「UR」と一致するもの

CFCF - ele-king

 カナダはモントリオールの才人 CFCF =マイク・シルヴァーの新作『Liquid Colours』は、「ニューエイジ+ジャングル」という「2019年のモード」を感じさせる卓抜なコンセプトを持ちながらも、澄み切ったミネラルウォーターのように体に染み込んでくる洗練されたエレクトロニック・ミュージックでもあった。
 いちど再生してしまえば清流のようにアルバムは流れ、曲はシームレスにつながる。しかし音のトーンは変化し、ラストの曲まで全15曲が時間旅行のように進行する。とにかくリラックスできるし、エレクトロニック・ミュージックならではの快楽にみちてもいる。テクノ・ファンにもIDMファンにもニューエイジやアンビエント・ファンにも広くおすすめできる逸品である。

 『Liquid Colours』は洗練されたエレクトロニック・ミュージックだ。それは「過剰なまでの洗練」と言いかえてもいい。この洗練。この快適さ。この心地よさ。
 まるでどこかの企業のコールセンターに電話したときオペレーターに回線が繋がるまでのあいだに耳元に流れる軽快な音楽、実践的な教習用ビデオの邪魔にならないBGM、巨大なホテルのロビーにうっすらと流れる清潔なサウンド、ショッピングモールに流れる瀟洒な音楽のようにも聴こえる。いわば社会の隅々にまで浸透したバッググラウンド・ミュージックのように極度に洗練されているのだ。完璧に構成された消費社会のための音楽? これは批判ではない。ストレスフルな現在を生きる私たちの心身はこういった音を求めている。

 もっとも CFCF のこのような音楽性は、本作から始まったわけではない。2015年に〈Driftless Recordings〉からリリースされた『Radiance & Submission』、同年〈1080p〉からリリースされた『The Colours Of Life』以降、彼が追求してきた「80年代的な電子音楽を現代のサウンドで再生させる」をコンセプトとサウンドを継承するものといえよう(余談だが、2015年こそ2010年代における先端的な電子音楽を考えるうえで重要な時期だろう)。
 これら『Radiance & Submission』や『The Colours Of Life』で CFCF は失われた80年代をモダンなサウンドでアップデイトした。結果としてヴェイパーウェイヴ・ムーヴメントやニューエイジ・リヴァイヴァルにも共通・貫通する「2010年代的な」音楽となった。「失われた未来を、過去から希求する」ものである。
 しかしマイク・シルヴァーの音楽は、ヴェイパー的な喪失した過去と未来から生まれた濃厚なノスタルジアに浸っている「だけ」ではない。CFCF の音楽は、不思議と「いまここ」に鳴っているのだ。これが彼の独自性に感じられる。
 マイク・シルヴァーは、極度に洗練した消費社会のもろもろの音楽をミニマルで洗練された日用雑貨のように、この現在に再生しようとしている。CFCF の音楽からはヴェイパーウェイヴにあるようなブラックユーモアは希薄になり、ミニマムな空間にマッチするようなアンビエンスをたたえたエレクトロニック・ミュージックとなった。
 その意味で CFCF =マイク・シルヴァーはブライアン・イーノ直系のアンビエント思想を継承するアーティストともいえるし、家具のような音楽という意味でエリック・サティのクラブ・ミュージック経由ヴァージョンといえなくもない。
 つまりマイク・シルヴァーは、オーセンティックな音楽家/作曲家の資質を持っているアーティストなのだ。さすがポスト・クラシカルの巨匠マックス・リヒターのリミックスを手掛けるだけの音楽家である。
 むろん、CFCF の音楽が現代的な批評性を欠いていることを意味するわけではない。彼はこの社会にただ存在する音楽の存在にとりつかれているし、消費社会に存在する幽霊のような音楽を探し続けているアーティストだ。
 CFCF はもろもろの音楽フォームが、全盛期を過ぎて先端性を失い、やがて洗練を極めたBGMになり、ポストモダンな社会に浸透している状態に興味があるのだろう。本作はまるで「存在しない無印良品の店内音楽」のようでもある。ミニマムな製品たちが陳列される空間のための音楽として聴くこと。20年から30年前の音楽を洗練された音楽として再生し、過去と現在の亡霊(?)をこの時代に蘇生すること。

 思うにニューエイジとジャングルを合体・蘇生させた意味もそこにあるのではないか。社会に浸透した音楽。彼はそのために音を洗練させていく。じじつ、アルバムは1曲め“Re-Utopia”から、全15曲、どのトラックの音色もテンポも曲の構造も共通のトーンで進行する。2曲め“Green District”以降もシームレスにトラックは繋がり、まるで良質なミックス音源のようにまったく淀みなく進む。私は本作聴き終えたとき、浮遊するような幸福感を感じた。空間が綺麗になったような感覚である。同時にニューエイジ+ジャングルということは、つまり80年代と90年代を交錯させることを意味するとも思った。
 “Re-Utopia”のマリンバ的な音色などは、まるで坂本龍一『音楽図鑑』や80年代に手掛けたCM音楽を思わせるが、そこに90年代的なジャングル・ビートをレイヤーさせる。つまり80年代と90年代を融合させている。その手腕は実に見事で、異質なはずのものが極めて自然にミックスされている。澄んだ水を飲むように何度も聴けてしまう。
 加えて渋谷系およびネオ渋谷系リヴァイヴァルのごとき9曲め“Oxygen Lounge”に現在のニューエイジ・リヴァイヴァル「以降」の萌芽も聴き取った(次にくるリヴァイヴァルは渋谷系~ネオ渋谷系か?)。

 いろいろと御託を並べてしまったが、心地よく繰り返し何度も聴ける極上のエレクトロニック・ミュージックに仕上がっていることが何より重要である。洗練と極上の結晶。特に静かな盛り上がりを見せる12曲め“Last Century Modern”以降は、現代のエレクトロニック・ミュージックならではのミニマルにしてエモーショナルなサウンドスケープを生んでいた(13曲め“Closed Space”では坂本龍一『エスペラント』収録曲を引用するなど小技も実に効いている)。
 ニューエイジ+ジャングル。それは80年代と90年代の融合であり、洗練された心地よい電子音楽の完成であり、心身をケアする完璧な消費社会への希求である。そう、つまり『Liquid Colours』は、ストレスフルな現代社会に対するシェルターのようなものかもしれない。

FESTIVAL de FRUE 2019 - ele-king

 先日まさかの初来日公演がアナウンスされ、多くの音楽ファンを歓喜させたトン・ゼーですが、すでに発表されている東京公演に続き、静岡の掛川で催される《FESTIVAL de FRUE 2019》の詳細が公開されました。トン・ゼーを核としつつ、テクノやジャズやロックなど、じつに多様かつ趣のある面子がずらり。豊かな自然のなか、素敵な音楽たちに囲まれて、秋から冬への転換を楽しみましょう。

Flying Lotus - ele-king

 まるで闇鍋のようだ。同時に集大成的でもある。サウンドの細部にかんしては原雅明と吉田雅史の対談に詳しいのでここでは最小限に留めておくが、70年代のソウル~ファンクを想起させるクラヴィネットの音色に、スティーヴ・エリスンの情緒的な側面がよくあらわれた(一部の)感傷的なコードとメロディ、随所に貼りつけられたミゲル・アットウッド・ファーガソンのストリングスが醸し出すシネマティックな雰囲気──それら三つの要素がこのアルバム全体の方向性を決定づけており、その合間合間に骨のあるヒップホップ・ビートや豪華なゲストたちによるラップ、歌、ミュジーク・コンクレート的な具体音をはじめとする音響実験、ゲーム音楽的なアイディア、メタル的ないしプログレ的なサンダーキャットの超絶技巧などが断片化され、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。相変わらず1曲1曲は短く、しかし全体は長い。最後をアンビエントでシメるところもいい。鍵盤を学び直し、音楽理論を習得したことの効果はたしかにあらわれていて、たとえば“Capillaries”なんかはこれまでのフライローからは絶対に出てこなかったであろう旋律を聞かせてくれる。とはいえいかに前作と違うことをやるか、という気負いはさほど感じられない。新しい試みとこれまで彼がやってきたことのダイジェストとが絶妙なあんばいで共生している。混沌といっていいほど雑多な要素が互いに反駁することなくひとつの秩序を形成し、共存している──これを宇宙と呼ばずなんと呼ぼう。
 いやもちろん彼は、スピリチュアルな気配を招き入れた2010年の『Cosmogramma』ですでに宇宙への跳躍を果たしていたわけだけれど、その「宇宙」はまだイメージや雰囲気のレヴェルに留まっていたように思う。そのぶっ飛んだ着想じたいは以降の作品でも遺憾なく発揮され続け、本作でも「炎」というテーマのもと、ウィンストン・ハッキングやデヴィッド・リンチや渡辺信一郎によって息を吹き込まれているが、もっとも重要なのは今回その宇宙が、サウンドの共存のあり方・アルバムの構成として実現されている点だろう。宇宙とは秩序のべつの呼び名である。

世界は変わった。きみもそうだ。“Heroes”

