テリーに初めてあったのは、彼がDJとして来日した4年ぐらい前のことだ。ベン・シャーマンのシャツを着た50も近いおじさんだったけど、彼の笑顔はまるで5~6歳の子供のように眩しかった。彼のキャリアや〈ボーイズ・オウン〉についての話は知っていたけど、直接聴きたいと思ったのは、メインのパーティの翌日に小さな箱でやったプライヴェート・パーティについてだった。彼はほぼレゲエとソウルだけでプレイした。それがあまりにも良かったこともあって、翌日彼にレゲエやソウルとの出会いや、ザ・スペシャルズやザ・クラッシュについての話を聞いた。それがとても大事な話のように思えた。と同時に、忘れかけていた10代の頃の憧れのようなものに触れた気がした。そのとき、いつかじっくり彼に話を聞いてみたいと思った。
1994年の新宿リキッドルームのこけらおとしの〈メガドッグ〉でのアンダーワールドとドラム・クラブが僕にとって初めてのダンス・カルチャーとの邂逅だった。〈ボーイズ・オウン〉の音楽に触れた初めての体験だった。
1988~90年のUKインディ・シーンでブレイクするストーン・ローゼスやプライマル・スクリームには思いっきり熱狂してはいたのだけれど、そのときには理解できなかった意味やパーティがあの日から現実になった。それから15年以上、パーティが自分の生活の中心にあった。
本インタヴューは、去年の11月にロンドンでおこなった。その週末にはプライマル・スクリームのスクリーマデリカ・ライヴがあった。テリーに話を聞くことで、あの時代に起きていたことがはっきりしたと同時に自分のなかですべてが繋がった。
この8月には当時の関係者やミュージシャンのインタヴューを中心とした〈クリエイション〉レコードのドキュメンタリー映画『アップサイドダウン』が日本でも公開される。1988年、アシッド・ハウス、センカンド・サマー・オブ・ラヴ、エクスタシー、さまざまなキーワードで語られたもうひとつの伝説だ。〈ボーイズ・オウン〉も〈クリエイション〉も実にイギリス的な物語で、まるでプレミア・リーグに無名のチームが昇格し、並みいるビッグ・クラブを相手に互角に勝負をして、ギリギリまで優勝争いをしてしまった......というようなレーベルだ。
もちろん彼らは優勝することはできなかった。決してビッグ・クラブになることはできないのだけれど、しかし、そのシーズンを見たすべて人たちの心にのこるチームとなった。負けることもまだ大事なことなのだ。
『スラムダンク』を読んだことのある人ならわかるだろう、湘北高校は彼らにとっても最高の試合である山王戦を戦ったあと、あっけなく負けてしまいインターハイで優勝することはできない、しかしなによりも人びとの心にのこるのである。
インタヴューでも語られていることだが、イギリスでは12~14歳の少年が男として自分の生きてゆく上での方針を決める大事な時期だ。どんなものを着るのか、どんな音楽を聴くのかは、どのフットボールチームのサポーターになるかということぐらい彼らには大事な選択だ。
テリー・ファーレイもそのときに感じたことを楽しみながら、ただ追っかけてきただけなのかもしれない。が、彼はいくつかの奇跡のような夜に出会った。〈ボーイズ・オウン〉......彼らのピュアネスが残した音楽やアティチュードは、さまざまな世代が繰り返し作る、すばらしい物語のひとつだ、きっとまた〈ボーイズ・オウン〉や〈クリエイション〉のような話が新しい世代によって生みだされるに違いない。
僕はレゲエ、いや当時はスカやロックステディだね、を聴いて育った。当時の移民はみんな窓を開けっ放して、大きな音で音楽を聴いていたんだよ。ベースがブンブン響いていたっけ。父は移民の若者たちをパンクと呼んで、ほんとに嫌がっていたけどね。母はとても音楽が好きで、そう彼女はテディー・ガールだったんだ。
■まずはあなたが子供だったころのことを教えてもらえますか?
テリー:僕は1958年にノースケンジントンで生まれたんだ。すごく貧しい地区でね、よく覚えているのがトイレが家のなかではなく庭にあったんだよ。ブリキのバケツを庭の隅においてさ、冬は寒いし、夏になると蜘蛛の巣だらけで虫がいたるところにいたよ。僕が6~7歳まではそうだった。
いまでも時々思い出すのが、ノースケンジントンは第二次大戦でドイツの空爆が激しい場所だったんだ、だから僕のおばあちゃんの家には大きなコンクリートの防空壕があってね、その家はいまでもあるよ! 彼女はいまそこで鶏を飼ってるよ、新鮮な卵が食べれるからね(笑)。ちょうどキューバ危機のときはみんなそこに集まったり、近所の人たちがあたらしく防空壕を掘ったりしていたそうだよ。まだ大戦の時の記憶がはっきりしていた頃だったんだろうね、僕は子供ながらに、おかしなことするなと思っていたよ。
あの頃のロンドンの印象はすべてが灰色なんだよ。ロンドンではみんな家で火を燃やすから、すべての家の煙突からもうもうと黒い煙がでていて、晴れていても空が灰色で、1950年代はそれがほんとにひどかったから当時のアメリカの映画に映るロンドンは煙っているだろう。だから大人になってから思い出す子供時代のロンドンは、ほんとに寒くて灰色でまったく太陽の印象がない。BBCで放送していた『Steptoe And Son』というコメディ知ってる? 廃品回収業者の親子の話なんだけど、当時のノースケンジントンにはこのコメディに出てくるような人びとがいっぱいいたんだよ。
食べ物もレバーや羊の心臓や腎臓なんかが多くて、もちろん安かったからなんだけど、良くパイやシチューにしてくれた、母が料理の上手い人でほんとによかったよ。多くの人があの貧しい地区の話をつらいこととしてするけど、僕はあの典型的なワーキングクラスの暮らしに誇りをもっている。だって自分自身を作り上げてきたものだからね、でもトイレだけは家のなかにあるほうがいいけどね(笑)。
■ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズが力を持ってくる60年代のなかば以降はどう過ごしてましたか?
