「Nothing」と一致するもの

Blood Orange - ele-king

 このアルバムに収録された「撃たないで!」と叫ぶ声を何度か聴いた数日後、バトンルージュで黒人男性アルトン・スターリングが警官に銃殺されたニュースを聞いた。そしてそのすぐ後にはダラスの銃撃事件……。ブラッド・オレンジにとってBlack Lives Matterを象徴する一曲と言えば、昨年の7月に発表され、「肌」をモチーフにした11分にも及ぶ力作“ドゥ・ユー・シー・マイ・スキン・スルー・ザ・フレームス?”だが、それから約1年経ってもアメリカではひとが死に続けている。銃によって、そして人種の問題で。だから本作『フリータウン・サウンド』も、ケンドリック・ラマー『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』のように、ディアンジェロ『ブラック・メサイア』のように、あるいはビヨンセ『レモネード』のように……ブラック・カルチャーにまつわる時代を象徴するアルバムになってしまった。そしてここからは、とても甘い愛の歌が聞こえる。

 『フリータウン・サウンド』のフリータウンとは、シエラレオネ共和国の首都であり、現在ブラッド・オレンジと名乗るデヴ・ハインズの父の出身地である。ハインズは英国で移民の息子として育ち、あるときはニュー・レイヴ期直前のダンス・パンク・バンドのメンバーであり(テスト・アイシクルズ)、あるときはフォーク・サウンドに手を出していたが(ライトスピード・チャンピオン)、ニューヨークに居を移しブラッド・オレンジとしてR&Bに集中していくことになる。存在としても音楽的にも流浪であり続けたハインズは、自らのアイデンティティをその自由の街に見出した。であるから、自然と「自分はどこから来たのか?」というルーツの問題に取り組むこととなり、前作『キューピッド・デラックス』では母の出身地であるギニアに赴いていたが、本作でもそのテーマを深めようとしている。根本的にはパーソナルなアルバムである。が、そうして西アフリカからの移民であった父と母のことを考えたときに、現在の隣人であり友人であるアフリカン・アメリカンへのシンパシーを覚えるようになったのだろう。
 アシュリー・ヘイズがミッシー・エリオットに捧げる詩の朗読から始まるこのアルバムは、おもに3つの文化によって支えられている。まずはブラック・カルチャー、彼を育んだクィア・カルチャー、そしてフェミニズムだ。“オーガスティン”(アウグスティヌス。ある意味でアフリカ移民であり、ボブ・ディランの歌のモチーフでもある)の瑞々しく感傷的なヴィデオを見るとそれらが彼のなかでどこまでも溶け合っていることがわかる。すなわち、マイノリティであることはハインズにとって最大のアイデンティティであり、そもそもはアフリカン・アメリカンでもなく、ゲイでもなく、女でもない彼こそが、それらを誠実な共感によってここで繋ぎとめようとしているのだ。それはたとえばジャネール・モネイのような存在と緩やかに共振していると言えるかもしれない。ドキュメンタリー映画のサンプルやスポークン・ワードを差しこむなどしつつ、ブラック・カルチャーの多層性を浮かび上がらせんとする挑戦が見て取れる。

 けれども、たとえば2012年に自警団員にアフリカン・アメリカンの少年トレイボン・マーティンが射殺された事件に言及しているという“ハンズ・アップ”にしても、それはとても優しくて聴いているととろけそうなスウィートなR&Bとしてここに出現している。とびきり感傷的な。前作からの80年代R&Bという基本路線は変わらないものの、よりパーカッシヴに、よりソウルフルに、アレンジはより煌びやかになっている。エンプレス・オブことロレリー・ロドリゲスがコケティッシュな歌声を聞かせるバウンシーな“ベスト・オブ”。ズリ・マーリーが切なげに歌うジャジーなピアノ・バラッド“ラヴ・ヤ”。80年代風のシンセ・ファンクでクールな声をデボラ・ハリーが響かせる“E.V.P.”。カーリー・レイ・ジェプセンが囁くような発話を披露するシンセ・ポップの官能“ベター・ザン・ミー”。様々な女たちが入れ替わり立ち替わり登場し、このフェミニンな世界を作り上げている。プロデューサーでありながら、ダンサーたるハインズはその真ん中で歌って踊る。これが、僕がいま存在するストリートだとでも言わんばかりだ。
 ストリート……わたしたちがニューヨークを想像するときにたぶん思い描くであろう雑多な人間が交差する街角の風景が、このアルバムからは浮かび上がってくるようだ。ほかの街ではマイノリティとして疎外されてきた者たちの集まる場としてのストリート、そこではリズムに任せて誰もが踊っている。ジャズとファンクとヒップホップ、それらを緩やかに繋ぎとめるラヴ・ソングとしてのR&B。前作に比べて1曲1曲が断片的で、その分風景が次々に変わっていくような鮮やかさと動きがこのアルバムにはある。シリアスなテーマを持ちながらも、音の足取りが重くなる瞬間は一度もない。

 荒れ果てる時代に愛という言葉こそ虚しいという声もある。だからこそ愛を訴えることが必要なんだという意見もある。その両方に引っ張られる僕はだから、このアルバムの“ラヴ・ヤ”を聴く。「さあ、僕にきみを愛させて」……そこではそう繰り返される。何度も何度も。僕はある映画の「愛はあるのにそのはけ口がないんだ」という台詞をふと思い出すが、そんなに悲しいことはない。『フリータウン・サウンド』は、デヴ・ハインズが自身の出自をゆっくりと辿りつつ、いま起こっている悲劇を断片的に挿入し、しかしどこまでもひととひとと間に沸き起こる感情について歌うことで、分断された社会に愛することを思い出させようとするアルバムだ。それは逆説的に、いまの引き裂かれた状況を示しているのかもしれない。けれども、ここではたしかにたくさんの人間の息づかいが交わされている……それこそがわたしたちの喜びだと示すかのように。

 生まれて初めて、棄権しようと思った。都知事選のことだ。毎日失望が募る。
 されど都知事選。私は東京が好き。なんてぼーっと思う。で、あれ、私はなんで東京が好きなんだっけ? などと考え始めて思い出したことがある。
 都立高校の入学式のこと。まだ学校群制度が採用されていて、数校がグループとなった「群」を受験して、その中から抽選で合格する学校が決まるのだが、私は寄りによって、家からいちばん遠い学校に当たり、入学式の朝になっても高校進学はちっとも心弾む出来事ではなかったのだった。
 その入学式は、この10数年話題になってきた「荒れる成人式」なんてものではなかった。入学式なのに、新入生の登校前に数百人の上級生が講堂に既にいて、入場する新入生は「おめでとう!」の歓声とともに花吹雪で迎えられるのだ。さすが高校だなあなどとあっけにとられていうちに式次第は進み、校長が登壇する。すると、上級生たちは一段と盛り上がり、歓声や口笛は増し、紙テープが飛び交い始める。しわくちゃな顔の校長はその騒ぎが収まるのをニコニコと待ち、一通りの投げ物が落ち着くと、静かに話し始めた。詳しくは覚えていないが、その中にこんなくだりがあった──「君たちは今日から高校生です。この学校は東京都の税金で運営されています。君たち1人1人に、1年で90万円の税金が使われるのです。これは東京都の大人たちが、東京都の子供たちである君たちを育てるということです」
 15歳の私はなんだか分からないけれど、この話にとても感動したのだった。感動というか、なんだか自分が社会全体に歓迎されていると感じたのだ。金食い虫の厄介者としてではなく、「将来は恩返しを」などという交換条件もなく、ただ見知らぬ大人たちが「育てたい」とお金を出してくれる存在のように、先生は話してくれたのだ。電車とバスを使って通う、もう義務教育ではない高校生になった第1日目に、私は、上級生の紙吹雪ウェルカムだけでなく、東京都という広い世界の大人たちに歓迎してもらっていると感じられたのだ。そして、この学校の入学式にこんなにたくさんの上級生が勝手に出席し、校長の登壇に合わせて騒ぐ理由がよくわかった。みんなこの先生を愛していたのだ。
 この学校は、都立高校の中でも最も「自由な」学校だった。生徒手帳に記載されている校則はふたつ。その1、登校時には学校のバッジをつけること。そしてもうひとつが、校内では上履きを履くこと。他には何もない。服装はもちろん自由だし、髪型や化粧への干渉もない。1年の夏休み明けはすごいことになった。特に女子生徒の化粧やパーマ、服装もすごい。それでも教師たちは何も言わない。けれども二ヶ月も経つと、化粧が上達する者と飽きる者に分かれ、それなりに落ち着いてくる。(ちなみにそこでは、セーラー服は最もエロティックなコスチュームだったよ。)バイクで通う生徒もいた。遠足や修学旅行の行き先は生徒たちが決める。朝礼のようなものはなく、文化祭や体育祭への参加も自由。私はこの学校の校歌を知らない。入学式や卒業式でしか聞いたことがないから。それでも私はこの学校を懐かしく思い出す。時には、自慢気に人に話したりもする。
 しかしそれから時は過ぎ、1999年、国会は国旗国歌法を可決。そして石原慎太郎都政下、式典での国歌斉唱を拒んだ都立高校の教師たちが処分を受ける時代が始まった。あの「自由」な学校でもそりゃあひどいことがたくさん起きていた。さらに都立の養護学校で、先生たちが苦心して考案した、知的障害児たちへの性教育が都議会議員らによって破壊され、難関と言われる都立の中高一貫校では神話と歴史を混同した教科書が使われるようになった。

 もちろん30数年前の日本社会や教育がそんなにいいものってわけじゃなかったことも、そりゃあよく覚えてるよ。性差別にしても他の差別やハラスメントなどにしても、いろいろ考えたら今の方がずっといい。「自由」が何もかもを解決はしないことだって今では私も知っている。だけど、少なくとも高校生の私たちは、何をするにも自由の意味を考えることができていた。少なくともその高校の大人たちにはギリギリまでそれに口を出さずに見守る度量があった。私は、そこで、自由を信じるようになった。自由の途方もなさや自由がもたらす賢さを知った。失敗をも見守られる機会があれば、それを青年たちは学べると知ったのだ。

 思い出話はこのくらいにしよう。ともあれ今年の都知事選は左派リベラル層を失望させている。ようやく実現した「野党統一候補」には東京をどんな都市にしたいかというヴィジョンもプランも見えない。年齢や健康状態、引っ張り出されるスキャンダルよりも何よりも、彼に都政への夢や志があるのかと、幻滅は広がり、投票に行く気さえ失われていく選挙運動の終盤が始まった。
 とはいえ、自民党推薦候補や日本会議系候補に投票する気もしない。ここは鼻をつまんで息を止めてでも野党統候補に投票すべきなのか? かつて青島幸男に投票した汚点を省みて、私はまだ悩んでいる。
 いや、それ以前に、鳥越俊太郎、小池百合子、増田寛也という主要三候補の主張にはほとんど対立がないのはいったいどうしたことなのか? 主張する“ヴィジョン”が見えないのは鳥越俊太郎だけではない。
 
