「ファクトリー」と一致するもの

[Electronic, House, Dubstep] #6 - ele-king

1.Lone - Echolocations EP | R & S Records


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E王  ノッティンガムのボーズ・オブ・カナダ・フォロワー、ローンのこのところの人気にはすごいものがある。アクトレスのレーベル〈ワーク・ディスク〉からリリースされたセカンド・アルバム『エクスタシー&フレンズ』がロング・セラーとなって、そしてダンサブルな方向性を打ち出した昨年末の『エメラルド・ファンタジー・トラックス』によって完璧にファンの心を掴んだと言えるだろう。〈R&S〉からのリリースとなった2枚組のこのシングル「エコロケーションズEP」も『エメラルド・ファンタジー~』の流れで、ドリーミーでメロディアスなディープ・ハウスを展開している。テクノっ子たちが大好きな、昔ながらの909系のスネアの音がキープされているが、ビートにはガラージ~ダブステップ時代のシャッフルがあり、美しいメロディを有する上ものにはここ数年の傾向と言えるだろう、大いなる逃避主義とユーフォリアのみが輝いている。つまりチルウェイヴとも親和性が高く、ぼやけた夏の夢が揺れている。

2.Sbtrkt - Living Like I Do | Young Turks


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 ダブステップにおけるネオ・ソウルの代表を期待されているサブトラクトの新曲だが、曲のテイストは最近のポスト・ダブステップに逆らうかのようなバック・トゥ・ベーシックな展開。UKガラージ流れの2ステップ・ビートにのって、ヴォーカリストのサンパが例によってソウルフルに歌う。曲のはじまりのベースの響きは貫禄充分といったところで、驚きはないが悪くもないといったところ。B面はヒット曲"ルック・アット・スターズ"のマシンドラム(最近は〈ホットフラッシュ〉から素晴らしい12インチも出している)によるリミックスで、チップチューンめいた音色を加えながら安定したブロークンビートを展開している。

3.Factory Floor - Real Love | Optimo Music


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 エレクトロと呼ばれるジャンルにおいて、もっとも危険で、もっとも大胆で、もっともぶっ飛んでいて、ずば抜けて格好いいのがロンドンのファクトリー・フロア。彼らの音楽にはクリス&コージーとアンドリュー・ウェザオールが同居しているようなエロティックでドラッギーな凄みがある。昨年リリースした10インチ+DVDにおいては彼らの毒々しい美学を存分に繰り広げていたが、ミニマリズム映像とノイズによるDVDは、途中で停止ボタンを押すことができないほどの緊張があった。
 これはオプティモが運営するレーベルからのリリースで、高速にドライヴするアルペジエーターが容赦なく性的興奮を誘発する。B面に収録されたオプティモのJDトゥイッチによるリミックスは、オリジナルを過剰なまでにトランシーなトラックに変換している。

4.Toddla T feat. Roisin Murphy - Cherry Picking | Ninja Tune


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 そうか、同じシェフィールド繋がりだからか、ロイジン・マーフィ(10年前はモロコの名義でダウンテンポのクラブ・ジャズ系を出していた女性シンガー)をフィーチャーした、セカンド・アルバムのリリースを控えたトドラ・Tの先行シングルで、グライミーなダンスホール・スタイルにマーフィのキャッチーな歌が入った完璧なポップ・チューン。UKらしいポップ・ソングとも言える。
 トドラ・Tの新作には、その他、ガラージ・シーンの顔役たち、ドネイオー、ショーラ・アマ、ミズ・ダイナマイト、そして大御所ルーツ・マヌーヴァなどが参加しているらしい。ジェイミー・ウーンはいまだに買うかどうか迷っているけど、トドラ・Tに関しては迷わないよ。

5.Ari Up & Vic Ruggiero - Baby Fada | Ska in the World


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 昨年10月、ガンのために逝去したアリ・アップの未発表音源で、ニューヨークのスカ/ロックステディ・バンド、ザ・スラッカーズのメンバー、ビクター・ルジェイロとのコラボ作。これがまた......未発表とは思えないほどの出来で、何の目新しさもないレゲエ・トラックが、彼女の迫力あるヴォーカリゼーションが入っただけで別物すなわち魅力たっぷりのパンキー・レゲエ・スタイルになっている。
 このアルバムを聴くのが楽しみだし、生前にたくさんの録音物を残していたという話で、他にもニュー・エイジ・ステッパーズの新作も出るという。

6.Kitty, Daisy & Lewis - I'm So Sorry/I'm Going Back | Sunday Best Recordings


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 悪名高いレトロ主義者3兄弟のおよそ3年ぶりの新曲は、彼らの50年代のスタイルにさらに磨きをかけている......なんて生やさしいものではなく、驚くほどパーフェクトにそれを具現化している。録音機材もほぼすべてヴィンテージに進められたセカンド・アルバムからの先行シングルで、スカに挑戦した"アイム・ソー・ソリー"にはトロンボーンにリコ・ロドリゲス、トランペットにエディ・ソーントンといったジャマイカの大御所を招いている。それはいちど聴いたら耳から離れない、スタイリッシュかつキャッチーな曲だ。B面は彼らの十八番のレトロなロックンロールで、エネルギッシュで、格好いい。それはただ格好いいだけであり、ただスタイリッシュなだけだが、しかしそれのどこが悪いのだろう。ザッツ・エンターテイメント、本当に素晴らしいシングル。

7.The Beauty / Jesse Ruins | Cuz Me Pain

 〈カズ・ミ・ペイン〉は日本のインディ・レーベルで、昨年コンピレーション・アルバム『Complilation #01』を発表している。なんでも"日本のチルウェイヴを代表するひとつ"ということで、そのスジではずいぶんと注目されているという。日本のチルウェイヴ的な動きもいよいよ顕在化してきているようで、今年に入って橋元優歩が紹介していたフォトディスコも素晴らしかったし、遅まきながら僕も〈カズ・ミ・ペイン〉のコンピレーションも聴いたのだけれど、こちらも魅力的な内容だった。〈カズ・ミ・ペイン〉一派の音には、耽美的でエロティックな感性もあり、音楽的にもサイケデリック・ポップからダーク・アンビエント、エクスペリメンタル等々......それをチルウェイヴと呼ぶには抵抗を感じるほど多様な音楽性のように思ったけれど、このレーベルが日本においてUSアンダーグラウンドに強く共振していることはたしかだろう。
 ここに紹介するのは〈カズ・ミ・ペイン〉から出たカセットテープで、ザ・ビューティとジェシー・ルインのふたつがそれぞれの面に3曲づつ収録している。ディストピックなチルウェイヴ、ダーク・エレクトロ、デイドリーミングなポップ......さまざまな側面を見せていて、今後どの方向に進むのかわからないけれど、彼らのポテンシャルの高さは感じる(カセットで出しているところも良いね)。まあ、そんなわけで、日本におけるサイケデリック新世代はすぐにそこにいるようです!

interview with Lizzy Bougatsos (Gang Gang Dance) - ele-king


Gang Gang Dance
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Pヴァイン E王

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 ブラック・ダイスとアニマル・コレクティヴが第一波とするなら、そのあと続いたのがイクセプター、そしてギャング・ギャング・ダンスだった。ゼロ年代のディケイドにおいてニューヨークのアンダーグラウンド・シーンの実験精神とそれに付随するポップが健在であることを世界に訴えた彼らの活動も、すでに10年が過ぎている。アニマル・コレクティヴはチャート・ヒットまで飛ばすようになったし、ずんどこずんどこドラム叩きながらノイズを鳴らしていたギャング・ ギャング・ダンス(GGD)はシャーデーとヒップホップとボアダムスをシェイクするような、彼らのポップを展開した。GGDとは、いわばインディ・ロックにおけるエキゾチカである。
 新作『アイ・コンタクト』は、GGDが国際的な活動をはじめる契機となった前作『セイント・ディンフナ』(2008年)に続くアルバムで、バンドは彼らの異国情緒漂う音をさらに洗練させている。11分にもおよぶ冒頭の曲"グラス・ジャー"の滑り台をゆっくり滑っていくようなトリップが、僕はもっとも気に入っているのだけれど、ホット・チップのアレクシス・テイラーが参加した"ロマンス・レイヤー"のハイブリッディなシンセ・ポップも捨てがたい。全10曲 (日本盤にはボーナス・トラックが加わる)のうち3曲はなかばインタールード的なものなので少なめの曲数だが、逆に言えば1曲1曲が際だっている。"アダルト・ゴス"はキュアがインド・レストランで演奏しているみたいだし、"チャイニーズ・ハイ"はエチオピアに引っ越したティンバランドのようだし......この10年でポップ・ミュージックに投げ込まれた無邪気なワールド(とくにエチオピアン・ミュージック)感覚がブレンドされ、ずいぶん楽しめる内容になっている。
 さて、それではこのへんでニューヨークの沢井陽子さんにバトンタッチします。


上段左:Brian DeGraw  上段中:Lizzi Bougatsos  上段右:Jesse Lee
下段左:Taka  下段右:Josh Diamond

 4月4日の月曜日、ギャング・ギャング・ダンスのリズ・ブガツォスとチャイナ・タウンで待ち合わせた。その日の朝に急遽決まったインタヴューだったが、彼女は快くをOKしてくれた。
 現れた彼女は、遅れたことをすまなさそうに謝ったあと、慣れた手つきで、ドリンクとフードをオーダーする。彼女はこの近くに住んでいて、このカフェにはよく来るらしい。店員とも仲良かった。最近バンドのメンバーが彼女のアパートメントに引っ越して来たというが、つい先ほど、この前でばったり会ったらしい。「この場所は私のシークレットなの。彼に知られないかしら」といたずらっぽく彼女は微笑む。吸い込まれそうな彼女の目を見ながらインタヴューははじまった。


私たちはサウンド的にバンドとは思っていなかったし、まずそんなこと気にもしなかったし、パンク精神で、ただオーストラリアの奇妙なレコードみたいに面白いサウンドを追求してただけ。練習をまったくしなかったし、ショーに私が現れないときもあった(笑)。

震災のことはもちろん知っていますよね? 地震のあと津波があって、多くの街が消えました。次に原発で事故があり、環境が汚染されました。

リズ:ええ、テレビでみたわ。ちょうど、アップデイトを聞きたいと思ってたの。私は日本が大好きだし心から心配に思っている。日本には友だちがいて、彼女は電気が十分に使えないと言っていた。でも南部の友だちは何も知らなかったわ。地震より、原子力の放射性物質の漏洩のほうが心配よね。以前に、コロラドやカリフォルニアでも、そうした漏洩があったけど、そのときの影響は、携帯電話ぐらいの影響だったから。日本に行って何かしたいと思ったけど、私がそこに行っても帰って来れないと思った。私たちは曲をドネートして、つい最近日本へ捧げる曲"Bond"を作ったの。日本でこの曲が演奏できると良いんだけどね。

前作の『セイント・ディンフナ』が2008年のリリースだったからけっこう時間が空きましたね。

リズ:リリースのあとはツアーをたくさんしたわ。たぶん2年ぐらいね。コチェラ、USフェスティヴァル、ツアー、ヨーロッパ・フェスティヴァル、ツアー、、かなりたくさんして、そのあとすぐに砂漠に行ったのよ。カリフォルニアのジョジュア・ツリーってところの近くにある29パームスという砂漠の町にね。そこにスタジオを作って、エンジニアといっしょにずっとレコーディングしていた。新しいアルバムはほとんどをそこで録ったのよ。

なぜ砂漠だったんですか?

リズ:友だちがいて、そこにステイしたの。スタジオを作って1ヶ月半ぐらいいて、ショーをしたりもしたわ。エンジニアがいて、曲を作って、レコーディングして、創作作業が同時にできるのが、とてもうれしかった。

メンバーがよく替わっていると思うのですが、いまのメンバーを紹介して下さい。

リズ:基本的には4人よ。ベース・プレイヤーはいま3人いて、みんな別の場所に住んでいるの。ひとりはスリーピー・ドッグ・ショウ。彼はハイ・ライフというバンドでプレイしていて、元ホワイト・マジックでもプレイしていた。もうひとりは、ティム、彼はアリエル・ピンク・アンド・グラフィティでベースを弾いていて、もうひとりは、インターポールでベースをプレイしている。

いまはどんな風に過ごしているんですか?

リズ:いまはリリース前で忙しい。今日もこのあと8時からインタヴューが入っている。今月末には私の別のバンド"IUD"で台湾に行くの。アルバムがリリースされる5月3日は、ニューヨークでギャング・ギャング・ダンスのショーがあるのよ。

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彼のリリースする作品は、アンダーグラウンドで、コアなファンがたくさんいたの。たとえばソニック・ユースのサーストン、彼は〈Fusetron〉のカタログを間違いなく全部持っているわ(笑)。


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Pヴァイン E王

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昔の話を訊きたいのですが、どういう経緯でクリス・フリーマンの〈Fusetron〉から2004年にデビュー・アルバムを発表することになったんですか?

リズ:たぶん、その当時私は彼とデートしていたの(笑)。いや、まだデートしてなかったかな(笑)? 彼はサウンドエンジニアで、ブラック・ダイスの音響を担当したり、レーベルも持っていた。彼とは私の別のバンド、エンジェル・ブラッドを通して出会ったんだけどね。
 私たちはその当時、サウンド的にバンドとは思っていなかったし、まずそんなこと気にもしなかったし、パンク精神で、ただオーストラリアの奇妙なレコードみたいに面白いサウンドを追求してただけ。彼も同じだったし、このアルバムのサウンドはとてもいいのよ。彼のリリースする作品は、アンダーグラウンドで、コアなファンがたくさんいたの。たとえばソニック・ユースのサーストン、彼は〈Fusetron〉のカタログを間違いなく全部持っているわ(笑)。

同じ年にはやはり〈Fusetron〉からイクセプターも作品を発表していますが、同じステージに立つことが多かったのでしょうか?

リズ:彼らは、同じぐらいのときにいたので、よくいっしょにプレイしていたわ。

初期の頃はインプロヴィゼーションですよね? バンドのコンセプトはどんな感じだったのでしょうか?

リズ:いまイクセプターの名前をあげたのは面白いわね。その当時は、同じようなバンドとしてとらえられたのかしら。私たちはバンドでありたいとは全然思っていなかったし、ジョシュ(ドラマー)は、コーヒーショップで働いていて、そこで仲良くなった人たちとジャムをしていた。そのカフェは、とても有名なジャズ・ミュージシャンやフリークがよく集まっていて、その人たちとよくいっしょにショーをしていた。たとえばウォーホル・ポエットのテイラー・メッド、彼はアンディ・ウォーホルとよくハング・アウトしていたの。昨日、アンディ・ウォーホルの建築物を〈ファクトリー〉があった近くの場所に埋めるセレモニーがあったんだけど、そこで彼にあったばかりよ。いまでも彼とよくハング・アウトするのよ。

『Revival Of The Shittest』をいま聴くと、すごく混沌としたサウンドなのですが、しかし勢いはすごい。どんな気持ちで当時は演奏していたのですか?

リズ:私たちは練習をまったくしなかったし、ショーに私が現れないときもあった(笑)。代わりに私の友だちのリタがマイクを握ってたりとかね。彼女とは、私といっしょにエンジェル・ブラッドを組むことになるんだけど。仕事で遅くなって、私がそのあと現れてオーディエンスにいたりとかね。

どんな会場で、何人ぐらいのオーディエンスを前にライヴをやっていたのですか?

リズ:いろんな場所でライヴをした......、いまはもうないんだけど、ローワー・イーストサイドのトニックからブルックリンの奥地とか、ライヴができるところならどこでも。当時はアニマル・コレクティヴとブラック・ダイスとプラクティス・スペースをシェアしていたんだけど、彼らとは曲を聴きあったり、そこでもライヴをいっしょによくやったわね。

どのような経緯で歌うようになったのですか? 

リズ:ドラムをたたく代わりに歌いはじめたのよ。これが個人的にどのように歌をバンドで歌いはじめたかね。その前は、スポークン・ワードをしていた。DJみたいな感じで、パンクやハードコア・バンドのオープニングをしていたのよ。

あなたの歌は非西欧的な旋律があってエキゾチックで知られていますが、あなたがヴォーカリストとして参考にした人がいたら教えてください。

リズ:R&Bシンガーが大好きなのよね。それかムラツ・アスタケのようなエチオピアン・ミュージックも大好きよ。シンガーでとくに好きなのはアリーア、テキーサ(ウータン・クランのバック・ヴォーカル)、メアリー・マーガレット・オハラ、シニード・オコナー、ニナ・シモン、そしてシャーデー......女性シンガーにはソウルがあると思うのよね。

セカンド・アルバム『ゴッズ・マネー』からあなたは歌に向かっていったと思いますが、あのアルバムはバンドにとってどのような意味がある作品でしたか? 

