これはもう......チルウェイヴというよりもステレオラブである。クラウス・ディンガーのドラミングをさらにライトにして、コクトー・ツインズめいたギターが煌めいているなか、女は息を吹きかけるように歌っている。1曲目の"ジ・アザー・サイド・オブ・ユア・フェイス"はクラウトロックのドリーム・ポップ・ヴァージョンだ。お洒落だが、イージーではない。そして2曲目の"レディ・デイドリーム"を聴きながら、昼の1時になると缶ビールを手にしてしまう自分がいる、というわけだ。この猛暑を楽しむには、このぐらいのことをしなければ......。まるでこんな気持ちを先回りするように、"レディ・デイドリーム"は涼しい水の音で終わっていく。ロング・アイランド出身のブルックリンの4人組はなかなかツボをわかっている。
"ミルク&ハニー"はどう聴いてもビョークからの影響だ......が、曲の展開にはステレオラブ的な軽快さがあり、音は窓の外の眩しい光に溶け込んで、聴き惚れているうちに思わず冷蔵庫に手が伸びてしまう。いかんいかん。大人のソーダ水だからといってもほどほどにしないとな......。
問題は"オール・アラウンド・アンド・アウェイ・ウィ・ゴー"だ。これをチルウェイヴと呼ばず何と言おうか。この曲はディスコビートに乗ったフレンチ・ポップであり、キラキラとしたキッチュな夢想である。続く"ギャラクシー・プラトー"は、バンドの音楽的野心を示すドローン/アンビエントの曲で、1970年代初頭のクラスターに接近する。最後の曲"フェノメノンズ"もまたチルウェイヴィな曲だが、洗練されていて、このバンドの底力を感じる......そしてその前に、大人のサイダーをもう1本手にしている自分がいる、というわけだ。無理もない。この素晴らしい天気になんともドリーミーな音楽、そして夏のあいだ自分はひとりだ。
ツイン・シスターに限らず、おおよそUSインディ・シーンは夢から醒めようとしない。キャンディ・クロウズのアルバムには早くもポスト・アニマル・コレクティヴの予兆を感じる。まどろみのなかで新しい場面が着々と用意されているようである。
ツイン・シスターのこれはまだミニ・アルバムだ。ウォッシュト・アウトと同様に、というか、その他多くのUSインディと同様に、ヴァイナルが先行発売されて、デジタルはパスワードでダウンロードするという仕組みだ。この形態は、この1~2年でゆっくりだがUSインディ・シーンで拡大している(日本では誰が、どこがそれを先にやるのだろう)。
アルバムのなかにはインサートが1枚あるが、そこには家のなかのカラフルな部屋の写真がいくつかデザインされている。そのあたりの感覚は、僕にとって今年のベストな1枚、ビーチ・ハウスの3枚目とも近いと言えば近いのかもしれない、が、ツイン・シスターのほうがポップでファッショナブルである。より多くの人間がアプローチできるのはこちらのほうかもしれない。ヴァンパイア・ウィークエンドは数年後に中古屋に出回るだろうけれど、ツイン・シスターは......、まあ、微妙なラインだろう。逆に言えばそれだけポップということで、そしてこの手のベッドルーム・ポップは今後もっとたくさん出てくるのだろう。
「NotNotFunã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
1. El Rakkas / Extreamely Cheap & Effective Ep | Dub Square (UK)
エル・ラッカスは、オーストリアの第二の都市ガーツよりエレクトロニカ、ダブステップをもとにリリースを重ねているアーティストです。先ごろではUS西海岸の〈ロー・ダブス〉からリリースした「Sence Of Disease」でも、レゲエやハウスとミックス可能なダブステップを展開していました。音もきれいで使いやすい曲です。
〈ダブ・スクエア〉はオーストリアのヴィエンナを拠点にネット・ラジオを母体に活動するレーベルで、DJ IZCと女性アーティストであるCA.TTER等が中心になり、デトロイト・テクノから影響された一捻りあるエレクトロやダブステップをリリースしています。今回届いたシングルはエレクトロニカ、もしくはテクノ側からのアプローチのトラックで、極限までそぎ落とされたミニマル・ハウスを下敷きに、キックを裏打ちにし、リズムに変化をつけたトラックです。ポスト・ミニマルと同時にポスト・ダブステップのひとつの方向を提示したシャックルトンの「3EPS」、あるいは2562のアルバムで知られる〈マルチヴァース〉からミニマル・テクノをリリースするオクトーバーの作品にも通じるアイデアがあり、本当に最小限の音でリズムの揺らぎを追求した曲です。リミックスはカールステン・ニコライ率いる〈ラスター・ノートン〉や、ノルウェーから変態的なディスコのリリースで知られる〈セックス・タグ・マニア〉等、エレクトロニカのフィールドからエクスペリメンタルなトラックを発表しているF・ポマッスルが手がけ、低音が強調され力強い倍音が広がる音響的なダブ・ヴァージョンはどくどくと波打つような独特の響きを持っています。サイン波で作られた冷たいハットもアクセントになり、とても緊張感があるトラックに仕上がっています。ミニマルで言えば、インクセックやジェイ・ヘイズの〈コンテクステラー〉からのシングルに近い雰囲気です。DJをしていると前後の曲のバランス感が気になります。テクノに比べダブステップには音圧が高く、低音が強い曲が多いので選盤には注意が必要です。このシングルは線は細く音楽的な深みには欠けているものの、ミニマル・ハウスの側から音圧やバランスを変えずにリズムに変化をつけることができます。ミニマルのDJでダブステップに興味がある人はこの辺のレコードをセットの中に組み込んでみてはいかがでしょうか。ミニマルとダブステップのあいだを「キープ」しながら繋ぐことができる貴重なDJツールです。