テリー:ノースケンジントンはノッティングヒルのすぐ近くで、そこは西インド諸島からの最初の移民がたくさん住んでいた。だから正直に言えば、僕はレゲエ、いや当時はスカやロックステディだね、を聴いて育った。当時の移民はみんな窓を開けっ放して、大きな音で音楽を聴いていたんだよ。ベースがブンブン響いていたっけ。父は移民の若者たちをパンクと呼んで、ほんとに嫌がっていたけどね。母はとても音楽が好きで、そう彼女はテディー・ガールだったんだ。テッズってわかる? 彼女は小さなレコードプレイヤーを持っていて、よくモータウンの曲を聴きながら僕にダンスを教えてくれた。ビートルズはいたるところにあふれていた、床屋に行っても「リンゴ? それともジョージかポール?」って言われるしね。子供から大人までみんなビートルズだったね。だけど毎日毎日聴こえてくるし、親が大好きな音楽を聴くのはいやだったから、僕はジャマイカの音楽やアメリカのソウル・ミュージックにはまっていったんだ。
はじめに好きになったのはジョージィ・フェイムだった「The Ballad of Bonnie and Clyde」というシングルが大好きだったよ、それと初期のリー・ペリー、『Return Of Django』とデズモンド・デッカーの007の曲はよく聴いたな。
その頃、1968年ぐらいにロンドンではじめのスキンヘッズ・ムーヴメントが起きていて、ちょうど僕も10歳で、そろそろファッションも気になりはじめていた。で、まわりのティーンネイジャーを良く観察してたんだ、どんな靴をはいてどんな服を着てるかをね。ある日、通りでリーバイスのジーンズをはいてる男の子を見たんだ、まわりにいた僕とおない年の子供が集まって「見ろよ! あれがジーンズだよ! ジーンズはいてるよ!」って騒いでね。その彼は「あっちいけ!」って言ってたけど、みんなまわりにあつまって騒ぎになったね。どうしたらそんな感じにタイトになるんだろう? って思って訊いてみたら、ジーンズは「はいたまま風呂で濡らすんだ」って教えてくれた。「値段は?」って訊くと「5ギニー」だった、5ギニーっていうと当時で6ポンド弱ぐらいかな? 10歳ぐらいの僕には買うことができないけど、母はテディー・ガールだっただけあって、どうしてもリーバイスのジーンズが欲しい僕の気持ちをわかってくれてね。それで似たようなジーンズを買ってくれたよ。
次はブーツだった、年上のみんなはドクターマーチン、いや当時だとホーキンスだね。僕らキッズはタフスウェイファインダー*(1) という靴底にコンパスがついている登山靴のような安いブーツを手に入れて、気分だけでも年上のファンションを身につけたかったんだ。でも彼らは僕たちのファッションをテスコボマーズといってバカにしてたよ、テスコって安売りで有名なスーパーなんだけどね。
脚注
(1)タフス・ウェイ・ファインダー(Tuff's way finder)ウェイファインダーブーツ
子供用の安全靴。ボーイスカウト公認・学校推薦とあります。
https://www.flickr.com/photos/22326055@N06/3611965790/
まわり中のソウル・ボーイがセックス・ピストルズの出現とともにあっという間にパンクになった、それからみんな自分の音楽を作りはじめたよ。うまいとかへたとかをまったく気にしないでね。みんなレコードを作りはじめた、スティーヴィー・ワンダーのようにうまくなくてもいいんだ。
■1968年のスキンヘッズってどんなものだったんですか?
テリー:彼らがたぶんオリジナルのスキンヘッズなんだと思うけど、黒人のコミュニティとも仲がよくて、スカやソウルを聴いて、黒人と同じようなもの、アメリカ風の服やイギリスのワークウエアを着てる若者だね。80年代のスキンヘッズのような右翼的な政治性はまったくなかったんだ。髪型もほんとのスキンでなくベリーショートって感じでね。それが1971年までのロンドンの若者だね。
それ以前、62年ぐらいからは、モッズ・ファッション、ロンドン中のすべてのキッズがモッズだった。67年、ビートルズが『サージェント・ペッパーズ~』を出したあたりからは、サイケデリックなファッションが流行りだしたけど、当時のスキンズはそのサイケデリックに行きたくないエクストリーム・モッズだったね。だからみんなソウルやスカを聴いていた。でも面白いことに1972年以降そのスキンヘッズも髪を少しのばしてフレアパンツをはくんだ。そのヘアースタイルをスウェードヘッドっていうんだけど。デヴィッド・ボウイの『ジギースターダスト』の頃の髪型わかる? あれ。もちろんロキシー・ミュージックとかも聴いていたけど、ロンドンではノーザンソウルの流れがやってくるんだ。
■その後、あなたがティーンネイジャーの頃はどうでしたか?
テリー:僕は16歳で高校を中退して、ガスの配管の仕事をはじめた。その仕事をはじめて1~2年したあたりで、すっかりアメリカのソウルにはまってしまって、完全なソウル・ボーイだったよ。毎日踊りに行くようになって、だんだん仕事にもいかなくなってね、結局もっと休めるバイトに切り替えて、あまりかしこい方法ではないけど(笑)。
1975年、まわりの同年代はほんとにアメリカのソウルに夢中で、まさにパンクの1年前だよ。髪の毛をブロンドや赤に染めて、短くしてアメリカ製のファッションをしてた。その頃から僕も自分で音楽をやりたいと思いはじめた、ディジー・ガレスピーやラロ・シフリンなんかの当時よく聴いていたアメリカのジャズ・ミュージシャンに憧れてね。でも彼らは本物のミュージシャンだった。とてもあんな風には音楽を作ることはできなかったよ。僕らにはまだコンピュータもなかったしね。
そして1976年、突然パンクがはじまるんだ。まわり中のソウル・ボーイがセックス・ピストルズの出現とともにあっという間にパンクになった、それからみんな自分の音楽を作りはじめたよ。うまいとかへたとかをまったく気にしないでね。みんなレコードを作りはじめた、スティーヴィー・ワンダーのようにうまくなくてもいいんだ。
■とはいえあなたはパンクには行かなかったですよね、なぜですか?