 そこで、3人のホームページで貧困に対する政策を探してみた。すると意外なことに、最も具体的で充実しているのは増田寛也だ。「子どもへの学習支援や食事の提供などを行う場所を創設する」「ひとり親世帯向け職業訓練の充実や保育料の無償化」とある。まあもともと健康保険や年金など、日本の福祉事業を作ってきたのは自民党政権なのだ。問題は、福祉政策の半分を担ってきた公共事業などでの利権が固定しすぎてきたことや、このところ、福祉各方面の切り捨てが加速していること、日本会議の影響力が強まるにつれなのか、国家主義や家族主義的な主張が台頭していることも、左派やリベラルには耐え難いことだろう。弱体化してきた町会や商店会など自民党支持基盤の再利用による地元共同体の強化を訴える小池百合子の政策にはそうした兆しがはっきりと見える。仕事のある女性や男性、すでに子供のいる人(か、その予定者)、“働ける”高齢者・障害者への施策はふんだんにあるが、「貧困」の二文字がそもそも1度もでてこない彼女のホームページに書かれた政策は、そういう意味では非常に一貫している。つまり、彼女の目には自立した個々の人間はいて、地縁が結ぶ古いタイプの共同体はあっても、そこからはみ出る人びとも含めて構成される「社会」という視点が一切ないのだ。まるで遅れてきたマーガレット・サッチャーそのものだ。
 
 そしてさて、“問題の”鳥越俊太郎。ホームページには「すべての子どもに学びの場を提供」「貧困・格差の是正に向けて若者への投資を増やす」「介護職の処遇改善」「特別養護老人ホームの確保」とあるが、とても抽象的で、方法も目標も見えてこない。
 東京のような大都市には、当然さまざまな土地から人がやってくる。農地も工場も持たない人や家族もいない人たちは、一寸法師の昔から、身一つで都市を目指してきた。都市にはそうした人たちが今日から暮らせる安価な宿があり、即日得られる賃仕事が転がっている。そこで拠点を得、なにかの仕事にありつけば、やがて出会いがあり、家族を作って暮らしていける。そういうたくさんの人生を丸ごと受け入れるのが、本来は都市という場所だ。今の東京は、そうした都市の機能をどんどん失っていることが問題なのだと私は思う。(「改革」と候補たちはいうが、私には彼らが、今の東京の何が問題で、どう改革していこうとしているのかが見えないのだが)
 たくさんの人がやってくれば、成功する人もいるし、しない人もいる。しない人の方がはるかに多い。そのような人たちのたくさんの多様な暮らしが存在することこそが、その場所を「都市にする」のだ。小池百合子の政策に一切出てこないその人たちがどう暮らせるか、が、いまの自民党政治に対抗する野党の主張のしどころではないのかと私は思う。つまり「社会」がなければ生きていけない人びとの問題だ。古い共同体式の抑圧なしに、その人たちの個人としての自由を守り、なおかつどんな「社会」を作っていくのかが、東京都には必要なヴィジョンなのではないんだろうか? 日本の左派は、ある意味ではソーシャルな政策を果たしてきた自民党に対抗するために、「リベラル」を押し出しすぎてしまったのだ、たぶん。鳥越俊太郎の主張がかくも抽象的で曖昧なのは、ソーシャルに対して臆病すぎるからじゃないか? 
 念のためだけれど、なぜ成功しなかった人びとを都市が養うことが重要なのか? それは例えばカナダの難民政策を考えてみるとわかる。シリア難民が最も行きたがるカナダは、なぜあんなにも難民に寛容なのか? もちろん人道主義もあるだろう。でもそれよりも重要なのは、多くの難民の中には知識人も金持ちも技術者もたくさんいるということを、彼らは知っているのだ。数千の貧しい難民を受け入れてなお有り余るほどに、社会を豊かにしてくれる人材が「来てくれる」のだ。そういう人たちに来てもらうには、門を開いておくしか方法がない。寛容な難民政策にはそんな打算だってあるんだ。
 東京も同じことだ。国内だけでなく、世界中から優秀な人、愉快な人たちに来て欲しいと望むなら、彼らがもしも失敗しても寛容に迎え入れてくれる街だと分かるように、門を開け続けなければならない。そしてそうした人たちが目指さないような場所は都市とは言えないのです。

Whitney - ele-king

 レイドバックしているのに「棘」がある。 ホイットニーのファースト・アルバム『ライト・アポン・ザ・レイク』を最初に聴いたとき、そう思った。ホイットニーといっても人名ではなくバンド名である。しかもその音楽性は、ザ・バンドのようだ、と書くと洒落か冗談みたいだが、たしかにそうなのだ。しかし真に重要な点は、ザ・バンド的70年代風のフォークロックなのにまったく懐古趣味的ではないという点にある。彼らの演奏や音楽には「いま」の空気が、あふれている。そしてそれは2016年現在の「いま」であって、最先端のモードであるとかないとかなどは関係がない。「いま」はいつの時代でも「いま」である。ついでにいえば、彼らが元スミス・ウエスタンズのドラマー、ジュリアン・エールリヒとギタリスト、マックス・カラセックであることも(それほど)は関係ない(と、あえていってしまいたい)。ホイットニーは、2016年の音楽であり、この夏に鳴り響くべき、いまのフォーク・ロックだ。じじつ、彼らの音楽にはそんな力がある。未聴の方は、まずは“ゴールデン・デイズ”を聴いてほしい。

 曲の、というよりサウンドに不思議な棘を感じないだろうか。70年代的な曲調・演奏なのにリラクシンする直前のなにか。この「棘」と「いま」を、「若さ」という言葉に置きかえてもいいだろう。が、しかし、それは同時代的な現象でしかない「若者」ではない。むしろ時代や歴史を超えても存在する普遍的な「若さ」に思える。そして「若さ」とは、たいてい傷を付けられているものだ。その「若さ」を、より音楽に近づけていえば、たとえばペイル・ファウンテンズなどの80年代ネオ・アコースティックな音楽のような「若さ」ともいえるだろう。かつて80年代のペイルはブリューゲルホーンとゼブンスのコードにのせてバート・バカラック調の曲を歌っていた。2016年のホイットニーはザ・バンドやコリン・ブランストーンのようになろうとしているのだろうか。

 むろん、だれもが知っているようにネオアコ的な「若さ」には、不思議な「老成」もつきまとうものだ。それは歴史が終わったという諦念によるものだろう。しかし、ホイットニーの彼らには「終わった歴史を生きている」という諦念は希薄に思える。現在は2016年なのであって、1983年ではない。1996年でもない。2004年でもない。進化・停滞するリニアな歴史はとうの昔に終焉をむかえた。フラット/平面的な時間軸に置かれた歴史をわれわれは生きはじめているのだ(80年代リヴァイヴァルが終わって次は90年代の番かと思いきや、1971年と1978年が混在し、1983年と1996年が同時にきている感覚。なぜか。たぶん、20世紀が終わったからだ。フォルダ的な、反復的な、リヴァイヴァルが無効になった)。

 では彼らの「棘」はどこにあるのか。音楽的な部分でいえば、肝はジュリアンのドラムにある。全体的にリラクシンな演奏だが、ドラムだけがやや前のめりで、まるで楔を打ち込むような演奏をしているからだ。“ゴールデン・デイズ”を聴けばわかるが、レイドバックした演奏の中に、まるで棘のように打ち込まれるドラムによって、ホイットニーは80年代ネオアコでも90年代のギタポでも00年代のインディでもない「2016年のいま」の音楽になっている。このドラムの「硬さ」が、70年代的レイドバック感覚の音楽に、ヒリヒリとした現在性を注入しているわけだ。ドラムが音楽に同時代性の輪郭線を与えている、とでもいうべきかもしれない。この「若さ」特有のヒリヒリした感覚、つまりは「棘」と「傷」が、もっとも全面化している曲が唯一のインスト曲“レッド・ムーン”ではないかと思う。この前のめりのドラムと、つたないジャズのようなホーンが胸をうつ。

 つぎに重要なエレメントはエレピの響きである。アルバム1曲めはエレピのイントロによる“ノー・ウーマン”ではじまるのだが、このコード感に、かすかに70年代中期のAOR/ディスコ感覚を聴きとることができるはず(彼らの世代でいえばダフトパンクの『ランダム・アクセス・メモリー』の存在が大きいのかもしれない)。その意味で、エレピが全面にフィーチャーされている“ポリー”の「ダンス・ミュージック感」は重要だ。この曲の存在によって、本作は70年代初期と後期をつなげているのだ。

 そしてなにより重要なのは、ドラマーであるジュリアンがヴォーカルをつとめている点にある。ライヴ映像を見れば一目瞭然だが、ドラムを中心としたステージ・フォーメーションとなっている。ザ・バンドやYMOなどの系譜を置くことは簡単だが(思わず高橋幸宏氏ならば本作をどう聴いたのかと知りたくなってしまったほどだ)、私はむしろヴォーカリストを中心とするロックバンドの形式に対して、カジュアルにノーを突き付けるパンク感覚ではないかと思った。そう、棘とは傷と反抗である。レイドバックした演奏に込められた傷と棘。だからこそ、アルバムのラスト曲にして、多幸感にあふれたカントリー調の“フォロウ”が胸に深く突き刺さるのだ。

 むろん、こんな理屈など彼らの音楽を前にするとどうでもよくなる。マックスのギターに、ジュリアンのコリン・ブランストーンを思わせる声と「棘」のようなジュリアンのドラム。そして、瀟洒なエレピ、ネオアコの記憶を想起するホーンなどなど、すべてが奇跡のように、「いま」の「インディ・ロック」として鳴っているからだ。ただ、この夏に聴けばいい。棘と反抗と、ポップ・ミュージックが醸す美しい瞬間のために。などと思って、ジャケに目をむけると美しい赤い薔薇のアートワークであった。薔薇と棘。ああ、まさに、と深く納得するほかはない。

YOUNG JUJU - ele-king

キャンディタウンの勢いは止まらない。今年2月にデビュー・アルバム『Soul Long』をリリースしたIOに引き続き、キャンディタウンの中心メンバーのひとりであり、BCDMGにも名を連ねるラッパー、ヤング・ジュジュがデビュー・アルバムのリリースを決定した。
キャンディタウンのメジャー・デビューも決定し、破竹の勢いを見せる彼らであるが、リーボックとのコラボレーションで話題となった“Get Light”において、フューチャーされていたヤング・ジュジュは、今もっとも注目されているラッパーの一人といっても過言ではないだろう。
先日リリースされた先行曲、“The Way”ではプロデュースにMASS-HOLE を起用し話題となったが、今回のアルバムには、IOやドニー・ジョイントといったキャンディタウン勢の参加はもちろん、フラッシュバックスのFEBB、jjjの参加も予定されているとのこと。日本語ラップ・シーンの注目株たちの邂逅をバックに、ヤング・ジュジュはいったいどのようなアルバムを生み出すのだろうか。激シブ、ドープな最新型クラシックを期待!