 もはやフライング・ロータスは破壊者ではない。むしろ守護者である。
 今回の新作をめぐるオフィシャル・インタヴューのなかでフライローは、「誰かが大変な時に助けられるようなものにしたいし、誰かがクリエイティブになるのを励ますようなものにしたい」と語っている。以前の彼ならけっして口にしなかったであろう類の発言だ。かつてドレーやスヌープ、エイフェックスやディラの背中を追いかけていた少年は、ピーナッツ・バター・ウルフにモノマネとは契約しないと突っぱねられたことをバネに精進、見事LAビート・シーンに革命をもたらすことになるわけだけど、安住を嫌う彼はその後もひたむきに実験を重ね、幾度もリスナーを驚かせてきた。結果、現在の彼は後続たちに自らの背中を見せつける存在になっている。『Flamagra』が示しているのは端的に、「ヒーロー」の矜持だろう。
 思うに、いまフライローは直接的にであれ間接的にであれ、いかに次の世代を育てるかということに心を砕いているのではないか。それは昨年10周年を迎えた〈Brainfeeder〉のディレクションからも推しはかることができるし、何より今回の新作が、まるで「こうやるんだぜ」と手本を示すかのように乱雑な諸要素を巧みに調停していることからもうかがえる。このすぐれた統治能力は理論の学習と『KUSO』の経験によって獲得されたものなのだろうけど、心境のほうにも変化があったのだとすればそれは、「継承」が最大のテーマであるアニメ『僕のヒーローアカデミア』によってもたらされたにちがいない。
 ジャズやファンクやヒップホップ、IDMにゲーム音楽など、前の世代から受け継いだ技法や着想の数々を、『ヒロアカ』の主人公が己の武器を拳から脚へと移し変えたように、けっしてモノマネではないかたちで自分自身のものへと昇華し、まったくべつのものへと生まれ変わらせること、そしてそのような(サウンドの模倣ではなく)制作のエスプリをこそしっかり後続へと引き渡すこと──それこそがまさに「変わりゆく同じもの」の神髄ではないか。
 ジャズもヒップホップも解体し、『You're Dead!』で行きつくところまで行きついたフライローが5年かけて導き出した答え、それが『Flamagra』のこの卓越した構成なのであり、その種々の音の配置が実現する秩序としての宇宙は、「炎」というテーマや「ファイヤー・スピリット」なる精霊を召喚することで、他方で彼がサン・ラーやリー・ペリー、あるいはそれこそ本作に参加しているジョージ・クリントンたちの系譜に連なる音楽家であることを思い出させてくれる。すなわちアフロフューチャリズムである。

 振り返れば去る2018年は、映画『ブラックパンサー』によって「アフロフューチャリズム」という言葉が一気に大衆レヴェルにまで浸透した年だった。そんな年にフライローことスティーヴ監督によるシュルレアリスティックな『KUSO』が日本公開されたことは、ひとつ象徴的な出来事だったように思う。むろん、アフロフューチャリズムそれじたいは90年代前半に発芽した新たな解釈の技術であり、ようは通常の──デヴィッド・スタッブスが『フューチャー・デイズ』のなかで述べているような(280頁)、白人(や日本人)の「黒人音楽はこうあってほしい」という期待を反映した──歴史観とは異なる切り口からブラック・カルチャーを辿り直す、ある種の系譜学とも呼ぶべきものだけど、それはおよそ10年前に、ソーシャル・メディアの出現やグローバリゼイションの暴力、リーマン・ショックなどの影響によって第二のフェイズへ突入した……と、レイナルド・アンダーソンは昨年『The Black Scholar』誌のインタヴューで語っている。彼は『アフロフューチャリズム2.0──宇宙的ブラックネスの飛翔』なる刺戟的な題を持つ本の編者であり、「ブラック・スペキュレイティヴ(思弁的)・アート・ムーヴメンツ」なる興味深い運動を提唱しているアメリカの学者で、その見立てによれば現在、アフロフューチャリズムは形而上学、美学、理論的応用科学に社会科学、プログラミングなどの側面によって特徴づけられる、汎アフリカ的な社会哲学になっているのだという。
 このあたりの話は勉強不足でまだよく呑みこめていないのだけれど、たしかにマーク・フィッシャーも2013年に自らの憑在論とアフロフューチャリズムとを接続する論考「クラックルの形而上学」を発表しているし、この10年でブラック・ミュージックの想像性をとりまく言説が新たな局面を迎えていることはわかる。けだし、批評家のマーク・デリーがアフロフューチャリズムを主張してから20年以上が経過したいま、それをどう受け継ぎアップデイトしていくかが問われているのではないか。そしてその10年というのはまさに、フライング・ロータスが試行錯誤を繰り返してきた時期とぴったり重なる。
 そう考えると『Flamagra』は外在的にも「継承」の問題に直面していることになるわけで、だからこのアルバムを、ゲストであるアンダーソン・パクやソランジュたちの新作と並べるのももちろん全然アリなのだけど、たとえばリー・ペリーの新作と交互に聴いてみる、というのもオルタナティヴな楽しみ方だと思う。そういうちょっとした遊びこそもっともたいせつなものでしょうよ、と、フライローのぶっ飛んだ想像性はわたしたちに教えてくれている。

Crystal Thomas featuring Chuck Rainey and Lucky Peterson - ele-king

 わたしの総体的な印象では、矮小な個人的感傷を擦り上げて、過剰な切なさを誇張し聞く側に同意を強要する、これが私生活も含めて、この世の春とばかりに我が世を謳歌している昨今の女性歌手の芸だ。特に高音域での行き過ぎた表現には、付いていけない事が多い。ここで紹介するクリスタル・トーマスは、1977年4月22日の生まれ。今どき彼女の年齢で歌を唄っていたら十把一絡げ的に歌姫(ディーヴァ)などと呼ばれて、マイクの前で「心が折れそうなのよ」と、悲鳴を上げていてもおかしくない。しかし彼女は、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、まるで当たり前のように自然なブルーズを唄う、ルイジアナ州マンスフィールド育ちの南部女である。
 かつて「ブルースは暗い」と言い切って、収めようとした「音楽評論家」がいた。彼は北米の黒人音楽を愛好しつつも、この領域にはあまり馴染みがなかった事は認める。ただし、その一言でこの音楽を決めつけられては迷惑だ。
 ブラインド・ウイリー・ジョンスンの“ダーク・ヲズ・ザ・ナイト”のように、聞いていると恐怖を感じるほど寂しい演奏もあるけれど、こういう情感は、カントリー音楽からでも味わえる。今なら安価な組物CDで簡単に手に入る、ブラインド・レモン・ジェファスン(Snapper SBLUECD 502X)、チャーリー・パトゥン(Not Now NOT2CD508)、サン・ハウス(Not Now NOT2CD415)、ビッグ・ビル・ブルーンジー(Not Now NOT2CD401)など、第二次大戦直後までのエレキ導入前のブルーズを聞いてみればいい。ちっとも暗くない。哀調は漂うが、殊更にそこだけを強調してはいない。ここを誤解すると、非常に不自然な音楽になってしまう。ブルーズは日本人の大好きな感傷だけを擦り上げる歌ではない。希望と共に唄われる、前向きな音楽なのである。寂しさと暗さは違うのだ。クリスタル・トーマスは、このブルーズをあくまでも自然に唄う。
  
 下北沢の百円均一店の上りエスカレイタで彼女を見かけた。前の晩に同じ町の小さなクラブで、実演を観たばかりだった。そのショウの印象が良かったせいもあって、思わず呼びかけた。振り向いた彼女は、異国の私鉄沿線の百均店で突然に声を掛けられて驚いたようだったが、にっこり笑ってくれた。その時の来日に関わった親友の奥方の誘導で土産物を仕入れに来たらしい。一緒に店内を案内した。正月を前にした時期だったせいか、小さな縁起物が並んでいて、それらに興味を持ったようだ。書かれている漢字を、「これは幸運」、「こっちは長寿」、「安泰」などと説明したら、えらく興味を持って真剣に聞いてくれたので、当方は少々恐縮した。2018年12月の出来事だ。
 そのクリスタルが、自分名義のフルアルバムを録音中だという話は聞いていた。春が過ぎて例年になく長い梅雨が続いていた頃、もう少し詳しい情報が入って来た。テキサスのダラスで録音され、セッションには、ラッキー・ピータスン、チャック・レイニーが参加しているという。興味が湧いた。
 届けられたアルバム音源は2種類。CD『ドント・ウォリー・アバウト・ザ・ブルース』、その中から抜粋された10曲で作られたLPは、『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』となっていた。

