1970年代末、スロッビン・グリッスルとともにノイズ・インダストリアルの代表とされていたのがキャバレー・ヴォルテールだった。僕は、しかし、SPKと出会うまでノイズ・ミュージックに価値を見出せることはなかった。キャバレー・ヴォルテールも初期はどこがいいのかさっぱりわからなかった。『レッド・メッカ』(81)や「スリー・マントラス」(80)が面白くないとはとても言い出せない空気のなか、そのようなものがやたらと持ち上げられていた1981年がしぼみはじめ、やがてブリティッシュ・ファンク・ブームがやってくる。それを逸早く察知したかのように〈ヴァージン〉がディーヴォやDAFをフィーチャーした『メソッド・オブ・ダンス』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめ、「踊るニューウェイヴ」の時代がやってくる。ノイズ・グループだと思われていたキャバレー・ヴォルテールが『2×45』(82)をリリースしたのは、そのようなタイミングだった。それはニュー・ロマンティクス(それはそれでよかったけど)とはまったく違う雰囲気で、ノイズ・インダストリアルに分類されていたミュージシャ……いや、ノイジシャンたちが『ファンキー・オルタナティヴ』というコンピレイション・シリーズをリリースしはじめる5年も前のことだった。『2×45』に続いて80年代中期に〈ヴァージン〉からリリースされた『ザ・クラックダウン』(83)、『マイクロフォニーズ』(84)、『カヴァナント、スウォード・アンド・ジ・アーム・オブ・ザ・ロード』(85)の再発を機にリチャード・H・カークに話を訊いた。
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シェフィールドはおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあった。世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。
■ちょうど40年前(73年)にシェフィールドで結成したそうですが、最初からキャバレー・ヴォルテールを名乗ってたんですか? また、3人はどうやって知り合ったんですか?
リチャード・H・カーク(以下、RHK):1973年あたりに活動を始めたんだけど、キャバレー・ヴォルテールを名乗ったのは75年からなんだ。というのはそのとき初ライヴがあって、そのために呼び名が何かしら必要だったからね。
もっと熱心なヤツもいたんだけど、まわりの友だちの何人かがクリスを学校の頃から知ってたから、僕らは当時の夏、一緒にインターレイルでヨーロッパに行ったりしたんだ。クリスはいくつかベーシックな録音機材を、僕が4トラックのテープレコーダーを持ってて、それからエレキ用のピックアップ付きクラリネットも手に入れた。僕らは実験的にクリスの家のロフトで音楽を作りはじめた。それから何人かがやってきたりしたんだけど、数年前からちょっと知ってた(ステフェン・)マリンダーに一緒にやらないかと誘ったんだよね。そのときが、キャバレー・ヴォルテールとして後に知られる、きちんとしたユニットが出来た瞬間だった。
■ダダ運動に興味を持ったきっかけを教えて下さい。ステフェン・マリンダーによればウィリアム・S・バロウズとブライオン・ガイシンの影響でカット・アップやテープ・ループをはじめたそうですが、ということは『レッド・メッカ』(81)までの作品にはブライアン・ジョーンズの『ジャジューカ』(71)が多少なりとも陰を落としていたのかなと思えてしまいます。
RHK:ダダ運動に魅かれたのはそのコンセプトがアートと戦争にあったから。そこではそれまでにあったアートをいったん解体し、何か新しいものに置き換えようとしていて、僕らはサウンドや音楽に対してそれと同じことをやろうとした。