 友だちが最近、人生にちょっと疲れてインドに行って、見違えるほど変わって帰って来た。1ヶ月程度の旅行だったし、その間に運命的な何かがあった訳ではないから、本人はその自分の変化に、まだ気付いてはいない。

 「一人旅」というものに、若い頃は人生の革命が起こることを期待する。僕もそうだったし、今もその興奮を旅の前に抱くこともある。だけど、冷静になってこれまで関わって来た周りの人を見ると、旅の後に彼ほどの明らかな変化、というよりは変異を果たした友人を思い出すことができない。

 ウイルスと細菌は全く違うもので、大きさも1000倍ぐらい違うし、そもそもウイルスは「生物」ではない。細菌は細胞壁に囲われた身体を持っていて、その内部にいろいろな役割を与えられている器官を持っている。栄養さえあれば自己増殖もエネルギー産生もできるから「生物」とされる。それに対してウイルスは、生物の細胞ひとつひとつに含まれる体全体の設計図みたいなDNAやその情報運搬役のRNAのような遺伝子のみが、カプシドという殻に包まれた状態。だからウイルスは自己増殖ができない。必ず感染する相手(宿主)の細胞の機能が必要で、その中に入り込み、その宿主の設計図の中に自分を埋め込んで、宿主の細胞に自分を大量生産してもらう。自分だけでは子孫はおろかエネルギーさえ作れないので「非生物」とされている。つまり、ウイルスは生物の残骸の一部みたいなものと言えばイメージがつくかもしれない。

 ちなみに抗生物質というのは細胞壁を壊す薬だから、細菌にしか効かない。普通の人がかかる「風邪」の8割以上の原因がウイルスだとわかってから、人類の抗生物質の使用量は大きく減った。とはいえ、見切り発進も未だに多い。

 細胞の突然変異が起こる確率は、10万~100万回に1回の細胞分裂で起こる。その突然変異の細胞が様々なレベルで自然淘汰を受けて、その環境に適合した性質が残されて行くのが進化の原動力とされる。僕らの遺伝子は、絶えず宇宙からくる放射能(宇宙線)に晒され、日常生活で摂取する様々な物質によって傷つけられている。そういった遺伝子を変化させる原動力のひとつとして、ウイルスがある。地球史上、ウイルスは様々な生物の内部に入り込み、「他力」によって自己複製をしながら変化してきた。インフルエンザウイルスが毎年流行るのは、その変異があまりに早く、人間がその免疫を獲得しにくいからで、一度感染したら、治る頃にはすでに違うウイルスに変異していると言われている。時間の長短はあれ、無数のウイルスたちが、地球史上の中でかなり長い間、こうした営みを繰り返して、常に生物の突然変異と進化の礎を築いてきた。

 寒いと風邪をひく。というのは当たり前のことのように共有されていて、風邪っていうのは、外部からのウイルスや細菌の侵入がなければひかないものだと一般的には考えられている。だけど、僕は本当にそうなんだろうかと疑問を持っている。もちろんインフルエンザのようにそういう時もあるだろうけど、寝ていて体が冷えたその時に、いつもたまたま風邪の原因ウイルスとの接触があるというのは考えにくい。

 漢方治療をしていると、「気」を増幅させる「補気剤」の内服で、毎月風邪をひいていた人が、1年間一度も風邪をひかなかった。なんていうことが当たり前のようにある。おそらく「風邪」というものの多くは、常に風邪症状を生じさせるなんらかのウイルスが体内にいて、環境が変わるたびにそのバランスが崩れることによって症状が現れている。

 そもそも「風邪」という定義もすごく曖昧で、頭痛は「風邪」なのか、食欲低下は「風邪」なのか、抑うつ気分は風邪で不安は「風邪」じゃないのか。僕は極端な話、そういう症状のひとつひとつには体内のウイルスが相当な部分関与しているんだろうと思っている。

 僕は微生物学免疫学教室と東洋医学科に在籍していた時期があった。その二つの科の教授が同じ人で、エイズウイルス関連でNatureという科学雑誌にも何度か論文が掲載されている。僕の今の医学観はその人の影響を強く受けている。その教授が4月5月の診察になると、患者さんの舌や脈を診ながら「春は草花や虫が動き出すように、体内のウイルスも動き出すんだ」と言っていた。

 これが科学的に正しいかどうかはわからない。だけど、B型肝炎やC型肝炎のように、体内に慢性的に持続感染しているウイルスを持っている人は、4月5月にそれまで安定していた体調が悪くなることが多い。それに限らず、毎年同じ季節に体調が悪くなるという人は、まだ発見されていない何らかのウイルスの影響が大きいだろうと思っている。(おそらくこの世の中には、人類が同定することのできたウイルスより、まだ発見されていないウイルスの方が圧倒的に多い)

 人間は60兆個の細胞で構成されるが、その100倍以上とも、1000倍以上とも言われる細菌やウイルスというものでひとつの生命が構成されている。だから、寒いと風邪をひくというのも、そういった常に在中するウイルスが変化するのがひとつの要因だというのは、まんざら外れてもいないと思っている。

 インドに行って変わった友人は、帰国後に再会する前に、A型肝炎というインドの食物から感染するウイルスによって肝炎を発症して入院した。幸い彼はそのインド製のウイルスとの格闘に打ち勝って生き残った。A型の持続感染はほぼないと言われているが、少なくとも彼の体細胞の遺伝子には「インドのウイルス」、もっと言えば、「インド人が文化と共に育んで来たウイルス」が一時的ではあれ入ったのだ。それが彼の体内の無数のウイルスの中の一員として、微量ながら今も残っている可能性は低くはない。

 そう思って彼を見ると、日に焼けたせいかもあるけど、旅行前にあった少女漫画に出てくるような美しさが消え、インド人っぽく見えるようになった。そう思って話を聞くと、どうやったら金を稼げるか。という話が増えたようにも感じる。でも、確実に言えることは、彼は旅の前より明らかに、元気になった。

 人間は音楽に精神を動かされる。同じように、あるいはそれ以上に人間は、ウイルスに動かされている。

 そうこう言う僕も、インド旅行の最後にガンジス川の水を飲んで、随分と激しい下痢をした。僕の中にもガンジス川製のウイルスがたぶんいる。聖なる川ガンジスのウイルスは壮絶だった。僕も絶えずインドのウイルスに動かされているのかもしれない。

The Invisible - ele-king

 昨年のフローティング・ポインツの『エレーニア』にはいろいろなミュージシャンがフィーチャーされていて、ゾンガミン名義で活動する在英邦人のススム・ムカイ、メルト・ユアセルフ・ダウンやオウニー・シゴマ・バンドなどで演奏するトム・スキナーに混じり、ジ・インヴィジブルのレオ・テイラーがドラムで参加していた(ちなみに、彼は英国が誇るジャズ・シンガーのノーマ・ウィンストンの息子で、つまり父親は昨年他界したピアニストのジョン・テイラーである)。その後のツアーでもレオはバンド・メンバーとなっており、フローティング・ポインツのライヴ・サウンドには欠かせない存在のようだ。両者の間にいつ頃から交流が生まれたのかはわからないが、恐らくフローティング・ポインツが生楽器演奏を多く取り入れるようになった2010年あたりのことではないだろうか。2012年にはジ・インヴィジブルの“ウィングス”という曲をフローティング・ポインツがリミックスしていたのだが、この曲は彼らの2枚めのアルバム『リスパ』からのカットだった。だから、今回のジ・インヴィジブルの新作『ペイシェンス』はそれから4年ぶりのアルバムとなる。

 ジ・インヴィジブルはレオのほかに、ギターとヴォーカルのデイヴ・オクム、ベースとシンセのトム・ハーバートからなるUKのトリオだ。トム・ハーバートはポーラー・ベアというジャズ・バンドのメンバーでもあり、またデイヴとトム・スキナーといっしょにジェイド・フォックというユニットで活動していた。それぞれセッション・ミュージシャンとしても活動し、アデル、セント・ヴィンセント、グレース・ジョーンズ、ジェシー・ウェア、ベック、オノ・ヨーコ、ジャック・ディジョネット、マシュー・ハーバート、ルーツ・マヌーヴァ、ホット・チップ、ジェイミー・ウーン、ゾンガミンなどの演奏に参加する。ジ・インヴィジブルは音楽的にはインディ・ロックにカテゴライズされることが多く、レディオヘッドからジ・エックスエックス、フォー・テットにロケットナンバーナインなどを繋ぐ位置にあるバンドと言えるだろう。だから、フローティング・ポインツの音楽性にも共通するところがある。2009年にファースト・アルバム『ジ・インヴィジブル』をマシュー・ハーバートの〈アクシデンタル〉からリリースし、マーキュリー・プライズにもノミネートされた。2012年には〈ニンジャ・チューン〉に移籍して『リスパ』をリリース。この『リスパ』制作期間中にデイヴの母親が亡くなり、それを反映したメランコリックな要素が強いものだった。また、アコースティックなバンド・サウンドを軸としつつ、エレクトロニック・サウンドも取り入れたのがジ・インヴィジブルであるが、『リスパ』はそのエレクトロニックな要素がより増えていたように思う。一部で用いたアフリカ音楽のモチーフも新鮮だった。

 この新作『ペイシェンス』は、初めて外部からのゲストを交えたアルバムとなっている。フローティング・ポインツことサム・シェパードが『エレーニア』の返礼で参加し、デビュー時から演奏や作曲でサポートしてきたジェシー・ウェアもコーラスに加わる。ほかに新進シンガーとして注目を集めるロージー・ロウ(今年ファースト・アルバム『コントロール』を発表したばかり)、オルタナティヴなロック・シンガー&ギタリストのアンナ・カルヴィ、ニュージーランドのサイケ・ポップ系シンガー&ギタリストのコナン・モカシンが参加しているが、ロージー・ロウとアンナ・カルヴィもデイヴ・オクムがプロデュースをする間柄だ。そうしたゲストとのコラボにより、内省的な色が強かった『リスパ』に比べ、ずっと外に開かれたアルバムという印象が強い。もっと平たく言えば、彼らにしては「ポップ」なアルバムになっているのだ。ジェシー・ウェアが参加した“ソー・ウェル”などは、実際ジェシーのアルバムに入っていてもおかしくない曲だ。エレクトロニック色もより強くなり、“ベスト・オブ・ミー”のようなニューウェイヴ・ディスコ~アーリー・ハウス的な曲もある。“セイヴ・ユー”はじめ、ロージー・ロウが参加する“ディファレント”、アンナ・カルヴィ参加の“ラヴ・ミー・アゲイン”は、いままでの彼らにはあまり見られなかったファンク色が見られる。こうしたファンク色についてはディアンジェロの『ブラック・メサイア』からの影響が見られるが、デイヴはアルバム制作に先駆けてしばらくロサンゼルスに滞在し、そこでこうしたファンクからLAビート・シーンのサウンドをいろいろと吸収し、作曲を行っていったようだ。

 いままでの彼らの作品にはダークなイメージのものが多かったが、“ライフ・ダンサーズ”や“メモリーズ”には軽やかな浮遊感があり、コナン・モカシン参加の“K・タウン・サンセット”もコナンの持味のフワフワしたソフト・サイケ感が広がる。アルバム全体を通じて明るくてポジティヴなイメージが感じられるのは、やはりデイヴがLAで吸収した空気感と無縁ではないだろう。もちろん、ジ・インヴィジブルなので普通のポップ・アルバムというわけではなく、明るいといってもイギリス人特有の屈折感が消えることはないのだが、彼らの中で何か変わったことはたしかだろう。個人的にはブラインア・イーノとの3部作を経て、また新しいスタートを切った『スケアリー・モンスターズ』の頃のデヴィッド・ボウイに似た印象を持つアルバムだ。


パオロ・パリージ 著
アサコ・イシハラ 訳
コルトレーン

ele-king books

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 2009年にイタリアで発表され、現在では、英、米、仏、デンマーク、ブラジル、アルゼンチンと計7カ国で翻訳版が出版されているスピリチュアル・ジャズ・コミック『コルトレーン』。今年2016年は、ele-king booksでも日本版をつくらせてもらうことになり、きっとすでにお買い上げくださった方もいらっしゃることと思います。ありがとうございます。

 誰もが知るジャズの巨人コルトレーンの、少年時代、軍隊時代、薬物依存、政治活動、そして恋愛と数々の伝説的レコーディングや時代背景にせまるこの評伝コミックの刊行を記念し、大谷能生さんと菊地成孔さんにご対談をいただくことができました。トークの模様はSPACE SHOWER NEWS「菊地成孔×大谷能生 ジョン・コルトレーンを語る」にて放送、このテキストはその全文を収めたものになります。日本人が漠然と抱いているコルトレーン像の虚実を切り分け、その全仕事へと誘われる、いつもながらに読みやめられないお話です。

 まだまだ大型書店さんでは平積みでご展開くださっているので、音楽書コーナーへお立ち寄りの際は、ぜひページをめくってみてください。

いまはグラスパー以降の時代が続いているわけだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。(菊地)

菊地成孔(以下、菊地):こういうものが出まして……パオロ・パリージ著『コルトレーン』。簡単に言えば、コルトレーンの伝記をイタリア人の若手、といっても30代ですが、イラストレーターが漫画化したものです。昔だったら『スイングジャーナル』(スイングジャーナル社)が出していたんじゃないかというところですが、時代は変わりましたね(笑)。

大谷能生(以下、大谷):意外と英訳もされているし、世界各国で出ている模様です。

菊地:鈴木孝弥さんが訳した、『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』(2011年、うから)しかり、ジャズ本はスマッシュヒットするからね。で、この日本語版の解説を大谷君が書いているということもあり、これをネタにコルトレーンの話をするということですが、この『コルトレーン』はどうでしたか?