テリー:ちょうど70年代の後半にロンドンでもナショナルフロントが大きな勢力をもちはじめてね、パンクスやスキンズはときにそういう行動するやつも多かったからね、それとマッチョなスタイルが好きじゃないんだ。僕はやっぱりソウルが流れるクラブが好きだったし、そこには黒人のキッズやたくさんのジャマイカ移民の友だちもいた。僕は彼らととても仲がよかったから、パンクに行くことはなかった。僕らがいたコミュニティもいろんな人種がいることでとても面白い状況だったよ。
■じゃあ、ザ・クラッシュがレゲエを取り入れたり、ザ・スペシャルズに黒人メンバーがいることなんかはどう思ってました?
テリー:スペシャルズやクラッシュを聴くには、僕はもう年をとりすぎていたよ。もう20歳を超えていたからね。あれはティーンネイジャーのための音楽だったからね。ほんとに熱心に聴いていたのは12~13歳のキッズだよ。僕はその頃レゲエが大好きだったから、〈2トーン〉は聴かなかった、1979年のロンドンはラヴァーズロックが大流行したから、デニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックなんかだね。ラヴァーズ・ロックってソウルのカヴァーが多いだろ、それもよかった。
それに僕たちはもっとピュアなソウル・ボーイだったから、お金は洋服につかっていた。ちょうどデザイナーズ・ブランドが出て来たころだしね。キングスロードにザパータっていうマロノ・ブラニックの初めてのデザイナーシューズの店やブラウンズっていうゴルチエやヨージヤマモト、ギャルソンの服を初めてロンドンに置いた店なんかがお気に入りでね。ザパータでは当時マロノ・ブラニックがお店にいて、僕らが行くと「ファンタスティック! 若い人がきてくれるなんてうれしい」って言ってくれたよ、もちろん値段は高かったけど。ブラウンズはいまでもあるはずだよ。そいうお店が大きな影響力を持っていたね。
■当時のあなたのいたロンドンのカルチャーを描いた、例えば『さらば青春の光』みたいな映画や本はなにかありますか?
テリー:そのものを描いたわけではないけれど、僕らの世代にもっとも大きな影響を与えたのは『アメリカン・グラフィティー』だよ、でも音楽じゃなくてファッションだけどね。音楽はどうでもよくて(笑)、映画が上映されるとキッズはみんなボーリングシャツにリーバイスになってしまった。それにアメリカのヴィンテージ・カー。この映画のおかげでアメリカの古着がマーケットに溢れたのを覚えているよ。そう、毎週土曜日なるとキングロード・クルーズといって、自慢の50年代や60年代のヴィンテージ・カーに乗ってテッズがパレードするんだ。数千人の見物客がいてね、まだ15歳ぐらいだった僕もよく見に行ったよ。いまでもバタシーパークを中心にやってるんじゃないかな。それだけフィフティーズ・ファッションは人気があった、音楽は別だけどね。
スキンヘッズやソウルボーイについて言えばリチャード・アレンの『Skinhead』*(2) だね、すべての12~13歳ぐらいの子供はスキンヘッズだったよ! この物語は『Suedehead』、『Smoothies』と続いていくんだけどすごく影響力があった。まさに60年代~70年代のロンドンのストリートの話で、主人公はチェルシーのファンなんだよ! おもしろいことに60年代のロンドンの下町は話言葉もちょっと違っていて、アクセントや言葉の意味なんかも独特だったんだ、いわゆるコックニーだね。これはマーケットでよそものを騙すというか、そこでしか通用しない隠語で会話するんだけど、ちょっとでも多くのお金をまきあげる方法なんだよね。例えば階段のことを「アップル・アンド・ペアーズ」っていうけど、眼の前にいるよそ者にわからないように会話する方法なんだ。それがコミュニティをつなぐ重要な役割をしてたよ。これは多分ヒッップホップのコミュニティーとかでもそうだろう? ロンドンではコックニーとジャマイカンが混じったブラックニーという言葉があるよ。もう年をとった僕にもまったくわからない、いまのキッズの言葉もね(笑)。
その言葉でラップするアーティストもいるよ、レディー・ソヴァリンっていうんだけど。彼女はキッズのクィーンだよ。トラックはダブステップやUKファンキーなんだ。現代のソウル・ボーイはUKファンキーやダブステップを聴いてるね、いまのシリアスなゲイ・シーンもそう、黒人の若いゲイが集まるパーティがアンダーグランドで盛り上がっているけど、そこでもUKファンキーやダブステップだよ、ファッションはまったくギャングスタ・ラッパーみたいだけど、話すととてもフェミニンなんだ、そんなことがはじまってるよ。
■80年代になるとクラブにはまりますよね、どんなクラブに行きました?