リズ:『ゴッズ・マネー』から〈ソーシャル・レジストリー〉に移籍したのよ。プラックティス・スペースがグリーンポイントにあって、すべてそこでレコーディングしたのをよく覚えている。当時の私たちはヒップホップやアフリカン・ミュージックをよく聴いていたんだけど、『ゴッズ・マネー』は、より一般的なオーディエンスに伝わるように、ポップ・ソング的構造を持っていて、いわゆる曲になっていった最初のアルバムだと思う。

『セント・ディンフナ』は? あのアルバムはバンドにさらに大きな成果だったのではないでしょうか? 

リズ:音楽をよりたくさんのオーディエンスに伝えられたとは思うわ。アメリカではレーベルは〈ソーシャル・レジストリー〉だけど、ヨーロッパでは〈ワープ・レコード〉、日本では〈Pヴァイン〉からリリースされた。このアルバムは、より取っつきやすいんでしょうね。そういう意味では『セント・ディンフナ』はポップ・ソングのエイリアン・ヴァージョンね。いろんな別のスタジオでレコーディングしたけど、途中でお金がなくなって、またツアーをしなくてはならなくなって、それの繰り返しだった。アルバムを作るのに時間がかかったのよ。マネッジからすべて自分たちでやっていたし、まるでシャロン・オズボーン(オジー・オズボーンのマネージャー)になったようだったわ(笑)。そういえば、いまの私たちにはスピリチャル・アドヴァイザーがいるのよ。

あのように話題となった作品の次作というのは、ある意味では取りかかるのに難しくないですか?

リズ:このアルバムから新しいドラマーに変わったし、とにかく自由になって新しいことをしたかったの。だから砂漠に行ったのかもね。その頃から面白いオファーがきはじめていたし、例えば、ボアダムスから皆既日食のツアーオファーね。ボートに乗って日本からロシアにいったの。とても良い経験だったわ。

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『セント・ディンフナ』はポップ・ソングのエイリアン・ヴァージョンね。いろんな別のスタジオでレコーディングしたけど、途中でお金がなくなって、またツアーをしなくてはならなくなって、それの繰り返しだった。アルバムを作るのに時間がかかったのよ。


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Pヴァイン E王

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そういえば、ボアダムスの88人ドラマーでもあなた方はプレイしていましたよね。ボアダムスはロサンジェルスで、あなた方はニューヨークで同時開催。私も見に行きました。

リズ:88人ドラマーのときは、強烈でモンスターのようだったわね。1ヶ月ぐらいかかって曲を作ったの。たくさんの試行錯誤があって、それをすべて終えて、本番で歌っているときは、まるで宇宙船に乗っている気分だったわ。

GGDの音楽には非西欧的な要素がブレンドされていますが、たとえばこの間、どこか旅行されましたか?

リズ:最近はアフリカに行くオファーがあったのだけど、バンドのメンバーの都合で行けなくなったの。私自身、中国に行ったことはあるわ。今月末に、私の別のバンドIUDで台湾に行くの。ダニー・ペレズを知ってる? アニマル・コレクティブのヴィデオなど録っているのだけど、彼と一緒に行くのよ。

たとえば2曲目の"∞"は何を意味しているのでしょう?

リズ:インフィニティ。これはシンボルで、フォーエヴァー、ネヴァーエンド、境界のない......などを表すの。ロマンティックなシンボルで、境界なく、誰でも音楽を聴くことができて、音楽は永遠に続くの。もっと良い例を挙げたいわ......。(iPhoneで"∞"をサーチする)

アルバムには"∞"で記される曲名が3つありますね。

リズ:私たちはいろんな意味で、走り続けるの、キープ・ゴーイン。私たちを表すシンボルだと思ったの。

話が前後してしまいましたが、実際に、どのようにして新作『アイ・コンタクト』は生まれたのでしょう?

リズ:砂漠で、たぶん2009年。曲を書きはじめ、演奏しはじめ......
(iPhoneでのサーチが完了する)
 その前に"∞"インフィニティーについてもういっかい説明していい? これはアイディア。制限のないスペース、音楽には境界がないの、終わりがなくて、果てしなくて、誰とでも境界なく共有できるもの。とても美しい言葉で、ラテンからきているの。上手く伝わると良いんだけど。新しいTシャツにはこのデザインのものがあるのよ。
 レコーディングは、最初に29パームスで、次にウッドストックのドリームランドというスタジオ、そしてアップステートでヴォーカル録りをして、ファイナル・ミックスはブルックリンでやった。

アルバムの1曲目"グラス・ジャー"が素晴らしいですね。とても美しく、静かに引きこまれるような曲です。気がつくと曲がはじまっているような......。本当に魅力的な曲です。最初に声からはじまっていますが、「I can hear everything..」と言ってますよね。とても暗示的な言葉ですが、これを今回のアルバム全体にとってどんな意味を持つ言葉なのでしょう?

リズ:面白いんだけど、私たちには日本人のスピリチュアル・アドヴァイザーがいて、彼を"Baby Love"と呼んでいるんだけど、彼が「I can hear everything..」 の部分を歌っているの。彼が、何かの形で加わりたかったことを知っているし、彼はとても良いヴァイブをくれるの。いっしょにツアーをしたりもした。アップステイトにハウスを借りたとき、彼もいっしょに来て、この曲ができたのよ。

"グラス・ジャー"の途中では「don't worry」という声が繰り返されますね。

リズ:これはね、プロテクション・ソングとしてはじまったの。この歌は砂漠で書いて、誰かが死ぬと違う形で帰ってくる。それってある意味インフィニティね。それがグラス・ジャーのなかに見える。グラスジャーは知っているわよね? そう、透明のジャーね。その魂は、グラス・ジャーのなかに帰ってくるのよ。
 これは私たちの前のメンバー、ネイサン・マドクスのことを歌っているのかもしれない。彼は雷に打たれて2002年に死んでしまったのだけど、ツアーに出ているときでも、いつも彼が守ってくれていると感じるの。ちょっとヘヴィーな話ね。これをリリースすると決めたのは、私たちじゃないんだけど、いえ、最終的にはそうなんだけど、結果的に11分ぐらいになったのよ。

"アダルト・ゴス"のメロディは、東南アジアの音楽からのインスピレーションですか? 

リズ:これは砂漠で書いたんだけど。何となくシャーデーっぽいわね。シャーデーは好きでよく聴いている。

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シャーデーは家にいつもあるし、あとはアリーアね。彼女はR・ケリーのガールフレンドで、2001年に飛行機事故で死んだのだけど、私はほとんどCDを買って、i Podで聴いているんだけど、アリーアに関してはヴァイナルも買ったわ。


Gang Gang Dance
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Pヴァイン E王

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ダブステップは好きですか?

リズ:昔はよくきいていたけど、いまは聴いていないわ。いまは新しい音楽には興味がないの。同じ音楽をずっと聴いているの。

ホット・チップの音楽とGGDの音楽には、それほど共通点があるようには思えないのですが、どんなところで彼とは気が合うのでしょうか?

リズ:アレクシスはとても良い友だち、彼はとってもおかしな音楽を聴くのよ。私たちはお互いドン・チェリーが好きと言う共通点があるわ。思えば、そこから私たちの関係がはじまったのかもね。あと、私たちはジェイデラを聴いていて、彼はデトロイトのプロデューサーなんだけど、たくさんの曲をカットアップしたり、エリカ・バドウなど、たくさんのアーティストと仕事している、有名なプロデューサーなんだけど、アレクシスにこの曲をジェイディラっぽくミックスしてもらえないか、と持ちかけたの。彼とは、同じようなヴァイブを持っているし、それで、アレクシスに「歌ってみる?」と訊いたのよ。彼って、マーヴィン・ゲイのような声をしていると思わない?

ロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉を拠点とするLAヴァンパイアーズは好きですか? 共通する感覚があると思うんですけど。

リズ:知らないわ。

サン・アロウ(Sun Araw)は? 

リズ:それがサン・ラーのことならイエスね。ホント、いまはそんなに新しいバンドを聴いていないのよ。さっきも言ったけどエチオピアン・ミュージックとか、古いヒップホップとか、ずっと同じものを聴いている。私はいつも曲を書いているし、それが好きなのね。シャーデーは家にいつもあるし、あとはアリーアね。彼女はR・ケリーのガールフレンドで、2001年に飛行機事故で死んだのだけど、私はほとんどCDを買って、iPodで聴いているんだけど、アリーアに関してはヴァイナルも買ったわ。だって、私はレコード・プレイヤーを持っていて、プレイヤーを動かすときだと思ったのよ。

『アイ・コンタクト』というアルバムのタイトルの意味を教えて下さい。

リズ:私たちはオーディエンスとより直接的な関係を気づきたかったのよ。たとえば、誰かの目を見ながらね。また、私たちのバンド内で、何か正しいことがわかったときの、コミュニケーションでもあるの。

曲の最後に「forever ever」という声が聴こえるのですが、それはこのアルバムのクローズとしてどんな意味を持っているのでしょう?

リズ:音楽は永遠に生き続けるってことよ。

それにしても、今回は、なぜポップスをやりたかったのでしょう?

リズ:これは、どのように私たちの音を発展させるかによるわ。私たちは、自分たちの音楽がどのようになるか計画したこともない。ポップ・ミュージックも聴くけど、私たちの音楽は自分たちが、どのように世界を知覚しているかの反映というだけなのよね。

ブルックリンに行ったら、どこのレストランがオススメか教えてください。

リズ:私はチャイナタウンに7年間住んでいるのよ!

interview with Salyu + Keigo Oyamada - ele-king


salyu × salyu
s(o)un(d)beams

トイズファクトリー E王

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 変化を望む人が好むのは、変化を肯定する音楽である。停滞を否定し、動き続けることを良しとする音楽だ。salyu × salyu(サリュー・バイ・サリュー)によるアルバム『s(o)un(d)beams』は、そういう意味では変わっていくことを望んでいる、すなわちレフトフィールドなポップだ。小山田圭吾がプロデュースしたこの作品は、まずなによりも耳を楽しませてくれる。Salyuは彼女自身がいち台の有能なシンセサイザー(合成装置)であるかのように、彼女のさまざまな歌と声を絞り出し、それらを惜しみなくコーネリアスの実験台(スタジオ)のミキサーに送り込んでいる。コーネリアスの得意とするギミック(遊び心)はいたるところに効いているが、まあ、個々の楽曲がよくできている。
 彼女の(チョップされたような)複数の声がそれぞれの音程をキープして、ピアノとともにハーモニーを作っていく"ただのともだち"は、このアルバムの面白味を集約しているような曲である。"muse'ic"のような小山田圭吾の歌メロ作りの巧さが出ているような曲においても、彼女は声はただ歌うのではなく、空間をデザインする一要素のように機能している。声を機械に流し込み操作するという点ではブルックリンの才女、ジュリアンナ・バーウィックの新譜を思い出すが、緻密さ、ポップの度合いにおいては他に類を見ない......いや、コーネリアス以外に類を見ないユニークな音楽になっている。作曲はすべて小山田圭吾、作詞は七尾旅人、坂本慎太郎、いとうせいこう、国府達矢といった人たちの名前がクレジットされている。言葉と音楽が他人によるものであっても、歌と声だけでその作品の圧倒的な主役を演じられることをSalyuは主張している。まあ、これだけの個性派に囲まれながら、彼女は見事に声という音を発信しているわけです。

クロッシング・ハーモニーという、ハーモニーの構築という考え方に出会うんです。楽器で鳴らされる不協和音というものを声がやったときにまったく違ったものになる、そういう考えに出会ったときに、これならいっしょにできるんじゃないかと思ったんです。――Salyu

お世辞抜きで、良いアルバムですね。ある意味ではパーフェクトなポップ・アルバムだと思いました。

Salyu:嬉しいですね。

このアルバムの話は、最初はSalyuさんが持ちかけたんでしょ?

Salyu:はい。そうです。私からです。

ポップ・アルバムと言っても実験的なポップ・アルバムですよね。まずはとにかく実験をしたかったのか、あるいはコーネリアスといっしょにやりかったという気持ちが強かったのか、どっちなんでしょう?

Salyu:後者ですね。

後者。

Salyu:はい。もちろん実験的なことはやりかったんですけど、それをコーネリアスといっしょにやりたいという感じですね。

コーネリアスが大きかったんですね。

Salyu:優先順位で言えばそうですね。実験的なことをやりたいということもあったんですけど、小山田さんと音楽を作りたいという気持ちはずっとあった。

ずっとあったんですか。

Salyu:あったんです。でも、小山田さんも自分の音楽活動されているわけで、何か具体的にやりたいことがないとお願いもしにくいというか(笑)。

はははは。

Salyu:まあ、しにくいっていうこともないけど、具体的にこちらが「こういうことやりたい」っていう話があったうえでいっしょに取り組めればなぁというのがずっとあったんですね。そうしたら、クロッシング・ハーモニーという、ハーモニーの構築という考え方に出会うんです。

それは?

Salyu:楽器で鳴らされる不協和音というものを声がやったときにまったく違ったものになる、そういう考えに出会ったときに、これならいっしょにできるんじゃないかと思ったんです。

なるほど。ハーモニーね。

Salyu:これはもう、小山田さんと組んでやりたいと。

それまで面識はあったんですか?

小山田:ちょいちょい。

Salyu:ちょいちょいですね(笑)。小山田さんは私のことほとんど知らなかったんですけど(笑)。

小山田:いえいえ。うちのドラムのあらき(ゆうこ)さんとか、ベースの清水(ひろたか)くんとか、彼女のバンドにいたりして。

なるほど。

小山田:彼女のバンドでギター弾いている名越(由貴夫)さんとかも知ってるし。

名越くん、あー、俺も知ってますよ。ぜひ、宜しくお伝え下さい(笑)。

Salyu:わかりました(笑)。

小山田:だからバンドはみんな知り合いだったんですよね。で、ライヴ見に来てね。

Salyu:私が勝手に見に行ったんです。

小山田:あそっか。いっかい見に来てくれたんだ。

いつのライヴ?

小山田:『センシャス』の頃だよね。

Salyu:渋谷AXでやったときですね。あのとき初めて見て......。

あの完璧なライヴをね。

Salyu:完璧なライヴを、はい。

小山田:完璧じゃないけどね。

あれが完璧じゃないなら、何が完璧なのか(笑)。

Salyu:開場から開演まで、時間も完璧でしたね(笑)。

終演から客引きまで(笑)。

Salyu:そのとき私、パスをもらって。しかもロビーまでしか行けないパスを。そしたらドラムのゆうこさんが「会いたいでしょ。そのパスでは楽屋に入れないからおいでー」って言ってくれて(笑)。それで「うわー」って楽屋に入れてもらったんですよね。そのときに初めてお会いしたんです。話したと言っても2~30秒ですよ(笑)。どわーってゲストが並んでいるなかで(笑)。

小山田:だいたいライヴのときの楽屋はたくさん人がいるからね。

Salyu:まあ、そのときが初めてで。

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その合唱隊が、レヴェルが高い合唱隊だったんですよ。複雑なドビュッシーとかの器楽曲を声で再現しているんだよね。それがね、もうむちゃくちゃすごいんですよ。とにかく今回やっているのは彼女の原点に近いんですよ。シンガーやってるのはそのずっと後だから。――小山田圭吾


salyu × salyu
s(o)un(d)beams

トイズファクトリー E王

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僕も、たいへん失礼な話なんですけど、Salyuさんの音楽ってそれまで聴いたことがなかったんですね。

Salyu:いいんですよ(笑)。

す、すいません(汗)。逆に言えば、僕みたいなリスナーは今回の作品で知ることができたんですけどね。それで以前の作品も聴いてみたんです。そしたらぜんぜん違うことをやっていて驚いたんです。今回の音楽は、いままでやってきたことをさらに発展させるとか、いままでやってきた音楽に新たな方向性を与えるとか、多様性を持たせるとか、そんなものじゃないでしょう。だからすごくドラスティックな挑戦に思ったというか、大変身とういか、「よくここまでやられたなぁ」と思ったし、「いままで何でやらなかったんだろう?」とも思ったんですよね。

Salyu:ことの発端がハーモニーということへの興味だったんで、それを21世紀のポップスとしてどう落とし込むかということがあって、それで小山田さんの力を借りたかった。それで、なぜいままでこれをやらなかったのかとういと、小さい頃から合唱をやっていたんですね。それでハーモニーということが小さい頃から身近にあったんです。ずっとやっていたし、愛しているし......、だから、挑戦ではあるんですけど、私にとっては原点回帰に近いんですよね。ガラっと新しいことをやったというよりも、もともと持っていたモノなんです。

ああ、なるほどね。

Salyu:だから、Salyuとしてやっていることは、ポップスを歌う、ということを考えてやっているシンガーなんだけど、今回のsalyu×salyuというプロジェクトは、より幅広く引き出しをもっていて、小さい頃からやってきたこともそこに入っているという感じですね。幅広くやっているというか。

小山田:駆使している。

Salyu:そう、すごく駆使しているんです(笑)。

小山田:ライヴを見てもらえればよくわかると思いますよ。子供の頃にやっていた合唱隊の女の子、去年、結婚式で再会して、それでスカウトしてきて、いま4人組のコーラスグループ作って、このアルバムをぜんぶ再現するんだけど。

ああ、こんど(4/15)DOMMUNEで放映しますよね。それ、楽しみです。しかし、合唱隊というのが新鮮でいいですね!