ステフェンがバロウズやガイシンに関して言ってるのもすべて正しいというわけではない。キャバレー・ヴォルテールは、彼らのことを知る前にすでにカットアップやテープ・ループを取り入れている。もちろんこのようなことを誰かがすでにやってたというのを聞いて鼓舞されたところがあった。多くの部分を学ばせてもらったから、彼らのことを知れたのは実に嬉しかった。
キャバレー・ヴォルテールのなかで最初にバロウズの本を買ったのは、僕だ。シェフィールドにある本屋で『裸のランチ』を注文したのさ。それはもう驚愕だったよ、まったくパワフルな本だった。それに当時、僕は画像や文章を使ってカット・アップやコラージュをやってて、それが最終的にいくつか初期キャバレー・ヴォルテールのジャケットになったりもした。ダダイズムの創始者トリスタン・ツァラも紙袋に書いてある文字をランダムにピックアップして、それを詩にしたりしてたし、それは1915年あたりかな? たぶんガイシンがカット・アップをやりはじめる50年くらい前だ。
『ジャジューカ』のことは知ってたし、ちらっと聞いたこともあるけど、アルバムをちゃんと手にしたのは1982年になってからなんだ。つまり『レッド・メッカ』のあと。しかし東洋の音楽にはつねに興味を持ってたね、トランスチックなエフェクトの感じが好きだったから。
■時期的に見てグラム・ロックにもパンク・ロックにも影響されなかった音楽性のままラフ・トレードからデビューしたということになります。実際にそうなんでしょうか? 70年代に、同時代的に気になっていたミュージシャンがいたら教えて下さい。「ウエイト・アンド・シャッフル」などはザ・ポップ・グループを思わせます。
RHK:僕はデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックのファンでもあったし、いくつかのパンク、ポストパンクも、そのなかにはザ・ポップ・グループも含まれてるけど、たしかに気に入って聴いていたね。だけど「ウエイト・アンド・シャッフル」が彼らみたいに聴こえるんだったら、たぶんそれは彼らもマイルス・デイヴィスやダブ、フリー・ジャズといった僕らと同じ音楽に影響されたからだろう。僕らは通常のアーティストの真似はしない。影響ということで言うと、いつも過去や未来のものに目を向けてる。
■なぜ、スタジオに「ウエスタン・ワークス」と名付けたんですか? また、シェフィールドのいい点と悪い点をひとつずつ上げて下さい。
RHK:スタジオのあったビルが古い工業用ビルで、そこが「ウエスタン・ワークス」という名前だった。それをそのままスタジオの名前にした。シェフィールドに関して言えば、当時が、ちょっとおどろおどろしく淀んだ感じでたくさんのビルがあったし、まだ第二次世界大戦のダメージも残ってた。しかし、都市部を抜けて10分もすると美しい田園風景がひろがっている。そして、君はそこでたくさんのマジック・マッシュルームを見つけられると思う。
■ははは。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』(80)の裏ジャケットに機動隊の写真が2点も使われているのはなぜですか?
RHK:僕が。『ザ・ヴォイス・オブ・アメリカ』のアートワークを作った。当時(それにいまも)僕らが生きている世のなかにある権威主義的な感じがうまく出てる、この種の写真を使うのがふさわしいと思った。
■『レッド・メッカ』はさまざまな意味で転機となった作品だと思いますが、タイトルはイランで起きたホメイニ革命と関係があるんですか? 『スリー・マントラ』から『2x45』にかけてアラビア風の旋律が頻出するのは誰かの影響ですか?