大谷:イタリア人の方が書いていますが、いわゆる定番の話です。要するにコルトレーンはジャズの殉教者(セイント)であると。そして非常に苦労して自分の技術を作っていったという話なわけですよね。それが時代にぴったりきているということも含めて驚きはなかったんですけど、丁寧には描かれているなと思いました。

菊地:そうだよね。いまは悪い時期じゃないというかね。世界的にね。

大谷:政治的にもそうだし。

菊地:それもあるし、いまはグラスパー以降の時代が続いているわけで、彼だけ見ちゃうと現在のジャズがR&Bとヒップホップに吸収されているように感じがちなんだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。

大谷:スピリチュアル・ジャズだよね。それはそうなんだけど、『ライヴ・イン・ジャパン』なんかCD4枚組なわけですよ。もともとはLPで分散していて、何枚あったかわかんないくらいなものだったわけで(笑)。迫力が違うっていうか、開けたら「マイ・フェイヴァリット・シングス」とだけ書いてあるっていう(笑)。この前の「文藝別冊」のコルトレーン特集(2012年2月)で、菊地さんは亡くなられた相倉久人さんと対談していますね。僕は違うところで、要するに「リキッドルームの夜だと思って聴くといいんだ」という話をしていたんですよ。産経ホールだと勘違いしちゃうんだけど、リキッドだと思えば、ジミー・ギャリソンのベース・ソロが途中で40分くらい挟まっても、あれはチルの時間であると。そのときは飲み物を買いに行けばいいんだっていう話になりましたが(笑)。

これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。(大谷)

コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。(菊地)

菊地:この間、慶応で簡単なジャズの話をする機会があって、そのときに一応作ってみたんだけど……。

マイルス
65年の生涯で現役は21歳から44年間(中央にカインド・オヴ・ブルー)

パーカー
34年の生涯で現役は21歳ぐらいから13年間

バド・パウエル
41年の生涯で現役は大体18歳ぐらいから26年間

コルトレーン
40年間の生涯で現役は20歳から21年間

ミンガス
58年間の生涯で現役は21歳から33年間

モンク
64年間の生涯で現役は25歳から30年間(晩年10年は無活動)

ギレスピー
75年の生涯で現役は18歳から57年間

マックス・ローチ
83歳の生涯で現役は20ぐらいから約60年

ロリンズ
現在86歳で存命 現役は19歳から67年目に

オーネット
85年の生涯で現役は20ぐらいから65年間

エリック・ドルフィー
36年の生涯で現役は15年間

アイラー
34年の生涯で現役は26歳から8年間

セシル・テーラー
現在87歳で存命 現役は27歳から60年目にサッチモ
69年の生涯で現役は19歳から47年間

エリントン
75年の生涯で現役は17歳から58年間


大谷:これだけで俺らならずいぶんと喋れますね(笑)。

菊地:あとでネットに上げますね(笑)。いわゆる「コルトレーン昭和」って聴き方があるじゃないですか? 「コルトレーン/昭和/ジャズ喫茶/念仏」という聴き方をするひとが、はたしてコルトレーンが40歳という若さで亡くなっているというイメージを持っているのかどうかって考えちゃうの。

大谷:40ってけっこう若いよね。

菊地:若いんだよ。パーカーが早死にしたのは、ジミヘンとか、後のロック・スターが亡くなるのに似てるんだけど。

大谷:モーツァルトとかキリストとかにも似てるね(笑)。だいたい36歳。

菊地:パーカーや、あとバド・パウエルみたいに頭が割れちゃって病気になったひとは別としてね(笑)。あるいは、ソニー・ロリンズというひとはいまだに現役だからね。そういうなかで、コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。まぁ、イメージは大切なんだけれども。

大谷:著者の住むイタリアでどう思われているのかも気になるよね。イタリアにはライヴハウスはあるけど、ジャズ喫茶がたぶんないわけ。だからこのパオロさんがどういう教育を受けてこれを書いたのか、多少気になるところだよね。おそらくジャズ喫茶でレコードを聴いていたわけじゃないじゃん?

菊地:ただYouTube時代ではあるからね。もちろんヴァイナルで聴いているだろうけど。クラブジャズくらいからはじまって、ロバート・グラスパー以降、日本では“今ジャズ”とも言われたりするニュー・チャプターが出てきた。その流れでジャズをレジェンダリーなものから聴くとなったときに、サッチモからってことにはならないんで(笑)。

大谷:瀬川昌久さんはそれをやろうとして、サッチモの音源を自分でまとめたやつを4枚出しているけどね(笑)。あれがまたすごくて。

菊地:パーカーのダイレクトな大元はルイ・アームストロングなんだっていう仮説ね。わたくしはこの間、サッチモが出ている映画を見ながら瀬川さんと対談しましたね。

大谷:その流れをコルトレーンからはじめるとして、これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。

菊地:俺たちの世代だとコルトレーンの伝記はJ・Cトーマスの『コルトレーンの生涯』一冊で決まりだったけど、もう少し精緻なものが出てきた。この本はそれに負っているとあとがきには書いてあるよね。伝記の第一接触というのは、大谷君が言っているようにロマンティックでカリカチュアされている。

大谷:ほとんどベートーベンとかといっしょなわけだからね。「そして、死」みたいなさ。

菊地:「雷鳴に拳を突き上げる」とかね(笑)。

大谷:降りてきたら「第九」ができていたみたいな、やはりそういうノリなのかなイタリア人はと。でも俺らが書いてもこうなるかもね。

極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。(大谷)

菊地:マイルスは65歳で亡くなったから比較的長く生きたと思うんだけど、コルトレーンもマイルスもジャンキー経験者でしょう? それでどっちも肝臓を壊すわけ。マイルスは持病で糖尿病だったけど、コルトレーンは肝臓ガンで41歳で亡くなる。生物学的、医学的にいうと、人生で一度ジャンキーを経験すると長生きできないんじゃないかというか。ソニー・ロリンズは例外だけどさ(笑)。ひとを死に至らしめる力は複合的であり、決定論的じゃないから証明できないんだけど、思うことがある。コルトレーンはラヴィ・シャンカールと4、5年文通して、精神世界にものすごく傾倒したけど、自分のグループをラヴィ・シャンカールに聴かせたらダメ出しされて心が折れたのも関係しているんじゃないかと。この漫画にも書いてあるけど、そのあとコルトレーンはオラトゥンジのアフリカ・センターに献金する。

大谷:感覚的にインドもアフリカも同じと思っちゃうくらい、宗教的で、アメリカじゃなきゃなんでもいいみたいな、イメージの「第3世界」のほうへいっちゃうわけですよね。シャンカールとオラトゥンジはぜんぜん関係ないじゃないですか? そういう大雑把なところがコルトレーンにはあるんだよね。

菊地:うちらが書いた『M/D』(『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』2008年、エスクァイア マガジン ジャパン)を読み返してみると、……って言ってもみんな細部まで読んでくれないんだけど(笑)。

大谷:読みたいところにたどり着かないまま、迷宮に迷い込んで帰ってこれなくなる本なんで(笑)。

菊地:あれに書いたのが、コルトレーンの音楽には、中東ならびにアフリカ音楽の要素が『カインド・オブ・ブルー』のときからあったんだけど、インドへの傾倒という逸れ方をするってことなんだよね。アフリカとインドの音楽はだいぶ違うから無理がたたり、かつメンターにあたるラヴィ・シャンカールに厳しくダメだしされた。それから『コルレーン』にもあるように、最初の奥さんのナイーマさんとの子どもができず離婚して、のちに精神世界へコルトレーンを引っ張ることになったアリス・マクロードと再婚するわけだ。あと、この本にもちょっと触れられているんだけど、コルトレーンが亡くなる時期っていうのは、ブラック・パンサーとかが出てきたときで、ブラック・パンサーはアフロ・アメリカンなんだけどムスリムなんだよね。

大谷:マルコムXがネーション・オブ・イスラムを抜けて、1965年に暗殺されちゃうじゃないですか? ブラック・パンサーはそこから先の話なんですよね。そのあたりにテロ組織であるとか、白人のほうではウエザーマンが出てきたりという時期と重なっているという。しかも極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。

菊地:この本はさっき言ったようなコルトレーン聴きのひとたちが扱わないようなところにも着目してる。コルトレーンの晩年っていうのは公民権運動の嵐が吹いている時代であると同時に、ボサノヴァとビートルズっていう楽しいものがさ、音楽のマーケットを改革していった時期でもあるわけ。そのタイミングで後者の動きとコルトレーンを比べたときに、パブリック・イメージとしてはどっちかというと公民権運動のほうに近い。“アラバマ”って曲も出しているしね。

大谷:“ブラジル”って曲も出しているけどね(笑)。

菊地:うん。コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ(笑)。混乱のなかで死んだんだよね。

コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ。混乱のなかで死んだんだよね。(菊地)

大谷:アフリカとインドは混ぜると危険なんだっていう(笑)。音楽的にも相反するし、おそらく政治的にも混ぜちゃダメ。宗教的にもダメ。日本と朝鮮と中国を混ぜるくらいの危険度があるわけ。そのくらいインドとアフリカの相性は危険なのに、そのふたつを混ぜた音楽をアメリカの黒人がやっちゃったら混乱するよね。

菊地:ただそういう混乱があってもファミリー・プロットは大切で、奥さんとの離結婚が後を引いたり、ヴェトナム戦争に心を痛めたり。コルトレーンはナイーヴなひとだからね。ただ、それだけじゃひとは死なないだろうと。そこで最後にコルトレーンに覆いかぶさってきたのがラヴィ・シャンカールのダメ出し。

大谷:シャンカール、悪いやつだね。ジャズ界的には抹殺したいですね(笑)。

菊地:ラヴィ・シャンカールは悪人認定で問題無いと思う(笑)。

大谷:「セックスはいいぞ」とか言ってるんでしょう(笑)?