 クリスタル・トーマスは冒頭に挙げた類のコンテムポラリー・フィーメイル・シンガーたちとそれほど年齢の差がないのに、大きな違いがある。
 まず、声だ。中音域を中心に幅があって柔らかく、聞く者の感情を逆撫でする突起がない。暖かいのである。発声は極めて自由自在、無理をしていない。リズム感の良さ、タイミングの適確さは随所に感じられ、バックトラックに載っかるのではなく、彼女の唄でリズム・セクションに控える男性4人の強者たちを引っ張る。節回しも曲線的で奥深く、聞く者を大きな渦に巻き込んで行く。北米黒人女性の獲得形質は遺伝しているのだろうか。断片的に聞いた人間からは、二世代前の唄い方だ、と簡単に片付けられてしまうかもしれないが、直接比較すれば、歌い出しからして伸び伸びとして、しなやかなクリスタルである。コーラス合間の何気ないひと言などでは、本来の若さが顔を覗かせるので、ああ今の唄い手だ、と分かる。
 楽曲はどれも特定の意匠を持たず、楽器を手にした誰もが簡単に思いつくようなリフを基に作られている。全てが演奏者に委ねられたジャムの延長とも言えるだろう。ただし、こういうのをカッコ良く仕上げるのは、とても難しいのである。下手をすれば、全員がそれぞれの受け持ち部分を弄んだだけで終わってしまうところだが、クリスタルによってそれぞれがひとつの「歌」に昇華している。
 冒頭曲“キャンチュー・シー・ワッチュー・ドゥイング・トゥ・ミー”を聞けば分かる。このテムポ、造り……、作者でもある御大アルバート・キングなら、その圧倒的な存在感で押し切れるだろうが、形にするのも難しい傾向の楽曲だ。それを力まずに流れるように決めてしまうのがクリスタルだ。
 続く2曲めの“ベイビ、ドント・リーヴ・ミー”は、クリスタルの自作曲となっている。やはり肝は彼女の唄だ。イントロなしで入る瞬間はスリルの絶頂で、コーラス毎にやって来る10小節めアタマのブレイクも、すんなりとカッコ良く決めている。こういうのは身体に付いた基本的なセンスが相当に冴えてないと、惨めな結果になるだけだ。同じようなストップ・ブレイクは9曲目の“アイム・ア・フール・フォー・ユー、ベイビ”でも出て来る。ここでも難なくこなせるのは天性の適確なタイム感を持っているからだろう。 
 クリスタルは、日本人ジャムプ・ブルーズ・バンドのブラッディスト・サクスフォーンのアルバム『アイ・ジャスト・ヲント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユウ』(スペースエイジ SPACE-16 2018年)に、5番目の女性歌手として抜擢された。その前は、元々R&B歌手ジョニー・テイラーのバンドでトロムボーンを担当していたという。LPでは表題曲とも言える“ザ・ブルーズ・ファンク”で、唄わずにその実力の片鱗を披露する。若干の余裕と共に吹いているようだが、繰り返しのリフレインを聞くだけでも、重ねて来た歴戦の度合いは分かる。

 ギタリストとドラマーは白人だ。プロデューサーのエディ・スタウトが自信を持って推薦する、ジョニーとジェイスンのモーラー兄弟である。2015年に発表されたシャーウド・フレミングズの『ブルース、ブルース、ブルース』でもリズムを務めていたというが、わたしはその時、そして今回も何の過不足も感じなかった。ジェイスンのドラムズは着実で安定していて、彼の独特なタイム感がアルバム全体を支配している。音色も大変宜しい。ジョニーは、昨今数多蔓延るエフェクターと呼ばれる、余計な装飾無しでギターを聞かせてくれる。爪弾かれた弦が震えてスピーカを鳴らす物理現象が見える。
 ふたりの出しているのは、今どきの黒人演奏家では出せない音だ。それだけでなく若さ、謙虚さが感じられるのが、何とも嬉しい。立派な2019年型だ。

 メイヴィス・ステイプルの讃美歌集『マヘリア・ジャクスンに捧ぐ』(Dedicated to Mahalia Jackson Gitanes / Verve 535 562-2 1996年)で出会ったラッキー・ピータスンは、そこで、ピアノとオルガンをソツなく弾いていた。全曲オーヴァダビングなしのデューオという緊張度の高いセッションを程良い雰囲気でまとめていた。高度な演奏能力は当然として、「相当に賢い奴だな」というのが第一印象だった。わたしの前に登場した、久しぶりの有望な演奏者だったので、しばらく追いかけた。なかなかイカない男、という風にも見えた。
 それより遥か前の5歳で初録音、それも自身名義のソロ・アルバムというから、天才的な音楽能力を持っていたのだろう。ただし、彼は優れた脇役の道を選んだ。ソロ作品は順調に出しているけれど、ヒットを狙う野心は感じられない。その他では、いつも的確な援護射撃で主人公を助けている。
 驚いたのはA面最後の“レッツ・ゴウ・ゲット・ストーンド”だ。ジョー・コカーの実況録音盤(『マッド・ドッグズ・アンド・イングリッシュ・メン』 A&M 75021 6002 2 1970年)にこの歌が収められていて、そこで知って以来、40年以上に亘りわたしの重要楽曲表の上位に居座っている。ニック・アシュフォードとヴァレリ・シムプスンが書いた1965年の作品で、初出はアトランティック時代のザ・コースターズだそうだ。それを聞きたくて、他はダブりばかりの4枚組を買ったこともある。それはともかく、ここではラッキーは、まるでレイ・チャールズのように唄う。ラッキーは自作『ムーヴ』(Gitanes / Verve 314 537 897-2 1997年)でもこの歌を採り上げていたが、このクリスタルの新作では、本物以上にレイ・チャールズだ。声が全くのブラザー・レイである。何度聞いてもそのつど驚く。
 編曲感覚にも優れていて、1989年のソロ作品『ラッキー・ピータスン』(Gitanes / Verve 547 433-2 )に吹き込まれたウイリー・ネルスンの「ファニー、ハウ・タイムズ・スリプス・アウェイ」のアレンヂは、ブルー・ノート・レコードの社長にもなったドン・ヲズが、1994年の『リズム、カントリー・アンド・ブルーズ』(MCA MCAD-10965)で流用した程だ。ただ、今回ラッキーはこの『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、表立った編曲をしなかった、とわたしは見る。

 チャック・レイニーは電気ベイスの一時代を築き上げた男だ。器楽演奏が好きな人間なら、絶対に無視できない存在として70年代から80年代にかけて音楽界に君臨した。ネコも杓子もチャック・レイニーだった。
 わたしは世代的には恐怖のフュージョン・ブームを通り抜けてきた人間だが、あまりその領域を得意とはしないから、タレントのマギー・ミネンコが口にする程までに、彼が異常に持て囃された時も、その理由が分からなかった。
 わたしの印象としては、そもそも地味な人なのである。デーハなチョッパーをブチブチにキメる演奏家では決してなく、堅実な縁の下の力持ちだ。この『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』でも、目立つ事をあまりしていない。ただこの演奏が、本来のチャック・レイニーの姿だと断言しよう。その場で同時に演奏している人間たちに抜群の安定感を与え、作品への信頼につなげるという、いつもと同じ仕事に徹した姿だ。個人的にはこのベイスの音質に多少の不満があるけれどね。
 フュージョン・タイフーンが去って、黄金期のアリサ・フランクリン・セッションのような面子でブルーノート東京に来た時の終演後、文字通り手を合わせたら、チャック・レイニーの親指はわたしの人差し指より長かった。楽器が気持ちよく鳴るツボを心得ているのだろう、キイが違っても、ほとんど5フレットから10フレットの位置で弾くのも印象的だった。

 CDだけに収められている「ガット・マイ・モージョ・ワーキン」には脱帽だ。この取り替えようのない名曲は、ポール・バタフィールドやマイケル・ブルームフィールドらがマディ・ヲーターズやオーティス・スパンたちと一緒に作った『ファーザーズ・アンド・サンズ』(Chess / MCA CHD-92522 1969年)収録の実況録音アンコール仕様が、秀逸な吹き込みとして知られる。バンドスタイルの演奏で、ベイスはドナルド・ダック・ダン、ドラムズは、バディ・マイルズだ。ブルーズという音楽が、時空を超えて、地球上の全人種、全民族、全世代、に訴えかけた瞬間の記録とも言えるだろう。多くのブルーズ・バンドがお手本としているのも頷ける。
 それにひきかえ、こちらはラッキー・ピータスンのエレキ・ギター1本だけで、静かに始まる。「アタシが子供だった頃……」と浅川マキのように語りかけるクリスタルは、まるで泡瀬のユタだ。ふたりの関係は講釈師と曲師のようで、語りに対する直接的なギターの反応が素晴らしい。お互いに、出ている音をよく聞いている。
 クリスタルはまだ42歳、ラッキーだって55歳だから、こういうスタイルのブルーズに、「生」で同時代的には親しんでいないはずなのに、ふたりが紡ぐフレイズは、電気化以前の、あの「ブルーズ気分」そのものなのだ。このアンサムブルを提示したのがラッキーだと知って、わたしは大いに頷けた。ボーナスとして収められている別テイクには、控えめながらドラムズも参加していて、こちらの方が若干ミシシッピ風に聞こえたりする。
 ジャニス・ジョプリンがLP『コズミック・ブルーズ』で唄っていた「ワン・グッド・マン」では、冒頭の語りからも「ブルーズ気分」は滲み出て来る。ジャニス生涯のたったひとつの願いを主題にしたこの歌は、今回ごく当たり前に仕立て上げられているけれど、悲壮感が過度に濃厚でサイケデリック時代を引き摺った原仕様よりも、遥かに上手く行っているのではないか、正直そう感じた。自立したクリスタルは歌全体に力強い息吹きを与え、男性依存から離れられない性に泣く女の歌を新しく生まれ変えらせた。
 リヴィング・ブルーズ誌に載った紹介記事に、こんな行りがあった。