RHK:先ほども言った通り、僕は東洋の音楽、また東洋社会と西洋社会の違いにはつねに気を払っていて、だから“ウエスタン・マントラ”や“イースタン・マントラ”(*この2曲で『スリー・マントラ』は構成されている)のような曲に行き着いたわけさ。このふたつのカルチャーがじきにぶつかるだろうという予想が実際に現実になったのが1979年だった。ホメイニ革命が、のちに911/2001年のニューヨークのツインタワー爆破まで続くイスラム原理主義のスタート地点だった。それからアメリカで右派キリスト教原理主義者の存在がより浮き彫りになった。実際、このふたつのカルチャーは極めて似通ったもので、アメリカ政府が当時のソビエトと戦うために、アフガニスタンでビン・ラディンのムジャヒディーン/アルカイーダの訓練、資金援助、武装化を行ったんだから、当然といえばそうなんだけど。
■『2x45』は明らかにダンス・レコードを意図した最初の試みですが、何がきっかけであそこまで振り切れたんでしょう。当時は本当にショックで、立体ジャケットが破けるまで何度も何度も聴いてしまいました。
RHK:『2x45』はよりダンサブルなレコード作りへシフトした最初の作品だった。大きな方向転換でもなく、単に進化していっただけだね。君がいま僕らの初期の作品を聴いてくれたらきっとダンス出来ると思うし、それらでもたいていループを使ってるからね。
■〈ファクトリー〉からリリースされた「ヤッシャー」(83)はオリジナルのほうがぜんぜんよくて、ジョン・ロビーのリミックスはあまりいいとは思いませんでしたが、「ドント・アーギュー」(87)でまた顔合わせしているということは、ニューヨーク・スタイルからもそれなりに得るものがあったからですか? ニュー・オーダーの「ブルー・マンデー」がやはり同じ年にアーサー・ベイカーの方法論を取り入れていたわけですけど。
RHK:僕らはニューヨークのエレクトロには大きな影響を受けている。ジョン・ロビーは、アーサー・ベイカーとともに、その中心人物だった。彼が“ヤッシャー”をリミックスさせてくれないかと尋ねてきたとき、それはすごいアイデアだと思ったものだよ。たしかに君の言うように、オリジナルよりよかったというわけじゃないけど(リミックスっていうのは往々にしてそうなんだけど)、しかし、まったくの別もので、僕らが現状から一歩前に踏み出せたということ、おかげであらためて自分たちのミックスや音楽の聞かせ方と向き合うことが出来たわけだから。
■『ザ・クラックダウン(=弾圧)』に「The」が付いているということは、何か特定の事件があったということですか? また、ダンス・レコードであるにもかかわらず、このような不穏なタイトルをつけたのはぜですか? まるでレイヴ・カルチャーを先取りしたようにさえ思えてしまいますが。
RHK:この当時の政治をとりまく情勢は抑圧的なものだった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、右翼勢力が僕たちを弾圧していたようなものだった。
■『ザ・クラックダウン』以降、観念的な音楽性がすべて消え去って、官能的なダンス・ミュージックに純化されていくということは、クリス・ワトソンがひとりで観念的な部分を担っていたように見えますが、そのような理解でいいでしょうか。あなたとマリンダーはフィジカルな音楽がやりたかったと?
RHK:その見解は正しくはない。キャバレー・ヴォルテールには“担当”はないし、僕たちは何かにおいてリーダーというものを置かなかった。バンド自体は僕とクリスではじめて、あとからマリンダーが加わったものだけど……。この3人のグループはともにダンス・ミュージックをエンジョイしていた。けれど、当時は真剣にそれに打ち込んでたわけではなかったね。クリスが1981年に去ってからは、僕たちは自分らの音楽をもっとダンスフロア仕様にしようと決めた。彼と一緒にやっていた頃のようなモノをまた繰り返すことはしたくなかった。あらたに考えながら一歩前に進み出した瞬間だった。
[[SplitPage]]僕は本当に、イラク戦争や大切な古代遺跡の破壊には反対していた。目的もなしに、それも誤った情報のもとに行われたんだよね。結局大量破壊兵器なんて見つからなかったし、イラクはいまや以前よりもっと危険なところになってしまった。
■『コード』(87)で初めて外部からプロデューサーを入れたのはなぜですか? あまり必要だったとは思えないのですが。『マイクロフォニーズ』(84)から『コード』まではファンクとインダストリアルのどちらに比重を置くかで延々と葛藤が続いていたようにも思えたので、その結論をエイドリアン・シャーウッドに委ねたとか、そういうことでしょうか。
RHK:『コード』に関しては、実はエイドリアンが参加する前にほとんどの形は出来上がってたいた。EMI/パーロフォンとの契約後、自分らのスタジオを24ch仕様にアップグレードし、そして、プロデューサーの起用も決めた。ポップスのフィールドではない人間を起用したかった。