菊地:そうそう。でもラヴィ・シャンカールがコルトレーンに言った「音楽はこんなに苦しそうなものじゃない」っていう言葉は正しい(笑)。

大谷:「お前は混乱しているんだ」。ホント、その通りだっていう感じだよね(笑)。それで、結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だってのが私の見立てで。あれって要するに、もともとは『サウンド・オブ・ミュージック』じゃん? あの作品っていうのは、アメリカ人が作ったミュージカルで、ナチス直前のオーストリア付近が舞台の話じゃないですか? アメリカ人が作ったヨーロッパの話で、その時点でファンタジーなんだけど、“エーデルワイス”も“マイ・フェイヴァリット・シングス”もユダヤ系のリチャード・ロジャースが作っている。彼は軽くエキゾ入った歌曲作る天才で、非アメリカを舞台にした『南太平洋』とか『王様と私』とかの音楽も彼の筆で。そんなユダヤ人がニューヨークでミュージカル用に、勝手にウィーンの民謡みたいなものを作るわけ。で、それをコルトレーンがアフロでやる。この段階でかなりおかしいよね。ところがそれが音楽的にすごく成功しちゃうわけじゃないですか? リズムを6/8にして、ウィンナー・ワルツをアフロでやる。しかもそれが晩年まで使われる(笑)。この段階で文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。

結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だと思うわけ。『サウンド・オブ・ミュージック』の文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。(大谷)

菊地:さらに言えば、可愛く作られた童謡みたいなマイナーな曲を、Dドリアン一発でやってしまうというね。

大谷:それで成功しちゃって勘違いしちゃったんじゃないかと思うんですよね。実はいろいろ混ぜれるんじゃないかと(笑)。コルトレーンはアフロは出来てるんですよね。“グリーンスリーヴス”とかもアフロ解釈でやれてるし。

菊地:それから“チム・チム・チェリー”もやる。

大谷:『ザ・クラシック・カルテット』の箱を見ると、“グリーンスリーヴス”があって“トゥンジ”って曲があって、“ナンシー”ってスタンダードがあって、もう何がなんだかですよね。“アラバマ”はあるは、“ネイチャー・ボーイ”はあるはっていうね。そして“チム・チム・チェリー”がきて(笑)、“ディア・ロード”があって“ブラジル”もある。全部カルテットでアンサンブルが同じだから気がつかないけど、めちゃくちゃですよね。“ブラジル”から“サン・シップ”まで(笑)。だからラヴィ・シャンカールも「なんだ!」と思うかもしれないですよね。

菊地:ラヴィ・シャンカールが聴いたのは、もっと後期の、演奏がフリーキーなやつだけどね。この本ではラヴィ・シャンカールはひとコマ、レコードが出てくるだけで、彼のことはバッサリ切っているというか。その代わりに、コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。まぁ、ミュージシャンなので宗教的にも政治的にも適当なんだというか。「適当」という言葉が悪いのならば、ファンタジックなんだよね。

コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。(菊地)

大谷:コルトレーンはとくにそうですよね。ファンタジーとしての宗教だし、ファンタジーとしての政治だし。これがマックス・ローチになるとガチでいきますからね。

菊地:政治にも宗教にもガチになったミュージシャンもいる。でも、どんな音楽も宗教的であり、政治的でもあるわけなので、あえて音楽が政治だ、宗教だということを言わなくても、チャーリー・パーカーのようにふざけた曲をふざけた態度で演奏したとしても政治性や宗教性は入ってくる(笑)。逆に言うと、音楽はそのふたつからは逃れられない。なのに「本来は娯楽である音楽を宗教と政治に結びつけたひと」というイメージが固まりつつあるんだよね。コルトレーンだけじゃないんだけど、どんなつまんないミュージシャンでも、……と言ったあとに名前を出すのは悪いんだけど(笑)、たとえばいきものがかりみたいな音楽ですら政治と宗教は入っているわけ。

大谷:男性ふたり女性ひとりってだけで政治的だね。

菊地:いや、ホントそう。

大谷:だいたい途中で男と女のデュオになるじゃないですか? ドリカムしかり。

菊地:それで必ず第三項が入るっていうね。

1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? (大谷)
カッコいい。(菊地)

大谷:まったく問題ない! ……で、コルトレーンはこんな状態で“アフリカ”って曲を作っちゃうわけだからさ。1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? 

菊地:カッコいい。『至上の愛』ってちょっとベタだけど、それに対して、『アフリカ/ブラス』ってさ……

大谷:そのふたつを並べるの!? っていうさ(笑)。だって大陸の名前とブラスがいっしょになるって、意味がわからないじゃないですか。

菊地:ジャズ・オリエンテッドに言えば、エリック・ドルフィーのアレンジャーとしての腕前がものすごいってことがわかるアルバムだよね。

大谷:彼のアレンジした、木管が入った、あのアルバムのバックのアフリカ感って……何て言えばいいんだろうね。ギリギリ映画音楽にならない、完全なモダンなサウンドっていうか。もっとそのあたりは聴きたかったな。

菊地:この本にも出てくるけど、ドルフィーはコルトレーンよりも早くバーン・アウトしてしまった。

大谷:コルトレーンの周りを固めるひとたちもたくさん出てくるので、わりと個性は捉えられていると思います。マイルスが偉そうだとかね。

菊地:マイルスもメンターだけど、じつはコルトレーンと同い年なんだよね。

大谷:菊地さんが書いていたけど、コルトレーンは指導してくれるひとをずっと欲しがるタイプで、「あなた、もう先生はいらないでしょ!?」って言われるひとだよね(笑)。習わなくてもいいのに学校へ行きたいひとって多いじゃないですか? 指導期間が終わって、「あなたはもう卒業です」と言われた瞬間、途方にくれてしまうというか。コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。日本には信者体質が多いのかな? そんなことはないと思うんだけど、「こいつのやっていることはわかる!」っていうある種の指導者がいて、その下で真面目にナンバー2を目指して成長する、みたいな話が好きなひとが多いように見えますよね。

コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。(大谷)

菊地:コルトレーンは典型的な信者体質で、死ぬまでメンターを欲しがっていた。

大谷:そういう自覚がある方はコルトレーンを聴くといいと思いますよ。自覚がなくてもコルトレーンを聴いて「うぉー!」って興奮するひとは、基本的に信者体質なのかなとか。あと学生時分というか、若いひとにはそう時期があるから、ピンとくるかもしれない。真面目にやりたいひとっていうか。モダンの芸術ってさ、どうしても手数を減らすというか、ストイシズムじゃない? あんまりミックスド・メディアにしないっていうか。そういう意味でいうと、コルトレーンはクラシック・カルテットの同じメンツでどんどん進化していくんです。
 ちなみに今日遅刻した理由は、コルトレーンが死んだ月の『スイングジャーナル』を探してて……速報だったんですね。ページをばかっとめくると、いきなり「巨星墜つ」って出てくる。

菊地:これはすごいね。

大谷:表紙がこれで、「なんだこの写真は?」っていう感じなんだよね。松尾伴内に似ているっていう。

菊地:もう松尾伴内に似てないときだね。『至上の愛』のときが松尾伴内がピークだった(笑)。

大谷:これも似てるけど、コルトレーンじゃなくて、チャールズ・ロイドなんだよね(笑)。

菊地:いろんなやばいことが載ってるんだけど、ジャズのものを読みたいひとが読みたくないものばっかり載っているから。

大谷:このひととこのひとがのちにヤバくなるっていうね。(スイング・ジャーナルのグラビア・ページに、白木秀雄とジミー・ギャリソンの写真がある)。

菊地:これは言えませんよ(笑)。

大谷:どちらも死んだときは女装していたっていう話……。それで、コルトレーンの訃報が日本に入ったときに、日本で出た最後の日本盤は『クル・セ・ママ』だったんだって。ちょっと軽い驚きというか。これが最後だったら、やっぱり来日時の音にはビックリするよね。『至上の愛』のあとにはこれしか出てないってことで、まあ、ふつうに考えたら、一年に4枚もアルバムを出さないからね。これは大変なことですよね。ずいぶんと変わる。われわれが今日持ってきた盤にはコルトレーンの死後に出たものも多いよね。

菊地:俺はコルトレーン発掘音源3部作と呼んでいるものがあって、まずは有名な57年のセロニアス・モンクとのカーネギー・ホールでのライヴ録音。音源が物置にあったってやつ(笑)。それから、ファイヴ・スポットで演奏していたときの記録。あと2010年に出た63年のシュトゥットガルトのライヴ録音。これも1曲1時間コースで、死してなお、そういったものがどんどん出てくる(笑)。

大谷:格調高いと言われる『至上の愛』だけど、『アセンション』はめちゃくちゃ(笑)、『メディテーション』は過渡期(笑)、ライヴ盤、ヴォーカル入り、どんどんいろんなことをやっている。

コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。(菊地)

菊地:66年にはビートルズの来日があって、それと逆相を取っているっていうかさ。コルトレーンと関係のない話だけど、ビートルズって、本当はあの段階では『サージェント・ペパーズ』とかを出すときだったんで、リチャード・レスターの映画の感じではなくなっている。でも来日公演ではギリギリ、映画に出てくるアイドルの格好でライヴをやったおかげで、日本人は混乱しなくてすんだんだよね。髭を生やすわインド音楽をやるわってタイミングと、コルトレーンは一手違いっていうかさ。コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。

大谷:そうですね。それで、その一年後にはもう死去っていう。「信じがたいことではあるが、受け入れなければなるまい。しかし、時間がかかる」って書いてある。

菊地:ははは。親じゃないんだから(笑)。

大谷:「父の死を知らされたら、きっとこんなショックを受けるだろう」、そりゃそうだろうね。でもコルトレーンは40歳だから、そんな歳じゃないよっていう。

菊地:偉大なひとってイメージがあるからね。信者体質のひとって、作用反作用みたいな感じで教祖になってしまう。だけど、実際のところコルトレーンはメンターが欲しい信者体質なので、教祖として扱われたことも心身に大きな負荷がかかったと思うのよ。マイルスがセレブリティ扱いされることは、彼の心身には何の負荷も与えない。むしろ健康にした。だから、コルトレーンを引っ張っていくひとが常に現れることが、彼にとっていちばんよかった状態なんだよね。

大谷:意外と、ひとそれぞれに的確な配置ってものがあって、たとえば俺、先生をやっていると調子悪くなるんだよね。

菊地:俺は先生をやっていると調子いいね。

大谷:菊地さんは初等教育に対する情熱がすごいよね。

菊地:高等教育に対する情熱もすごいよ(笑)。

大谷:いやいや(笑)、そうだけど、初等教育って高等教育のためにあるって考えるひとが多いじゃない? 菊地さんそうじゃないからね。初等教育にはまったく違う喜びがあるんだっていうか。そういうのが向いているひとと、そうじゃないひとがいるし。あと、毎日同じ場所へ行くのが向いているひとと、向かないひとがいるし(笑)。

菊地:作業を一本に縛りたいひとと、バラバラにやりたいひとがいるし。

大谷:そういうものが体質か培ったものかはわからないですけれど、調子が悪いなって思うひとは自分の生活とか、指導者とかを見直してみるといいかも(笑)。

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簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。(菊地)

