

Amazon

 マシーンドラムが変わった。どこかダークな『ヴェイパー・シティ』から一転し、新作『ヒューマン・エナジー』では、煌びやかでカラフルな色彩が溢れるエレクトロニック・ポップ・ミュージックへと変貌を遂げたのだ。ドラムンベースからベース・ミュージック、エレクトロからIDMまで、エレクトロニカからEDMまで、さまざまな音楽的要素をスムースに昇華しながら、いまのマシーンドラムにしか出せない新しいエレクトロニック・ポップ・ミュージックを生み出している。
この「変化」は、マシーンドラムことトラヴィス・スチュアートがカリフォルニアに移住した環境の変化も大きいらしいが、たしかに降り注ぐ陽光のような音楽だ。アンダーグラウンド・サウンド・プロデューサーとして評価を獲得していたが彼が、その志を一貫したまま、米国「ポップ・ミュージック」のプロデューサーとしての第一歩を踏み出したとでもいうべきか。00年代に、あのIDMレーベル〈メルク〉からアルバムをリリースしていた彼が、ここまで成長したのかと思うとなかなかに感慨深い。

 じじつ、この新作には昨年海外メディアの年間ベストを席巻したR&BシンガーD∆WNこととドーン・リチャードをはじめ、ブルックリンのラッパー/プロデューサーのメロー・X、リアーナ(!)のコラボレーターとしても知られるケヴィン・フセイン、ネオ・ソウル系シンガーのジェシー・ボイキンス三世、ロシェル・ジョーダン、アニマルズ・アズ・リーダーズのトシン・アバシなど、なかなかのメンツが集結しているのだ。これは勝負にでたのかもしれない。そう確信できるだけのアルバムといえる。

 では、いまの状況を、彼はどう考えているのか、どう思っているのか。来日したばかりのトラヴィス・スチュアートに話を聞いてみた。しかしてその返答・回答は極めてリラックスしたものであった。なるほど、「ポップであること」を決意したとき、人は、こうもリラクシンな状態になるものなのだろうか。新作『ヒューマン・エナジー』を聴きながら(もしくは聴きたいと思いながら)、彼の言葉を読んでほしい。奇才マシーンドラム=トラヴィス・スチュアートの「いま」の気分が伝わってくるはずだ。



現在は、どこに住んでいるのですか?

MD:ロサンゼルスさ。

前回日本に来たのは3年前ですね。今年、来日して何か変わったなと思うことはありましたか?

MD:そんなにはないね。来たばかりであまり街を見ていないから、とくに違いは感じてないよ。大阪で人と話したときに、みんな街がどんなに変わったかを話していたから、もちろん変化はしているのだろうけどね。

これまでもさんざん聞かれているとは思いますが、マシーンドラムの名前の由来について教えてください。

MD:高校の時に思いついたくだらない名前さ(笑)。90年代からずっとこの名前を使っているんだ。当時の俺の友人たちや有名なエレクトロニックのミュージシャンたちがドラムマシンを使っていたから、そのドラムとマシンを入れ替えてマシーンドラムにしたってだけ(笑)。誰も使ってないし、いいかなって(笑)。

あなたはエレクトロニック・ミュージックから、どのようなインパクトを受けてきましたか?

MD:エレクトロニック・ミュージックはタイムレスだし、定義が難しいよね。ポップ・ミュージックだってエレクトロだし、ヒップホップもそうだし、さまざまなモダン・ミュージックの制作にはエレクトロと同じソフトウェアや機材が使われている。俺自身が思うエレクトロニック・ミュージックは、人びとが限界、制限を超えて自分たちを表現することができる音楽かな。たとえばロックだと、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルといった制限があるけれど、エレクトロでは、キーボートやほかのものを使っていたり、そこからまた広がったりして、さまざまなもの作れるからね。

では、アーティスト、レーベル、作品、何でも良いので、あなたがいままでで一番影響を受けたと思うものは?

MD:俺は常にエイフェックス・ツインに影響を受けている。あと、〈ワープ〉の初期作品だね。エイフェックス・ツインの、「誰が何をいおうと気にしない」っていうあの姿勢が好きなんだ。自分がやりたいことを常にやって、境界線を押し広げている。だからこそ誰にも予想できないものが生まれるし、常に人びとを驚かせることができる。あの自由さは多くのミュージシャンのなかでもレアなものだと思う。人の期待や流行の波の罠に気を取られてしまうことは簡単だし、作った特定の音がいちど大きく受け入れられると、それを作り続けて人気を保ち続けることだってできるのに、彼はそれをやらない。いまの時代って、インターネットやSNSがあるから、ファンの声がダイレクトに伝わってくるぶん、彼らが好むサウンドを作らなければいけないというプレッシャーも大きいと思うんだ。でも彼や〈ワープ〉や〈ニンジャ・チューン〉に所属するアーティストたちは、その期待を超えた作品を作っているアーティストたちが多いと思う。自分の道を進んでいるよね。

あなたの作るサウンドもすごく複雑ですね。IDM的といいますか。

MD:IDMって呼ばれているアーティストで、自分が作っている音楽がIDMと思っている人ってあまりいないと思う。そもそもIDMって、とってつけたような名前だよね(笑)。でも、俺の最近の2、3枚のアルバムは、実際IDMっぽかったとは思うよ。

たしかにIDMっぽくもありながら、同時に、とても聴き心地が良いです。音作りにおいて一番大切にしていることは?

MD:自分を笑顔にして、興奮させてくれる音楽を作ること。その音楽が、他の人に音楽を作りたいと思わせることができたらなお良いし、嫌な1日を良い1日に変えて、リスナーの気分を良くすることができたら嬉しいね。そういった意味で癒しの要素を持った作品を作りたいとも思う。実際に、自分の人生を変えてくれたとか、暗い時期にいたけど明るい気分にさせてくれたとか、そういう声をリスナーから聞いたりもするんだ。自分のために自分を興奮させる音楽を作ること、ほかの人たちがインスパイアされるような音楽を作ること。そのふたつのバランスを意識しているね。

子供のときにピアノとギターを習っていたそうですが、エレクトロニック・ミュージックの場合、楽器をプレイすることができないミュージシャンも多いですよね。楽器を演奏できるということは、あなたの音楽にどう影響していると思いますか?

MD:マーチング・バンドやジャズ・バンドにいたり、アフリカン・アンサンブル、パーカッション・アンサンブルを演奏してきたりして、そういった音楽のセオリーを理解していることは、自分が作るエレクトロニック・ミュージックに大きく影響していると思う。そもそも、エレクトロニック・ミュージックを作り始めた理由が、俺は小さい街に住んでいて、そういった音楽(バンドやアンサンブル)をひとりでは作れなかったからなんだ。だから機材の使い方を学んで、ひとりで音楽を作ってレコーディングできるようになるしかなかったんだよね。

楽器を弾けることで、ほかにはないエレクトロニック・サウンドが生まれていると思いますか?

MD:ピアノが弾けるからメロディの作り方は理解している。コードの使い方とか、どの音符同士が綺麗に聴こえる、とか。マイナーとメジャーの使い分なんもそう。それは、メロディを書く上で影響していると思う。でも、そういう知識がないほうがより面白い作品が生まれる場合もあると思うけどね。何も知らない方がクリエイティヴになれたりもするしさ。自分がそういった知識をもっていることが音楽にどう影響しているか明確に説明はできないけど、もしピアノやギターが弾けなかったら、俺の音楽はまったく違うものになっていたというのは確実だと思う。

あなたのビートのプログラミングは非常にユニークですが、ビート作りにおいて意識していることはありますか?

MD:あまり意識していることはないね。ただただ自分が良いと感じるものを作っているだけ。メロディを始めとするほかの要素も同じ。すべてはフィーリングさ。良いものが生まれれば、それが良いと感じるんだ。それを作るためのマニュアルはないし、作っているうちにしっくりとくる瞬間が来る。それに従うことだね。

〈プラネット・ミュー〉からリリースされた『ルームス』(2011)の後から、あなたの音楽が大きく変化したと思うのですが、この変化はどのようにして起こったのでしょうか?

MD:『ルームス』ではビートから音作りをはじめるかわりに、そのときに「起こっていること」や「瞬間」を捉えるという姿勢で音作りに取り組んだんだ。『ルームス』ではそのやり方を発見できたし、その「瞬間」をとらえ音にするというのが、どんなに大切かがわかった。自分が作りたいと思う音を考えに考え抜いて作ることもできるけど、スケルトンの状態からその瞬間に生まれるものを取り込んでいくことも大切なんだ。それを発見してから、そのメソッドで音を作るようになったし、いまだにそのやり方を採用しているね。

『ヴェイパー・シティ』と比べて、新作はベース・ミュージックでありながらもカラフルですね。このような変化は、どうして起きたのでしょう?

MD:LAに引っ越してから、自分の人生の新しいチャプターがはじまった。気候や環境も違うし、それは影響していると思うね。でも同時に、これまでも俺は常に新しいことにチャレンジするのが好きだったし、緊張感がありながらもポジティヴな、メジャー・キーを使ったサウンドに挑戦してみたかったというのもある。前の作品ではコード・サンプルを使ったり、小さなキーボードでリードラインを書いたりしていたけど、今回は昔やっていたようにピアノでメロディを書いたりもしたんだ。だからこのアルバムでは、多くの曲がリズミックというよりもメロディックなんだよね。それは大きな変化だと思う。やっぱり88鍵盤を使うと違うね。ベースラインとメロディを一緒にプレイすることができるから、音と音の間により繋がりが生まれるんだよ。

新作『ヒューマン・エナジー』のリード・トラック“エンジェル・スピーク”にはメロー・Xを起用しています。彼とのコラボレーションはどのようにして実現したのですか?

MD:前からいろいろとレコーディングはしていたんだけど、曲に採用することがなかったんだよね。でも今回は、前にとったヴォーカルをビートに乗せて使ってみることにしたんだ。

ケヴィン・フセインはいかがでしょう?“ドス・プルエタス”では彼の声が前面に出ていて驚きましたが、何か意図はありましたか?