テリー:コヴェント・ガーデンに〈シャガラマ〉というゲイ・クラブがあって、毎週土曜日にはかならずそこに行ってた。ベニーってDJが最高だった。コヴェント・ガーデンもまだ観光地じゃなくて、ほんとにマーケット(青果市場)だった。その奥のほうの倉庫が小さなクラブになっていて、年を取ったゲイが集まるクラブだった。いまのゲイ・クラブみたいに裸の男がいるようなクラブじゃなくて、とてもジェントルな雰囲気だった。そこに僕らのような20歳前後の若者がヴィヴィアンの服を着て、くるくる踊ってるんだよ。そこに集まるゲイはスーツを着て、たぶんビジネスマンなんだろうな、静かに僕らを見ながら酒を飲んでるんだ。ときどきおごってこれたりしながら、でもその安全な感じがよかったんだ。いまのゲイ・クラブとはほど遠いけどね。なぜならロンドンの他のクラブは酔っぱらいのケンカも多いし、まだ町にはたくさんのテッズがいた、彼らは、僕らがピンクのズボンとかはいてるとからんでくるし、黒人に対してもそうだった。そのクラブはそういうやつらに会わないし、もちろん音楽もアメリカのファンクやソウルだったしね。
![]() 1983年、若き日のテリー・ファーレイ。 |
脚注
(2)リチャードアレン『Skinheads』
スキンヘッズのライフスタイルやファッションの移り変わりを、暴力とセックスを交えて赤裸々に描いたティーン向けの冒険小説。
https://www.users.globalnet.co.uk/~jimthing/allen.htm
スペシャルズやクラッシュを聴くには、僕はもう年をとりすぎていた。20歳を超えていたからね。あれはティーンネイジャーのための音楽だったから。ほんとに熱心に聴いていたのは12~13歳のキッズだよ。1979年のロンドンはラヴァーズロックが大流行したから、デニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックなんかだね。
■それから1986年に〈ボーイズ・オウン〉のファンジンをスタートさせるんですね、その頃の話を聞かせてください。
テリー:僕たちはみんな同じクラブに行ってたんだ、〈ホワイト・クラブ〉や〈マッド〉みたいなね。スティーヴン(・ホール)は僕のすぐ近くに住んでいて、よくいっしょにチェルシーの試合を見に行ってたよ。アンドリュー(・ウェザオール)は僕らの地元から2マイル離れたウインザーに住んでいて、すごいポッシュ(豪華な)な住宅地なんだけど(笑)、彼はサイモン(・エケル)と友だちだった。彼らはいつもクラブで会うメンバーだったから、ある日クラブが終わってサイモンのフラットに集まって、アンドリューがレコードをプレイしていたとか、僕が「ファンジンをやらないか?」って言ったんだ。みんなとてもインテリジェントな仲間だし、このチームでなにかできそうだと思ってね。僕は『ジ・エンド』っていうリバプールのファンジンが好きだったんだ、この『ジ・エンド』のロンドン・ヴァージョンをやろうと思ったんだ。
『ジ・エンド』はフットボールとファッションと音楽がテーマで、このすぐ後にファームというバンドを結成するピーター・フートンがやってたんだ。知ってるよね? "Groovy Train"や"All Together Now"の大ヒットを出した彼らだよ。はじめの2冊は500部作って、ほんとんどの記事は僕とアンドリューが書いたんだけど、それがまあまあ売れて、他のみんなも記事を書いてくれるようになった。当時はまだ手書きだったんだ。僕の母が秘書をやっていたからタイプしてもらって、それをコピーして切り貼りだよ、ほんとに手作りさ。それからだんだん人気が出てきて、簡単な印刷機を手に入れて、最高に売れたやつは2000部も作った。そうさ、1988年のアシッド・ハウスがはじまったときだよ。
■どんなテーマでファンジンをつくったんですか?
テリー:はじめはほんとに『ジ・エンド』のコピーだったよ、どんなジャージがかっこいいとかね。自分たちがクールだと思うことは何か? っていうのが大事だった。当時の若者は雑誌の情報をありがたがってたからね、だから典型的なファッション・ピープルでもないし、典型的フーリガンでもない自分らのためのもので、まさにアンチ『The Face』、アンチ『ID MAGAZINE』、アンチ・ソーホー・ピープルだね。
■ボーイズ・オウンというタイトルはどこから?
テリー:イギリスにとても古い子供向けの子供雑誌があって、それが『ボーイズ・オウン』*(3) っていうんだよ、これはコミックで、冒険や、そうだなー、海賊やインディアン、それにカーボーイなんかが出てくる男の子向けのものなんだ。それとフットボール・カジュアルズってわかるかな? デザイナーズ・ブランドを着たフーリガンのことなんだけど、彼らはチームのユニフォームやチームカラーの服を着ない熱狂的なフーリンガンで、彼らのことを「ボーイズ」って呼ぶんだよ、たとえばマンチェスター・ユナイテッド・ボーイズとかね。そのふたつの意味をこめて〈ボーイズ・オウン〉なんだ、ダブル・ミーニングだよ。いい名前だろ(笑)。
オリジナルの『ボーイズ・オウン』のイメージも大きなヒントになっている。カヴァーで使っているむかしの子供たちの写真とか、オールド・ファッションなコックニーの子供たちの表情なんかでね。イラストはデイブ・リトル、彼は僕がピート・トンと1986年にやっていたパーティ〈ライド〉のフライヤーをデザインしてたんだ。
■その頃のピート・トンはなにをしてたんですか?
テリー:ピート・トンはもうロンドン・レコーズで働いていて、初期のシカゴ・ハウスなんかを出していたよ。彼は70年代や80年代にソウル・マフィアというソウル、ファンクの大きなパーティで若手DJとしてやっていた。彼はソウルやファンクにヒップホップを混ぜてプレイしていたよ、ポール・オークンフォルドもヒップホップをプレイしていた。〈ライド〉では僕がウォームアップで、ピートが出てきて、最後がオークンフォルドだった。
オークンフォルドはこの時期にレーベルをスタートして、初期の〈デフ・ジャム〉のスタッフをリリースしていた。彼がロンドンではじめての〈デフ・ジャム〉のパーティを、ランDMCとビースティ・ボーイズを招いてやったんだ。その時のアフター・パーティで僕がDJしたとき、レゲエやソウルしか持ってなかったから、彼にどうしたらいいか訊いたら、「ドラムブレイクをえんえん続ければいいんだ」っていわれて、で、それをやってたら客からブーイングがきたよ(笑)。
■初期の『ボーイズ・オウン』ファンジンではヒップホップが大きなトピックになってますよね?
テリー:ロンドン中のクラブがヒップホップで盛り上がっていたよ、それにレアグルーヴ、ブレイクビーツ、それとゴーゴー、とくにトラブル・ファンクとチャック・ブラウンがすごい人気だった。もちろんハウスもあったけど、まだアメリカからの輸入盤ばかりで、情報がそんなにないからDJもあまりプレイしなかったね。フランキー・ナックルズは人気あったよ。
とにかく、アシッド・ハウスが出てきてすべてが変わったんだよ。それまではみんな古いソウルやファンク、レアグルーヴを探し回っていたのに、一夜にして新しいトラックばかりになったよ。
■1986年あたりといえば、ザ・スミスに代表されるインディ・ロックがまだ人気がありましたよね、それについてはどう思ってました?