2. Oriol / Coconut Coast | Planet Mu (UK)
これはいままでになかった新しい組み合わせの音楽です。ダヴステップやエレクトロを通過した新しい感覚のディスコです。スペインのバルセロナ出身のオリオールはロンドンのブロークン・ビーツのシーンより頭角を現し、いまでは売れっ子プロデューサーとして活躍するフローティング・ポインツに見初められた逸材で、ミュー・ジックを筆頭にUKエレクトロニカの礎を築いた〈プラネット・ミュー〉が期待をこめて送り出した新人でもあります。ガラージとエレクトロニカ、ダブステップをベースに、70'sのソウルやディスコ、フュージョンからのメロディーを取り入れ、わかりやすく現在の音に消化しています。コズミックで美しく広がるシンセはブリストル産のダブステップのような寂しげで内向的なメランコリーではなく、UKのものには珍しくポップで明るい和やかなメロディを奏でています。例えるならイアン・オブライエン+フェイズ・アクション+フォーテットと言ったところでしょうか。ヴォーカル・プロダクションも90'SのUSディープ・ハウスを彷彿させるハイレヴェルな出来です。リミキサーには〈ランプ・レコーディング〉や〈ラッシュ・アワー〉からグライムやダブステップをリリースするファルシィ・DL、〈プラネット・ミュー〉のオーナーでもあるミュー・ジックことマイク・パラディナスの変名プロジェクトであるジェイク・スラセンジャー、〈パンチ・ドランク〉からのリリースでも知られ相棒のブラックレスと共に〈ブランテッド・ロボッツ〉を運営するショート・スタッフが起用され、幅広いリスナーに向けられたシングルです。
なかでもジェイク・スラセンジャーのリミックスは秀逸で、原曲の良さを素直に拡大しバレアリックで壮大なシンセが軽やかなビートとともに宙を舞うとても美しい曲に仕上がっています。ミュー・ジックを含めた彼のキャリアのなかでも屈指の名曲と言えるのではないでしょうか。ダブステップを契機としたUKアンダーグランドの掘り起こし作業のなかから面白い動きが起こりつつあります。いまのフロアの状況だから言えるのかもしれませんが、テクノは4つ打ちのキックとハウスフィーリングの快楽性に甘えすぎていたようです。ジ・オーブやブラック・ドックなど90'sのテクノは様々なアイデアにあふれていました。イーブンキックから失われた開放感的をとりもどすためには、異なるリズムの組み合わせとタメが必要なのです。ミニマルのバランス感覚を捨て去れば新しいものが見えてくるかもしれません。
3. D Bridge / Zx81 Remixies | Fat City (UK)
アンダーグランドのヒップホップを中心に独自のセレクトで知られるマンチェスターのレコードショップ兼ディストリビューターである〈ファット・シティ〉からリリースされたコンピレーション「Produsers No.2」からカットされた限定のリミックス盤です。原曲はポスト・ダブステップ/ドラムンベースをリードするロンドンのD・ブリッジによるもので、エフェクトがかかったアコーディオンが中毒的に響く、ファットで味わい深い低速のブロークン・ビーツで7インチのシングルでカットされていたものです。
D・ブリッジはUKソウル/R&Bのプロデューサーであるスティーブ・スペイセックの実弟で自ら〈イグジット・レコーディング〉を主宰し、ヒップ・ホップからダブステップまで幅広くUKアンダーグラウンドの音楽を紹介しています。先日リリースされた〈ファブリック〉からのミックスCDでもダブステップとドラムンベースを見事にミックスしロンドンのいまをしっかりと伝えていました。今回のリミックス盤ではモーリッツとともに〈ハード・ワックス〉のマスタリング・エンジニアとしてベルリンから素晴らしいダブ・プレートを送り出すシェドと、〈ヘッスル・オーディオ〉を主宰し〈AUS〉や〈アップル・パイプス〉などからUKガラージ、ダブステップ、さらにはミニマル・ハウスまでリリースするラマダンマンが起用され、それぞれ趣の違ったリミックスを聞かせています。シェドのリミックスは、原曲とほぼ同じ音を加工し、もっさりしたキックに地を這うように力強いサブベースとシャリっとしたハットのシンプルなテクノを主体に、中域で継続して響くのアナログノイズとデトロイティッシュなシンセの和音が絡み合う、ダブと言うよりもドローンに近い壮大な音饗世界を創りあげています。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインをカール・クレイグがリミックスしたらこんな感じになるのかもしれません。とにかく一服せずとも地底に引きずり込まれるような、ベルリンのミニマルの魅力を充分に伝えるずば抜けた音響のトラックに仕上がっています。