エイドリアンは一緒にやるにはとてもよいプロデューサーだった。ダブやレゲエにも相当詳しかったから、参加すると面白くなるかなと思ったんだ。彼はシェフィールドに来てくれて、僕らと一緒に作業をしたあと、ロンドンのスタジオでミックスした。すごくいいサウンドのアルバムに仕上がっているよ。僕らのアルバムではいちばん売れたんじゃないかな。ちなみに僕らがEMIと契約した当時、EMIは世界で10番目に大きな武器製造会社でもあった。冷戦が解けて黙示録を迎えたら、我々は兵器類を安く買えるかもなどと言い合ったものだよ。
■シェフィールドから出てきたフラ(Hula)やチャック(Chakk)はキャバレー・ヴォルテールが育てた後輩ということになるんでしょうか。レコード制作ではマーク・ブライドンやマーク・ギャンブルがイギリスではハウス・ムーヴメントを先導したように見えるので、どういう関係だったのか気になります。
RHK:キャバレー・ヴォルテールは本当にたくさんのフォロワーを生んだよね、シェフィールドのなかだけじゃなく。チャックは僕らのスタジオで「アウト・オブ・ザ・フレッシュ」を録音し、それを僕らのレーベル、〈ダブルヴィジョン〉からりリースした。この作品がチャックをMCAのレーベル契約へと導いたんだ。それにフォン・スタジオ(Fon Studios)も誕生し、そこからいくつかの初期UKハウスが生まれた場所として知られることになった。その後、マーク・ブライドンやロブ・ゴードン(Fon Force)と『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』(90)で何曲かトラックを一緒にやったし、ロブ・ゴードンともゼノン名義で一緒にレコードを作った。
■サンプリング・ミュージックは現代のダダイズムだと思いますか? それともまったく別物?
RHK:サンプリング・ミュージックは、とくにヒップホップはカットアップ・テクニックのほうに繋がってると思うよ。ダダイズムというよりはむしろね。
■『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』で決定的に変わったのはベース・サウンドでしたが、それがハウス・ミュージックから学んだいちばん大きな影響ということになりますか? 曲によってはかなりファンキーで、テン・シティまで参加しているし、キャブスだと思えなかった人も多かったと思います。『ボディ・アンド・ソウル』(91)や『カラーズ』(91)では同じハウスでもストイックな曲調に戻っているので、あれはやはり一時の気の迷いということなのか。
RHK:『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』は、僕にとってキャバレー・ヴォルテールのアルバムのなかではお気に入りにはならなかったね。ホントに多くが外部からの影響でキャブスのサウンドが薄まってしまった。しかしながらマーシャル・ジェファーソンや当時のシカゴのハウス・ミュージックのパイオニアたちと一緒に出来たのは素晴らしい経験だった。アルバムと一緒に出した5曲入りのいい感じのアナログEPもあったよね。それらはウエスタン・ワークスでミックスされたから、キャバレー・ヴォルテールらしさが出てると思う(*アナログ初回のみに入っていた『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティEP』のこと)。
■ちなみにレイヴ・カルチャーのことはどのように受け止めていたのでしょう。
RHK:レイヴ・カルチャーはその初期は面白かったけど、すぐに商業的になってしまったよね。
■また、『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』(90)までキャブスがフォン・スタジオを使わなかったことや、〈ワープ〉から別名義でのリリースはあってもキャブス名義のアルバムをリリースしていないことも不思議に思います。『プラスティシティ』(92)や『インターナショナル・ランゲージ』(93)は〈ワープ〉のカラーにもピッタリ合っていたと思うのですが。
RHK:実はちょっとだけ『グルーヴィー、レイドバック・アンド・ナスティ』のときにフォン・スタジオを使ってるんだよね。「ザ・カラーEP」は当初〈ワープ〉からリリースの予定だったんだけど、結局自分らのレーベルからリリースすることになって、『プラスティシティ』や『インターナショナル・ランゲージ』も同様だった。これらのアルバムは当時からホントすごいアルバムだったし、その時代にたくさん出てた〈ワープ〉の作品とも相性が良かったと思うよ。
■DJパロットとのスウィート・エクスソシストはどのようないきさつではじめたのですか?