小山田:その話にすごくピンと来たんで。

Salyu:合唱隊というと人を集めなければならないんですが、たまたま10代のときにいっしょにやっていた同級生に会えて、それで彼女たちといっしょにやればいいんだって。

小山田:しかもその合唱隊が、レヴェルが高い合唱隊だったんですよ。複雑なドビュッシーとかの器楽曲を声で再現しているんだよね。それがね、もうむちゃくちゃすごいんですよ。

Salyu:ハハハハ。

小山田:とにかく今回やっているのは彼女の原点に近いんですよ。シンガーやってるのはそのずっと後だから。

そうかー、その合唱隊という話を聴いてすべてがクリアになった気がしますよ、僕は。コーネリアスのポスト・パンク的な感性と合唱隊は合うだろうし、小山田くんがそういうのが好きなのもわかるし。あと、これは計らずとも、なんですけど、21世紀のポップで歌とエレクトロニクスというテーマはたしかにあって、ジェームス・ブレイクって知ってる?

小山田:ああ、チラリと。

ダブステップ系の人で、輸入盤だけで日本でも3000枚以上売ってるんですけど、彼の音楽を特徴づけているのがまさに歌を電子的に操作するってところなんですよね。サンプリングしたネタを思い切り変調させるだけじゃなく、それで和音を作るんですよね。salyu×salyuの目指していることと決して遠くはないですよね。

Salyu:へー。

コーネリアスの音楽の特徴にエレクトロニクスというのがあるじゃないですか。それはまた合唱以外の部分だと思うんですけど。

小山田:エレクトロニクスがいいとか、アコースティックがいいとか、あんまないですよね。

Salyu:なんでもアプローチしてみたいタイプなんですけど、今回とくにエレクトロニック・ミュージックをやりたいなということでもなかったね。

小山田:あくまで声が基本なんですよね。それがあれば、バックトラックはなにがあっても良いって感じだったんだよね。

Salyuさんがコーネリアスでとくに好きなアルバムってなんですか?

Salyu:『ポイント』、それから『センシャス』。人生のなかですごい大きな出会い。

どういう意味において大きかったんですか?

Salyu:えーとね、ちょっとロマンティックな言い方になるけど、私、1980年生まれなんですね。20歳になると世紀が変わると言われて育ってきたし、だから新しい世紀をすごく楽しみにしていたんですね。いろんなことが変わると子供の頃から思っているわけですよ。まあ、90年代後半からあまり変わらないんじゃないかなと思っていたんだけど、やっぱり期待があったんですね。でも、21世紀になってもあまり変わらないなというのがあって、「あまり変わらないな」と、「新しい世紀らしいこともあんまないな」と、そんななかで『ポイント』を聴いて、それが「変わった」と感じることができた最初の出来事だったんですよね。

なるほど! 未来を感じることができたと。

Salyu:新世紀という実感をもらった作品。

とくにどんなところにそれを感じたんですか?

Salyu:空間の広さ、空間のあり方の新しさというか。いろいろとあるんだけど、そういうことなんじゃないかな。

なるほど。

Salyu:ポップだってこととかさ。

ポップな曲はたくさんあるけど、コーネリアスのポップさは他と違うからね。

Salyu:そう。

ふーん。そういうことで、今回はもう、プロデュースは丸投げ、「任せましたー」って感じだったの?

Salyu:そうですね。

小山田:そこまで気持ちよく投げてもらえたから、気持ちよくやらせてもらいましたよ。

あと、コーネリアス的には、このところやってこなかった歌作りというか、ソングライティングというのもやっているよね。

小山田:そうですね。でも、それはもう、彼女に触発されてやった。自分ひとりではできないことだから。

もともと歌メロ作るのが上手い人だから。コーネリアスではそれをあんま出さなくなっちゃったから。

Salyu:そうそう、だから、すっごい楽しみだったんですよね。どういうメロディをもらえるんだろうって。

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私、1980年生まれなんですね。20歳になると世紀が変わると言われて育ってきたし、新しい世紀を楽しみにしていたんですね。でも、21世紀になってもあまり変わらないなというのがあって、そんななかで『ポイント』を聴いて、「変わった」と感じることができた最初の出来事だったんですよね。――Salyu


salyu × salyu
s(o)un(d)beams

トイズファクトリー E王

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歌詞に関しては複数の方が書いていますけど、それも小山田くんが決めたの?

小山田:いや、それは彼女と相談して。

ちなみに坂本慎太郎の"続きを"の歌詞は、震災のコメントとして彼がele-kingに寄せてくれたんですけど、ものっすごい反響があったんですよ。

小山田:ああ、DOMMUNEに出てたよね。それは僕らもびっくりしていたんだよね。

それが計らずとも最後の曲になっているんだね。

小山田:そうなんですよね。実は震災のあとにこの曲をあらためて聴いたんですよ。本当は、震災の後に別の曲を発表する予定だったんですけど、それを急遽、この曲にしようって、Salyuたちと演奏したやつをYouTubeにアップしたんだよね。そのときも歌詞に対する反応がすごかった。で、その曲をやる前に、坂本くんに連絡して「やるけどいい?」って言ったら、「実はそう思っていた」って。「歌詞をele-kingに上げるけどいい?」って。彼ももちろんこういう状況を想定して書いたわけじゃないんだけど、でも、その言葉が何かいまの気持ちを代弁してしまった。そういうことって、偶然にしろ、あるときにはあるからね。

salyu×salyuのこのアルバムを最初に聴いたときには、良い意味でエンターテイメントだと思っていたんだけどね。それがね......。

小山田:......うん。

Salyuさんは自分でも歌詞を書いてますよね。

Salyu:どっちかと言うと、あんま好きじゃない。

作詞はダメ?

Salyu:苦手なんですよ。

なんで(笑)?

Salyu:なんでかって言うと、もうすでにある曲を演奏するのが音楽だと思って育ってきているんです。

あー、そうか。

Salyu:合唱も、山のように譜面があって、人の作った曲を自分がどう演奏するのかってことが音楽だと思って育ってきている。だから、人からいただく(曲の)ほうがフィットしますね。

小山田:坂本くんに歌詞を書いてもらいたいといったのもSalyuだから。

そうなの。俺は疑いもなく、これはいかにも小山田くんかと思っていた。

小山田:僕ももちろん、思ってはいたんだけど、ゆらゆら解散したばっかりだったから、ちょっと言いづらくて。

Salyu:ハハハハ。

小山田:でもSalyuが言ったから、ちょっと言ってみようかなと(笑)。

Salyu:ねー。あれは感動的でしたよね。

いろんなタイプの曲をやっていると思うんですけど、かなり実験的な曲もやってますね。声がループしているヤツ。

小山田:"歌いましょう"かな。

そう、あれ。

小山田:あれは僕が適当に作った曲。Salyuが忙しいときに、彼女の仮歌を僕がチョップしたり編集したりして、それで作った。

あれは......ひと言で言ってしまうと、アニマル・コレクティヴというか。

小山田:そう、気持ち悪いですよね。

Salyu:ハハハハ。

あの曲だけブルックリンなんだよね(笑)。ジュリアナ・バーウィックという女性アーティストの作風とすごく近い。

Salyu:ライヴでは、ループ・マシーンを使って、いよいよというか......(笑)。

小山田:いや、あれ面白かったよ。

まあ、ホントにいろんなタイプの曲をやっているよね。

小山田:うん、可能性をいろいろ試している。そういうところはファースト・アルバムっぽいでしょ。

ということは、次作も考えている?

小山田:まだぜんぜんわかんない。お互いの活動もあるんで。ただ、このプロジェクトに関しては面白かったんで、またチャンスがあればやりたいですけどね。

小山田くんがここまで全面的にやっているのって、いままでないでしょ?

小山田:自分のアルバム以外ではないですね。まあ、自分のアルバムも4年ぐらい前なんで(笑)。

このあとライヴが控えてますけど、小山田くんは参加する?

小山田:参加できるときがあれば参加します。ライヴはすごく面白いですよ。

生でやるの?

小山田:9割生だよね。同期させる曲もちょっとあるけど、ほぼ生ですね。すごく面白い。

アルバム・タイトルの『s(o)un(d)beams』にはどんな意味があるんですか?

Salyu:音を視る、というか、光を聴くという感覚、そういうニュアンスを込めたタイトルですね。

小山田:歌詞ではっきりとアルバムでやりたかったことを言ってる曲なんで、それをアルバムのタイトルにもしようってね。

ちなみに、ふたりの共通する趣味っていうのはあるんですか?

小山田:なんだろうね。あ、トレーシー・ソーンは好きだよね?

Salyu:トレーシー・ソーンは好き(笑)。あとは......アントニー!

小山田:アントニーはいいよね。

やっぱ、歌唱力がある人が好きなんですね。

Salyu:好きですね。ああいう人たちの歌は身体に来ますね。


※なお、salyu × salyu のツアー情報はここ(https://www.salyu.jp/salyuxsalyu)をチェック!

Ike Yard - ele-king

 UKではコード9が「アイク・ヤードこそ最初のダブステップ・バンドだ」と言ったことが話題になったようだけれど、彼らはたしかに有名なJ.G.バラード共鳴者だ。そして、実際にこれほど明確にディストピアな状況に自分が暮らしていると、なんだかますますディストピア・ミュージックを聴きたくなってくる(家人は迷惑しているが......)。

 この世には多くのディストピア・ミュージックがある。トム・ヨーク自身もそれがディストピア・ミュージックであることを認めている『キッドA』、あるいはデヴィッド・ボウイの『ダイアモンド・ドッグス』(とくに"ウィ・アー・デッド"ですよ)......、そしてもちろん僕の場合はブリアル、砂原良徳の新作もディストピア・ミュージックだと思っている。
 ディストピアというのは、ユートピアへのカウンターのことだけれど、少々強引にたとえるなら、「いや、大丈夫です」と記者会見で東電の社員が楽観的な展開を言っても(←ユートピア)、「いや、大丈夫じゃないでしょう」という反発心(←反ユートピア)によるものである。いや、ちょっと違うかもしれないが、とにかく世界の大きな舞台で言われる「いや、大丈夫です」に対する強烈な違和感、拒絶感、嫌悪感のようなものが「いや、大丈夫じゃないでしょう」というディストピアを創造する。「no」という否定によって作られるユートピアであり、おしなべてパンク・ロックがディストピア・ミュージックなのもそういうことであります。

 アイク・ヤードといえばデス・コメット・クルーだ。自慢じゃないが我が家には、ラメルジーにサインしてもらったデス・コメット・クルーのCDがある。2004年に再発見された1986年の"スーサイドとヒップホップとの出会い"のようなサウンドは、もともとはアイク・ヤードというポスト・パンク・バンドを土台に生まれている。1979年から活動をはじめたというアイク・ヤードは、ニューヨークでスーサイドの前座を務めたり、リディア・ランチとも共演していた、まあ、いわばノー・ウェイヴのいち部である。
 1982年に〈ファクトリー〉からアルバムを発表すると、メンバーはベルリンに移住して、マラリアやアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンらとの交流を深め、そしてニューヨークに戻ってきたときにはラメルジーをゲストに迎えてデス・コメット・クルー名義のヒップホップ作品「アット・ザ・マーブル・バー」をロンドンの〈ベガーズ・バンケット〉から発表している。デス・コメット・クルーの再発見に続いて、オリジナル・アイク・ヤードの作品は〈アキュート〉(←トロ・イ・モアやビーチ・ハウスを出している〈カーパーク〉傘下の再発レーベル)から2006年に編集盤『1980-82 コレクティッド』として再発されている。
 こうした再評価の波に乗って、スチュアート・アーガブライトとマイケル・ダイクマン、そしてケニー・コンプトンの3人はふたたびアイク・ヤードの名前で新作を録音した、それがこの『ノルド』というわけだ。そしてそのプレスシートには、コード9の「アイク・ヤードこそ最初のダブステップ・バンドだ」という発言が記されていたわけである。
 ここにはダブの低音はないけれど、暗い現実の記述はたんまりある。それは、なかなか魅力的な記述である。そして、僕はこういう音楽をいまこの瞬間に聴きながら、おのれの頽廃を再認識するわけです。その場しのぎのユートピアなぞ要らない。冗談じゃない。そして、こういうときだからこそ死を身近に感じながらいまを精一杯生きようと思うんです。DOMMUNEにおけるキラー・ボングのDJがそうであったように。

Factory Floor - ele-king

 2010年5月にリリースされた作品で、自分はこのアーティストを知らなかったけれど、2011年の1月にリリースされるシーフィールの15年振りの新しいアルバムのためにマーク・クリフォードに取材をしたところ、とにかく彼が若い世代のアーティストで積極的に好きなのはこのファクトリー・フロアしかいないと言っていたので、早速チェックした。そしてなるほど、たしかにインパクトのある素晴らしい音楽だった。シーフィールの新しいアルバムには、カンと、そしてドローンやノイズをやっていた頃のクラスターを感じることができるが、ファクトリー・フロアのこの10インチ+DVDのセットは、シーフィールのそうしたセンスにジョイ・ディヴィジョンとザ・フォールの容赦ない悪夢が加わった......と喩えることができるかもしれない。もっともシーフィールのノイズには陶酔的な響きがある。しかし、ファクトリー・フロアにあるのはニヒリスティックな響きである。

 DVD、4曲入りの10インチ、どちらからも強い気持ちを感じる。1時間にもおよびぶDVDはモノクロの抽象的な映像とノイズがシンクロしている。ビートもメロディもない。ノイズだけが生物のように唸りをあげている。"K"時代のクラスターに近いが、ガスやアブストラクトなミニマル・テクノを通過した質感がある。
 合計で40分近くある10インチのほうは、荒涼としたディストピア・ダンス・サウンドだ。暗がりのなかで冷酷なビートが反復する。インダストリアルなテクノ・サウンドのクリシェとも言える無機質な8分音符の繰り返しと沈んだ声は、時折ダークスターの『ノース』とも接近するが、デトロイトのドップラー・エフェクトのダーク・エレクトロやアンドリュー・ウェザオールのソロ作品ともディスコの裏側で手を結んでいるようだ。人間性を欠いたメトロノームのビートはもはや機械のように働くしかない人間を描いている。いくら神経がすり減ったとしても終わることのない労働......。逃げ出したくても逃げられない工場の床、その閉塞された感覚、リズムは金属の軋みによって生まれる。

 ファクトリー・フロアは以前はKAITOというロック・バンドで活動していたニッキ・コークの、ほとんどワンマン・プロジェクトである。2年前からこの名義でシングルを発表しているようだが、アンダーグラウンドな限定リリースが主で、まだ正式なアルバムはリリースされていない。そして、それが出たらセンセーションを起こすかもしれないと思わせるポテンシャルがある。ちなみに映像も音もデザインも、マスタリングもすべてニッキ・コークが手掛けている。

Essential Logic - ele-king

 ザ・スリッツザ・レインコーツのオリジナル・メンバーだったパロマ・ロメロは真摯なキリスト教徒になり、そしてエックス・レイ・スペックスとエッセンシャル・ロジックのオリジナル・メンバーだったローラ・ロジックの名前で知られるスーザン・ウィットピーはハレ・クリシュナに入信した。ともに80年代に生まれ変わっている。こうした事実からなにかを導き出したい......というわけではない。アリ・アップはジャマイカに移住し、テッサ・ポリットはヘロイン中毒者になり克服した。『ザ・フラワーズ・オブ・ロマンス』のジャケに写ったジャネット・リーはおよそ10年後にザ・ストロークスを見出した。当たり前の話だが、彼女たちにもいろいろあったのだ。

 ジョン・ライドンがザ・レインコーツと並んでパンクを別次元に押し上げた功績者として評価したのが、エックス・レイ・スペックスである。ソマリア系移民の娘であるポリー・スタイリーンが率いたそのパワフルなパンク・バンドのサックス奏者となったローラ・ロジックは、しかし早々とバンドを抜けると、ザ・ストラングラーズの『ブラック・アンド・ホワイト』に参加して得た金を持って、1978年、自分のバンド、エッセンシャル・ロジックのデビュー・シングル「アエロソル・バーンズ」を録音する。バンドはその翌年には〈ラフ・トレード〉からデビュー・アルバム『ビート・リズム・ニュース』をリリースしているが、同じ時期にロジックはザ・レインコーツのデビュー・アルバム、あるいはレッド・クレイオラでもサックスを吹いている。