MD:自分では何も(笑)。俺が作るほとんどのトラックにゴールはない。ただクールなものを作りたいと思っているだけさ。

では、“ドス・プルエタス” 目指したサウンドはどのようなものですか?

MD:とくにはないけど、トラップやEDMといったモダン・ミュージックに対するリアクションのような曲だろうな。あと、『ヴェイパー・シティ』と新作のブリッジとなる作品でもあるんだ。早いドラムンベースのテンポを使いながらも、曲が進むにすれて音がどんどん発展していく。アルバムに収録されているほかのトラックと比べて、この曲はマイナー・コードだし、音的には『ヴェイパー・シティ』と繋がっているんだ。

なるほど! それにしてもかなり斬新な新作ですね。リスナーの反応はいかがですか?

MD:大好きな人と大嫌いな人にわかれるね。本当に気に入ってくれたというコメントももらったし、がっかりしたという意見も聞いた。でも、『ヴェイパー・シティ』のときもそうだったんだ。全員をハッピーにすることなんて不可能だよ。結局のところ、自分自身が楽しめているかがもっとも大切なんだ。

リード・トラックの2曲は、すごくポップで東京っぽいなと思いました。

MD:アルバム全体にその要素はあるかもね。ハイパーで、メロディックで、メジャー・コード。それってJ-popやK-popの特徴でもある。ほかの人からも似たような意見をもらったよ。

ちなみに日本の音楽や日本のアーティストに影響を受けたことはありますか?

MD:竹村延和。以前、彼の音楽にハマっていたんだ。彼のアプローチはすごくユニークなんだよ。ボアダムスもよく聴いていた。日本の音楽って、掘り下げるとすごくエクスペリメンタルなものが色々あるよね。

今回のアルバムのレコーディングで、何か変化はありましたか? 使用した機材や環境など。

MD:新しい街に引っ越したし、新しい家にも引っ越した。新しいコンピュータも買ったし、新しいエイブルトンのテンポレートも作ったんだ。今回はすべての曲において同じソニック・パレットを使ったから、統一感があると思うよ。

では参照した音楽はありますか?

MD:いや、それはない。アルバム制作期間の3ヶ月は、敢えて音楽を聴かないようにしたんだ。でも、何かの影響が自然に出ているということはもちろんあると思うけどね。

『ヴェイパー・シティ』シリーズについで今回も〈ニンジャ・チューン〉からのリリースですね。〈ニンジャ・チューン〉に関してはどう思いますか?

MD:レーベルがスタートしてから革新的音楽をリリースし続けているし、ほかとは違うレーベルだと思う。彼らと一緒に仕事ができて、本当に光栄だよ。

今年、リリースされたセパルキュア名義のセカンド・アルバム『フォールディング・タイム』も素晴らしいですね。このアルバムは、どのくらいで作り上げたのですか?

MD:1枚目のアルバムは2週間しかからなかったのに、セカンドは3、4年かけて作ったんだ。タイトルの由来もそこから来ていて、3年前のセッションをレコーディングしたものをはじめ、長い期間の間で作られた色々なマテリアルの点を繋げながら完成させたのがセカンド・アルバムなんだよ。すごく長いプロセスだったね。

その作品はR&B色が前より強くなっていると思いました。作品でのあなたの役割とはどのようなものだったのでしょう?

MD:何て答えたらいいのかわからないな(笑)。ただ普通にコラボしただけ(笑)。

“フライト・フォー・アス”でカナダの女性シンガー、ロシェル・ジョーダンを起用していましたね。どのようにして実現したのですか?

MD:知り合いが彼女を紹介してくれて、レーベルも、いくつかシングルを作ってみたらどうかと乗り気だったんだ。俺自身もいくつかの曲に彼女の声が自然にフィットすると思ったしね。

あなたの音楽にとって、ヴォーカルとはどのようなものですか?

MD:俺にとって、ヴォーカルは楽器のひとつ。ドラムなんかと同じで、大切な音の要素のひとつだね。そして同時に、やはり人間から生まれるサウンドだし、みんなが一番親しみのある音だから、どの楽器よりも人が繋がりを感じることができるものだと思う。上手い下手は関係なく誰でも歌は歌えるし、脳って、すぐヴォーカルに反応すると思うんだ。ポップ・ミュージックが親しみやすいのもそこだよね。音楽の知識がなくても、歌詞やヴォーカルを聴くことで、それをエンジョイすることができる。そういう意味ではヴォーカルってすごく重要なんだけど、俺はヴォーカルをメインにするのではなく、ほかの音とバランスをとらせたいんだ。

シンガーがあなたの音楽に何をもたらすものは、どのようなものですか?

MD:俺と一緒にコラボしているシンガーたちのほとんどが友だちだし、長いあいだ知り合いだから、その近さや心地よさが音楽に自然と反映されていると思う。

そこもあなたの音楽の聴きやすさの理由のひとつかもしれませんね。

MD:そうだね。高いお金を払って、大物ヴォーカルを起用しているわけじゃないから。お互い心を許せているから、良いエナジーが生まれるんだ。

ところで、ここ5年のエレクトロニック・ミュージック・シーンはジャンルに関してはどう思いますか?

MD:より多くの人びとに受け入れられるようになっていると思う。いまは若い世代もエレクトロを聴いているしね。俺が聴きはじめた頃は、エレクトロがどんな音楽なのかを説明するのも難しかったし、まわりの友だちにエレクトロニック・ミュージックを好きになって聴いてもらうのは簡単ではなかった。エレクトロのミュージシャンは真のミュージシャンじゃないという考え方もあったしね。でもいまは、それが完全に変わったと思う。誰もがエレクトロニック・ミュージシャンになれる時代にもなったし、ビートを作ってサウンドクラウドにアップするのだって、ティーンにとっては当たり前のことだしね。それは素晴らしい変化だと思う。エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーたちとって、よりエキサイティングな環境が築き上げられていると思うよ。

EDMに関してはどうお考えですか?

MD:音楽のすべてのジャンルに良い部分があるし、面白いと思える部分がある。もちろん、最悪なドラムンベース、最悪なフットワーク、最悪なジャングルも存在するけどね。でも、そのジャンルのなかでクオリティの良いものは、すべて面白いと思う。EDMってちょっとふざけた面もあるけど、そのユーモアやトリックを楽しんだりもしているよ。

DJラシャドのトリビュート・アルバムに参加していますね。彼の音楽の魅力について教えてください。

MD:彼の魅力は、音楽を超えていると思う。いままで沢山のDJやミュージシャンたちに会って来たけど、彼はそのなかでも本当にユニークで、ほかのミュージシャンたちから何かを学ぼうと常にオープンな姿勢でいた。すべてに耳を傾けて、気を配っていた。プロデューサー、DJ、そして一人の人間として彼を心からリスペクトしているし、一緒にいると常にインスピレーションを受ける存在だったね。

あなたも常に音楽を作り続けていますね。それは何故でしょう?

MD:ほかに何をしていいのかわからないからさ(笑)。何で息をしているのかと訊かれるのと同じ(笑)。生活の一部なんだ。音楽を作ることで生きていられるし、音楽なしではどうしたらいいのかわからない。自分からクリエイティヴィティがなくなったらどうなるかなんて想像できないよ。

最後にミュージシャンとして、もっとも大切にしていることを教えてください。

MD:さっき話した通り、自分が満足できる音楽を作る、そして人にインスピレーションを与える音楽を作るというふたつのバランスをとること。それだね。

AJ Tracey - ele-king

 ロンドンのストリートで生まれたラップ・ミュージック「グライム」が話題になっている。特に自主レーベルから発表されたスケプタの『コンニチワ』が、イギリスで最も優れたアルバムに対して送られるマーキュリー賞を受賞したのは、世界のインディペンデント・シーンに勇気を与えただろう。

 そんなシーンでフローとリリックで頭角を現してきた若干22才の新星MC、エージェー・トレーシーが来日し、日本初ツアーをおこなう。
 彼はこれまで4枚のEPをフリー・ダウンロードでリリース。今月もニューヨークのエイサップ・ロッキーとのコラボレーションから、Mumdanceとのモジュラー・シンセのセッションまで、ジャンル・国を超えて活動中だ。その勢いを証明するかのように、昨年ストームジーが受賞したモボ・アウォードで早くも「ベスト・グライム・アクト」にノミネートされ、今夏のフェスティヴァルでも引っ張りだこである。

 ツアー初日の大阪は10月15日(土)、大阪COMPUFUNK RECORDSにて行松陽介やグライムMC 140 + Sakanaなどが共演。東京は10月16日(日)夕方からSkyfish × DOGMA、DEKISHI + Soakubeatsらが迎え撃つ。
 彼の初ツアーは勢いづく「今」のグライムとローカルのストリート・ミュージックが共鳴するイベントになりそうだ。(米澤慎太朗)


10月16日 (日) 18:00 -
MO’FIRE @ CIRCUS TOKYO

https://circus-tokyo.jp/
¥2000 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d
前売り : https://jp.residentadvisor.net/event.aspx?881144

AJ Tracey
Skyfish × DOGMA
DEKISHI + soakubeats
Double Clapperz
Carpainter
Underwater Squad
Host : Onjuicy

10月15日 (土) 23:00 -
PCCP @ COMPUFUNK RECORDS

¥2500 (ADV) / ¥3000 (DOOR) + 1d

AJ Tracey
YOSUKE YUKIMATSU
YOUNG ANIMAL
140 + SAKANA
SOUJ
SATINKO
ECIV_TAKIZUMI


AJ Tracey プロフィール

ウェスト・ロンドン出身のAJ Traceyはおそらくここ一年のUKアンダーグラウンドのグライム・シーンの盛り上がりから生まれた最も才能あるMCである。万華鏡のような言葉選びとはっきりと聞き取れるフローはそのシーンにおいて誰にも比較できない独自さを持っている。AJ Traceyはその美声とフローで荒々しいクラブ・アンセムからスイート・ジャムまで器用に乗りこなす。