テリー:僕はまったく好きじゃなかった、僕はブラック・ミュージックが好きだからね。でもイギリス中で大流行りだったし、ロンドン中にモリッシーみたいなやつが大勢いて、下を向いてたよ(笑)。
アシッド・ハウスがはじまって、それからアンドリューもダニー・ランプリングもよくポップ・ソングをプレイするようになったんだ、ABCとかクリス・アンド・コージーの"October Love Song"とかね。これは完全にエクスタシーの影響なんだよ。それまでくだらないポップ・ソングだと思っていた曲がパーティで突然別の意味を持ってしまうんだ。エクスタシーがものすごくクリエイティヴに働いて、音楽が別の聴こえ方をする、1988年のシーンにはなにかスピリチュアルな雰囲気があってね。
■その時期の状況をもっとくわしく教えてください。
テリー:僕はよくジ・オーブのアレックス・パターソンといっしょにオークンフォルドの〈スペクトラム〉というパーティのサブフロアでDJをやっていた、そこで昔からの歌ものの曲を良くプレイしていた、たとえばジャッキー・ウィルソンの"Sweetest Feeling"とか、60年代の曲なんだけど、その曲を全員がエクスタシーをやっているアシッド・ハウスのパーティでプレイするとみんながブースにやってきて「ワ~ォ! この曲ってこんな曲なの! これだよ!」って口々に言うんだよ(笑)。もちろん有名な曲だから、聴いたことはあるはずなんだけど、まったく別の意味で聴こえてたんだ。
同じような意味で、僕もプライマル・スクリームやハッピー・マンデーズが理解できたんだ。それまでソウルやファンクばっかりだった人がインディやハウスを聴きはじめ、インディしか聴かないキッズがハウスやソウルを聴きはじた。エクスタシーがそれまで閉じていた僕の心の扉を開いたんだね。そしてパーティに来ているすべての人がオープンマインドになっていった。ほんとに奇跡のようにマジカルな時期だった。クリエイティヴでね!
クラブにいるみんながもし同じヴァイブでポジティヴだったら、DJはどんな曲をプレイしてもオーディエンスは受け止めてくれるし、それぞれに意味を見つけるんだ。そしていちどその意味を知ってしまったら、もう戻らないんだよ。あの時期そうやってどんどんシーンが大きくなっていったんだ。
■誰が1988年のロンドンのシーンにアシッドやエクスタシーを持ち込んだんですか?
テリー:1985年からエクスタシーはあったんだよ、当時はアメリカではまだ合法だったし、夫婦のカウンセリングで使われていたらしいよ。すごいよね(笑)。1988年以前にパーティには持ち込まれていなくて、一部のファッション・デザイナーやカメラマンとかモデルがVIPルームでやってたよ。
〈タブー〉*(4) ってクラブ知ってる? そことかね。そのあとハウスが出てきて、ハウスとエクスタシーの相性がすごいってことがわかってきて、だんだんお互いが近づいていって、それでブレイクした。
それともうひとつハウスとエクスタシーが結びついたのがイビサだよ、ダニー・ランプリングやポール・オークンフォルド、ニッキー・ホロウェイだ。でも、音楽はもうロンドンにあったから、彼らがドラッグとハウスが最高だっていう情報を持って帰ってきたんだよ(笑)。ものすごいぞ! って言いながらね(笑)。それまでは別々にハウスもエクスタシーも存在してたんだ。そしてなによりも大事なのはクラブにいる全員がやってると、ものすごいエネルギーになるってことなんだ、そこにいる全員がエンジンとなってパーティを動かすのさ。
■はじめてのエクスタシー体験はどうでした?
テリー:はじめては1986年のブライトンだった、クラブから帰る途中で効いてきたけど、まだよくわからなかったよ。これ効いてるのか? っていう感じで。実際に実感したのは〈ソウル・ウィークエンダー〉というニッキー・ホロウェイのパーティだった。ジョニー・ウォーカーがDJで、ジョージ・クランツの"Din Da Da"がかかっていて、ダニー・ランプリングがイビサから帰ってきてすぐだったと思うけど、彼が突然イビサ・ダンスをはじめたんだよ。それを見ていきなりはじけたんだ(笑)。いっしょに行っていたエクスプレス2のマネージャーのクリスがスピーカーに頭を突っ込んでね! あの頃のパーティにはかならずそういうやつがいたよ。みんながアシッド・ハウス・ダンスをしていた(笑)。
これはサーフィンといっしょで、立つまでが難しいけど、いちど立ってしまえばあとは自然にわかるものなんだ。それとエクスタシーのすごいところはみんなと共有したくなるだろう、コークだとひとりでトイレに籠ってしまうし、みんなに分けるってこともないけど、エクスタシーはその状態を知らない人に教えたくなるんだよ。
脚注
(3)ボーイズオウン(Boy's Own Paper)
日本でいうところの『少年クラブ』や『冒険王』などのコミック誌
https://en.wikipedia.org/wiki/Boy's_Own_Paper
(4)タブー(Taboo)
リー・バウリー(https://en.wikipedia.org/wiki/Leigh_Bowery)のクラブ、ゲイやデザイナー、ドラァグ・クイーンなどの集まってた店、戯曲風の映画にもなってる。
よくいっしょにチェルシーの試合を見に行ってたよ。アンドリューは僕らの地元から2マイル離れたウインザーに住んでいて、すごいポッシュな住宅地なんだけど、彼はサイモンと友だちだった。ある日クラブが終わってサイモンのフラットに集まって、アンドリューがレコードをプレイしていたとか、僕が「ファンジンをやらないか?」って言ったんだ。
■1989年にはシーンが大きくなりますね、ロンドンにはどんなパーティがありましたか?