 エッセンシャル・ロジックは典型的な――という形容はその理念からして矛盾しているが――ポスト・パンク・バンドで、そのことは高名な批評家グリール・マーカスをして「これ以上ないほど完璧」と言われたローラ・ロジックという名前からもうかがえる。パンクの「理屈じゃないんだ」という姿勢に対して彼女ははっきりと自らの名前で「理屈(ロジック)だ」と主張したのだから。そういう意味ではジョン・ラインドンが示唆したように、パンクをパンクという"型"にはめなかった彼女たちのほうがパンクだったと言える。そして"型"にはまらなかったからこそ、彼女たちは短命に終わったのだ。エッセンシャル・ロジックも1枚のアルバムと数枚のシングル、そしてローラ・ロジック名義での1枚のアルバムと1枚のシングルのみを残して終わっている。アイデアの底が付いたら終わりというのが、当時の流儀でもあった。ちなみにいまでも僕が当時のレコードとして持っているのは『ビート・リズム・ニュース』(1979年)と12インチ・シングルの「ウェイク・アップ」(1979年)、それからローラ・ロジック名義の『ペジグリー・チャーム』(1982年)の3枚で、それらはローラ・ロジックの音楽を象徴するように文字が踊っているっているようなタイポグラフィーが描かれている。これらのデザインはいましげしげと眺めても格好いい。

 『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』は〈キル・ロック・スター〉からの編集盤で、このレーベルは最近、ザ・レインコーツやデルタ5、クリネックスといったポスト・パンク時代の女性が中心にいたバンドの編集盤を相次いで出している。『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』はCDで2枚組で、1枚目はエッセンシャル・ロジックの軌跡、もう1枚のほうではローラ・ロジック名義での音源が聴ける。1枚目のエッセンシャル・ロジック時代の音源のほうが、いま聴いても新鮮なのは言うまでもない。

 「私たちには愛し合っている暇が与えられていないのよ」と両義的な不満を歌うロジックは、曲のなかを自由にステップを踏んで動き回り、力強くサックスを吹いている。彼女の厚みのある声、そして(ジャズではなく)大道芸のようなサックスがゆっくりと3拍子を刻みながら展開して、後半にはハチャメチャなパーティのように錯乱していく"アルバート"という曲が僕はとくに好きだったが、いちばん最初に覚えたのは〈ラフ・トレード〉の最初のコンピレーションに収録されていた"アエロソル・バーンズ"だった。それはもっとも激しい曲で、誰にも捕まえられない素早さで彼女は動いている。『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』にも1曲目に収録されている。

 グリール・マーカスの記した素晴らしいライナーによれば、「ごく少数の人間にしか聞かれなくても、自分には聞こえる自分自身の声があるということを、たくさんの人が発見した時期」のなかのこれはひとつの歴史だという。マーカスの言葉もまた、ポスト・パンクとは何だったのかを的確に捉えていると言えよう。
 

 蛇足というか補足:サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション』についての原稿ザ・レインコーツの記事のなかで、〈ラフ・トレード〉の理想主義について触れたが、ことの顛末について書き忘れている。〈ラフ・トレード〉の「50:50」契約は、プライマル・スクリームと〈クリエイション〉の90年代前半まで存在し、イギリスのインディ・ロックにおける良心的な契約としてアーティスト側からは望まれていたが、結局のところ続かなかった。〈ミュート〉におけるデペッシュ・モード、〈ファクトリー〉におけるニュー・オーダーのように、売れて多額の報酬を得たバンドは活動のペースが落ちていく。アーティスト側にとってはそれでいいが、レーベル側は4年のうちの数ヶ月だけ運営していればいいというものではない「50:50」契約ではレーベルの長期的運営が困難だったという話である。要するに、パーセンテージの問題ではなく、気持ちの問題だった!

 7月に入りニューヨークは猛暑。100°Fを越える日もあり、厳しいx2暑さが続いている。ストリートの消火栓は随時開けられ、水がすごい勢いで流れ出ている。子供が遊んだり、通りすがりの車が洗浄されたり、たんに水の無駄遣いだったりしながら、いまもどんどん水が流れ出ている。それがニューヨークの風物詩といっても過言ではないが、風物詩といえば、7月4日は独立記念日、恒例のメイシーズの花火大会が開催された。

 去年から、イーストリヴァー(ブルックリンとマンハッタンを挟む川)で花火はあがらなくなり、ハドソン川(ニュージャージーとマンハッタンを挟む川)のみになり、ちょっと寂しいブルックリン側。2年前までは、花火が終わった後、ブルックリン(ウィリアムスバーグ)の川岸は人がもりもり盛りだくさんで、うちのカフェ〈スーパーコア〉にも、花火大会の帰りに、普段来ないような観光客でごった返した記憶がある。が、去年は、みんなハドソン側に行ってしまったのか、とても静かな1日だった。

 そんな記憶を辿りながら、今年のイーストリヴァーで花火があがらないと聞き、カフェをクローズ。スタッフのみなさんも、思いがけないお休みをそれぞれ過ごした。私は、休みでもカフェの近くを通りかかったのだが、花火がどんどんあがっているではないですか......といっても、カフェのある道の4つ角で、誰かが、どんどん花火に火をつけては、走って逃げていく。それが、一秒後などに、空にどかーんとあがるのである。実はニューヨークでは、個人でやる花火は違法。花火はニューヨークには売っていないし、一体どうやって手に入れたのか、わからないのだが、そこかしこで、どんどんやっている。いちおう花火があがった後に警察はやってくるのだが、この日ばかりは警察もお手上げ、といった感じ。だって、いろんな所で花火があがり、ハドソン川側に行かなくても、よく見える。もちろんメイシーズの花火よりはおちますが。

〈Shea Stadium〉のDIYパーティ

 私はこの日は、〈Shea Stadium〉というDIY場所で1日BBQ+バンド大会。今回のトリは、Future Island,、The So So Glos。いまいちばん活きのいいふたつのバンド。〈Shea Stadium〉という野球場と同じ名前なのでよく間違われるが、ここは第二のウィリアムスバーグ化している、ブッシュウィックにある。最近クローズしたマーケットホテルに続くヒップな会場になりつつある。

 この日もかなり暑い、もちろんエアコンなどない会場。面白いが、日本のように夏はキンキンに冷えた場所、というのがニューヨークではあまりない。エアコンは究極にがんばってもそこまで冷えない。いや、キンキンに冷えた場所はあるにはあるが(地下鉄、バス、オフィスなど)、アパートにはまだエアコンがない......という人も多い。最近ではさすがに少なくなったが......。たぶんアメリカ人は、適度、という言葉を知らないのだ、とたまに思う。冷やしすぎるか暑すぎなのだから。

 さて、〈Shea Stadium〉に戻り、この日は、ベランダではBBQ、なかではライヴがおこなわれている。ビールを飲んでも、滝のように汗をかくので、いっこうに酔っぱらわない。ハンバーガーや、ホットドッグを食べつついろんなバンドを鑑賞。The So So Glosは、かなりヤバい、知り合いは、ステージに上がり、勝手にマイクをつかんで叫んでいたり......。ブルックリンは新しいバンドがたくさん出て来ているが、とくに、ブッシュウィックは、こんな風に新世代のバンドが見れるのでおすすめである。

 そしていわばCMJのブルックリン・ヴァージョン――ブッシュウィックも範囲にはいっているノース・サイド・フェスティヴァルが、6月24日から6月27日の4日間開催された。毎年秋におこなわれてる、ニューヨークでのインディ音楽の祭典だ。CMJはほとんどがマンハッタンだが、ノース・サイド・フェスティヴァルはその名通り、ブルックリンのノース・サイドで開かれる。2年前からはじまり、300以上のバンドがこの4日間で演奏した。

 会場と出演者は以下の通り......。
 会場:ブルックリンボール、ミュージック・ホール・オブ・ウィリアムスバーグ、ニッテイング・ファクトリー、ワルシャワ等、インディ系では、ブルアー・ファールズ、グラスランズ、ユニオンプール、マッチレス、カメオ・ギャラリー、チャールストン、ココ66、クラブ・ヨーロッパ、パブリック・アセンブリー、シェア・スタディアムBK......等々。
 出演バンド:ライアーズ、レ・サヴィ・ファヴ、ファックド・アップ、ハイプレィシーズ、チタス・アンドロニカス、ウェイヴス、アメージング・ベイビー、オウ・レヴォア・シモーヌ、Aa、リアル・エステイト、ソ・ソ・グロス、PCワークショップ、メモリー・ティプス、タオ・アンド・ミラ・ウイズ・ザ・モスト・オブ・オール、ウィア・カントリー・マイス、ウッズ......等々。

ノース・サイド・フェスティヴァルの案内

 このフェスティヴァルの目的は、商業的になりすぎているCMJに対抗しているのか、今回のショーでは、かなりのインディー・バンド(友だちの友だちから)から、そこそこ名前の知られているバンドまで、幅の広いラインナップ。
主催は、フリー・マガジンを毎週発行している『Lマガジン』、ついでに『Lマガジン』は同じ期間にウィリアムスバーグ・ウォークスというイヴェントも開催している。
 さらにこの期間には、クリエイターズ・プロジェクトというイヴェントも開催され、音楽系ではM.I.A. マーク・ロンソン、インターポール、ギャング・ギャング・ダンス、ディ・アントウールド、アート系ではスパイク・ジョーンズ、ニック・ジナー等々が主演した。

 他にも世界中のさまざまなアーティストに会えるコレ→(https://www.thecreatorsproject.
com/creators
)も面白い。ちなみに日本人でクリエイターとして、このサイトに載っている人はまだいないが、中国や韓国のクリエイターはすでに何人か載っている。

 

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 すでに1ヶ月以上も前になってしまうが、トーク・ノーマルというブルックリンのバンドの日本ツアーに同行したので、ダイアリー的に書いてみる。

Talk Normal Japan Tour 2010
6/9(wed) SHIBUYA O-NEST w/ Oorutaichi, 空間現代
6/11(fri) SHIMOKITAZAWA SHELTER(Dum-Dum ALL NGHT EVENT) with Loves. DJ codomo
6/13(sun) KYOTO METRO w/ iLL, Outatbero
6/14(mon) OSAKA FANDANGO w/ iLL, Pika from AFRIRAMPO
6/15(tue) SHINDAITA FEVER w/ iLL, Tabito Nanao
素晴らしいライヴを披露してくれた、トーク・ノーマルのサラ(G)とアンドリア(D)。

■6月8日(火)
 成田到着。そのままホテルへ直行し、荷物を降ろした後、〈スーパーコア〉カフェに行く。うちのカフェ、〈スーパーコア〉はニューヨークが発信だが、昨年12月に広尾に東京支店をオープンしたのだ。スタッフに挨拶をし、最初の日本での食事。ギターのサラと今回サポート・メンバーでベースのクリスティーナは、何でもOKなので問題はないが、ドラマーのアンドリアは、ベジタリアンなので食べる物に困るが、魚は大丈夫という事で、お寿司を食べにいく。時差ぼけもあり、早めにホテルに戻る。

■6月9日(水)@ SHIBUYA O-NEST w/ Oorutaichi, 空間現代
 O-nestに到着。日本最初のショーなので、セッティングに30分以上かかり、サウンドチェックを終える。共演は、空間現代、おおるたいち。どちらのバンドにも興味津々なメンバー。本番は、少し緊張美味だったが、滞りなく最初のショーを終える。終わった後打ち上げに......と色々場所を探すが、アンドリアの、ベジタリアンぶりを考えて、ホテル飲みに落ち着く。最初のショーお疲れさま!

6/9(wed) @ SHIBUYA O-NEST
 Transmission Lost
 Xo
 In a Strangeland
 Mosquito
 Lemonade
 33
 River's Edge
 In every dream home a Heartache

■6月10日(木) off
 〈スーパーコア〉カフェでミーティング。カフェのフードを気に入ったらしく,アンドリアも全部きれいに平らげる。カフェでは、E*rockというポートランドのアーティスト兼ミュージシャンの作品を展示中。とてもカフェにもなじみ、すばらしい作品だと思うう。その後、渋谷のディスクユニオンに出かけ、ele-kingの野田努さんと会う。4Fのロックフロアでは自分たちのレコードが面だしされているのを見て、大はしゃぎのメンバー。その後は、来日アーティスト(とくにヴィーガン)、がよく行くとい〈うなぎ食堂〉で友だちと落ちあってディナー。

■6月11日(金)SHIMOKITAZAWA SHELTER(Dum-Dum ALL NGHT EVENT)with Loves. DJ codomo
 アンドリアが行きたいというビーガン・レストラン〈momonoki house〉に行く。日本ではあまり何も食べられないアンドリアが、とてもおいしそうに食べてるのを見て一安心。レストランの雰囲気もとても良い。橋元優歩さんのインタヴューをそこで敢行。かなり突っ込んだ質問内容だったが、ひとつずつ理解しようとするメンバーたち。
 その後、原宿竹下通りなどをショッピング。サラは,かわいいジャンプ・スーツやパンツを試着し、アンドリアは、ファニーパックや小物類などを,楽しそうにショッピング。
 今日はレイト・ショー、〈シェルター〉に10時頃到着。共演のLoves.の後本番。今日は30分の短いセット。お客さんもそこそこで、グッズを買ったお客さんがサインを求めるという場面もあり。

6/11(fri) SHIMOKITAZAWA SHELTER
 River's Edge
 Xo
 Transmission Lost
 In a Strangeland
 Lemonade
 33

■6月12日(土)移動日
 明日の京都に備え移動。初めての新幹線。サラは、富士山がみえるかみえるかと聞くが、あっという間に通過してしまう。京都駅につき、早速観光、清水寺へ。週末、修学旅行生などが重なり、たくさんの人。バスで清水寺へ行くが、かなりの日差しに途中でダウン。坂の途中の喫茶店に入り、かき氷や冷やしうどんを食べる。そこのオーナーのおじさんがかなり面白い人で、かき氷の食べ方のレクチャーをはじめる。気を取り直し、清水寺へ上り、お参りし、胎内巡りをし記念撮影。
 帰りも休み休み下りていき、京都駅で休憩。空港のようなキレイな駅にみんなびっくりで一番上まで登る。京都から大阪に移動。今日は私の家に宿泊。

■6月13日(日)KYOTO METRO w/ iLL, Outatbero
 サウンドチェックを終え、ご飯を食べに、メトロの姉妹店の〈unshine cafe〉Sに行く。来日アーティストもよく来るとかで、ヴェジタリアン料理を色々作ってくれ、みんな満足。今回はなかった名古屋から友達も来てくれたり、京都はとても良い雰囲気。私もたまにショーをオーガナイズするが、京都は全般的に人の入りも良いし、なんだが落ち着いた良い雰囲気。

6/13(sun) KYOTO METRO
 Hot Song
 Xo
 Transmission Lost
 In a Strangeland
 Lemonade
 Uniforms
 33
 River's Edge
 In every dream home a Heartache

■6月14日(月) OSAKA FANDANGO w/ iLL, Pika from AFRIRAMPO
 ニューヨークでも共演したことのある、あふりらんぽのピカが対バンということで、みんな会えるのがうれしそう。大阪なので、やっぱりお好み焼き、とヴェジのアンドリアには、申しわけないが、自分のご飯持参してもらって連れて行く。お店のおじさんは「こんなケースは初めて」、と顔をしかめていたが、他のふたりがおいしい、といって食べるのを見て、最後には笑顔。
 大阪は、人の入りは悪かったが、来ていたお客さんは大阪らしい個性を持っていて、盛り上がる。あふりらんぽのメンバーのオニの代わりにオニのお母さんが来てくれた。大阪のお母さんという感じで、ノリがよく、しきりに後で焼き肉に行こう、と誘われる。

6/14(mon) OSAKA FANDANGO
 Hot Song
 Xo
 Transmission Lost
 Lemonade
 33
 River's Edge
 In every dream home a Heartache
 In a Strangeland

■6月15日(火)SHINDAITA FEVER w/ iLL, Tabito Nanao
 朝の7時に大阪を出発、8人乗りの大きなバンで東京に向かう。メンバーはサーヴィス・エリアのトイレがきれいすぎて感動し写真を撮ったり、UFOキャッチャーをしたり、途中で見えた富士山に興奮したり、つかの間の日本を楽しむ。
 〈Fever〉に到着し、最後のサウンドチェック。その後は隣のアートギャラリー兼レストランの〈OPO〉Pでご飯。ココは私の知り合いのユメちゃんのお店。ヴェジなわがままを色々聞いてくれ、説明をつけてくれ、いつも本当にありがとう。
 この日はDOMMUNEのスタジオを抜けて、初めての生放送ということで、宇川さんも準備万端。最初の七尾旅人くんは、〈HEARTFAST〉がきっかけで、ニューヨークに来たときに一緒に川辺に行ったり、遊んだりしたので面識はあったが、ショーを見るのははじめて。お客さんとのコミュニケーション含め、手慣れたショーが素敵。
 iLLもホームタウンということで、メンバーの息もぴったりでリラックスした様子。ショー前に、Sarahがまた同じ服を着ようとしていたので、私の着物風の洋服を着せてみた。以外に似合って、本人も気に入ってうれしそうだった。ショーは、旅人君のメンバーとして参加していたサックスの方に飛び入りで参加してもらうなど、最後にふさわしいショーだった。
 皆さん、本当にありがとう。お疲れさまでした!