いっぽうラマダンマンのリミックスは、原曲を倍速にし、UKファンキーをベースにジャスティン・マーチンやスウィッチのようなフィジェット・ハウスをかけ合わせた面白いグルーヴのトラックです。リズムはファンキーな曲ですがロスカのような軽さではなく、使っている音色のせいかクールな面持ちです。DJのミックスに上手くはまればいいアクセントになりそうな曲ですが、冒頭のグルーヴが取りづらいのでDJとしては腕が試されるレコードかもしれません。それにしても両面ともに素晴らしいマスタリングが施された12インチです。限定盤なのでお早めに。
Shop Chart
![]() 1 |
![]() 2 |
||
|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
||
![]() 5 |
![]() 6 |
||
![]() 7 |
![]() 8 |
||
![]() 9 |
![]() 10 |
Shop Chart
![]() 1 |
![]() 2 |
||
|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
||
![]() 5 |
![]() 6 |
||
![]() 7 |
|
![]() 8 |
|
![]() 9 |
![]() 10 |
|
喜多郎も住んでいる米コロラド州から若き8人組による2作目(かな?)。アルバム・スリーヴからも推測できるように最初から最後までロジャー&ハマースタインを思わせる50年代風シネマ・ミュージックで貫徹され、どこをとっても甘ったるいことこの上ない。エールのようなそこはかとない厭世観もなく、エレクトロニクスを控えめにしたジェントル・ピープルの生演奏ヴァージョンとでも(マイ・スペースのリストにはアイザック・アシモフにカール・セーガン、ボブ・トンプスンにブライアン・ウイルスンの名前も散見)。
とにかく100%夢見心地。そうとしかいえない。リチャード・M・ケッチャムの絵本か何かをイメージしたものだそうで、「知られざる暮らし」を表現しようとしたものだという。おそらくはこんな場所や生活があればいいなあとか......そういうことで、アメリカの現状からすれば逃避以外のものでもない。ただし、完成度は高いので音楽的には逃げ切っているといえる。別名義ではパンクなどもやっているらしいので(ケイヴ・ウーマン、ファイアー・ブリーサー、グレート・ルーム・ヴィクトリアン、サワー・ボーイ・ビターガールなど)、これだけを聴いて呆れた若者たちだということも適わないというか。
考えてみれば、ゼロ年代は、対テロ戦争に監視社会、移民の暴動に大恐慌や大量失業と続いた最悪の10年だったので、反対にこれだけ桃源郷に対する思いが強く出てくることは自然だし、最悪を描写することだけがポップ・ミュージックではないともいえる(そのような気持ち=向上心があることを「動物化」に対する「人間」といい、それを食い物にしているのが江原とか勝間とか)。それこそ「シャングリ-ラ」というのもそうやって1933年にジェイムズ・ヒルトンが創作した概念で、世界大戦から逃れたくて生み出されたものだったわけだし。いまとなっては、♪夢でキス、キス、キス~とかになってますけれどー。
ヴァン・ダイク・パークスやウォール・オブ・サウンドなど細野晴臣が参照し続けたサウンドをベース3割り増しで再現しつつ、ノスタリジック一辺倒にならない手際も実にお見事。甘ったるい音の処理はケヴィン・シールズがア・クワイエット・リボルーションのプロデュースを手掛けたパターンを思い出す。『裏』ではなく、『アンビエント・ミュージック 1969-2009』に2010年の項を追加するとしたら、間違いなくこのアルバムがエントリーです。
ぼくがロマンの語り手になり切れない部分は、つまりロマンがしばしば語り手の自己肯定を前提にして、ナルシズムに陥りやすいからで、対立物を内包するとくずれてしまう性格をもっているからだ、という気がする
寺山修司(唐十郎との対談『劇的空間を語る』76年3月)
これは丑三つ時に見た奇天烈な夢の話
夢の中で夢が夢であると自覚したばかりに
私は私と分裂した悲しき性に
汝の半身を探し闇の中
志人"ジレンマの角~Horns of a Dilemma~"
現在の志人の凄みとは、00年代初頭にヒップホップ・グループ降神のラッパーとして日本語ラップ・シーンに鮮烈に登場してから約10年間、悩み、懊悩し、思想や価値観やラップのスタイルを劇的に変化させながらも決して歩みを止めなかったからこそ獲得できた代物だと思う。
![]() 志人 / ジレンマの角 EP ―Horns of a Dilemma EP― Temple Ats |
今回、志人のシングルはアナログでリリースされている。もしかしたら、「お、久々のリリースじゃん」と思う人もいるかもしれないが、実は昨年も、家族を主題にした「円都家族~¥en Town Family~」というシングルをポストカード・レコードという特殊なレコードでリリースしている。さらに、今回のアナログにも収録された、志人が志虫という名でいくつもの虫に成り代わり物語を紡ぐ(宮沢賢治の『よだかの星』を彷彿とさせる)"今此処 ~Here Now~"とDJ DOLBEEのインストを加えた増補盤を懐かしの8cmCDという形態で発表してもいる。
それらは、失われていくメディアに焦点を当てるという企画の一環で、ダウンロード配信など、急激に変化する昨今のメディア環境に対する彼らなりのレスポンスなのだろう。志人らが主宰するインディペンデント・レーベル〈Temple ATS〉のアートワークの要である画家の戸田真樹の絵も含め、手作りの「モノ」を残すことへの強いこだわりが感じられる。