She loves this life.(中略)--even if life it tough. *

 そうなのだ。誰だってどんなに大変でもこの人生を愛して、生きていくのだ。LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』を聞いていると、クリスタルは当たり前のように、そうしているのが分かる。前回彼女が来日した時、この「ワン・グッド・マン」を唄っていると聞いて、ジャニスを以前から知っていたのか、とわたしは尋ねた。混乱した場所で話した事もあって詳細は忘れてしまったけれど、彼女はとても熱を入れて答えてくれた。そこにも彼女の前向に生きていく姿勢を、強く感じた。
 それとは別だが、今回のブルーズ・アルバムの中で“イトール・ビ・オーヴァ”は女性クワイアと一緒に仕上げたゴスペル作品である。人種的な制約を受け入れざるを得ず、そしてそれらを意識して抵抗した頃から時代は進み、このように楽曲の出自、領域にこだわる必要のなくなりつつある、今の現状肯定的な時の流れも見えてくる。

 ヒップホップという大津波を浴びた後、いま歌を唄い続けている女性たちは、絶対安全地帯から世の不公平や不平等を訴えながらも、美しく精緻なディジタルな映像の中で少々自意識過剰気味のように見える。男性は強がってはいるものの精気を削がれた遠吠えばかりで、よく見れば女性と同じ症候群に陥っている。そして現代ブルーズは、最新の例で挙げればフィンランドのイリア・ライチネンのような、「荒々しい音で激しくも弾ける」ヨーロッパのギタリストたちの慰みになってしまいそうな気もする。親しみ易くあらゆる表現を受け入れられるブルーズの単純な構造、無限の自由度は機能しているが、どれも薄っぺらなハード・ロックにあと二歩しかない。わたしはこれらの音楽を聞いて、満足出来ない。遣る瀬無くも、醒めて哀しい、無情な諦めと僅かな希望が混在する、肝心のブルーズ気分が、伝わって来ないのだ。
 このアルバムの各曲を、敢えて鮮やかな編曲で飾らなかったラッキー・ピータスンには、生々しい形の方がクリスタルを表現出来る、という思惑があったのではないだろうか。そして、ここまで述べてきたように、それは成功した。クリスタル・トーマスは「ブルーズ気分」を持ち、それを人に伝える事の出来る南部の女だった。

 このように、わたしにとって『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』は、何の抵抗もなく親しめる1枚である。ただしそれが「昔の響きを再現している」からでは、決してない。「昔の響き」が聞きたければ、昔のレコードを聞けば良いのだ。録音制作物の使命のひとつもそこにある。
 自分たちが生まれ育った環境から受け継いだ、逃れられない感覚を無理せずに使って、新しい何かを生み出さなくちゃ、という積極的な心の動き、これもブルーズ衝動の一つだろう。わたしは今回、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、若々しくて心地良い「ブルーズ衝動」に浸れた。感謝しよう。
 吹き込み中の出来事として、クリスタルは移動中のダラスで白人警官に職務質問を受け、何の理由もなく大切な商売道具のトロムボーンを壊されたそうだ。彼女はまだ、絶対安全地帯にいるのではなかった。
 当たり前の事としてブルーズを唄うクリスタル・トーマス、この後はフジ・ロック・フェスティヴァルへの出演も控えている。そこで極東の島国の若者たちがどう反応するか、こちらも大いに楽しみだ。

 音楽そのものに疑いをもつこと、ジョン・ケージがいまだ影響力があることの理由のひとつだろう。ひとはいつの間にか音楽を小学校で習った譜面の延長のなかでのみ考えがちだが、ケージは音楽がもっと広く自由であることをあの手この手を使って証明した。もっとも有名な“4分33秒”はそのひとつだが、この曲を、〈ミュート〉レーベルが設立40周年のメイン・プロジェクトとしてレーベルのいろんなアーティストにカヴァーしてもらうという、なんともじつに度胸ある企画をやっていることは先日お伝えした通り(https://www.ele-king.net/news/006694/)。
 今回、レーベル創始者のダニエル・ミラー伝説のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルによる“4分33秒”が公開された。

■The Normal「4分33秒」

https://smarturl.it/STUMM433J

 “4分33秒”のカヴァー全58曲収録の『STUMM433』は、10月4日に発売される。おそらくアルバムのトータルタイムは、“4分33秒”×58ということだろう(あるいは、“4分33秒”をたとえば2分で演奏するアーティストはいるのだろうか)。
 なお、『STUMM433』は、ボックス・セットとしてレーベルの通販サイトのみで販売され、LPはダニエル・ミラーのサイン入り限定盤として、CDは5枚組として販売。またデジタル配信(ダウンロード、ストリーミング)は日本の各サイトより購入可能。

■『STUMM433』 購入予約リンク
https://smarturl.it/STUMM433J
・タイトル:『STUMM433』
・発売日:2019年10月4日
・ボックス・セット(LP, CD):MUTEレーベル通販サイト Mute Bankのみで販売
・デジタル配信(ダウンロード、ストリーミング):日本の各配信サイト


photo : Diane Zillmer

 ダニエル・ミラー(レーベル創始者)はこのプロジェクトに関して次のように語っている。「ジョン・ケージの ‘4分33秒’ は自分の音楽人生の中で長い間、重要で刺激を受けた楽曲としてずっと存在していたんだ。MUTEのアーティスト達がこの曲を独自の解釈でそれぞれやったらどうなんだろう?というアイデアは、実はサイモン・フィッシャー・ターナーと話してるときに浮かんだんだよ。私は即座に、これをMUTEのレーベル40周年を記念する”MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ”でやったら完璧じゃないか、と思ったんだよ」

 ダニエル・ミラーは、自身のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルの7インチ・シングル『T.V.O.D.’ / ‘Warm Leatherette』を発売するためにMUTEレーベルを1978年に創設した。ザ・ノーマル名義の「4分33秒」は、その7インチ以来、実に41年ぶりの発売となる。彼は今回の楽曲の録音をノース・ロンドンのある場所で行った。 16 Decoy Avenueという住所は、MUTEのファンにとってはレーベル発祥の地としてお馴染みの場所である。


■サイモン・グラントのアート作品

 今回、各アーティストが自身の作品とともにビジュアルも作成しており、MUTE所縁のデザイナー28名がそれぞれ「4分33秒」から発想を得たアートワークを披露している。その中の一部を紹介すると、サイモン・グラント、彼は初期MUTE作品、ザ・ノーマルやファド・ガジェット、それにデペッシュ・モード等のアートワークを担当。スティーヴ・クレイドン、Add N To (X)のメンバーでもある彼はゴールドフラップのデザインを担当し、スリム・スミス、彼は1980年代から90年代を通してMUTEと仕事を共にした。マルコム・ギャレットはヴィンス・クラークとマーティン・ウェア(ザ・クラーク・アンド・ウェア・エクスペリメント)のハウス・オブ・イラストリアスのボックス・セットのデザインを担当し、トム・ヒングストン、彼はこれまでイレイジャーと仕事を共にし、2000年台初頭よりニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッドシーズやグラインドマンのアートワークを担当している。アントン・コービン、彼は特にMUTEとの距離も近く、1980年代初頭からデペッシュ・モード、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズ、それにファド・ガジェット等と数多くの仕事を行っている。

 ヴァイナルのボックス・セットにはキャンドルセットが付属し、そのデザインは著名なシックス・センツ・パルファンのジョセフ・クオルターナが「4分33秒」から発想を得て作成したものである。彼は古い木造の劇場の中で光る一瞬の閃光をイメージした。それはコンサートの余韻を比喩的に表したものであり、静寂の香りとは?という問いに答えたものである。

 この作品から発生する純利益は英国耳鳴協会とミュージック・マインド・マターへ寄付される。この団体が選ばれた理由として、インスパイラル・カーペッツの創設メンバーでもあるクレイグ・ギルが、自身の耳鳴りの影響による心身の不安から不慮の死を遂げたことが挙げられている。このボックスセットは2019年5月にリリース予定、詳細はここ数ヶ月後にアップデートされていく。

■公開済み映像

ライバッハ 「4分33秒」
ザグレブにあるHDLU’sバット・ギャラリー・スペースで行われたインスタレーション「Chess Game For For」開催中に撮影・録音され、クロアチアのパフォーマンス・アーティストのヴラスタ・デリマーとスロヴェニア製の特製空宙ターンテーブルをフィーチャーした作品だ。