6/15(tue) SHINDAITA FEVER
 Hot Song
 Xo
 Transmission Lost
 Uniforms
 Lemonade
 33
 River's Edge
 In every dream home a Heartache
 In a Strangeland
 Outside
 ======
 Bold

 

interview with The Raincoats - ele-king

 緊張していた。アリ・アップやマーク・スチュワートのときはビールがあったから良かったのだ。取材時間も1時間以上押していた。待つことは苦ではないが、こういう場合は時間の使い方に困惑する。カメラマンの小原泰広くんがサッカー好きで助かった。われわれは六本木のスターバックスでおよそ1時間に渡って今回のワールドカップについて論評し合った。

 「僕はいま46歳ですけど......」、正直に打ち明けることにした。「1979年、15歳のときに地元の輸入盤店でザ・レインコーツのデビュー・アルバムを知って、そして買いました。それは僕にとってもっとも重要な1枚となりました」

 音楽ごときに人生を変えられるなんて......と昔誰かがあざけりのなかで書いていた。ところが僕の場合は、音楽ごときに人生を変えられたと認めざる得ない。もし自分が中学生のときパンクを知らずに、そして高校生になってザ・スリッツやザ・ポップ・グループやPiLや......エトセトラエトセトラ......あの時代のポスト・パンクを知らずに過ごしていたら、まったく違った人生を送っていただろう。
 そしてあの時代のすべての音楽が説いてくれた"現在"に夢中になることの大切さと"未来"に向かうことの重要性をいまでも忘れないように心がけている。よって......ザ・レインコーツのライヴの2日前のS.L.A.C.K.、Rockasen、C.I.A.ZOO、その前日の七尾旅人、iLL、トーク・ノーマルといった"現在性"の並びで30年前に死ぬほど好きだったバンドのライヴを観るというは、残酷な郷愁と純真な愛情が入り混じった、なんとも複雑な思いに支配されることでもあった。僕は......聖地を目指す巡礼者のように、余計なものを入れずにその日を迎えるべきだったのだ。そうすればもっとたくさんの違った言葉が溢れ出たかもしれない。

 が......、そんな不埒な思いを巡らせながらも、なんだかんだとこうしてぬけぬけと彼女たちに会いに来てしまった。煮え切らない46歳のオヤジとして。
 アナ・ダ・シルヴァとジーナ・バーチのふたりは、その日8時間も取材をこなしているというのに、ステージと同じように、おそろしく元気だった。


向かって右にジーナ・バーチ、左にアナ・ダ・シルヴァ。ソロ・アルバム、楽しみっす。
(photo by Yasuhiro Ohara)

奇妙な発音の外国人やアウトサイダーが多かったのよ。なぜなら私は当時スクウォッターだったから。パンクのコミュニティのなかで暮らしていたの。空き家に住んでいた。都市のアウトサイダーたちの溜まり場よね。

ライヴで"歌っていて楽しい曲"と"演奏していて楽しい曲"をそれぞれ教えてください。

アナ:歌っていて楽しいのは"シャウティング・アウト・ラウド"ね。演奏して楽しいのは......ないかも、失敗ばかりするから(笑)。

ジーナ:私は"シャウティング・アウト・ラウド"が演奏するのが楽しいわよ。まるで空中を滑るようなベースラインが好きだし、演奏しているあいだに異なった雰囲気が出てくるんだけど、それをフォローしていくのが楽しい。

アナ:私は演奏して楽しかったのは"ノー・ワンズ・リトル・ガール"かな。私はギターを引っ掻いたりしてノイズを出すのが好きだから。

ジーナ:歌うのが楽しいのは"ノー・サイド・トゥ・フォール・イン"よね。コーラス・パートがあるでしょ、あのみんなで「わー!」って声を出すのがいいのよ。ひとりで歌うなら"ノー・ルッキング"。ファースト・アルバムの最後に入っている曲よ。

今日はたくさんの取材を受けて、さんざん昔の話をしたと思うのですが。

アナ&ジーナ:ハハハハ。

1979年。ザ・レインコーツのデビュー・アルバムがリリースされた年、あなたがたはまず何を思い出しますか? 

アナ:1979年の4月にシングルが出て、で、たしか11月よね、アルバムが出たのは。「わお!」って感じだった。あるとき〈ラフ・トレード〉に務めていたシャーリー(後のマネージャー)が言ってきたの。「あなたたちのシングルを出すわよ」って。そのとき「あー、私たちはバンドで、シングルを出すんだ」と実感した。そしてツアーに出て、〈ラフ・トレード〉からアルバムを出した。それは素晴らしい感動だったわ。

ジーナ:私はノッティンガムからロンドンにやって来たばかりだった。で、パルモリヴがスペインから来た子だったでしょ。彼女の英語の発音がおかしくてね、たとえばフライングVの「V」を発音できずに、「B」と発音するのよ。当時私は音楽のこと何も知らなかったから、その楽器の名前をフライングBだと思っていたのよ。シングルが出たとき、初回プレスがクリア・ヴァイナルだったから、私たちが「ヴァイナルが出たわね」とか言ってると、パルモリヴがそれを「ヴァニール」って発音するのよ(笑)。「ヴァニラじゃないのよ」って(笑)。

アナ:ハハハハ。

ジーナ:そう(笑)。私はイングランドに住んでいるはずなのに、私のまわりにはそんな人ばっかだったの。奇妙な発音の外国人やアウトサイダーが多かったのよ。なぜなら私は当時スクウォッターだったから。パンクのコミュニティのなかで暮らしていたの。空き家に住んでいた。都市のアウトサイダーたちの溜まり場よね。

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決してエリート主義にはならなかったわ。でも、とてもインテリジェンスがあったし、そうね、ジョン・ライドンには会ったことがあるんだけど、他人に気配りができて、率直にモノが言えて、すごく誠実な人だと思ったわ。

ザ・レインコーツのまわりにはディス・ヒートやレッド・クレイヨラのようなバンドがいましたが、あなたがたからみて当時のバンドやアーティストで他に重要だと思えるのは誰でしょうか?

アナ:まず思い出すのは、ペル・ウブよね。それからディス・ヒートもすごかった。ライヴが素晴らしかったのよ。普通のバンドはドラムのカウントからはじまるでしょ。ディス・ヒートはそんなことなしに、いきなり「ガーン」とはじまるのよね。

ジーナ:ヤング・マーブル・ジャイアンツは偉大だったし......。

あの当時はPiLの『メタル・ボックス』やザ・スリッツの『カット』やザ・ポップ・グループの『Y』や......。

ジーナ:ザ・ポップ・グループ! そう、それものすごく重要! 私がいま言おうとしたのよ。私はザ・ポップ・グループの最後のライヴを観ているのよ。もうそのライヴでバンドからマーク・スチュワートが抜けるっていうことがわかっていて、私はマーク・スチュワートのところまで駆けていったわ。「どうかお願い、ポップ・グループを辞めないで。ポップ・グループはやめてはいけないバンドなのよ!」って叫んだわ(笑)。

ハハハハ。ちょうど1979年、最初に話したように、僕は地方都市に住んでいる15歳でした。近所の輸入盤店に、ザ・スリッツ、ザ・ポップ・グループらとともにザ・レインコーツのファーストのジャケットが壁に並びました。当時は、円がまだ安かったのでイギリス盤はとても高くて、2800円しました。それでも1年かけて、僕はその3枚を揃えました。1979年には他にも素晴らしい音楽がたくさん発表されました。他によく覚えているのはPiLの『メタル・ボックス』でした。イギリスだけではなく、日本からもいくつもの興味深いバンドが登場しました。で......。

アナ:あなたのその話、私知ってるわよ。あなた私のMy spaceにメール送ったでしょ?

僕じゃないです(笑)。

アナ:いまのあなたの話と同じ話だったのよね。

なんか......パンクという火山があって、その火山が爆発したら、いっきに空からたくさんの素晴らしい音楽が落ちてきた、そんな感じでした。

アナ:私もまったくそう感じたわ。セックス・ピストルズやザ・クラッシュの最大の功績はそこよね。「自分たちでやれ」と言ったことよ。バズコックスのようなバンドだってセックス・ピストルズを観てはじまった。あらゆるバンドがそうだった。私はアメリカのバンドも好きだったわ。パティ・スミス、テレヴィジョン、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ、トーキング・ヘッズ......彼らは音楽的に興味深かった。彼らはイギリスのバンドに影響を与えた。当時のポスト・パンクが素晴らしかったのは、それぞれが違うことをやっていたことよね。セックス・ピストルズやザ・クラッシュの物真似みたいなバンドもいっぱいいたけど、私たちのまわりにいたバンドはそれぞれ違うことをやっていたわ。

ジーナ:私はアナよりも年下だったから、私はイギリスのパンクの第一波に影響を受けたわ。アメリカのバンドを知ったのはもっと後になってから。

アナ:そうね。私があるパーティに行ったとき、ものすごい特徴のある声が聞こえてきたの。それがパティ・スミスの『ホーシズ』だった。しばらくして彼女がロンドンの〈ラウンドハウス〉というライヴハウスに来ることを知った。そこに私は行ったのよ。まだセックス・ピストルズが出てくる前の話よ。

パティ・スミスは、やはりその後の女性バンドのはじまりだったんですね。

アナ:彼女が「自分たちで何かやりなさい」という勇気づけ方をしたわけじゃないけどね。ただ、その音楽がすごく良かったのよ。

ジーナ:パティ・スミスがロンドンに来たとき会場でアリ・アップとパルモリヴが出会って、で、ある意味でそれでザ・スリッツが生まれたとも言える。で、ザ・スリッツからザ・レインコーツが生まれたとも言えるわけだし、繋がっているのよ。

アナ:そういえば、パティ・スミスとロバート・メイプルソープとの関係を中心に書かれた彼女の本が出版されて読んだんだけど。

ジーナ:ああ、あれね!

アナ:そうそう、あれはとても美しい話だったわよ。

パティ・スミスのレコード・スリーヴは、まあ、いわゆる"ロックのレコード"じゃないですか。でも、ザ・レインコーツや『カット』や『Y』のジャケットがレコード店に並んでいるのを見たとき、すごい違和感があったんですね。ロックのレコードとは思えない、いままで感じたことのないものすごいインパクトを感じたんですね。初めて見たザ・レインコーツのプレス用の写真もよく憶えていて、みんなで普段着のままモップを持っている写真がありましたよね。あれもまったくロックのクリシェを裏切るような写真だったと思いました。アンチ・ロック的なものを感じたんです。

アナ:そこまで深い理由はないんだけど、自然にそう考えたのよ。たしかに普通はジャケットにバンドの写真を載せるものだったんでしょうけど、そのアイデアは最初からなかったわね。しかし、あなたも若いのによくそこまで気がついたわね。

ジーナ:まるで私のママみたいだわ(笑)!

はははは。

アナ:セックス・ピストルズやジョイ・ディヴィジョンにはそれぞれデザイナー(ジェイミー・リードとピーター・サヴィル)がいたけど、私たちにはいなかったわ。デザインのアイデアもすべて自分たちで考えたのよ

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インディペンデント・レーベルにもネガティヴな面があるからね。〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉は考えもお金もすごくしっかりしていたけど、いい加減なレーベルも多かったのよ。

パンクというのはすごく極端なエネルギーだったじゃないですか。だからパンクに関する議論のようなものもあったと思うんですよ。パンクに対する"議論"みたいなものと、音楽はまだ前進することができるという野心があれだけの多様性を生んだのかなと考えたのですが、どうでしょうか?

アナ:議論?

たとえば......僕はザ・クラッシュが大好きですけど、やっぱマッチョなところがあったと思うし、あるいはマガジンの有名な曲で、えー、なんでしたっけ? "ショット・バイ・ボス・サイド"?

ジーナ:そう、ショット・バイ・ボス・サイド"ね。

「両側から撃たれる」っていうあれは、「右翼」にもつかないし、「左翼」にもつかない、どちらにもつかないんだという、政治的だったパンクへの批評精神の表れじゃないですか。あるいはセックス・ピストルズやザ・クラッシュはメジャーでやったけど、ポスト・パンクはインディペンデント・レーベルだったじゃないですか。そこにも批評性があったと思うし......。

アナ:そうね。リスクを背負ってもやりたいことがやれる、クリエイティヴなインディペンデント・レーベルを選んだわ。メジャーはわかりやすいものを好むのよ。だから、自然と多様性はインディペンデント・レーベルのほうにあったわね。

ジーナ:でもね......ヒューマン・リーグみたいにメジャーで成功したバンドもいたし、ギャング・オブ・フォーはものすごく左翼的なバンドだったけど、メジャーと契約したわよ(笑)。いいのよ、それは彼らの論理で、ケダモノたちのなかから変えてやれってことだから。でも、私たちはインディペンデント・レーベルが性にあったのよね。

アナ:それにインディペンデント・レーベルにもネガティヴな面があるからね。〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉は考えもお金もすごくしっかりしていたけど、いい加減なレーベルも多かったのよ。

ちょっと僕の質問の仕方が悪かったんで、話がずれてしまったんですが、言い方を変えると、何故この時代のバンドは情熱と勇気がありながら同時に頭も良かったんでしょうか? ということなんです。ジョン・ライドンやマーク・E・スミスのような人たちは独学で、大量の読書を通じてメディアやアカデミシャンを小馬鹿にするほどの知識を得ていたし。

アナ:ええ、ジョン・ライドンは本当に偉大な人だと思う。

ええ、とにかくあれだけ情熱的で、頭も良くて、で、しかもわかる人だけにわかればいいというエリート主義にならなかったじゃないですか。

アナ:そうね、決してエリート主義にはならなかったわ。でも、とてもインテリジェンスがあったし、そうね、ジョン・ラインドンには会ったことがあるんだけど、他人に気配りができて、率直にモノが言えて、すごく誠実な人だと思ったわ。

ジーナ:そうね、マーク・E・スミスでよく憶えているのは、彼はちゃんとした学校教育を受けていないのよ。でね、ザ・フォールをはじめたときに、普通だったら16歳から19歳のあいだに修了しなければならないAレヴェルの英語を、マーク・E・スミスは成人してから独学で修得したの。ザ・フォールであのアナーキーなキャラクターをやりながらよ! 私はそれがすごくファンタスティックだと思ったのよね。独学というのは素晴らしいことよ。

アナ:そこへいくと〈ラフ・トレード〉のジェフ・トラヴィスはケンブリッジ大学出ているからね。

スクリッティ・ポリッティの歌詞なんか何を言ってるのかさっぱりわからかったですからね。グリーンが現代思想を読み耽って書いていたっていう。

アナ:あー、あれはわかるわけないわ(笑)。

ジーナ:安心して、私たちもわからないから(笑)。

アナ:てか、読んでないから(笑)。

ハハハハ。

アナ:(グリーンのナルシスティックなゼスチャーを真似しながら)おぇー。

ジーナ:いわば大学院の博士課程路線よね。それをポップ・カルチャーにミックスしようとしたのよ。

まあ、スクリッティ・ポリッティの話はともかく、ポスト・パンクにはどうして情熱と頭の良さの両方があったんでしょうね?