The Quietus – 彼はマイクでクリアにラップして、常に魅了出来る本当のリリシストだ。

昨年夏の「The Front」でデビューし、秋には“Spirit Bomb”、“Naila”がストリート・アンセムとなった。“Naila”はYouTubeで異例の50万回再生され、Rinse FM、Beats 1 Radio、BBC Radioでヘヴィプレイされた。2016年に入り、Tim Westwood Crib Sessionへの参加、Last Japanとの共作「Ascend」のリリースや2stepレジェンドとして知られるMJ Coleとのコラボレーション“The Rumble”を公開するなど、常に話題のMCだ。

東京 アンダーグラウンド 誰も知らない世界で戦う
Morning and Night 遊びつつまた Hustle, Deal Yen
S.L.A.C.K.“In The Day”『この島の上で』

 HIPHOPはGroundの音楽だ。Groundとはいま踏みしめている「地面」、生まれ育った「土地」、わたしが生きている「根拠」、そこから生まれる明確な「立場」、いま抱えている「問題」だ。しかし、同時にHIPHOPはGroundを内破する。HIPHOPはGroundから生まれ、踏みしめ、拠って立ち、その生まれによって固有の苦悩を抱える人間のGroundを内側から掘り崩し、再構築する。その担い手は、自らのGroundをDigることでGroundを愛し、ゆえに破壊し、再創造するのだ。そこにどんな楽しみがあるかは、やったことがねえやつにはわかんねえな。そこには俺たちだけの、かけがえのない夜があり、踊りがあり、分けもたれた孤独があるんだ。

* * *

  さて、前回の続きだ。S.L.A.C.K.のキーワードである「適当」は、日常的に使う悪い意味での「いいかげん」ではない。この「適当」は前回書いたように、クソみたいだけど、手放したくない、いずれ終わりのくる日常の中で、その限界を意識しつつ、緩く、タフに生き延びようとする思想から出た言葉だ。だからそれは、まず「良い加減」であり、「ちょうどいい」ことを意味している。しかし、それだけではないのではないか? この問いは、表記が5lackになってから、また震災の後、さらに強くなった。
 実際、5lackは震災以後初めてのロング・インタヴューで以下のように答えている。少し長くなるが引用する。

■うん。「適当」っていう言葉は当初は日本のラップ・シーンに対する牽制球みたいな脱力の言葉だったと思うんですね。もう少し気を抜いてリラックスしてやろうよ、みたいな。

スラック:はいはいはい。

■それが、より広くに訴えかける言葉になってたな、と思って。

スラック:漢字で書く「適当」の、いちばん適して当たるっていう意味に当てはまっていったというか。要するに、良い塩梅ということです。だから、いいかげんっていう意味の適当じゃなくて、ほんとの適当になった。まあ、でも、最初からそういう意味だったと思うんですけど、時代に合わせるといまみたいな意味になっちゃうんですかね。ちょっと前だったら、もうちょっとゆるくて良いんじゃんみたいな意味だったと思う。

■自分でも言葉のニュアンスが変わった実感はあるんですか?

スラック:オレがラップする「適当」を、気を抜いてとか楽天的にとか、ポジティブに受けとられれば良いですけど、責任のない投げやりな意味として受けとるのは勘違いかなって。

 ここにダブルミーニングが生じる。S.L.A.C.K.から5lackへ、震災後へ。恐らく5lack自身、また、この島に住む多くの人々が、あの揺れと、波と、何よりも底の抜けた圧力容器からの線によって、変容させられた。正体不明の不安を覆い隠すように、偽物の多幸感の影を追いながら、社会の問題に他人事でいられた冷笑家すら、いまや当事者となった。もはや、「いいかげん」だけではすまない。良くも悪くも、いや、最悪なことに、この「いいかげん」と「無責任」によってあの災厄はもたらされたのだから。「大人」たちのほとんどはこの責任を取ろうとしなかったし、責任を想像すらできなかったが、この時代が生んだ子どもたちは、3.11以後の想像力は、未来からの呼びかけに応答しようとしている。子どものように責任を回避し、駄々を捏ねる大人の代わりに、取れる限りの責任を取ろうとしている。歴史に残るほどの大きな出来事は、言葉の意味すら変容させるらしい。震災以後の日本人の切実さは、「適当」に新たな内実を与えた。それは無責任な「いいかげん」ではなく、「良い加減」だけでもなく、自分のやっていることを自覚し、責任を持つ、ある種の真面目さ、真剣さ、「適切」に近い、本来の語義を取り戻した。

 では、この責任を自覚した「適当」は、何に対して適当なのか? 適して当てはまるのは、何に対して当てはまるのか? 「良い塩梅」とはどのくらいのことを言うのか? その答えは、どこにあるのだろうか? 少し遠回りになるが、5lackに寄って考えていく。5lackは切迫した調子で問う。

モニターに足かけ 調子どうだ?と客に話しかけ 渦巻く種仕掛け 人生につきその耳に問いかける Yeah 分からないことだらけ 見えないが感じる今だけ このステージ上がお前のLife 本番さどうにも止まらない  5lack“気がつけばステージの上”『情』

 ニーチェが「神の死」を宣告してから100年が経つが、近代人はいまだに「私はなぜ生きているのか?」という問いに対する絶対的な答えを喪失し、病んでいる。ある人は、その喪失の中で自死を選択し、ある人は安易な答えを掴む、そして多くはそもそも問うこと自体をやめてしまう。しかし、5lackは真摯に問い、全うにも「分からない」、「見えない」と答える。この答えは答えになってはいないが、その代わりに、ある事実を伝える。感じろ、何にせよお前は生き、お前の人生という舞台に立っている。これは本番だ。「どうにも止まらない」。そして開き直る。

Kick Push 人生 賭けて Believe it あっちよりこっちが絶対いいなんて信じてもなあ そうでもないかもしれねえし いまから決め付けないでさ
 人生 正解などないと思っていいぜ ひでえ目にあったりする それもまあいいぜ Weekend (×5) We Can (×5) I Love My Life  5lack“Weekend”『Weekend』)

 最後のフックまでは、フックの最後、“I Love My”の後にため息や嘆きに似た声が入っているが、最後のフックでは“I Love My Life”と明確にラップしている。いや、歌詞カードがないのだからここでも明確ではないかもしれない。しかし、最後に、確かにそう聴きとれるのだ。人は必ず死ぬ。そして人生に答えはない。「ひでえ目にあったり」もする。だけど、自分の人生をそのまま愛し、肯定できればいい。困難かもしれないが、俺たちにはできる。何度でも言う。“We Can”“I Love My Life”。この開き直りこそ、前回書いた「緩いタフネス」の本質だ。そしてこの回答によって、5lackの哲学の核心に近づくことができる。それは初期からの5lackのスタイル、変化そのものの肯定だ。根本のところで自分を愛し、もはや自分を恥じることがなくなるとき、人間は本物の自由を手にする。自由は、なにものにも寄らず、変化し続けること、創造すること、そのプロセスそのものを可能にし、また肯定する。そういえば、シングル『Weekend』のB面、あるいはもう一つのA面でこう言っている。

変わり続けるのが俺らしい 変わらないものなんてまやかし  5lack“夏の終わりに”『Weekend』

 変化とは、破壊と創造のプロセス、ただいい音楽を作り、それを続けること。そこには、自由ゆえの不安と、孤独の夜が常に付きまとう。だけど、その一回限りの踊りの繰り返しには楽しみもあるだろう。そしてこの踊りによって5lackは、シーンだけでなく、5lackの音楽を聴くリスナーたちに、「強くあれよ」と自覚(コンシャスネス)を呼びかける。別に純粋に政治的なことを言うことだけがコンシャスラップではない。彼がやっているのは間違いなくコンシャスラップだ。それもズールー・ネーションから続いている、HIPHOP的に正統な。
 今回はここまで。詳しくはまた次回にしよう。次回以降も、5lackの踊りと哲学についてもう少し掘り下げ、では誰に対する「責任」を果たそうとしているのか、考えていきたい。

※歌詞は全て筆者が書き起こしたものなので、間違っていたらごめんなさい。

Moe and ghosts × 空間現代 - ele-king

 これはコラボレーションの記録である。「誰の?」──空間現代と、Moe and ghostsの。「何の?」──音楽と、言葉の。「どうやって?」──マッシュアップ的な方法論で。

 本当にそうだろうか。この二組の共作と聞いて、極めて個性的で異質な両者が混ざり合う様を、簡単には想像できなかった。Moe and ghosts vs. 空間現代。混ぜるな危険。

 もしあなたがDJなら、予想外のアカペラとインスト・トラックのペアを暴力的に組み合わせることで、その出会いが産み出す化学反応に期待することがあるかもしれない。だがこのアルバムに封じ込められているのは、マッシュアップのようなメタレベルの邂逅ではない。これは、予想外の二者が顔を突き合わせておこなわれた、地に足の着いた(実際Moeの連れたちは宙に浮いているのだが)リアルな作品作り=モノ作りの記録である。

 空間現代とMoe and ghostsの「モノ」作りはもちろん「音」作りである。しかし同時に、演奏を担当する空間現代は「音」を「モノ」として捉えているところがある。空間を埋め尽くす建材としての音たち。いわばこの建材たちがぶつかり合い、擦れ合う「モノ音」作りと言っても良いかもしれない。そしてこの「モノ音」は、幽霊たちの差し金により勝手に其処彼処で鳴りだす「ラップ音」でもある。その記録。ラップ現象。

 空間現代の音作りを支えているのは、数字だ。彼らは音を「モノ」として数えているようなところがある。変拍子の拍数や、繰り返されるキメの数々。僕たちリスナーには、無意識的にカウントしたそばから忘却される、その数字。彼ら自身、特にライヴにおいては演奏の生命線となる、その数字(収録曲の「数字」では文字通り、バンド・メンバーの頭の中と同期して、思わずピッキングの回数を数えてしまう)。複雑な数列が乱打される様は、脱臼させられたフットワークのごとし。DTMのバグで暴走したTraxman、あるいは泥酔したRP Boo。