■「STUMM433」参加アーティスト一覧
A Certain Ratio, A.C. Marias, ADULT., The Afghan Whigs, Alexander Balanescu, Barry Adamson, Ben Frost, Bruce Gilbert, Cabaret Voltaire, Carter Tutti Void, Chris Carter, Chris Liebing, Cold Specks, Daniel Blumberg, Depeche Mode, Duet Emmo, Echoboy, Einstürzende Neubauten, Erasure, Fad Gadget (tribute), Goldfrapp, He Said, Irmin Schmidt, Josh T. Pearson, K Á R Y Y N, Komputer, Laibach, Land Observations, Lee Ranaldo, Liars, Looper, Lost Under Heaven, Maps, Mark Stewart, Michael Gira, Mick Harvey, Miranda Sex Garden, Moby, Modey Lemon, Mountaineers, New Order, Nitzer Ebb, NON, Nonpareils, The Normal, onDeadWaves, Phew, Pink Grease, Pole, Polly Scattergood, Renegade Soundwave, Richard Hawley, ShadowParty, Silicon Teens, Simon Fisher Turner, The Warlocks, Wire, Yann Tiersen

■MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ
https://trafficjpn.com/news/mute40/

mute.com

第7回 ゆるい合意で、がんがん拡大 - ele-king

「愛はあ、地球をォ、救わねえんだよ!」
 何の脈絡もなかった。小学五年生の真夏である。外気温に比すれば信じられないほど快適な温度の部屋で、私は「関東地方で最も恐ろしい塾講師」とすら噂されていた先生に算数を習っていた。先生が冒頭のセリフを言った時、普段一切の許可なき発声を許されなかった私を含む子どもたちが、いっせいに声をあげて笑ったことをよく覚えている。我らの笑いについて、先生は何も咎めなかった。
 私はなぜ笑ったのだろう? 単純にその言葉の唐突さに勢いだけで笑ったのか、恐怖政治の最中に作られた「笑いを許す瞬間」を素直に察知したのか、あるいは「愛は地球を救う」をあっさりと否定する大胆さが小気味よかったのかもしれない。YouTubeの見方を知っているだけでクラスメイトから一目置かれるような時代である。24時間テレビはまだ活気があって、「みんなが見ている番組」だった。「愛は地球を救う」の否定は、「勉強しないで24時間テレビを見るあいつら」を「勉強をするので24時間テレビを見ないわれら」が嘲笑する響きを間違いなく持っていたのだ。
 24時間テレビがいかに陳腐でマジョリティの欺瞞を含んでいるのかは、これまでさんざん批判されてきた。それでもまだあの番組は存続している。まだ続いているということはまだどこかで求められていると捉えるべきなのだろう。公式サイト(参照:https://www.24hourtv.or.jp/total/ 最終アクセス2019年7月15日午後6時)によれば、2018年の寄付総額は8億9376万7362円だったそうだ。寄付金は年々減っているのかと思いきや、推移を見渡してみても如実に下がっている感じはしない。この寄付金で誰かが救われることもあるのだろうし、全否定するのもよくないとわかっているが、どうしても晩秋のゴキブリのようなしぶとさにはぞっとしてしまう。
 考えるほどわからないのだ。「愛は地球を救う」は全てが曖昧だ。愛とは何なのか? 半泣きで100キロ走りきることが愛なのか、障碍のある人にチャレンジをさせて「勇気をもらった」などと述べるのが愛なのか、同じTシャツを着た大量の人間が「サライ」を合唱することが愛なのか。毎年毎年同じことが繰り返されてきたが、いまだに地球は救われていない……というより、どういう状態になれば「地球が救われました!」と言えるのかがわからない。何一つ具体性がない。何を指すのか一切わからない目標は便利だ。「達成しました」も「達成できませんでした」も全部思うがままにできる。もっと言えば、裏に何がうずまいていようが、表向きの目標が「愛は地球を救う」であるなら、多くの人はそれを否定しないだろう。「愛は地球を救う」という字面には、「漠然としたfeeling good」が漂っている。「ねこはかわいい」とか、「お菓子はうまい」とかと同じレベルの解像度であるがゆえに、「愛は地球を救う」なる言葉は広く受け入れられる。

 最近話題になったキム・カーダシアンの「kimono」騒動――キムが自らプロデュースしたブランドの下着に「kimono」と名付け、文化の盗用であると批判され、最終的に名称変更が発表された事件――に際して、私はすさまじい違和感を覚えていた。違和感の対象はキムの決定ではなく、批判者たちのやり方だ(これはキムのやったことには問題がないという意味ではない)。
 例えば京都市が発表した抗議文には、以下のように書かれている。

 「きもの」は、日本の豊かな自然と歴史的風土の中で、先人たちのたゆまぬ努力と研鑽によって育まれてきた日本の伝統的な民族衣装であり、暮らしの中で大切に受け継がれ、発展してきた文化です。また、職人の匠の技の結晶であり、日本人の美意識や精神性、価値観の象徴でもあります。
(出典:https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/page/0000254139.html 最終アクセス2019年7月15日午後6時)

 この文章、本当に何も言っていないに等しい。「きもの」を「(任意の民族衣装)」に、「日本」を「(任意の国・地域)」に変更すれば、あらゆる地域に対して通用する内容だ。着物を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とまで言うのならもっと具体的な歴史について語ってもよさそうなものだが、そういう話は何も出てこない。
 そもそもここで「伝統的な民族衣装」と目されている「きもの」とは、何を指しているのだろうか。BBCの記事には、以下のような「one Japanese women」のコメントが紹介されている。

“We wear kimonos to celebrate health, growth of children, engagements, marriages, graduations, at funerals,”
“It's celebratory wear and passed on in families through the generations.”
「私たちは健康、子どもの成長、婚約、結婚、卒業を祝うため、また葬式の場において着物を着用します」
「それはお祝いの服であり、世代を超えて家族に伝えられました」
(出典:https://www.bbc.com/news/48798575 最終アクセス2019年7月15日午後6時、訳は筆者)

 「祝いの服」としての「着物」……この時点でもう怪しい。「民族衣装」と正装がイコールで結ばれる状況は、ものすごく近代的だ。少なくとも芝草山で刈敷にするための芝を刈る江戸時代の百姓が着ていた「着物」や、中世の被差別民が着ていた柿色の「着物」は、ここでは完全に切り捨てられている。
 前近代において、衣服は身分表象であった。多様な形と機能があることはもちろん、着る人間の置かれた立場を示す意味が付随していた。すなわち「着物」を列島の衣服の中で通時代的に位置付けるとき、ある特定の形の衣服に「着物」を代表させることは、大部分の人間を列島の歴史から捨象する行為と同義なのである。数え切れないかつての生者たちの汗や涙を吸っていた衣服の大部分は、名もない人が必要に迫られて仕立てた普段着であって、職人が気合いを入れて作った高級な晴れ着に「着物」全てを代表させるのは、あまりに偏っている。
 兒島峰「「日本」の身体化」(方法論懇話会編『日本史の脱領域』森話社、2003年)によると、現代における「着物」のイメージは、「身分による着衣規制が解かれた明治期になって確立したもの」(前掲書、235ページ)なのだという。明治初期から半ばにかけて帯の重要性が高まり、昨今イメージされるような大きく立派な帯を締める形に変化していくのだ。兒島氏はこの「着物」イメージの成立時期を、洋服の受容とほとんど同時であると指摘している。「着物」のアイコン化は、明らかにナショナリズムの波の中で起きた現象であった……というより、今われわれが当たり前のように用いている「着物」というカテゴリ自体、この時期に「外部」の目を気にしながら設定し直されたものだと言えるのかもしれない。
「着物」を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とすることのグロテスクさは、改めて批判するときりがない。繰り返しになるが、今「着物」として想像されるスタイルは日本列島の衣服の歴史を代表させられるものではない。かつての首都である京都市が自らを「きもの」文化の発信者であり擁護者であると自負している状況自体、セントリズムであると言ってよい。また現在日本国籍を所持している人の中には、当然「着物」に連なる文化圏以外にルーツを持つ人が数え切れないほどいる。「着物」という曖昧な言葉で示されたカテゴリ内部の変化、揺らぎ、多様性を無視しながら「文化」の守護者であるかのように振る舞うのは、実に奇妙だ。
 兒島氏の「着物文化」批判をさらに引用しておこう。

 着物を文化とみなすことは、自己肯定感を満足させる。本来、流動的で、固定した枠組みを持たない着物は、やはり曖昧な概念である「民族」とか「人種」と結びついて、個人の感情に働きかける。(前掲書、237ページ)

「着物は昔からあるよね」「伝統は守ったほうがいいよね」……抽象的であるからこそ、そして「日本人」を漠然と肯定するからこそ、これらの問いは人の首を縦に振らせる力を持つ。あやふやな概念であるからこそ、ゆるやかかつ広範に合意を回収するのだ。