アナ:私たちは情熱だけよねー。まあ、知性はぜんたいの30%ぐらいかな(笑)。

ジーナ:アナはインテリよ(笑)。サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション』を読んだけど、いろんなアーティストを過去の偉大な作家たちと比較したりしていて、そこはまあいいんだけど、何故か女性バンドの話になると「彼女たちもそうだった」ぐらいの扱いになっているのよね(笑)。ちょっと注意が足りないんじゃないかな。

ハハハハ。質問を変えましょう。僕はいまだにザ・レインコーツみたいなバンドを見たことがありません。それってザ・レインコーツがこの30年消費されずにいたことだと思うんですよね。

アナ:ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいわ。「ザ・レインコーツに影響されました」というバンドがたまにいて、音を聴かされるとただケオティックなだけだったりするの。カオスはザ・レインコーツのいち部でしかないのよ。まあ、ザ・レインコーツの真似されても嬉しくないしね。

ジーナ:だけど私は、MAGOは私は気に入ったわ。繊細さと大胆さがあって、オリジナルだと思った。彼女たちから「影響受けた」って言われるのはわかるような気がする。

アナ:そうね。重要なのは「自分たち独自のもの」を探すことよ。それがザ・レインコーツってことでもあるから。

ただ、いまの時代、1979年のように音楽を新しく更新させることはより困難になっていると思いませんか? 音楽のパワーが落ちていると感じたことはありますか?

アナ:昔と比べるのはあんま好きじゃないけど......いまでも新しいものは出てきていると思うわ。ただし、インターネットの影響は大きいわよね。選択肢があまりにも多すぎて、選ぶ気がおきない。それでパワーが落ちたというのはあると思うけどね。

僕個人はむしろ"現在"のほうに興味があるのですが、なんだか多くの人は"過去"を向いているように思えるフシが多々あるのです。

アナ:そうねー。

ジーナ:わかるわかる。友だちの娘に「あなた何が好き?」って訊いて「レッド・ツェペリン」だもんね(笑)。

ビートルズとかね?

アナ:ビートルズは偉大よ(笑)!

ジーナ:でも、あなたのように"現在"に夢中な人だっているわよ。

アナ:そうね、あなたが会ってないだけよ!

ハハハハ。いないこともないんですけどね......。ちなみに新しい世代の音楽では何が好きですか?

アナ:やはりどうしても、15歳の音楽体験は特別なものなのよ。ボブ・ディランやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ローリング・ストーンズを初めて聴いたときの衝撃というのは消えないもので、年齢を重ねていってもそれと同じような衝撃を受けることはないと思うの。

アナはでも、チックス・オン・スピードのレーベルからソロ・アルバムを作っているじゃないですか? テクノは聴かない?

アナ:ひとつのアーティスト、ひとつのスタイルばかりを強烈に聴くことはもうないのよ。

そうですか。わかりました。ありがとうございました。近い将来にリリースされるというおふたりのソロ作品を楽しみに待っています。

アナ:それでは15歳の少年にサインしよう(笑)。

ぜひ!

 ......それから記念撮影までしてしまった......。
 
 これは『EYESCREAM』の連載でも書いたことだが、ザ・レインコーツのデビュー・アルバムのアートワークは、いま思えば可愛らしいとも思えるかもしれないけれど、当時あれは『カット』や『Y』と並んで、レコード店のなかで強烈な異臭をはなっていたのである。パティ・スミスの『イースター』が古くさく感じてしまったし、手短に言えば彼女たちのアンチ・ロックのセンスは音楽の世界に明白な亀裂を与えた。音のほうも......とてもじゃないが、キュートだなんて思えなかった。破壊的で、混沌と調和が入り交じって、それでいて素晴らしい生命力を感じたものだった。

 と同時に、写真で見る、いたって普段着の彼女たちは、ショービジネスの世界で女性がありのままの普通でいることが、どれだけ異様に見えるかを証明し、逆にショービジネスの世界の倒錯性を暴いてみせたのだった。レディ・ガガのような人が哀れなのは、本人はアートのもつもりでもあれは結局のところ、型にはまったショービジネスそのものでしかないからだ。ちなみにアートとは......ジョン・ライドンやマーク・E・スミスのような連中がとくに馬鹿に言葉である。

 ザ・レインコーツは〈ラフ・トレード〉らしいバンドだった。ジェフ・トラヴィスが経営した〈ラフ・トレード〉は、"男の世界"だったレコード屋のカウンターのなかに女性を送り込み、ザ・スリッツ、デルタ5、エッセンシャル・ロジックなど女性アーティストを積極的に後押しした。

 そして「50:50」契約も実現した。これは経費を除いた利益をレーベルとアーティスト側で半々に分配するというやり方だ。音楽業界の印税率を考えると、おそろしく破格の契約であるばかりか、弁護士の出る幕をなくし、わかりやすい平等思想を具現化したものだった。そうしたフェミニズムとコミュニティ意識のなかで、ディス・ヒートやレッド・クレイヨラとともにザ・レインコーツはいた。彼女たちのセカンド・アルバム『オディシェイプ』ではチャールズ・ヘイワード(ディス・ヒート)が叩き、ロバート・ワイアットとリチャード・ドゥダンスキー(PiL)も参加した。『オディシェイプ』はデビュー・アルバムとはまた違った方向性を持っている作品で、これもまたこの時代のクラシックの1枚である。

The Drums - ele-king

 シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』......20世紀初頭の富裕なユダヤ系批評家が、その晩年に記した回想録だ。そこには戦前のヨーロッパの、香しく華やかにして洗練を極めた文化への追憶が、無量の感激、そして絶望とともに綴られている。大戦とそれが生み出した新しい秩序によって損なわれ、もはや二度と戻ってはこない"昨日の世界"。振り返られるものがことごとく美しいように、彼の筆になる"昨日の世界"も甘美だ。いや、彼らの時代の彼らの文化がもっとも美しいのだという気にさえなる。しかし過去の描写が冴えれば冴えるほど、彼自身が現実に対して抱いていた絶望の深さに思い当たって慄然とする。

 というのはいささか大げさな前置きではあるが、ザ・ドラムスは"昨日の世界"を生きるバンドだ。それは昨今の安易なレトロ・ブームとは一線を画する。リヴィング・シスターズのようなモータウンのコスプレとも、モーニング・ベンダースの無邪気な懐古趣味とも違う。もっと徹底した"いま"への嫌悪がある。かといってお家芸的にヘヴィ・サイケを追求するデッド・メドウズその他のように、現実の向こう側へ突き抜けてしまった人たちでもない。そして、心からこの世に居場所のない、さまよい傷ついた魂を抱えてレイド・バックした詩人たち......アリエル・ピンクやガールズとも画然と異なる。

 彼らは一級の役者だ。徹底的に"昨日の世界"を構築し、生き、魅せる。音にもヴィジュアルにも隙がない。彼らのアーティスト写真を見て誰がいまのバンドだと思うだろう? ネオサイケの耽美な憂鬱を溶かし込んだ、鈍いモノクローム。あるいはポスト・パンクのぎらぎらとしたモノクローム。カラー写真も、ネオ・アコースティックへのオマージュあふれる構図を持ちながら、どこかテクニカラー・フィルムを思わせたり、トイカメラ風の濃厚な発色を強調したものが多い。かのエディ・スリマンも彼らに惚れ込み、ホモソーシャルな視線が織り込まれた美しいモノクロ写真を撮っている。これは彼の公式ホーム・ページで見ることができる。

 音もしかりだ。50年代のサーフ・ポップ的なモチーフを湛える一方には、〈ファクトリー〉初期の諸バンドにまたがるような......マーティン・ハネットのプロデュース・ワーク、あるいは同時期のグラスゴーにおける最重要バンドのひとつ、オレンジ・ジュースを彷彿させるヴィンテージなブリティッシュ・サウンドが鳴っている。それでいて曲自体はなんら屈折のない、いや、でき過ぎなくらいシンプルな2ミニット・ポップ。「起きて、ハニー。素敵な朝だよ。ビーチへ駆け出そう」

 以前ミニ・アルバム『サマー・タイム』のレヴューでも書かせていただいたが、とにかく彼らは"いま"という問題設定や、等身大のリアリティを歌い上げるというポップ・ミュージックのひとつの使命を、そんなものは無粋とばかりにことごとくキャンセルしてしまう。そして颯爽と黄金律のソング・ライティングを開陳する。フックの効きまくったメロディはいつまでも耳に残る。中途半端なもの、ダサくて格好の悪いものは排除され、徹底した美意識によってトータルなバンド・イメージがコントロールされる。彼らはほんとに頭がいい。

 いや、だからこそ「なんて嫌味なバンドなんだろう」と煙たく感じたものだった。もっとリスキーな音で未来を切り拓こうとしているバンドがいくらもいる。しかし、私が根負けしたということでいい。やっとフル・アルバムのリリースとなったわけだが、このあいだにザ・ドラムスの存在感がさらに大きなものとなってしまって驚いている。『NME』などUKのメディアから火がついたことも大きな要因だろうが、国内盤の帯には「2010年最大の話題」と謳われ、久しぶりにテレビをつければプジョーのコマーシャルに使用されているという具合だ。使用曲はベースの軽快なリフに口笛が印象的なミニ・アルバムの顔、"レッツ・ゴー・サーフィン"。フル・アルバムでもこの曲がハイライトになるだろうと思ったが、さらに強力なシングル曲がきっちりと1曲目に据えられていて、唸るしかなくなってしまった。バンドの核であるジョナサン・ピアース、そして相棒ジェイコブ・グラハム(実質的にザ・ドラムスとはこのふたりのバンドだ)の名がクレジットされた"ベスト・フレンド"は、朝聴けば1日中頭を回りつづけるだろう。この曲もまた、小躍りするようなベースとドラム・ビートを持っている。ピアースのクセのあるヴォーカル。メロディは彼らしいアディクショナルなリフレインを伴って耳に絡みつく。

 だが、どんなにたわいもないことを歌っているのかと思えば、この曲のテーマは友人の死だ。もっとも大切な親友を失い、毎日思いつづけ、待ちつづける......「ぼくはどうやって生きていったらいいんだろうか」――詞には"アイ"の他は二人称"ユー"しか用いられず、相手が男性か女性かも判然とはしないが、曲調が度外れに明るいことが、詞の悲痛さを際立たせる。結びはこうだ。「ぼくは、ぼくがそれでも生きていくだろうということを知っている」

 ザ・ドラムスにいまと未来への諦念があることは、私には間違いのないことのように思われる。ネオ・アコースティックなときめき感たっぷりの、甘美で胸躍るポップ・ソングというのは完璧な構築物だ。なぜならこの世界は「きみ」がいない世界だから。特定の人物でなくてもいい。彼らにとって大事ななにかを欠いた世界。だからこそ"昨日の世界"が歌われる。むしろそのような負の力がなければ、これほどブリリアントな曲は生まれないかもしれない。では、どうして世界を忌避しながらも歌うのか。「ぼくは、ぼくがそれでも生きていくだろうということを知っている」からだ。答えは"ベスト・フレンド"、冒頭曲にすでに記されている。

 フル・アルバムは、ミニ・アルバムに比べればエッジが取れている印象だ。その分聴きやすいかもしれない。ジャケットも比較すればメジャー感が増している。フロリダの小さなマンションから生み出された、この哀しくも完璧なパントマイムが、世界という大きな舞台で試されようとしているのだ。見届けよう。

interview with Tim Lawrence - ele-king


アーサー・ラッセル
ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険

P‐Vine BOOKs
ティム・ローレンス (著), 野田努 (監修), 山根夏実 (翻訳)

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ラヴ・セイヴス・ザ・デイ 究極のDJ/クラブ・カルチャー史
P‐Vine BOOKs
ティム・ローレンス (著)

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 ティム・ローレンスによる著書『アーサー・ラッセル(原題:Hold On to Your Dreams)』は、意義深い本である。自分が監修しているから言うわけではない。この本が売れようが売れまいが、僕のギャラは変わらない。

 最初出版社のY氏からこの仕事を依頼されたとき、内心「嘘でしょ!」と思った。いくらなんでもアーサー・ラッセル......それは無謀である。職業音楽ライターのあいだでもたいして知られていないし、ただでさえ本が売れないこの時代にアーサー・ラッセルとは......、たしかに偉大なアーティストに違いないが......、僕はY氏に「大丈夫ですか?」と訊き直したほどだった。
 ところがこの仕事に携わり、訳のほうが2章まで進んだ時点で、僕は素晴らしい著書に関われたと感激した。モダン・ラヴァーズの話まで出てくるとは思わなかったし、『アーサー・ラッセル』は、当初僕が想像していたよりもずいぶんスケールの大きな本だった。

 たしかにアーサー・ラッセルは、90年代半ばからゼロ年代にかけて再評価された、というか初めて真っ当に評価されたひとりである。『Wire』やデヴィッド・トゥープ、あるいはジャイルス・ピーターソンや〈ソウル・ジャズ〉レーベルのお陰で、彼の先鋭的なディスコ作品をはじめ、フォークやカントリーの諸作、あるいは意味不明な歌モノとしてあり続けた『ワールド・オブ・エコー』や回転数違いの録音で〈クレプスキュール〉から出されたままだったミニマルの作品『インストゥルメンタル』にいたるまで、ほとんど彼の作品は容易に聴けるようになった。
 と同時にアーサー・ラッセルに対するミステリーはますます高まった。いったいこの男は本当は何をしたかったのか? ディスコなのか? 現代音楽なのか? ロックなのか?

 重要なのはそういうことではない。著者であるティム・ローレンスは、『アーサー・ラッセル』の前には『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』という本で、70年代のニューヨークのディスコの歴史を綴っている。セカンド・サマー・オブ・ラヴに触発された彼は、70年代のニューヨークのディスコのなかに、とくに孤児院で育ったデヴィッド・マンキューソのなかにその理想主義の萌芽を見出している。『アーサー・ラッセル』はそれに続く本である。いくらなんでもアーサー・ラッセル......実は著者でさえ最初はそう思っていたと告白している。果たして需要はあるのかと。が、研究が進むにつれて、そうした懐疑はすべて消去された。それはこの物語がアーサー・ラッセル個人のそれではなく、彼と彼を取り巻く人びと、彼が暮らした都市の共同体的な物語だからである。

ティム・ローレンス(Tim Lawrence)
1967年ロンドン生まれ。1990年から1994年にかけてジャーナリストとして活躍。BBCに勤務しながら大学で学び、サセックス大学で英文学博士号修得。現在、東ロンドン大学で教えながら数多くのダンス・ミュージックのライナーノーツを執筆している。『アーサー・ラッセル』は『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』に続く2冊目の著書。

私の人生は新自由主義的な政策によって形作られたものです。私は著書で、新自由主義的な現在を改めて思い描く方法を模索していますが、それは現在と未来を豊かなものにできるように、それに力強い声を与えることが目的だと言えるでしょう。

あなたの『アーサー・ラッセル(原題:Hold On to Your Dreams)』、とても興味深く読ませていただきました。あなた自身も書いているように、あの本はアーサー・ラッセルという素晴らしい異端者の伝記であると同時に、それだけでは完結し得ない示唆的な内容となっています。おそらくあなたが望んでいるのは、アーサー・ラッセルを神格化することでもなければ、70年代ニューヨークのダウンタウンの文化的コミュニティへのノスタルジーに浸ることでもない。あなたは新自由主義がもたらす競争社会に翻弄されながら生きている私たちに、そうした冷酷な窒息状態を突破できるような可能性を、音楽を通していっしょに考えたいと願っている。そうじゃありませんか?

ティム:私が著書を通して成そうとしていることを雄弁に描写してくださいましたね。しかし厳密に言うと、アメリカで展開され、〈ザ・ロフト〉やさらに広義のダウンタウン・ダンス・ムーヴメントの形成に影を落としたカウンター・カルチャー運動に対する一種の弾圧は、新自由主義の台頭以前にまで遡るものなんです。同時に新自由主義への言及は、私がサッチャー・レーガン時代の申し子であるのと同じくらい正しいものでもあるとも言えます――なぜなら私はマーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンが政権をとって間もなく政治を意識するようになり、それ故に私の人生は彼らの新自由主義的な政策によって形作られたものだからです。私は著書で、社会の境目に存在した文化的な歴史を研究することで新自由主義的な現在を改めて思い描く方法を模索していますが、それはその文化的な背景が現在と未来を豊かなものにできるように、それに力強い声を与えることが目的だと言えるでしょう。言い換えれば、歴史的な見地のためだけにそういったものを書くことには興味がないんです。私はそれが私たちの注目に値するから書き、そしてそれが私たちの注目に値するのは、その慣習に深い意義があり、今日的な意味を帯びているからに他ならないのです。

 もちろん〈ザ・ロフト〉やその後継的な〈パラダイス・ガラージ〉などのパーティは、いまでも多くのパーティ主催者、ダンサーやDJにとって非常に大きな意味を持ち続けていますし、デヴィッド・マンキューソもいまだにニューヨークのみならず日本やロンドンで〈ザ・ロフト〉やロフト・スタイルのパーティを主催し続けています。しかしアーサー・ラッセルに関して言えば、彼は表面的にはいち個人ですが、究極的に、彼が個人としての人生を歩むのではなく、飽くなき情熱で多岐にわたる音楽シーンで活動した共同的なミュージシャンだったからこそ私は彼について書きたいと思ったんです。そういった意味では、「アーサー・ラッセル」は反個人的な伝記、もしくは反伝記的な伝記だと言えるでしょう。この本は、ひとりの人間についてではなく、たまたま20世紀後半でもっとも美学的かつ社会的に進んでいると言われたシーンの数々で活動していたひとりのコラボレーターについての物語なのです。またアーサーは彼の時代の遥か先を行ってもいました。彼の音楽とコミュニティのヴィジョンに関して言えば、彼は私たちのまだ先を行っているでしょう。

あなたにとって(そして私たちにとって)考えるうえでの大いなるヒントのひとつ、それをあなたは(そして私たちは)クラブ・カルチャーに求めています。『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』をあなたは、デヴィッド・マンキューソの話からはじめています。また、彼の"生き方"ないしは"やり方"を、クラブ・カルチャーがなしうる最善のもののひとつとして記していると思います。都会で暮らす私たちにとって、あるいはノーマティヴな社会からはじき出された人たちにとって、あるいは競争社会の負け犬たちにとって、クラブ・カルチャーというのは社会的な役目を果たす可能性を大いに秘めているし、あなたはそこに期待しているわけですよね?