 そして、ときにその数字は、本来数えられないものも数えなければならない。変拍子といっても、彼らは、変拍子のマエストロたち、つまりラッシュのケディ・リーやM-Baseのスティーヴ・コールマン、メシュガーのフレドリック・トーデンダルが数えなかった、いや、数えることを想像もしなかった数字を数えようとしている。小節や拍のルールからはみ出した長さでループする、数理に従わないリフ。それが数えられない長さになってしまうのは、音が飛び、小節や拍の途中でぶつ切りにされるからだ。アナログやCDの盤面のキズによる針飛びやスキップ。かつてのクリスチャン・マークレーやマーカス・ポップ(空間現代のセカンド・アルバム収録曲のリミックスも手がけている!)のイノヴェーション。その人力による再演。

 そして彼らの演奏に向き合うとき、僕たちは目撃する。「飛ばなければ」後に続いていたはずの音の姿を。いや、正確にはその音の痕跡を。そこにあったはずのゴーストノートたち。しかし実際には意図的な「音飛び」によって演奏されない、それらの音。スキップされる未明の音たちは、ときには野口のギターや古谷野のベースの空ピッキングとして現れ、ときにはドラマーの山田の空を切るスティックが叩く/叩かないゴーストノートとして立ち現れる。そしてこのゴーストノートの空白地帯に寄り添い、それらを埋めることができるのは、Moeの言葉だけだ。


 Moe and ghostsの「ghosts」に空間現代が乱れ打つ「ゴーストノート」たちが代入される。このアルバムは、その際に、僕たちの理解を超えたところで引き起こされる「ラップ現象」の記録だ。1999年にDJプレミアがノトーリアスB.I.G.のゴーストノートを召喚して楽曲に仕立てた“Rap Phenomenon”は、2016年に「混ぜ物一切なし」の「幽霊と現代のsure shot」として再び蘇ったのだ。

 圧巻の「sure shot」は、たとえば7曲目の「少し違う」。8分19秒に渡るこの曲は、空間現代のファースト・アルバム収録の同名曲をベースに、Moeが言うところの「五次元の扉」を開いてしまったクラシックだ。三位一体となった空間現代のシンコペーションに彩られたビートが、無音に連結される。その無音の隙間を縫うように立ち現れるMoeのラップ。その声色と音程の無限の組み合わせが披露される。白塗りの百面相。さらに全く異なるテンポと世界観を持った野口の湿ったアルペジオと歌メロが何の脈絡もなく挿入され、時に山田のドラムさえもそれに寄り添う。並走する二つの時間軸。そして5分の後にやって来る、享楽の8ビート。ヒップホップのカタルシス。ノレるような、ノレないような宙吊り状態で焦らされた僕たちはここぞとばかりヘッドバンギングに興じるだろう。さらに終盤ではそれまでと打って変わった抒情的なMoeの言葉が、野口のアルペジオの意味を明らかにする。互いの音楽の本質を明らかにするコラボレーション。そのドラマに立ち会う至福。

 バスタ・ライムスをフェイバリットに挙げるMoeのラップ。その器用さとヴォイス・コントロールの巧みさにおいて確かにその影響が窺える。一方で、降神のような日本語ラップの例外者たちや、ドーズ・ワンなどのアンチコン周辺からPlague Languageに至るゼロ年代以降のアメリカ西海岸~ハワイで興隆したフロウと通底しているようでもあり、しかし同時にアルバム6曲目の「可笑しい」では山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』(2012年)に収録の「私たちがすごかった栄光の話」からの引用をラップに仕立ててしまうのだから、これはもう恐ろしいことなのだ。彼女のスタイルが形成されてきた足跡は、幽霊たちにかき消されている。まさに正体不明。ゴーストたちの面目躍如。

 圧巻の「sure shot」二発目は、2曲目収録の「不通」。これは元々、空間現代の2012年にリリースされたセカンド・アルバム『空間現代2』収録の彼らの代表曲の一つだ。彼らの楽曲はライヴの度に、別の楽曲の別のピースと縫合され、果てなく更新され続ける。だがしかし、このような形でラップが乗るヴァリアントを誰が想像し得ただろう。

 冒頭のリフ。チャーラッ、チャーラッと刻まれるギターの音。一聴すると変拍子。しかしその実、音飛び。聞けば聞くほど拍という概念では捉えがたい、譜面化不能なシーケンス。この脱臼したループを前に、僕たちはどのように踊れば良いのだろうか。1拍目から3拍目までは小気味良い8ビートに首を振りノリながらも、それに連なる極めて絶妙な長さビートの余剰/不足(Moe曰く「現代のずれ/みだれ」)をどう処理すれば良いか途方に暮れて、僕たちの首はピクリとも動けなくなる。あるいは、混乱のあまりこの体から幽体離脱し、迷子になって虚空をさまようかもしれない。

 しかしMoeはどうだろう。「イーストでもウエストでもないゴーストコースト」のMCは、この余剰/不足、つまりゴーストノートの存在/不在に言霊をアジャストすることなど朝飯前だ。彼女は「変拍子ダブルダッチ/このマッチメイク」と歌いながら、モノの見事に脱臼したリズムの上をフロウする。彼女もまた幽霊たちのように浮遊し、空間現代が回すオンビートとオフビートのダブルダッチの縄にも足をすくわれることがない。


 Moe and ghostsの2012年リリースのファースト・アルバム『幽霊たち』でMoeが寄り添ってきた幽霊たちは、ビートメイク担当のユージーン・カイムにより連打されるキックとスネアであり、叙情で彩られたゴーストコーストからのランドスケープを見せてくれるウワモノたちの旋律であった。これらはサンプリングされているがゆえに、オリジナルから引き剥がされた=幽霊化した音たちであり、彼によって結局選択されずに遺棄されたデッド・サンプルの数々もまた、幽霊化してこちら側=此岸を眺めている。今回、Moeとユージーンのパートナーとして選ばれたことで、幽霊たちの羨望と嫉妬に満ちた視線を一身に集める空間現代の三人が放つ一音一音は、サウンド・プロダクションの洗練も相まって、これまでになくヌケが良くコンプが効いた、粒が立っている肉感的なものだ。さらに本作のいくつかのインスト曲では、ユージーンによりサンプリングされた空間現代の過去曲の断片が、幽霊として、メランコリックに再来する。

 幽霊たちの記憶。ポール・オースターの所謂「ニューヨーク三部作」の二作目にあたる『幽霊たち』(1986年)の中で、主人公の探偵は、クライアントから依頼を受けてとある人物を監視し続ける。その人物は何も事件を起こさないのだが、主人公は、その「何も起こらないこと」の背後に過剰な物語を読み取ってしまう。この世界からはみ出す「過剰」が「幽霊」と名指されているのだ。

 Moeのリリックにも、このような意味での「幽霊たち」が憑いてはいないだろうか。とにかく過剰なまでの文字数が詰め込まれたリリックはしかし、聴き辛さを催させるものではない。リリックの言葉自体を一言一句聴き取ろうとするならば、目/耳の前を次々と流れ去ってしまう、音としての言葉たち。聴覚の焦点を曖昧にして、その流れを知覚することの、快楽。どこも意識して聴かずに、ただあるがままに聞くこと。その肌触りが、こちらを触れてくるまで。

 そして、このゴーストコーストで流通する言語は、翻訳の必要もない。かつて吉本隆明は、坂本龍一との対談で、矢野顕子の歌を「言葉を、音に同化させ」「音にしちゃっている」と評価した。同対談で坂本はYMO(「ラップ現象」つながり!)の海外公演では、英語よりも日本語の矢野の歌の方が圧倒的に受けが良く、「聴衆たちは踊っていた」と振り返った。「不通」の曲中で野口が「あー/言葉ない/ない/不通」と歌うように、Moeの「言葉なき不通」こそ、矢野同様に、世界中で通じる「音」なのではないか。

 ということは、「ラップ現象」とは、音の不在が言葉を呼び込み、逆に言葉の不在が音を呼び込むことだったのではないか。ゴーストノートの空白を埋めるMoeの言葉。同時に、そのMoeのフロウは言葉であることを忘れて、音になる。空間現代が積み上げる建材の隙間を縫う、モノ音になる。


 僕たちは、このコラボがもたらした唯一無二の世界を、心行くまで楽しむことを許されている。12センチの円盤に閉じ込められた世界。しかしそこからはみ出す過剰=幽霊たちをもっと近くで目撃できたのは、彼らのライヴの場に居合わせた、幸運な人々。2016年5月30日、渋谷WWW。幽霊たちに鼓膜をくすぐられながら、僕たち聴衆は踊り狂った。

 それはコラボレーションの記録だった。「誰の?」──空間現代×Moe and ghostsと、僕たちの。「何の?」──音楽×言葉と、ヘッドバンギングの。「どうやって?」──マッシュアップ的な方法論で。

 あの夜以来、どうも地に足がつかない心地がするのは、単なる気のせいだろうか。

Zomby - ele-king

エスキーなストリート・ミュージックが再び鳴り始める米澤慎太朗

 2008年に〈Hyperdub〉からデビューしたZombyが、再び同レーベルからグライム、「エスキー・ビーツ」の影響を強く感じさせる最新アルバム『Ultra』をリリースした。彼はこれまで、常に新しいモードにチャレンジしてきた。ジャングルや90年代レイヴ・ミュージックを強く感じさせる『Where Were U In '92?』〈Werk Discs〉に始まり、〈4AD〉と〈Ramp Recordings〉から4枚のアルバムをリリースしてきた。その後もTwitter上での熱いツイートで話題を常に絶やさなかった彼だが、ビートレスのトラックをWileyのヴォーカルが引っ張る昨年のシングル「Step 2001」〈Big Dada〉が本作『Ultra』を方向づけたように思う。