"今此処"のクレイアニメーションのMVなどが収められた『明晰夢シリーズvol.1』やポエトリー・リーディングのイヴェントに飛び込みで参加する志人の姿を撮影した『森の心』といったDVDもひっそりと世に出回っている。また、「ジレンマの角 EP」に収められた"夢境"のクレイアニメのMVは秋に、NHKで放映される予定だという。ヒップホップ・シーンから遠く離れた場所で、彼らは変わらず自分たちの活動を続けてきたのだ。
そして、"ジレンマの角"をリード曲とするアナログも〈Temple ATS〉のHPで購入すると、特典としてCDとポストカードが付いてくるという仕組みになっている。ラップ入りの曲が3曲、インストが2曲収められているが、すべてのトラックを担当したのはDJ DOLBEEで、音楽的に言えば、エレクトロニカ、アンビエント、ヒップホップとなるだろうか。とはいえ、何をおいてもやはり特筆すべきは志人のラップの圧倒的なオリジナリティである。
"ジレンマの角"は、志人が、無実の思想犯、警察官、裁判官、医者、看守、死刑執行人、囚人、ガーゴイルなどに扮し、国家権力に囚われ死刑を宣告された主人公と思しき、野蛮思想に侵されたとされる無実の思想犯を中心に展開するストーリーテリング・ラップで、まるでATG映画のような重苦しいムードに満ちている。意図的に劣化させたノイジーな音質はまさにATG映画のざらついた映像のようで、その世界観は大島渚が死刑制度をテーマに撮った映画『絞死刑』を連想させる。危険な香りを漂わせながら、鬼気迫るラップを披露する、一聴して率直に「ヤバイ!」と思わせる志人は久々だ。
このアナーキーな感覚は、2005年にリリースされたアナログでしか聴くことのできない"アヤワスカ"以来だろう。ちなみに僕は、三島由紀夫、チェ・ゲバラ、ジミヘン、ジャニス・ジョプリン、サン・ラ、バスキアといった過去の文学者や革命家やミュージシャンらの名前をリリックに盛り込み、路上の怒りが渦を巻きながら天空に舞い昇り優しさに変わっていく、麻薬的な快楽の潜むこの曲が、志人の作品のなかでも1位、2位を争うぐらいに好きだ。
リーマン フリーター ディーラー
ブリーダー Dremaer ハスラー やくざ
Jasrac シャーマン ターザン
ターバン巻くサーバント
We are Music Mafia have No Fear
FREEDOMを作り出し 救い出すビーナス
Winner Loser Who is the Luler(ママ) in this earth?
I ask You やさしく言う まさしく 君だ
"アヤワスカ"
◆無実の思想犯
そうだ あのとき私は確かにアナーキーな連中とばかりつるみ
社会からは脱藩人よばわり 盛り場の話題はいつも中身無き冗談か
国家権力から逃れる方を夜長に語りあかした
空が白むまで 朝もやが稲妻で 引き裂かれて行くのをただ睨むだけ
気が付けばそこにはもう誰もいなくなって
周りには口を尖らした どたま来たお巡りが
◆警察官A......「野蛮思想に冒された犯罪人よ じたんだ踏もうが時間だ
お前にもう夢を見る権利は無い」
逃げなきゃ 後ろ手に回される 絞め縄
二メーターはある権力者達に上から押さえつけられ
あっという間に 前後塞がり 暗がりに砂を噛み
不渡りつまはじきものの姿に
"ジレンマの角"
"アヤワスカ"にも近い部分はあるが、"ジレンマの角"は明確に戯曲という形式が採られている。が、しかし、この曲は紛れもなくラップ・ミュージックとして成立している。この2曲に関して言うと、苛烈さという点において、ソウル・ウィリアムズやマイク・ラッドなんかと同じ匂いを嗅ぎ取ることができる。
いずれにせよ、日本でこんな芸当をやってのけるラッパーを志人以外に僕は知らない。詩人が朗読しているかと思えば、役者のセリフ回しのような語りに切り替え、一瞬ラガ調の声音でかましてみせたりもする。志人のとどまることを知らない自己内対話のエナジー放出するために必然的に発明されたスタイルなのだろう。
「私」への深い疑念からくるラップへの苛烈な欲求、言い換えれば、近代的自我の解体への欲望と言えるかもしれない。近代的自我に亀裂を入れて、その危うさや不確定さを炙り出そうとするのは、志人の表現の底流にあるもので、我を忘れるほどの限界状態から真実を手繰り寄せるために志人はラップの技術を鍛え、進化させ、ときに驚異的な速度に身を任せているように思える。
まるで千手観音の手が、五感に物凄い勢いで襲いかかってくるような変幻自在のラップには、聴く者の視覚や聴覚などの感覚を統一させる力を感じる。それはいわば明確なトリップ体験であり、個々の枝分かれした感覚のその奥にある根源的な感覚に触れてしまうような、共感覚の稲妻に打たれる経験である。志人のラップのスピードは共感覚へ到達するための、未来を生み出す生命力に溢れた速度である。
ことばは生きものである、ということを志人は全身を楽器にすることで体現し、また彼のラップを聴く者はそのことを全身で痛いほど感じることになる。志人は日本語のラップ表現を意味と音声と物語の構成といったいくつかの点において、明らかに次元が違うところまで持って行ってしまった。韻を踏むことでイメージを膨らませ、物語を予期せぬ方向へ転がし、ことばとことばの連なりがまた新たなイメージを喚起させる。
「とりたて何の理由も無いですが、鳥だって色んな色を持っているはずなのに