ティム:最初に少し訂正させてください。デヴィッドは〈ザ・ロフト〉をクラブとして運営していたわけではありません。プライヴェートなパーティとして主催していたんです。私やみなさんが誕生日を祝うためにパーティを開くように、彼は厳密には自宅でパーティを開催していただけなんです。デヴィッドが山のような煩わしく制限的な規制を守る必要がなかったことを考えると――アルコールを売らないかぎり――その区別はいまも昔も重要です。その結果、〈ザ・ロフト〉は普通のディスコテークやクラブよりも遥かに親密な場所となり、パーティも長く続けることができ、それによって音楽的・肉体的な表現行ための幅も広がった。いっぽうで上手に運営され、強い倫理観を持つクラブは、〈ザ・ロフト〉やそこから派生したヴェニューで培われてきた価値から多くのものを模倣できるのではないでしょうか。

 この質問のより広範な面に関して言えば、まさにその通りだと思います。プライヴェートなパーティや公共のクラブは、人びとが集まって異色の、しかし非常に重要なコミュニティの形態を形成する場を提供しています。近頃ではみんなで集まってグループとしてともに過ごせる場所はますます少なくなりつつあるじゃないですか? 映画館もそういった場を提供しているものの、映画館の観客はとても受け身でしょう。スポーツのイヴェントもひとつの場ですが、こちらは男性主体の傾向が強く、競争に根差したものです。公園も素晴らしい場所だとは思いますが、そこでの社交的な体験はごくまばらです。その他の音楽イヴェントも良いでしょうが、参加者は通常他の観客に対してではなく、出演者に意識を向けます。クラブのようなダンス・スペースはまったく違う何かを提供するもので、その相互作用の形式は非常にダミナミックです。私たちは視覚的な文化が支配する社会で生きていますが、音楽とダンスは私たちに耳を傾け、身体を使うことを促してくれるんです。そしてそれが極めて感情豊かなコミュニティに繋がるのです。

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アーサーは知的な根拠で書かれた音楽よりも情感豊かなものを好んでもいたことから、フィリップ・グラスの作品は評価してもより知性派のスティーヴ・ライヒの作品には親しみを感じなかったようです。

『アーサー・ラッセル』で、あなたは現在のiPod世代の多元主義について言及しています。アーサー・ラッセルは、さまざまなジャンルを越境することのできた人で、それはあらゆる価値が並列された現代の音楽鑑賞の価値観とも重なるかもしれない。しかし、アーサー・ラッセルは、現代の多元主義が陥る退屈な平等性とは正反対の態度で生きていた。つまり、彼には、音楽芸術の善し悪しを判断する彼なりの基準というモノがあったということですよね? あなたなりにアーサー・ラッセルの持っていたその"基準"についてもう少し説明してもらえないでしょうか?

ティム:私がアーサーの代弁をするのは難しいですよ――彼がまだ生きていて自分の言葉で答えてくれたらと願わずにはいられません。ですが私が受けた印象では、アーサーはあらゆる類いの音楽に耳を傾ける人間でしたが、おしなべて優劣がないかのような、無粋な多元主義的なスタンスに陥ることはいっさいありませんでした。アーサーはクラシック音楽からディスコ、ニューウェイヴ、ヒップホップ、フォーク、そして正統派のポップに至るまでの信じられないほど幅広いサウンドにはまっていました。彼はいつもヘッドフォンで音楽を聴きながらダウンタウン・ニューヨークの街を歩き、友人が彼に出くわしてヘッドフォンを借りればアバと同じ確率でモンゴルの喉歌が流れてきたそうです。言い換えれば、彼の好みは折衷的で予測不可能だった。もちろんアーサーがアバのあるトラックを他のトラックよりも気に入っていたとか、モンゴルの喉歌でも特定のスタイルを特に楽しんでいたということはあったでしょう。ですが概して、彼はあまりにもありきたりかつ型にはまりすぎている曲は気に入らなかったし、もしかしたらそれこそが彼がいつでもとても新鮮に響くアバの曲を好んでいた理由だったかもしれません。
 そういった条件以外に、アーサーの仏教的な思想が彼にオープンかつ民主的で肯定的な音楽のスタイルを受け入れさせた。そしてその結果、彼は必要以上に個人主義的な形式や自己中心的な演奏スタイル、そして独善的に複雑な演奏形式に支配された音楽を嫌うようになったのです。同じ価値観が彼にアシッド・ロックやプログレッシヴ・ロックを敬遠させ、けれどより直接的かつ包括的なミニマリスト・ロックを受け入れさせた。
 またアーサーは、彼があまりにも攻撃的で虚無的だと判断していたというノーウェイヴ・ムーヴメントにはいっさい関心を示しませんでした。そして彼のレコーディングのいくつかにはジャズ的な要素も含まれていたものの、その即興者を英雄的な個人として祭り上げる傾向のせいか、彼が心からジャズを受け入れることもありませんでした。
 最後に、アーサーは知的な根拠で書かれた音楽よりも情感豊かなものを好んでもいたことから、フィリップ・グラスの作品は評価してもより知性派のスティーヴ・ライヒの作品には親しみを感じなかったようです。アーサーが好き嫌いの基準のマニフェストを作っていたとかそういうことではありませんが、私が拾い集めることができた基準はこんなところでしょうか。

アーサー・ラッセルの芸術は、言ってしまえば資本主義にとっては決して都合の良いものではありませんでしたが、逆に言えば商業主義の罠にはまっている現代の音楽シーンに対してのひとつの"批評"としてもこの本を書いたのではないかと思います。もしそうであるなら、いまいちど、今日の社会におけるアーサー・ラッセルの芸術 の重要性をその文脈で説明していただけないでしょうか?

ティム:アーサーの音楽には奇妙な緊張感があって、私はそこにも惹かれるんです。その緊張感というのは、アーサーは商業的に成功することを望んでいたけれど、その成功を手にするために自身の音楽的なヴィジョンで譲歩することは決してしたがらなかったという点です。私はこのスタンスが非常に興味深いと思うんですよ。まず、商業的に成功したいというアーサーの願望を私は評価しているんですが、それは彼がエリート主義者ではなかったことを表しています。簡単に言えば、アーサーは物質主義的だったからではなく、できるだけ多くの人に自分の音楽を聞いてもらいたかったから成功したかったのです。その姿勢は、人気が自分の名声に傷をつけたり、望むほど特徴的でいられなくなることを恐れる、自意識過剰的にアヴァンギャルドな作曲家やミュージシャンとは対照的です。つまり私はそんなまどろっこしいやり方には付き合っていられないんですよ。
 でもアーサーの魅力は、より多くの聴衆に聞いてもらいたいという彼のその願望にも関わらず、彼は何度もそのチャンスを逃しているんです。その原因のひとつはマネージャーやレコード会社、そしてときには友人までもがもっと認知されるために彼の守備範囲を狭めようとしたことで、自分の音楽的な自由を何よりも重んじていた彼は、そのアドヴァイスに従うことを頑なに拒否していました。もうひとつには、彼の美学は売り込みが難しいものだったということもあります。アーサーは脱線や予測不可能な要素の導入、それにハイブリッド的な組み合わせの作業を好み、それらはどれひとつとして営業マンを喜ばせる類いのものではありませんでした。アーサーは利益を出すために、もしくはレコード会社が利益を出せるように自身の自由を譲歩することを拒み、その結果困難な状況に陥り、彼が望んだほどの名声を得ることができなかったのですが、まさにそれこそが私たちが今彼の作品を振り返って、その幅と奥深さに感嘆することができる理由なのです。彼は商業的な横やり抜きで音楽を収録する権利を主張し、そのことは当時だけでなくいまも変わらず美しい行為だと思いますね。

インターネットの可能性をどのように考えていますか? 僕はWEBマガジンを主催しています。アクセス数がそれなりにありますし、まだはじめて半年くらいですが、インターネットによってアウトサイダー・ミュージックがより広く伝わる可能性が大きいことも実感しています。それでもアンヴィバレンツな気持ちになるのも事実です。たとえばクラブで踊りながらiPhoneを見ながらTwitterをしているような人たちがいます。すぐ目の前にいる人とコミュニケーションを持つのではなく、どこか遠くにネットで繋がっている人に「つぶやく」というのは、どうにもわからない感性です。あなたはこうした新しいネット時代の状況に関してどんな見解を持っていますか?

ティム:それは壮大な質問ですが、いくつか見解を挙げてみましょうか。本質的に進歩的、もしくは退行的な技術など存在しません。いつだって肝心なのは、いかに私たちがその技術を使うかと、その行為がもたらす影響は何なのか、という点です。私もインターネットは刺激的だと感じていますが、同時にいくつか疑問も抱いています。そもそも私はアーサー・ラッセルの音楽に対する関心の再燃は、多くの面でインターネットの台頭が原因だと考えています。それはファイル共有やダウンロードが人びとのリスニング習慣の大きな変化に貢献したからで、それまでひとつかふたつのジャンルしか聞いていなかったリスナーも、インターネットによってそれがあまりにも容易になったいまではさまざまなサウンドに耳を傾けることが当たり前になっています。同様にそういった幅広いリスニングは、それまでは非常に困難だったであろうやり方で私たちがアーサーの複雑さの全貌を把握する助けとなってくれました。要するに、私たちの鑑賞習慣はついにアーサーの複雑かつ理想主義的な音楽作りのヴィジョンに追いついたのです。
 こういったことは、すべてインターネット主導のいわゆる「ロングテール」の台頭、もしくはそれまで入手できなかったさまざまな無名のアーティストの音楽がアクセスできるようになったいっぽうで、人気の高いアーティストのレコードが以前ほど売れない現在の状況と時を同じくしています。しかしそのいっぽうで、私はリスナーがおよそ聴ける以上の音楽を一心不乱にiPodに詰め込み、その鑑賞体験が持つポテンシャルを損なう低音質のフォーマットでダウンロードするやり方には懐疑的だと言わざるをえません。

 インターネットを介して幅広いサンプルを見つける行為は、一見非常にオープンで進歩的に見えますが、私はこういった行為の根底にある社交性の乏しさにも衝撃を受けているんです。アーサーはハイブリッドなサウンドを作るとき、まず音楽的なコミュニティに入り、そこで人間関係を築きました。その結果、彼の産物はとても有機的で、ある程度の文化的な知識が染み込んだものでもあったのです。しかし手当たりしだいにサウンドに手を伸ばし、コンピュータで音楽を作るミュージシャンに対しては同じことは言えないでしょう。また音楽にアクセスすることとその曲を聴くことのプロセスがあまりにもかい離していて、その音楽の持つ歴史に対する関心も薄く、非社交的であることを考えると、リスナーが自分の聴いている音楽についてどれだけ理解しているのか疑問に思うこともあります。事実、iPodで音楽を聴くことは多くの点において孤立的な体験なのです。私は個人的には「オープン」で「空間を漂う」音楽を聴くほうが、物理的・社交的な相互作用を促すことができて好きですね。Facebookやなんかの交流も良いとは思いますが、友だちと同じ部屋で過ごすことの代わりにはなりませんよ。いちばん良いのは、一種のバランスが取れることでしょうか。インターネットが多くの人に音楽の興奮を伝え――これはもう明らかにそうなっていますが――そしてその人たちがそこから社交的な輪のなかで、良いオーディオを使って音楽を聴けるようになること、ですね。

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それまでアーティストやミュージシャンたちが片手間の仕事で生計を立てていたのに対して、1980年代中盤以降、彼らは自分の芸術でお金を稼ぐことをより真剣に考えざるを得なくなったんです。

東京もそうですが、いま都市は監視下におかれ、また、商業施設の増設や地上げにも遭い、70年代前半のダウンタウンのようなコミュニティは作りづらくなっていると思います。ニューヨークはジュリアーニ市長の浄化政策が有名ですが、東京も石原都知事以降、街には荷物検査をする警察が目に付くようになりました。それでも都市は、いまはまだ、さまざまな人びとが交錯する猥雑な場所としてあります。とはいえ、近い将来、さらに監視が厳しくなる可能性もあります。そういった現在の厳しさを踏まえたうえで、それでも70年代前半のダウンタウンのなかに"現在でも通用する希望"があるとしたら、それは何だと思いますか?

ティム:以前よりもパーティーやニッチな観客――もっと具体的に言えばあまりお金を持っていない観客――相手の音楽イヴェントが開催しにくくなっているという点は、まさにその通りだと思います。監視についても同意見で、ニューヨークやロンドン、東京といった大都市での地価の高騰がその状況をさらに悪化させている点も付け加えさせてください。
 ダウンタウン・ニューヨークは、1970年代から1980年代前半にかけて物価があまりにも安かったからこそ、社会的にも美学的にも進んだコミュニティを数多く生み出しました。軽工業の転出によってある集中的な期間に不要なスペースが山ほど出て、またほぼときを同じくして市が財政破たんしたことから、家賃や地価がさらに下がったのです。この流れのおかげでミュージシャン、芸術家、作家、映像作家、そして現代舞踊家たちはただ同然でこの地域で生活し、コラボレートできるようになり、同時にこのスペースをクリエイティヴに使うことに熱心だった実業家はこれまでにない機会を享受していました。音楽のことだけを考えて暮らせる、その結果は驚異的なものでした。この時代に現代ダンス音楽文化が台頭し、パンク、ニューウェイヴ、ノーウェイヴが出現し、そしてミニマル的な現代音楽も発展を遂げました。同時期にロフト・スペースではフリー・ジャズが繁栄し続け、ヒップホップはダウンタウンにおける重要な足がかりをロキシーに築きました。

 ニューヨークは1980年なかば以降生産的かつ創造的であり続けていますが、その生産性と創造性の度合いは、ウォール街の市場が飛躍的に上昇して以来、地価が天井知らずに高騰し、困窮しているアーティストが上がり続ける物価に折り合いをつけられなくなってきたことで著しく減退しています。それまでアーティストやミュージシャンたちが片手間の仕事で生計を立てていたのに対して、1980年代中盤以降、彼らは自分の芸術でお金を稼ぐことをより真剣に考えざるを得なくなったんです。そしてそれは芸術作品を作ることのコンテクスト、そして芸術そのもののコンテクストすら変化しはじめたことを意味しています。ですがデヴィッド・マンキューソ――わかりやすい例として――が実質的には非営利とはいえ、そしてそれ故にそれだけで生計を立てていけるわけではないパーティをいまでも市内で開催できていることを考えると興味深いですね。
 また多くのアーティストやミュージシャンがニューヨークやそれと同等に物価の高い都市から比較的安いスペースがあるベルリンに向けて去ったことも面白い点だと思います。その結果、この20年間ベルリンでは創作的なルネッサンスが到来していて、いまだ衰える兆しは見えません。物価は高いものの、ロンドンも力強いアートと音楽シーンを擁しています。ウェストエンドやロンドン西部には大して何もないのですが、ショアディッチやハックニー、ベスナル・グリーンにダルストンといった東側は活発に動いています。こういったエリアでも地価は上がっていますが、みんなどうにかしてやりたいことをやり続ける術をみつけているようです。その創作し、コミュニティを作るという決意は驚くほど柔軟であると同時に、楽観的な気持ちの源でもあります。

ザ・キッチンの素晴らしかった点について、あなたなりの意見を教えてください。

ティム:ザ・キッチンは芸術的・音楽的な自由のための重要なスペースであり、いろいろな意味で1960年代の終わりのカウンター・カルチャー運動の――公民権デモ参加者、ゲイやレズビアンの活動家、そして男女同権主義者や反戦運動家、ヒッピーや学生が多くの国の抑圧的な政策に抗議しはじめた時間の産物です。ザ・キッチンは、若い作曲家が彼らにセリー主義か新古典主義の枠組みの中で作曲することを強いた楽壇に対して反発する場となったんです。そういった狭い規範に反抗するために、作曲家たちはジョン・ケージのような作曲家の急進的な手法を基に成長することを試み、時代に合わせた形でそれを実行しました。いわく、新しい楽器編成を試し、聴衆に訴えかける音楽を作ろうとし、インド、アフリカ、インドネシアなどの民族音楽学的なサウンドに取り組んだのです。
 当初この運動から出現した音楽はミニマリズムと称されましたが、すぐにそこから生み出されるサウンドの幅にはミニマリズムという言葉は限定的すぎることが判明し、ザ・キッチンやエクスペリメンタル・インターメディア・ファウンデーションなどのスペースを中心に形成された作曲コミュニティは、その年代の終盤には自分たちの音楽を"ニュー・ミュージック"と称するようになりました。
 アーサー・ラッセルは自身の音楽監督としての任期中にプレパンク・バンドのモダン・ラヴァーズを招く決定を下し、その翌年にはトーキング・ヘッズにそこで演奏するよう手配したことでザ・キッチンの裾野を広げた非常に重要な人物です。音楽監督の椅子をアーサーから引き継いだガレット・リストは幅広いジャズ志向のグループにザ・キッチンで演奏させて同会場の人種的な間口を広げましたし、リストの後にはリース・チャタムがこのスペースで作曲的なノーウェイヴのサウンドを築く助けをしました。
 要するに、現代音楽の構成要素の定義は極めて短期間で引っかき回されてもっとずっと幅広い音楽が入ってきたんです。とはいえザ・キッチンの寛容さにも限界がありましたし、アーサーの管弦楽的なディスコがそれほど熱狂的な反応をえられなかった時には彼も動揺していたと聞きましたが、それでもあの曲があそこで演奏され、その後間もなくヒップホップも舞台に上がったという事実そのものが、ザ・キッチンが他の現代音楽や非現代音楽系のヴェニューに比べて音の実験やハイブリッド性に寛容だったことを証明していると思います。

『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』や『アーサー・ラッセル』のような本を出してみて、あなたにとってどんな嬉しいリアクションがありましたか?