 今一番警戒すべきなのは、この「ゆるい合意でがんがん拡大するあやふやな概念」なのではないかと感じている。先に挙げた「愛」や「文化」の他はその筆頭であろう。これらの響きは、よい。「漠然としたfeeling good」がある。さらになんとなく重厚な雰囲気と、いかようにも解釈できる曖昧さを持っている。どんな人間でも何がしかの形で自分の気持ちや営みを委ねることができてしまうのである。
 何が問題なのだと思われるかもしれないが、社会が一人一人が違う気持ちでいること以上に、たくさんの人間が抽象的で大きな気持ちをひとつ共有していることを優先するのだとしたら、大量の人間を思うがままに支配したい人間にとって、こんなに都合のいいものはないだろう。その共有されたひとつの気分を口にしてやれば、それだけで大量の人間の感情が喜んで動くのだから。
 洋画が日本で公開されるとき、他にもっと力を入れた部分があるにもかかわらず「愛と感動の物語」文脈に寄せて宣伝を打たれる様子をよく見かけるが、あれもまた「漠然としたfeeling good」によってより広い人びとにリーチすることを狙ったものだろう。「これは愛なんですよ」「こういう文化なんですよ」でなんだってすてきに説明できてしまうなら、一人の人間が自分の抱いた感情がどのようなものであったか、自分の実践がどのような背景でいかに遂行されたかを、細かく言葉にする必要はなくなってしまう。これが恐ろしい。自分の考えや行動を自分の手から離して大きなものに委ねるやり方を繰り返していれば、個人など消えてしまう。そうなれば行き着く先は(もうすでに到達しているのかもしれないが)、他者のいない世界だ。批判も自浄能力もない、ただ全てがなんとなく同じ形であると信じられているぼやけた人混みと、その人混みの一部になるよう強制する静かな圧力だけが残る。

 やっぱり気持ち悪いのだ。私は特に「愛」の語りに鳥肌を立てている。「漠然としたfeeling good」の全てを否定するわけではないが、世間でここまで「愛」が尊いものとして重んじられているのを見ると、なんとグロテスクな仕組みなのだろうと思わずにいられない。批判しないとまずい気がする。くどいようだが、みんな「愛」に具体的なものを委ねすぎなのだ。解像度を下げて大きい括りに回収させる、この繰り返しで「愛」はすっかり幅を利かせているではないか。「愛」の専制は「愛」をそもそも理解できない、必要としていない人たちをシャットアウトするセントリズムであるし、「愛」概念をよくないものの隠れ蓑として機能させてしまう危うさでもある(「これは愛だ」と銘打って振るわれた暴力の事例は枚挙に暇がない)。

 話題にするにはだいぶ遅い話だが、しばらく前に友人が米津玄師の“Lemon”について「あれは抽象的だから売れたのだ」と言っていた。なるほど、あの曲はドラマ『アンナチュラル』の主題歌だったが、死や離別を扱う話であれば大抵マッチするため、どのエピソードで流れても大概泣けるようにできている。多くのおたくがこの曲に心を委ねていたのは印象的な光景であった。好きなキャラクターが死を迎えたり誰かと死に別れたりするシーンになんらかの形で思いを馳せながら、“Lemon”を聴いていたのである。“Lemon”はあらゆる物語が代入可能な感情装置であった。おそらく全て戦略的に設計されているのだろう。“Lemon”に限らず、「市場」全体が抽象的な方向に流れているような気がする。

 今や複雑な合意形成を広範に取り結ぶこと自体、ほとんど不可能になりつつあるのかもしれない。自分が何に対して何を感じているのかを緻密に言語化する作業、自分の宇宙を個別具体的な存在として捉え直す営みを、当たり前のこととして怠けずにやっていく必要がある。このとりとめもなく我ながら説教くさい文章も、「個人」を消さないための実践の一部だ。その時々で一番不安に思っていることを書き起こすと、胸のつかえが少し降りる。今夜は昨夜より少しだけいい。

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

 嬉しいお知らせです。9月4日、オウガ・ユー・アスホールが3年ぶりのニュー・アルバムをドロップします。心機一転、新たにスタートしたレーベル〈花瓶〉からのリリース。タイトルは『新しい人』ということで、どうしてもフィッシュマンズを思い出してしまいますが、いったいどんな想いが込められているのでしょう。
 なお全国ツアーの開催も決定しており、9月末から11月頭にかけて全国6都市をまわります。ちなみに新たなアーティスト写真は、撮影を塩田正幸が、アート・ディレクションを紙版ele-kingでおなじみの鈴木聖が担当しているとのことで、ヴィジュアル面にも注目です。ひとまずは8月7日に先行配信される新曲“さわれないのに”を待ちましょう。

[8月7日追記]
 ついに来ました。新曲“さわれないのに”が本日リリース、MVも公開されています。配信はこちらから。

[9月13日追記]
 先日発売されたばかりのニュー・アルバム『新しい人』、そこに収録された“朝”のライヴ映像が公開されました。バンドは9月29日から11月4日にかけてリリース・ツアーをおこないます。詳細は下記より。

半分現実 半分虚構
OGRE YOU ASSHOLE の新しい感覚の音楽。
三年ぶりとなる NEW ALBUM にして最高傑作『新しい人』発売決定。

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE の三年ぶりとなる NEW ALBUM 『新しい人』が9月4日にリリース決定。
それに伴い全国6カ所をまわるリリースツアーの開催も決定。
ツアーファイナルはEXシアター六本木にて開催。
また8月7日にはアルバム発売に先立って収録曲“さわれないのに”の先行配信とMVが公開。

本作には、シンセポップ、ファンカラティーナ~ミュータント・ディスコのエッセンスを含んだ多幸感と虚無感が共生するダンスサウンドやメロウでメディテーショナルなスローナンバー等が収録。
心地よいサウンドスケープに無意識に引き込まれ、たどり着く先にある世界は……
サウンド・歌詞共にバンドの可能性を更に広げる最高傑作が完成。
レコーディング、ミックス、マスタリングは前作同様、バンドを熟知するエンジニア中村宗一郎が担当。

同時に初公開となる新しいアーティスト写真は撮影を塩田正幸、アートディレクションを鈴木聖が担当。

OGRE YOU ASSHOLE
新しい人
2019年9月4日 (水) 発売
金額:¥2,700 (税別)
Label:花瓶
品番:DDCB-19005
収録曲:後日発表

収録曲『さわれないのに』8月7日 (水) 先行配信

OGRE YOU ASSHOLE『新しい人』release tour

9月29日 (日) 松本ALECX
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 松本ALECX:0263-38-0050
10月6日 (日) 梅田TRAD
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 GREENS:06-6882-1224
10月12日 (土) INSA福岡
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 BEA:092-712-4221
10月22日 (火・祝) 名古屋 CLUB QUATTRO
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 JAILHOUSE:052-936-6041
10月26日 (土) 札幌 Bessie Hall
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 WESS:011-614-9999
11月4日 (月・祝) EX THEATER 六本木
 前売 ¥4,200 / 当日 ¥4,700 (ドリンク代別)
 HOT STUFF PROMOTION:03-5720-9999

◆オフィシャルHP先行 (e+ / 1人4枚まで)
https://www.ogreyouasshole.com/
7/19 (金) 22:00 ~ 7/29 (月) 23:59

◆PG(各イベンター)先行
後日詳細発表

◆一般発売
松本、大阪、福岡公演:8/10 (土)10時~
名古屋、札幌、東京公演:8/24 (土)10時~

OGRE YOU ASSHOLE Profile
出戸学 (Vo,Gt) / 馬渕啓 (Gt) / 清水隆史 (Ba) / 勝浦隆嗣 (Dr)

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE。
00年代USインディーとシンクロしたギターサウンドを経て石原洋プロデュースのもとサイケデリックロック、クラウトロック等の要素を取り入れた『homely』『100年後』『ペーパークラフト』のコンセプチュアルな三部作で評価を決定づける。
初のセルフプロデュースに取り組んだ前作『ハンドルを放す前に』ではバンド独自の表現を広げる事に成功し高い評価を得る。
2010年 全米・カナダ18ヶ所をまわるアメリカツアーに招聘される。
2014年 フジロックフェスティバル ホワイトステージ出演。
2018年 日比谷野外音楽堂でワンマンライブを開催。
https://www.ogreyouasshole.com/

The Cinematic Orchestra & Floating Points - ele-king

 今年で20周年を迎えるサマソニですが、本日追加アクトが発表となり、ザ・シネマティック・オーケストラフローティング・ポインツの出演がアナウンスされました。意欲的な新作をリリースしている両者をこのタイミングで観られるのは僥倖と言うほかありません。前者はライヴを、後者はDJを披露。土曜深夜枠の「NF in MIDNIGHT SONIC」への出演で、他にはアクフェン、バス、D.A.N.、クニユキ・タカハシ、ウォッシュト・アウト、テイラー・マクファーリンらが名を連ねています。詳しくは下記をご覧ください。

サカナクションとサマーソニックのスペシャルコラボレーション「NF in MIDNIGHT SONIC」に、ザ・シネマティック・オーケストラとフローティング・ポインツの出演が決定!

今年20周年を迎える SUMMER SONIC 2019 (8月16日 - 18日) の追加アクトが本日解禁となり、最新作『To Believe』を提げ、ソールドアウトとなった単独公演も記憶に新しいザ・シネマティック・オーケストラと、先日〈Ninja Tune〉との契約を発表し、シングル「LesAlpx / Coorabell」(デジタル/12インチ)がリリースとなったフローティング・ポインツの出演が発表された。

8月17日(土)の深夜に開催されるサカナクションとのスペシャルコラボレーション「NF in MIDNIGHT SONIC」に出演し、ザ・シネマティック・オーケストラはライブ、フローティング・ポインツはDJを披露!