どうして僕はこんなに真っ黒で小汚ねー色をしているんでしょう?」と問いかける
「お日様の様にどうしたら成れるの あの真っ赤っかな色に成りたかったんだ
時たま邪な気持ちを残したお星様に聞いてもさっぱり分からなんだ
名前も知らないカラスが一匹飛んで来たとき
浜辺の白波 黒く汚れたこの身を洗い
何万年後も流れ星追い 嫌がってもやがて年老いる僕らは
今までのままこれからのカラーを探して どんくらい根比べ重ねてどんぶら大海原
日溜まりの中で暗闇を焼き払い給え 名前の無い僕は
猛スピードでモスグリーンに曇った街を行くモスキート
もう救い様の無い都市はホスピタル 夜の持つ魅了に取り憑かれたヒーローは
次の朝、ポルノスターになりました
アスリートの吹かすウィード
唐墨色に染まる空のオリオン座に恋をした少女は
君の心なら全てお見通しさ ってな具合にカラカラとただ笑うんだ
"私小説家と黒カラス"(『Heaven's恋文』)
「ことばの偶発的な干渉=共鳴の自由を許す」(今福龍太)とでも言えようか。ことばとことばの隙間に壮大な冒険への扉を無数に用意し、そして、どの扉を開けるかは、そのラップを聴く人間次第なのである。志人は日本語ラップ界のダダイストであり、モダン・ビートニクの詩人である。そんな形容さえ、僕はまったく大袈裟に思わない。
2002年に降神がCDRによるデビュー・アルバム『降神』を発表した後、志人のフォロワーが大量に現れたが、「THA BLUE HERB以降」や「SHING02以降」という日本語ラップの歴史認識が仮に成立するのであれば、間違いなく「志人(降神)以降」というのも成立することになる。まあ、誤解されないように一応書いておくが、それは商業的成功という意味ではなく、あくまでも芸術的観点から考えた場合である。
![]() photo by 新井雅敏 |
ところで、『降神』の2曲目を飾る、ファンのあいだではクラシックの呼び声も高い"時計の針"の最後で、「血染めの鉢巻き絞めて印税もらって勝ち負け気にして死んでろ 特に お前と彼等」と、商業主義に走るBボーイたちを唾を吐きながらディスしていたことを思えば、ある時期から志人は随分優しくなった。いまは口が裂けても「死んでろ」と言い切ることはないだろうし、「hate=憎しみ」の感情をあからさまに表に出すこともなくなった。
何が原因でそうなったかは知らない。年齢のせいもあるだろう。デビュー当時の降神には感じられなかった友愛をいつからか率直に表現するようになった。初期の攻撃性や狂気を愛したリスナーは戸惑ったに違いない。だから、もちろん降神や志人をずっと追い続けているファンはいるだろうが、一方で、彼らのリスナー層は変わっていっているように思える。
実際のところ、僕もある時期、志人のラップとことばを素直に受け入れることができなかった。何年か前、湘南の江ノ島の海の家だったと思うが、志人のライヴをオレンジ色の夕陽が深い闇に沈まんとする美しいロケーションのなかで観たことがある。具体的には思い出せないが、志人が放った自然回帰やエコロジーや友愛のことばは、僕にはあまりに無垢なことばに聴こえ、愕然としたことがある。正直、最後まで観ていられなかった。
「それは、お前が偏屈で心が汚れているんだよ」、ということであればむしろ話は早いが、しかし、似たような感想を持つ人間は少なくないということだ。いや、これは本当にきわどく、危うい現代的な問題なのである。
僕は志人というラッパーが、宇宙の真理や自然の偉大さを考えもなしに漠然とペラペラと喋るスピリチュアリズムかぶれの軽薄な人間などではないことをよく知っている。豊かな知性と感情と表現力を持つラッパーであることを知っている。裏を返せば、そんな志人であっても、いまの時代に自然回帰やエコロジーという切り口から平和を訴えることは、共感と同じぐらいの拒絶を引き出してしまう困難さがあるのだ。それぐらい自然回帰やエコロジーというのは、一筋縄ではいかないものだ。
その意味で、「野は枯れ 山枯れ 海は涸れ すきま風が吹き 国は荒れ果てた 放火魔に 連続殺人 原子力発電所 核戦争 終わらせよう 今日からでも 君は地球さ 地球は君なのだとしたら」というリリックから穏やかに滑り出すアンビエント的な"夢境~Mukyo~"の平和主義は、果たしてリスナーにどう受け止められるだろうか。
ともあれ、"ジレンマの角"、"今此処"、"夢境"といったまったく異なる表情の曲を1枚のアナログに収めたことには意味があるだろう。それが志人の懐の深さでもある。これは取って付けたフォローではなく、真実だ。
そしてまた、志人の豊穣さの底を支えるものにはノスタルジアがある。それは単に幼年時代や少年時代や過去を懐かしみ感傷に浸るということではなく、人間の奥深くにある記憶を呼び覚まさせるようなノスタルジアのことだ。それはどこか稲垣足穂の「宇宙的郷愁」と相通じるし、あるいは、志人が思想的にも、芸術的にも大きくインスパイアされたであろう寺山修司の土俗的な、ある種屈折したノスタルジアを思い起こさせもする。
"今此処"や"夢境"にももちろん滲み出ているが、2005年に発表したファースト・アルバム『Heaven's恋文』に収録された"LIFE"はとくに、ノスタルジアを結晶させた、豊かな色彩感覚に彩られた名曲である。KOR-ONEによるファンクとソウルの感性が映えるトラックも本当に素晴らしい。
嫌というほどに見た現実に疲れては/まぼろしの公園でいつもひなたぼっこLIFE