ティム:反響はかなり大きく、非常に実り多いものでした。たくさんの好意的なレヴューもいただきましたし、何よりもこの本が学術的な読者とそうでない読者のどちらにも等しく訴えかけたことが嬉しかったです。最初からそういう本にしたいと思っていたので。なんだかんだ言っても私はジャーナリズムの出身で、昔からできるだけ多くの人びとに伝えたいと思っていたのですが、それと同時に一般的なジャーナリズムの形式には完全に満たされた気がしなくて、それで前々からもっと発展的かつ専門的で分析的な仕事をしてみたいと考えていたんです。
 個人の読者の反応は書評よりもさらに嬉しいものでした。何人もの方々が『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』や『アーサー・ラッセル』が彼らの初めてまともに読んだ本で、しかも1週間かそこらで読破してしまったという話をメールに書いてくれたり、直接伝えてくれたりしたんです。これには思わず息をのみましたね。何せどちらも普通の本ではありませんから――重くて、ひどく分析的な部分もある、相当に長い本じゃないですか。ですがあの2冊はどちらも多くの人びとが本当に熱中し、今でも大切にしたいと願い続ける文化的瞬間に強く訴えかけたんです。この2冊の取材をして、そのシーンの数々を支えた多くの素晴らしい人たちに出会えたことを非常に光栄に思います。彼らの物語は語られるべきものでしたが、その物語の語り手になれた私は本当に幸運です。

あなた個人がもっとも好きなアーサー・ラッセルの曲はなんですか? またはその理由も教えてください。


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ティム:それは間違いなく"Go Bang"でしょう。あとは"Platform on the Ocean"に、『World of Echo』のアルバム、"This Is How We Walk On the Moon"もですし、"Kiss Me Again"も......。正直たくさんありすぎてきりがありませんし、アーサーのいちばん重要な要素は彼が複数の美学をまたいで活動したことだと考えると、1枚のレコードだけを選び出すのはほとんど不適切だとすら感じられます。ですが1枚だけを選ばなければならないとしたら、それは絶対に"Go Bang"、もしくは"Go Bang"のふたつの主だったヴァージョン――アルバム・ヴァージョンとフランソワ・ケヴォーキアンによる12インチ・リミックス――でしょう。私にアーサー・ラッセルについて書きたいと思わせたのはこのレコードで、初めてこの曲を聴いたときには内心で「こんなレコードを作れるなんていったい何者なんだ?」と考えましたよ。このレコードには無数の要素が含まれていて――現代音楽、ロック、R&B、ジャズ、そしてもちろんディスコ――それらがすべてひとつにより合わされた後に接続された二台の24トラック・テープレコーダーを介して細切れにされているんです。
 またこのレコードには素晴らしい演奏家たちが参加しているじゃないですか。トロンボーンにピーター・ズモ、サックスにピーター・ゴードン、キーボードとヴォーカルにジュリアス・イーストマン、同じくヴォーカルにジル・クレセン(アルバム・ヴァージョン)、そしてドラム、ベース、リズム・ギターにはイングラム兄弟。アーサーは彼らがジャムして自由に表現するよう背中を押し、また大胆にもリスクを冒して普段は決してしないことをするよう推奨しました――ですからローラ・ブランクはクレイジーな声で、ジュリアス・イーストマンはまるでオルガズムを経験しているような声で歌うなど、枚挙に暇がないわけです。〈ザ・ロフト〉のダンサーたちに歌手やパーカッションとして参加するよう誘うという決定も同じく抜きん出ていて、トラックの世俗的なエネルギーにひと役買っています。
 それに加えてあの不朽のヴォーカル、「I want to see all my friends at once go bang」ですよ。これほど的確に私たちが踊りに行く理由を言い当てた人間は他にいないのではないでしょうか。リミックスに関して言えば、見事のひと言に尽きると思います――フランソワは曲のダイナミクスを簡略化して、最高潮の瞬間を強調しています。デヴィッド・マンキューソはいまでもこのレコードのどちらものヴァージョンをかけていますし、ラリー・レヴァンはこのトラックが彼のいちばんのお気に入りだと言っていたそうです。何の不思議もないと思いますよ。

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アーサーは、世界を簡単に変えられる方法など存在しないということに気づき、さほど壮大ではない目標を掲げ、それに応じて人びとがコラボレートし、お互いを求めあい、創造的であれる一端を築こうとしました。

アーサー・ラッセルが海辺でフィールド・レコーディングしている写真がとても印象的です。海は彼にとって特別な場所だったのでしょうね。彼の音楽のほとんどが都会的ですが、あなたが彼の音楽のなかに海を感じる作品があるとしたらどの曲ですか?

ティム:伝記でもかなり詳細にわたって書いたように、アーサーは水辺を愛していました。彼は海なし州のアイオワで育ち、その結果彼にとって水はとても魅惑的なものだったんです。なかには「Let's Go Swimming」や「Platform on the Ocean」のように直接的に水に言及しているレコードもありますが、流れや逆流による流動的な美学を作り上げているレコードはもっとたくさんあるんですよ。ですがアーサーの音楽の多くがとても都会的に聞こえるとおっしゃるのはまさにその通りで、彼自身ボーイフレンドのひとりに、ジョン・ケージの作品も都会で生活しながら作曲されていればまったく違うものになっていただろうと話していたそうです。究極的には、アーサーはさまざまな環境に影響を受けた音楽家でした。彼の音楽からはアイオワ州のなだらかな平原も聞き取れますし、サンフランシスコに住んでいたときには、彼と友人たちはギターやその他の楽器を携えて何日も山のなかでハイキングして過ごしたそうです。アーサーはこの世界の多種多様な神秘を体験し、その素晴らしさを自身の音楽に表現しようとしていたんです。

いま世界はとても不安定な状態になっています。とくにここ10年は、さまざまな都市でデモや抗議運動が起きています。また、いまや国家よりも大企業のほうが力を持つようになってしまいました。こうした新しい世界においても音楽は貴重な気休めや娯楽として機能すると思いますが、もし音楽に娯楽以上のものを望むとしたら、あなたは願わくば音楽にどうなって欲しいと思いますか?

ティム:まずはじめに、「たんなる娯楽」はさほど悪いスタートラインではないと私は思うんですよ。音楽が厳しい環境のなかでの楽しみや気休めを与えてくれるのであれば、それはとてつもなく重要なことです。でも私は音楽にはそれ以上のことが――人と人を結びつけて、進歩する新しいコミュニティを作ることができるとも思っています。1970年代のニューヨークではそれが非常に顕著で、それはいまでも続いています。緊密で進歩的なコミュニティの形成では不充分だと言われる方もいるでしょうが、アーサーはカウンター・カルチャー運動の時代を生き、それが掲げた途方もなく野心的な目標の多くを達成し損ねた様をその目で見ているんです。アーサーとその友人たちは、世界を簡単に変えられる方法など存在しないということに気づき、さほど壮大ではない目標を掲げ、それに応じて単純に進歩主義の重要な一端を――人びとがコラボレートし、お互いを求めあい、創造的であれる一端を築こうとしました。私はそういう一端が後にそれに触れる人びとに大きな影響を与え、より進歩主義的な未来の礎を築いてくれるものだと固く信じています。
 押し潰されたい人間なんてどこにもいません、みんな喜びや機会に溢れた人生を生きたいと願っているのです。そして人間は音楽のなかにこそ他の社会の面影を見出すことができるのだと思います。

ちなみにあなた個人は、どのようにクラブ・カルチャーと出会い、どのようにその世界の思索者となったのですか?

ティム:私は小さな子供のころから踊るのが好きでした。大学時代は政治にのめりこんでいたのですが、ある夏地元に帰らずにアルバイトをして過ごしたことがあって、その年が偶然にもセカンド・サマー・オブ・ラヴだったんです。私はマンチェスターでハウス・ミュージックが爆発していたときに、幸運にも水曜日の夜に〈ハシエンダ〉に行く機会に恵まれ、その体験は一生忘れられないものとなりました。それが私が初めてハウス・ミュージックを聴いたときだったんですが、私が以前から聞きたいと願っていた音楽――濃厚なまでにリズミカルで肉体的でありながら、同時に知的で概念的な音楽であるように響きました。結局私はその瞬間からダンス・シーンにはまったわけではないんですけどね。私は結構世間知らずで、夜遊びにはまっていた友人もなかったんですよ。
 ですがロンドンに戻って記者として働くようになると、政治家の友だちがレイヴ・カルチャーを紹介してくれて、少しのあいだそっちに激しく熱中していたのですが、その後同じ友人がDJがニューヨーク発のダブっぽい、ジャズっぽい、ソウルフルなハウス・ミュージックを流す〈ガーデニング・クラブ〉のフィール・リアル・ナイトに連れていってくれたんです。〈ガーデニング・クラブ〉でルイ・ヴェガの演奏を聴いたそのときが、私がニューヨークに移住したいと思った瞬間だったと思います。
 結局私は1994年に向こうに移り住み、2年間ほどルイが毎週水曜日の夜にサウンド・ファクトリー・バーでプレイするのを聴いた後に、『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』を書きはじめました。当初私は1985年から現在に至るまでについての本を書く予定だったんですが、その後紹介されたデヴィッド・マンキューソに、1970年まで遡る必要があると言われてしまって。当時私はそこまで遡ることに消極的だったのですが、すぐに〈スタジオ54〉と『サタデー・ナイト・フィーヴァー』を中心とした1970年代の主流な記述をおさらいする必要があることが判明しました。結局私はデヴィッドと〈ザ・ロフト〉、そして多くの刺激的なDJやヴェニューの物語に夢中になって丸々一冊を1970年代に割いてしまいましたが、それについては欠片ほども後悔していません。

いまでもクラブに踊りに行くんですか?

ティム:ええ、最近は少し足が遠のいてしまっていますけどね。正直言って、私はいまでもニューヨークで踊るのが他のどこで踊るよりも好きで、あちらに取材に行ったときには集中的に踊りに行きます。〈ザ・ロフト〉、〈シエロ〉のフランソワ・ケヴォーキアン・ディープ・スペース・ナイト、ダニー・クリヴィットの718セッション、〈サリヴァン・ルーム〉のリベーション、他にもいろいろな場所に顔を出します。
 ロンドンでは、デヴィッド・マンキューソに協力している関係で縁のある〈ザ・ライト〉のお世話になりっぱなしです。ここのサウンドシステムは本当にずば抜けていて、音楽も多彩で雰囲気もものすごく力強いから、他の店に行ってまったくがっかりしないというのはちょっと難しいんですよ。でも頻繁に素晴らしいパーティをやってくれる〈プラスティック・ピープル〉の近くに住んでいられたのは幸運だと思っていますし、ドラムンベースとダブステップの夜をもっと覗いてみたいですね。私には幼い娘がふたりいて、あの子たちのために朝起きてあげたいと思っているのですが、ふたりともぐんぐん育っていますし、私の踊りたい病もまだ治まってはいないので、近い将来にはまた頻繁に踊りに行くようになるんじゃないかと思います。

緻密に設計されたサウンドシステム、素晴らしいDJ、ぶっ飛んだ客......ただそれだけでクラブ・カルチャーを評価してしまう風潮にあなたは逆らっているとも言えますよね? いまクラブ・カルチャーから失われているモノがあるとしたら、あなたの言葉で言えば"愛"だと思います。なんで"愛"は失われてしまったのでしょうか? そして私たちはどのようにして"愛"を回復したらのいいのだと思いますか?

ティム:愛で満たされるには社交的な環境が整っていないから、踊りに行ってもバウンサーに凄まれたり、水を1本買うためだけに法外な価格を要求されたりするじゃないですか。それは思いやりのある環境ではないから、人がダンスフロアで横柄に、身勝手に、そして強引に振る舞うことを助長するのです。この風潮を変えるのは容易なことではないでしょうが、デヴィッドとともに仕事をした経験は、かなりのお手頃価格でも進歩的かつオープンでフレンドリーなセットアップを作れることを教えてくれました。
 ロンドンのパーティで、私たちは素晴らしいビュッフェを用意し、ドアも歓迎してくれる入りやすい場所であるように気をつけ、パーティの最初の2時間は子供やその保護者も無料で入れるようにして部屋を風船で飾り、サウンドシステムには最大限の予算を割き、フロアも清潔で濡れていないよう注意し、デヴィッドが多様な音楽をかける後押しをし、音量を100dB強に抑えることで社交的交流を促しながら人びとの耳にも配慮しています。その成果は、私たちのところで踊ったことのある人間なら誰の目にも明らかです。雰囲気は非常にフレンドリーでオープンで、誰もが信じられないくらい激しく踊り、ダンサーはその夜の終わりには変容的な何かの体験した感覚とともに残されるのです。こういったパーティには相当量の労力と極めて高いやる気が必要ですが、それが普通ではいけない理由なんてどこにもないじゃないですか。もしそれができるなら、あなたが"愛"と呼ぶものも自然に流れるようになるでしょう。

次に書きたいと思っているテーマがあれば教えてください。

ティム:実はもう次の本に着手していて、『Life and Death on the New York Dance Floor: A History, 1980-84(ニューヨーク・ダンスフロアにおける生と死 1980-84年の歴史)』と仮題された内容になっています。実質的に、この本はアーサーの伝記というプリズムを通して振り返る『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』の延長線上にあると言えます。それというのも、ダウンタウンのダンスシーンは1980年から84年にかけて、明らかにより折衷的になるからです。〈ザ・ロフト〉や〈パラダイス・ガラージ〉などのパーティは1980年から84年の間もまだまだ繁盛していましたが、同時期にロック、ダブ、それにヒップホップもダンスシーンと相互作用しはじめたことで、当時の状況は非常に複雑で、ぶっちゃけとても素晴らしく、刺激的になったんです。
 当初私はこの本を〈ガラージ〉が廃業した1987年、もしくは〈ザ・セイント〉が閉店した1988年まで進めるつもりだったのですが、1980年から84年はあまりにも豊かで難解であることが判明したので、1987年/88年まで持って行くことは無理だと諦めざるを得なかったんです。現時点では、この本はそれ自体がすでに膨大な『ラヴ・セイヴス・ザ・デイ』の倍の長さになりつつあるので、今後かなり真剣に編集しなければいけなくなりそうです。ですがもっとも大切なことは、あの歴史的な瞬間が本当に圧倒的なものであったという点なので、その時代について書くネタがないよりは多すぎる情報に四苦八苦する状況のほうを私は選びますね。自分が信じていない時代について本を書けるとは思えないんですよ。正直言って、このプロジェクトには本当に興奮しています。たまにこの本の作業がまったくできない日もあるんですが、そんなときは本当に辛いですよ。

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