NF in MIDNIGHT SONIC
2019年8月17日(土)幕張メッセ
OPEN/START 23:00 / CLOSE 5:00
※ OPEN / CLOSE時間は変更になる場合がございます。
※ 「サマーソニック東京3DAYチケット」、「サマーソニック東京8/17(土)1DAYチケット・プラチナチケット」、「NFチケット」で入場が可能です。
https://www.summersonic.com/2019/lineup/tokyo_day2.html#md

また、フローティング・ポインツは、シングル「LesAlpx / Coorabell」を先日デジタルと12インチでリリース! シングルには10分を超える“LesAlpx [Extended]”が収録されており、DJ必携の一枚となっている。

ザ・シネマティック・オーケストラ | The Cinematic Orchestra
ジェイソン・スウィンスコーを中心にロンドンで結成。1999年にデビュー・アルバム『Motion』 を発表し、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスへのオマージュに満ちたジャジーな本作で注目を集めた彼らは、2002年のセカンド・アルバム『Every Day』で本格的にオーケストラ・サウンドを導入。伝説的ソウルシンガー、フォンテラ・バスも参加した本作品で、ジャズ、クラシック、ヒップホップ、エレクトロニカなど様々な音楽性を融合させて音楽性を広げていく。そして、2007年の『Ma Fleur』では、様々なヴォーカリストをゲストに招いて、まるで一本の映画のようにドラマティックな世界を作り出し、収録曲の“To Build A Home”は世界各国で映画やTVCMに起用されただけでなく、最近ではフィギュアスケートの新たな定番曲としても知られている。2019年、12年の時を経て遂に新作『To Believe』が完成し、4月には初となるホールでの来日コンサートツアーを成功させた。

フローティング・ポインツ | Floating Points
マンチェスターに生まれ、現在は作曲家/プロデューサー/DJとしてロンドンを拠点に活動するフローティング・ポインツ。2000年代後半にシーンに登場するや、ハイセンスなダンス・ミュージックのプロデューサーとして早くから頭角を現し、2010年には〈Ninja Tune〉から、16人から成るオーケストラ・プロジェクト、ザ・フローティング・ポインツ・アンサンブル名義でリリースした10インチ作品『Post Suite / Almost In Profile』をリリース。それがジャイルス・ピーターソン主宰の〈Worldwide Awards〉を受賞すると、クラシック音楽からジャズ、電子音楽、ソウル、MPBまでを自由自在に横断するその才能が高く評価を受けた。その後はDJで世界中を回りながら、今やジェイミーXX (The xx)、カリブーそしてフォー・テットなどと肩を並べるほどのステータスを築き上げる。〈Eglo Records〉を共同運営するレーベルオーナーとしての顔も持ち、さらには神経科学の博士号を取得したサイエンティストでもあるという、まさに異才である。

label: NINJA TUNE / BEAT RECORDS
artist: THE CINEMATIC ORCHESTRA
title: To Believe
release date: NOW ON SALE

国内盤CD BRC-591 ¥2,400+税
国内盤特典:ボーナストラック追加収録/解説書封入

label: NINJA TUNE
artist: FLOATING POINTS
title: LesAlpx / Coorabell
release date: NOW ON SALE

Andrew Weatherall - ele-king

 言わずもがな、80年代からDJとして活躍し、数々のリミックスやプロダクションで名を馳せ、セイバーズ・オブ・パラダイスやトゥ・ローン・スウォーズメン、ジ・アスフォデルスなど多くのプロジェクトで素晴らしい音楽を生み出し続けてきたヴェテラン、ポスト・パンクとハウスとの間に橋を架けたUKテクノ番長、アンドリュー・ウェザオールが久方ぶりの来日を果たす。表参道のヴェニュー VENT の3周年を祝うパーティ《VENT 3rd Anniversary》の一環として開催される《Day2》への出演で(サークル・オブ・ライヴを迎える《Day1》についてはこちらから)、なんとオープンからクローズまでひとりでロングセットを披露するのだという。と、とんでもない。いま彼がどんな音楽に注目しているのか確かめる絶好の機会でもあるので、8月24日は予定を空けておきましょう。

伝説! Andrew Weatherall が表参道VENTの3周年パーティーDay2で、オープン・トゥ・ラストのロングセットを披露!

国内屈指のサウンドシステムと、こだわり抜いたブッキングで日本のナイトシーンに一石を投じてきた表参道VENT。8月17日と24日に3周年パーティーを開催! 8月24日のDay2には現代のミュージックシーンに計り知れない影響を及ぼしてきたリビングレジェンド、Andrew Weatherall (アンドリュー・ウェザオール)がオープン・トゥ・ラストのロングセットで登場!

Andrew Weatherall ほど多岐にわたる音楽ジャンルに影響を及ぼしてきたアーティストもなかなかいないだろう。10代の頃からポップカルチャー全体に傾倒し、音楽と洋服と本と映画に夢中になっていたという。音楽制作を始めてからは、ずば抜けた才能を発揮し、New Order、My Bloody Valentine、Primal Scream、Paul Weller、Noel Gallagher、Happy Monday などの制作に関わったり、リミックスを提供。デビュー前の The Chemical Brothers や Underworld などの素晴らしい才能をいち早く発掘したのも Andrew Weatherall 達だった。

アナログレコードをこよなく愛し、今でも幅広い音楽ジャンルのDJプレイを披露している。ロカビリーからテクノまでをプレイする、Andrew Weatherall にとっては音楽ジャンルの壁などは無いに等しい。数々の革命を音楽業界に巻き起こしてきた、真のイノベーターと共に迎えるVENTの3周年パーティーに乞うご期待!

更に超豪華特典! VENTの3周年を祝して Andrew Weatherall が、最新の Mix を2本提供してくれました!

・Mix #1はこちらでお楽しみ下さい!
Andrew Weatherall VENT 3rd Anniversary Mix #1
https://soundcloud.com/vent-tokyo/andrew-weatherall-vent-3rd-anniversary-mix-1

・Mix #2はVENTのメールマガジンに登録してくれたお客様にダウンロードリンクをお送り致します。
https://vent-tokyo.net/
こちらのトップページ中段にあるフォームにてご登録下さい。
※ 不定期にVENTの最新情報をお送り致します。

黒船MMTと参議院選挙の行方 - ele-king

 選挙の夏、反緊縮の夏がやって来た。参院選を闘う反緊縮候補者の動向を追ってみる。

 前回のコラムでは黒船MMTが日本に来航し、国会や各メディアでも多数扱われたことをお伝えした。とくに自民党・西田昌司氏は予算委員会や財政金融委員会を通し、MMTの信用創造システムの理解が正しいか、再三に渡って政府と日銀に対し質問している。

 5月23日の財政金融委員会にて、西田議員が雨宮日銀副総裁から重要な証言を引き出した。銀行は数字を書き込むだけで通貨を創造できるとする「万年筆マネー」、また、新規国債発行を介した政府支出により民間銀行に預金が創造されることを認めたかっこうだ。この点だけを見れば、一般的に言われるように国債は「クニノシャッキン」でもなければ政府の債務ですらないともいえる。このことはいままで主流経済学の教科書やマスコミにより語られていた信用創造の説明が間違っていたことを証明する瞬間ともなり、ツイッターを中心とするネットの経済クラスタたちの間でもちょっとした騒ぎになった。

決済性預金口座というものを提供している銀行だけが、その与信行動により、自ら貸し出しと預金を同時に作り出すことができるのであります。
 (中略)
銀行は私にカネを貸すとき(=民間に融資する)ときは、銀行口座に記帳すると、後から預金が発生するという格好になります。信用創造を通じて預金がが増加するという格好になります。これを信用創造と言っているわけであります。
 (中略)
金融機関が国債を保有し財政支出が行われればそれに対する預金通貨は事後的に同額発生しているわけであります。
 雨宮正佳・日銀副総裁 財政金融委員会(2019.5.23)
https://www.youtube.com/watch?v=W61Srkam7xE&feature=youtu.be


写真 提供: @nonsuke38 氏

 自民党・西田昌司氏は極右とも称される議員であり、自民党が政権に返り咲く以前より安倍首相に近い関係にある議員として知られているが、相対する野党はどうだろうか。MMTは民主社会主義を標榜する米国の左派・サンダース大統領候補にも、そしてガチ左翼の英国労働党党首・コービンにも多大な影響を与える。日本でも、大きな政府主義であるはずの左派、野党にこそ大きく扱われているはずだ。

 しかし、実際のところ野党はMMTに及び腰だ。日本の野党、特に旧民主党系はネオリベの亜種である「第三の道」をひた走ってきた過去がある。グローバリズムや緊縮財政、構造改革を礼賛するようなスタンスでいたため、国の財政が税収の範囲内で運営されるものだと誤認する、いわゆる「家計簿脳」に陥っている。いまでも多くの野党議員が、「政府債務(国債)が民間の預金からファイナンスされている」とする、反緊縮派が「天動説」と揶揄するものを信じて疑わないのだ。