 収録曲の中でソロで制作されたものは、Wileyが作った(*1)エスキー・ビーツのアイディアを借用し、サウンドを発展させている。例えば、“Burst”の最初の小節に挟まれる一音はWileyの“Ice Rink”に使われていたエスキー・クリックと呼ばれる音である。また、アルバムのオープニング3曲は「Devil Mix」または「Bass Mix」とWileyが名付けたドラムのないインストゥルメンタル・トラックである。しかし、ただエスキー・ビーツをなぞるだけでなく、ハイファイな音作りで現在にアップデートさせた音像を提示している。
 無機質なベース音と、繰り返すビデオ・ゲームの効果音のような音の隙間には、グライムMCの熱のこもったラップが聴こえてきそうだ。DJがセットに時折混ぜるデヴィル・ミックスの淡々としたトラックは、ドラムなしのビートにマイクを握り続けるMCと、「早くマイクをよこせ」と待っているMCの間に生じる緊張感をさらに高めていく。“Burst”からは、そんなロンドンのラジオ局の様子が想像できた。しかし、ZombyはMCと共作する代わりに、ヴォーカルをチョップすることで、ほんの少しだけ緊張感を和らげているようだ。

 なぜ、今エスキー・ビーツなのか? この2~3年の間で、2000年代前半のエスキー・ビーツの再解釈がイギリスのシーンのトレンドになっていることがあるだろう。その背景には、アメリカの「トラップ」と全く異なり、2000年代初期の「エスキー・ビーツ」(*2)のスタイルにイギリス・グライムのオリジナリティを感じ、インスピレーションを求めようとする新世代のプロデューサーがいる。例えば、LogosやRabit、Visionistなどはエスキー・ビーツの影響を受けているし、今年は、2003年リリースのワイリーの曲“Igloo”を下敷きにしたトラックに、人気MC Stormzyが乗っかった“One Take”がクラブ・ヒットした。それに呼応するかのように、〈Local Action〉や〈DVS Recordings〉など名の知れたものからアンダーグラウンドまで、さまざまなレーベルが、2000年代前半シーンの勃興期にDJの間のみで流通していたプロモ盤を再リリース。2000年代前半のローな音への「原点回帰」がトレンドになりつつある。Zomby自身は年齢非公表のため想像にすぎないが、Zombyはおそらくリアルタイムで2000年代初頭のグライムを経験し、このタイミングでグライムの原点の一つであるエスキー・ビーツを自分なりにもう一度消化してアルバムとして提示したのではないか。

 ソロで制作された粗い質感のトラックはアルバムの方向性を決定づけているが、Burial、Rezzett、Darkstar、Bansheeとコラボレーションしたトラックではフロア向けのトラックとは別のベクトルに音楽性を発展させようと挑戦している。特に、Darkstarとのコラボレーションはどのパートをそれぞれが担当したかわかりやすいという意味でも面白い曲。どのコラボレーションもZombyのサービスとして、また息の詰まりそうなエスキー・ビーツの間の休みとして楽しめる。アルバム通してハイファイながら粗いローな感覚に浸れる一枚だ。

(*1)TR.1“Reflection”、TR.2“Burst”、TR.3“Fly 2”、TR.10“Freeze”、TR.11“Yeti”。
(*2)矩形波のベース音やKORGのTritonのプリセット音を使うスタイル。

米澤慎太朗

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 デリック・メイかと思った。9曲目の“Quandary”のことだ。なぜそう感じたのかはわからない。何度か繰り返し聴いているうちに、別にデリック・メイではないよなと考えを改めるようになった。けれどその後もときどきデリック・メイのように聴こえることがある。なぜなのか、よくわからない。

 日常的に交わされる雑談の紋切り型のひとつに、「誰が誰に似ているか」という話題がある。「鈴木さんって、山田さんに似ているよね」という、あれだ。誰かの顔が別の誰かの顔に似ているなんていうのは実際よくあることで、特に驚くことでもなんでもない。けれど、改めて考えるととても奇妙な事態でもある。なぜぼくたちは、誰かの顔と他の誰かの顔とが似ていると思ってしまうのだろうか。
 じつはぼくはこの類の会話が嫌いじゃない。といってもそれは、本当に鈴木さんが山田さんと似ているかどうかが気になるからではない。そんなことはどうでもいい。そうではなく、そういう話題を通して、発話者が観測対象をどのようにデフォルメしているかが明らかになるのが面白いのだ。発話者は、顔のどの部分を拡大しあるいは逆にどの部分を切り捨てて、対象を眺めているのか。それは、発話者が顔というものを通してどのように世界を見ているかということでもある。だから特に、意見が分かれるときほど面白い。
 たとえば高橋さんは、鈴木さんが山田さんに似ていると思っている。けれど斉藤さんは、鈴木さんが山田さんに似ているとは思っておらず、むしろ佐藤さんに似ていると思っている。このとき、高橋さんの眼差しと斉藤さんの眼差しが、あるひとつの顔の表象をかけてぶつかり合う。その瞬間ほどわくわくするものはない。ひとつの世界ともうひとつの世界が、戦闘を開始するのだ。「誰が誰に似ているか」という雑談は、あるひとりの人間が世界をどのように眺め、どのように切り取っているかをあらわにするのである。
 同じことは、音楽の聴き方についても言える。

 盟友ブリアルと同じように匿名性を堅守し続けてきたゾンビーは、本人は隠しているつもりはないと言っているようだけれども、現代における顔の見えないアーティストの代表格である。顔を隠すという行為は一見、彼に向けられる多様な眼差しを拒絶するということのようにも思われる。だがそれは、ゾンビーという対象に対し固定的なたったひとつの見方をしてくれという要求では全くない。他の分野がそうであるように、音楽の分野も多かれ少なかれ視覚的なイメージによって支配されているが、彼が顔を隠すのは、見た目ではなくあくまでサウンドでその音楽を判断してほしいからだろう。ゾンビーというアーティストは、どこまでもそのサウンドをもって、唯一無二の世界の切り取り方を提示する。
 通算4作目、およそ3年ぶりとなるゾンビーのニュー・アルバムは、ダブステップのその後のさらにその後の地平を切り拓く。まず、冒頭の1曲目“Reflection”から2曲目“Burst”の流れが素晴らしい。もうこの出だしだけで本作が何か特別なものに憑依されていることがわかる。ベルのような上モノが美しい“I”や“Glass”といった中盤のトラックもただただ最高だとしか言いようがない。他のアーティストとコラボしたトラック群も面白い。バンシーとの共作“Fly 2”は吐息に幻惑されながらぶっ壊れたR&Bを鳴らし、10インチとして先行リリースされたブリアルとの共作“Sweetz”はゲットー・サウンドを取り入れつつエクスペリメンタリズムの荒野を走り抜け、ぼくがデリック・メイだと「誤聴」したダークスターとの共作“Quandary”は暗く薄汚れたダンスホールでバレアリックなステップを誘発し、ウィル・バンクヘッドが主宰する〈The Trilogy Tapes〉からのリリースで知られるリゼットとの共作“S.D.Y.F”はジャングルへの愛慕と呪詛を同時に響かせる。1曲1曲に発見があり、戦闘がある。
 ロンドンのワーキング・クラス出身の顔を持たぬアーティストが、サウンドによって切り取ってみせる世界──それはジャングル、グライム、ダブステップ、あるいはアンビエント、そのどれにも似ているようで、そのどれとも似ていない。間に合わなかったレイヴ・カルチャーへの憧憬もあっただろう。ダブステップに対するアンビヴァレントな思いもあっただろう。未だ鳴らされたことのないサウンドへの渇望もあっただろう。このアルバムでは、これまでのゾンビー、いまのゾンビー、そしてこれからのゾンビーが同時に「顔」を覗かせている。そしてもちろん、ゾンビーとは屍体のことだ。

https://youtu.be/YMi8pXOaR9M

 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。幽霊だから当然、一度は死んでいる。その幽霊の「顔」は、ブレグジットを経たいまのUKの「顔」とよく似ている。グライムからダーク・アンビエントまでを消化=昇華したこの亡霊のようなベースとシンセの狂騒は、奈落へと沈みゆくUKの姿そのものなんじゃないか。あるいはタイトルの『Ultra』が指し示しているのは、いまのUKのあまりに「極度な」状況なんじゃないか。このアルバムは、どこにも逃げ場のない世界で、それでもなんとか生き抜こうともがいている、どこにも属すことのできない者たちに、ひとつの「顔」を与えようとする。このアルバムは、2016年という時代のロンドン・アンダーグラウンド・シーンの意地だ。
 最初にデリック・メイのサウンドを連想したとき、もしかしたらぼくは、もともと顔を見せなかったデトロイトのシーンのことを考えていたのかもしれない。ご存じのように、いまのかれらにはしっかりとした顔がある。対してゾンビーは、いまだに顔を見せようとしない。それはたぶん彼が、顔がない方が「顔」を見せることができるということをよく知っているからだ。
 ぼくはこのアルバムを幽霊に似ていると思った。きみはこのアルバムを誰に似ていると思う?