テリー:ダニー・ランプリングの〈シューム〉は、最初は100人ぐらいの小さいところでスタートしたけど、すぐに2フロアある会場に移って、僕とアンドリューがサブフロアのレジデントになった。バレアリックなパーティだった。それからオークンフォルドの〈フューチャー〉、彼とナンシーっていうDJがレジデントをしていた。こっちはもっとインディよりでハッピー・マンデーズやプライマル・スクリームが盛り上がっていた。僕はそこでもたまにDJをやっていたんだけど、ある日、アンドリューが出来上がったばかりのアセテート盤を持って来て「これをプレイしてくれ」っていうんだ。それがプライマル・スクリームの「Loaded」だったよ! 「ほんとにこれおまえが作ったの?ってきくと「そうだよ!」っていうから驚いたよ、僕の友だちがこんなにすごい曲をつくたんだ! 信じられない! ってね。
〈シューム〉はよりハッピーなパーティだったけど〈フューチャー〉と〈スペクトラム〉はよりシリアスな雰囲気だった。とくに〈スペクトラム〉はポール・オークンフォルドがメインルームでベルギーのニュービートをよくプレイしていたね。それからニッツァー・エブ、フィニ・トライブやウッデントップス、僕は10シティやマーシャル・ジェファーソンなんかの、よりソウルフルなハウスをプレイしていた。
■はじめてイビザに行ったのはいつですか?
テリー:1981年だよ、友だちといっしょにね。クラブは〈クー〉が流行っていたけど、まだ若い僕たちはどうもなじめなくてね、あれはたぶん〈スタジオ54〉とかの影響なんだろうけどお、金持ちがいっぱい来てるって感じだった。もう行かないと思ったよ、でも1989年には〈アムネシア〉がオープンしたときに、また行ったんだ。
■あなたもプライマル・スクリームの"ローデット"をリッミクスしてますね、当時のスタジオワークはどんなやり方だったんですか?
テリー:あの頃僕にはレコーディングに詳しいスタッフとかもいなかったから、スタジオでどうしていいかわからず、ほんとに大変だったよ。僕は15歳からDJをやっているから、どんなサウンドが必要かはわかっていたんだ。でもそれをうまくエンジニアに説明できなくてね。素材は24チャンネルのマルチテープでコントロール卓はSSLだった。それをテープで切り貼りしながらエディットするんだ。そこでテープを聴きながら、「この部分!」とかフレーズを歌ったりしながら編集して、ドラムサンプルを入れたりするんだけど、エンジニアが全然わかってくれないんだ。彼らはロックのエンジニアで、僕らDJのことがあまり好きじゃなかった。もっとベースをヘヴィにとか、リズムを大きくとか言ってもなかなか素直にやってくれなくて、ようやくいい感じになって、ちょっと食事に行って帰ってくると元通りになってたりしてね。キックを上げるとこんなサウンドは良くないとかね、みんな自分たちのスタイルから外に出ようとしなくて困ったよ。当時エンジニアはロックやポップスしか知らなかったからね。アンドリューと僕がやった""ローデット"のときのエンジニアは、辛抱強くやってくれて、とても助かったのを覚えてる。
■あの時期にあなたがリミックスしたハッピー・マンデーズ、ファーム、スープ・ドラゴンズなんかのリミックスも同じような方法でやってましたか?
テリー:そう、いつもベースをあげてリズムのエッジを立てて、リズム・サンプルを加えて。それとよくエディットしていて失敗すると以外に面白いフレーズになったりするんだけど、そういうのをよく使っていた、それがうまいライヴ感を出すんだ。ドラムマシンはE-MU SP 1200を使ってたよ、トッド・テリーとおなじやつで、アメリカン・サウンドだね。
■"ローデット"のリミックスはアラン・マッギーからの依頼だったんですか?
テリー:う~ん、よく覚えてないんだけど、たぶんボビーから直接たのまれたよ。アンドリューといっしょに〈ボーイズ・オウン〉のパーティをやっているときに、ボビーはいつも来ていて、ほんとにエクスタシーでフラフラになっててね。それで僕のDJを聴いて、頼んできたんだと思う、でもアランもいつもいっしょに来てたな。
■ハッピー・マンデーズのはトニー・ウィルソンからの依頼ですか?
テリー:いや、マンデーズはショーンからだよ、彼もいつもパーティに来てたからね。でも僕とアンドリューがマンチェスターに行ったときは、トニー・ウィルソンがインタヴューしてくれたよ。彼は地元のテレビでインタヴュー番組をやっていたからね! いまでもユーチューブで見れるよ。そうだ、マンデーズのリミックスは彼らのアメリカのレーベルだったワーナーからの依頼だったよ。
■ストーン・ローゼスについてはどう思ってました?
テリー:"フールズ・ゴールド"は最高だったよ。僕も〈フューチャー〉でDJをしているときは毎週プレイしてた。でもバンドがスパイク・アイランドのコンサートをやる頃、僕はもうイタロ・ハウスやピアノ・ハウスに夢中だったから、あんまり興味がなかったんだ。
■1992年に〈ボーイズ・オウン〉のファンジンが終わってしまうのはなぜですか?
テリー:アンドリューがこう言ったんだよ、「俺もう30歳こえてるから、もうキッズみたいなことやめたいんだ(笑)。まあこれは冗談だけど。実際のところはある記事で「キッカーズのブーツがクールだ」って書いたんだ、しかも冗談でね。それでその号が出たあとの〈スペクトラム〉で、もうその頃はオープン前に長い列がクラブの前にできてたんだけど。そこでみんながキッカーズをはいてるんだよ! 400人以上のオーディエンスがバギー・ジーンズにキッカーズだよ。みんな本気に取り過ぎだと思ったね、僕らは『ザ・フェイス』や『ID』じゃないものを作ろうとしたのに、ロンドンでは僕らがまさに『ザ・フェイス』や『ID』と同じような存在になってしまったんだよ。それでもう止めようってことにしたんだ。
■その頃からレーベルとしての〈ボーイズ・オウン〉がスタートするんですか?