RHK:パロットのことは、80年代半ばのシェフィールドのクラブシーンで知ったんだ。ウエスタン・ワークスに彼を誘って、僕がやっていた初期ハウス・ミュージックのトラックをいくつか手伝ってもらってたんだよね。そのちょっと後、彼がファンキー・ワームをはじめて、そのプロジェクトを終えてから、僕に「テストーン」を一緒に作らないかと誘ってきたんだ。その前、1986年に僕がキャバレー・ヴォルテールのライヴで彼にDJをやってくれるように頼んでたりもしたし。
■「ヤッシャー」(83)や「ジャスト・ファッシネイション」を20年後にリミックスしているのは、やはり愛着がある曲だったからですか? リミックスがジ・オール・シーイング・アイ(=DJパロット)というのはわかりますけど、オルター・イーゴにリミックスさせるというアイディアはどこから? ジョン・ロビー同様、オルター・イーゴもあまりいいリミックスには思えませんでしたが……
RHK:オルター・イーゴのリミックスは〈ノヴァミュート〉からの提案だったんだ。僕はいいと思うけどね、(オリジナルとは)全く違うものだし。
■同じく自分でリミックスを手掛けていた「Man From Basra Rmx」というのはイラク戦争と何か関係があるんですか?
RHK:それはその通り。それにこの曲はプリンス・アラーとタッパ・ズッキー(*ともにルーツ・レゲエのアーティスト)による「Man From Bosrah」にも掛けてたんだ。僕は本当に、イラク戦争や大切な古代遺跡の破壊には反対していた。目的もなしに、それも誤った情報のもとに行われたんだよね。結局大量破壊兵器なんて見つからなかったし、イラクはいまや以前よりもっと危険なところになってしまった。
■キャブスのスリーヴのデザイナーは、ネヴィル・ブロディ、ポール・ホワイト、デザイナー・リパブリックと一流どころが揃っていますけど、個人的にいちばん好きなデザイン・ワークはどれですか?
RHK:とくに好きなものはないね。しかし『#8385』(*今回、再発された3枚のアルバムを収録したボックス・セット)の新しいデザインはなかなかいいんじゃないかな。
■いま、現在、ライヴァルだと思うミュージシャンは誰ですか?
RHK:ライヴァルはいないよ。
■キャブスの活動停止後、30以上の名義を使って活動されていますが、その理由について教えて下さい。
RHK:過去にとらわれることなくオリジナルな音楽を作って行くためにやったことさ。
■最後に、キャブスの再活動についてお話いただけますか?
RHK:キャバレー・ヴォルテールは“再活動”はできない。何故なら、いままでいちども活動をやめたわけではないからだ。つまり、メンバーが去って行っただけさ。クリス・ワトソンが1981年に脱退し、ステフェン・マリンダーが1993に脱退した。いまでは僕がただひとりのメンバーで、もっと多くのライヴやレコーディングもこれからやっていくと思うけど、懐かしい曲はやらないつもり。すべては新しいものになると思う。
是非日本でもまたライヴしたいね。1982年の東京、大阪、京都でのキャバレー・ヴォルテールのライヴはすごくいい想い出でいっぱいで、それにライヴ音源を収録したんだ。結局そのライヴ・アルバムのミックスでその後3週間も東京にいることになったけど(笑)。
*日本でのライヴを収録した『ハ!』はマスター紛失のため、91年にミュートから再発されたものは、いわゆるアナログ起こしだったりする。ちなみにツバキハウスでライヴを終えたキャブスはその後、六本木のクライマックスに現れ、ナンパしまくりだったと(その時、DJをやっていた)メジャー・フォースの工藤さんが教えてくれた。そりゃあ、いい想い出でいっぱ……(後略)
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