忘れかけたユーモアというものや/君にとってとっても重要な日々の匂いや色は、
街で見かけたチンドン屋/なびかせた黄色いハンカチーフ
やさしくなった自分をふと思い出すのさ/
どこもかしこも/立ち止まる足場も無く/暇も無く/芝も無い/
僕の居場所を探し出そう/この 都会に お帰り
LIFE
しかし、こればっかりは歌詞の引用だけでは伝えられないものがあるので、聴いて感じてもらうしかない。他にも、日本の庶民的な家庭を描いているようだが、よく聴くと、現実と虚構が入り組んでいて、どこかズレが生じている"円都家族"の奇妙なノスタルジアも面白い。
詳述は避けるが、『Heaven's恋文』のあるスキットでは、実際に寺山の映画のワンシーンが引用されている。それは、インテリ批判とも読める志人らしい軽妙なやり口で、その映画を観た人間から言わせると、「ああ、そこなのか!」と膝を打ちたくなるような風刺の効いた場面を拾っている。
ただ、志人に寺山修司や稲垣足穂や宮沢賢治といった過去の芸術家や詩人の影を感じたとしても、志人がやっていることは、当然過去の意匠の焼き回しではないし、ましてや懐古趣味や権威主義、または衒学趣味とは程遠いものだ。
「いまの時代がいちばん面白いと言わせたい」というのは、かつて志人が放ったことばだが、その情熱の炎がいまだ燃え盛っているということは、この新しいアナログを聴いても実感できる。さきほど、異なる表情の3曲を1枚のアナログに収めたのが懐の深さだと書いたのは、対立物を内包しながらもロマンを語ることはできる、ということに志人が挑戦しているように思える故である。
さて、最後に、志人の刺激的な今後について書いておこう。まず、そのうち志人と渋さ知らズとの共演(競演)があるかもしれないという噂が耳に入ってきている。また、MSCのTABOO1のファースト・ソロ・アルバムにゲスト・ラッパーとして参加する予定だが、"禁断の惑星"と名付けられたSF風の曲のバックトラックを制作したのは、なんとDJ KENSEIである。さらに、〈アンチコン〉とも縁の深いカナダのラッパー、BLEUBIRDと録音した数曲は、おそらく日本のヒップホップ・シーンに小さくない衝撃を与えることになるだろう。そして願わくば、ごく少数しか流通しない(させない)「ジレンマの角 EP」の楽曲が、なんらかの形でより多くの人に届くようになればと思う。まあ、ということで、志人の今後の展開を楽しみに待とう。
ザ・スリッツとザ・レインコーツのオリジナル・メンバーだったパロマ・ロメロは真摯なキリスト教徒になり、そしてエックス・レイ・スペックスとエッセンシャル・ロジックのオリジナル・メンバーだったローラ・ロジックの名前で知られるスーザン・ウィットピーはハレ・クリシュナに入信した。ともに80年代に生まれ変わっている。こうした事実からなにかを導き出したい......というわけではない。アリ・アップはジャマイカに移住し、テッサ・ポリットはヘロイン中毒者になり克服した。『ザ・フラワーズ・オブ・ロマンス』のジャケに写ったジャネット・リーはおよそ10年後にザ・ストロークスを見出した。当たり前の話だが、彼女たちにもいろいろあったのだ。
ジョン・ライドンがザ・レインコーツと並んでパンクを別次元に押し上げた功績者として評価したのが、エックス・レイ・スペックスである。ソマリア系移民の娘であるポリー・スタイリーンが率いたそのパワフルなパンク・バンドのサックス奏者となったローラ・ロジックは、しかし早々とバンドを抜けると、ザ・ストラングラーズの『ブラック・アンド・ホワイト』に参加して得た金を持って、1978年、自分のバンド、エッセンシャル・ロジックのデビュー・シングル「アエロソル・バーンズ」を録音する。バンドはその翌年には〈ラフ・トレード〉からデビュー・アルバム『ビート・リズム・ニュース』をリリースしているが、同じ時期にロジックはザ・レインコーツのデビュー・アルバム、あるいはレッド・クレイオラでもサックスを吹いている。
エッセンシャル・ロジックは典型的な――という形容はその理念からして矛盾しているが――ポスト・パンク・バンドで、そのことは高名な批評家グリール・マーカスをして「これ以上ないほど完璧」と言われたローラ・ロジックという名前からもうかがえる。パンクの「理屈じゃないんだ」という姿勢に対して彼女ははっきりと自らの名前で「理屈(ロジック)だ」と主張したのだから。そういう意味ではジョン・ラインドンが示唆したように、パンクをパンクという"型"にはめなかった彼女たちのほうがパンクだったと言える。そして"型"にはまらなかったからこそ、彼女たちは短命に終わったのだ。エッセンシャル・ロジックも1枚のアルバムと数枚のシングル、そしてローラ・ロジック名義での1枚のアルバムと1枚のシングルのみを残して終わっている。アイデアの底が付いたら終わりというのが、当時の流儀でもあった。ちなみにいまでも僕が当時のレコードとして持っているのは『ビート・リズム・ニュース』(1979年)と12インチ・シングルの「ウェイク・アップ」(1979年)、それからローラ・ロジック名義の『ペジグリー・チャーム』(1982年)の3枚で、それらはローラ・ロジックの音楽を象徴するように文字が踊っているっているようなタイポグラフィーが描かれている。これらのデザインはいましげしげと眺めても格好いい。