テリー:そうだね、ちょうど1990年から1991年のファンジンの終わる前ぐらいに、ボカ・ジュニアズのリリースをするんだ。それが〈ボーイズ・オウン〉レコードだよね。でもその時期は、ロンドン・レコードと契約してリリースしたから、正確にはどれぐらい売れたから覚えてない。7枚ぐらいリリースしたけど、そんなに大きく成功することはできなかった。僕らはある意味オリジネイターだったから、いろんなことを自分たちで切り開いていかないといけなかったんだ。
金銭的に成功したのはそのオリジネイターが道をつけたその後にくる人達だったね。彼らは楽に成功できたよ。それで僕と後にアンダーワールドのマネージャーをやることになるスティーヴンでもういちどいちからレーベルをスタートさせることにした、それが〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉だよ。〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉はソニーと配給の契約をすることができた、それでアンダーワールドと契約するんだ。オリジナルの〈ボーイズ・オウン〉レーベルは僕とスティーヴン、アンドリューとサイモン、みんなでやっていたけど〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉は僕とスティーヴンのふたりなんだ。
集まるのは25歳から40歳以上の人たちだろ、ティーンネイジャーはハウスなんて大嫌いだよ。僕がロンドンでDJやるときに、それが〈ミニストリー〉でもいっさいキッズはいないしね。みんなダブステップを聴いてるよ、
■アンダーワールドとの出会いを教えてください。
テリー:スティーヴンが昔からダレンと友だちだったんだ、彼らは同じエセックスの出身で、ダレンはかなり早い時期からDJをやってたよ。ある日ダレンがプレイしているクラブに、まだニューウェイヴ・バンドだったアンダーワールドのふたりがやってきて、ちょうど彼らもなにか新しいスタイルを模索していたときで、ダレンを発見した。彼らの方向性はダレンの存在が大きな鍵となったんだ。これはアンドリューとプライマル・スクリームと同じような化学反応だね。
■ケミカル・ブラザーズについてもお願いします。
テリー:彼らはアンドリューがマンチェスターでDJをしたときにやってきたんだ。ふたりはマンチェスター大学の学生だったからね、そのときにデモ・カセットをアンドリューに渡したんだ。それを聴いたアンドリューがほんとに気に入ってね、スティーヴンに「こいつら最高だからリリースすべきだよ!」ってプッシュしたことではじまったんだ。はじめ彼らはダスト・ブラザーズって名乗っていたけど、アメリカに同じ名前のヒップホップ・チームがいたからケミカル・ブラザーズに変えたんだ。
■アンダーワールドやケミカル・ブラザーズがデビューした時期、イギリスではレイヴが大ブームでした。パーティも〈メガドッグ〉みたいなスタイルのサイバーな感じになって、サウンドもテクノ中心になりました。その時期あなたはどんなDJをしていたんですか?
テリー:そう、その時期僕はまたソウル・ボーイに戻っていたね。だからニューヨーク・ハウスが中心だった。この頃はじめてビリー・ナスティーといっしょに日本にいったよ。リキッドルームと京都のマッシュルームだった。ガラージ・ハウスをよくプレイしてたね。〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉でもそういうハウス・トラックを何枚かリリースしたけど、あんまり売れなかったね。それでサブ・レーベルの〈ジャス・トラック〉を作ったんだ。
でも〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉もとくにサウンドにポリシーがあったわけではないよ、自分たちが面白いと思うものならなんでもリリースした。これはファンジンのときから変わらないアティチュードだ。不変的なコンセプトさ。
だって、アンダーワールドとケミカル・ブラザーズでも全然違うだろ。これはパーティといっしょで、僕とアンドリューのスタイルは違うけど、それぞれに影響しあえるだろう、ほとんどのアシッド・ハウスのパーティはレイヴァー中心だったけど〈ボーイズ・オウン〉のパーティはアンドリュー目当てのインディ・キッズもいれば、ソウル・ボーイもいる、もちろんレイヴァーもね。それにサイモンはファッションシーンに友だちが多かったしね、いろんな人たちがそれぞれに集まるんだ、それがパーティなんだよ。
■〈ボーイズ・オウン〉でも野外レイヴをやったことはありますか?
テリー:初期はよく行ってたよ、シーンがまだスピリチュアルな雰囲気を持っていた頃だね。でもすぐにレイヴがビッグになって、金儲けの手段となってしまった頃には距離をおいていたね。〈ボーイズ・オウン〉のパーティは5000枚のチケットを売ることができたけど、つねに500人のパーティをやっていたんだ。
僕たちはセルアウトしないと決めていた。いいレイヴもほんとにいっぱいあったけど、僕らにとっては何かが違った。〈ボーイズ・オウン〉でやったこともあるよ、1988年に、これはほんとに仲間だけで200人ぐらいかな、郊外の個人の大きな庭園を借りたんだ。そこにはボーイ・ジョージやフランキーゴーズトゥーハリウッドのポール・ラザフォードも遊びに来た。朝にはボーイ・ジョージが弾き語りで歌ってくれたりしてね。その家の子供たちがボーイ・ジョージの歌う姿みて驚いていたよ(笑)!
それとその後にいちど大きな野外パーティをやったけど、1989年以降はだんだん運営が大変になってね。セキュリティーを雇ったり、ドラッグ・ディーラーがやってきたり、いろんな人が集まるから問題も多くてね。そうしているうちに、レイヴやパーティが大きな社会問題になってしまったんだよ。僕らもいちどロンドンで〈ボーイズ・オウン〉のウェアハウス・パーティをやったとき、夜明けに警官がドアを蹴飛ばして入ってきて、サイモンは逮捕されて、さらに売上金を全部没収されてしまった。しかもサイモンは1年間パーティ・オーガナイズを禁止されて、なにもできなくなってしまった。
■90年以降のレイヴはテクノが中心ですよね、ハウスは完全にアンダーグラウンドになってしまっていたんですか?