小林拓音

Zamzam Sounds - ele-king

 ワールド・ミュージックの名作を再発する〈ミシシッピ・レコーズ〉や、アフリカ音楽の名門〈サヘル・サウンズ〉といったレーベルが拠点とするアメリカ北西部の都市ポートランド。多様で豊かな音楽的土壌を備えた同市で2012年から運営されている〈ザムザム・サウンズ〉は、ひとつのスタイルに捕らわれることなくダブの可能性を拡張してきた。その運営を手掛けるのはレーベルの前身〈BSIレコーズ〉の創立メンバーだったふたり、エズラ・エレクソンと彼の公私にわたるパートナーであるトレイシー・ハリソンだ。
 発足以来、〈ザムザム・サウンズ〉は7インチに特化したリリースを展開している。世界中から届けられるデモの中から、その製作者だけにしか成しえない個性を持ったものだけが選りすぐられ、ルーツ・レゲエ、ステッパーズ、ダブテクノ、ダブステップなどの少し斜め上に位置づけられるような異質で新鮮なサウンドが世に送り出されている。
 今回は、これまでに発表された40を超えるタイトルの中から、レーベルがカヴァーする領域の広さを感じ取れる5枚を選んだ。その多様な音楽スタイルもさることながら、ファインアートの学位を取得しているハリソンが手作業でシルクスクリーン・プリントを施すジャケット・デザインも同様に味わい深い。


RSD - World Hungry / Dub Pride (ZamZam Sounds)

開放感のあるステッパーズ“ワールド・ハングリー”と、エコーとリバーブによってさらなるうねりがグルーヴに加わる“ダブ・プライド”を収録。ロブ・スミス節炸裂のベースラインとブレイクビーツによるトラックは、まさに彼だけにしか成しえない個性に満ちている。

Deadbeat feat. Gregory Isaacs - Claudette (ZamZam Sounds)

以前からダンスホールとテクノを融合させたトラックを制作しているデッドビート。テクスチャーを豊かに加工したスネアや明瞭なミックス処理によって、これまでにない印象を生むダンスホールが実現している。このようなトラックをリリースするあたりにザムザム・サウンズらしさを感じる。

Beat Pharmacy - Beach Dub / Bowling Dub (ZamZam Sounds)

ダウンビートに乗せてダビーなエフェクトがセッションしているかのように絡み合う“ボーリング・ダブ”が面白い。近年のビート・ファーマシーは以前に増して特異なダブ・サウンドを探求するようになっている。

Compa - Shaka's Truth / Atha Dub (ZamZam Sounds)

ダブステップの総本山〈ディープ・メディ〉からもリリースしているコンパが超強力デジタル・ステッパーズをドロップ。ズシリと打ち込まれるキックと、擦り付けたように少し歪ませたハットによって堅牢なビートが構築され、フロアを熱く盛り上げる。

Hieronymus - Silk Road / Pound of Pepper (ZamZam Sounds)

ミニマルダブを制作していたころのキット・クレイトやポールがもっとルーツに接近していたら、こんなトラックになっていたのでは? と思わせられる多様な要素を含んだスローステッパーズ2曲を収録。エレクソンとハリソンの懐の深さがうかがえる1枚だ。

寺尾紗穂 - ele-king

 『青い夜のさよなら』から昨年の『楕円の夢』までしばらくまがあいたので、ときをおかず新作が出ると聞いたときは意外だった。『楕円の夢』にせよ『青い夜のさよなら』にせよ、その前の『愛の秘密』もそうだったけれども、寺尾紗穂のアルバムは聴く者の身を切るような鋭さがある一方で身にしみるやさしがある。ときに原発問題や貧困や格差を歌いながら、それらを観念にとどめず、暮らしと地つづきの場所に足を踏みしめた反動で飛躍する声とことばのひらめきをもっている。時事問題を道具立てにするのではなく、道具になりがちなそれをいろんな角度からためつすがめつする――、というかやはり「うた」なのだと思うのですね、ともってまわったことを言い出しかねないほど、寺尾紗穂の歌が説得的なのは彼女の歌を耳にされた方はよくご存じである。しかも近作では編曲や客演でも野心的な試みがなされていて、個々の歌の集まりとして以上にアルバムの作品としての印象がきわだっていた。ピアノを弾き語るシンガー・ソングライターのたたずまいをくずさずに、歌のつくる磁場がひきよせるひとたちとの関係は寺尾紗穂の音楽を実らせてゆくのを耳にしてきた私たちにこのアルバムはしかし、ここ数作とはちょっとことなる肌ざわりをもたらすかもしれない。
 というのも、『わたしの好きなわらべうた』と題したこのアルバムはタイトルどおり、日本各地に伝わる童歌を集めたもの。童歌を厳密に定義するのはいくらか紙幅がいるが、wikipediaにならって端的にいえば「こどもが遊びながら歌う、昔から伝えられ歌い継がれてきた歌」となる。作者不詳の伝承歌で民謡の一種であり、子どものころだれもが口ずさんだ「ちゃつぼ」「かごめかごめ」「とおりゃんせ」「ずいずいずっころばし」などの遊び歌、数え歌、子守歌などの総称であり、つまるところこのアルバムに寺尾の筆になる曲は1曲もない。というと、オリジナリティに欠けると早合点する方もおられるかもしれないし、この手のコンセプトにありがちな教条的な作品かもしれないとみがまえる方もいないともかぎらない。ところが『わたしの好きなわらべうた』はそのような心配をよそに飄々とゆたかである。歌とピアノ、ときにエレピを寺尾が担当し、『楕円の夢』にも参加した伊賀航やあだち麗三郎はじめ、歌島昌智や青葉市子や宮坂遼太郎らが客演した抑制的な作風は原曲のかたちを崩さず、いかに伝えるかに主眼を置きながらも、聴けば聴くほど、歌い手と演奏者の自由な解釈と発想がうかがえる仕上がりになっている。なかでも、多楽器奏者歌島昌智の活躍は特筆もので、スロバキアの羊飼いの縦笛「フヤラ」を吹き鳴らしたかと思えば、インドネシアのスリン、南米のチャスチャス、十七弦箏まで自在に操り、『わたしの好きなわらべうた』に滋味深い味わいを添えている。楽器のセレクトからうかがえる意図は、童歌というきわめてドメスティックな媒体にワールド・ミュージック的な音色を向き合わせる実験性にあるはずだが、新潟の長岡と小千谷に伝わる冒頭の「風の三郎」での歌島のフヤラが尺八を思わせるように、寺尾の狙いはおそらく異質なものの同居というより地理的な隔たりを超えた響きのつながりを聞かせることにある。地球の反対側の楽器なのにどこかなつかしい音色。その数々。
 「ノヴェンバー・ステップス」で尺八を吹いた横山勝也の師匠である海童道祖はかつて武満徹との対談で彼が望む音とは「竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音」だと述べた(立花隆『武満徹 音楽創造への旅』からの孫引き、p475)。「鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音」こそ「自然の音」であり尺八の極意はそこにある――などといわれると禅問答っぽいというかもろそのものだが、子どもが適当に孔を開けた物干し竿でもいち音の狂いもなく奏したといわれる海童道祖の楽音もノイズもない音楽観は武満のいう「音の河」とほとんど同じものであり、武満の雅楽への開眼に大きな影響を与えたが、一方で西洋音楽の作曲家である武満は東洋と西洋はたやすくいりまじらないといいつづけた。ここで武満の考えの細部に立ち入るのは、毎度長すぎるとお小言いただく拙稿をいたずらに長引かせるのでさしひかえるが、武満のフィールドである西洋音楽と大衆歌では形式と独創性にたいする態度がちがう。大衆の音楽は混淆を旨とし伝播の過程で姿を変える。寺尾紗穂は童歌をとおし歴史と地理の裏のひとびとの交易と親交を音楽で幻視する。「ねんねんねむの葉っぱ」のマリンバはバラフォンのようだし、「いか採り舟の歌」や「七草なつな」は日本語訛りのブルースである。図太いベースとピアノの左手は齋藤徹のユーラシアン・エコーズを彷彿させるし、ペンタトニックが人類のDNAに刻まれているのは、エチオピアの例をもちだすまでもない。
 というと、いかにも気宇壮大だが聴き心地は質朴で恬淡としている。歌詞のもたらす印象もあるだろう。「ごんごん」と吹く風や「ねんねん」と子どもをあやす母親、「こんこ」と降る雪やあられの呪文めいたくりかえしを基調に、寺尾紗穂は歌詞の一節をリレーするように歌で北陸、山陰、山陽、東海、東北、関東、関西をめぐり、われにかえったかのようなピアノ一本の弾き語りスタイルによる「ねんねぐゎせ」で『わたしの好きなわらべうた』は幕を引く。
 寺尾紗穂はこれまでも童歌を舞台にかけてきたが、『わたしの好きなわらべうた』をつくるにいたった経緯を「WEB本の雑誌」の連載に記している。それによれば、子どもをもち母になり、子どもたちにYouTubeでみせた「日本昔ばなし」の山姥の話に興味をそそられ、調べていくうちに小澤俊夫氏が主催する季刊誌「子どもと昔話」で徳之島の民謡「ねんねぐゎせ」に出会ったのだという。寺尾紗穂が文中で述べるとおり、小澤氏はあの小沢健二の父であり、オザケンの「うさぎ!」の連載でこの雑誌をご存じの方もおられよう。寺尾紗穂はこの本が採録した「ねんねぐゎせ」の譜面の主旋律にたいして左手(和声)のとりうる動きの多様さに表現欲を駆り立てられた。単純な旋律と繰り返し、ヤマトのひとには意味のとりにくいシマグチの歌詞とあいまって、「ねんねぐゎせ」はおそらく童歌に憑きものの呪術性を帯びていたのではないか。
 私は両親とも徳之島の産の島の人間だから「ねんねぐゎせ」はそれこそアーマの、あまり上等とはいえない歌声で記憶の基底部に眠っているがしかし私の記憶では「ねんねぐゎせ」の歌詞は『わたしが好きなわらべうた』のヴァージョンとは似ても似つかない。ためしにアーマに歌ってもらったら以下のようであった。