『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』は〈キル・ロック・スター〉からの編集盤で、このレーベルは最近、ザ・レインコーツやデルタ5、クリネックスといったポスト・パンク時代の女性が中心にいたバンドの編集盤を相次いで出している。『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』はCDで2枚組で、1枚目はエッセンシャル・ロジックの軌跡、もう1枚のほうではローラ・ロジック名義での音源が聴ける。1枚目のエッセンシャル・ロジック時代の音源のほうが、いま聴いても新鮮なのは言うまでもない。
「私たちには愛し合っている暇が与えられていないのよ」と両義的な不満を歌うロジックは、曲のなかを自由にステップを踏んで動き回り、力強くサックスを吹いている。彼女の厚みのある声、そして(ジャズではなく)大道芸のようなサックスがゆっくりと3拍子を刻みながら展開して、後半にはハチャメチャなパーティのように錯乱していく"アルバート"という曲が僕はとくに好きだったが、いちばん最初に覚えたのは〈ラフ・トレード〉の最初のコンピレーションに収録されていた"アエロソル・バーンズ"だった。それはもっとも激しい曲で、誰にも捕まえられない素早さで彼女は動いている。『ファンファーレ・イン・ザ・ガーデン』にも1曲目に収録されている。
グリール・マーカスの記した素晴らしいライナーによれば、「ごく少数の人間にしか聞かれなくても、自分には聞こえる自分自身の声があるということを、たくさんの人が発見した時期」のなかのこれはひとつの歴史だという。マーカスの言葉もまた、ポスト・パンクとは何だったのかを的確に捉えていると言えよう。
蛇足というか補足:サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション』についての原稿やザ・レインコーツの記事のなかで、〈ラフ・トレード〉の理想主義について触れたが、ことの顛末について書き忘れている。〈ラフ・トレード〉の「50:50」契約は、プライマル・スクリームと〈クリエイション〉の90年代前半まで存在し、イギリスのインディ・ロックにおける良心的な契約としてアーティスト側からは望まれていたが、結局のところ続かなかった。〈ミュート〉におけるデペッシュ・モード、〈ファクトリー〉におけるニュー・オーダーのように、売れて多額の報酬を得たバンドは活動のペースが落ちていく。アーティスト側にとってはそれでいいが、レーベル側は4年のうちの数ヶ月だけ運営していればいいというものではない「50:50」契約ではレーベルの長期的運営が困難だったという話である。要するに、パーセンテージの問題ではなく、気持ちの問題だった!
前作の『ラヴビート』が発表されたときに自分はまだ17歳の高校生だったこともあって、作品の背景にあるコンセプトだったり、そこから浮かび上がってくる問題意識のことは、ほとんど気にしていなかった。親の庇護のもとで毎日のほほんとレコードを聴いて暮らしていた僕にとっては、環境問題だとか、世界の調和がとれなくなっているとかそういったことは、まぁ頭では「大変なことだなぁー」とは思ってはいたけど、やっぱりそれほど切迫したものとしては感じられずにいた。
それよりも、理屈なんか抜きにして一聴しただけでも彼のものだとわかる、その音世界の完全な虜になっていた。スネアの音の密度、フィルターコントロールによって定められるシンセの重心、ダビーな空間の広がり......。それらのどれをとっても決して過不足のない、まさしく「良い塩梅」とでも言いたくなるそのサウンドコントロールは実に見事だったし、ジャンルやスタイルを越えた普遍的な部分の"音"そのものに自分の色を強く打ち出すその姿勢は素直にかっこいいと思った。自分が知っているどんな作り手よりも音楽に誠実で、借り物ではない「自分の言葉」を持った語り部。当時の僕にとって砂原良徳は、そんなひとつの理想像を体現している存在だった。
それから実に9年のときが経った。時代はディケイドをひとつ跨ぎ、僕も20代を折り返した。もちろん、親元はとうに離れて、社会の1ピースとして日々の暮らしにヒーヒー言っている......。そんななかで届けられた久々の新作は、聴いた瞬間思わず冷や汗が出た。それと同時に、クラフトワークを初めて聴いたときのホアン・アトキンスさながら「凍てついた」。なぜなら今回はそのサウンドから、彼の問題意識をはっきりと切実なものとして感じ取ることができたからだ。それは僕が大人になったからなのか、はたまた、この9年のあいだに社会はより深刻なフェーズに遷移しつつあるからなのか? どちらにせよ、今回の砂原良徳のサウンドはいままでにも増して鬼気迫る、張り詰めた空気を纏っているように思えた。
前作のウォーミーなパッドサウンドと、どこかラグジュアリーにすら思えるゆったりとしたビートで構成されたその音世界からは、どこか浮世離れした粋人の余裕のようなものが感じられた。しかし今作は、全体のサウンドキャラクターとしては『ラヴビート』からの世界感を引き継いではいるが、前作以上に音数はそぎ落とされ音像はドライになっている。そして、全体的に丸い音が多かった前作に比べ、ビットクラッシャーで加工したようなローファイで歪んだサウンドが頻出するのが印象的だ。とくにその傾向は、2曲目に収録されている表題曲"サブリミナル"で顕著に現れている。