テリー:そうだね、つねに新しいサウンドは変化してゆくからね。10年前にメイン・ストリームだったビートは10年後にまたアンダーグラウンドになるんだよ。僕も2000年以降の10年間はハウス中心のDJをしている、でも集まるのは25歳から40歳以上の人たちだろ、ティーンネイジャーはハウスなんて大嫌いだよ。僕がロンドンでDJやるときに、それが〈ミニストリー〉でもいっさいキッズはいないしね。みんなダブステップを聴いてるよ、
でも面白いことに最近ダブスッテプのDJが昔のハウス、例えば初期の〈ディープ・ディッシュ〉なんかのトライバル・レコーズのトラックを使ったりしているんだよ。面白いよね、彼らには新鮮に聴こえるんだろうね。
■1992年にはエクスプレス2のデビュー・シングルをリリースしますね、彼らとはどういう出会いだったんですか?
テリー:彼らは〈ボーイズ・オウン〉パーティに来てたんだよ、ロッキーはまだ19ぐらいだったんじゃないかな。彼らはまだキッズだったよ、それからフィル・ペリーのやっていた日曜日のアフターアワーズでよく会うようになって、ロッキーとディーゼルに〈ボーイズ・オウン〉パーティのウォームアップDJをやってもらうようになったんだ。ある日彼らがデモを持って事務所にやってきてね、それが"Muzik Xpress"だった。
びっくりしたのが当時あの曲のようなサウンドは、ほとんどアメリカのレーベルやDJがやっていたスタイルだった。だから彼らのような典型的なロンドンのキッズがこんな曲を作るとは思わなかったよ。僕やアンドリューは思いっきりイギリス的だから、驚いたんだよ。次の日彼らにこれをリリースするよって言ったら「ほんと! イェー!」って大喜びだった。それでプロモーション盤をハシエンダでDJをやっていたマイク・ピッカリングに送ったら、あっという間にマンチェスターで最高のフロアヒットになって、2週間後には国中のクラブでプレイされてたんだ!
それで今度はニューヨークの〈サウンド・ファクトリー〉でDJをやっていたジュニア・ヴァスケスに送ったら、彼は2枚使って30分もこの曲をプレイした、30分だよ! それからニューヨークやシカゴから大量の注文が入って、最終的に50000枚以上売れた。彼等らの初めてのレコードなのにね、すごいことだよ。
■1990年代半ばからシーンやあなたのDJとしてのキャリアはどうなっていったんですか?
テリー:90年代中旬以降、僕とピート・ヘラーはそれこそ世界中でDJをした。ロンドンでは〈ミニストリー〉、リバプールでは〈クリーム〉が多かったね。でも90年代後半は僕もピートも〈サウンド・ファクトリー〉的なヴァイヴが好きだったんだ、ダビーでファットなベースラインのサウンドだよ、ほんとにディープなクラブの音って感じのやつ。でもDJでいろんなところへ行くと、みんなに「もっと自分の曲をプレイしてくれ!」って言われるんだ。
僕らはほんとにいろんなところでDJしたけど、テクノ・ファンにはハウシー過ぎるし、ハウス・ファンにはテクノ過ぎるって言われてたよ。いまでもそうだね。でもファンジンもレーベルもそうだったけど、自分がいいと思うことをやりたいんだ、DJも同じだよ。これは僕らのアティチュードなんだ。そして「次になにが来るのか?」ってことを探しまわりたくはないしね、時代をサーフするつもりもないからね。
でも時々大変なこともあったよ、イタリアなんかでは「ウルトラ・フレヴァプレイしろ!」、「ゼア・バット・フォー・ザグレイス・オブ・ゴッドはどうした!」ってお客さんが怒りだして驚いたよ。
■レーベルとしての活動が終わってしまったのはいつですか?
テリー:2005年ぐらいから赤いジャケットのジュニアのリリースはしていない。止めてしまったわけではないよ。過去のカタログは〈ディフェクテッド〉からデジタル・リリースしてるしね。でもやっぱりそれまで10000枚売れていたヴァイナルが突然1000枚とかになったのは大変だった。
いまはレーベルにとっても厳しい時代だね、ヨーロッパでもっとも成功しているハウス・レーベルである〈ディフェクテッド〉でも音楽のセールスよりDJブッキングのほうがお金になってるんだ。そういう意味ではもうエージェントだね。〈ジュニア・ボーイズ・オウン〉は時代の役目を果たしたんだろう。あのとき僕らは必要とされていたんだ。すべてとは言わないけどうまくやれたんじゃないかな、いまはもう新しい才能が出てきても、レーベルもディストリビューターも必要ないからね、自分でビートポートへ曲を出せばいいんだよ。それにDJがそれぞれみんな自分のレーベルをやっているしね。僕ら〈ボーイズ・オウン〉はあのときほんとに必要とされていたんだ。キッズにとってパンクが必要だったようにね。
■では最後に、あなたは『フェイス(Faith)』というファンジンをやっていますね、なぜいまファンジンなんですか?
テリー:基本的には〈ボーイズ・オウン〉とまったく同じ理由ではじめたんだ。つまり『ミックスマグ』や『DJマガジン』が面白くないからね。それと『フェイス』のグラフィックデザインをやっているデザイナーが最高に才能があるんだ。彼となにかやりたかったしね。中身は相変わらずハウスやノーザンソウル、それと僕らの好きなDJをチェックしてる。僕らはダウンロードもやらないで印刷してるんだ。手に入れるのも大変だけど、これはレアなレコードや服を見つける喜びといっしょだよ。
★最新情報です。実は、テリー・ファーレイは9月にイギリスで公開される映画『Weekender』の音楽の監修を担当。これは90年代初頭イギリスを飲み込んだアシッド・ハウスとレイヴそしてパーティ・ライフ、あの輝ける時代を駆け抜ける主人公ふたりの物語。テリーがコンパイルしたサントラも3枚組で9月にリリース予定。そして、まもなくBoy's Own公認のロゴTシャツも発売予定!

