 国家財政は、家計簿や企業会計とはまったく異なる。政府には理論上、無限に通貨を創造できる権限があるが、家計や企業には通貨発行権はなく、その会計原則が異なるものであることは誰にでもわかるはずだ。歳入額を上回り発行される赤字国債は1965年より続けられている歴然たる事実なのに、国会議員の多くが「プライマリーバランスの黒字化」や「身を切る改革」といった政策をもって、国民経済を収縮させようとしている。

 しかし、7月21日に投票日を迎える今回の参院選を前に、かつて「緊縮脳」だとか「家計簿脳」だとかとネットユーザーたちから揶揄されていた野党議員の洗脳が解けはじめたかのような動きが見えてきた。

 薔薇マーク・キャンペーンは、「反緊縮財政」を掲げる野党候補者に「薔薇マーク」を認定、有権者が投票する際の参考にしてもらおうという政治運動だが、同キャンペーンがこれまでに「反緊縮」だと認定した候補が49名もいる。これは全候補の4割にもなる計算だ。薔薇マークの認定基準には「消費税の10%増税凍結」、「社会保障への財政出動」、「大企業や富裕層への累進課税の強化」、「大企業への増税が実現するまでの間、国債を発行してなるべく低コストで資金調達することと矛盾する政策方針を掲げない」、「公共インフラの充実」の5項目があげられている。その5項目中の3項目をクリアすれば認定対象となるとされていて、かなり野党候補者にフレンドリーな内容となっていることにも注意が必要だが、野党議員の間に確かな「反緊縮」の萌芽が現れつつある証左にもなるだろう。


写真 :薔薇マーク・キャンペーンの認定した49人の野党候補者

 筆者個人が、今回の参院選を通じて特筆すべき反緊縮の候補者と議員をあげるなら、国民民主党・玉木雄一郎代表、社民党・相原りんこ候補(神奈川)、立憲民主党・石垣のりこ候補(宮城)、そしてれいわ新選組・山本太郎代表(比例)だ。

 玉木雄一郎衆議院議員が代表を勤める国民民主党の公約では、児童手当を月額1万5千円給付、低所得の年金生活者に月額5千円給付、年収500万円以下の世帯に家賃1万円給付、法人税率の累進化、農業従事者への「戸別所得補償制度」の復活、科学技術への投資などを掲げ、財源としては国債の発行もあげている。同党の掲げる「こども国債」は非常に野心的な試みだ。また、玉木代表個人としては、国債発行を介して得た財源の財政支出先を建設事業に限定することに繋がる「財政法4条」の改定も視野に入れているなど、反緊縮派からの期待も大きい。

 社民党・相原りんこ候補(神奈川)は「反グローバリズム・反新自由主義・反緊縮」をキャッチコピーとし、国債発行を介した財政出動を掲げるなど筋金入りの経世済民派の人材だ。薔薇マークのアンケートには「消費税は5%に引き下げて将来は廃止をめざすべき」と回答しており、他にも政府による最低賃金1500円の保証、累進課税の強化、また最低年金保証制度の確立などを謳っている。おせっかいな筆者が6月に、日本で唯一のMMT教本として知られる中野剛志氏の『奇跡の経済教室』をツイッター上で薦めた際には、即座に購入し自身の政策に取り入れようと努力していただいたほど、国民の声を聞く能力にも長けている。

 立憲民主党・石垣のりこ候補(宮城)は、同党では唯一「消費税ゼロ」を掲げ選挙戦を戦う。7月13日付けの朝日新聞に「“消費税廃止" 反緊縮の芽か」と題された記事が掲載され、れいわ新選組・山本太郎代表と共に特集されるなど、リベラル界隈からおおいに注目される候補の一人でもある。この立憲の公約と乖離するようにも見える主張を貫く姿勢は、しばしば同党の支持者からも攻撃されるほどのハレーションをひき起こしているが、決してブレない姿勢が反緊縮派から支持される理由のひとつだろう。薔薇マークのアンケートには「大胆な財政出動をすべきであり、また、雇用調整として政府直接雇用を大幅に増大するべきと考えている」と答え、MMTのJGP(総雇用保証)的な考えにも触れている将来が楽しみな人材と言える。

 また、石垣候補の同僚となる立憲の落合貴之衆議院議員は、6月18日のBS11の報道番組にて「世界各国で(政府の)借金を増やしていくことにマイナスのイメージを持たなくなってきている。MMT的な考えで財政を積極的にやるべきだ」と発言し、MMTに理解を示しているが、立憲内部にも反緊縮の芽が育ちはじめていることが見て取れる。

 反緊縮財政、そしてMMTをもっとも理解するのがれいわ新選組の山本太郎代表だろう。山本氏は2016年頃より立命館大学の松尾匡教授を経済アドバイザーとして迎え、その反緊縮の経済政策に磨きをかけてきた。参院選前より続けてきた街頭演説では、モニター画面に各種経済指標を映し出しながら自身の経済政策を街場の人びとに訴えかけている。その動画の数々はYoutubeで軒並み数万回単位で再生されており、反緊縮派からの信頼も厚く、ネットユーザーにはMMTの体現者として認知されている。

 しかしながら、筆者が知る限り、山本氏は「MMTを参考にしている」等と発言したことはない。山本氏の発言や経済政策が、MMTの理論と合致する点が多くあるだけなのだ。

 松尾匡教授は、メディア等で「MMTは標準的なマクロ経済学だ」と繰り返し発している。

次のような主張は、よくマスコミなどでMMTの主張とされているが、これらの3派(ニューケインジアン左派・MMT・ポジティブ・マネー派)にも共通する、経済学の標準的な見方である。

・通貨発行権のある政府にデフォルトリスクはまったくない。通貨が作れる以上、政府支出に予算制約はない。インフレが悪化しすぎないようにすることだけが制約である。
・租税は民間に納税のための通貨へのニーズを作って通貨価値を維持するためにある。言い換えれば、総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるのが課税することの機能である。だから財政収支の帳尻をつけることに意味はない。
・不完全雇用の間は通貨発行で政府支出をするばかりでもインフレは悪化しない。
・財政赤字は民間の資産増(民間の貯蓄超過)であり、民間への資金供給となっている。逆に、財政黒字は民間の借り入れ超過を意味し、失業存在下ではその借り入れ超過は民間人の所得が減ることによる貯蓄減でもたらされる。

東洋経済: 「MMT」や「反緊縮論」が世界を動かしている背景

 MMTは、20世紀初頭に「貨幣国定学説」を説いたクナップからケインズ、ラーナー、ミンスキー、ゴドリーらの学説を体系的にまとめたものであり、その基礎は主にケインズ派の間で繰り返し語られてきた「標準的なマクロ経済学」なのだ。

 山本氏の経済政策や発言は、上記分類と殆ど一致する。付記するならば、山本氏は「統合政府論」(政府と中央銀行を一体のものとして一つのバランスシート勘定で捕らえる視点)にも言及し、さらに「公務員を増員し景気を安定させるべき」との発言から、JGP的な考えも踏襲していると見受けられ、MMTの議論をより広く網羅しているともいえる。逆に、上記にある「租税貨幣論」「国定信用貨幣論」のような考えに関する言及はないため、その部分はMMTからは外れるともいえるし、MMTの主要議論となる「内生的貨幣供給論」に関する言及もない。

 山本氏が今回の参院選で強く主張するのは「消費税の廃止」となるが、これは租税が「総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるためにある」とするビルトイン・スタビライザーの理論を深く理解していることに他ならない。子どもから病人にまで課税する消費税は悪税そのものであるし、不況期に増税するなどマクロ経済的にはもってのほかなのだ。

 サンダースやAOC(オカシオ-コルテス)は政治的な理念として経済を語ることはあっても、山本氏が街頭で語るように詳細に踏み込んで経済理論に言及することはない。その点がネットの経済クラスタから賞賛され、そして現在の「れいわ新選組ムーヴメント」を形成する一因となっているのだろう。反緊縮の経済理論を深く理解する山本氏ならではの語り口によって紡ぎ出される政策の数々は多くの人びとを魅了しているようだ。

 反緊縮理論を牽引する松尾教授と藤井聡・京大大学院教授が、去る7月16日と17日に、MMTのファウンダーで、サンダース大統領候補の経済顧問、また民主党の元主席エコノミストとしても知られるステファニー・ケルトン教授を日本に招聘し、シンポジウムを開催した。その様子がテレビ朝日の報道ステーションでも特集されることになった - これは日本のテレビがはじめてMMTをまともに扱った瞬間となる - が、いま、世間の目が反緊縮、そしてMMTに注がれていると感じる。

 現在の資本主義は、略奪型資本主義の構造を強化してきたといえる。世界各国の政府はサプライサイド経済学の論理に則り、グローバル企業や大企業のために規制を緩和し、下請け企業や労働者から搾取しやすい構造を作ってきた。強者による収奪のシステムだ。この世界的な弱肉強食の構造に反旗を翻したのが、サンダースやコービン、イグレシアスやサルヴィーニ、ルペンやメランションらAnti-Austerity(反緊縮)の政治家となるが、そのパラダイムシフトはこの国でも起こりつつある。
 搾取される全ての者が、「変革不可能」だと諦めていたこの国の構造が破壊されようとしている。
 今月21日に、その意志が試される分水嶺が来る。

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