この音を聴いて、同時に思い出したものがある。それは、ジョン・カーペンターが80年代の終わりに撮った映画『ゼイリブ』だ。この作品には世界の真実の姿が見えるサングラスが登場する。このサングラスをかけると、街のビルボードに掲げられている煌びやかな広告は「服従せよ」とか「考えるな」とか「眠っていろ」とかいったメッセージに変化して見える。さらにはマスメディアや権力の側にいる人間はすっかり宇宙人とすりかわっていることがわかってしまうのだ。人々は、自分の意思で生きていると当たり前に信じながらも、知らず知らずの間に洗脳され、奴隷化されていたのだ。
影の黒幕宇宙人が実際に居るかどうかはいまは置いておくとして、こと無意識とか無自覚のうちに自分の感覚がマスにチューニングされていると感じることは多々ある。SNS→Twitter以降のここ最近はとくにそうだ。自分の言葉で文章を書き、ポストしているつもりでいても、気がつくとTwitterのタイムラインは足並み揃えて同じような言い回しや言葉遣いがズラりと並んでいてドキッとすることがある。本来の自分の言葉は、どこかの誰かが作った記号と定型句の集合に置き換わっている。まぁ、ある種の共同体の中に埋もれる心地よさもたしかに分からないこともない。しかしいっぽうで、今の社会はそういった共感することの心地よさに捕らわれすぎ、自分の考えや感情をよりイージーなところに落とし込みがちではないか? とも思う。
音楽にしたってそうだ。所謂ヒットチャートに上ってくるようなポピュラー・ミュージックのたいはんが紋切り型のラヴ・ソングを歌うか、もしくは無責任に他人の人生を応援するかしなくなって久しい。そもそも歌詞にしたってアレンジにしたって、直接的で説明過多なものが多い気がする。例えば夏の暑さを表現するとして、レゲエ・アレンジをかました上に、サビで実際に「暑いぜー♪」と歌っちゃうような音楽ってのも、笑いごとじゃなく数多く存在する。そこまで来るとその音楽にはもはやイマジネーションが介入する余地は無いし、そもそも全部喋っちゃうんだったら音楽でそのテーマを表現する意味があるの? といったところだ。より多くの共感を得るためのマーケティングの上で音楽が作られ、そしてより多くの物に共感するために大衆は自らの感性をイージーな側にチューニングする。そこには、アンダーグラウンド・レジスタンスが言うところの「プログラマーたち」のような存在を感じる。そして、それに対抗しうるのは、イマジネーションに他ならない。
そして今作は「無意識」への警鐘と同時に、イマジネーションを喚起させることに重点を置いたサウンドメイクがされている。もちろん、直接的で野暮な表現などせずに、だ。例えば4曲目の"キャパシティ"は、増加する人口に対する地球のキャパシティのバランスが崩れはじめているということをテーマにした曲だ。この曲の、アタックが遅い(音の出始めは音量が小さいが段々音量が上がっていく)シンセパッドが徐々にそのレイヤーの枚数を増やして幾重にも重なり合っていく展開は、限界に向かいながらも増大していく地球人口を連想させ美しくもスリリングだ。
今作を通して感じたのは、現実の世のなかの何かと戦おうとする砂原良徳の姿勢だ。問題提起という域すら、もはや越えているかもしれない。半年以内には、ついに久々のアルバムも出るという! 最近だと過去のシングルの寄せ集めとリミックス・ワークが数曲、あとは申し訳程度の書き下ろしなんていうアルバムを平気でリリースするアーティストも少なくないが、そこは「なんとなく」では絶対に作品を発表しない彼のことだ。いま、このタイミングでどうしても砂原良徳が声をあげねばならないことがあるのだろう。こちらもイマジネーションを鍛えて、しっかり受け止める準備をしておかなければならない。
Chart
1 |
One -Law xSPER - 7/2,BED 素晴らしかったっす。 |
|---|---|
![]() 2 |
TRIO MOCOTTO - OS ORIXAS MUSIC FROM MY GIRLFRIEND'S CONSOLE STEREO |
![]() 3 |
DJ PK - TEKNO BOMBING 震えた。 |
![]() 4 |
SKUNKHEADS - 7/10,WARP スタジアムとかで聴きたいです。 |
![]() 5 |
CE$ - STEAL DA ROAD 色々と面白い。 |
![]() 6 |
BISON - 7/10,WARP 明け方最高でした。 |
![]() 7 |
HIRAGEN - CASTE みんな聴いた方が良いと思います。 |
![]() 8 |
PIT-GOb - REBORN 後半が壮絶すぎる。名作! |
![]() 9 |
DEAD FUCKIN NNINJA - 7/10,WARP ありがとうございました。 |
![]() 10 |
KWG - prove-zine |
Shop Chart
![]() 1 |
![]() 2 |
||||
|---|---|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
LOS MASSIERAS
BETTER THAN ITALIANS EP
/
»COMMENT GET MUSIC
|
|||
![]() 5 |
![]() 6 |
||||
![]() 7 |
![]() 8 |
||||
![]() 9 |
![]() 10 |





