ユウナの木の下で
ゆれる風鈴 りんりらりん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

なくなくな なくなよ
あんまがちぃから ちぃぬまさ(母さんがいったら乳をのませるよ)
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 1行あけて下はアルバム収録ヴァージョン。ユウナの木は和名をオオハマボウといい、徳之島町の町木であるが、町のHPにも「徳之島の子守唄にも登場する」とあるので、公式にも現在は上段の歌詞が一般的であることを考えるとアルバム収録の歌詞はかなり古いものだと断定してよいだろう。これはあくまでも仮説だが、大正終わりごろから昭和初期にかけての新民謡ブームが「ねんねぐゎせ」の歌詞の変形におそらくは寄与したのではないか。新民謡とは演歌のご当地ソングにそのなごりをとどめる、土地土地のひとびとの愛郷心が高めんと、名勝旧跡、物産名産を歌詞に織り込んだ歌で、田端義夫の「島育ち」(昭和37年)ももとは在奄美の作曲家三界稔による戦前の新民謡である。バタヤンの復活からほどなく三沢あけみと小山田圭吾の父三原さと志が在籍したマヒナスターズとの歌唱による「島のブルース」(吉川静夫作詞、渡久地政信作・編曲)もヒットを飛ばし、昭和38年の紅白に両者はともに出演。にわかに島唄ブームとなっていた、とはいえ、これは古来から歌い継がれたシマ唄ではない。話がまたぞろ長くなって恐縮ですが、シマ唄のシマは島ではなくムラ、共同体の最小単位を指す、ヤクザがなわばりの意味でつかうシマにちかい。方言を意味する「シマグチ」のシマも同義。おなじ島でもシマどうし離れていると言い回しがちがってくる。
 寺尾紗穂が準拠した歌詞も、私は聴きとりがどのような契機でなされたのか存じあげないが、私のシマでは母を「アーマ」と呼ぶが、歌詞では「あんま」と詰まっていることを考えるとおなじシマではない。それをふまえ、訛音を補いつつ採録した歌詞を読むと、どうしても一箇所私の解釈とはちがうところがでてくる。
 「ねんねぐゎせ」は四連からなる歌詞だが、その四連目、つまり最終ヴァースは以下の歌詞である。

ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
あんまとわってんや なぁじるべん
ねんねぐゎせ ねんねぐゎせ
ねんねぐゎせよ

 2行目の歌詞を寺尾紗穂は「母さんとお前は実のない汁だね」とヤマト口に訳している。「なぁじる」の「なぁ」は「No」にあたることばでそのあとにつづくものがないという意味であり、「なぁじる」だと「具のない汁」だし、頭を意味する「うっかん」の頭に「なぁ」をつけた「なぁうっかん」となればアホとかバカの意で、私が子どものころは友だちのあいだではラップでいうところの「ニガ」のニュアンスでもちいていた。「YOなぁうっかん」といった具合である。それはいい。私はちょっと不思議に感じたのは、「わってんや」の解釈で、資料では「お母さんとお前」となっているが、「わってん」のように「わ」系列の主格は単数にせよ複数にせよ「私(たち)=IないしWe」を指すことが多く、「お前(You)」はふつう「やぁ」か尊称では「うぃ」となる。言葉尻をとらえたように思われたくはないが、ここが「お前」であるか「私」であるかは歌詞の視点に大きく影響する。では歌詞のなかの「私=わん」とはだれか。おそらく母が水汲みや畑仕事で不在のあいだ幼子の子守を任された年長の姉ないし兄だろう(とはいえ、子守は当時女の子の仕事だったから兄の線はまずない)。つまり歌詞は子守をたのまれた姉の視点であり、姉はさぼりたいから第二連で「わんがふらんち なくなよ(私がいないからって泣くんじゃないよ)」というのであり、「なきしゃむんぐゎどぅ なきゅりよ(泣く子は泣き虫の子だよ)」には親が子をさとすのではなく、「泣くな」と赤ん坊の二の腕をつねるような調子がこもっている。「なぁじるべん」の「べん」は限定の助詞だが、ここにも「なぁじるばっかだな」という不満を私は聴きとってしまう。そもそも赤ん坊は第一連で歌うように「あんまがちぃから ちぃぬまさ(これも「母さんがいったら」となっているが「母さんが来たら」のニュアンスにちかい。つまり「ちぃ」を「Go」ととるか「Come」ととるかということである)」わけだから、わざわざなぁじるを啜らなくともよい(から赤ん坊はいいよなという含みもあるだろう)。
 年端のいかない少女たちに視点を定めると唄は生活苦におしつぶされそうな悲哀を歌ったというより生活の苦しさの理由を理解しえない幼子たちの直感的なそれゆえに反論のしようのないが微笑ましくもある異議申し立てに聞こえてくる。生活はたしかに苦しい。ワンのアーマの時代には水道は引かれていたらしいが、祖父母の代では水汲みは暮らしのなかの大切な仕事だった。それでも、この島の連中の気性を身につまされている私なぞは、ツメに明かりを灯すような生活であっても、灯した火で汁でもゆがいて食うか、なぁじるだけどな、というほどの意思を感じるのである。
 徳之島の秋津には「やんきちしきばん」ということばがあった。「家の梁がうつるほど(薄い)おかゆ」のことだが、それほど貧しくとも、子はきちんと育てあげるという意味がある。これは根拠のない連想にすぎないが「なぁじる」とそのことばは引き合ってはいまいか。私にとって「なぁじる」は具はなくとも反骨の出汁が利いている。
 私が高田渡の「系図」を聴くたびに涙するのはそのような理由からかもしれない。そして寺尾紗穂は高田渡の境地にちかづきつつある数少ないシンガー・ソングライターだろうというと寺尾さんはかぶりをふるかもしれないが、古今東西津々浦々の歌をかきあつめ、あらたな息吹を吹きこむのは歌手としてなまなかなことではない。私は彼女の歌がなければ島の歌をあらためて考えることもなかった。シマ唄では、とくにすぐれた歌い手は唄者と呼ばれるが、唄者にもっとも求められるのは、そのひとの唄を聴いた者がみずからのシマに帰りたくなるような気持ちをかきたてるような唄であること。シマ口でその感情は「なつかし」というのだが、「なつかし」にはヤマト口の「懐かしい」以上の、唄にふれた瞬間おとずれる情緒の総体の意をそこにこめている。
 数学者の岡潔はエッセーで頻繁に「情緒」にふれているが、昭和39年に書いたタイトルもズバリ「情緒について」と題した一文で絵画や禅や俳句における日本的情緒を検討した著者は文章の後半で不意に以下のように述べている。

この前もこういうことがあった。前田さんがしばらくぶりで家に見えて、やがてピアノを弾いた。私は何とも知れずなつかしい気持になった。そしてなつかしさの情操は豊かな時空を内蔵しているものであることがよくわかった。最後に私は子供の時正しくこの曲で育てられたのだと思った。これは世にも美しい曲であって、西洋の古典を紫にたとえるならば瑠璃色だといいたい感じであって、しかも渾然として出来上がっている。何ですか、と聞くと「沖の永良部島の子守歌です」ということであった。この曲はバリエイションを添えて売り出されているということであるが、もとのものを弾いて欲しいと思う。真に日本的情緒の人ならばこの曲は必ず「なつかしい」と思う
 (岡潔著、森田真生編『数学する人生』新潮社 p131)

 寺尾紗穂の「WEB本の雑誌」の原稿にあるように、徳之島を民謡音階の南限とすると、その南隣の沖永良部は琉球音階の北限となる。これは学説的にもよくひきあいに出され、私としては単純にその説にあてはまらない例も多々あると思うのだが、それはさておき、岡潔がヤマトの音階と琉球音階の境界に日本的情緒を見出したのはなぜか。岡潔がなにを聴いて「なつかしい」と感じたかはいまとなっては知るよしもない。この原稿が上述のバタヤンや三沢あけみの歌がヒットしたまさにそのときに書かれたことも考慮しなければならないだろう。とはいえ、岡潔はそこに日本的な情緒を聴きとった。私は柳田や折口が南の島に日本の原風景をみたことは、官僚であり国学の出身であった者たちのことばとしておいそれと賛同しがたいところもある。そんなものを押しつけるなよと思いもする。そこに誇りを感じずとも歌は歌であり、学術の対象となりはてるより日々歌われたほうが歌もよろこぶでしょうに。
 島には「なつかし」のほかにも多義的なことばがいくつもある。「ねんねぐゎせ」のような子守歌が感じさせるのは日々の営みへの慈しみではないだろうか。私はまたしてもながながと書き連ねたが、作中の人称の問題など些末なことにすぎないのである。それよりも、そこにある日々がどのようなものであるかであり、歌がなにをリスナーのなかにたちあげるか。考えるより先に無条件につつみこみたくなる感情をシマ口では「かなし」という。漢字をあてるなら「愛(かな)し」。『わたしの好きなわらべうた』がおさめるのは、ときと場所を問わず現代の私たちにうったえかける「かなしゃる歌ぐゎ」の数々である。(了)

Brian Eno × Dentsu Lab Tokyo - ele-king

何もかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。 オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』浜本正文訳

 ブライアン・イーノ? ああ、なんか有名なじいさんね。アンビエントだっけ?──若いリスナーたちにとってイーノとは、もしかしたらその程度の存在なのかもしれない。しかし、実際の彼はそんなのんきなご隠居さんのイメージから最も遠いところにいる。2016年のブライアン・イーノは、たとえばアルカやOPNと同じように切実に、「いま」という時代のアクチュアリティを切り取ってみせようと奮闘しているアーティストのひとりである。いま彼が試みていることは、あるいはフランク・オーシャンが実践するような複合的な展開、あるいはビヨンセが体現するようなポリティカルなあり方、あるいはボウイの死のようなインパクト、そのどれにも引けを取らない強度を有している。
 4月末にリリースされたイーノの最新作『The Ship』は、歌とアンビエントを同居させるというかつてない音楽的実験を試みる一方で、そこに大胆に物語性をも導入するという、これまでの彼のどのアルバムにも似ていない野心的な作品であった。そしてそれはまた、タイタニック号の沈没および第一次世界大戦という出来事を「いま」という時代に接続しようとする、非常にポリティカルな作品でもあった。そのような複合性を具えた同作は、『クワイータス』誌が選ぶ2016年上半期のトップ100アルバムのなかで5位にランクインするなど、各所で高い評価を得ている。

 去る9月15日、『The Ship』のタイトル・トラックである "The Ship" の新たなミュージック・ヴィデオ「The Ship - A Generative Film」が公開された。
 とにかくまずはデスクトップのブラウザから、この特設サイトにアクセスしてみてほしい