菊地:それからこの本がele-king booksから出てくるってこと。もう死語だけど「クラバー」と呼ばれているひとたちがさ、やっとジャズをネクスト・レベルのものとして捉えるようになり、クラブジャズはハードバップのダンス・ミュージック形だということも知っちゃったいま、ピース系やフリー、スピリチュアルなものを聴いて高揚感を得ることがクラブの効用で、その源流にコルトレーンがあることから、この漫画が出たことは……

大谷:そうね。『スイングジャーナル』がないからあれだけど。もうジャズ・メディア最後の宝ですよね(笑)。

菊地:簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。アリス・マクロードとくっつくのは必然的だから難しいけど。

大谷:一応ね、われわれの啓蒙活動もあり、ポリリズムの話もわりと通用するようになったじゃないですか? コルトレーンはアコースティック・サウンドで、ベースがあって、4ビートでいっしょだから、リズム構造がわからない状態で聴いているひとが多いでしょう? たくさんの作品があるんですけど、それぞれけっこう違う。いちばんアラブに寄っているものとか、けっこうめちゃくちゃになっているのとか(笑)。『ライヴ・イン・ジャパン』を聴いていて思うのは、混乱したまま進んでいるときと、スカッとやっているときがあったりとか。

菊地:メンターがほしいひとっていうのは、いつまでたっても弟子でいたいわけなので、言葉はあれだけど、ファザコンな娘さんがいつまでも小娘でいたいっていうかさ。比較的幼稚なことをコルトレーンがしているのを、昭和のコルトレーン聴きのひとは絶対に認めないっていうか(笑)。コルトレーンが“チム・チム・チェリー”にまで手を出していたことを見て見ぬふりをするっていうか。

大谷:「これはなかったことに」ってのがコルトレーンは多いんだよね。

菊地:「なかったことにする」っていう人間の心的営為はね、年々重要度を増していると思うんだよね(笑)。SNSが発達したりとか、過去のテキストを読んだりっていうときにね、見たくないものをなかったものにする。チャーハンのなかのネギやグリーンピースは取っちゃうみたいなさ(笑)。大人買いに対する子ども食いっていうかさ(笑)。
 あと、有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる?

有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる? (菊地)

大谷:これはね、気がついてないですね。描き方がそう。

菊地:あれは亡くなった中山康樹先生の卓見っていうかね。

大谷:あれは棒付きのキャンディを舐めているんじゃないかという説があって、その目で見ると随分と印象が変わって見える。実際に棒がちゃんと写っているんですよ。

菊地:哲学的な思慮深いジャケットってことになっているし、あと『ブルー・トレイン』っていうくらいだから、青いフィルターを通しちゃっているから見にくいけど、じつは飴食ってんじゃないかと(笑)。

大谷:そう思うと、この本の絵は目が点になってますけどね。

菊地:この漫画は作画上、全員の目が点になっていて、すべてのメガネが白になっている。で、ブラック・パンサーだけ黒いんだよね。俺は漫画評論なんかやるわけじゃないけれど、ひとつのフォーマットを置いてますよね。あと筆者自身があとがきで書いていますが、当たり前のことだけど、これは伝記としておもしろくするために多少のフィクションは自覚していると。たいしたことじゃないんだけどね。ボブ・シールの着任を1年ズラして書いているから、クリード・テイラーに〈インパルス〉へ引っ張られたというのが抜けるんだよね。マイルスにおけるテオ・マセロとは言わないけれど、ボブ・シールは大変なパートナーになっていくわけで、そこを史実よりも1年早く書いている。それを含めて、これはフィクションとして読んでほしいと。そんなこと言われても相当伝記なんだけどね(笑)。
 コルトレーンが意外と早く亡くなっていることと、その負荷になった理由は、昔麻薬をやっていたから体が弱かった、というだけではすまない。やっぱりストレスは大きい要素だからね。早婚の妻を捨てて、自分のメンターであるアリス・コルトレーンに向かったっていう。俺はアリス・コルトレーンが好きだけど、アリスをオノ・ヨーコさん扱いするひとがいるんだよね。オノ・ヨーコさんも俺は好きだよ(笑)。要するに、インテリでスピリチュアルな女性を、子どもっぽいアーティストが奥さんとしてメンターにしていくことの典型例というかね。それに対して、何度も言うけど、昭和マッチョのジャズ聴きたちは、あんまり問題にしていなかったというか。子ども聴きでそのことは抑えちゃう。でもこの本は、そこを丁寧に描いていて、それはさすがイタリアっていうかさ。

大谷:うん。恋人の影響は大事だよって。奥さんをメンターにするというか、アーティストにはそういうひとが多いですからね。マネージャーが嫁とか。

やっぱり、デザイン的にうちらはもっと知っているなと思うんだよね。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよって思うところもあるわけ。(大谷)

菊地:でもアリス・コルトレーンとオノ・ヨーコさんはそれどころじゃないからね(笑)。ジョン・レノンとジョン・コルトレーンというふたりのジョンの人生を変えているわけで。ジャズはすごくホモ・ソーシャルな世界で、そこをまだぬけていない。ヒップホップですら現在柔らかくなってきたんだけどね。

大谷:付き合っている女で人間が変わるということを認めたがらないバンカラな感じだね。あと、漫画を読んでいて逆説的に気づいたのは、渋谷系はコンテンポラリー・プロダクションのデザインのパワーがすごくイメージ作りに大きくて、たとえば昔のレコード・ジャケットの名作をリアレンジしてカヴァー・イメージを作ったりしたじゃないですか。それがやはり秀逸だったんだなと。この漫画を見ると、基本的にコマはレコード・サイズで全面的にやってるんだけど、その二次創作具合が甘いっていうか、デザイン的には日本の方が全然進んでるなって。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよとかって思うところもあるわけ。字をどこに置くかでも印象は変わってくるじゃない? でも残念ながら、イタリアには渋谷系はなかった(笑)。信藤三雄さんがいなかったから、そういうデザイン感覚がないのかなーとかね。キャラ化も含めて、日本の二次創作ってすごいじゃない? 日本で漫画化したら、コルトレーンもキャラ化しそう。そういう意味で日本は特殊なんだなと思いました。

菊地:さっき言ったけど、クラブへ行ったひとが、EDMは空虚だって思ったときに、何か空虚じゃないものを求める。俺はEDM好きだけど、たぶんそこで求められるのは、コルトレーンの精神性と同じものなんだよね(笑)。宗教的でもあり政治的でもあるということから、EDMとは違った、内実のある音楽としてコルトレーンを拝めていくということなのかなと。この作者は80年生まれでしょう? 95年に15歳だから、クラブ全盛期世代なわけだよね。日本だと野田努さんとかもさ、俺たちが東大に呼んでよせばいいのにジャズの話をした(笑)。「おれはジャズのことなんか何にもわからない」って言ってた(笑)。さらに、イギリスのクラバーにとってジャズなんか、ブラック・ミュージックのフィクションなんだってハッキリ言った人間が、いまはもうカマシ・ワシントンみたいなものにどっぷりっていうかさ(笑)。やっぱり人間、子どもができるとそうなるもんですか、みたいな。

大谷:野田さん、スタイル・カウンシルならわかるんだけど、って言ってたじゃないですか、とか。

菊地:一生デトロイト・テクノでいいって言ってたのにね(笑)。セオ・パリッシュが新譜を出したのはいいんですか? まぁ、俺が『ele-king』読んでないだけで、何か言ってるんだろうけど。

大谷:まぁ、ヨーロッパ経由のジャズっていうイメージがよっぽど変わるよね。

「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。

菊地:逆にアメリカだけにこれがないっていうか。アメリカの外側に広がる、クラブでジャズを聴くってひとたちに対して、いちばんストイックでいちばんスピリチュアルな役回りを負わされていて、本人も実際に負わされていたところがあるんだよね。だから、やっぱり負荷がかかっているよね。

大谷:みんなにそう言われたら、コルトレーンだったらそう答えるよね。

菊地:答えるだろうね。それに、このひとはモンクとやっているときがいちばんのびのびしてるんだよ。モンクがメンターだから。マイルスとやっているときもすごいんだ。あと、メンターじゃないんだけど、エリック・ドルフィーが隣にいてくれたときも相当心強かったと思うよ。『アフリカ/ブラス』もそうだし『オレ!』もそうだし。ところが先に死んじゃうからさ。モンクも頭がおかしくなってしまいますし。マイルスとはつかず離れずだったけどね。だから、自分の体質に合わないパブリック・イメージを背負わされ続けると、すごく負荷になる。自覚される誤解によって苦しむことは、逃げ出せるからそんなに負荷じゃないんだけど、コルトレーンはそれを自分で背負ってしまって、自分の体に向いていないことを、神輿に乗せられてやっちゃうっていうのがコルトレーンの最晩年だよね。だって4、5年ズレていたら公民権運動もこうなってはなかったし、第3世界の音楽がアメリカにとってどうのこうのってふうにもなってなかった。

大谷:あと4、5年生きていれば……たとえばチック・コリアが「永劫回帰(リターン・トゥ・フォーエバー)」とかって言い出すし、ショーターも入信するわけでしょう? その時代に突入していたら意外と大丈夫だったかもね。

菊地:あと藤岡靖洋先生がやたらと、自著やいろんなところで言いたがる、コルトレーンが来日会見で言った「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。「もう悪いことはやめます」って言っているだけだっていうさ。

大谷:あれは後ろに「(笑)」をつけるのがちょうどいいんだっていう。「私は聖者になりたい(笑)」。

菊地:そのことも漫画のなかには何もないよね。大谷君がキャンディ話とその話をあとがきで指摘しているけど。ただ、伝説を信じたいひとは、それを破壊されるのが怖いから、伝説破壊的な言説をすると、袋叩きに遭うじゃない? だからコルトレーンがメンターが欲しかった体質だったっていう、よく見ると誰でもわかる現実なのに、それを言うだけで特定のひとに嫌がられると思うんだよね。だからわざわざ嫌がられることをウェブに載せたり、スペース・シャワーTVで話してもね……(笑)。

大谷:だんだんそうなっちゃいますよね。最後に組んでいるドラマーなんてラシッド・アリだよ(笑)。みんなわかってんの(笑)?

マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。(菊地)

菊地:俺なんて2005年の時点で鈴に気をつけろってあんなに言ったのに、この漫画のはじまりはドラだからね(笑)。(※編集部注 ラシッド・アリとのデュオによる『インターステラー・スペース』では曲の冒頭に鈴の音が入る)

大谷:コルトレーンはドラは叩いてない。鈴まではいったけど(笑)。演奏の最後にドラをバーンって叩いたら面白いけどね(笑)。

菊地:そういうバンドは他にはいっぱいあったからね。

大谷:ディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンと間違えてんじゃない(笑)? プログレ・バンドのドラマーのうしろにはなんでドラがあるんですかね。コルトレーンのバンドがやったら面白いけど。

菊地:ドラを叩きそうな勢いだったけどね。最後はバタドラムといっしょにやってるし(笑)。民族楽器を使ってワールドへ行くところだったんだよね。普通にエチオピアン・ジャズみたいなさ、「コルトレーンの影響なんて知らねえよ」って感じのファンクに毛が生えたみたいなアフリカのジャズって、いっぱいあんのよ。「エチオピアン・ジャズ コンピ160」とかさ(笑)。

大谷:しかもほとんど60年代後半でコルトレーンと同世代。

菊地:あんな感じでアフリカだって言いながらサックスを吹いていたら、もうちょっといけただろうね。

大谷:写真を見ればわかるわけで、コルトレーンはアルトも吹いていたからね。なのに意外とみんな子ども食い、子ども聴きしてしまう。どう考えてもジャケットにはアルトを吹いている姿が映っているでしょっていう。コルトレーンは「ヤマハからもらったアルトをずっと吹いていました」って言っているし。

菊地:来日ライヴね。もらってうれしかったんだね(笑)。

大谷:もらってうれしくて、その晩に使っちゃうっていうのも子どもっぽいね。コルトレーンを聴くときは、そういうところも確認してほしいんですよね(笑)。この写真なんて、「はい、先生」みたいな感じじゃないですか。はっきりと師匠と弟子の関係ができている。

菊地:この段階で学生みたいな顔ができるっていうね(笑)。あとは、ビーバップに対するモーダルみたいなものを、独力で身につけたでしょう? マイルスと手に手を取ってと言ってもいいんだけど。モードについて説明をすると、ものすごく時間がかかるからね。ジョージ・ラッセルやマイルスを含むモーダリストっていうかさ。バップを超えてモードへ行くっていうことの月と太陽っていうか。マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。

コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていう。(大谷)

大谷:サックスの奏法の話でいうと、コルトレーンはダブルリップで、上を巻くじゃないですか? 歯が悪かったのかもしれませんね。この漫画ではそこは意識しているように見える。あとモードのサックスのタンギングをするのに、シングルじゃなくてダブルタンギングで切っていくやり方。マニアックな話ですが(笑)。

菊地:バップはハーフタンギングだからね。

大谷:昨日けっこう音源を聴き返していたんだけど、58年の時点でずいぶんとフレージングが違うなと。

菊地:元祖ワールド・ミュージックだよね。『カインド・オブ・ブルー』なんてまだまだジャズっぽいだろうと油断して聴くと、あの段階でエチオピア民謡みたいになっているからさ。相当モードだよね。

大谷:マイケル・ブレッカーの『ドント・トライ・ディス・アット・ホーム』の一曲めってさ、スコットランド民謡みたいなやつじゃん? EWI使って。ああいう方向もあったんだろうなっていうね。変なワールド・ミュージックという意味でいうと、ブレッカーはコルトレーンを受け継いでいるっていうか。

菊地:サキソフォンって楽器が新しいからね。いろんな奏法ができるから。擬似民族楽器としても使える。

大谷:アラブの笛や、ティンホイッスルみたいな、あんまりタンギングしないでも使えるっていうか。このあたり吉田隆一氏が詳しいですけど。

菊地:両巻きはチャルメラの吹き方と同じだからね。

大谷:そういう要素がサックスのなかに混ざっているので、けっこうやり散らしているなと。

菊地:早い段階から民族音楽的ではあったと思う。それはモードだから。パーカーはぜんぜんモードじゃないからね。そこからモードのやり方に向かっていく時点で、時限爆弾は仕掛けられていたというか。最後の方にやり散らかしのレリジョン・ミックス、もしくはエスニズム・ミックスみたいになっているというね。

大谷:簡単に言うと『スター・トレック』というかさ(笑)。「宇宙にはなんでもあるんだぞ?」っていう状態になっていく過程で、亡くなったようなところがあったもんね。

菊地:ミクスチャーされた状態を、なんとなく宇宙ってことでいいんじゃないかっていうふうに、コルトレーンはできなかったんだよ。リアルなので。その点では殉教の感じがあるし、リスペクトせざるをえないっていう。ギャラクティックな方向へ行っちゃうと、「お気の毒」っていう気持ちから「面白い」って気持ちになっちゃうからね(笑)。たとえば、サン・ラやジョージ・クリントンにはコルトレーンみたいなリスペクトは抱けない。違うリスペクトなら抱けるんだけどね。

大谷:コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていうね。

コルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、赦しであるわけで。(菊地)

菊地:もうちょっと体調がよかったらコルトレーンが宇宙船に乗ったかどうか、誰にもわからないね。だけど、コルトレーンのすぐ後のひとたちは、宇宙船にも乗ったしね。アルバート・アイラーみたいにすぐに死んじゃったひともいるけど。アイラーなんてチャーリー・パーカーと同じで34歳で死んでいるんだから。現役8年間。コルトレーン以後のブラック・ミュージックが、アメリカ国内で迎えたレリジョン、エスニズムとポリティクスの混乱を、音楽家という本来は快楽的でバカなひとたちがなんとかまとめようとしたときに、宇宙にしてしまう(笑)。サン・ラの『サン・ソング』っていうさ、ハーマン・ブラントがサン・ラに変わった瞬間のアルバムとね、カール・グスタフ・ユングの絶筆『空飛ぶ円盤』って本が1年違いで出てるの。もうちょっとくっついていたら、ユングはおそらく臨床例として、サン・ラを挙げていたかもしれない。自分のことを土星人だと思っているんだから(笑)。『空飛ぶ円盤』は翻訳で読めるんだけど、やっぱ運命の糸を感じざるをえない(笑)。野田くんの『ブラック・マシン・ミュージック』(2001年、河出書房新社)の大きなテーマになっていくギャラクティカという問題はさ、レイヴから繋がっているじゃん? 要するに、大麻だとか、ドラッグを使って飛ぶのだと。それで山のなかで音楽を聴いて、クサを食って宇宙へ行った気がして現生から逃げるという欲望がさ、白人や黄色人種どころじゃなかったでしょうな、というね。

大谷:宇宙に行きかけたひととしてのコルトレーンだね。

菊地:鈴も鳴らしたし、お寺まで行ったからもう一歩だったんだけどね(笑)。ただ、コルトレーンの場合は宇宙船が迎えに来なかった(笑)。

大谷:これは死んだ後に出たやつだからな(「インターステラ・スペース」)。よく見るとここらへんに宇宙船が写っていたりして(笑)。

菊地:それは矢追純一イズムでしょう(笑)。写っていないものが見えてくる。……結論としてはコルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、許しであるわけで、ジョージ・クリントンがあんな格好をしてるよとか、サン・ラっていう土星人は泣けるよねっていうのは赦しがあるんだけど、コルトレーンは赦されなかった。

大谷:サン・ラとかアルバート・アイラーみたいな格好をして出てくればよかったのにね。それにも間に合わなかった。

宇宙まではあと一歩。(大谷)

菊地:アリスがしてあげればよかったのに、惜しいところだったよね。全部を一気にアウフヘーベンして、しかもギャラクティックではなく、ストリートなまま政治や宗教の混乱の負荷を受けてしまって、一種の殉教者みたいになって。いつまでたってもコルトレーンを神格化するひとがいる原因はそこにある。音楽のなかからそれが読み取れるなら、コルトレーンにとってはそれがいちばん幸せなんだけど、音楽の構造分析的には読み取れないんだよね。聴いた感覚ではわかるんだけど。そりゃ、1曲1時間もやったら誰でも飛ぶよ(笑)。

大谷:だからリキッドで立って聴くのがいいんだよ(笑)。

菊地:ジャズ・クラブで座って1時間聴いていたらたまったもんじゃないよね。産経ホールはやばかったでしょう。あの知的な相倉先生だとか、あらゆる知将たちがコルトレーンが聖人だって物語には乗っているからね。悪いというわけじゃなくて、ヒップなひともいたと思うの。コルトレーンの最後は若気の至りで、〈ブルー・ノート〉時代がいちばんよかったよなってひともいっぱいいたと思う。いまそうじゃなくて、円盤が迎えに来なかった殉教者としてのコルトレーンがクラバーにもてはやされているのが現状っていう。

大谷:もてはやされるといいな。

菊地:ははは(笑)。

大谷:まだ予断は許されない。この一瞬で消え去るかもよ。

菊地:でもみんなコルトレーンは聴かないんだよ。甥っ子であるフライング・ロータスを聴く。コルトレーンの血脈がラヴィまで含めていまのクラブ・シーンに繋がっているけど、それは全部ぶっ飛ぶ音楽だから、そういう意味で先駆だよね。

大谷:フラローのおかげでロスまでは来てるから、宇宙まではあと一歩。カルフォルニアには(UFOが)よく来ているからね(笑)。

Melt Yourself Down - ele-king

 6月は丸々ベルリンに行っていたのですが行きの飛行機が途中で欠航してしまい、結局成田~アブダビ~ローマ~ベルリンと4つの空港を経由してドイツにたどり着いたところ当時フランスで開催中だったユーロ(サッカー)2016に当たり、首都ベルリンでは随所に各国のナショナル・フラッグがはためいておりました。自分はトルコ対クロアチア戦があった日にうっかりクーダムという目抜き通りに行ってしまい、どちらかの国旗をたなびかせてクラクションを鳴らしながら暴走する車が果てしなく続く(どこにもドイツが含まれていないのに何だこの盛り上がりは)という頭がおかしくなりそうな光景のなかで、英国でMelt Yourself Downがデビューしたときの「57年のカイロ、72年のケルン、78年のニューヨーク、そして2013年のロンドン」というキーワードと、彼らの音を思い出していた。

 2013年に自身のバンド名を冠したデビュー盤『Melt Yourself Down』を初めて聴いたとき、メキシコのテクノ音楽集団、Nortec Collectiveとも共通する妙な高揚感が沸き上がってきた。音はたしかに間近で鳴っているのに若干ずれてやって来るというか、例えば不意にどこかから聞こえてきた祭囃子が意味不明に格好いいぞ、といった類の感覚に近く、音の出所を探しながら耳から体が動いてしまうような音楽である。耳を塞いでも入って来てしまう騒音や、興奮して旗を振り回す人と警察が小競り合いをしているような喧騒を目の前にしたりすると対抗して自然と脳内再生されてしまう音楽、というものからはどこかしら似た匂いがする。

 最近発表された彼らの新作『Last Evenings on Earth』では前作に引き続き、それぞれ独特な「声」を持ったヴォーカル・サックス・パーカッション・ドラム・ベースが世のなかのあらゆる喧騒に拮抗している。踊りだしたくなる、というよりは脚が独りでに歩きはじめてしまいそうになるビートが痛快な1曲目“Dot to Dot”で始まるこのアルバムにおける楽隊のなかでもとくにサックスの雄弁さは甚だしく、8曲目の“Body Parts”などは吹くのを止めて喋ったほうが早いのでは、というくらいの人語ぶりであるし(何を言ってるのかはわからないけれど何となく言いたいことはわかる、とでも言いますか)、5曲目の“Jump the Fire”に至ってはまるで超アグレッシヴな電子チンドン屋のようである。

 そのMelt Yourself Downと在籍メンバーが重複するThe Comet is Comingのデビューアルバム『Channel the Spirits』の曲名や公式サイトの文章を見たりすると(たしかにMelt Yourself Downとも違ったヴァーチャルな空間で鳴っているかのような音ではあるけれど)、こういう「スピリチュアルなコンセプト」みたいなのはサン・ラーやアリス・コルトレーンの頃から大して変わってないのか? と思いそうになりますが、実際に音を聴けばこれが紛れもなくその後の数十年を経過した現在の音楽である事がわかる。例えば3曲目の“Journey through the Asteroid Belt”の、ほとんど手癖で仕上げたのではないかとすら思える進行の素晴らしさは、先行する楽曲の系譜を抜きにしては捉えられない(自分が真っ先に思い出したのはラテン・プレイボーイズ)。