トレーラー映像

 このヴィデオでは、イーノとDentsu Lab Tokyoとのコラボレイションによって開発された「機械知能(Machine Intelligence)」が、"The Ship" にあわせて自動的かつリアルタイムに、一度限りの映像を生成していく。あらかじめ20世紀の様々な歴史的出来事を学習させられた「機械知能」が、刻々と更新されていく世界中のトップ・ニュースを解釈し、それに類似した過去の出来事をピックアップして新たな映像を生み出していく、というのが本ヴィデオ作品の大まかな仕組みである。サイトへアクセスした瞬間に新しい映像が自動的に生成されるため、われわれはその時々でまったく異なる映像を視聴することになる。
 画面の左側では、ロイターやBBCの最新の記事がリアルタイムで更新されていく。画面の上部では、その記事の写真から「機械知能」が連想した過去の様々な写真が召喚され、ランダムに配置されていく。更新されるニュース写真とそれに基づいて召喚される過去の写真は、互いに何らかの関連性を有したものであるはずだが、必ずしも同じような出来事を記録したものであるとは限らない。要するに、「機械知能」が最新の写真を見て、それをあらかじめ記録された膨大なデータ=「記憶」と照合し、何か他のイメージを連想していくのである。したがって、そのプロセスには「誤認」の発生する余地がある。
 たとえば人は月を見たとき、そこに単に地球という惑星の衛星としての天体を認識するのではない。ある者はそこにウサギの影をみとめ、またある者はそこにカニの影をみとめる。それは、観測者が自らの所属する文化の体制に縛られて無意識的におこなってしまう、創造的な「誤認」である。では、はたして「機械知能」にもそのような「誤認」をおこなうことが可能なのか──それが本ヴィデオ作品のメイン・コンセプトである。

 このアイデアの一部は、すでに『The Ship』でも試みられていたものだ。表題曲 "The Ship" の二つ目のパートである "The Hour Is Thin" は、マルコフ連鎖ジェネレイターがタイタニック号の沈没や第一次世界大戦に関連する膨大な文書を素材にして自動的に生成したテクストを、俳優のピーター・セラフィノウィッツが読み上げていくというトラックであった。今回のヴィデオ作品はいわばその映像ヴァージョンであり、"The Hour Is Thin" で試みられていた偶然性の実験をさらに推し進めたものだと言えるだろう。
 イーノはこれまでも『77 Million Paintings』といった映像作品や、『Bloom』、『Trope』といったスマホ用アプリなどで、決して(あるいは、可能な限り)繰り返しの発生しない映像表現や音楽表現の探究を続けてきた。それは「ジェネレイティヴ(生成する)」と呼ばれる着想であるが、本ヴィデオ作品もそのような試行錯誤の径路に連なるものである。それは、ある何らかの制約のもとで能う限り偶然性や一回性を追求しようとする手法であり、あるいは、ある何らかの秩序のなかでいかにその秩序から逸脱するかを思考しようとする手法である。そのように「ジェネレイティヴ」な探究の最新の成果として公開された本フィルムは、何よりもまずブライアン・イーノという作家によって提出されたアート作品なのである。

 だが、このヴィデオ作品のポテンシャルはそこにとどまらない。本ヴィデオ作品が興味深いのは、「ジェネレイティヴ」という技術的な手法が、世界の報道記事とリアルタイムで関連付けられているというところである。つまりこのヴィデオは、極めて政治的な作品でもあるのだ。たったいま発生した出来事も実はすでに過去に起こったことの繰り返しなのではないか、いや、完全に同じ出来事が生起することなどありえないのだから、仮に繰り返しのように思われる出来事が起こったのだとしたらそれはあくまで「誤認」によって恣意的に過去の出来事が捏造されたにすぎない、いや、しかし「誤認」が発生するということは少なくとも過去の出来事と現在の出来事との間に何らかの類似点が存在するということではないか、いや、……。
 これは、まさに『The Ship』というアルバムが喚起しようとしていたことである。本ヴィデオでは「機械知能」による「誤認」を通して、たったいま人間がおこなっていることとかつて人間がおこなったこととの間に、強制的に回路が繋がれる。そのサンプルのひとつが、『The Ship』ではタイタニック号の沈没と第一次世界大戦であったわけだ。それに加え、一度として同じ画面が立ち上がることはなく、常に異なる映像が紡ぎ出されていくという趣向も、『The Ship』がかけがえのない「個性」の亡骸を拾い集めようとしていたことと呼応している。
 本ヴィデオ作品は、一度CDやヴァイナルという形に固定されてしまった『The Ship』を、再び偶然性や一回性の荒波のなかへと解放する作品なのである。

 さらにこのフィルムが興味深いのは、そのように「ジェネレイティヴ」な映像が、われわれを音楽へと立ち返らせる契機をも与えてくれる点だろう。次々と生成されてゆく映像に目を奪われていたわれわれは、しばらく時間が経った後に、ふとそこで音楽が鳴っていたことに気がつく。われわれが映像を見続け、「これは何の写真だろう?」、「これは最新のニュースとは何も関係がないのではないか?」などと思考している間、その背後ではずっと "The Ship" が鳴り続けていたのである。積極的に聴かれることを目的とせず、周囲の環境(この場合は、デスクトップの画面)への注意を促す──これは、まさにアンビエントの機能そのものではないか。

 このフィルムにはあまりにも多くのテーマが組み込まれている。テクノロジーの問題、アートの問題、音楽の問題、政治や社会、歴史の問題。このヴィデオ作品を通してわれわれは、それらの問題について「いま」という時間のなかで考えざるをえない。
 正直、『The Ship』という作品をここまで発展させてくるとは思っていなかった。イーノの探究は衰えるどころか、ますますその先端を尖らせている。今年われわれはボウイというスターを失ったが、まだわれわれはイーノという知性を失っていない。われわれはそのことに感謝しなればならない。(小林拓音)

BRIAN ENO

Dentsu Lab Tokyoとのコラボレーションが生んだ
「機械知能」が生成するミュージックビデオ
「The Ship - A Generative Film」を公開!
制作の裏側を紐解いたインタビュー記事も公開!

人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)との間を行きつ戻りつするものらしい:我々の増加し続けるパワーから生じるうぬぼれと、我々は常に、そしてますます脅威にさらされているというパラノイアとは対照的だ。得意の絶頂にありながら、我々は再びそこから立ち戻らなければならないと悟らされるわけだ…自分たちに値する以上の、あるいは擁護しきれないほど多大な力を手にしていることは我々も承知しているし、だからこそ不安になってしまう。どこかの誰か、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ。パラノイアは防御姿勢に繫がるものだし、そうやって我々はみんな、遂にはタコツボにおのおの立てこもりながら泥地越しにお互いと向き合い対抗し合うことになる。
- ブライアン・イーノ

アンビエントの巨匠、ブライアン・イーノが、最新アルバム『The Ship』のコンセプトでもあるこのステートメントを出発点に、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組む制作チーム「Dentsu Lab Tokyo」(電通ラボ東京)とともに、人工知能(AI)の可能性を追求する先鋭的なプロジェクトとして発足。最新楽曲「The Ship」に合わせて、映像が自動的かつリアルタイムに生成されるミュージックビデオを本プロジェクトの特設サイト上に公開された。

BRIAN ENO’S THE SHIP - A GENERATIVE FILM
https://theship.ai/

*特設サイトの視聴環境
携帯端末向けには最適化されておりませんので、ご覧いただくためには、下記パソコン環境でのブラウザーを推奨します。
Windows >>> Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)
Macintosh >>> Safari 5.0以降、Google Chrome(最新版)、Mozilla Firefox(最新版)

トレーラー映像はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=9yOFIStVuRI

本プロジェクトは、AIを「人間の知能」と対比し、その違いを際立たせるために「機械知能」(Machine Intelligence:MI)と名付け、機械が人間のようなクリエーティビティーを発揮できるかを模索するものとして発足。人類共有の外部記憶ともいえるインターネットから、20世紀以降のエポックメーキングな出来事を記憶として大量に学習させた機械知能を構築し、世界的な報道機関が運営するニュースサイトのトップニュースを見て、記憶と照らし合わせながら類似する事象を解釈し、どのような映像を生み出すのかを追求したプロジェクトである。

特設サイトにおいては、アクセスした瞬間に映像が生成されるため、来訪者ごとに視聴できるミュージックビデオが異なり、訪れる度に唯一無二の作品として、楽曲が持つ世界観とともに人々の感性を刺激し続ける。

またWIRED.jpにて制作の裏側を紐解いたインタビュー記事が公開中。
https://wired.jp/special/2016/the-ship/

The Shipについて
もともとは3Dレコーディング技術を使った実験から創案され、相互に連結したふたつのパートから成り立つブライアン・イーノ最新アルバム。美しい歌、ミニマリズム、フィジカルなエレクトロニクス、すべてを知り尽くした書き手が綴る物語、そして技術面での新機軸といった数々の要素を、イーノはひとつの映画的な組曲へと見事に纏め上げ、キャリア史上最もポリティカルな作品にして、過去の偉大な名盤たちのどれとも似つかない傑作である。ボーナストラック「Away」が追加収録される国内盤CDは、高音質SHM-CDを採用し、ブライアン・イーノによるアートプリント4枚が封入された特殊パッケージ仕様の初回生産限定コレクターズ・エディションと、紙ジャケット仕様の通常盤の2フォーマットとなり、いずれもブックレットと解説書が封入される。

Dentsu Lab Tokyoについて
新しいクリエーションとソリューションの場であると同時に、研究・企画・開発が一体となった“創りながら考えるチーム”でもあるDentsu Lab Tokyoは、2015年10月1日に始動。これまでの広告会社のアプローチとは全く違う、テクノロジー起点の新しい表現開発に取り組んでいる。
キーワードはオープンイノベーション。電通社内のみならず、社外の提携アーティストやテクノロジストとも協働しながら、広告領域にはとどまらない分野のクリエーションとソリューションを手掛ける。

https://www.beatink.com/Labels/Warp-Records/Brian-Eno/BRC-505/


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