 マット・デイモンが(不承不承ながら)火星ひとりぼっちで80年代ディスコ・ミュージックを聴き倒していた映画『オデッセイ』を思い起こしてみても、宇宙船の外に投げ出された人間は音を聴いている場合ではないし(そもそも空気が無い)、アクシデントで音楽が不意に止んでしまったとき、そこに静寂を感じている余裕があるのかどうかも怪しい。にも拘らずそんなギリギリ緊急事態発生中の境界線(の隣)をすっとぼけた顔をして横切って行く楽隊が居るとすれば、それは彼らのようなバンドなのかも知れない。ベルリン滞在中「英国、EUを離脱」などというニュースが入ってくるなか、そんなことはお構いなしにドイツが得点するたび住んでいたアパート(ベルリンのゲイエリアど真ん中)の至近距離で花火が炸裂するので自分らは怯えていたものでしたが、和むかどうかは兎も角として各人がやりたいことをやりたいようにやっているだけである。

 さて日本人としてはこの音を夏の盆踊り会場で聴きたい。ライヴ会場でステージに正対して拝聴、という感じではないし、かと言ってクラブで踊る音としてはスペースが足らないかもしれず(何と言うか、聴いている場所からふらふらどこかへ移動したくなる音なのだ)、何より櫓の上で生演奏をしている周りをぐるぐると廻りながらいつでも離脱可能な気楽さが欲しい。そんな盆踊りをやってくれる自治会も無いでしょうが、こういうのでも喜んでくれるご先祖様(溶解人間たち)が何処かに隠れているかも知れません。

TwiGy - ele-king

「日本語ラップ技術史としてのTWIGY自伝」

 『フリースタイル・ダンジョン』が人気をはくし、スキルフルなラップがあふれている現在、とくに若いファンにとって、ツイギーとはどういう存在なのだろう。雷、マイクロフォン・ペイジャーの一員として知られていると思うものの、とは言え、ソロ作品にわかりやすい大ヒットやクラシックがあるわけではない。筆者は中学生時代、さんぴんCAMPの直後にヒップホップにハマったクチである。そんな自分からすると、ツイギーはいまも当時も異彩を放ちつづけている。ツイギーを早くから評価していたECDは、ツイギーについての文章を「TWIGYは紛れもなく天才と呼んでいいアーティストの一人である」(アルバム『TWIG』のライナーノーツ。ツイギーについて書かれた最良のテキストだと思う)という一文から書きはじめているが、あふれ出る天才性のままにラップをしている存在として、ツイギーはほとんど唯一無二なのではないかと、筆者も思う。そんなツイギーが『十六小節』という自伝的な語り下ろしエッセイを出した。

 ツイギーおよび日本語ラップ・ファンからすると、まずは日本語ラップ黎明期における細かなエピソードが、それだけでおもしろい。自分のような後追い世代にとっては、なおさらである。個人的には、ツイギーがHAZU(現・刃頭)と出会う名古屋時代から、東京に進出してくるあたりのエピソードがいちいちおもしろかった。ツイギーとHAZUによるBEAT KICKSが名古屋のローカルなコンテストで優勝したときの曲が、スペシャル・AKA「ネルソン・マンデラ」のうえでラップをしたものだというのも初めて知った。ツイギーもHAZUも2トーン・スカが好きで、とくにトロージャンズ好きのHAZUは、ギャズ・メイオールのDJにも影響を受けているのだとか。この事実は、いままで抱いていたHAZUに対するイメージと違って印象的なものだった(まあ、同時期のブギ・ダウン・プロダクションズの存在などを考えれば、そんなにおかしいことではないのかもしれないが)。

いろいろな本を読み、いろいろな人の話を聞くと、シーンの最初期におけるジャンル未分化の野蛮なおもしろさを感じることがしばしばある。これは当然と言えば当然で、たとえば、そもそもクラブの数自体が少なかったりすると、周辺ジャンルは必然的に集まってしまうことがある。ツイギーの音源デビューがオーディオ・スポーツ(恩田晃によるユニット。山塚アイや竹村延和が参加している)の曲だったり、あるいは、レス・ザン・TVのコンピ盤にキミドリの曲が収録されていたり、というのは、そういう気分を反映したものに思える(このあたり、山下直樹・浜田淳『LIFE AT SLITS』をぜひ参照してほしい)。そういう、シーンが確立するごとに見えづらくなるジャンル横断的な交通をかいま見られることが、このような自伝的エッセイの楽しみのひとつである。スカ好きという話もあったが、本書で感じるのは、ツイギーが思いのほかレゲエから多大な影響を受けていることだ。たしかにツイギーは、BOY-KENをはじめとするV.I.P. CREWとの交流も厚いし、YOU THE ROCK主宰の伝説的なイヴェント〈ブラック・マンデー〉の様子を記録したカセットテープでは、ツイギーによるかなりラガマフィン調のラップを聴くこともできる。現在から振り返ると、これも黎明期的なジャンル横断の一端に見えるが(思えばヒップホップとレゲエも、ここ10年強くらいで、けっこう分化してしまった気がする)、ここで重要なことは、ツイギーの魅力的なフロウがレゲエ・シーンのなかで育まれていたことである。

 筆者は、甲高いツイギーのラップが、変幻自在に倍速になったり、かと思ったらテンポダウンしたことに、大きな衝撃を受けたことをよく覚えている。「こんなラップは聴いたことない!」と。アルバム『SEVEN DIMENSIONS』と『リミキシーズ呼吸法』が出た2000年のときだ。“GO! NIPPON”(『SEVEN DIMENSIONS』)や“今は昔(風雲STORM RIDERS REMIX)”(『リミキシーズ呼吸法』)など、本当にすごいと思った。ツイギー自身も本書で、「斬れる言葉が研ぎ上がったのは、『SEVEN DIMENSIONS』(2000年)だと思う」と言っている。そして、その「斬れる言葉」は、ツイギーによればレゲエによってもたらされている。ツイギーは、「小節に対して倍速で言葉を入れることに気付いて、最初はすごい発見をしたと思ったんだけど、でも、それをレゲエのビートに乗っけてやってみたら結構普通の感じだった」と前置きしつつ、次のように言う。

俺はV.I.P.の現場でBOY-KENやシバヤンだったり、レゲエのみんながやっていたスタイルをRAPに変換したんだ。と、……そう簡単に言ってしまうと俺も自分なりに模索しながらやってきたことがあるから、認めたくない部分もあるんだけどね。それまでレゲエの現場でRAPでラバダブをやると、俺の言葉だけ間延びする感覚がずっとあった。それが俺はすごくイヤだったんだけど、倍速で入れるとそれが解消されることに気付いたんだ。
 そうやってレゲエの現場で体で学んだやり方をもってして俺はRAPに戻ってきた。そうしたらビートに対しての、みんなのRAPの乗せ方が俺にはすごく感じたんだ。だからHIPHOPの現場でライヴするとバシっバシっと斬っていく感じがあった。それが試行錯誤の末に、間延びする日本語に対して俺が生み出したやり方だった。

 現在のように、本当にゆたかなフロウの数々に囲まれているとつい忘れそうになるが、まだ生まれていないフロウを生み出すことは、本当にたいへんなことである(だからこそ、少なくない人にとって、日本語ラップをめぐる現在の状況がこのうえなく感慨深いのだろう。日に日に新しいラップのモードが出現する!)。ラッパーでない俺なんかが共感することではないかもしれないが、それでも、ツイギーの「小節に対して倍速で言葉を入れることに気付いて、最初はすごい発見をしたと思った」という気持ちは、曲がりなりにもリリックを書こうとしていたひとりとして、とても共感する。DJマスターキーのアルバム『DADDY’S HOUSE vol.1』(2001)のラストには、ツイギーをフィーチャーした“MASTERPLAY”という曲が収録されているのだが、ここで聴くことのできるツイギーのラップは絶品だ。マスターキー自身、当時のインタヴューで「ツイギーの新しいラップが引き出せたと思う」といったようなことを言っていた。遅めのビートに対して速度が自在に変化して、変拍子的にアクセントが入るラップは、リアルタイムで聴いたとき、本当に感動したものだ(「っき!ほんっ中!の基本!っダ!っディー!ズハー!ウス」)。

 速度が自在に変化するようなフロウは、サウス系のラップも通過した現在ではほとんど前提の技術になっている感があるが、これはどこから来たものだろう。現在のゆたかなラップをひと括りにするのは困難だし、そこに単一の起源を求めるのもまた無茶なことだが、僕がその気持ちよさを最初に感じたのがツイギーのラップだったのは間違いない。しかも、サンプリング主体のトラックではなく、アブストラクトなトラックのうえで(『リミキシーズ呼吸法』では、カンパニー・フロウのリミックスなども収録されている)。ツイギーは2000年前後の時期について、マイクロフォン・ペイジャーのような「ニューヨーク・スタイルのローファイなループの上でやるのがイヤだという思いがあった」と言いつつ、「メロウなビートの上で、違うリズムでRAPを乗せる、シンコペーションしている」ような、サウス的なスタイルを「研究」していたと振り返っている。こういう個々人の「K.U.F.U」(ライムスター)の蓄積が、新時代の表現を生むのだろう。そういう意味で、現在のラップの底流には、2000年前後にツイギーが追求した方法論が存在していると感じる。そして、さらにその奥底には、V.I.P. CREWの水脈がある。先のECDは、「日本語でラップをするという試行錯誤の一つの到達点がTWGYのラップなのだ」と書いている。

伝説的なイヴェントである、さんぴんCAMPから20年。現在、『フリースタイル・ダンジョン』をはじめ、スキルフルなラップは多くの人の心をつかんでいる。サウスの影響も色濃い現在の日本語ラップのシーンと、東海岸的なサウンドが色濃かったいわゆる「さんぴん世代」的な日本語ラップのシーン。そのあいだを方法論的につないでいたのは、さんぴんCAMPのさなかにジャマイカ(レゲエ!)に行っていたツイギーだったのではないか。2000年前後にツイギーに夢中になっていた筆者は、本書を読みながら、そんなことを思った(異論歓迎である)。

Powell - ele-king

 さあ、大声で叫んでみよう。ファァァァァァック! あー、気持ち良い。物わかりの良いお利口さんの音楽には、あるいは、おっさんおばはんの音楽には付き合いきれないぜという若いキミ、若くてうずうずしているキミ、お待ちどうさま。パウウェルが控えている。
 百聞は一見にしかず。まずはコレを聴いて。

 最高に格好いいよな、EDMなんかよりも。悪いけど、それがわからなければ、あんたは永遠にダサい。どんなウンチクを並べようともな。
 〈XL・レコーディングス〉から近々発売予定の、パウウェルのオリジナル・ファースト・アルバムに向けて、ロンドンとニューヨークでは写真のようなビルボード広告を出している。このメールアドレス(powell@xlrecordings.com)にメールを送るとPowell本人が返答し、徐々にアルバムの詳細などを明らにされることになっている。ぼく? もちろん、すでにメールしたよ。
 FACT MAGによれば──何故直接コミュニケーションを取る方法をとったかについて、パウエルは、彼の新作がもうすぐリリースされること、そして「溜まりに溜まっていたものを全部吐き出したかったんだ。世に出ることのない昔作った音楽を一掃したかったんだよ」と語っている。
「俺はメールをしてくれた全員に返信するよ。俺がすでにしているメールのやりとりは気が狂ってるものだね」
 昨年がジェイミーXXなら、今年はコレかよ。〈XL〉、やるなー。
 

 

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